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水戸学について

①.水戸学とは何か

☆水戸学の特徴

水戸学は「前期水戸学」と「後期水戸学」の二つに分ける考え方が一般的である。

一般に水戸学とは、江戸時代に水戸藩で形成された学派で、「国学・史学・神道を基幹とした国家意識に特色がある」思想で、天皇を尊ぶ「尊王論を中核とした思想体系」をいう。

 

☆前期水戸学と後期水戸学

<前期水戸学>

水戸藩の二代藩主、徳川光圀は江戸の藩邸内に彰考館を設置して、本格的な日本の史書(大日本史)の編纂事業(寛文12年:1672年)を行った。この事業から成立した学風を後期と区別する意味で「前期水戸学」として使われる。この編纂事業は寛延2年(1749年)以降中断した。儒学の一学派である朱子学を中心とした儒教的歴史観に立つ『大日本史』の中には、天皇崇拝と幕藩体制の維持をはかる「尊王敬幕思想」がある。

<後期水戸学>

寛政年間(1789年→1800年)以来の藩財政の窮乏・農村の疲弊・士風の弛緩等の内政問題や、イギリス・ロシア等の西欧列強の圧力の脅威等の「内憂外患の危機」を克服するために形成された「学問的傾向」を「後期水戸学」と呼んでいる。本稿で問題になるのは「後期水戸学」である。

 

②.水戸学を代表する人

☆藤田幽谷(ふじた ゆうこく:1774年→1826年)

藤田幽谷は彰考館(『大日本史』の編纂を行う場所)の総裁となり、『正名論』(1791年)を著して水戸学の立場を確立した。『正名論』では「幕府、皇室、を尊べば、すなわち諸侯、幕府を崇び、諸侯、幕府を崇べば、すなわち卿・大夫、諸侯を敬す。それ然る後に上下相保ち、万邦協和す」と説いて、頂点に天皇を戴き、支配層が「名分論的秩序に基づいて、道徳的責任を果たすこと」を強く要請した。「諸侯→幕府→皇室」(矢印の向きは忠誠心を捧げる相手)という具合に、上下の段階的忠誠によって「名分論的秩序の確立」を唱えた。藤田幽谷は支配者としての自覚を促すために尊王論を強調した。

 

☆会沢正志斎(あいざわ せいしさい:1782年→1863年)

会沢正志斎は水戸学を代表する儒学者。文政7年(1824年)5月、水戸藩北部の大津浜にイギリス人が薪水を求めて上陸した。その際に会沢正志斎は藩から筆談役として派遣された。会沢正志斎はこの事件(1824年)と、幕府が発布した「異国船無二念打払令」(1825年)を契機として、国家意識を高めるためと改革断行を行うために1825年に『新論』を書き上げた。

著書『新論』の特徴点は、「祭政一致・政教一致」の政治体制を作り上げて国民の思想統一を図るべきであると述べたこと、「国体」の用語が天皇制的な意味で用いられたこと、「日本を神国視」するナショナリズムを唱えたこと、「尊王攘夷」を唱えているが徳川幕藩体制を擁護する立場に立っていたことなどがあげられている。

この著書は儒学者によって書かれたため、当然儒学理論によって執筆されており、儒学を基礎教養とする武士に受け入れられた。

 

☆藤田東湖(ふじた とうこ:1806年→1855年)

藤田東湖は藩校の弘道館の建学の精神を記した『弘道館記』の解説書である『弘道館記述義』(1847年)を著した。『弘道館記述義』は筆写されて広く普及し、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えたが、「この書は国学の立場に立っていたために水戸学の学者の間では批判が強かった」。なぜなら藤田幽谷以来の水戸学者は儒者であったから。

しかし「水戸学は本居宣長以来の国学の成果を無視できず、いかにして神道と儒教との調和をはかっていくかが課題」となっていた。東湖は『弘道館記述義』において、神儒の折衷を図り、水戸学に国学を導入した。ここに水戸学と国学が結びついたとされる。

藤田東湖の思想は、水戸学の研究者である吉田俊純によれば「回天詩の最後の四句からは、天皇を強く意識し、天皇を中心とした国家の再編が詩的叙述の形をとって表現されている」こと、「一人ひとりが天皇のために主体的に働くことを期待」していることから、藩幕体制を否定する要素が内包されていたという。

このように天皇を意識して、一人ひとりが尊王の自覚を持って主体的に行動するという東湖の思想は、幕末の尊王攘夷運動の思想的背景となった。儒教の立場に立った会沢正志斎の思想よりは、国学の立場に立った藤田東湖の思想の方が、より強く尊王攘夷運動と結びついたという。

 

③.水戸学が及ぼした影響

☆尊皇論が討幕論に集約された

幕末期において「尊皇」「攘夷」「佐幕」「開国」が時の政治状況に応じて、さまざまに組み合わされていきながら、「最終的に尊皇論が討幕論に集約されて明治維新を迎えた」。

安政・万延期(1854年→1861年)の頃、水戸学は天皇の権威を強調する思想(尊皇論)で藩幕体制の安定(敬幕論)をはかる思想であったが、開国以後幕府の政権運営の破綻が明白になってくると、しだいに反幕的色彩を強めて幕政批判の思想的根拠の「尊皇、攘夷、倒幕」論となっていった。一般に「尊王攘夷思想は水戸学を最大の思想的源流とする」とされている。

現実には尊王と攘夷はますます強調されながら、「内実は討幕のための戦術的スローガン化されていった」。水戸学は吉田松陰、大久保利通たちを通して、明治政府の指導者に受け継がれて、天皇制国家の下での教育政策や国家秩序を支える理念(天皇制や国体論など)となっていった。

 

☆天皇制イデオロギーと水戸学の関係

水戸学は明治以降の政治形態に「国体論」「祭政一致」「天皇制イデオロギー」として影響を及ぼした。会沢正志斎の『新論』に関しては、吉田俊純著『水戸学と明治維新』(吉川弘文館2003年刊)80頁の記述がそのポイントをついている。

――正志斎は天皇の営む神道行事を、民衆教化の核心として提起する。そのためには、天皇の祭祀を重視するとともに、民衆が素朴に行っていた神道行事なども、天皇のもとに体系化することを説いた。・・・かくすることによって、日本人の心は統一されると説くのである。それは当面した異国船を打払うための攘夷にとどまらず、天皇のもとに世界秩序を打ち立てるための力の源泉として説かれたのである――。

正志斎の『新論』では天皇のもとで一丸となって欧米列強と対抗(→異国船打払いという形で)して、世界を支配(宇内を照臨し)すると述べていたために、昭和期のファシズムにおいて広く取り上げられた(→会沢正志斎が政治に利用された事例)。

 

☆水戸学と明治の教育勅語との関係

水戸学と明治の教育勅語との関係について、教育勅語には「億兆心を一にして」との表現があり、会沢正志斎の『新論』と同じ表現が使われている。また『弘道館記』が学問をする上での前提として掲げている「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「神儒一致」の四綱目が教育勅語の文章から読み取れるという。戦前は教育勅語と水戸学は似ていると一般にはいわれてきたが、「近年では教育勅語は水戸学的要素のほかに近代的思想が取り入れられていることが明らかとなっている」と吉田俊純は言う。

水戸藩の藩校「弘道館」設立の趣旨を記した碑文(弘道館記)は藤田東湖の草稿であるが、この『弘道館記』の論旨は藩幕体制の肯定部分を除いて、かなり教育勅語の文面に似ているという。

 

☆国家体制に組み込んだキーマン

水戸学と教育勅語との関係について、熊本藩士の横井小楠(よこいしょうなん:1809年→1869年)は福井藩主の松平慶永(まつだいらよしなが:1828年→1890年)の政治顧問であり公武合体論政策を推し進めた人であるが、彼は水戸学を支持し、会沢正志斎の『新論』を評価していた。その横井の後輩に明治の教育勅語に携わった元田永孚(もとだながざね:1818年→1891年)と井上毅(いのうえこわし:1843年→1895年)がいた。井上は大久保利通や伊藤博文のブレーンとして活躍し、教育勅語や軍人勅諭の起草に参画したという。このあたりから「後期水戸学」が明治の国家体制の中に組み込まれていった経緯が読み取れる。

 

④.水戸学に関する参考文献

・日本思想体系53巻『水戸学』(岩波書店1973年刊)

・原田種成著『会沢正志斎・藤田東湖』(明徳出版社1981年刊)

・芳賀登著『近代水戸学研究史』(教育出版センター1996年刊)

・吉田俊純著『水戸学と明治維新』(吉川弘文館2003年刊)

 

 

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