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3.三田光一の念写能力

目 次

ア)実験会の批判的検討

イ)名古屋毎日新聞主催の公開実験会

・公開実験会での念写

・批判的検討

ウ)日本地下水協会における実験

・遠隔念写実験

・念写像のホープについて

エ)念写の考え方

・福来友吉の考え方

・福来心理学研究所の総括

オ)三田光一による念写一覧

 

<注24>~<注36

 

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ア)実験会の批判的検討

福来友吉は、三田光一を真実の透視・念写能力者であり、従来の能力者と異なって公衆の前で自由にその能力を発揮することが出来るとして、雑誌『変態心理』の中で紹介した。これに対して小熊虎之助氏は、自身の著書『心霊現象の科学(改訂版)』(注24)の中で、三田の実験会の問題点を次のように指摘している。

 

A.実験会全般についての問題点として、

乾板の選択、乾板の吟味、乾板の監視、念写題目の選択、透視物の吟味が、少しも学術的、実験的なものではない。ことに実験者の多くは素人からなった多数の人々の集会である。

B.福来博士に対しては、

博士の報告そのものにかなりの欠点がある。学術的にはそれは報告書としての価値が殆んどない。

 

小熊氏の批判を突き詰めて言えば、後日になって実験会当日の内容を不参加者が検証しようとする場合を想定して、報告書の中に必要事項がすべて網羅してあって、全体的に客観性が担保されていること。最低限これらの要件が満たされていなければ“実験会の報告書”としては価値がないということであった。

当時四面楚歌状態の福来は、三田の透視や念写の紹介に一生懸命なあまり、基本的な事実関係の記録に向ける注意がおろそかになっていたのではないだろうか。実験会に立ち会っていない者や後年の研究者にとっては、無味乾燥な記録の列挙は内容の成否を判断する生命線ともいえる。小熊氏はそこを指摘したいのであろう。

 

イ)名古屋毎日新聞主催の公開実験会

☆公開実験会での念写

三田光一は大正6年(1917年)2月8日坪井秀宅で福来友吉と出会った。この夜、福来は三田に念写のテストを行っている。二枚の乾板に「至誠」という文字を念写したが、当日の福来の乾板には変化はなく、2月10日に名古屋毎日新聞が主催した公開実験会の乾板に念写されていた。この出来事が福来の著書(注25)に記載されている。

 

A.日時・場所

大正6年2月10日、県会議事堂での公開実験会(3500名参加)、名古屋毎日新聞社主催

B.公開実験会における乾板の監視

主催者の依頼によって、写真師富田氏が1ダース乾板(原封のまま)を提出して来賓の第三師団の参謀長と神頭勝弥氏の前に置いて、乾板の監督を依頼した。

C.念写題目

三田光一が念写題目を何にしたらよいかを見物人に質問した。見物人から「松井知事の肖像」「騎馬兵士」「総理大臣当時の桂公」の三題が候補者として提出された。この候補の中から来賓の神頭勝弥氏が一つを選択することになった。神頭氏は「総理大臣当時の桂公」を選んだ。さらに三田が念写すべき乾板(1ダースの乾板の幾枚目に念写するか)については、神頭氏の発言によって6枚目と決定された。

その結果、「総理大臣当時の桂公」の肖像を、「1ダースの乾板の6枚目」に念写することに決定した。

D.三田の念写

三田光一は檀上の椅子に腰掛けた。三田と神頭参謀長の間は三間余もあった。三田は神頭参謀長の卓上に置いてある乾板に念写すべく統一に入った。二分程して統一が終了した。三田は確かに6枚目に写しました。と宣言した。

E.乾板の現像

神頭氏は三田が念写した乾板をポケットに入れて、2,3人の立会者とともに岩田写真館の現像室に行って、技師に依頼して現像を行った。

F.乾板の現像結果

乾板の6枚目に「総理大臣当時の桂公」に似た肖像が現れた。試みに6枚目を挟んでいる5枚目と7枚目との乾板を現像してみるとそれにも何か現出していた。その像が乾板の端に偏っているので、何であるかの判別が付かなかったが、試みに5枚目と7枚目をつなぎ合せて見ると「至誠」という文字になった。

 

☆批判的検討

大正6210日(名古屋毎日新聞主催)の公開実験会について、

A.乾板の準備段階の問題点

写真師の富田氏が原封の状態にある1ダース乾板を提出したが、この乾板の準備の段階で三田の側近の関与(問題点A)はあったのか。

B.乾板の製造技術の問題点

当時のフィルム製造技術の問題もある。製造過程の不備の可能性や、フィルムの感光剤に使われている臭化銀にムラがあった可能性、乾板の包装が不完全で一部感光してしまった可能性などが考えられる。そしてその感光部分が偶然に念写像となったのではないかとの疑念(問題点B)があげられる。

C.念写像の選定の問題点

念写像の選定については、見物人から候補を挙げてもらい、その候補の中から神頭参謀長が一つを選択したとなっている。批判者からは見物人がサクラではないかとの疑念が当然に出てくる(問題点C)。

D.乾板の現像過程の問題点

念写された乾板を神頭氏はポケットに入れて、岩田写真館の現像所に行って技師に現像させている。岩田写真館に云ったのは、神頭氏以外に2,3人としか記載されていない。この中に三田の側近がいたのかどうか(問題点D)。側近がいた場合にはすり替えた可能性も指摘される。

 

E.上記の問題点に関する検討

問題点A――記載内容からは側近の関与の有無は不明である。

問題点B――製造技術上の問題に関しては、乾板の感光剤のムラや、感光部分が偶然に「桂公」と思われる像の形をとったとは、一般的には考えにくい。

問題点C――この点について福来博士の報告書には記載がないので不明。しかし仮にサクラを置いていた場合であっても、選定候補の最終決定権は神頭氏が持っているので、念写の真実性は担保されたといえる。また三田は三間余も離れた位置から念写しているので、神頭氏の前に置いてある乾板に触れることはできない。

問題点D――現像の場面に写真技師以外に誰が立ち会ったのか、記載からは不明である。

 

F.結論

大正6年2月10日(名古屋毎日新聞主催)の公開実験会については、上記問題点Aと問題点Dにトリックの可能性が考えられる。問題点Aの関与に関しては写真師富田氏、問題点Dの関与については神頭氏のそれぞれの実験会における責任ある立場上から、当然に職責を全うすると思われる。したがって両氏のプライドから考えて、一般的にはトリックを排除する行動をとると考えられるため、筆者は批判者が指摘するトリックの可能性は極めて小さいと考えている。批判者はあらゆる可能性を取り上げてトリックの可能性を論じてくるので、それに対して実験会の記録者は、のちのために事実関係をきちんと整理して残しておくべきである。

 

ウ)日本地下水協会における実験

☆遠隔念写実験

日本地下水協会における実験は、昭和4年(1929年)1231日から始まった。この実験は翌日の元旦に三田が神戸市須磨の自宅から、大阪市東区の日本地下水協会の金庫の中に入っている乾板に遠隔念写を行う方法で行われた。「念写実験の吟味―福来心理学研究所所員共同研究―」(注26)では、「実験55(馬の絵、人物、風景、青木秋堂の文字)、能力者三田光一、福来博士による実験」として記載されている。福来博士自身の著書の『心霊と神秘世界』(注27)にも記載がある。

 

A.打ち合わせ

昭和4年1231日正午頃に、大阪市東区野村ビルディング内の日本地下水協会事務所において、福来友吉、三田光一、日本地下水協会社長青木止貞、同理事長佐々木正一、同理事中澤直幹、同理事川内巧、同役員松本延太郎、同横多志郎、同村山芳松の各氏9名が集まって念写の打ち合わせを行った。

 

B.実験の経緯

村山芳松氏が近くの写真材料店から1ダースの手札型乾板を買ってきて、全員で協力してこの乾板に十字形の封をして印をおした。これを事務所の金庫に入れて鍵をおろし、カギは実験終了まで青木社長が保管した。念写題目として福来博士は英国のポープ氏の像を提出。その他の題目は合議の結果三田の自由にまかせた。

三田は昭和5年1月1日に神戸の自宅から、大阪市東区の日本地下水協会の金庫に入っている乾板に念写をした。1月3日正午頃に一同は約束により事務所に集合し、三田から念写実験の経過報告があった。その後一同で金庫から乾板を出して外形を確認した。封印を点検し何ら異状も認められなかった。合議のうえで福来博士が乾板を現像する事になった。事務所に暗室がないために、博士は乾板を自宅に持ち帰って現像し、6日の昼ごろその結果を報告することを約した。4日夜福来博士は専門の写真技師を招き、博士の監視の下で実験の乾板を現像させた。1月6日に関係者一同が事務所に再び集まって、福来博士から現像結果の報告を受けた。

 

C.三田の念写実験報告

私(三田光一)は正月元旦、午前2時46分に精神統一を始めました。まづ最初に私は理事長佐々木氏の御宅(堺市)に行ってみました。氏はまだ寝に就かず、大いに酒を飲んで居られました。床を見ると桜洲画伯の馬の絵が掛軸に針で縫い付けてありました。私はこの馬を一枚目の乾板の真ん中に念写する様に念じました。私は唯一枚だけに念写するつもりでしたが、念写に取りかかると、なぜか三枚の乾板が相次いで現れました。それで一枚目、二枚目、三枚目の三枚には馬が写っていると思います。次に、私は英国クルー市に行き、ポープ氏を見ました。氏は片手をテーブルの上に置き、犯すべからざる権威のある眼差しで窓から外を見て居られました。私はその姿を五枚目に写しました。

 

次に私は青木社長の御宅(芦屋)に行きました。社長はまだ寝んで居られました。元旦の朝には正装して机に向かって居るという事であったのに、こりゃ約束が違うと思いました。いや私の行くのが早すぎたのであるから私の方が悪いと思いなおしました。と思って居ると、社長はいつの間にやら寝巻のままで机に向かって座し、筆を取って頻りと首をひねって居られました。それで私は、何でもよいから社長の心中にあるものを十二枚目の乾板に写る様に念じました。何か解らないが現像すれば社長のものに違いないものが現れます。

 

最後にクルー市からロンドンに帰る序に、其の郊外の景色を見てきました。湖水があり、森があり、広々とした草原があり、ずっと向こうの空に夕焼けが赤々として大変に良い景色でした。それを六枚目に写しておきました。精神統一を終わって時計を見ると、一分四十秒を過ぎて居りました。

 

D.福来博士の報告

1枚目、2枚目、3枚目にはそれぞれ馬の絵(注28)が現れた。4枚目は無感光、5枚目には人物像(注29)、6枚目には風景(注30)、7枚目~11枚目は無感光、12枚目には青木秋堂の文字(注31)が現れた。秋堂とは青木社長のペンネームである。三田の報告通りの結果である。福来博士は一同にこれを知らせた。立会人の佐々木氏は馬の念写が野原桜洲画伯の絵にそっくりだといい、青木氏は念写の文字が自分の書体そのままであることを認めた。

 

☆念写像のホープについて

念写された5枚目の乾板に現れた人物像について、福来は「英国に滞在中、私はホープ氏に僅か二回しか会わなかった。それさえも、私の心は研究の方に奪われていたので、氏の面貌については、私の記憶がはなはだ不明瞭である。だから念写に現れた人物の面貌が、はたしてホープ氏と同じであるや否やについて、断言することはできぬ」と述べて学者らしい慎重さで結論を保留した。この人物像に関してホープ氏をよく知っている某英国人(だれかは不明)は「この念写に現れた人物はホープの肖像ではないと断言した」(注32)。

 

この人物像に関して後日談がある。森下正信氏は霊能者でもあったが、松山高等学校の教授をしていた1930年に海外留学の途中にロンドンに立ち寄り、クルー街に出かけてホープと会っている。当時日本人でホープ(1863年→1933年)と会った人は、浅野和三郎、宮澤虎雄、福来友吉、久米邦武を含めても数人位であったという。その森下正信氏に甲山繁造氏(千原範一氏)は昭和341225日に会って話を伺った。甲山氏は森下氏に福来著の『心霊と神秘世界』第42図の写真(人物像)を見せて尋ねたところ、即座にホープ氏であると答えた。なお森下氏は『心霊と神秘世界』を見たのは今回が初めてとのことで、しげしげと書籍を眺めていたという。三田が念写を行い長い間不明であった人物像が、30年ぶりにウイリアム・ホープであることが確認された(注33)。

 

エ)念写の考え方

☆福来友吉の考え方

福来は念写をどのように考えていたか。「念写実験の吟味―福来心理学研究所所員共同研究」(注34)に、福来博士自身による念写の説明として以下のような事項が載っている。スピリチュアリズムの観点から見れば問題のある箇所もあるが、福来がどのように考えていたかがよく分かるのでそのまま載せる。

 

①.念写は能力者がある観念を“念ずる”ことによっておこる

②.観念(idea)は単なる表象ではなく、それ自身で臭化銀を還元する作用をもった一種のエネルギーである。これは念写の研究から知られる。

③.観念は単なるエネルギーではなく、臭化銀の還元という物理化学的変化が観念の要求する形像においておこるように、エネルギーが作用する空間を規定する働きを有する。こういう点で観念はまた“要求”をともなったエネルギーである。

④.多数重ね合わせた乾板のうちで、間にはさまれた乾板に対する念写が、隣り合った他の乾板に何らの影響なしに行われることがある。また遠距離を隔てても念写が可能である。したがって観念の作用は空間の制限をある程度超越しうる。

⑤.こういう見地から観念に対して今日までとは違った新しい術語を必要とする。それで“念”(nen)という語を提出する。念写は念の作用でおこる。したがって念写作用をネングラフィ(nengraphy)とよぶ。

⑥.ひとたびある念が構成されると、それは永い間にわたって人の潜在意識に刻印されたまま残存し、のちの機会にしばしば活動して同一パターンの念写を行う。

⑦.念写の実験から次の仮説を提出する。念は能力者の肉体を離れて活動し、物質に変化をあたえることができる。だから死後においても(肉体が無くなっても)、念は永い期間にわたって残存するであろう。念写以外の心霊現象も、おそらく生者または死者の念の作用でおこるものと想像される。こういう見地から、今日まで一般に死者の霊という語で表現されてきた概念を、生者の念と同じく死後にもなお残存している“念”という語に置きかえることができる。したがって生者の念の諸性質を、念写を通して研究することによって、霊の本体を明らかにできるであろう。

 

上記⑦の「一般に死者の霊という語で表現されてきた概念を、生者の念と同じく死後にもなお残存している“念”という語に置きかえることができる」は、現在でもインテリと言われる人が「死者の霊」を説明する際に用いる論法と同じである。これはスピリチュアリズムの観点に立てば問題ありの箇所で、浅野和三郎は福来友吉のこの考え方を批判している。

 

☆福来心理学研究所の総括

福来心理学研究所の共同研究者による念写に関する総括は次のとおりである(注35)。

――福来博士によって残された念写原版とその実験記録とを総括的に批判した結果、その全部が誤りなく念写であるか否か、を証明することはできないが、少なくともあるものは写真ではなく念写であろうと考えられる。しかしこれに関しては軽率に判定を下すことはできないし、それはなお将来の実験によって明らかにされねばならない問題である――

このように総括して結論を先送りしている。念写には次の9種の特性が見られたという。

 

①.念写の実験は常に成功するとは限らない。これは念写するものが単なる自然科学の現象と違って、能力者の心理条件の一つの因子となるためであろう。この点がまた異論の余地を残していることは確かである。実験者は充分にこの点を考えなければならない。

②.念写像はあらかじめ希望した通りにあらわれることもあり、重ね合わせた乾板の何枚 目に何の像を念写するか予め指定し、その通りに念写されることがある。

③.たがいに対立あるいは関連した観念が意識せずに相つづいて念写されることがある。

④.念写はポジ像としてもネガ像としてもおこる。どういう場合にポジまたはネガになるかはまだ知られていない。

⑤.遠隔念写が可能である。

⑥.同じ像の反復念写が可能である。

⑦.重ね合わせた乾板のそれぞれに異なる像が念写され、ロールフィルムを巻いたままでも念写され、また別々に現れた念写像をつなぎ合せて一つのまとまりある像となることもある。これらの事実は念写があたかも空間視定をある程度超越しているようにも見える。

⑧.一度念写された像と他の実験における念写像とが重合してあらわれることもある

⑨.実在のある物体と念写像とが類似しながら少し異なる場合がある。これはかえって念写がトリック写真でないことを示すようにも考えられるが、なお今後の研究問題である。

 

オ)三田光一による念写一覧

三田光一が念写を行った大正3年から昭和10年までの期間で、福来心理学研究所に念写乾板の原版が残っているのは次の通り(注36)。

 

大正3年1110日:遠隔念写で「敵国降伏」を念写

大正3年1222日:神戸市諏訪山一力邸で「実行」を念写

大正4年2月14日:徳島市千秋閣で「自覚会発会式」を念写

大正4年5月15日:神戸市(教育会)で「義勇奉公」「攻玉他山」を念写

大正4年9月17日:松江市公会堂で「養気之友」を念写

大正4年1124日:沖縄那覇の沖縄座で「万世師表」を念写

大正4年12月1日:沖縄那覇の松山小学校で「忠孝」を念写

大正4年128日:鹿児島市の市座で「紀有賢墓」「兵児」を念写

大正5年2月17日:松山市新栄座(愛媛新聞)で「至誠」を念写

大正5年2月24日:愛媛県道後町で「一円大鏡」を念写

大正5年4月23日:松山市公会堂で「自覚会松山支部発会式」を念写

大正5年1016日:大垣町日吉座で「大垣城」「霊妙」を念写

大正5年1117日:岐阜市美殿座(自覚会)で「金華山模擬城」「祝発会式」を念写

大正6年2月10日:名古屋県会議事堂で「桂太郎」「至誠」を念写

大正6年2月18日:遠隔念写で「南無観世音」を念写

大正6年8月11日:尼崎市実科高女高で「剛健質素」を念写

大正6年8月14日:甲府市琢美小学校で「武田信玄」「大泉寺墓地」を念写

大正6年8月20日:長野県上諏訪町南座で「乃木将軍」「諏訪湖」を念写

大正6年8月28日:飯田町マユ市倉庫で「上杉謙信」「中村校長」を念写

大正6年9月21日:諏訪町甘精旅館で「片倉謙太郎」を念写

大正6年9月29日:飯田町巴旅館で「大本願」「梵字」を念写

大正6年10月3日:飯田町若松座で「不二子の歌」「山口不二子」「松尾多勢子」「署長夫人母」を念写

大正6年1116日:岐阜県中津町東栄座で「裸武兵衛の墓」を念写

大正6年1120日:遠隔念写で「筆之力」を念写

大正6年12月3日:神戸市自覚会本部で「木村作太郎氏亡夫人」を念写

大正6年12月4日:神戸市三田自宅(自覚会)で「御慶」を念写

大正6年12月6日:東京巣鴨、宗教大学で「達摩大師」「阿弥陀仏」「南亀五郎」「仏心」「梵字」「賀正」を念写

大正7年2月7日:東京本郷、安田旅館で「朝日新聞」「人物」を念写

大正7年2月12日:東京、大日本衛生会で「学宝」を念写

大正7年4月20日:福島市公会堂で「甲剛」を念写

大正7年5月5日:神戸市自覚会本部で「祝連合軍連戦連勝」を念写

大正10年2月11日:長崎県玉ノ浦村西方寺で「地球の六方面」を念写

大正111123日:場所不明で「垣順上人」「遊女明月」を念写

大正12年7月7日:青森市新町永楽座で「福原越後公」「小山内翁碑」を念写

大正14年3月28日:岡山県金光町小学校で「金光教紋章」を念写

大正14年5月1日:朝鮮仁川市公会堂で「伊藤博文」を念写

大正14年5月4日:京城府庁公会堂で「豊太閤」「寺尾猛三郎」を念写

大正14年5月24日:京城公会堂で「石仏」「神霊」「芸妓」を念写

大正14年 月日不明:岡山県大崎村小学校で「故孝子」を念写

大正14年 月日不明:遠隔念写で「自観」を念写

昭和2年3月11日:鹿児島市照国神社で「島津斉彬公」「西郷南洲」「赤塚源太郎」を念写

昭和2年8月11日:朝鮮開城劇場で「鄭夢周」「朴淵の滝」を念写

昭和2年1217日:京都市先斗町歌舞練場で「金那羅王の像」を念写

昭和3年1月21日:京都市先斗町歌舞練場で「一休禅師」「歌舞練場の主人」「頼山陽」を念写

昭和3年1月22日:京都市祇園一力邸で「大石良雄」を念写

昭和4年3月8日:場所不明で「児島高徳」を念写

昭和4年8月4日:兵庫県中野公会堂で「紫明閣」を念写

昭和4年1231日:遠隔念写で「馬」「人物」「風景」「青木秋堂」を念写

昭和5年3月16日:京都嵯峨公会堂で「弘法大師」を念写

昭和5年10月2日:東京麻布飯倉町の牧野邸で「牧野二郎」を念写

昭和6年2月24日:遠隔念写で「月の裏側」を念写

昭和6年3月29日:場所不明で「牧野二郎」を念写

昭和6年6月11日:福島県飯坂町花水館で「佐藤清之丞」「北畠親房」を念写

昭和7年10月:岩手県藤沢町で「高橋七左エ門」「日蓮上人」を念写

昭和7年1225日:東京の福来宅で「山口不二子」「松尾多勢子」「不二子の弟」「歌と婦人」「署長夫人の母」「仏心」「梵字」「歌と大本願」「賀正と大本願」「賀正」を念写

昭和8年1112日:岐阜市公会堂で「月の裏側」「野原画伯」を念写

昭和8年1118日:場所不明で「弘法大師」「阿字」「南無観世音」「施魚畏」を念写

昭和9年5月19日:宇部市新川座で「福原公」「吉田松陰」「不明人物」「寺内将軍」を念写

昭和10年8月15日:場所不明で「福原公」「不明人物」「武田信玄」「信玄墓地」「芸妓」「石仏」を念写

 

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<注24

■小熊虎之助著『心霊現象の科学(改訂版)』355頁。

<注25

■福来友吉著『心霊と神秘世界(復刻版)』118頁以下。

<注26

■『福来心理学研究所研究報告、第1号』17頁以下、「念写実験の吟味」。

<注27

■福来友吉著『心霊と神秘世界(復刻版)』122頁以下。

<注28

■福来友吉著『心霊と神秘世界(復刻版)』第37図、38図、39図。

<注29

■福来友吉著『心霊と神秘世界(復刻版)』第42図。

<注30

■福来友吉著『心霊と神秘世界(復刻版)』第43図。

<注31

■福来友吉著『心霊と神秘世界(復刻版)』第44図。

<注32

■福来友吉著『心霊と神秘世界(復刻版)』128頁。

<注33

■甲山繁造著「この霊的巨人の足跡を見よ」:『心霊研究』昭和352月号、10頁。千原範一著「珍客対談」:『心霊研究』昭和327月号、29頁。

<注34

■『福来心理学研究所研究報告、第1号』27頁以下、「念写実験の吟味」

<注35

■『福来心理学研究所研究報告、第1号』26頁、「念写実験の吟味」

<注36

■『福来心理学研究所研究報告、第1号』および丹波哲郎著『稀代の霊能者三田光一』115頁以下参照。

 

 

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