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1.金塊引揚詐欺事件

目 次

ア)金塊引揚詐欺事件

・琉球と薩摩との関係

・沈没船「松保丸」をめぐる状況

・透視による財宝引き上げ

・危機に立たされた三田光一

・川端康成の「三田光一」観

イ)事件の背景

・甲山繁造氏の見解

・二つの事実

・事件に対する「心霊懐疑論者」の見解

ウ)無神論者から信仰の人へ

・信仰の人へ

・死の直後の“幽体”を見て驚く

 

<注1>~<注11

 

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ア)金塊引揚詐欺事件

☆琉球と薩摩との関係

三田には「金塊引揚詐欺事件」という汚名があるが、この背景には琉球と薩摩の歴史的な関係が存在する。江戸時代の琉球王朝は薩摩藩(島津家)に対して、莫大な貢物しなければならない定めがあった。1600年頃の琉球王朝では、王朝存続の為に江戸幕府や薩摩藩(島津家)とは距離を保って、明との冊封・朝貢関係を維持しようとする外交方針を持っていた。これに対して薩摩藩では、豊臣秀吉から1592年に琉球を軍事支配下に置くことが認められて以降、琉球を従属国とみなしてきた経緯があり、王朝の外向方針を認めるわけにはいかなかった。

 

1600年代初頭、琉球と薩摩藩・幕府との間に緊張が走った。この背景には“朝鮮の役”当時、琉球王朝が負担すべき軍役につき薩摩藩の意向に従わなかったことや、琉球貿易を薩摩藩が独占しようとすることへの王朝側の抵抗。薩摩藩側の事情としては南西諸島に対する領土的野心。さらに江戸幕府側の事情としては“朝鮮の役”で中断していた明との貿易の復活交渉役に琉球王朝を当てて臨もうとした思惑(→幕府はその説得を薩摩藩に任せていた)。このような要因が重なって薩摩藩の琉球侵攻が始まった。

 

薩摩藩は1609年3月に兵を送り、奄美大島・徳之島・沖縄本島と次々と攻略して、同年5月首里城を陥落させた。捕虜となった国王の尚寧は、島津家久に伴われて駿府の家康、さらには江戸城において将軍秀忠と会見させられた。その一連の会見において今回の薩摩藩(島津家)の琉球侵攻の原因は、従属国としての義務を怠った琉球側に非があるとして、幕府は薩摩藩の琉球支配を正式に認めた。

これによって薩摩藩は1611年9月に奄美諸島を併合し、さらに琉球国内(沖縄本島以南)の検地を行って琉球王国の総石高を確定させた。この石高確定によって、琉球王国の総石高から薩摩藩への貢物の額が取り決められた。内訳は年貢米9000石・芭蕉布3000反・琉球上布6000反・同下布1万反・むしろ3800枚・牛皮200枚などを、薩摩藩に納めることになった。「金塊引揚詐欺事件」にはこのような歴史的な背景があった。

 

☆沈没船「松保丸」をめぐる状況

慶応3年8月、琉球王国は薩摩藩への貢物を満載した松保丸を宝船に仕立てて、琉球を発って鹿児島に向かわせた。この途中の海域には、口之島から宝島までの約130キロに及ぶ海の難所である七島灘があった。松保丸は七島灘の中之島沖合で暴風雨に会い慶応3年1017日朝(注5の文献①参照)、貢物を満載した状態で沈没した。のちに島津公に提出された松保丸の遭難届書に添付された積荷目録には、「金一万両入り25箱、丁金128百匁入48箱、唐渡銅銭12貫入三百叺(かます)、天保銭12貫入五百叺、水銀12貫入12壺、平朱金千両入12箱、二分金千両入20箱、その他重要陶器約1000万円相当」となっていた。

 

積荷がこの目録の内容どおりに本当に積載されていたのかについて、甲山繁造氏は「このような苛酷な税金の取立に逢っては、何とか脱れる術を考えねばならぬのは今も昔も変わりはなかった。琉球政府にも智慧者がいてわずかの本物に大半の偽物(鉄屑、石ころ、網の重りに使った古鉛など)を混ぜて一隻の宝船に仕立て、七島灘の難所で沈める事は予定された筋書きであったらしい事が後になって判明した」(注1)と述べている。

 

この沈没した松保丸に積載された積荷が“莫大な財宝”であったことが知れ渡ると、積荷の引揚をめぐって色めき立つ人達が多くいたという。その中の一人に、サンゴ採集の目的で七島灘に来ていた静岡県御前崎の漁師5名がいた。この漁師たちは「宝船」沈没の話を聞いて、さっそく地元の人に現地を案内させて、沈没現場海底から馬蹄銀13貫8百匁入3箱を引揚げて窃取(→積荷は無主物ではなく所有権を有する者がいるから)した。しかしこのことが発覚して明治23年7月17日鹿児島の裁判所で有罪判決を受けた。この記録が残っている。

 

沈没船の松保丸の権利は明治14年に、薩摩藩の島津藩公から当時の船方奉行であった西田喜七郎と山下仁平次の二人に譲渡されていた。ところがいつの間にか「権利証」が二通となって転々として、最後に大牟田市の武藤某と鹿児島市の東郷某に移った。その間に何度か引揚作業が試みられたが、正確な沈没箇所が不明であったことと、資金不足で作業が中断していた。そこに現れたのが透視能力者の三田光一であった。

 

☆透視による財宝引き上げ

三田の透視能力を使った沈没船の財貨引揚作業には「山口県大野郡沖合に沈没した大阪丸」「朝鮮仁川沖に沈んだ高陞号」「佐世保港外で沈んだロシアの軍艦」等があり、この分野に於いて相応の実績があった。このような経歴を持つ三田のもとに、一獲千金を夢見た関係者から「松保丸の積荷引揚」の依頼が舞い込んで来た。三田はその依頼を快諾した。実績ある透視能力者が参加する引揚作業ということで、大牟田市と福岡市にそれぞれ「松保丸引揚株式会社」が設立されて、積荷引揚のための資金集めが大々的に行われた。三田もこの沈没船に積まれた莫大な財宝引揚は「国家的大事業」に当たるとして、自信満々に新聞雑誌に宣伝した。

 

著書『霊観』(三田善靖著)を読んでみれば、三田には「国家のため」という意識が人一倍強いことが見て取れる。この意識と自身の能力への過信とが相まって“安請け合いの発言”をさせてしまったのであろう。その発言は思わぬ宣伝効果を生み、結果的に引揚会社の株価高騰をもたらした。著名な透視能力者の御墨付きを得た引揚事業であり成功は間違いなしとして「引揚会社の株価は最初1250銭払込のものが、登りに登って200円台を超す状勢となった」という(注2)。

このように湧き立つ状況の中で大正15年3月に、三田は自覚会の谷中将を作業部監督として、他に潜水夫数名を引連れて現地に赴いた(→引揚作業に三田の身内以外の第三者を監視役に同行させた記述はない)。

 

三田は現場近くの孤島に作業小屋を設けて、そこから潜水夫に「君が今日探していた場所の右手の方に大きな岩があったろう、あの岩から5・6間左手の方を明日は探して見てくれ」(注2)と云う具合に、潜水夫たちの作業に対して指示を与えていた。このような宝探しの作業が4ケ月続いた。この期間に引揚げられたものは、「僅かばかりの牛舌型の丁金・殆んど腐食した天保銭、投網の沈モリに使用した鉛、岩石に腐着した鉄屑といった種類のもので金の延べ棒などは揚がってこなかった」(注2)。

引揚作業が進行して行く中で海底の岩石を爆破する必要が出てきた。そのためダイナマイトの入手とその使用許可願の為に、三田は現地の作業小屋から鹿児島に一度戻っている。三田は「県の保安課に出頭した時に、警察部のオエラ方や新聞記者を前にして、“今しばらくお待ちください。金色のサンゼンたる延棒をアナタ方に真先にお目にかけますよ”と何気なく冗談交じりに放言した」。この一言が「(当時の)刑事部長N氏の耳に深く刻み込まれていた」(注2)。

 

☆危機に立たされた三田光一

三田は透視によって松保丸の沈没位置を突き止めて、その海域を潜水夫によって丹念に探させたが「目ぼしい金物は揚がってこなかった」。このように連日にわたる“空振り”が続き、現場での宝探しの作業は長引いて費用もかさんでいった。このような状況に三田はこれ以上作業を継続しても無駄である事が分かってきた。

作業が長引く中で「九州本土から状況報告の使者として、新某なる人物が現場にやってきた。そしてその人の口から、九州や本土では金塊引揚ブームが起こっていることを聞くに及んで、三田さんの心中は麻の如く乱れた」(注3)という。この頃の九州や本州の新聞・雑誌には、金塊が引揚げられたという憶測記事(事業主の株価操作か?)が大々的に書きたてられて、引揚会社の株価も鰻登りに高騰していった。

 

このような状況に進退極まった三田は、腹をくくり4ケ月続いた引揚作業を断念して、引揚げた石ころや鉄クズ等を一緒にして箱詰めにして、厳重な封印を施して「石ころを金塊なりと称して持ち帰った」。なぜこのような直ぐにばれてしまう嘘、それも詐欺罪に問われるような嘘をついたのか。この間の心理状態を推測するに、三田自身「著名な透視能力者である」というプライドを有するが故に引揚失敗は許されないという思いが強く、自らを精神的に追い詰めてしまい、正常な判断力が麻痺してしまったのではないだろうか。

一行は7月17日鹿児島港の桟橋に戻ってきた。到着する鹿児島港の桟橋では、凱旋将軍を迎えるような騒ぎであったという。なお川端氏の著書「琉球王の金塊引揚事件」では、この間の事実関係が異なっており、鹿児島港到着日も「大正15年8月9日午前10時、八千代丸は鹿児島港第二桟橋に着く」となっている(注5)。

 

「金塊入り」と称する5個の箱はなぜか分散されて、2個が十五銀行鹿児島支店に預け入れられ、残りの3個は南薩銀行枕崎支店に預けられた。鹿児島県警察部は当初より三田の「透視術」や鳴り物入りの宣伝に疑いを持っていた。さらに持ち帰った金塊を県庁に運ばないで銀行に預託した三田の行動も疑われる原因となった。

警察は鹿児島地方裁判所から証拠物件押収の令状を取って、持ち帰り預託した5個の積荷の箱を裁判所に運び、そこで開封した(→預託した経緯や開封状況については、川端氏は著書の中で別の見方をしているが)。箱から出てきたのは金塊ではなくガラクタであったので、当然に三田は逮捕拘留された。

この事件の裏付け捜査のため、警察は沖縄に人を派遣して調査を行った。その結果、意外な事実が明らかとなった。それは当時の「松保丸乗組員の大多数が生還していたこと、また琉球王政府のその陰謀は事実であったことを、多くの人が語った」(注4)ことであった。この証言によって松保丸には最初から莫大な財宝など積み込まれていなかったことが明らかとなった。

 

☆川端康成の「三田光一」観

ノーベル文学賞作家の川端康成氏(1899年→1972年)は、心霊の世界に魅了された状態のまま生涯を閉じた作家である。その川端氏の作品に「金塊」(雑誌『改造』昭和13年4月号所収)がある。この「金塊」は三田の「金塊引揚詐欺事件」をモデルにしたものと言われている。川端氏はこの作品を発表する8年前の昭和5年にも「琉球王の金塊引揚事件」(雑誌『朝日』昭和5年5月号所収)という短編を書いている。

 

この短編に川端氏の「三田光一」観がよく表れている。

たとえば「(三田の)本名は才三と云い、前科4犯、宮城県の生まれ、郷里で高等小学校の二年を修了した①」「帝国自覚会を透視部と作業部との二つに分けて、透視部で見つけた儲け仕事を作業部がやるという②」「こんな風に準備が整って、何か一芝居打とうと待ち構えていた時に、三田才三が聞き込んできたのは、琉球王の貢船の伝説だ③」「これほど、うまい仕事が二つとあろうか、と才三は小躍りした④」「才三と彼の取り巻き連中は四萬円で引揚の権利を草田米一に譲り渡すとの契約を結んだ⑤」「三田才三は参萬円の現金を受け取ると、神戸の自宅へ帰った⑥」「大詐欺師の三田才三は、神戸から風をくらって逃げたが、9月3日東京のステイション・ホテルで捕えられた⑦」(注5)など。

上記②~⑦の記載が事実か否かは不明であるが、下線部分の名前は正しくは「三田才二」である。

 

川端氏はこの「琉球王の金塊引揚事件」の原稿を、警察の報告書によって書いたので正確だと述べている(注5)。しかし文章の書き方に根深い偏見や憶測が混ざっているので、主な情報源は当時の新聞報道だったのではないだろうか。

川端氏はこの短編を発表した8年後に、この事件をモデルにして、金塊引揚事件を起こして獄死した前科4犯の大詐欺師の娘が東京駅で父を回想する、というストーリーを創作して短編小説「金塊」を発表している。

この二つの作品に見られる川端氏の三田に対しての眼差しは、奇術師の石川雅章氏の見方とも相通じる極めて偏見に満ちた「三田光一」観であった。なお同時代人としてこの事件報道に触れた脇長生氏の「三田光一」観も、当時の世間一般と同じような見方であった。

 

イ)事件の背景

☆甲山繁造氏の見解

この事件について甲山繁造氏は、世間に流布する説とは異なった見方を述べている。

――(三田は)一体何故このようなカラクリをやらなければならなかったか。この点が問題なのである。このような詐欺的行為を、三田氏自身が発案したものではなかった。

この金塊引揚事業なるものは、三田光一が事業主ではなかった。三田氏は事業主から依頼を受けた一雇人にすぎない。したがってこの行為は彼自身の発案ではなく、背後に踊る事業家連中の苦肉の策であった事は容易に判断されることである。この指令が出されたのは、中途で連絡係として現場に派遣された新某なる人物によってもたらされたものと推定されるが、もしも事実をそのまま発表した場合、この事業に関係した多くの人々の間に大混乱が起こることは必定であった。すなわち大宣伝によって吊りあげられた株価は一挙に大暴落するであろう。事業関係者の間にも多くの怪我人が出るであろう(注6)――。

 

甲山氏の「金塊引揚詐欺事件」の背景には、「松保丸引揚株式会社」の株価操作をめぐる諸事情があったとする見解は、当時の状況から考えて最も妥当性があると思われる。この見方に立って事件を再考してみれば、現場海域に常駐している三田と事業主との間の連絡を担当した者の役割がポイントになってくる。

本来であれば連絡係の新某が、事業主からの指令を携えて三田に伝達したことを立証して、事業主に対する「詐欺事件(共犯)の立件」という方向に持っていくべきであった(→この方向での捜査が行われたか否かは資料がないので不明)。しかし一雇人が当時著名な透視能力者であったため、結果的に事件の本質に迫ることなく、たんなる超能力を使った詐欺事件として扱われてしまった。

 

川端康成氏を含めた当時の一般的な人達のこの事件に対する見方は、宝船沈没という儲け話を聞きこんだ三田が、自身の透視術を信じ込んで作業を始めた。しかし作業を始めてみたら「海底に見たのは幻だったに過ぎないと、自分の透視力に失望してから、詐欺師に変わった」(注5)、最初から最後まで三田による単独犯行説であった。

この事件の背景にある「松保丸引揚株式会社」の株価操作という本質が、完全に隠蔽されてしまっている。事業主によるマスコミ対策(?)が効を奏して、世論が三田単独犯に完全にすり替わってしまっている。

 

三田の「透視術」によって「国家のために役立ちたい」という気持や、相手を気遣う思いやりの性格(→三田を知る関係者からは「気配りの人」「気が置けない人」と言われている)が、事件にかかわった「欲張り連中」の利権屋に上手に利用されてしまった。そしてこの事件が三田の「輝かしい経歴」に汚点を残すことになった(→その原因に三田自身の「透視術」に対するうぬぼれの気持ちがあったことは言うまでもない)。

 

この事件に関して野村真太郎氏の報告がある。

――前略、金塊引揚事業に関して三田氏は詐欺の疑いで取調べを受け、ついに起訴せられた。そして谷村弁護士の懸命の弁護にも拘わらず、結局有罪の判決を受けるに至った。当時この事件を審理し、判決を言渡した裁判長は現在弁護士の松村鉄男氏であるが、同氏の談によるとこの事件を調べた予審判事の水野新三氏は心霊現象を認めていたので、透視という事はある。しかしこの事件は事実があるのでやむを得ない。といっていたと云うことである。また三田氏は事実審理のため開廷されるや、モーニングを着用して法廷に臨み、冒頭に裁判長に対し、自分は全く白紙にてこの法廷に臨んでいます。お尋ねに従って申し上げますからお尋ねに預かりたい。と述べ審理に当たってはスラスラと事実を陳述し、またその法廷における態度は立派であったので今でも記憶に残っている(注6)――。

 

☆二つの事実

この事件には押さえておくべき二つの事実がある。一つ目は三田の松保丸の沈没場所を透視によって特定した、「透視の成功」の事実である。二つ目は三田の財物引揚に際しての対応のまずさの事実である。これを分けて考えなければならない。

学術的な調査を除く一般の財物引揚事業は、霊的に見てもさまざまな問題がある行為なので、本来であれば断るか、引受ける場合でも「ワキを固めた」上で慎重に配慮して行うべきである。また財物引き上げ後に、関係者の間で事実関係につきトラブルを起こさないためにも、引揚作業の透明性を保つための仕組みを事前に作る必要がある。たとえば現場海域に事業関係者やマスコミ人を引連れて赴き、いわば第三者の監視のもとで作業を行うなどが考えられよう。この二つ目の対応のまずさが「金塊引揚詐欺事件」を引き起こしてしまったといえる。

三田にとってこの事件は、自らの「透視術」を過信して、度重なる成功に「調子に乗って」足元をすくわれてしまい、彼の経歴に大きな汚点を残す結果となった。

 

この事件で三田は有罪となった。資料によっては懲役2年の判決を受け服役(→『気仙沼町誌』などには「下獄」したとの記載がある)したとの記載もあるが、現存する念写の原版から推定すれば、服役(下獄)はせず執行猶予がついたのではないだろうか。福来心理学研究所の所蔵品には、昭和2年3月11日に鹿児島市照国神社で「島津斉彬公」「西郷南洲」「赤塚源太郎」を念写した原版。同年8月11日に朝鮮開城劇場で「鄭夢周」「朴淵の滝」を念写した原版。同年1217日に京都市先斗町歌舞練場で「金那羅王の像」を念写した原版。昭和3年1月21日に京都市先斗町歌舞練場で「一休禅師」「歌舞練場の主人」「頼山陽」を念写した原版。同年1月22日に京都市祇園一力邸で「大石良雄」を念写した原版などが現存している。三田が服役していたならば、これらの念写像の原版は残されていないはずだからである。

 

☆事件に対する「心霊懐疑論者」の見解

心霊懐疑論者の石川雅章氏は昭和11年発行の著書『奇蹟解剖』の中で、「千里眼と云ってもトテツもない地点や幾千年の過去も未来も一切見通しじゃなどと吹いて、彼の奇術師上がりの三田某の如く、乾板スリ替えだの、鉛のカタマリを金のノベ棒と偽って、図々しくも銀行へ保護預けにするなどの手を用いて、琉球王から島津家への貢物を積んだまま鹿児島沖に沈んだ松保丸の引き上げをやるなんかと大芝居を打ち、欲張り連中の懐中から、その資金と称して数十万円の引き揚げを行うことに成功した」(注7)。石川氏の記述には事実関係に誤りがあるが、この発言は当時の一般的な見方ではないだろうか。事件の本質である事業関係者が三田の後ろに隠れて、たんなる“超能力詐欺事件”で終わっている。

 

心霊懐疑論者の立場から超常現象を批判するジャパン・スケプティックスの元会長の安斎育郎氏(1940年→:工博、立命館大教授)の著書に『不思議現象の正体を見破る』がある。この著書の中で「三田はまた、鹿児島の錦江湾に沈む琉球の朝貢船に金の延べ棒があることを透視し、水夫を雇って回収したが、金の延べ棒とは真っ赤な嘘で、鉛に金メッキしたインチキ延べ棒だった。この詐欺事件を契機に、福来助教授は東大を辞さねばならなくなった」(注8)との記載がある。

心霊現象批判者の著名人である安斎氏ともあろう人が、あまりにもお粗末な内容の文章であり、事実関係がめちゃくちゃ(→調べて本を書いた形跡なし)である。なお安斎氏は「月の裏側の念写」という箇所でも、学者としての品格を疑う文章を書いている。「月の裏側が念写できるなら、当然できるはずの福来博士の足の裏側でも念写してもらう方がいい。それなら現像直後、ただちに真偽を確認することができる。こけおどしの実験ではなく、科学的に意味のある実験を行うことが必要だ」(注8)。足の裏側を念写したら、それこそ誰のものかの立証が難しいであろう。

 

ウ)無神論者から信仰の人へ

☆信仰の人へ

三田は「金塊引揚詐欺事件」によって心に大きな痛手を受けた。透視・念写能力は自力で獲得した能力だと誇っていたが、そのうぬぼれの気持が自ら墓穴を掘ってしまうことになった。モーゼスの『霊訓』の中に「次から次へと無闇に派手な現象を演出してみせてくれる時は用心するほうがよい。そうしたものは大体において低級にして未発達なる霊の仕業である。その演出には往々にして招かざる客が携わっている」(注9)という箇所がある。

三田はこのような客観的心霊現象の裏側で働く霊たちの実状を知らず、また透視や念写という心霊現象の真の目的が、霊的教訓への入り口であることも理解していなかった。「超人よ、大能力者よ」と持ち上げられて三田のプライドは大いにくすぐられて、「宝船」引揚と云う「欲張り連中」の事業に「特殊能力者」として加わった。三田は霊的に見て「物質性が強く波動の低い世界」に無防備の状態で足を踏み入れたことによって、見えざる世界の未発達霊による「大どんでん返し」にあった。この事件によって「詐欺師三田光一」という汚名を着せられて、それまで積み上げてきた信頼と実績が崩れて評判は地に落ちた。

 

今回の三田の透視能力を使って協力した「松保丸の積荷引揚」事業は、いわば「カネの亡者」とのお付き合いであるため、本来であれば「ワキを固めて」臨むべきであった。しかし三田自身に透視能力は自身の錬成のたまものとの「うぬぼれの気持」があり、これが増長してそこに隙を作ってしまったと言えよう。そして透視は成功したとはいえ、結果的にガラクタを「財宝」と欺罔した点を詐欺罪に問われた。

 

このような時期に三田は占部宮司に出会った。甲山繁造氏によれば「(三田は)悶々の日を送っている時、占部宮司に出会い、それまではほとんど無神論者にも等しかった彼が、俄然、信仰の人となり、自宅に神棚を設けて伊勢大神宮をまつり、朝夕の拝礼を欠かさず、更に海の守り神で有名なサヌキの金毘羅神社に深い信仰を捧げるに至った点などはあまり世間に知られていない」(注10)エピソードであるという。

また占部氏によれば「三田氏も、透視や念写は全く自身の能力の所産でいわゆる神霊等はないもの、幽冥界は仮想のものと考えた時代もあった。その頃、いろいろな人に利用されて、知らず知らずの間に道を誤ったこともあろう。しかし、一旦霊示を受け、神霊の現存を知り、神威の尊さを感じ、画然と悟りを得てから“私は実に幸福です”といって、既往の過失を悔い、将来の進路に強い希望を持つようになられた」(注11)という。

このように「未発達霊による大どんでん返し」によって手痛い思いをしたことが、結果的に三田の魂を目覚めさせることに繋がった。

 

☆死の直後の“幽体”を見て驚く

金塊引揚詐欺事件を起こした翌年の春(昭和2年4月上旬)、三田は貴重な体験をした。それは照国神社(てるくにじんじゃ)社務所広間での透視実験においてであった。この透視実験会の参加者は、記録によれば会の主催者の吉原謙亮氏(鹿児島地方裁判所所長)、裁判所職員、市内官公職員、医師、実業家、吉原夫人、由井七高館長夫人、村田夫人、照国神社職員の合計二十数名となっている。

 

三田は中央の机に、痔病のためよりかかって上半身を斜めにして座った。主催者である吉原氏が出した透視出題は「西千石町裁判官官舎(照国神社から六町ほど離れてる)である吉原氏宅の奥座敷の掛け軸はどのようなものか」であった。三田はこの時期は詐欺事件のため鹿児島にしばらく滞在していたが、裁判所官舎等は全く知らないということであった。なおこの実験会の参加者には、刑事事件で三田を裁く立場の裁判所の所長や裁判所職員がメンバーに入っていた。詐欺事件の被告とそれを裁く者が私的に一同に会するなど、現在ではとても考えられない話である(→あるいはこの時期は裁判終了後で判決確定後かもしれない。これなら問題もないであろう)。

 

この実験会の模様を占部真一著「三田氏の念写と透視」(注11)の該当箇所を参照して、当時の状況を検討してみた。実験会は三田の精神統一から始まった。三田は中央の席で透視をするため四分ばかり精神統一に入り、覚醒して次のように述べた。以下は検証しやすいように、占部氏の文章を要約してまとめた。

なお、三田は実験会における遠隔透視を、精神統一中における「精神旅行」と述べているが、実態は体外離脱(幽体離脱)して裁判所官舎を見て回って、覚醒後に離脱中に見てきた体験をのべたものである。

 

透視結果①―照国神社を出てから広い町を進んでいくうちに、西千石町に出たが、電車通りを横切ってから、河岸へ行く町筋は短いが広い通りに、裁判所官舎、吉原謙亮とある門票を見つけました。門から玄関まで道はひどく毀れていました。

透視結果②―玄関から入ると、すぐに廊下がありましたが、坊ちゃんが玩具を持って廊下を走っておられました。

透視結果③―階段があったので、上を覗いてみたところ、二階は暗くそして畳が散らかっていました。

透視結果④―裏の方の奥座敷に入って掛け軸を見ました。それは山水の画でした。

 

上記①~④に対する吉原氏の回答

④の掛け軸はその通りである。②につき吉原氏はその場で自宅に電話をして子供の事を聞くとその通りであった。①について吉原氏は「入口の道路は数日前から敷石の取替え工事中で、本日は休みで荒らされています」とのことで正解。③については吉原夫人が「皆さんは御承知ないでしょうが、実は昨日から二階の畳替を始めているのですが、今日は畳屋が急用のため仕事を休み、畳など取散らしてありますので、雨戸も開けず暗いのです」と話されてすべて正解。

 

番外編の透視⑤

このあと三田は次の話をした。「皆さん聞いてください。私は実に不思議なものを見てきたのです。裁判所官舎を見まわっている中に、裏庭先の隣の二階建ての、あめ色の洋館風の家の二階の一室を覗いてみたくてたまりませんでした。他人の家の内ゆえに、良くないこととは思いましたが、どうしても見ずにはいられず、とうとうその室に入ったところが、53,4歳の田舎者らしい男がベッドに横臥して、その側に16歳位の少女が如何にも悲しそうに垂れていました。驚いたことは、横になった男のすぐ側に容貌もそっくり、その男と同じ姿の霊魂が立っていたのです。その恐ろしかったこと。私は身体中ブルブル震えました。今考えると、それは霊魂が肉体から離れて側に立っていた所なので、その男は少し前に死んだのでしょう。私はこのような場合の霊魂を見たことは始めてです。実に怖かったです」

 

上記⑤の信憑性

三田の話に出てくる病室は東條病院であった。実験会のメンバーの村田氏はさっそく社務所の電話室に入り、東條病院を呼び出して尋ねたところ、数日前から入院してその病室にいた男が病状悪化して、ちょっと前に死亡したことが分かった。「自席に戻った村田氏は大声で上述の事実を報告したら一同大いに驚いた」という。同席していた「耳鼻科の中村氏も東條病院に電話して委細を聞かれたが、村田氏の電話と同様であった」という。なおその夜、あるいは翌日、東條病院で患者の死去の件を確かめた者が数名あったという。この番外編の透視は今回の実験会のハイライトになった。

 

これらの事実関係が著者の占部氏の記載通りであれば、真実性の高い透視である。特に⑤の三田が東條病院で見た、死去直後の男の肉体と“幽体”が分離した姿を偶然に見た事例は、番外編の透視ゆえに極めて証拠性が高い。

この中で三田が「それは霊魂が肉体から離れて側に立っていた所なので、その男は少し前に死んだのでしょう。私はこのような場合の霊魂を見たことは始めてです。実に怖かったです」と率直に述べた言葉は興味深い。ここからも従前の三田の透視能力は五感の延長としての心霊的能力(サイキック能力)であり、霊的能力(スピリチュアル能力)たる霊視ではなかったことが分かる。生まれながらに備わっていた純粋に心霊的能力(サイキック能力)であり、この能力で「遠隔透視」を行っていたが、霊界または霊界人とのつながりは全くなかった。だから、死後直後の死者の“幽体”を始めて見て「実に怖かった」と率直に述べたのである。この時の三田の体験は背後霊によって見せられた現象であった。

このように「金塊引揚詐欺事件」は三田の人生におけるターニング・ポイントになった。それまでの霊界とは何のつながりもないサイキック能力者の三田が、スピリチュアル能力者への第一歩を踏み出したのがまさにこの時期であった。

 

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<注1>

■甲山繁造著「この霊的巨人の足跡を見よ」:『心霊研究』昭和347月号、5頁。

<注2>

■甲山繁造著「三田光一を観なおす」:『心霊と人生』昭和368月号、16頁以下。

<注3>

■甲山繁造著「三田光一を観なおす」:『心霊と人生』昭和369月号、16頁以下。

<注4>

■田中千代松著『第四の世界』(講談社1960年刊)198頁。

 

<注5>

①川端康成著「琉球王の金塊引揚事件」:『朝日』昭和55月号所収。

この著書は『川端康成全集、第26巻』(新潮社1982年刊)に収められている。

②川端康成著「金塊」:『改造』昭和134月号所収。

この著書は『川端康成全集、第6巻』(新潮社1981年刊)に収められている。

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「明9日、午前10時、八千代丸は鹿児島港第二桟橋に着く、海岸で待て」という意味の電報が、大正15年の88日、鹿児島の各新聞社及び支社に着いた(①387頁)。

「今度は、金の延べ棒1690本、時価50万円のものを、海底から引き揚げて、南薩銀行へ保管預けとした」(①387頁)。

その一月程前、7月の中旬にも、金塊引揚事業の張本人、三田才三は、各新聞記者を鹿児島市山下町の高砂旅館に招いて、「私は透視術で、海底に沈んだ松保丸の金塊を発見した。松保丸に積み込まれた宝物一切を、今の値に見積もると、一千万円にもなりましょう。今度はそのうち五万円の金塊を引揚げた。一日に金塊百個から二百個くらい、ざっと二万五千円から五万円のものを続いて引揚げている」と語った(①387頁)。

才三は直ぐさま鹿児島に乗り込んで、「松保丸の財宝は、大島郡十島村大字中之島の岩礁の中に、今もそっくりそのまま沈んでいる。私はそれをありありと透視したのだ」と世間に言いふらした(①389頁)。

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川端氏の情報源は何か、その「情報」は正確かの問題がある。この辺りの検証を行う必要がある。当時の新聞は三田に対して強い偏見を持っており、三田自身もサービス精神が旺盛で軽口をたたく傾向にあった。このような点から川端氏が「琉球王の金塊引揚事件」で引用している箇所の情報源については、慎重な検証を行う必要がある。川端氏の見方が当時の世間一般の“三田光一観と共通”であるとしても、その作品が長らく三田の評価を大きく悪化させてきた要因の一つであったことは否めない。

 

<注6>

■甲山繁造著「三田光一を観なおす」:『心霊と人生』昭和369月号、17頁。

<注7>

■石川雅章著『奇蹟解剖』(紀元書房、昭和1110月刊行)196頁。

<注8>

■安斎育郎著『不思議現象の正体を見破る』(河出書房新社2001年刊)88頁。

<注9>

■モーゼス『霊訓』(国書刊行会)299頁。

<注10

■甲山繁造著「この霊的巨人の足跡を見よ」:『心霊研究』昭和3412月号、3頁。

<注11

■占部真一著「三田氏の念写と透視」:『心霊研究』昭和305月号、8頁~、12頁。

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