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2.スピリチュアリズムからの検証

目 次

ア)サイキック能力とスピリチュアル能力

・三田光一と霊術家との共通点

・信仰者への飛躍

・死の直前の霊魂を見る

・幽霊からの「遺言」

イ)時期の到来の問題

・実験会と時期の到来

・裁判所の所長、心霊家へ

ウ)三田光一の役割

・三田の云う「霊」とは何か

・三田光一の位置づけ

 

<注12>~<注20

 

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ア)サイキック能力とスピリチュアル能力

☆三田光一と霊術家との共通点

大正15年の「金塊引揚詐欺事件」以前の三田光一は、自身の念写や透視能力は自らの創意工夫によって獲得したものであり、「天からの贈り物」であると思っていた。当時の三田は、神や霊の存在を否定して無神論者に近い考えを持っており、この点で「霊とは精神」のことであり、「神も霊も信じておらず、精神力こそすべてであり物質は精神に従う」(注12)としていた、当時の霊術家の認識と共通している。これは次のような証言からも裏付けることが出来る。

 

占部真一氏によればこの時代の三田は、「透視や念写は、全く自身の能力の所産でいわゆる神霊などはいないもの、幽冥界は仮想のもの」(注13)と考えていたという。また甲山繁造氏も「松保丸事件を引起すまでの三田氏は、何等の信仰心とては無く、強いて言うなら社交的な意味から、キリスト教に興味を持っているといった程度のもの」であったこと。「自分のこの不可思議な霊力なるものは、天が自分に与えた贈物であって自分の思うままに駆使できる能力である」と考えていたこと。「神霊の加護だの背後霊の守りだのということは考えてみたこともなかった」(注14)などと三田は述べていたという。

 

三田は東京明治座(明治44年8月12日)でデビューしたが、この時の肩書きが「千里眼自覚術三田光一」であった。この「自覚術」という表現からもわかるように、自身の能力は一種の「術」であるとの認識を持っていた。さらに三田は初期の「公開実験会」(→「資料:新聞記事」№2、№6、№10)では「腹上石割術」を行っていたが、この「術」は修験者の「火渡り、刃渡り、湯立て」などに起源を持つ「危険術」の一つであった。また「公開実験会」の際に壇上に現れた三田の出立ち(→「資料:新聞記事」№12)からは、ショーマン的な雰囲気が強く感じられる。このように見せるための演出に拘っていたことが分かる。

このような「公開実験会」の性格を、小熊虎之助氏は「(三田の)不思議な能力を多数の公衆に観覧させようとする一種の興行か、余興会のようなもの」(注15)と指摘している。

 

当時の霊術家たちは、弟子を養成するにあたって「呼吸法の実修」と「危険術のマスター」を重要科目としていたが、三田も参加者に「調息呼吸法」「自己暗示法」「精神旅行」等の実修を通して「技」を磨かせていた。このような点から総合的に判断して、大正時代の三田は、限りなく「霊術家」に近い物理霊媒であったと云える。

明治から大正時代にかけて巷にあふれていた霊術家には、気合術の浜口熊獄に代表されるようにその前身として里山伏の流れをくむ者が多かった。浅野和三郎が主催した東京心霊科学協会において、専属霊媒(昭和6年以降)として活躍した本吉嶺山氏も、大正2年(当時30歳)に霊能が開花したのち、御嶽山に3年7月の期間籠って山岳修行を行い、霊能に一層の磨きをかけていた(注16)。

 

日本における近代的なスピリチュアリズムは、明治末期に主にイギリス経由で本格的に日本に流入してきたが、大正時代には一部のインテリを除いて、いまだそれほど普及してはいなかった。このようにスピリチュアリズムがさほど普及していなかった時代、霊視(透視)・霊界通信(口寄せなど)・心霊治療等の“霊能力に関する支配的な考え方”は、従来からの身体行によって「霊術」を身につけるという、五感の延長としてのサイキック能力のことであった。当然に霊術家たちは、創意工夫によって「術」を磨くという「技の研究」に明け暮れており、人間性を向上させて一層高い背後霊と結びつくというようなスピリチュアル的な観点は全くなかった。

 

☆信仰者への飛躍

大正15年に起きた「金塊引揚詐欺事件」は、従来までの無神論者に近かった三田の生き方を大きく変えた。鹿児島の照国神社宮司の占部真一氏は三田の宿舎を訪ねて、この事件で精神的打撃を受けた三田に対して「熱誠を込めて」次のように諭したという。「三田の優れた能力は決して三田氏自身の独力によるものではなく、三田氏の背後にある守護神ならびに支配霊の加護によるもの」であること。このようなことを繰り返し説いた。始めのうちは一向に関心を示さなかった三田も、占部氏の説得に次第に耳を傾けたという。

 

そして翌日に三田は「ヒョッコリと照国神社に参拝してきて、占部宮司に面会して、“私も大いに悟るところがありました。今後は自宅に神棚を設けて朝夕、神恩、祖先の恩を感謝することに決心しました”と告げた」。そして「その後三田さんは亡くなるまでこの誓いを実行して欠かさなかった」(注17)と云う。いわば占部宮司は三田の背中を押して、信仰者へ大きく飛躍をさせた“導きの人”であったと云える。

この後の三田は前述したように昭和2年4月の照国神社での実験会で、画期的な透視を行って自らも得難い体験をすると同時に、参加者の生き方までも大きく変えることになった。さらに昭和8年1112日岐阜新聞社主催の「超人三田善靖氏の霊能力大実験会」では、後世に残る「月の裏側の念写」が行われて、日本の心霊研究史上に残る大きな仕事を成し遂げることも出来た。

 

☆死の直前の霊魂を見る

人間の本質は「霊」であり、霊の世界では「霊体」という形体を通して自我を表現している。この霊体に具わっている能力を「サイキック能力」と呼んでいる。そのため人間は生来的にサイキック能力を持っているが、多くの人達は「文明化」と引き換えにこの能力を封じ込めてしまった。しかし少数ではあるが生まれつきサイキック能力が表面に出やすい者がいる。また霊術家たちが行う“厳しい身体行(一種の霊能開発)”によってこの能力が後発的に発現してくる者もいる。一般に行われている精神統一も霊能開発の一つである。

 

精神統一を続けていると、人によっては潜在しているサイキック能力が表面に発現してくる場合がある。このサイキック能力はいわば“五感の延長上にある能力”であるが、この奥にスピリチュアル能力が控えている。このスピリチュアル能力とは、霊界にいる霊が地上の能力者(霊媒)を道具として使い、その働きかけによって生じる能力のことで背後霊の関与が前提となっている。このようにスピリチュアル能力は、肉体次元のサイキック能力とは根本的に異なった仕組みを持っている。

 

三田は箱の中の物体を透視したり、遠隔地の物体を「精神旅行」によって見てきたりする霊視能力を有していたが、その霊視能力は霊界とは全くつながっておらず地上次元レベルのものであった。このような三田の霊的な能力は“五感の延長上にある能力”であって、肉体次元で発揮されるサイキック能力と呼ぶべきものである。

このサイキック能力は、その人に能力が存在するか、存在する場合には、それはどの程度の現象を起こさせる能力か、といった「技」の問題として論じられることが多く、能力者の内面の成長(霊的成長)とは無関係である。

三田の場合はその能力のレベルが、他の人よりも抜きんでて高かっただけであった。このようにサイキック能力とスピリチュアル能力の最大の違いは、「霊界人の存在の関与のもとに生じた現象」か、否かにある。三田が持っていた透視や念写・予知等の能力はスピリチュアル能力でなかったことは、死の直前の霊魂を初めて見て驚愕(昭和2年4月の実験会)したことからも理解できる。

 

この東條病院での死の直後の霊魂を見た体験は偶然ではなかった。この時期の三田は、「金塊引揚詐欺事件」に関与してピンチの状態であった。「超人よ、大能力者よと騒がれて」能力を過信したことによる慢心が心の緩みを生み、自ら社会的に窮地に陥るという墓穴を掘ってしまった。しかしこの事件を三田の霊的成長という観点からみると、いわば霊的自我を覆っていた厚い殻に、社会的信用の失墜に伴う苦しみという外圧によって亀裂が生じて、三田の霊的自我の目覚めに繋がったと云える。

従来までの無神論者から信仰者へ一歩足を踏み出したという意味で、この事件は「人間的な三田光一」にとっては大きな悲劇であったが、「霊的な三田光一」にとっては飛躍へのチャンスに繋がったことがわかる。この飛躍後の最初の「しるし」は、三田の背後霊の導きによる「番外編の透視」と云う形で現れた。この透視は、三田の従来までの霊魂観を変えるきっかけとなったと同時に、実験会の参加者に多大のインパクトも与えた。とくに主催者の吉原謙亮氏のその後の生き方までも変えた、スピリチュアルな心霊現象であった。

 

☆幽霊からの「遺言」

甲山繁造氏の「霊南坂霊談」(注18)に興味深い話が載っている。三田は昭和5年2月23日に福来博士と共に、東京赤坂の霊南坂にある不動貯金銀行(旧協和銀行の前身)頭取の牧野元次郎氏の自宅を訪れて、肺を病んでいる次男の二郎氏に対して心霊治療を行った。この時、二郎氏の病状はすでに絶望的であった。

二郎氏は三田に対して「私はここ二三日の間に楽になります。その時には先生にお願いしたいことがあります。何卒よろしく」と意味不明な挨拶をされたという。三田は2月29日の朝に東京を発って神戸の自宅に戻った。須磨の自宅に戻り書斎に入って電燈を付けると、昨夜別れたばかりの牧野二郎氏(幽体)が床の間を背にして坐っていた。時計を見ると945分を指していた。

 

二郎氏は「いろいろ頼みたいことがあります」と云ったので、三田は大急ぎで便箋と鉛筆を用意して、幽霊からの「遺言」を便箋につづった。その内容は「妻の敦子の腹に宿った胎児は男の子で7月6日に生まれる」「妻が刃物を持って無分別な事をする恐れがあります。それに妻は多量の劇薬を呑みますが、生命に別条はありません」等々であった。語り終えると二郎氏の幽霊は消えてしまった。

翌日東京の牧野邸から「二郎昨夜9時40分死す、牧野」(原文はカナ文字)と電報が届いた。三田が自宅で二郎氏の幽霊を見たのは945分であったので、死の直後に神戸に現れて「遺言」を託したことになる。その後三田は法要のため再び福来博士と共に、東京赤坂の牧野邸に出向いた。

牧野邸で二郎氏の霊が語ったことと同じ内容の「敦子夫人が二郎氏死去後に大量の劇薬を飲んで自殺したが、幸いに手当てが良かったため助かった」旨の話を聞かされた。その後、その年の夏に三田は幽霊の「遺言」どおりの内容の「7月6日に敦子夫人が男の子を無事出産した」との電報を受け取った。この三田のエピソードは、無神論者から信仰者への飛躍以降、霊的成長の道を着実に歩んできたことを物語る。

 

イ)時期の到来の問題

☆実験会と時期の到来

浅野和三郎や小田秀人氏が主催した実験会では、参加者が心霊現象を目の当たりにして、そののち心霊の世界と深く係り合いを持つようになった事例(→昭和6年頃の小田氏の実験会に出席した後藤以紀氏のケースなど)がある。また後藤以紀氏の教授退職の際の記念講演に出席した三浦清宏氏の場合には、講演で心霊研究の話を聞いて、その後の人生の軌道が大きく変わったケースとなった。三浦氏(講演会出席当時の肩書は明治大学助教授)は明治大学の海外研究制度を利用して、「現代人の霊魂観の研究」と云うテーマで、1978年に1年間ロンドン近郊のリッチモンドに滞在して心霊研究を行った。

 

霊的なものを理解し受け入れるためには、その人自身の内面にそれを受け入れるだけの霊的な用意(→それ相当の霊的な発達段階に達したことが条件)がなければならない。一般に日常生活の中で体験する困難や苦難は“魂の磨き粉”的な役割を果たしており、本人の“魂の目覚め”のきっかけともなっている。同時にその人自身に潜在している霊的可能性を引き出すための触媒的作用も果たしている。

遭遇する困難や苦難の程度は各自によって異なるが、人はそれらの困難に果敢に立ち向かうことによって霊的に成長して、受け入れ態勢が完了し、始めて「その日」が訪れる。しかし人によっては、「その日」が大きな事件・事故に遭遇する、重い病気になるなど、激しい痛みやどん底に突き落とされたかのような辛い時期を通して訪れる場合もある。三田の「金塊引揚詐欺事件」がまさにそのケースであった。この事件による激しい痛みを伴った体験を通して、始めて霊的な準備が整って次のステージへの扉が開くことになった。

 

このように受け入れ態勢の整った「時期の到来者」が、背後霊によって真理に巡り合える「場所(→吉原謙亮氏の場合は三田の透視実験会)」や「真理を理解した人(→三田の場合は占部真一氏との出会い)」のもとに導かれることになる。後藤以紀氏の場合は小田秀人氏の実験会であり、三浦清宏氏の場合には後藤氏の教授退職の際の記念講演であった。後藤氏や三浦氏は背後霊に導かれて、それぞれの場所が、その後の人生の選択に大きな影響を及ぼすことになった。

 

三田が行った初期の「公開実験会」は、「資料:新聞記事」で見る限り全体的に見て「奇術ショー」的な色彩が前面に強く出ていた。そのため霊的覚醒の場所としては不向きであり、「時期の到来者」が背後霊によって連れてこられるケースは極めて少なかったのではないかと思われる。また当時の三田の意識の中に、「公開実験会」を霊界のスピリットと二人三脚で行う(→スピリットが主で地上人は従の関係)というスピリチュアル的な観点は全くなく、当然に透視や念写によって「未知の自然法則の存在」や、「霊界や霊界人の存在」の証明を行うという意識もなかった。

ここに浅野和三郎や小田秀人氏が主催した実験会との大きな違いがある。ただし「信仰者への飛躍」以降は、三田が行った実験会もスピリチュアル的な要件が具備されるようになり、吉原氏のようなケースが生まれることになった。

 

☆裁判所の所長、心霊家へ

昭和2年4月の照国神社の実験会は、一人の人間のその後の生き方を大きく変えることになった。この会の主催者である鹿児島地方裁判所、所長の吉原謙亮氏は、実験会での三田の透視結果に大いに驚いて深い感銘を受けた。実験会の閉会の辞で述べた次の言葉にその心境がよくあらわれている。

吉原氏は「私は今日まで霊魂はあっても無くてもよい、人生にあまり意義もないと簡単に考えていました。しかし今三田氏のこの驚くべき実験を見て、私の心境は大衝動を受けました。今日、霊魂の存在などは科学で認めていないからといって、これを否定し、無神論を唱えるなどは甚だしい誤りであります」「私は只今三田氏の実験によって、霊の存在を確実に信ずるようになりました」「この席に妻もおりますが、今後私は毎日祖先の霊と氏神様とを拝することを決心しました。そしてこれを必ず実行することを只今誓います」(注19)という内容の挨拶を述べた。

 

占部真一氏によれば、その後の吉原氏は「鹿児島地方裁判所所長を辞職して上京され、翌年筆者(占部氏のこと)は上京の際同氏を訪問し、数時間会談したが、この誓い(閉会の辞で述べたこと)は決して怠っていないと言っておられた」(注19)という。その吉原氏は上京して誓いを立てた敬神崇祖の実践と心霊の道へ進んでいった。

心霊の実践へと進んだ吉原氏は、浅野和三郎氏が主宰する東京心霊科学協会に参加した。昭和6年と14年の東京心霊科学協会の役員欄に、吉原氏は「評議員」としてその名前が載っている。占部氏は『心霊研究』(注19)の中で、吉原氏を「理事」と記載しているが私はその確認を取れていない。

 

ウ)三田光一の役割

☆三田の云う「霊」とは何か

三田の云う「神」や「霊」「個別霊」の考え方は分かりにくいが、「霊観」(注20)からおおよその概念がつかめる。

著書の中で宇宙には万物の大元素が充満している(これを三田は「霊」と呼んでいる)。この充満しているものを「宇宙の大霊、宇宙の大生命、宇宙の意識」などと呼んでいる。そして三田は「神霊の実在を確信している」と述べて「神」の存在を肯定している。ここから「金塊引揚詐欺事件」以前のような無神論者でないことが分かる。スピリチュアリズムでも神によって創られた宇宙には「普遍的要素としての霊(根源的素材たる霊、神の絶対的エネルギー)」が遍満していると述べるが、これを三田は「神」または「霊」と言っている。この「霊」を人間は共有すると述べている。

 

しかし「吾人の主張する霊というのは霊魂のことではない、吾人は初めからその霊魂なるものの存在を否定する者である」と述べて、「霊(普遍的要素としての霊)」と「霊魂(個別霊)」を分けて人間の「霊魂」が死後も存続するという霊魂不滅を否定しているかのように読めるので、非常に分かりにくくなる。

別の箇所では「吾人は霊の不滅は勿論、肉の不滅をも主張する者である」と述べており、一見すると矛盾したことを述べているようにも思える。ここで言う「肉」とは「肉片を指摘するのではない」という。「吾人の霊肉一致、すなわち心身協力の上の活躍は無限に延長する」と述べている。三田の用語の使い方が厳密でないため非常に分りにくいが、全体的に見ると三田の云う「霊肉一致」とは、つまりは「個別霊」のことを指すようである。この「個別霊」が「無限に延長する(存続する)」として霊魂不滅を述べている。

 

三田が東條病院で見た死の直後の霊魂や、牧野元次郎氏の次男の幽霊は、無限に続く「霊肉一致」の姿ということになる。この考え方は表現の違いだけで、結局「霊魂」の存在を認めたことと同じではないだろうか(→三田の文章では「普遍的要素としての霊」と「霊魂(個別霊)」の違いが明確となっていないが)。

 

☆三田光一の位置づけ

三田光一は日本におけるスピリチュアリズム史の中で、どのような位置を占めるのか。まず三田の人物評価に関しては前述したように、毀誉褒貶が相半ばする霊媒であるということである。この原因には幾つかあるが、特に若い頃に奇術師一座に加わっていた経歴が、つねに「何かトリックを行ったのではとの疑惑」を招くマイナス要因に働いていることがあげられる。また若い頃の刑事事件や金塊引揚詐欺事件によって、三田は信用できない人間であるとのレッテルが貼られたことも大きい。「公開実験会」においてトリック疑惑の事例があったと云われていることもあげられよう。全体的に見て三田には「霊媒の誠実さの問題」が常につきまとっていたといえる。

 

透視は精神的(主観的)心霊現象であり後日検証する際には難点があるが、物理的心霊現象である念写の場合には、検証の対象としての念写原版が福来心理学研究所に残されているので、現在でも研究がし易い。筆者は今回改めて資料を調査して感じたのは、三田の真実性が極めて高い透視が行われたのが「公開実験会」ではなく、むしろ少人数の「実験会」で起きていることである。これは実験会の舞台裏(霊的事情)を考えれば、容易に納得がいくことである。

日本におけるスピリチュアリズムの発展と云う大きな流れから三田の霊的な位置を考えて見ると、三田には「人間にはいまだ知られていない自然法則が存在している」という事実を、透視や念写によって当時の人たちに知らしめる役割、つまり基本的な霊的事実の存在証明が、“浅野和三郎系統の霊媒”と同様に与えられていたということである。いわば当時の日本には類を見なかったスケールの大きな物理的霊媒として、藪を切り開いて道を作るための先遣隊の一員として、「時代を選んで出生」してきたといえる。

 

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<注12

■井村宏次著『新・霊術家の饗宴』(心交社1996年刊)304頁。

<注13

■占部真一著「三田氏の念写と透視」:『心霊研究』昭和305月号、12頁。

<注14

■甲山繁造著「三田光一氏を観なおす」:『心霊と人生』昭和367月号、17頁。

<注15

■小熊虎之助著『心霊現象の科学(改訂版)』(芙蓉書房1983年刊)355頁。

<注16

■宇佐美景堂著『霊媒本吉嶺山』(霊相道書房1967年刊)10頁。

<注17

■甲山繁造著「三田光一氏を観なおす」:『心霊と人生』昭和3610月号、13頁。

<注18

■甲山繁造著「霊南坂霊談」:『心霊と人生』昭和3711月号・12月号。

<注19

■占部真一著「三田氏の念写と透視」:『心霊研究』昭和305月号、10頁。

<注20

■三田善靖著『霊観』(昭和7年発行)173頁以下。

『霊観』は1998年に八幡書店が復刻版を発行している。

 

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