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古代人の宗教について

目 次

◆この項目の概要

①.遺跡発掘から分ること

・埋葬行為

・遺跡の考古学調査

・新石器革命

 

②.アニミズムと祖霊崇拝

・縄文時代の遺跡から見える信仰形態

・縄文時代の信仰

・弥生時代の信仰

・埋葬場所の移動

 

③.古代社会における宗教

・古代社会の先祖崇拝

・家族の宗教から部族の宗教へ

・ライバル関係に立つ神(神殿)

 

④.霊肉実体二元論

・ポルターガイスト現象

・シャーマンの存在

・霊的な存在の肯定

 

<注1>~<注13

 

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◆この項目の概要

考古学の発掘調査や遺跡調査を通して、古代より「肉体には事物を超えた霊的なものが宿る」という考え方や、この世とあの世を行き来する「循環的再生観」が存在していたことが知られている。このような素朴な「霊肉実体二元論」的な考えを古代人は持っていたが、この延長線上に「祖霊の祀り」があった。この「祖霊の祀り」は先祖崇拝となり、家族宗教から部族の宗教へと発展していった。このような点を踏まえて古代人の「霊肉実体二元論」を概観してみた。

 

①.遺跡発掘から分ること

☆埋葬行為

死者を埋葬するという行為は、民族や宗教によってその形式は異なるものの、人類に共通な現象として世界的に存在する。日本に限って言えば土葬の場合には遺体を収めた棺を、火葬の場合には遺骨を入れた骨壷を、それぞれ墓石の下に埋めて葬るという方式がとられている。この一定の形式を踏む埋葬という行為は、霊長類の中でも霊的要素を有する人類のみが持つ風習である(→猿人、原人には見られないという)。

このような死者を埋葬するという行為からは「死者に対する特別な意識」、つまり遺体(物的肉体)とは別個の霊的な存在があり、これがあの世で生き続けるという死生観がすでに存在していたことが推測できる。それでは埋葬はいつ頃から行われてきたのだろうか。

 

考古学では石器の出現から農耕の開始までの期間を旧石器時代と呼んでいるが、この時代は「前期、中期、後期」に細分化されている。一般に埋葬は前期旧石器時代(約260万年前~約30万年前)には見られないが、中期旧石器時代(約30万年前~約3万年前)には「埋葬の痕跡が見られる」と言われている。後期旧石器時代(約3万年前~約1万年前)に入ると遺跡の発掘調査から「埋葬や死者葬送の儀礼が多様化したことが明らか」(注1)に見て取れる。

 

中期旧石器時代は旧人のネアンデルタール人(約40万年前~3万年前)が活躍した時代であり、後期旧石器時代は新人のクロマニヨン人(約35千年前~1万年前)の時代である。考古学調査の結果、死者の埋葬風習は「現代人とは別種のネアンデルタール人になって初めて見られる現象」と言われるが、一般化するのは化石現生人類のクロマニヨン人になってからである。

 

☆遺跡の考古学調査

イラク北部のザグロス山系にあるシャニダール洞窟の考古学調査が1951年から1965年にかけて行われた。この遺跡から放射性炭素年代測定(C14)によれば47千年前とされるネアンデルタール人の化石が発見された。一般にネアンデルタール人は「遺体を屈葬の形で埋葬」して、「生活の場と埋葬の場とを分けることをしていなかった(→縄文人や古代ヨーロッパ人の埋葬風習と共通性が見られる)」と言われている。

シャニダール洞窟の発掘調査で発見された4号個体の周辺からは、「花粉分析によって献花とも考えられる8種類の花粉が発見された」。この「花粉の発見」の事実は多くの書籍で取り上げられており、このことから判断しても当時大きな話題となったようである。しかしこの「花粉」の評価については、最近の論文において「(従来は)ネアンデルタール人に社会協業や抽象的思考能力があったと主張されたが、近年、疑問視する意見も出されている」。花粉については「動物活動の結果である」(注2)とする反論が出されている。

 

これが35000年前頃に出現した新人のクロマニヨン人になると、遺跡の発掘調査からネアンデルタール人よりもさらに進化した形態となっていることが判明している。たとえばフランス南西部からスペイン北部一帯にかけては「先史時代の洞窟壁画の宝庫」とされているが、その中でも精密な石器や優れた洞窟壁画が残されているドルドーニュ県にあるラスコー洞窟(17000年前)や、南フランスのピレネー地方にあるレ・トロワ・フレール洞窟(27000年~13500年前)などの洞窟写真からは、古代人は豊かな精神文化を持っていたことが窺える。また洞窟の狩猟動物壁画からは「動物たちが大地の力で再生し、再び獲物となることを呪的に祈念する」(注3)とされた「循環的再生観」が推測されるという。さらに女性をかたどったビーナス像などの彫刻とともに、死者を丁寧に埋葬して呪術を行った形跡も残っている。レ・トロワ・フレール洞窟には、獣の皮をかぶって呪術を行うシャーマンの壁画(踊る魔術師と呼ばれている)が描かれている。

このような古代人の精神文化や埋葬風習からは、「肉体には事物を超えた霊的なものが宿る」という考え方や、この世とあの世を行き来する「循環的再生観」がすでに存在していたことが推測できる。

 

☆新石器革命

今から約1万年前、最後の氷河期が終わり自然環境の変化とともに「新石器革命(農耕・牧畜の出現)」が起こった。人類が見出した穀物を成育させるという農作業は、自然の中に耕作地という“人工的な空間”を作り出して行う作業なので、“空間の維持”には多くの労力と時間が必要になってくる。なぜなら放置しておくと自然に戻ってしまうからである。

たとえば植物を生育させる場合には水は必需品だが、そのためには耕作地に灌漑設備を設ける必要が生じてくる。さらに穀物の収穫量を増やすためには耕作地の“土作り”と、隣接地の開墾が必要になってくる。そのため農作業には、人々がお互いに助け合って作業を行わなければならない場面がしばしば登場する。このように農耕や牧畜の出現によって、人々は必然的に集まって農業集落を形成し、その集落内において「仕組み」や「しきたり」を設けるという形で一つの社会が生まれてきた。そして多くの農業集落が集まって一つの地域社会が形成されていった。

 

②.アニミズムと祖霊崇拝

☆縄文時代の遺跡から見える信仰形態

各地における遺跡の発掘調査から、古代人は「死者霊(祖霊)」を身近なものとして感じていたこと、そこから「祖霊の祀り→信仰・宗教」へ発展していったことが見えてくる。

1951年に文部省文化財保護委員会によって考古学上の発掘調査が行われた秋田県の大湯遺跡(野中堂遺跡、万座遺跡:縄文後期)では、ストーン・サークル(環状列石)が発見されている。この遺跡調査では、集落の中心に円形の広場が作られていること。その広場の周りには、高さ1メートル前後の自然石が環状に配置されており、そこに小規模な石造遺構が連続して存在していること。このような形で大きな環状に配置した二重の「環状列石」の存在が明らかにされた。その後1976年の調査では組石の下から土溝、甕棺や副葬品が発掘されており、円環の墓石群の石棒には動物を供物として捧げて焼いた跡が見つかっている。また発掘された残存脂肪分析などの結果から判断して、これらは埋葬施設の上に墓石として列石を施した墓地跡ではないかと推定された。

 

このような発掘調査からストーン・サークル(環状列石)の内側の中央広場は、先祖を祭る場であり共同体の祭祀の場であったことが推測されている。これら円形の墓石群の外側には「掘立柱建物跡」「竪穴住居跡」「貯蔵穴跡」が同心円状に形成されている。このように死者の空間と生者の空間が同心円状に同居しているのが特徴になっている。

 

☆縄文時代の信仰

青森県の三内丸山遺跡や秋田県の大湯遺跡、さらに各地で発掘された縄文時代の遺跡跡から、縄文人の生活の様子や信仰の形が見えてくる。遺跡から出土した祭りの道具は多彩である。代表的な出土品に女性を表す土偶と男性を表す石棒がある。出土した土偶はすべて女性像であり丁寧に埋葬されていることから、縄文人自身が動植物の再生や豊穣を祈るために用いたと云われている。また石棒は住居内の祭壇や炉辺に立てられており、屋外の施設からも出土している。

新潟県寺地遺跡(新潟県糸魚川市大字寺地)からは、焼けた遺骸を祭るために四柱付きの配石施設に石棒四点が設置されて出土している。これは「祖先祭と再生観念が結びついた事例である」と言われている。

 

縄文時代の信仰の特徴は、祖霊崇拝と動物や山川草木などの事物に魂が宿ると考えた精霊崇拝の信仰であった。なぜなら縄文人の主たる生業は狩猟・漁労・採集であり、これらは自然との共生で成り立つからである。また縄文人の祭りでは「再生と関連するものが最も顕著であり、祭る人と祭られる人、現実と神話の区別が未分離の段階であった」。なお当時の社会には「円の発想」があり、ここから連想して「平等社会があった」とも言われている。

 

☆弥生時代の信仰

弥生時代になると人々の定住化が進んで、稲作農耕が生活の中心となっていった。水稲耕作は必然的に太陽や水などの自然に頼ることになるため、人間と自然との共存的発想が生まれ、そこから農耕神や太陽神崇拝に繋がる農耕儀礼を生むことになった。また先祖に対しては、子孫に代々引き継がれてゆく農地を開墾して、そこから恵みをもたらしてくれたことに対して、一層の感謝の念が湧いてくる。このようにして稲作をベースにした生活基盤が日本全国に拡大していった。これによって共通した霊魂信仰や民間信仰が育まれていった。

縄文人が持っていた素朴な霊魂観や祖霊観は、弥生時代以降の稲作中心の農耕を経ていく中で、「素朴な霊魂観+精霊崇拝+先祖崇拝」などが結びついて、日本人の「神観」の原型が作られていった。

 

☆埋葬場所の移動

墓地の位置関係については、縄文時代の“大湯遺跡”では集落の中に存在していた。このことは生者の世界と死者の世界とが共存していたことを意味する。それが弥生時代中期の“大塚・歳勝土遺跡”では、墓地は環濠集落から離れた位置に移っており、ここから生者の世界とは別個に切り離された形で、死者の世界が設けられていたことが分かる。

 

周知のように肉体が腐敗していく時には強烈な臭気が発散される。この臭気は「霊媒体質者にとっては有害」であると言われているので、土葬の場合の埋葬地は集落から離れた場所の方が理に適っている。19世紀中頃の著名な霊媒W.S.モーゼスは、ある時二つの埋葬地の中間に位置する家に滞在したが、このことに関してモーゼスの背後霊から咎められた。これが『インペレーターの霊訓(続霊訓)』(注4)に載っている。

このことから考えて縄文時代と弥生時代では、生者と死者に関して思考や世界観に大きな変化があったこと、縄文時代から弥生時代にかけて霊的進歩が有ったことなどが見て取れる。次に古代社会における住民と「神」との関係(信仰・宗教)について見ていく。

 

③.古代社会における宗教

☆古代社会の先祖崇拝

フランス史学会の権威ヌマ・ドニ・フュステル・ド・クーランジュ(Numa Denis Fustel de Coulanges1830年→1889年)は、名著『ギリシア、ローマにおける宗教・法律・制度の研究(邦題:古代都市)』(注5)を1864年に著した。その著書の中で「竈と祖先との信仰」として、祖先を神と呼んで農作物が豊かで家運が栄えるようにと祈願する古代家族の宗教を述べた。

クーランジュの言う各々の家族によって血縁のある死者に対して崇拝が行われる「家族宗教」の神観と、「神」と「祖先」との間に明確な境界を持たず混然一体として扱う神道の神観(親→祖先→祖神)には共通性が見られる(注5)。

 

クーランジュによると古代ギリシア人やローマ人の家には必ず祭壇が据えてあった。その家の家長の神聖な義務として、その祭壇に昼夜の別なく火を灯し続けるという行為があったという。祭壇に火が消える時は全家族が死滅した時であるので、「竈が消える」ということと「家が絶える」ということとは、古代人の間では同じ意味を持っていた。

このような形態は古代のギリシアやローマ社会独自のものではなく、日本や東アジアでも同様に見受けられるもので、広く古代社会に共通する形態であった。

 

☆家族の宗教から部族の宗教へ

古代ギリシアでは「家族」という言葉を「竈のかたわらにいるもの」として、「同じ竈神に祈り、同じ祖先に神饌を捧げることを、宗教から許された人々の一団」という意味で使っていた。このことから古代の宗教で礼拝された「神」とは祖霊のことであり、実際には祖先崇拝という形の「家族宗教」を指していた。「家族宗教」ではその家の家長が祭司となって、祖先霊に対して灌祭(かんさい)を営んで生贄(注6)を捧げる義務があった。そのため家系の断絶はその家の宗教の廃絶、つまりその家の「神」が棄てられることを意味していた。このように「おのおのの神は一家族だけから礼拝された。つまり、宗教はもっぱら家族のものであった」(注7)。

そしてこのような「家族宗教」を維持したまま多くの家族が集まって、共通の祭祀を営み、祭壇に犠牲を捧げることによってより優れた「神」を作り出す、ということが行われるようになった。いわば「神」のランク付けの始まりである(→「拝一神教」「単一神教」「交替神教」等の形態の出現)。集合した家族は、共通の「神(→「守護神」の考え方へ)」によって一族が守護されると信じた。

 

さらにこのような一族が複数集まって、一つの大きな部族が作られた。この部族も結合のために独自の「神」を持ち祭壇を作って、そこに生贄を捧げて部族の守護を祈った。農耕地の拡大による収穫量の増加や家畜の増加は、その部族に繁栄をもたらして、多くの余剰生産物を生み出した。このような社会では、農耕や牧畜に直接携わらない“専門職(→たとえば王侯、宗教者、役人、職業軍人、技術者など)”を養うことができるため、社会の分化が促進された。古代の部族はそれぞれの信仰を携えて各地に分散して、その地で分業体制による新たな都市社会を形成していった。そのためこのような神観が古代地中海沿岸に留まらず中央アジアやインドにも広く及んだ(注8)。

各地に広まった都市社会(→生産地と消費地を分離した生産物を消費するだけの集落)は、安全保障や信仰・交易などの観点から複数集まって、次第に共通の文化を持った「文明圏」への形成に繋がっていった。

 

☆ライバル関係に立つ神(神殿)

大きな集団となった部族は都市を造り、その古代都市の中央には必ず神殿を設けた。他の部族も同様に都市を造り、自分たちを守護する「神」とそれを祀る神殿を設けた。古代社会では神殿を持つ都市だけが本当の意味での都市だと見なされた。ここから住民と「神」との密接な関係が見て取れる。「神」を祀る神殿には信者によって多くの家畜や貴金属などの供え物が捧げられて、その部族における富の集積所となった。これらの近隣都市における「神」や神殿は、相互にライバル関係に立っていた(→守護神VS守護神)。

 

古代社会において民は、「神」を崇拝して神殿に供え物を絶やさないように努めること、その見返りとして「神」から恵みを得るという関係が両者にあった。一般的な見返りの例としては、毎年多くの収穫物があること、都市が経済的に繁栄すること、戦争に勝利することなどがあった。そこには「神」と人間が「直接相対する密接な関係」があり(注9)、そのベースには御利益信仰があった。

 

古代の戦争は部族どうしの存亡をかけた戦いであると同時に、「神」と「神」との戦いでもあった。それぞれの部族は「我々の神は、我々を必ず勝利に導く」と確信して、「神」に勝利祈願を行い、戦士の士気を鼓舞して戦いに挑んだ。なぜなら兵力や戦闘技術に差がない戦いの場合には、団結力が戦闘の勝敗を決めることが多いからである(→われらの神は“戦いの神”であるので必ず勝利するというように、団結力を高めるために神が使われた)。

古代社会においては戦いに敗北するということは、自分たち部族が滅亡することを意味していた。戦いに負けた部族の都市や神殿は徹底的に破壊されて財産は没収された。たとえ生き残ったとしても奴隷として連れ去られて、戦勝国における重労働に使役されたり、神殿に生贄として捧げられることが多く、過酷な生活を余儀なくされた。

その結果、敗北した部族側の神は、「自分たちの神は勝利を約束したはずなのに、その約束を実行しなかった」「約束を守らないようなダメな神だ」として、生き残った者たちから「駄目な神、無能な神」として見棄てられることになった。このようなことから「戦争で集団が敗北するとその集団が崇拝していた神は死ぬ」ことになるため、「古代における戦争は神と神との戦い」でもあった(注10)。

 

④.霊肉実体二元論

☆ポルターガイスト現象

ポルターガイスト(騒々しい幽霊)とは物理的な原因がないにもかかわらず叩音(ラップ)がしたり、物品が宙を舞ったり、破壊したり、激しい音をたてたりする現象で、始まりの時と同様に唐突に終了する現象(→通常は二、三週間から二、三カ月で終息する)をいう。この現象は古くから知られている。

 

記録に残る最も古いものとしては、帝政ローマの文人で弁論家小プリニウス(Gaius Plinius Caecilius Secundus62年?~113年)の手紙の中に、哲学者アテノドロスが「アテナイにある広壮な、しかし悪い噂の立っていた呪われた屋敷」を格安の家賃で借りた話が載っている。それによれば「足首に足枷を手首に手枷をかけた、痩せ衰えた垢まみれの老人」の幽霊が騒々しい鎖の音をさせて出現して、アテノドロスを屋敷の中庭に案内した。そして幽霊の指示通りに庭を掘ってみたら、手枷・足枷状態の骸骨が出てきたという話である(注11)。

最も古い正式記録として、多くの書籍に引用されているポルターガイスト現象がある。その記録とは、東フランク王国の『フルダ年代記』(838年→901年)に記載されたもので、858年にライン川沿いのビンゲン付近の農家(夫婦と子供たちが住んでいた)で起きたポルターガイスト現象である。年代記によれば“悪霊”は石を投げて自らの存在を明らかにし、次いで「まるで男たちが総がかりで壁をハンマーで叩いたかのように、壁を揺るがして場所を危険にした」という。

 

ポルターガイスト現象は超心理学者の間では、「特定の人物(中心人物)の周辺で起こることが多く、思春期前の子供が促進的要因となって現象が起こりやすい」とされている(注12)。ただしスピリチュアリズムの観点からは、必ずしも全てのポルターガイスト現象が「思春期前の子供が促進的要因となって」発生するわけではないが。

スピリティズムの提唱者のアラン・カルデックは高級霊の聖ルイから、1860年にパリのノワイエ通りで起きたポルターガイスト現象(→石が飛んできてすべての窓ガラスが割られ、家人が見たこともないあらゆる種類のものが投げ込まれた事件)に関して、これらの現象が起きるためには霊媒体質者や攻撃対象者の存在が必要であるとの指摘を受けた(注13)。

 

☆シャーマンの存在

現代人は“自然現象に対する基本的な知識”を常識として持っているが、古代人はこれらの知識を持ち合わせていなかった。そのため自然現象を含むあらゆる自然物の中に霊的なものが宿るという「自然崇拝的信仰(アニミズム:animism)」を有していたことが知られている。

古来より世界各地には、この世と霊的な世界の交流を仲立ちする者として「シャーマン(巫者)」が存在していた。シャーマンは踊りや歌、呪文、太鼓、鈴などによってトランス状態に入って、卜占(ぼくせん)、予言、治病、祭儀などを行い、人々の宗教生活に深くかかわってきた。

 

日本をはじめ世界各地の民族の歴史をひもとけば、古代社会においてはその集落における折々の行事や差し迫った案件の処理に対して、多くの場合にシャーマン(巫者)が重要な役割を演じている。

宗教史や民俗学の知見などから、歴史を遡れば遡るほどシャーマンは「常民」の暮らしの中に溶け込んでいたことが知られている。このことから見てこの世には肉体以外に“霊的な存在”があるとする「霊肉実体二元論」に基づいた精神生活を、人々は長らく送ってきたことが理解できる。

 

☆霊的な存在の肯定

このように人間は古来より18世紀頃まで、この世界は肉体などの「物的実体」とは別個に霊や魂と呼ばれる「心的実体」が存在する、という考え方が主流を占めていた。そして人々は霊によって引き起こされる心霊現象を日常的に体験して、素朴な「霊肉実体二元論」的な世界観を持ち続けてきた。しかしこの世界観は西洋では近世(→ルネサンスから絶対王政期)以降、物質面の発達に伴って次第に後退していった。

 

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<注1>

■旧石器文化談話会編『旧石器考古学辞典、三訂版』(学生社2007年刊)199頁。

 

<注2>

■旧石器文化談話会編『旧石器考古学辞典、三訂版』(学生社2007年刊)87頁、200頁。

■最近の著書では、シャニダールの花粉の事実を取り上げても記述が「混入の可能性に触れた表現」となっている。

筆者が最近読んだ一般書の中にも「シャニダールの花粉」が取り上げられていた。長澤宏昌著『散骨は、すべきでない―埋葬の歴史から―』(講談社ビジネスパートナーズ、2012年刊)16頁~21頁参照。

――洞窟の奥深くにある墓の中の土から、キンポウゲやタチアオイなど少なくとも8種類の花の破片や花粉が確認されたのである。しかも、墓の周り(外周)の土からはそれらが全く確認されなかった。鳥や獣がこのように複数種類の花をまとめて洞窟奥の埋葬場所に持ち込むことは考えられないし、また墓の中だけにそれらが確認されたということから、ネアンデルタール人が死者に花を手向けたと考えられるに至ったのである。死者を葬るだけでも十分“人間らしい”のであるが、さらに花を手向けるという行為がすでに6万年前に行われていたとしたら驚きだ。この行為は、私たちが現在行っている埋葬供養と、全く同じだからである。ただし、この調査は今から50年以上も前に行われたもので、発掘の精度も今とは比較にならないくらい粗雑なものであるため、花粉の件については、コンタミネーション(混入)の可能性がささやかれていることも付け加えておく――。

 

<注3>

■再生観には「循環的再生観」と「一回性の再生観」がある。

何が再生するのかの問題は脇に置くとして、再生に関しては“イギリス系のスピリチュアリスト”と“フランス系のスピリチュアリスト”では見解が相違している。

◆循環的再生観

原初的な再生に関する理解は、春夏秋冬の季節サイクルや植物の芽吹きから枯死までの生育プロセスの観察と、大地の再生力への畏敬の念から生じたと推測され、埋葬という行為にも、「死者を母たる大地の中に戻すことによって生み直し(再生)を祈願するという性質が読み取れる」という。古代ギリシアや古代インドでは「生―死―再生という循環的再生イメージが転生思想として論理化された」。

中世キリスト教最大の異端であったカタリ派は、マニ教を経由してこの霊魂再生観を継承し、転生を信じていたことが知られている。インドでは前6、5世紀頃「霊魂再生思想に業(カルマ)の論理が組み合わされ輪廻再生説が理論化された」。あらゆる存在は過去生と因果で結ばれて生成を繰り返すという認識が成立した。「仏教はこのような存在を苦と観じ、苦から脱し涅槃の境地に達すること、解脱を究極の目標とした」という(星野英紀他編『宗教学事典』丸善2010年刊、436頁~437頁)。

◆一回性の再生観

星野英紀他編『宗教学事典』(丸善2010年刊)の記載によれば「ゾロアスター教の終末思想、その影響が推測されるバビロン捕囚後のユダヤ教、キリスト教およびイスラムに見られる復活は、世界の終末に最後の審判とともに起こることになっている。循環的な再生思想と違い、生前と同一の人格がただ一度復活する、一回性の再生思想である」(437頁)という。

 

<注4>

■近藤千雄訳『インペレーターの霊訓』(潮文社1987年刊)170頁~171頁。

モーゼスは二つの埋葬地の中間に位置する家に滞在した。このことをレクターと名乗る霊から咎められた。

――「最近の貴殿は墓地に漂う臭気に一段と影響を受けやすくなっているからです。その近辺で長時間寝たり呼吸したりしてはいけません。そこに発生するガスや臭気は鈍感な人なら大して害はないが、貴殿ほどに発達してくると有害です」「あたりの空気には貴殿の身体に有害なものが充満しています。肉体が腐敗していく時に強烈な臭気を発散する。それが生者の呼吸する空気に混入し、それに引かれて地縛霊がうろつきます。霊的感受性が過敏な人間にとっては尚さら有害です」――。

 

■墓地と生活空間との距離

谷口康浩著「祖先祭祀」:『心と信仰―縄文時代の考古学―』所収によれば、縄文時代の墓は大部分が非常にシンプルで、多くは集落の内部につくられている。これは縄文人が人の死を、特別なことと見ていたのではなく、身近なものとして見ていたことの表れであるという(200頁参照)。

遺跡の発掘調査によれば、縄文時代の人は墓を身近な場所に作り「死者を日常から切り離すことはせずに自分たちの生活空間の中に取り込んだ」が、弥生時代になると墓が生活空間から切り離されて、墓だけで一つの遺跡(共同墓地)を構成することが多くなり、住居内への埋葬はほぼ皆無になったという。ここから分かることは縄文時代と弥生時代とでは、人々の死生観が大きく変化してきたということである。

 

■キリスト教の聖遺物崇敬

キリスト教における「聖遺物崇敬」も、スピリチュアリズムの観点から見れば問題がある。

キリスト教の「聖遺物崇敬は殉教者信仰に端を発し、当初は私的な側面が強かった」(秋山聰著『聖遺物崇敬の心性史』講談社2009年刊、31頁参照)。すでに2世紀には一部の殉教者の墓の上に「信徒共同体の祈りのための建物」が建てられていたという。これは縄文人が死者を埋葬した土地の上に、モニュメントとして「配石遺構」を設けたことと共通している。

後の時代になるとキリスト教の教会では殉教者の遺体が、聖遺物として郊外の墓地から掘り出されて教会の祭壇に埋葬された(→骨だけになっている場合は有機物が分解する際に発生する腐敗臭の問題はなくなる)。「五世紀初頭には祭壇への聖遺物の埋葬は広く普及していたようで、411年の第五回カルタゴ教会会議では、聖遺物ないし聖遺物が存在しない殉教者記念教会を受け入れてはならない旨の決議がされている」(『聖遺物崇敬の心性史』42頁)。聖遺物に限らず著名な信者が、街中の教会や修道院に埋葬(土葬)された記録も数多くある。著名な信者と言っても遺体が分解する際に発生する腐敗臭の問題はあるので、スピリチュアリズムの観点から見れば問題がある。

 

■フュステル・ド・クーランジュ著、田辺貞之助訳『古代都市』(白水社1995年刊)の記載によると、ギリシア、ローマの古代社会には次のような風習があった。

「家屋の中に遺骸を埋葬するのは極めて遠い古代からの風習であった」「この風習によって家屋の中に氏神や守護神を祀った」「この文章(文法学者セルヴィウスの文章)は古代の死者崇拝と竈との関係をはっきり証明するものである。それゆえ、一家の竈がその源では死者の崇拝に他ならなかったことや、竈の石の下に祖先が憩っていたことや、祖先を祀るために火をたいたことや、その火が祖先の生命を持続するように思われたことや、あるいはそれが四六時中万事に心を配る祖先の霊魂をあらわしていたことなどを想像できるのである」「確実なことは、ギリシア人やローマ人の祖先である民族に、はるかな太古の時代から、死者と竈とを礼拝する信仰があったことは事実である」(前著64頁、65頁)。

縄文人が墓地を生活空間の中に取り入れて、円形の墓石群として祀っていた現象と、ギリシア、ローマの古代人が祖先崇拝を竈石によって行っていた現象とは共通するものがある。またキリスト教が、聖遺物や著名な信者を街中の教会や修道院に埋葬(土葬)する風習とも相通ずるところがあって興味深い。

 

<注5>

■フュステル・ド・クーランジュ著、田辺貞之助訳『古代都市』(白水社1995年刊)。

原題は『ギリシア、ローマにおける宗教・法律・制度の研究(邦訳:古代都市)』。

■前著によれば「イタリア人やギリシア人の最古の信仰に従えば、霊魂は現世と全く違った土地へ行って死後の生活を営むわけではなく、人間の間近に止まって、地下で生活を続けるのである」(42頁)。さらに「古代人の考えでは、死者は神であった」「悪人も善人もひとしく神に祀られた。ただし悪人は他界にあって現世と同様の悪い性質を保存していた。ギリシア人は死者に対して好んで“地下の神”という尊称をあたえた」(51頁)。また「キケロによれば、古代人は竈神と氏神、氏神と守護神とを区別しなかったという」「竈には死者の追憶が必ず結び付けられていた。したがって、一方を礼拝しながら他方を忘れることはできなかったから、この両者は人々の尊敬と祈願のうちに一体をなしていた。古代人の子孫らも、竈について語るときには、好んで祖先の名を思い起こした」(64頁)という。

 

<注6>

■犠牲、供犠(くぎ)に関して、古代イスラエルでは動物犠牲を重視していた。旧約聖書ではアブラハムの息子イサクの代わりに、神から与えられた雄羊が生贄として捧げられた(創世記22913)。また“過越(すぎこし)祭”においては、小羊が犠牲として差し出されたとの記載が旧約聖書にある。「出エジプト」には「家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない」「(小羊の)血をとって、小羊を食べる家の入口の二本の柱と鴨居に塗る」(12章)との記載がある。

旧約聖書にはたびたび血の話が出てくるが、「古代西アジアの動物犠牲の中で血の重視はイスラエル特有」(『岩波キリスト教辞典』259頁)の現象であるという。

 

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、7巻』142頁~143頁参照。

犠牲の思想に関してシルバーバーチは次のように述べている。「太古においては人間は環境についてほとんど知識がなく、自然現象について全く理解していなかったために、何もかも神さまの仕業にしておりました。その神さまについても人間を大きくしたような存在としてしか想像できませんでした。そこに犠牲の思想の原点があります。雷が鳴り稲光がすると神さまが怒っておられるのだと思い、その怒りを鎮めるためにいろんなお供えをするようになった」「何かすごく大きな人間の男性のような姿をした神さまが宇宙をこしらえたのだという概念が、何十世紀もたった今もなお存在しております」。

この「神⇔人間」という神観が、長年人間が抱いてきた神のイメージであり、そこに犠牲の思想の淵源が見られる。

 

<注7>

■フュステル・ド・クーランジュ著、田辺貞之助訳『古代都市』白水社1995年刊、57頁、68頁、78頁参照。

 

<注8>

■フュステル・ド・クーランジュ著、田辺貞之助訳『古代都市』白水社1995年刊、176

他、参照。

 

<注9>

■近藤千雄訳『霊的新時代の到来―シルバーバーチの霊訓』(スピリチュアリズム普及会)46頁参照。近藤千雄訳『地上人類への最高の福音―シルバーバーチの霊訓』(スピリチュアリズム普及会)47頁参照。

シルバーバーチは「大霊による直接の関与などというものは絶対にありません」(到来46頁)として、神の直接関与を否定している。神と人間との関係は、「神」⇒「法則」⇔「人間」であると述べる。また信心深い人が抱く信条に対して「神が慈悲深いということを、どこのどなたが説いておられるのか知りませんが、神とは摂理のことです。究極においては慈悲深い配慮が行き渡っております」(福音47頁)とも述べている。このように「法則としての神」を前面に出すことによって、奇跡や依怙贔屓等による例外は一切存在せず、人間を含めた万物に公平に神の愛が行き渡ることになると説く。

 

■近藤千雄訳『インペレーターの霊訓(続霊訓)』(潮文社1987年刊)43頁参照。『インペレーターの霊訓』では、次のように述べてキリスト教を批判している。

――大半のキリスト教徒は自分たちこそイエスが保証した天国の継承者であると思い込み、神は自分たちのために生き自分たちのために死すべく唯一の息子を送ってくださったと信じていること。また自分たちは神の直属の僕によって授けられたメッセージの啓示を受け、かつてそれ以外のメッセージが人類に授けられたためしはないと信じていること、さらにまた、その自分たちのみ明かされた教義をインド、中国人、そのほかの異教徒すべてに説くことが自分たちの絶対的義務であると思い込んでいること。そして、その啓示は完全にして、神の最後のお言葉であるとまで信じていることです。そのような、間違っていると同時に独善的な言説は即刻捨て去るがよろしい。最高神がそのような偏ったえこひいきをなさることは有り得ぬことです。・・・いつの時代にも、それぞれの時代の特殊な事情に応じて神の啓示が授けられているのです。そのいずれの啓示にも、中核をなす重大な思想が盛られております。スピリチュアリズムと呼ばれているものは、それらを一つにまとめた総合的思想なのです。これまで断片的に啓示されてきたものを集められ、スピリチュアリズムの名のもとに、偏りのない一個の集合体としたもののです――

 

■西洋の歴史はキリスト教をベースにした歴史であった。西洋人の中には、今でも一神教を信仰していない、または受け入れない文化は「未開であり野蛮である」との意識を持った“時代遅れの人”がいる。キリスト教の伝道の歴史は、このような「未開で野蛮な地にある人たちの魂を救う」ため、その地を「文明化」させてキリスト教に改宗させる責任があると信じて、アジアやアフリカの各地において伝道活動を行ってきたものであった。このように一神教たるキリスト教には、しばしば独善主義や排他主義が顔をのぞかせる。

 

■霊的真理が普及することによって、一神教徒や多神教徒、さらには拝一神教徒たちが抱いている「神⇔人間」という神観は誤りであることが明らかになっていく。

人が何を信じようと、どのような信仰対象を持とうと、その対象に対して何を祈ろうと、筆者はいっこうに構わないが、祈りが霊的摂理に合致(→つまり「神→霊的摂理⇔人間」のこと)していなければ叶えられない点だけは事実である。霊的真理が普及していくに従って、この点が明確となってくる。

したがって一神教や多神教を問わず既成宗教の神観が霊的真理に則った神観に転換されない限り、宗教の独善主義や排他主義はなくならない。このようにして霊的真理が普及して、霊的観点から見た本来の神観が理解されるに伴って、従来の神観が質的に変革されることになり、地上世界が大きく変わっていくことになる。

 

<注10

■加藤隆著『旧約聖書の誕生』(ちくま学芸文庫、筑摩書房2011年刊)230頁~参照。

 

<注11

■プリニウス著、国原吉之助訳『プリニウス書簡集』(講談社学術文庫1999年刊)290頁~295頁参照。

 

<注12

■ディヴィッド・ヘス「抵抗と信念」:笠原敏雄編『超常現象のとらえにくさ』(春秋社1993年刊)所収485頁~参照。

これによれば「ポルターガイスト現象を引き起こす家族には、緊張や敵対心が満ちている場合が多いとして一般に認識されている」という。

■明治大学教授の石川幹人氏によれば、「その人物が外出していたり、眠っていたりすると現象が起きないことから、容易に特定できるとされている。そして、現象を発生させていると疑われる人物は、典型的な特徴を持っている。(すべてではないが)ほとんどが未成年であり、67割が女子であり、大部分は家庭環境に問題を抱えている(両親の離婚、再婚、養子にされるなど)。そして多くは親から精神的に疎外されていて、親への敵意をもっている」(参照:http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/7-4.htm

 

<注13

■アラン・カルデック編、近藤千雄訳『霊媒の書』(スピリチュアリズム普及会1996年刊)108頁~116頁参照。

カルデックは交霊会を開いて、1860年にパリのノワイエ通りで起きたポルターガイスト現象を起こした“低級霊(地縛霊)”を呼んで、現象の舞台裏を質問した。

カルデックは高級霊の聖ルイから「あの種の現象には必ず攻撃の的になっている人物がいるものです」「そういう人物がいなければ、あのような現象は起きなかったであろう」「霊媒的体質を持つ者がいない限りは大人しくしています」(→但し霊媒体質者の存在は絶対的な要件ではないが)と指摘された。これは超心理学者の間で定説となっている「一般にポルターガイストは特定の人物の周辺で起こる現象」ということと関連性が見られる。

カルデックはポルターガイスト現象を起こした地縛霊に「あなたのイタズラに協力した誰かがいたか」と尋ねた。すると地縛霊は「いたとも。オレにとっては大事な道具でな」「メードの一人さ(そのメードはそうとは気づかずに協力した)、気の毒だけどな」「あのメードの電気性のエネルギーをオレのエネルギーにつなぐのさ。オレのエネルギーでは濃度が薄いからだよ。すると物体が動かせるんだ」と答えている。このようにメードの幽質と地縛霊の幽質とがミックスされて、それがエネルギー源となってポルターガイスト現象が引き起こされた。

 

 

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