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2.三田光一の幼少時代

目 次

ア)幼少時代の家庭環境

・出生および生家について

・氏名に関して

イ)幼少時代の特異現象

・特異現象の発現

・臨死体験

・座敷牢に幽閉

・当時の社会状況

 

<注4>~<注22

 

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ア)幼少時代の家庭環境

☆出生および生家について

三田光一(1885年→1943年)は明治18年(1885年)8月17日に、父「三田半造」と母「とりゑ」の二男として宮城県本吉郡気仙沼町(現在:気仙沼市)字釜ノ前118番地で出生した(注4)。光一の生家について丹波哲郎氏(1922年→2006年:俳優、心霊研究家)は「150台ばかり持っている機屋(ハタヤ:機織業)であると福来友吉博士が述べていた」と紹介している。さらに丹波氏は、光一は小学校卒業後すぐに丁稚奉公に出た、このような経歴から即断して「生家も貧しかったように思い込みをしていたけれど、意外にもむしろ素封家だったのではないだろうか」(注5)として、霊能者・長南年恵(本名は登志江:1863年→1907年)の生家と比較した感想を述べている。年恵の父・寛信は庄内藩の藩士だったが零落し、死去により一家は離散状態にあったことが丹波氏の念頭にあったようである。

 

この「素封家」であるとの丹波氏の記載に対して精神科医の黒田正大氏は(注6)、三田を知る佐藤権右衛門氏(福島市飯坂温泉横町5番地:佐権商店主、1884年生まれ)の取材や各種資料を調査した結果から別の見方を紹介している。

それによれば光一の父「半造」の職業は大工(注7)であり、もとは「岩手県花巻市の士族だった」「いつから気仙沼町に住みついたかはわからないが、本籍地が現住所と一致しているところをみると、明治初年から明治十年代にかけてのこと」(注8)ではないかと。さらに「三田氏は母親のことはよく追想されて語られたが、何故か父親のことは一言も触れなかった」(注8)と述べている。

黒田氏は「あるいは父親は早く世を去られたか生別されたと思われる」が、「戸籍謄本をみると“原戸籍ニ依リ出生ノ場所、届出人ノ資格氏名、受付ノ年月日ヲ知ルコト能ハザルニ付、其記載省略”とあり確かなことはわからない」。しかし「(三田光一)氏の幼少時期は父が不在か、ないしその存在の薄かったこと、経済力が乏しかったことなどから、母親が外の仕事(→佐藤氏は魚の加工場の女工員と記しているが、黒田氏は女中であったとしている)について、母子の充分な接触が持てなかった、いわば不幸な恵まれない生育環境条件だったように思われる」(注8)と述べている。このように丹波氏の「素封家」とは反対の見方をしている。

 

☆氏名に関して

三田光一には「才二」「善靖」「光一」という複数の氏名があり、それぞれに応じて使い分けていた。光一の戸籍上の氏名は「才二」であり、昭和9年3月に「才二」から「善靖」(よしあき)に改める戸籍の届出をしている(注9)。

氏名について『気仙沼町誌』(注10)の記載では、「三田善靖、旧名才二、別に朝日光一、三田光一と称したことがある」。ここから三田には「朝日光一」を名乗った時期があったことが分かる。三田が「朝日光一」という通称名を名乗っていたのは、『気仙沼町誌』によれば「八日町の気仙沼座に於いて天勝はだしの手品奇術を公開して大人気を博した」(注10)時期であるという。記載からはこの時期、奇術師一座に在籍していたのか否かは分からない。

 

三田の動静について『気仙沼町誌』では、「浜売渡世後天下の三田光一を志して上京、各種事業を企画したが、精神修養団の洗心会を創立、後に帝国自覚会と改めた」とある。ここで始めて「三田光一」という通称名が出てくる。この「三田光一」という通称名を名乗った時期は、『気仙沼町誌』によれば上京した21歳(明治40年:1907年)以降のことであり、大正7年(1918年)にかけて使っていた模様である。

推察するにこの通称名を名乗った背景としては、20歳前後に相次いで見舞われた刑事事件や肺結核などの忌まわしい過去から、心機一転生活を改める意味があったのではないだろうか。その後の三田の動静は、『気仙沼町誌』によれば「三田は大正7年2月、善靖と改名して郷里気仙沼をはじめ広く知友間に念写入りの挨拶状を廻した」(注11)とある。この町誌にある大正7年の改名とは、「戸籍上の改名」ではなく「通称名の改名」であった。なぜなら「戸籍上の改名」は昭和9年であったからである。

 

大正7年2月頃、三田の周辺では念写にまつわる「トリック疑惑騒動」、この“騒動”に関してマスコミなどからの激しいバッシング、さらに暴漢に襲われて負傷した事件などが立て続けに起こっている。このような当時の状況から推察するに、三田は心機一転の意味も兼ねて関係各位に挨拶状を廻して、通称名として「善靖」(よしあき)を用いた(注12)のではないだろうか。しかしこれら一連の事件は2月中旬であり、改名時期があまりに接近しているため「事件・騒動」との関係が疑われる。資料によれば三田の性格は短気であり、即断即決の傾向があったという。このことから考えると、「通称名の改名」という思い切った行動もあり得るのではないだろうか。

 

このように三田は大正7年の改名から昭和9年に戸籍の変更届出をするまでの期間、「光一」と「善靖」という二通りの通称名を使い分けていたことになる。

三田は大正6年2月に福来友吉との出会いがあったが、その頃すでに「透視・念写能力者の三田光一」として「公開実験会」を各地で行っていた。そのため大正7年2月頃、挨拶状を回して「光一」から「善靖」に通称名に変えても、心霊の世界では引き続き「光一」を使い続けたようである。そのため「三田善靖」ではなく、後世まで「透視・念写能力者の三田光一」として名前が残っている。

 

大正9年頃に佐藤権右衛門氏(福島市飯坂温泉横町5番地)は個人的な相談ごとがあって三田光一と会った。その時に紹介者から三田の氏名が「最近もとの光一から善靖(よしあき)に改めた」(注13)と告げられた。昭和7年に発行された三田の著書『霊観』(注14)にも「善靖」の名前が使われている。

このようなことから昭和9年に戸籍の改名手続きをする際に届け出た「善靖」という氏名は、従前から通称名として使用していたものであり、それを戸籍上の氏名にしたということが分かる。戸籍の変更届出をした昭和9年という時期は、「霊媒・三田光一」から「経営者・三田光一」に立ち位置をシフトしつつあった頃であり、「光一」という通称名を棄てたとしても当時の三田には実害はなかったからであろう。このように三田は「三田善靖」と「三田光一」をケースによって使い分けていた。

 

イ)幼少時代の特異現象

☆特異現象の発現

黒田正大氏は佐藤権右衛門氏を取材して、三田光一の幼少のころの「才気煥発」ぶりを次のように述べている(注15)。光一は「幼童の好む餅や菓子の隠し場所の戸棚や箪笥を透視発見してしまい、その母を大いに困らせた」こと。「近在の泥棒や嘘つきなどを暴きたてた」こと。満6歳(明治25年4月)で気仙沼尋常高等小学校尋常科に入学したが、「先生の教科目をスッカリ予知して受持ちの先生を当惑させた」ことなどがあったという。

佐藤権右衛門氏によれば「先だっての火事は誰さんがやった、あの人のものを盗んだのは誰さんだということを、坊や(三田光一のこと)は人々に悪げもなく、ただ単純に感じたままに云う。すると、それが近所の評判になり、狭い街中のことでもあり、すぐに警察の耳にはいってしまう。警察は半信半疑ながらも、調べてみると、事実、その通りだったことが数回あった」という。

このように三田は、すでに5~6歳頃から霊能の発現が見られた。なお光一は気仙沼尋常高等小学校尋常科の2年生(実質就学期間約1年半:明治26年)の時に登校停止となり自宅幽閉(座敷牢)となっている。

 

霊能者の幼少期における特異現象と大人の無理解さは、洋の東西を問わず広く知られている。たとえば神智学のブラヴァツキー(1831年→1891年)の幼少期、周りの人には見えない友達が大勢いて「一日の大部分をその友達と遊んでいた」(注16)こと。「目に見えない存在物、特に家に住んでいる妖精や川岸のニンフを見る」(注16)ことができたこと。このような幼少期のブラヴァツキーの行動に対しては、周りの大人たちは大いに当惑させられたという。

 

筆者は以前、学者や研究者のグループに加わって霊能者を調査(フィールド・ワーク)したことがある。その際の調査票の中に幼少期の頃の特異現象(体験)を調べる項目があった。調査した霊能者の中には、「幼少期の頃によく霊が見えた(この家に死んだ〇〇がいるのが見えるなど)」「体外離脱体験があった」「相手の体の中が透けて見えた(視力が落ちていったのと反比例して霊視の力が強まった)」「病院で弟が生まれる状況を家の中で見ていた」などの特異体験を報告した方が何人かいた。

これらの霊能者の幼少期の体験に対して、周りの大人たちの無理解さと同時に子供の霊能発現を抑制する行動をとっていたことも報告されている。このように筆者が関与した霊能者の調査結果と、光一少年の特異現象(体験)とを比較すると、そこには共通性があることが分かる。

 

☆臨死体験

三田光一の自宅幽閉は、次のような出来事が積み重なっておこった。この頃の光一少年は大人には理解できない「才気煥発の意表に出る特異行動」が目立ったために、親類縁者や町内の人たち一同が話し合って「狐ツキの仕業は狐霊を退散せしめるにしかず」ということになった。光一少年は気仙沼北方の山麓の日蓮宗の小寺に連れていかれて、そこで無理に抑えつけてられ「狐霊退散のまじない」など、傷痕が残るほどの荒療治(→お尻に焼け火箸を当てるなどの行為)をさせられた。しかしその荒療治も全く効果がないばかりか、それが逆効果となってますます暴れだすようになり、近隣でも「てがつけられ」ない状態になったという(注17)。

 

そんな状況が続くうちに、光一少年は「水死」してしまった。「水浴び中、おぼれかかり救いあげられて人工呼吸などされたが、手遅れで生き返らず、ついに死亡したということで、棺桶に入れられて法華寺に葬られることになった」。しかし「読経の最中に棺桶の蓋が持ち上がり、少年がムクムク起き上ったので、会葬者はみなビックリした」という。

外形上「心臓停止」や「瞳孔が開く」などの所見が認められれば、臨床的には死と判定される。しかしスピリチュアリズムでは、肉体と霊体を繋ぐシルバーコード(魂緒)の切断をもって「肉体の死」としているので、切断されていれば二度と生き返るということはない。そのため臨床的には死と認められる場合でも、シルバーコードが切断されていなければ生き返ることがある。三田の事例はこれに該当する。

光一少年は葬式の状況を「お寺で棺桶に入っているうちに、いつしか意識が戻り、会葬に来た人たちのことは分かっていた」(注17)と述べている。

 

これに対して鹿児島の照国神社宮司の占部真一氏は、黒田氏とは異なった蘇生の経緯を述べている。水泳中に溺れたので死んだものと思われた光一少年を「戸板に乗せて町の裏道から家に運んだ。同氏の母上はこの惨状を見て愕き悲しみ、屍体にすがって、大声で才治才治と繰り返し呼んだ。そのためか、自然に才治少年は蘇生し意識も回復した」「三田氏自身の話によると、戸板で運ばれている間は、四辺も明るく、なんの苦しみもなく、周囲の事情もよく見えていた。母上から呼び起され、よみがえると同時にひどく苦しくなった」(注18)という。なお三田の戸籍上の正式な名前は“才二”なので下線部分は誤記と思われる。

このように黒田氏と占部氏との間に細部における事実関係には齟齬があるが、臨死体験が存在したことは分かる。

 

臨死体験は近年研究が進んできた分野であるが、一般には「担当医からの死の宣告を聞く、自分が死んだという感じになる①」「肉体から離れる感じを持ち、事物や事象を見る②」「暗いトンネル状の空間を通り抜ける③」「落ち着き安らかになる④」「光の存在、親類縁者と出会う⑤」「川などの遮蔽物の存在で前進ができない(肉親の呼びかけに戻される場合を含む)⑥」「肉体に戻る⑦」などを体験するようである。

学者の世界では臨死体験は脳の酸欠状態が引き起こす「脳内現象」にすぎないとの否定派の立場が有力である。しかし臨死体験とは「体外離脱」状態での体験であるとの肯定派の説明の方が、あらゆる点で論理的整合性がとれる。

 

光一少年の場合には「四辺も明るく何の苦しみもない」は④に該当、「周囲の事情も見えていた」は②に該当、「大声で才治才治と繰り返し呼んだ」は⑥に該当、「よみがえると同時に苦しくなった」は⑦に該当する。このように光一少年の証言からは、レイモンド・ムーディやマイケル・セイボム等の臨死体験の研究から判明した特徴点と共通性が認められる。

 

☆座敷牢に幽閉

黒田氏の前著によると、このようなことが原因となって「警察分署長を動かし、この狐つきの少童を放任しては安寧秩序を害するとて、邸内の一部に座敷牢を作らしめて、巡査の看視下に幽閉されることになった」という。座敷牢は近世以降、しばしば監禁施設として登場してくるが、法治国家である明治時代には、どのような法的根拠があって設けられたものなのか。

 

法令等の資料によれば警視庁は明治11年5月31日甲第38号をもって、「瘋癩人看護及び不良の子弟等教戒の為めやむを得ず私宅に於いて鎖錮せんとする者は、明治9年3月10日元警視庁に於いて区戸長へ相達候懲治檻入願手続に照準し、其事由を詳記し親族連印の上、所轄警視分署へ願出、認許を受く可き旨を布告」を出している。東京以外でも府県単位で同様な「自宅鎖錮」(じたくさこ)の規定が設けられて、精神に障害をきたした者や素行不良者を監禁する施設として利用された。特に精神病者については明治33年に「精神病者監護法」が制定され、その第9条に「私宅監置室」の規定が設けられている。

 

小説の世界でもしばしば座敷牢が出てくる。島崎藤村の『夜明け前』では、明治新政府の政策に失望し精神に異常をきたした主人公の半蔵が、自宅の座敷牢に監禁される場面が描かれている(注19)。宗教の世界でも座敷牢が登場してくる。大本教の開祖出口なおは明治25年(1892年)に帰神状態になったが、明治26年に「(周囲から)本人は気が狂っているとの理由で、警察から組内に命じ座敷牢を作らせて」(注20)その中に監禁された。

 

光一少年の場合は素行不良(→幽閉の直接の原因は溺死事件だと云う)ということで、光一を座敷牢に監禁することについては「母親の反対は押し切られて、自宅内に作られた座敷牢に幽閉させられた」。巡査は光一宅を定期的に巡回して、幽閉状況のチェックを行うが、「母親は少年を不憫に思い、何かと世話をやいた、少年もそのことは深く感謝していて、後年しばしば人にも語っている」(注21)という。

この座敷牢幽閉期間は2年間であり明治28年9月に放免された。この幽閉は自我の形成途上にある少年期の柔軟な精神に、少なからず心的外傷を与えたのではないだろうか。この間に於ける学校との関係は、光一少年が通っていた学校からは、各学年の修了証書4枚と尋常科の卒業証書1枚(当時の義務教育期間は4年間)が無条件に交付されたという。いわば学校から“厄介払い”された形の光一少年は、晴れて明治29年(10歳)小学尋常科4年卒の免状(実質就学期間は1年半)をもらって実社会に飛び出していった。

 

☆当時の社会状況

徳川幕府は大政奉還によって権力の座から退き、明治政府は天皇親政のもとで短期間に西洋列強に比肩する近代国家建設を独力で成し遂げた。とくに政府は近代化推進のために、西洋伝来の科学・思想や制度を積極的に導入して、社会の各層に残る前近代的な遺物、蔓延していた迷信や祟りなどを積極的に排除していった。この政府の近代化政策は、社会の各階層の人たちに意識の変革を迫ることになった。とくに合理的思考と相入れない「霊媒現象・千里眼・予言など」の心霊現象は迷信の一種とされて、学問を身につけた人たちの間では軽蔑の対象とされて、まじめに取り扱われることなく排除されていった。

 

このような背景があって明治政府は、心霊現象は迷信か詐術であり、それを行うものは安寧秩序を乱す者として取り締まりの対象として排除に乗り出した。三田の事例からも幼少期の少年といえども例外ではなかった。

政府は明治6年(1873年)1月15教部省通達(梓巫市子馮祈祷狐下ケ禁止ノ件:教部省第二号達)において、「梓巫(あずさみこ)、市子(いちこ)、馮祈祷(よりきとう)、狐下(きつねさげ)等禁止」したまた明治7年(1874年)6月7日教部省通達(禁厭祈祷ヲ以って医薬ヲ妨クル者取締ノ件:教部省第22号達)では、まじないや祈祷で医療行為の類似行為を行うことを禁じた。

このように依頼者の求めに応じて霊を呼び出すこと、霊媒(巫女、いたこ等)にかからせること、心霊治療(広義)などの行為が政府の通達で禁じられた。当時はこのような通達・方針が多く出されており、地方の末端行政組織にまでいきわたっていた、いわば「霊能者受難の時代」であった。

 

心霊現象が迷信と同列視されて排除の対象であった時期、「不良の子弟である狐つき」の光一少年の放置は、地域社会の秩序を乱すとの理由から座敷牢に幽閉する処置に付された。同じ頃、奥羽山脈を越えた日本海側の山形県鶴岡市でも、庄内藩の没落士族の家に生まれた長南年恵(1863年→1907年)の身の上にも同様な悲劇が降りかかっていた。光一少年の場合は座敷牢に幽閉であったが、32歳(明治28年前後)の年恵は7月から60日間にわたって監獄に拘留された(注22)。

 

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<注4>

■甲山繁造著「この霊的巨人の足跡を見よ」:「心霊研究」昭和347月号。

<注5>

■丹波哲郎著『稀代の霊能者三田光一』(中央アート出版社1984年刊)56頁参照。

丹波氏は福来友吉が三田光一の生家は「150台ばかり持っている機屋」であると述べたと記しているが、この出典については不明。

<注6>

■黒田正大著「三田光一余聞録」:『福心会報』№14:昭和424月号、同№15:昭和4210月号。

<注7>

■黒田氏が引用した資料にこの記載なし、「大工さん」の出典は不明。

<注8>

■黒田正大著「三田光一余聞録」:『福心会報』№1426頁以下。

<注9>

■甲山繁造著「この霊的巨人の足跡を見よ」:「心霊研究」昭和3410月号、3頁。

善靖(よしあき)の読み方は『心霊研究』昭和344月号、5頁参照。このページの「義靖」は誤記、5月号14頁に訂正記事あり。

<注10

■『気仙沼町誌』(気仙沼町誌編纂委員会、昭和285月刊行)の「三田善靖」(534頁)の項目参照。

<注11

■『気仙沼町誌』535頁。

<注12

■丹波哲郎著『稀代の霊能者三田光一』(中央アート出版社1984年刊)53頁。

丹波氏はこの立場をとる。

<注13

■佐藤権右衛門著「三田氏の念写実験記録と私の体験」:『福心会報』№220頁以下。

<注14

■三田善靖著『霊観』(昭和7年発行): 1998年に八幡書店が復刻版を発行している。

<注15

■黒田正大著「三田光一余聞録」:『福心会報』№14、『福心会報』№15

佐藤権右衛門著「三田氏の念写実験記録と私の体験」:『福心会報』№226頁。

<注16

■ハワード・マーフェット原著、田中恵美子訳『H・Pブラヴァツキー夫人―近代オカルティズムの母』(竜王文庫1981年刊)48頁以下。

<注17

■黒田正大著「三田光一余聞録」:『福心会報』№1429頁以下。

佐藤権右衛門著「三田氏の念写実験記録と私の体験」:『福心会報』№226頁。

<注18

■占部真一著「三田氏の念写と透視」:『心霊研究』昭和305月号10頁。

<注19

■島崎藤村著『夜明け前』第二部下(新潮文庫)参照。

<注20

■『大本七十年史(上)』(大本七十年史編纂会発行、昭和39年)89頁。

<注21

■黒田正大著「三田光一余聞録」:『福心会報』№1429頁。

<注22

■田中千代松編『新・心霊科学事典』(潮文社1984年刊)321頁。

上記によれば「32歳―7月より60日間、妄りに吉凶禍福を説き、愚民を惑わし世を茶毒する詐欺行為として山形県監獄鶴岡支署に拘留された。つづいて翌年10月にも同罪で7日間再拘留」されたという。

 

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