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4.「千里眼自覚術」三田光一のデビュー

目 次

ア)三田の健康法

・病の克服

・「精神旅行」とは

イ)「千里眼自覚術三田光一」デビュー

・千里眼自覚術三田光一

・修養主義とは

・精神修養団「洗心会」結成

 

<注40>~<注50

 

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ア)三田の健康法

☆病の克服

前述したように「吾人(三田光一のこと)は明治36年の師走より肺結核に犯され、同40年の立春まで40ヶ月の間を病床に暮らしたのである。主治医は吾人のたびたびのかっ血に恐れたものか、密かに吾人の親、兄弟に向かって、もはや絶対に回復の見込みなしと断定された」(注40)として、医師から不治の宣告を受けたと述べている。

 

この宣告を受けた三田は次のような「セルフヒーリング(自己治療法)」を行った。

まず「主治医による一切の手当ては、衛生的見地より怠らず、もちろん薬のごときも強壮剤であると信じて服薬」して西洋医学を取り入れたこと。その上で「自己暗示法」を取り入れて「自分は疾病者であるという観念を放棄」して、「自己の身心は健全であると観念」して、自然治癒力の活性化をはかったこと。さらにセルフヒーリングの一環として「吾人は腹部の調整を考案して朝夕に腹式の呼吸法を行う」として、「長息呼吸法」によって「気」を摂取して体内のエネルギー循環の改善を行ったこと。「精神を旅行せしめて、精神登山または精神温泉入浴等に努め、身心の保養をなした」(注40)こと。このようにして病を克服して健康を回復した。

 

三田が行った「呼吸法」と「自己暗示法」は、当時の民間療法としては一般的なものであり、多くの「霊術家」がそれぞれ独自の方法を編み出して盛んに行っていた。病を克服した三田は自身の体験を「大気養法」と名付けて、その具体的な修法を大正4年2月に『大気養法実行』として公開した。この『大気養法実行』は版を重ねたが長らく絶版となっていた。その後昭和7年に『霊観』として再刊された(→三田の世界主義、民族主義、日本主義等を述べた論説を加えて、旧版の装いを改めて刊行された:注41)、

 

☆「精神旅行」とは

三田が行った「朝夕に腹式の呼吸法を行い、加ふるに精神を旅行せしめて精神登山、また精神温泉入浴等に努め、もっぱら心身保養を為し」たという「精神旅行」は、『霊観』の記載によれば次のような形で行われた。

まず姿勢を正して丹田を鍛える腹式呼吸や調息呼吸法を行い精神統一に入る。そして統一中に各自が過去に旅行に行ったことを思い出して、その旅行を再現する。たとえば感銘を受けた旅行の思い出を最初から再現して、旅行の準備をして自宅を出る。交通機関で目的地まで移動して、旅館に到着し、温泉に入って名物料理を食べる。翌日その地の名所旧跡を巡って再び自宅に戻ってくる。これを精神統一中に想念の中で再現する。このことを三田は「精神旅行」と名付けている。

 

このような三田の養生法は、いわば「精神統一法」と「長息呼吸法」と「自己暗示法」を組み合わせたものといえる。これは三田自身の体験によって考えだされた精神統一の方法であるとされるが、その人に何らかの霊能があれば遠隔透視の訓練にもなる。

三田の『霊観』(注42)には、帝国自覚会の本部会員が毎日朝夕2回の「精神統一中の精神入湯」で、慢性胃拡張を治した話が載っている。この会員の場合は「精神入湯」によって病気が治癒すると同時に霊能力も発現した。

 

会員の体験談によれば、毎日行っていた精神統一状態の「精神入湯」の際には、8年前に行った熱海の温泉旅館を想念した。想念の中で毎回旅館に出向き入湯を続けていたが、「精神入湯」を始めてから2か月を過ぎた頃から、旅館の部屋の様子が変わり番頭や女中も変わって現れたので不思議に思っていた。この会員は後日、東京での法事の際に熱海の旅館に立ち寄って裏付け調査を行っている。その調査の結果、精神統一中に行った「精神入湯」の際に見た出来事は、部屋の模様替えや番頭・女中の交代も含めてことごとく現実と一致していたことが確認されたという。

このケースの場合は、三田の考案した「精神旅行」を組み合わせた精神統一法によって、現実に体外離脱体験(遠隔透視)をした事例であり、会員の霊能が「精神入湯」によって開花したケースであった。このように三田の「精神旅行」は、自らの病気を治癒するセルフヒーリング(自己治療法)であったと同時に霊能開発法でもあった。

三田は自分自身でこのような霊能開発法を行って、生来の霊能力を高めて透視を行った。

 

三田の霊能力の特徴は提出されたテーマが透視の場合には、自らの身体は実験会場に置いて、体外離脱して所定の場所(→大垣城、裁判官官舎等)を巡って見て回り、再び実験会場に戻って透視内容を伝えるという方法をとったことである。三田の言葉にしばしば「行って見てくる」という表現があり、これが透視や念写の心霊現象の裏側を物語っている。

たとえば昭和4年12月の日本地下水協会における実験会では、「私は理事長佐々木氏の御宅に行って見ました」「最後にクルー市から、ロンドンに帰るついでに、その郊外の景色を見てきました」(注43)という表現を使って報告している。そして「行って見て」きたものを「乾板に写るように念じました。何か分からないが、現像すれば社長のものに相違ないものが現れます」(注43)という表現を使って念写を説明している。

月の裏側の念写像も体外離脱して宇宙空間から見てきた月の映像を、面前にある乾板に写るように念じたら、月の裏側の画像が念じた通りに現れたということになる。ここからも三田の透視や念写には「サイキック能力」の特徴がよく表れている。これは後述する東條病院(昭和2年4月)での、死の直後の幽体を見た「スピリチュアル現象」とは、性格が明らかに異なっている。

 

イ)「千里眼自覚術三田光一」デビュー

☆千里眼自覚術三田光一

明治44年1月は「千里眼事件」が起きた年である。三田はこの事件の経緯を注視していた。それは三田自身が各種の新聞記事を切り抜いて、スクラップ・ブック(注44)を作成していたことからも分かる。この明治44年(26歳)という年は、三田が「千里眼自覚術三田光一」として始めてデビューした年でもあった。この年の8月12日の『やまと新聞』に「仙台付近からまたまた不思議な男が現れた。この男の名を三田光一といい、未だ年の若いハイカラな優男だ」「客年8月に東京明治座の池田氏の世話で始めて之を(千里眼)公演した」(注45)との記載が掲載されている。この掲載記事に登場した東京明治座の公演は非常に好評であった。そのため大阪松竹合名会社の大谷氏の世話で、引き続き大阪と京都の二箇所で千里眼の公演が行われている。

 

明治449月1日『大阪毎日新聞』の「京都付録」の記事によれば「記者の提供せし六重包の写真版みごとに的中」との見出しで、実験会の模様が次のように記載されている。

――「30日午後7時から在京新聞記者を始め千余名を招待して試演した」「記者は密かに或る物に加工して六重包に密封せしものを提供した」「(三田は)椅子に坐って黙考すること暫時やがて斜に構えて凝視すること数分にして、中には黒色の箱があるがその箱のなかには紙が一杯になっている。その紙の色はと聞けば鶯色の茶と立派に答えた」「(三田の回答に)記者が宜しいというと満場の客は拍手喝さいを以て歓迎する。記者はなお其のなかはと問えば、板に薬のかけてある写真板と答えて、記者が的中というや満場は大成功と呼び日本一とたたえた」――。

 

この他に同じ年(明治44年)の1121日に朝鮮の昌徳宮の李王殿下等が居並ぶ前で透視等を行っている(明治441122日京城日報:注45)。なおこの時期の三田の透視は、本人自身で「千里眼自覚術」と称していたことから「術」としての認識であったことに注目する必要がある。三田自身には、自らの創意工夫によって透視等の技術を身につけ、高めたとの意識があったからである。

 

☆修養主義とは

三田は自らの肺結核を「呼吸法」と「自己暗示法」によって克服した体験を基にして、明治40年(21歳頃)頃に「大気養法実行」という養生法を編みだして指導を始めた。これがのちの「洗心会」へと繋がっていくことになるが、この「精神修養団体」結成の時代背景を探ってみた。

 

近代日本の文化や社会意識を考える際に「教養主義」と「修養主義」の問題がある。一般に旧制高校生(エリート)の中核文化として「教養主義」があり、この対極に大衆文化の中核としての「修養主義」があるとされている。

修養とは「修身」(自分の行いを正し、身を修めること)と「養心」(心を立派に育てる)の合成語で、一般に精神を練磨して人格形成に励むという意味で使われている。この言葉は元々道家の養生の意味(健康に注意して体を丈夫にする)として使われていたが、江戸時代の思想家、貝原益軒(1630年→1714年)は「養生訓」の中で、初めて「人の道」として説いた。江戸時代の後期になると修養は儒教と結びついて、寺子屋や漢学塾の教科内容、二宮尊徳の報徳思想などを通して一般民衆の間に大きな影響力を持つようになった。このように日本には「修養」の文化があり、これが「人の道」「自己訓練」のための実践思想として各方面に引き継がれていった(→和製スピリチュアリズムの中にも「修養」の文化が引き継がれている)。

 

筒井清忠氏(帝京大学教授)の調査によれば、「修養」という用語や観念が国民の比較的広い層に社会意識として受容され始める時期は、明治30年~40年代であるという(注46)。この時期は明治国家の体制が固まり、立身出世主義に陰りが見え始めてきた時期でもあった。教育社会学が専門の竹内洋氏(京都大学教授)の『立身出世主義(増補版)』(注47)によれば、修養読本刊行点数は明治38年から大きく上昇してそのまま高止まりになったという。また明治30年から40年頃に新渡戸稲造氏や野間清治氏(講談社創立者)等による「修養・修養書」ブームも起きている。このような「人の道」や「自己訓練」といった修養文化が、次第に明治期の修身教育の中に取り込まれていった。

 

これ以外の動きとしては明治38年西田天香氏による「一燈園」の設立、明治39年蓮沼門三氏による「修養団」の設立など。また宗教団体の大本では「霊主体従」という表現で「修養」を説いていた。大本時代の浅野和三郎は「霊主肉従」という言葉を用いて、大本の機関誌『神霊界』に論稿を載せている。

このような近代日本における「修養主義」を海外の識者はどのように見ていたか。日本文化を論じた識者として知られるルース・ベネディクトは、『菊と刀』(注48)の中で「修養」を日本人の自己訓練の概念としてとらえている。三田光一の精神修養団の結成の背景には、このような「修養」ブームという事情があった。

 

☆精神修養団「洗心会」結成

三田は大正2年6月(28歳)に、人は「崇高なる人格と健全なる心身の保持者」(『霊観』216頁)となって意義ある人生を送るべしと考えて、「心身保健の実行指導」のため精神修養団体を高知市で結成した。団体の名称を精神修養団「洗心会」としてここに本部を置いた。この団体の発起人の中には、土佐電気会社支配人、土佐銀行支配人、五台山竹林寺住職や素封家などの名前が連なっている(『霊観』参照)。三田の人脈の特徴は、晩年までその地の有力者や実業家・名望家等が彼の周りを取り巻いていたことである。

 

三田は10歳の時に丁稚奉公に出て以降、社会の荒波にもまれていく中で、次第に有力者の庇護の下で生業を行う世渡り術を体得していったのではないだろうか。またこの時期、郷里から遠く離れた高知で精神修養団を旗揚げしたということは、三田の隠しておきたい過去の出来事との関連から見て興味深い。

 

「洗心会」は翌年(大正3年)の初夏に、本部を高知市から神戸市に移転した。その際に会の名称を「帝国自覚会」に改めた(注49)。これについて次のような新聞の切り抜き(新聞名は不明)が残っている。

記事は「自覚会発会式」という見出しで「神戸の自覚会は2日午後7時より花隈町花隈倶楽部に於いて同会本部の発会式を行いたる・・・のち三田氏は養気法について講話あり、続いて物体透視実験3回行いたるが何れも見事に的中して大喝采を博し、更に人体遠視1回を実験し、終わりに数回の遠距離透視あり11時閉会した」(注50)。この時も兵庫県知事、神戸市長、神戸相生橋警察署警視、代議士、弁護士、神職等が後援者として名を連ねている。

 

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<注40

■三田善靖著『霊観』(昭和7年発行)214頁。

<注41

■三田善靖著『霊観』の中の「本書発行に就いて」参照。

<注42

■三田善靖著『霊観』254頁。

<注43

■福来友吉著『心霊と神秘世界(復刻版)』(人文書院1986年刊)124頁以下。

<注44

■『福心会報』№14、「三田光一氏の新聞切抜帳より①」14頁以下。

<注45

■『福心会報』№15、「三田光一氏の新聞切抜帳より②」60頁以下。

<注46

■筒井清忠著『日本型“教養”の運命』(岩波現代文庫)4頁、16頁参照。

<注47

■竹内洋著『立身出世主義』(世界思想社2005年刊)219頁、図102明治期における修養読本刊行点数。

<注48

■ルース・ベネディクト著、長谷川松治訳『菊と刀』(講談社学術文庫)11章参照。

<注49

■三田善靖著「霊観」の中の「本書発行に就いて」参照。

<注50

■「福心会報」№16、№17合併号、「三田光一氏の新聞切抜帳より③」54頁。

 

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