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スピリチュアリズムとキリスト教:総論編

目 次

<1.キリスト教からの攻撃>

①.アメリカの動向

・スピリチュアリズム勃興期

・エドモンズに対する攻撃

②.ヨーロッパの動向

・アラン・カルデックに対する攻撃

・着実に駒を進める

・スペインにおける公開焼却

・ホームを魔術の罪で破門

 

<2.キリスト教と決別した牧師たち>

①.W.S.モーゼス

・カルデックからモーゼスへ

・モーゼスとは

・証拠にこだわったモーゼス

・優秀な霊媒の条件

・インペレーター霊団の役割

・自動書記の舞台裏

②.G.V.オーエン

・英国国教会からの干渉

・霊界通信を公表するまで

 

<3.キリスト教会の対応>

①.キリスト教会の変化

・宗教の世俗化

・霊の復権

・下から押し上げられる形で

②.キリスト教会の危機感

・ヴァチカンの検邪聖省令

・『ニューエイジについてのキリスト教的考察』

③.悪魔の手先

・魔女は悪魔の奴隷

・魔女とされた者

・英国国教会の対応

・スピリチュアリズム調査委員会

 

<4.キリスト教スピリチュアリズムの台頭>

①.思想闘争

・破邪顕正

・「キリスト教+スピリチュアリズム」

②.キリスト教的スピリチュアリズム

・「キリスト教心霊主義」と「反キリスト教心霊主義」

・世界クリスチャン・スピリチュアリスト協会(GWCSA

・国際スピリチュアリスト連盟

 

 

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<1.キリスト教からの攻撃>

①.アメリカの動向

☆スピリチュアリズム勃興期

1850年代のアメリカ社会は「お茶とテーブル傾斜への招待が、普通の社交行事」(注1)となっており、スピリチュアリズムが一大ブームとなっていた。しかしこのようなブームに対して宗教界からは「テーブル・トーキングは悪魔のなせる業」(注1)であり、スピリチュアリストは「反キリスト者」であるとして厳しい批判がなされた。1854年ケベック(カナダ)の大司教は教書の中でスピリチュアリストを「悪魔と戯れる者」と述べて批判したが、この教書はカトリック界に大きな反響をもたらした(注2)。

 

☆エドモンズに対する攻撃

18511月にフォックス家の姉妹の避難先で起こった「ロチェスターの怪音」に興味を持ったジョン・W・エドモンズ(John Worth Edmonds1816年→1874年:ニューヨーク州最高裁判事)は、「心霊現象は詐術ではないか」との懐疑心から調査を開始した。

二年後、心霊現象は真実であるとの確信を持ったエドモンズは、185381日付の『ニューヨーク・コーリアー』紙や185386日付の『ニューヨーク・ヘラルド』紙に、自らスピリチュアリズムを信じている旨を表明した(注3)。しかしこのスピリチュアリズムに対する信念は一大センセーショナルを巻き起こした。

 

当時のキリスト教会は「スピリチュアリズムは悪魔の仕業である」との立場からスピリチュアリズムを批判していたため、擁護の立場に立ったエドモンズは激しい非難と中傷にさらされた。そして遂にエドモンズは判事の職を辞職した。このような教会によるエドモンズ攻撃の根拠は、ケベック大司教の1854年の教書にみることができる。

なお当時のキリスト教会は、人間側からの「いかなる影響によっても起こりえないような運動」や「人間の能力を超えた知的現象」など、科学知識をもってしても説明のつかない現象は「悪魔のなせる業である」として、スピリチュアリズムに対しては厳しい態度をとっていた(注4)。

 

②.ヨーロッパの動向

☆アラン・カルデックに対する攻撃

カルデックのキリスト教に対する知識、特に聖書に関する知識は豊富であった。カルデックの著書『スピリティズムによる福音』は、一般に「新約聖書を解釈し直したもの」と言われているが、「スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用」(注5)であるとされている。全体的に見てカルデックの筆の運びには、随処にキリスト教会に対しての配慮が見られる。

 

キリスト教神学に造詣が深かったモーゼスと、キリスト教会に対する配慮が感じられるカルデックの著書を比較してみると、モーゼスの霊団(インペレーター霊団)からはキリスト教神学に対して全面的に対決する姿勢が見られる。これに対して『スピリティズムによる福音』を読む限り、カルデックからはむしろ穏やかさが感じられる(注6)。これは両者の霊団の役割が異なるためであろう。

近藤千雄訳『霊媒の書』の“あとがき”には、カルデックに対して「既成宗教界、とくにキリスト教界からの非難中傷が激しかったようで、カルデックはそれに対する理論武装に大変な神経と紙面を費やしている」とある。カルデックの著書にはキリスト教神学に関する事柄が多く記載されているが、全体的に見てキリスト教の教義に対する「対決姿勢」はモーゼスの『霊訓』と比較して弱い。

 

☆着実に駒を進める

この理由としては、霊団側のキリスト教神学に対する戦略の相違、そしてカルデック自身の「スピリチュアリズムの立場からキリスト教を解釈し直す」という思惑の存在、これらが大きいのではないだろうか。バルセロナの公開焼却に際してのカルデック側の霊団の対応など、当時の状況を俯瞰して見れば、霊団はカルデックを“道具”として使って、確実にスピリチュアリズムの「最初の礎石を置く」ための仕事を成功させるべく、そこに顕幽のすべてのエネルギーを結集させた、ということが窺える。

かりに霊団が『霊の書』と『霊媒の書』の刊行や普及と抱合せの形で、「キリスト教神学に対する果敢な闘い」までも併せ持った、いわば“二正面作戦”をとったとすれば、霊的エネルギーを分散させてしまうことになる。そのためこれを採用せず、一つ一つ着実に駒を進めていったと言えようか。

 

高級霊シルバーバーチの発言に「われわれに対抗する勢力は、地上においても霊界においても、実に強力です」と述べた箇所があり、低級霊のエネルギーは侮れない。しかしシルバーバーチは「いかに強力といっても、神の意志をしのぐほどの力はない」(注7)とも述べている。低級霊の影響力の及ぶ範囲は、しょせん霊的世界の下層界と地上世界に留まるからである(→霊的世界の下層は地上世界と密接に結びついているから)。

このように霊団側のカルデックに対する行為から、着実に地上にスピリチュアリズムを根付かせていくという霊団側の強い決意と、堅実さが感じられる。この点からも「高級霊界発の霊的潮流」が、一過性のものでなく組織だったものであることが見て取れる。

 

☆スペインにおける公開焼却

カルデックは1857年に『霊の書』を出版した。当時は「思想信教の自由」の保障が不十分であった時代でもあり、出版されるや当然にキリスト教会からカルデックに対して、非難中傷が激しく起こった。スペインでは1861109日バルセロナの広場で、カルデックの書籍300冊が公開焼却された。霊団側は「焚書にされた方が、我々にとってより大きな善になる(→宣伝効果が大)」との観点に立ってカルデックに傍観することを勧めた(注8)。

 

この公開焼却は次のような経緯で行われた(注9)。

――『心霊評論』186111月の記載によれば、1861年アラン・カルデックがバルセロナの書店主モーリス・ラシャートルに宛てて送った彼の著作300冊と心霊主義の出版物が、当時バルセロナに書店検閲局を置いていた教会当局によって差し押さえられた。バルセロナ司教は中世の火刑を連想させる公開焼却処分を命じた。この日、すなわち1861109日午前1030分、通常は罪人の処刑が実行されるバルセロナ市の高台において、バルセロナ市の司教の命令により、心霊主義に関する三百冊の書籍と冊子が焼却された――

 

☆ホームを魔術の罪で破門

カトリック教会では「スピリチュアリズムとキリスト教は根本的に対立する」という見解をとってきた。D.D.ホーム(→多くの文献では“D.D.ヒューム”という名前になっている)は1862年に自叙伝(The Incidents in My Life:私の生涯における出来事)を出版したが、この本は好評ですぐに再版が出ている。

当時のローマでは魔術は法律で禁じられていたため、ホームは18641月にローマ警察から尋問を受けて、ローマから退去命令を受けた。この退去命令の背景には「ヴァチカンが1864年初頭にホームを魔術の罪で破門した」ことと関係があるのではないだろうか(注10)。

 

<2.キリスト教と決別した牧師たち>

①.W.S.モーゼス

☆カルデックからモーゼスへ

スピリチュアリズムの目的の一つに霊的真理の普及がある。その目的に沿ってトップバッターとして“神庁”から聖ルイを中心としたカルデックの霊団が指名された。カルデックの霊団はキリスト教界からの激しい攻撃にさらされながらも、地上側の協力者であるカルデックを導きながら、地上世界に確固たる霊的橋頭堡を築くことができた。13世紀に実在したフランスの国王ルイ9世であると言われている支配霊の聖ルイは、カルデックに対して18566月のボタン家の交霊会で「それらのある部分は、もっとずっと後になってからでないと発表できない、と云うことが分かるようになるでしょう。新たな考え方が広まり、根付くまで、待つ必要があるのです」(注11)と意味深長な言い方をしている。

 

この聖ルイを中心とした霊団が築いた霊的橋頭堡を足掛かりとして、二番手の高級霊インペレーターを中心とした霊団は、地上側の協力者に国教会の牧師であったモーゼスを選んだ。そしてインペレーター霊団はモーゼスをいわば“たたき台”にした形で、熾烈な論争を闘わせて果敢にキリスト教神学に切り込んでいった。霊団はモーゼスの思想に固着しているキリスト教的ドグマの誤謬を指摘する形を取りながら、最終的にはそれに代わる霊的真理を説くことに成功した。

 

☆モーゼスとは

高級霊インペレーターからの霊的教訓(モーゼスの『霊訓』)の受信者であるウイリアム・ステイトン・モーゼス(William Stainton Moses1839年→1892年)は、オックスフォード大学神学部を出て、24歳でマン島に赴任した国教会の牧師であった。病気のため30歳頃に牧師を辞職して、1871年(32歳)にロンドンにある「ユニバーシティー・カレッジ」(→資料によってはロンドンの小学校という記載もある)で、1889年(50歳)に病気で辞職するまで教員として勤めていた。

 

モーゼスとスピリチュアリズムとの接点は、30歳頃に体調を崩してその治療のためS.T.スピーア博士(内科医)の病院に入院したことに始まる。病気の回復が思わしくなく加療が長引いたが、そのうちにスピーア家との付き合いが始まった。スピリチュアリズムに関心があったスピーア夫人に誘われて、交霊会に参加していくうちに、モーゼス自身の身の回りで物理的心霊現象が起き始めた。

なお「モーゼスの交霊会」については、「平素の交霊会も小規模で立会人もスピーア博士夫妻Dr. and Mrs. Speer、パーシヴァルPercival, F.W、時折の立会者としてコックス、ハリソンHarrison, W.H、トンプソン博士Dr. Thompson、ギャラット夫人Mrs. Garratt、バーケット嬢Miss. Birkett、クルックス卿くらいのものであった」(注12)という。このようにレギュラーメンバーは三人(スピーア博士夫婦、パーシヴァル)で、そこに数名が出席する程度で、「勝手に新しい客を招待すると霊側がひどく嫌がった」という。

 

英国国教会の牧師補(ハンプシャー教区)であったC.W.リードビーター(Charles Webster Leadbeater1847年?または1854年?→1934年)は神智学協会員であるが、ブラヴァツキーやその他の神智学会の関係者とは異なって、スピリチュアリズムに対して好意的である。その背景には数多くのスピリチュアリストの交霊会に出席して、交流した体験があったからであった。

リードビーターは“質の高い交霊会”の存在を指摘しているが、それらの頂点に立つ交霊会では「そのようなサークルのうち最良のものになると厳秘に附され、着席者も少数に限定される。そのようなサークルでは同じ顔ぶれだけが繰り返し、繰り返し集まり、部外者は一切入れず、着席者から発するマグネティズム(磁気)が変わらないように留意されている。このようにして出来上がった状態はその類を見ないほど完全であり、その結果は最も驚嘆すべき性格のものとなる」(注12)と述べている。暗に「モーゼスの交霊会」を指しているのではないだろうか。

 

☆証拠にこだわったモーゼス

モーゼスは1873330日以降、霊団からのメッセージを受信するようになった。この文章は次第にキリスト教の信仰と真っ向から対立する内容のものとなったため、モーゼス自身のキリスト教神学との葛藤が始まった。物事を論理的に判断する傾向にあるモーゼスは、身近な知人の影響もあって徹底した証拠にこだわって懐疑的な態度を崩さなかった。

このような頑ななモーゼスに対して、インペレーターは霊団の総引き揚げ一歩手前の状態に至るまで、辛抱強く霊的真理を説き続けた。そしてインペレーターは霊的真理普及の見地から、モーゼスに対していずれの道を選ぶのか“二者択一(自由意志の行使)”を迫った。インペレーターの崇高な雰囲気と強烈な高揚感に触発されて、モーゼスはキリスト教神学との激しい葛藤の中から、しだいに素直さと受容性に満ちた雰囲気が芽生えてきてスピリチュアリズムを全面的に受け入れていった。

 

☆優秀な霊媒の条件

高級霊からの霊信を受け取る霊媒の条件として、「精神が受容性に富んでいること」「地上的偏見や誤った思想(→モーゼスの場合はキリスト教神学)を捨て去ることができること」「真理の追究に飽くことを知らぬ者」など。『霊訓』の中でこれらが必要であるとして述べられている。

モーゼスはこれらの条件を、時間をかけて一つ一つクリアーしていくことによって、高級霊からの通信を地上に下ろす「通路の役割」を無事に果たすことができた。

インペレーターは霊的真理普及の立場から、キリスト教神学の誤謬を解き明かす手法として、強固なキリスト教神学の持主であるモーゼスとの論争を通して浮き彫りにするという形を取った。『霊訓』にはこの経緯が自動書記(または霊言形式)の形で綴られている。

 

☆インペレーター霊団の役割

モーゼスの『霊訓』の時代背景として、スピリチュアリズム勃興期における“キリスト教との対峙”という特殊性がある。そのためキリスト教神学を主要テーマとした論争集という性格が色濃く出ているので、キリスト教に縁のない読者には取っ付きにくい霊界通信かもしれない。

 

インペレーター霊団の特殊性として次のようなことが言える。スピリチュアリズムの勃興期において、インペレーター霊団は“スピリチュアリズムの普及という目的”を果たすためには、前途に立ちはだかるキリスト教神学という壁を切り崩すことに、すべてのエネルギーを集約する必要があった。そのため異論が多く複雑で一筋縄ではいかない再生については、モーゼスの『霊訓』の中で一部言及した箇所はあるものの積極的には述べていない(注13)。なぜなら再生の問題はインペレーター霊団の仕事ではなかったからである。

 

☆自動書記の舞台裏

モーゼスが自動書記をしている際の舞台裏が『インペレーターの霊訓(続、霊訓)』に載っている。ある時モーゼスは自動書記をしている自分の姿を観察したという。「気がつくと、自分の身体のそばに立っていた・・・自分の身体が目の前にあり、その身体と自分(霊的身体)とが細い光の紐によってつながっている・・・その私の身体のすぐ後ろにレクターが立っていた。片手を私の頭部にかざし、もう一方を、ペンを握っている私の右手にかざしている・・・私の手を操っているのではなく、また私の精神に働きかけているのでもなく、青い光線のようなものを直接ペンに当てているのだった。つまりその光線を通じて通信霊の意志が伝わり、それがペンを動かしている。私の手は単なる道具にすぎず」(注14)と述べられており示唆に富んでいる。

 

②.G.V.オーエン

☆英国国教会からの干渉 

キリスト教会の牧師であるジョージ・ヴェール・オーエン(George Vale Owen1869年→1931年)には、インスピレーション的に受信(一種の自動書記通信の形式)した『ベールの彼方の生活(全4巻)』という著書がある。この霊界通信では、オーエンの守護霊のザブディエル霊やアーネル霊を通して、霊界の各界層の様子や宇宙の霊的仕組み、さらにはキリストの本質などについて詳細に述べられている。

新聞王のノースクリッフ卿の日曜週刊紙『ウィークリー・ディスパッチ』(資料によっては『デイリーメール』)に、『ベールの彼方の生活』が連載(1920年)されると大きな反響が寄せられた(注15)。この大反響を快く思わなかった英国国教会から撤回を迫られたが、オーエンは拒否して自らその職(→イングランド北西部のウォーリントン近郊の町オーフォード教区の副司祭の副司祭)を辞した。

 

☆霊界通信を公表するまで

オーエンはこの通信を受信して公表するまでの期間、内容を詳細に調査し検討を繰り返したという。結局オーエン自身が通信内容に得心がいくまで実に25年を費やしている(注16)。この25年という期間があったからこそ、オーエン自身に霊的な内的確信が湧いてきて、キリスト教界からの執拗な非難と中傷にもかかわらず自らの生き方を貫くことができたといえよう。霊的真理の普及と言う行為は、本人を霊的に教育すると言う側面も有するため、何事も霊界は急がないものである。

オーエンはその後、スピリチュアリズムの普及に余生を捧げた。この『ベールの彼方の生活』では、顕幽における関係者全員が敬虔なクリスチャンであったため、キリスト教的色彩(概念・表現など)が極めて濃厚な霊界通信となっている。

 

<3.キリスト教会の対応>

①.キリスト教会の変化

☆宗教の世俗化

18世紀の西欧において、近代市民社会の形成を推進した思想運動に「啓蒙思想」がある。啓蒙思想はそれまでの「神を中心とした世界観」に、人間を中心とした「理性重視の思考法や世界観」をもたらした。その結果、宗教離れという「宗教の世俗化」が加速されて、宗教を自由に批判できるようになった。

 

イギリスでは17世紀末から18世紀にかけて、自由思想家が啓蒙主義の立場から理神論を主張した(注17)。理神論の特徴は、キリスト教の三位一体説や啓示・預言、奇跡を否定し、聖書を比喩的に解釈する点にある。理神論にはさまざまな立場があるが、一般には神が万物を創造したことは認めるが、いったん創造された後は、世界は自らの法則によって運行されているとする考え方をとる(→「神は創造行為以外には一切この世界には関わらず、創造以降に関しては神の関与は一切なく自然法則にゆだねる」とする考え方のこと)。当時イギリスに限らず、その頃の進歩的思想家には理神論の立場に立つ者が多くいた。アメリカ合衆国建国の父の一人であり、第3代アメリカ合衆国大統領のトーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson1743年→1826年)も理神論者として知られている。

 

このようなキリスト教の世俗化の流れの中から『聖書』に対する科学的・合理的なアプローチを行う「高等批評」が起きた。この「高等批評」によって『聖書』にまつわるところの霊感や啓示、預言などへの疑問、奇蹟や奇蹟物語の信憑性、キリストの聖性の否定などが唱えられた。

さらにキリスト教の主にプロテスタント内部において、信仰復興運動がたびたび発生した。またペンテコステ派やホーリネス派などに見られるように、主流派教会の説く「観念的で説得力のない死後生存説や不毛な形式主義を排して、(聖霊の働きかけと)霊や死後の世界の実在を信じて、顕幽の交流は可能である」とする運動も起きている。このように19世紀の後半頃のキリスト教を巡る状況は、自由主義神学、高等批評、不可知論、無神論やスピリチュアリズムなどの浸透によって厳しい状況となっていた。

 

☆霊の復権

ヨーロッパの農村地帯では、12世紀頃まで「多神教の神々や地母神的な存在を崇拝」していたことが知られている。これらの信仰はキリスト教が西洋の辺地にまで伝播し、本格的に定着していく中で取り込まれていった。アニミズムやシャーマニズムの中に存在していた「素朴な死生観や霊魂観」は、キリスト教の伝播に伴ってことごとく社会の裏側に押しやられて表舞台から消滅していった。

 

1852年イギリスに流入したスピリチュアリズムは、ラップやテーブル・ターニング等の心霊現象を伴った形で、庶民の間に家庭交霊会ブームをもたらした。ヴィクトリア朝時代、庶民から始まった「霊媒という現代版シャーマン」による家庭交霊会のブームは、いわばカラカラに干上がった霊的土壌にクワを入れて耕すという現象となって、西洋社会の霊的状況を大きく変えることになった。

 

☆下から押し上げられる形で

このような庶民レベルのスピリチュアリズムのブームは、イギリス人の持つ実証的精神や探究心旺盛な気質と相まって、交霊会においてしばしば見られる物理的現象の究明に目を向けさせることになった。そして「霊魂や霊の世界が実在すること」や「顕幽の交信が可能なこと」などを、具体的な事実という形で「証明(→信念重視のスピリチュアリストと実証重視の心霊研究者とでは“証明”に対する厳密性に相違があるが)」して、心霊現象の科学的解明に道を付けることに繋がった。構造的にはいわば下から押し上げられる形で、SPR(心霊研究協会)などの“アカデミズム”における検証が始まったといえよう。

 

このような家庭交霊会のブームは、啓蒙思想の普及によるキリスト教の世俗化と、19世紀後半における霊の世界を巡る状況の変化が背景にあって起きた現象だが、長い間キリスト教によって「抑圧されてきた霊の世界」が復権するための道を付けることにもなった。そして「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」の普及に繋がっていったと言えよう。

19世紀半ば以降、キリスト教会にとっては「宗教の世俗化(→宗教離れ)」の一層の浸透によって、次第に教会に人が集まらなくなるという深刻な状態が起きていった(→近年における宗教の統計調査や現地の教会を視察した人の手記を読むと、教会離れの深刻さが実感として良く分かる)。さらに教会は死後生存に関しては観念的に説くことしかできなかったが、スピリチュアリズムでは交霊会を通して事実という形で死後の世界を力強く説いてきた。ここにスピリチュアリズムのキリスト教神学に対しての思想的優位性が存在する。教会当局者はこのような現状に対して強い危機感を抱いていた。

 

②.キリスト教会の危機感

☆ヴァチカンの検邪聖省令

第一次世界大戦下の時期、戦死者の遺族が死者との交流を求めたため、交霊会の需要が高まっていた(→いわば戦争がスピリチュアリズムの普及に追い風となっていた)。ヴァチカンはキリスト教の世俗化による威信低下とも相まって、キリスト教が説く「最後の審判」や「地獄説」「原罪の存在」「キリストによる救済」などを全面的に否定するスピリチュアリズムが浸透することに対して、強い危機感を持っていた。

1917424日に“検邪聖省令”という形で、ヴァチカンはスピリチュアリズムに関してメッセージを発した(注18)。それによれば「スピリチュアリズムは悪魔」であるので「いかなる心霊現象にも立ち会うことは許されない」という、使い古された見解の繰り返しであった。

 

☆『ニューエイジについてのキリスト教的考察』

さらに20032月には、ヴァチカンから『ニューエイジについてのキリスト教的考察』という文章が出された(注18)。この文書公表の背景には「司牧活動を行う人が(→ニューエイジ側からのキリスト教批判に対して)充分に論駁できるように」との思惑が存在していた。

スピリチュアリズムは1970年代のアメリカ社会に於いては、ニューエイジ運動という形をとって展開していた。なおニューエイジ系には「世俗的なスピリチュアリズム」や「現世利益的なスピリチュアリズム」とも言える部分があるので、スピリチュアリズム運動全体から見れば「スピリチュアリズムの裾野部分」と考えることもできる。日本ではニューエイジと言う言葉の代わりに、一般には「精神世界」と言う用語が用いられている。

 

このような形で普及する“広義の意味としてのスピリチュアリズム”に対して、ヴァチカン当局は聖職者や信者に向けて、ニューエイジ思想を解説してニューエイジ思想とカトリック信仰との違いなどを明確に説明して、内部を引き締める必要性が生じたのであろう。この文書の作成・配布はカトリック教会の危機感の現れと見ることができる。

 

③.悪魔の手先

☆魔女は悪魔の奴隷

スコットランド王のジェイムス6世(Charles James Stuart1566年→1625年:イングランド王としてはジェイムス1世)は、魔女を直接取り調べた経験を基に1597年に『悪魔学』という書物を著して、「魔女は悪魔の奴隷」であると述べた。これは霊界には善と悪の二大勢力があって、この悪の勢力の下働きが魔女であると言う図式になっている。当時の人々の考え方は「魔女の存在を否定することは、霊の存在を否定することであり、霊の存在を否定することは神を否定する無神論に通ずる」(注19)と考えていた。

 

当時は、無神論はキリスト教にとっては危険思想であった。バルク・スピノザ(1632年→1677年)は遺稿『エティカ』(1677年)の中で「神即自然」を唱えたが、彼の思想は当時のキリスト教会から「スピノザは“悪魔の使者”」と言われて、無神論のレッテルを貼られた。なぜならキリスト教では、創造者と被造物との間には一線が引かれているため、神は人間を含む自然界から「超越した無謬の存在」でなければならないから。ながらく「スピノザ的」と表現した場合は無神論を意味しておりタブーであったが、18世紀末のドイツの文学界で起きたスピノザの哲学をどう受け入れるかという「汎神論論争」により復活した。この後スピノザ哲学は無神論ではなく汎神論という哲学として認められた。

 

キリスト教会は霊の存在を肯定していた。このことは未熟霊(=低級霊)による憑依現象の発生も認めることになるため、当然にカトリックには「悪魔祓いの祈祷師(エクソシスト)」の活躍の場があった。英国国教会の祈祷師に関する扱いは1603年に「国教会の牧師は許可なく悪魔払いを行ってはならない」という教会法(注20)の下に置かれていた。この背景には、地上世界と接触を求めてやってくる霊は、人間に害をもたらす霊(→悪魔の手下)なので、霊との交流は教会が独占するという考え方があったため。

キリスト教神学から云えば魔女(または霊能者)とは、「神とキリスト教とを放棄して、神の敵である悪魔に身も心も捧げた」者であり、「神との契約を破棄して悪魔と契約」した者をいう。そのためキリスト教神学からは、最も重い罪にあたることになる(注21)。

 

☆魔女とされた者

魔女裁判では一般には外形上の犯罪事実(→刑法が予定している構成要件に該当する行為)は存在しないので、必然的に自白に頼らざるを得なかった。そのため魔女として処刑された者の中には、しばしば他人と違った言動を取り易い霊的敏感者が数多く含まれていたことが推測できる。現在の日本の刑法犯は、刑法が予定する構成要件に該当(→罪刑法定主義、予め法令に定められたもののみが犯罪とされる)して、さらに違法性(→緊急避難や正当防衛などの違法性阻却事由がないこと)や有責性(→行為時に責任能力があること、心神喪失時の行為でないこと)が存在した場合に、始めて犯罪として成立することになる。そのため当時の自白に頼った魔女裁判とは大きく異なっている。

 

キリスト教の『聖書』には悪魔や魔法使いの話したたびたび出てくる(注22)。カトリックでは悪魔祓い(=エクソシズム)の儀式は教会法で定められているので、「魔術に対しては寛大」であったという。教会が行う魔術とは「白魔術(→病気直しなど利他的な魔術を指す)」のことを指し、この能力は教会の独占物とされた。これに対してプロテスタントは「人間の超能力をすべて否定」(注23)した。キリスト教会がスピリチュアリストの交霊会を批判する背景には、このような事情が存在している。

 

☆英国国教会の対応

スピリチュアリズムはキリスト教の聖職者から、「スピリチュアリストは悪魔の手先」であり、交霊会の現象は「悪霊や悪魔の仕業」であると絶えず批判を受けてきた。なぜなら英国国教会は「神と無縁のあらゆる魔術に反対の立場」をとってきており、霊を呼び出す交霊会などは、国教会の教義上受け入れがたく、道徳的には堕落し、社会的には卑しいものと見ていたからである(注24)。

ただし国教会の正統派の一部から、スピリチュアリズムは「国教会の綱領に反している」ことは認めながらも「唯物論との戦いにおいて心霊主義が非常に有効な戦力となる」として、ある程度容認されてきた現実があった(注25)。このように国教会の内部には、スピリチュアリズムに対する暗黙の容認が下地としてあったことが知られている。

 

☆スピリチュアリズム調査委員会

上記のような背景があって、英国国教会は1937年に「スピリチュアリズム調査委員会」を設置した。委員会設置のきっかけは「当時ロチェスターの参事会員で、のちに主教となったアンダーヒル神学博士(Dr. Francis Underhill)と、心霊体験の豊富なロンドンの牧師エリオット氏(Rev. M. Elliott)の二人がテンプル大主教に、そろそろ国教会もスピリチュアリズムを本格的に調査・研究すべき時期にきていると強く申し入れた」。これに対してテンプル大主教は「よかろう、ということになった」(注26)。このような経緯があって「スピリチュアリズム調査委員会」は設置された。それ以降、国教会は二年間にわたって霊媒を使った調査研究を正式に行った。

 

調査委員会は10人のメンバーから構成されていた。二年間のスピリチュアリズムに対する調査研究の結果、多数意見に署名した者7名(→スピリチュアリズムを肯定した委員)、中立の少数意見に署名した者3名であった。このスピリチュアリズムを肯定した調査報告書は、カンタベリー大司教によって“発禁処分”にされた。

国教会当局はこのような処置をとったため、「公約した二年が過ぎても公式の声明がないことに、スピリチュアリズム関係者だけでなく司教たちの間でも不満が募り始めた」。そこで「サイキック・ニューズのスタッフはバーバネルの指示で、研究チームのメンバーを探り出して研究成果の報告書Majority Reportを入手し、それを(1947年に)サイキック・ニューズ紙に掲載した。それはスピリチュアリズムを全面的に肯定するものだった」(注27)。この報告書はヨーロッパ中に一大センセーションを巻き起こした。

 

<4.キリスト教スピリチュアリズムの台頭>

①.思想闘争

☆破邪顕正

子供時代に受けた宗教教育は、子供の精神構造の柔軟さゆえに容易に潜在意識の中に固着し蓄積して、その人の思想のベース部分を形成していくことになる。そしてその人の支配的な思想となって、あとから入ってくる思想の受容に障害となる。年齢を重ねるに従って新しい思想の受容を拒否する傾向が強く見られる。さらには後から入ってきた思想が支配的な思想によって変質してしまうケースも見受けられる。

 

高級霊シルバーバーチの専属霊媒のバーバネルは前者の「拒否するケース」として、聖職者のスピリチュアリズムに関する対応にそれが見受けられると述べている。聖職者は「死後個性の存続」や「顕幽の交流」といった霊的事実に対して、キリスト教の教義からこれらを頑なに拒否している(注28)。

後者の「変質するケース」としては、支配的思想たるキリスト教や民族宗教によってスピリチュアリズムが変質していくケースがある。いわゆる「折衷的スピリチュアリズム」または「ローカル・スピリチュアリズム」と言われるものである。これらの代表的な事例としては「キリスト教的スピリチュアリズム」や「和製スピリチュアリズム」、さらにはブラジルにおける「カルデシズム(=スピリティズム)」などが良く知られている。

 

☆「キリスト教+スピリチュアリズム」

キリスト教の場合には「キリスト教的スピリチュアリズム(=キリスト教心霊主義)」に、スピリチュアリズムの変質が見られる。“確信的なキリスト教徒”の場合は、キリスト教の教義がその人の支配思想となっている。そのため後から入ってきたスピリチュアリズムが受容されたとしても、その人の支配思想(→キリスト教の教義)に合致するように解釈し直されて変質してしまうことになる。

一般にある思想を受け入れたということは、当人の精神構造に於いて熾烈な思想闘争が存在したことを物語る。それが不完全な場合には、いわば“いいとこ取り”の折衷的な思想となって「ローカル・スピリチュアリズム」が誕生する。

 

高級霊のインペレーターは、破邪顕正の必要性を次のように述べている。「古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り崩さねばならぬ。新しきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ」(注29)。

思想の純粋性を高めるのと比例する形で、精神的に煩悶する度合いと、煩悶のための一定期間を経ることが求められることになる。なぜなら価値あるものを入手するためには、その代償を支払わなければならないからである。

 

②.キリスト教的スピリチュアリズム

☆「キリスト教心霊主義」と「反キリスト教心霊主義」

ジャネット・オッペンハイムは、イギリスのヴィクトリア朝(1837年→1901年)やエドワード朝(1901年→1910年)の社会精神史を扱った『英国心霊主義の抬頭』の中で、スピリチュアリストを「キリスト教心霊主義者」と「反キリスト教心霊主義者」の二つに分けてその違いを述べている。

 

オッペンハイムによれば「キリスト教心霊主義者」の大部分はキリスト教信者によって占められており、スピリチュアリズムによって「死後の世界の存在が証明されれば、キリスト教の立場が強化されて教義体系が補強される」と信じているという(注30)。

これに対して「反キリスト教心霊主義者」の多くは、「無神論者や世俗主義者、自由思想家を経由してスピリチュアリストに転向した者である」と述べる(注31)。著名なスピリチュアリストの宗教性を見れば、オッペンハイムが述べていることは理解できる。

 

たとえば心霊研究協会(SPR)の創設メンバーであるヘンリー・シジウィックやマイヤース、さらにはガーニーやポドモアは聖職者の息子であったが、成長するにつれてキリスト教に対する信仰を失っていった(注33)。またシルバーバーチの専属霊媒のバーバネルは自ら著した「シルバーバーチと私」(注32)によれば、小さい頃から両親の宗教に関する議論(→父親は無神論者、母親は信心深いキリスト教徒)を見聞きして、「私は次第に無神論に傾き、それから更に不可知論へと変わって行った」(注32)と述べている。これに対してモーゼスは牧師であったためスピリチュアリズムの受容には熾烈な思想闘争を経る必要があった(注33)。

 

☆世界クリスチャン・スピリチュアリスト協会(GWCSA

1931530日に「世界クリスチャン・スピリチュアリスト協会」が結成された。この団体はキリスト教の教義とスピリチュアリズムを折衷したスピリチュアリズムを説いている。この団体の折衷的見解は、協会(GWCSA)加入に際して求められる宣誓項目に顕著に表れている。宣誓項目は次の(1)から(9)まである(注34)。

(1)私は愛である“一なる神”を信じます。

(2)私はイエス・キリストの主なることを認めます。

(3)私は神が聖霊の無限の力を通じて顕れ給うことを信じます。

(4)私は人間の魂の不滅及び死後も個人的に存続することを信じます。

(5)私は神との交通、天使との交通、他界の霊との交通を信じます。

(6)私は神により創造されたすべての生命はその完成の時まで、相互に依存し合い、かつ進歩するものであることを信じます。

(7)私は全てを支配し給う神の法は至高の正義であることを信じます。

(8)私は犯した罪はイエス・キリストの贖罪の力を通じ、本人自身の改悛と他者への奉仕によってのみ、償われ得ることを信じます。

(9)私は常に、イエス・キリストの教えと行為を手本として、自己の思想、言葉、行為がそれに習うよう努力いたします。

 

上記項目中、明らかにスピリチュアリズムの基本原則に反しているのは、(2)と(8)である。(2)の「イエス・キリストの主なること」が「三位一体」として「神の子たるキリスト」を指しているのであれば明らかに誤りである。スピリチュアリズムの立場は「イエス人間説」だからである。

また(8)の「贖罪」についてもスピリチュアリズムの観点から見て誤りである。贖罪とは罪を“贖う(死と罪からの救済)”ことをいうが、高級霊シルバーバーチは因果律の観点から、いかなる人間も自分以外の者のために代わって苦しみを受けることはできない。自分を成長させるのは自分であり、他人は代わって行うことは出来ないと述べて、贖罪説を因果律の観点から否定している。

世界クリスチャン・スピリチュアリスト協会は、海外普及に非常な努力を払っており、各地で布教に成功しているという(注34)。高級霊シルバーバーチは、霊的真理はそれを受け入れる用意のある人にしか理解されないと述べているので、布教形態が従来のキリスト教的な活動を指すのであれば意味がないことになる(注35)。

 

☆国際スピリチュアリスト連盟

このようなさまざまな事情が反映されて、第二次世界大戦後の国際スピリチュアリスト連盟(International Spiritualist FederationISF)では、参加資格を基本原則の「人間の個性は死後も存続する」と「顕幽の通信は可能である」の二つに限定(戦前の基本原則は四か条)した。「神概念」「人類同胞思想」「霊魂の永遠の向上(再生のケースを含む)」については、加盟団体が抱く原理に意見を表明せずとの姿勢を取った(注36)。これはキリスト教心霊主義を含む「〇〇的スピリチュアリズム(→ローカル・スピリチュアリズム)」の存在に配慮したものと思われる。

 

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