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ラフカディオ・ハーンについて

◆浅野和三郎との出会い

浅野和三郎とラフカディオ・ハーン(小泉八雲)との初めての出会いは、ハーンが帝国大学文科大学講師の辞令を受けた最初の講義(明治29年:1896911日)であった。この後浅野はラフカディオ・ハーンからさまざまな影響を受けた。この項目ではラフカディオ・ハーンの出生から死去までの主な出来事をまとめてみた。

 

①.ラフカディオ・ハーンとは

☆家族関係

パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn1850年→1904年、日本名は小泉八雲)は、1850627日、イギリス保護下のギリシャのイオニア諸島北部のレフカダ島(旧名:サンタ・マウラ島)のレフカダ(旧名:リュカディア)で生まれた。父チャールズ・ブッシュ・ハーン(Charles Bush Hearn1819年生)はアイルランド人(国籍は英国籍)でギリシャ駐在の英国陸軍第45ノッティンガム歩兵連隊に所属する軍医補。母ローザ・アントニア・カシマチ(Rosa Tessima1823年生)はギリシャ人で、イオニア諸島の一つキシラ島(旧名:セリゴ島)の旧家の娘。この父母の次男として生まれた(→長兄ロバートは1歳で死亡している)。

 

18528月にハーンは、2歳でアイルランドのダブリンに渡り、1854年(4歳のとき)に母親は出産のためキシラ島に帰国(→この後母とは永遠の別れとなった)。8月に弟ジェイムズ・ダニエル・ハーンがキシラ島で生まれた。父チャールズは1857年(または1856年)ローザとの結婚無効を申し立てて離婚し、7月にアリシアと再婚し、新妻と子供2人を伴ってインドに赴任し、以後ハーンとは二度と会うことはなかった(→ハーンは家庭的にはあまり恵まれていなかった。父は186611月に死去)。

 

☆左目を失明する

18639月、英国ダラム市郊外のアショーにあるカトリック系の全寮制学校セント・カスバート・カレッジに入学。1866年校庭で「ジャイアント・ストライド」と呼ばれる遊戯をしているときに、飛んできたロープの結び目が左目に当たり失明した。これ以降ハーンは、左目の失明のために容貌の劣等感に一生さいなまれ、正面を向いた写真を撮られることを拒むようになったという。

その後、フランスに留学してルーアン近郊のイーヴトーのカトリック系の学校に入ったが、校則が厳しすぎたため中途退学(18歳の頃)した。ハーンの養育者である大叔母ブレナン夫人(→父の母方の叔母)が破産したために、1869年英国のリヴァプールから移民船に乗ってアメリカに渡った。

 

②.新聞社「シンシナティ・インクワイアラー」の記者時代

☆日雇い労働から記者へ

1869年にハーン(19歳)の親類の一人から、アメリカ・オハイオ州シンシナティの親類の家に行けば下宿と職の斡旋をしてくれると勧められた。ハーンはその勧めに従って、ニューヨーク行きの客船の片道チケットを受け取ってシンシナティの親類を訪ねた。

しかし2~3ヵ月の間、親類から少額の援助を受けたが厄介者扱いされたため、屈辱に耐えかねて尋ねるのを止めた。日雇い労働をして飢えをしのいでいた頃、生涯親父とよんで親交をもったヘンリー・ワトキン(Henry Watkin)と知り合った。ワトキンの印刷屋で2年間働いた後、シンシナティ・インクワイアラー社(Cincinnati Enquirer)の面接を受けた。編集長コッカリルは、日頃から才能があって安く使える“モノ書き”を探していたところにハーンが訪れたので、パートの記者として採用(187211月)した。当初はパートの記者だったが1874年初頭に正式社員になった。

アメリカ時代(1869年→1890年)はハーンにとって下積みの時代であった。1874年に日刊新聞シンシナティ・インクワイアラー社に記者として採用されるまではどん底の生活を送ってきた。187711月からニューオーリンズに移りデイリー・アイテム社の記者を経てタイムズ・デモクラット社に移り、同社の文芸部長となった。

 

③.ラフカディオ・ハーンの結婚生活

☆結婚生活の破たん

ハーンはシンシナティの下宿先の黒人混血の子持ち女性マティ(本名:アリシア・フォーリー)と、周囲の反対を押し切って聖公会の黒人牧師の立ち会いの下で18756月に結婚した(当時ハーンは25歳、マティは21歳)。結婚に踏み切ったのは、ハーンの正義感(→当時の黒人差別と異人種間の結婚は無効とする制度の存在)とマティの境遇に同情したことがその理由であり、「結婚を理想化したもの」であったという。このように無理をした結婚も、マティの自堕落な性向のためまもなく破たんした。

当時のオハイオ州法では黒人と白人との結婚は、1877年まで違法とされていた。またハーンの勤務先のインクワイアラー社は、南北戦争(1861年→1865年)では南部の奴隷制度を支持し、リンカーン大統領の政策に反対していた。この時期のアメリカ南部は人種差別が公然と行われていた社会であったため、会社関係者には結婚の事実を隠していたが、まもなくハーンの異人種間の結婚が知れて18758月に解雇になった。

解雇されたハーンは「シンシナーティ・コマーシャル(Cincinnati Commercial)」社へ移って(18758月~187710月)、怪談話の記事や波止場の黒人雑役夫から情報提供を受けて記事を書き、糊口をしのいだ。

ハーンは187710月に、マティとの結婚が破たんしたためニューオーリンズに向かったが、シンシナティを離れる際に「親父さん」と呼んでいたワトキンにあてた手紙(関田かおる編『知られざるハーン絵入書簡』雄松堂出版1991年刊、25頁以下)に、マティとの結婚生活のことが綴られている。

なんとかしてマティを立ち直らせようと努力したハーンの心情を綴った文章には感動する。

 

☆遺産の分配を訴えた

ハーンの死後マティは未亡人として1906年に遺産の分配の訴えを起こしている(→当時マティは1880年にシンシナティで再婚しており、アリシア・フォーリーと名のっていた)。1906714日付のインクワイアラー紙にマティの言い分が「ラフカディオ・ハーンの法的な妻だと申し立てたニグロ夫人の主張」として掲載された。それによるとマティはハーンがシンシナティを離れる1877年までは婚姻関係を保っていたと主張したが、裁判所はオハイオ州法では1877年までは白人と黒人との結婚は違法とされていたため、結婚そのものが無効であり訴えは認められないと却下した。

マティの暮らし向きは、彼女の性格や当時の黒人が置かれた社会状況から考えて、楽ではなかったと思われる。そんな時、日本で名をなした昔の「夫」の死を知って遺産の分配請求をした。それから百年後、黒人の大統領が誕生するまでにアメリカ社会は大きく変化した。リンカーンの奴隷解放宣言から公民権運動を経て今に至るまでの「意識の変化」の歩みは遅いが、「世紀」を単位として見ると徐々に、そして着実に進展しているのが分かる。

 

④.ラフカディオ・ハーンと交霊会

ラフカディオ・ハーンにはスピリチュアリズムや神智学に関しての知識があり、交霊会に参加した体験もあった。シンシナティ・インクワイアラー紙の記者時代は、貧民街・移民街・黒人街など下積み階層から拾った話題を記事にしていたが、その中に心霊を話題にした記事も含まれていた。ラフカディオ・ハーンは心霊に関する会合(交霊会含む)に出席し、関係する図書を読んで記事を書いていた。

1875125日の記事は、ラフカディオ・ハーンの父の霊が交霊会に出て、息子に詫びたことを探訪記事にしたものであった。この交霊会の模様は、『ラフカディオ・ハーン著作集、4巻』(恒文社1981年刊)に「霊に交わりて」として収録されている。本稿ではシンシナティ・インクワイアラー紙(18721875)の記者時代の原稿をまとめた『“怪談”以前の怪談』(同時代社2004年刊)に「死霊の狭間で」(副題として「バァ通りの異常な心霊現象インクワイアラー紙の記者、その亡父と交信」)として収録されているので、ここから主な部分をまとめてみた。

 

――記者(ハーン)は心霊関係の友人の忠告(霊は肉体的・精神的に不潔な人を嫌悪する)に従って、交霊会に参加する前に浄化の儀式(禊)を行った。交霊の儀式の準備は前回報道(→118日の「気まぐれな霊」の記事)した記述とほぼ同様であり、会場の部屋を子細に調べて、言われたとおりに霊媒師を縄で縛りつけた。錫製の漏斗が床の中央に置かれてガス灯が消され、参加者は車座になって交霊会が始まった。始まって1時間半ぐらい過ぎたころ、記者の右大腿部の下部、次に膝あたりを急ピッチでトントンと指で叩かれるのを感じた。そして漏斗が起き上がり記者の膝の上に置かれ、次に霊媒師のもとに移動した。再び漏斗が記者の顔前10センチ程のところに浮かび上がり、言葉を発した。「チャールス・ブッシュ・ハー・・(聞き取れず)・・」「私はお前の父・・(聞き取れず)・・」と聞こえた。そして「許してくれ」「本当に許してもらいたい事があるのだ」。その内容は「お前がよく知っているはずだ」「私はお前に悪い事をしてしまった、許してくれ」と大きな声ではっきりとした囁きだった。記者と亡父との再会はこれで終わった――。

ハーンの父が霊界(幽界)において霊的に覚醒して向上していくためには、「息子の遺棄」というカルマ(→カルマとは因果律のことだが、ここでは“マイナスのカルマ”のことを指す)が足かせとなって重くのしかかっていた。このカルマを解消させるためには、当事者であるハーンに対して、なんらかの「謝罪」や「罪の償い」が必須条件であった。ハーンの父にとって交霊会における息子との再会は絶好のチャンスであったといえよう。

 

⑤.小泉八雲となる

☆民俗学への関心

アメリカ時代の民俗学的な関心は、シンシナーティ・コマーシャル社時代に書いた記事(ブードゥー教や超自然的伝承を題材とした記事)からも見ることができる(ドリー、バンジョー・ジムの物語など)。さらにニューオーリンズ時代は、「超自然的伝承」の採集を行っている(民俗学者の先駆けとされている)。また『中国霊異談(Some Chinese Ghost)』を1887年に出版している(日本語訳:平井呈一訳『中国怪談集』恒文社1976年刊、242頁~所収)。

 

☆日本での生活

ラフカディオ・ハーンが来日するきっかけとなったのは、チェンバレンの英訳『古事記』や1888年に出版されたパーシヴァル・ローウェルの『極東の魂』(川西英子訳、公論社1977年刊)を熟読したからであった。ハーンはハーパー社との間で訪日取材の契約を結んだ。そしてモントリオール経由で明治23年(1890年)4月に横浜に到着した。

到着後、18908月島根県尋常中学校および師範学校の英語教師となる契約を結び、ハーンの松江時代(18908月→189111月)が始まった。この年ハーンの身の回りの世話のために松江の旧藩士小泉湊の次女のセツ(18682月生)が雇用された(→明治2312月に結婚した)。その後189111月に熊本(熊本時代:189111月→189410月)の第五高等中学校に着任した。さらにその後、189410月に神戸(神戸時代:189410月→18968月)のクロニクル社に転職した。この頃、ハーンは家族のことを思って日本に帰化する決心をした。

 

1896年(明治29年)210日帰化手続きが完了してパトリック・ラフカディオ・ハーンは日本国籍を取得して、小泉八雲と改名した。「八雲」とは、妻セツの養祖父の稲垣万右衛門が『古事記:神代篇、その3』にある日本最古の和歌「八雲立つ出雲八重垣夫婦隠みに八重垣作るその八重垣を」から取って名付けたと言う。

そして189692日に帝国大学文科大学講師の辞令を受けた。東京時代(18969月→19049月)の始まりである。911日に初講義をおこなった。この講義を受講した学生の中に浅野和三郎がいた。

ハーンは1903年(明治36年)331日東京帝国大学文科大学講師を辞して、翌年1904年(明治37年)2月に早稲田大学の勤務を受託して、37日文学科講師として講義を行った。しかし同年926日に心臓発作により逝去(享年54歳)した。

 

⑥.小泉八雲に関する参考文献

1.田部隆次著『小泉八雲』北星堂、1980年刊(第4版)

英文学者の田部隆次は小泉八雲の東京大学での最初の教え子の一人であり、八雲の伝記作家として知られている。

2.昭和女子大学近代文学研究室著『近代文学研究叢書、7巻』(1957年刊)

同著284頁~514頁参照。この著書には小泉八雲の「著作年表(301頁~384頁)」や「資料年表(429頁~504頁)」、その他の各種資料が豊富に載っている。

3.キャメロン・マクワーター、オウエン・フィンセン共編、高橋経訳『“怪談”以前の怪談』同時代社、2004年刊

シンシナティ・インクワイアラー社で新聞記者として活躍していた時代の代表的作品「皮なめし場殺人事件」を含む記録集。

4.小泉八雲著、平井呈一訳『中国怪談集』恒文社、1976年刊

ニューオーリンズのデイリー・アイテム社時代に書かれた作品等が収録されてい る。

5.平川祐弘監修『小泉八雲事典』恒文社、2000年刊。

 

 

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