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時代背景:メモ

目 次

 

①.西ヨーロッパ諸国の台頭

・この項目の概要

・モンゴル・ネットワークとルネサンス

・大航海時代

・覇権国家イギリス

・世界観の拡大

 

②.1848年という年

・スピリチュアリズム宣言

・社会の主たる思想

 

<注1>~<注11

 

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①.西ヨーロッパ諸国の台頭

☆この項目の概要

15世紀半ばから17世紀半ばにかけて続いた西洋人による物的な富を求めた海外進出、いわゆる「大航海時代」によって世界が交易によって一つに結び付けられた。これにより世界観が飛躍的に拡大して、物質面での相次ぐ発明や発見があった。この結果、物質面での発展と宗教の世俗化、いわゆる「神を中心とした世界観」から「人間中心の合理的な世界観」が生まれて、宗教の世俗化がもたらされた。

この項目では「ハイズヴィル事件(フォックス家事件)」の背景を、物質面での相次ぐ発明や発見による「世界観の拡大」をテーマにして見ていくことにする。

 

☆モンゴル・ネットワークとルネサンス

今から2000年前、それぞれの地域の文明圏には「世界帝国(→広大な領域を支配した国)」が形成されていた(注1)。各地の文明圏で栄華を誇った帝国は、その後栄枯盛衰を繰り返しながら次々と変わっていった。8世紀から9世紀になると、イスラム商人が活躍してユーラシア大陸の文明圏相互を繋ぐ役割を果たし、イスラムのアッパース帝国(750年→1258年)の帝都バクダットは、この時代「ユーラシアの経済センター」とまで言われて活況を呈していた。その後東西交易の貢献者は、ムスリム商人からモンゴル人へと変わった。

 

1206年にジンギス・ハン(成吉思汗:1162年?→1227年)によって建設されたモンゴル帝国は、強力な騎馬軍団によって短期間のうちにユーラシアの大半を支配下に置いて、各地に大きな衝撃を与えた。ここに初めてユーラシアは一体化して「モンゴル帝国の下で世界史成立の基盤が築かれた」。また東西交易に関しては「モンゴル帝国のネットワークを利用して、ムスリム商人は東アジア世界を自らの活動範囲に組み込んだ」(注2)。これによって地中海から東アジアまで一つのネットワークで繋がったため、イタリアのジェノバ商人やベネツィア商人などが台頭してきて、繁栄を謳歌する一時代を築いた。これは「国際的なモンゴル・ネットワークとの結合がイタリア商業の飛躍的発展の原動力となった」(注2)からと言われている。

そしてこのネットワークの利用によって、13世紀以降、北イタリアの諸都市は急速に発展していった。この発展はその後14世紀から15世紀にかけてイタリアを中心として起こった「古代ギリシャ・ローマの文献の再発見による学問・知識の復興運動(=イタリア・ルネサンス)」に大きな影響を及ぼした。そしてこのルネサンスは、15世紀から16世紀にかけてヨーロッパ諸国に波及していった(注3)。

 

☆大航海時代

モンゴル帝国の統治下にあった小アジアに1299年にイスラム国家のオスマン朝(1299年→1922年)が誕生して、衰退したビザンツ帝国(395年→1453年)を浸食しながら領土を拡大していった。オスマン帝国は1453年にビザンツ帝国の首都コンスタンチノーブルを陥落(ビザンツ帝国の滅亡)させて、黒海や地中海をその支配下に置いた。これにより東西交易で繁栄を築いてきたイタリアの諸都市は、オスマン帝国の存在によってユーラシアとの交易の道を閉ざされてしまった。そのため大西洋を使った交易に活路を求めていったが、このことは当時ユーラシアの辺境であった西ヨーロッパ諸国を活気付かせることになった。いわゆる「西ヨーロッパ時代の到来」である。

 

マルコ・ポーロ著『東方見聞録』を愛読していたジェノバ出身のコロンブス(1451年→1506年)は、1492年スペイン王室の支援を得て航海に出て、カリブ海に浮かぶバハマ諸島の一つのサンサル・バドル島に到達した。これ以降、アメリカ大陸に至るルートが開拓されて、西ヨーロッパ諸国は続々と新大陸の富を求めてアメリカにやってきた。その結果、メキシコ高原にあったアステカ帝国(1428年頃→1521年)や、アンデス高原にあったインカ帝国(1438年→1533年)は滅亡し、アメリカ大陸は次々と征服されて、富は収奪され人口は激減していった(注4)。

大西洋における交易の活況は、西ヨーロッパ諸国の富裕化をもたらした。経済活動の中心も従来の南欧から大西洋岸の西ヨーロッパ諸国に移った。これは17世紀前半の「ジェノバの世紀(1557年→1627年)」が終了して、ヨーロッパの経済活動や金融取引の中心がアムステルダムに移ったことや、オランダの通貨「ギルダー」が国際通貨となったことなどからも分る。そして中継貿易主体の海上交易国家オランダが最初の「覇権国家」となった。

 

☆覇権国家イギリス

中央・南アメリカなどからの短期間における大量の銀の流入は、経済規模の拡大と都市の成長をもたらして、新たな資本主義という経済システムを作り上げていった。17世紀以降のイギリスは、幾つかの植民地争奪戦に勝利して、世界各地に広大な領土を広げていった。1760年代以降、石炭や蒸気を動力源とする織物などの軽工業が発達して、第一次産業革命が起こった。1780年頃からオランダに変わってイギリスが国際的な政治や経済システムのヘゲモニーを牛耳る「覇権国家」となった。

イギリスでは産業革命によって毛織物産業が急成長したが、その背景には資本の蓄積や「大西洋三角貿易」(注5)で得た豊富な原料、そして「エンクロージャー(共同放牧場などの囲い込み)」によって、農村から都市への人口流入による安価な労働力の確保などがあった。その後のイギリスは、19世紀に入ると石油やモーターを動力源とする重工業中心の第二次産業革命がおこった。

 

19世紀の特徴的な点として、1840年代のモールス符号(→アルファベットと数字を長短二つの符号で組み合わせて表現するもの)の採用による電信の発達や、科学が自然哲学から分離し技術への応用が進展したことなどがあげられる。産業や科学技術の発達は、従来の宗教的な視点からではなく、世俗的な視点から世界や自然を見るという傾向に拍車をかけた。

 

物的な富を求めて外洋に乗り出した西ヨーロッパ諸国は、アメリカ大陸やアフリカ大陸、そして東アジアのそれぞれの「文明圏」を相互に結び付けて、それまでバラバラに発展してきた各地域を一つにまとめあげるという働きをした。その後の西洋主導で進められた「グローバル経済」によって、西洋の政治システムが世界標準とされ(注6)、「白人至上主義思想」の普及とも相まって、19世紀以降アジアやアフリカ、中央・南アメリカ諸国は一段低い位置におかれることになった。

 

☆世界観の拡大

15世紀から19世紀にかけての物質面での相次ぐ発明や発見は、人類の意識を飛躍的に外部に拡張して、自然界を制圧していった時期でもあった。このような物質面での飛躍的発展は、社会制度として資本主義経済(→生産手段の私有と労働力の商品化を伴う制度)をもたらした(注7)。

また17世紀以降、この自然界のすべては一つの機械のように連携で動いているという機械論的自然観が登場した(→デカルト、ニュートンなど)。これによって世界を説明する際に、「目的論的説明」と「機械論的説明」の二通りが可能となった。科学の分野における基本思想が目的論から機械論に向かう大きな流れが出来てきた(→唯物論的世界観へ)。

 

このようにして16世紀から17世紀の西洋に於いて誕生した近代科学は、その後の資本主義経済や市民社会の形成を後押しする理論となり、霊と肉の二つの実体が存在するという素朴な「実体二元論」的な世界観を凌駕して、地上世界に唯物論的思考と利己主義を蔓延させることに繋がった。この最も大きな要因がダーウィニズムであると言われている。このような近代科学の発達は、科学的とされたものを盲目的に信じる「科学教信者」の増加にも大きく貢献した。

 

19世紀のイギリスは、ヴィクトリア朝時代(1837年→1901年)で国力が安定し、大英帝国として世界の覇権を握った時代であった。しかし国内においては、急速な資本主義経済の発展に伴って都市への人口の流入や、貧困層の拡大という社会問題が起きていた。それによって資本主義の矛盾や問題点が顕になり、その結果、社会主義者や労働者階級が台頭して、労資の対立が徐々に表面化していった。このような時期、カール・マルクス(Karl Heinrich Marx1818年→1883年)とフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels1820年→1895年)は、『共産党宣言』(=共産主義者同盟のための綱領文書)を執筆して、これを18482月末にロンドンで出版した(注8)。

この『共産党宣言』は「存在が意識を規定する」――物質がすべての基本であるとして、物質=経済構造を土台とした下部構造が、思想・文化・政治制度等の上部構造を規定する――という唯物史観に立って書かれたものであり、スピリチュアリズムとは対極に立った思想であった。

 

②.1848年という年

☆スピリチュアリズム宣言

このような地上世界の動向に対して、1848331日アメリカのニューヨーク州ハイズヴィルで起こったポルターガイスト現象は、高級霊が波長的に地上界に接触しやすい低級霊(地縛霊)を一種の道具として使って起こさせた現象であった。この時のラップを使った単純な通信手段は、その後霊的真理を地上に降ろすための手段へと発展していった(→利己主義や物質至上主義によって生み出された「地上の悲劇」の解消と、誤謬と迷信に覆われてしまった宗教界の再構築などを目的とした霊的真理の普及運動へ)。

 

このようにハイズヴィルのラップは、霊界側の本格的介入の意思を表示した現象であり、また霊的潮流が地上世界に流れこむ端緒となった事件であった。1848年という年は期せずして相対立する二つの陣営からそれぞれの「宣言」が出された象徴的な年になった(→地上側からは「共産党宣言」が出され、霊界側からは地上世界を霊的に刷新する宣言、いわゆる「スピリチュアリズム宣言」が出された:注9)。

 

☆社会の主たる思想

19世紀後半から20世紀にかけては、「生存競争と自然淘汰によって生物の進化を説明」する「ダーウィンの進化論」(1858年)が、社会に応用される形で広まった時期であった。その一つに「進化論」を広く人間社会に当てはめて、自然のみならず人間の社会や文化などにもこの原理が貫いていると考えたハーバート・スペンサー(Herbert Spencer1820年→1903年)の社会進化論(注10)がある。さらには自然選択を「逆選択」して、人種や民族の改良を研究する科学であると述べたフランシス・ゴルトン(Francis Galton1822年→1911年)の優生学(注11)の思想も、大きな影響力を持って唱えられた。

 

これらの思想は、西洋社会を長年支配してきたキリスト教神学という宗教的頸木から権力者や商業資本家・産業資本家たちを解き放つと同時に、彼らの権勢欲や物質欲を刺激して「自由競争と経済の放任主義」による弱肉強食的な社会を出現させた。また「西洋文明優位主義」的な風潮を生み出す際の主たる思想ともなった。このように「ハイズヴィル事件(フォックス家事件)」が起きた19世紀後半から20世紀にかけては、唯物主義と利己主義が蔓延した時代でもあった。

 

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<注1>

2000年前、地中海世界にはローマ帝国(B.C27年→A.D395年分裂)、西アジア世界にはパルティア王国(B.C238年頃→A.D226年:滅亡後はササン朝ペルシア)、インド世界にはマウリヤ朝(B.C324年頃→B.C187年頃:滅亡後は、A.D45年からクシャーナ朝)、東アジア世界には秦・漢帝国(B.C221年→A.D220年)が存在していた。

この時代には東西の「文明圏」相互を繋ぐ交易ルートとしては、「シルクロード」「草原の道」「海の道」などが知られており、このルートを通ってそれぞれの「文明圏」の物産が、東から西へ、西から東へと運ばれていった。またこのルートを通って宗教や芸術などの交流も頻繁に行われていた。この時代は、地中海、エジプト、西アジア、インドなどでは、「世界帝国」の興隆によってたびたび版図が塗り替えられていたが、東アジアはこれらの地から見た場合、いまだユーラシア大陸の辺境の地にあった。

 

<注2>

■宮崎正勝著『文明ネットワークの世界史』(原書房2003年刊)118頁、122頁、152頁、154頁参照。

 

<注3>

14世紀から15世紀にかけてイタリアを中心として起こった古代ギリシャ・ローマの文献の再発見による学問・知識の復興運動(イタリア・ルネサンス)は、15世紀から16世紀にかけてヨーロッパの諸国に波及した。

この時期ドイツ出身の職人ヨハネス・グーテンベルクによる活版印刷技術の発明(1450年頃)があり、大量の書物を比較的安価に刊行することが可能となった。また、中国で発明された羅針盤や火薬はイスラム世界を経由してヨーロッパにもたらされて、後の大航海時代に大いに活用された。1453年にビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン朝トルコが東西交易を独占すると、スペインやポルトガルは新しいルートの開拓のために羅針盤と新しい航海技術を使って外洋に乗り出し、アフリカ、アジア、アメリカなどに進出して世界を一つにまとめ上げる役割を果たした。その後、遅れてイギリス・オランダなどの諸国が海外に進出していった。

■世界が一つのネットワークで繋がったことや、活版印刷技術の発明によって低廉な価格で出版できるようになったことは、スピリチュアリズム思想を地上世界の隅々まで普及させる上で大きな前進であった。これらは地上世界に於ける準備が着々と進んでいることの一つの表れであった。

 

<注4>

■ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄』上・下(草思社文庫2012年刊)参照。

前著によれば、ヨーロッパ人が新世界を植民地化したことの直接の要因として次の点を指摘している。ヨーロッパ人が「銃器・鉄製の武器」「騎馬などにもとづく軍事技術」「ユーラシアの風土病・伝染病に対する免疫」「ヨーロッパの航海術」「ヨーロッパ国家の集権的な政治機構」「文字を持っていたこと」が、他の大陸を征服できた直接の要因であると(『銃・病原菌・鉄』上、147頁)。

さらに天然痘や麻疹(はしか)、インフルエンザなどの病原菌は、動物に感染した病原菌の突然変異であり、家畜とともに生活してきたヨーロッパ人(ユーラシアの人々)は、初期の段階においてそれらに感染し犠牲となったが、しだいに免疫が作られていった。このようなすでに免疫を有するヨーロッパ人が、16世紀以降、免疫のない人々と接触したとき、原住民の間に疫病が大流行して、9割以上の人々を死亡させて、その土地の人口構成を大幅に変えた。このことをジャレド・ダイアモンドは「もともと家畜から人間にうつった病原菌は、ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸やオーストラリア大陸、南アフリカ、そして太平洋諸島の先住民を征服するうえで、決定的な役割を果たした」(前著、上、162頁)と指摘している。

さらに「植物栽培と家畜飼育の開始」による余剰食料の存在が定住的で集権的な社会が誕生する前提条件であり、その結果「帝国という政治形態」「読み書き能力」「鉄器の製造技術」がユーラシア大陸で最初に発達したと述べている(前著、上、162頁~163頁)。

 

<注5>

■「大西洋三角貿易」とは、リヴァプールからアフリカへ日用品や火器類を持ち込み、これと原住民とを交換して取得した黒人を奴隷として西インド諸島に運び売却し、新大陸から砂糖などをヨーロッパに持ち込んだ貿易スタイルのこと。

 

<注6>

■皆村武一著『“ザ・タイムズ”にみる幕末維新』(中公新書1998年刊)91頁参照。

――19世紀の「万国公法(国際法)」では、ヨーロッパ文明を有する国だけが文明国とみなされ、国際法上の主体として認められていた。文明国は、開拓・征服・割譲によって新たな領土を獲得し、相互にそれを承認し、確定する権利を有していた。世界は三つに分けられる。第一は「自主の国(ヨーロッパ諸国)」で完全な政治的承認がなされた国。第二は「半主の国(半未開国:中国や日本など)」で部分的な政治的承認が得られた国であり、西洋諸国は一定の条約を結ぶ(不平等条約)が、拒んだ場合は武力征服する。第三は「未開国(アジア・アフリカ諸国)」であり、「無主の地」として征服の対象とされた地域である――

 

<注7>

■資本主義経済の繁栄の思想的背景には、「キリスト教の旧約聖書に見られる自然観(→人間は自然を征服・支配することによって繁栄する)や、マックス・ウェーバーによって指摘されたプロテスタントの労働に関する倫理観の存在がある」という。

旧約聖書には「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」(創世記12829)との記載があり、これが自然支配の根拠となっているとされる。

プロテスタントの労働に関する倫理観として、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーはカルヴァン主義と資本主義との関連性を説いて「カルヴィニズムの救済思想としての世俗内的な禁欲の倫理が、結果として営利を積極的に推進し資本主義発展の原動力となったことを、ピューリタンの事例などを基に社会学的に例証した」(『岩波キリスト教辞典』996頁)という。

 

<注8>

■共産党宣言

1837年頃には最初の組織的な労働運動(労働者階級の普通選挙権獲得運動)であるチャーチスト運動が起きている。

一方パリでは2月革命(18482月)がおこり、共和主義者と社会主義者による臨時政府が樹立された。この頃の西洋社会では、さまざまな思想傾向を持つ労働者が集まって、各地に秘密結社が作られ、活発に活動を行っていた時代でもあった。その結社の目標とするところは、直接行動(暴力の行使を肯定する)によって革命を達成し、それによって自らが理想とする社会を実現することにあった。

その一つに秘密結社・共産主義者同盟があり、その幹部のカール・シャッパーから依頼を受けたカール・マルクス(Karl Heinrich Marx1818年→1883年)とフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels1820年→1895年)は、『共産党宣言』(共産主義者同盟のための綱領文書)を執筆して、18482月末にロンドンで出版した。

 

■唯物史観

マルクスは、英独仏などは資本主義が成熟してやがて共産主義に移行すると考えたが、その思想の根底に唯物史観があった。唯物史観とは、生産力が発展して豊かになれば社会矛盾が噴出して、持つ者(ブルジョワジー)と持たざる者(プロレタリアート)の階級闘争によって革命が起こり古い生産関係は破壊される。そして新しい社会層(持たざる者=プロレタリアート)が権力を握り、社会の仕組みが変わって新たな生産関係に置き換えられるという史観である。

この史観によれば人類の歴史は、“原始共同体制度→奴隷所有者的制度→封建制度→資本主義制度→共産主義制度に移行する”とされて、「ブルジョワジーとプロレタリアートによる階級闘争の歴史である」と位置付けられていた。『共産党宣言』(岩波文庫1971年刊)の最後の行は、プロレタリアートによる政権奪取(暴力革命)を呼びかけた「万国のプロレタリア、団結せよ」という有名な言葉で結んでいる。この宣言は物質がすべての基本であるとして「存在が意識を規定する」とマルクスが定式化したように、経済構造を土台とした下部構造が、思想・文化・政治制度等の上部構造を規定するという唯物史観にたったものであり、労働者の団結を呼びかけたスローガンであった。

 

19世紀のアメリカ社会

1848年はアメリカ経済にとっても象徴的な年になった。カリフォルニアでは金鉱が発見(最初の発見はサクラメント川の砂金)されて、翌年から「ゴールドラッシュ」が始まり、一攫千金を夢見る多くの人々がカリファルニア(当時の人口は2万人弱)へと押し寄せた。ちなみに翌年1849年の1年間に10万人が、金鉱を求めて陸路や海上からカリフォルニアに押し寄せたという。

アメリカは1821年から1920年までの100年間で約3300万人の移民を受け入れた。前半は西欧や北欧からの移民(主にプロテスタント)であったが、後半は南欧や東欧からの移民(主にカトリック教、ギリシア正教、ユダヤ教)が多くを占めていた。特に1890年から1920年までの30年間は、それ以前の70年間を上回る1800万人の移民が到来した。

このような大量の移民を受け入れ可能にしたのは、相次ぐ国土の拡大であった。独立後のアメリカは急速にフロンティアが拡大して行った。このようなフロンティアの拡大は、広大な土地に人々が点在して住むという状況(人口密度の低い土地)を生み出すことになった。

 

<注9>

■このような「新スピリチュアリズム」の歴史を俯瞰すれば次のように言える。

当初は顕幽の霊的な仕切り壁の裂け目から滴り落ちる水滴のように地上世界に流れ込んでいた霊的潮流は、次第に流量を増して一つの大きな流れを作り出していった。

高級霊シルバーバーチの言葉を借りれば「最初は(1848年ハイズヴィル事件のこと)わずか数滴から始まりました。それが勢力を集めて小川となり、大河をつくり、海となって、今や枯渇する心配などみじんもない分量で地球を包んでおります。歴史の流れをすっかり変えております」(近藤千雄訳『地上人類への最高の福音』175頁)。そして「難攻不落と思われた城壁が崩れ落ち、特権階級が揺さぶられ、独占支配は崩壊し、迷信が減り、無知が次第に押し寄せる霊的真理によって追い払われて行きつつ」(近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、1巻』44頁)ある状況を作り出すまでに霊的潮流は豊かになっていった。

霊界通信によれば今回のスピリチュアリズムの運動は、霊界側の不退転の決意のもとで行われているという。このことに関してシルバーバーチは「このたびのコミュニケーションは組織的であり、協調的であり、管理・監督が行き届いており、規律があります。一大計画の一部として行われており、その計画の推進は皆さんの想像も及ばないほどの協調体制で行われております。背後の組織は途方もなく巨大であり、細かいところまで見事な配慮が為されております。すべてに計画性があります。そうした計画のもとに(19世紀半ばに)霊界の扉が開かれたのです。このたび開かれた扉は二度と閉じられることはありません」(近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、7巻』151頁~152頁)と述べている。

 

<注10> 

■ダーウィンの進化論とは

チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin1809年→1882年)の『種の起原』(1859年)は、『聖書』を別にすれば、生物の分野以外で現代社会に最も影響力を及ぼした著書の一つと言われている。そのダーウィンの進化論の特徴は「自然選択(適者生存)」「性選択(雌雄選択)」「変異」である。

この中の自然選択説では「過剰繁殖のために同じ個体の間で競争が起こり、さまざまな方向にでたらめに生じた遺伝変異のうち、有利な変異を持った個体が生き残って子孫を残す」であり、この考え方をダーウィンは『種の起原』の中で説いた。

人間観に関してダーウィンは、「人間の肉体構造は自然淘汰によって」「人間の心的性質は肉体構造と並行して」下等動物から徐々に変化して発達(共通祖先から進化)してきたと述べている。また「生存闘争を通して作用する変異と自然淘汰の法則が、他のいかなる動物よりもはるかに優れた完成された肉体構造をまずもたらした。それとともに、より大きなより発達した脳がもたらされた。その脳の働きによって、人間は動物界と植物界全体を人間の役に立つよう、より完全に支配下に置くために肉体を使うことができるようになった」と。さらに「(人間のすべての性質と全ての能力は、道徳的なものであれ、知的なものであれ、霊的なものであれ、肉体構造が由来するのと同じ方法で)下等動物から徐々に変化して発達して生じたもの」(AR・ウォーレス著、長澤純夫・大曽根静香共訳『ダーウィニズム』新思索社2008年刊、480頁~481頁参照)とも述べている。

 

■ダーウィンが考えた自然選択(自然淘汰)とは

①.生物の個体間には変異があること

②.変異の中には個体の生存や繁殖に影響を及ぼすものがあること

③.そのような変異の中には親から子へと遺伝するものがあること

④.生き残るよりも多くの子が生まれるので個体間には競争があること

この四つの事実から、より環境に適した性質が集団内に広まっていく、その過程を「自然選択(自然淘汰)」と呼んでいる。

 

■社会ダーウィニズムとは

社会ダーウィニズムとは「生物学における進化の理論を援用することにより、人間社会の進化をも説明することができる」とする立場のことであり、ダーウィンの進化論の自然選択に含まれる「生存競争」と「適者生存」という二つの概念を、人間の社会現象の説明に適用したもの。ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer1820年→1903年)は、コントの「三段階の法則」に影響を受けて、独特な社会学の体系である社会ダーウィニズムを唱えた。

一般に社会ダーウィニストたちは「アフリカやアマゾンの密林で生活している狩猟採集民を劣った未開人だと見なしていました。そして、未開社会から進化によって漸進的に人間の社会に進歩が起こり、ついには最も優れた西欧文明が生じた、そして、人間社会の進歩が起こるにあたっては、人間どうしの生存競争によって、最も優れた人間が生き残り、反映してきたことがその原動力であった」(長谷川寿一・長谷川真理子著『進化と人間行動』東京大学出版会2000年刊、12頁)と考えていた。この背景には「西洋文明優位主義」がある。

ダーウィンはスペンサーの人間社会にまで拡大適用した主張に対して危惧を抱き、18581125日付でスペンサーに次のような手紙を送っている。「いま、種の変化に関する大きな研究の要約を準備しています。ただし、私はこの問題を単に自然観察者の立場から扱い、一般的な視点からは論じません・・・」(渡辺正雄編著『ダーウィンと進化論』共立出版1984年刊、117頁)と。

 

■コントの「三段階の法則」とは

社会学の創始者でフランスの哲学者オーギュスト・コント(1798年→1857年)は、社会が進化するにつれて人間の精神は三段階を通じて進歩すると言う「三段階の法則」を唱えた。この説によれば、最初に古代社会に一般的に見られる思考形態として、現象の原因を神などの働きとして考える「神話的段階(神話)」がある。次に現象の原因を論理的で抽象的な原理で説明しようとする「形而上学的段階(哲学)」が来て、最後に現象の原因を観察と実験による実証的な事実に求めようとする「実証主義的段階(科学)」が来る。

コントはこの「実証主義的段階」にある科学も、単純から複雑な対象へ向かうとして、物理や化学の上に生物学があり、その上に最も複雑な対象を扱う社会学が来ると言う「階層的な学問体系」を唱えた。

 

■「社会進化論」はアメリカで流行した

19世紀後半のアメリカは「金ぴかの時代」と言われて「自由競争と経済の放任主義」が歓迎された時代であった。南北戦争後~20世紀初頭にかけてのアメリカには、鉄鋼業、製造業、輸送業で巨万の富を蓄えた富豪たちが数多くいた。カーネギーは「鉄鋼王」、ロックフェラーは「石油王」と呼ばれた。当時の社会風潮は「自由競争と経済の放任主義」を歓迎するものであり「金ぴか時代」と呼ばれていた。この名称は「トム・ソーヤの冒険」で知られたアメリカの作家のマーク・トウェイン(1835年→1910年)の同名の小説からとって名付けたものであるという。

この時代のアメリカは進歩と自信に満ちた時代であり「それまでの聖書的言説に代わって、科学的言説が支配的になりつつあった・・・19世紀後半から20世紀初頭にかけてのアメリカでは、科学的であることは疑う余地なく良いことであり、進歩と進化は全面的に望ましいことであった」(佐々木隆・大井浩二編『史料で読むアメリカ文化史3』東京大学出版会2006年刊、5頁以下)という。鉄鋼王のアンドリュー・カーネギー(1835年→1919年)は『富の福音』の中で「動物や植物ばかりでなく、人類も適者生存の過程を繰り返すことによって進歩すると主張した(『史料で読むアメリカ文化史3』146頁以下)。このようにスペンサー流の進化論はイギリスよりもアメリカで圧倒的な人気を誇った。

 

■この時期の進化論とは

19世紀後半から20世紀初頭は、ダーウィンの進化論は生物学の分野においては一般的ではなく「ダーウィニズムの失墜」と呼ばれていた。この時期はスペンサー流の社会進化論が興隆を極めていた。

当時アメリカで最も代表的な社会進化論者はウィリアム・グラハム・サムナー(William Graham Sumner1840年→1910年)であった。サムナーは1869年にアメリカ聖公会の牧師の職につくが、1872年にイェール大学の政治社会学の担当教授となった。

サムナーの社会進化論は、いかなる形の政府による介入も国家の干渉として排除されるべきとして、徹底した自由放任主義を主張したところに特徴があった(『史料で読むアメリカ文化史3』159頁)。

当時のアメリカ社会を席巻した進化論とは、スペンサー流の社会進化論であった。この思想の普及によって、多くの富を所有した者は「資本主義の勝利者(→自らを適者生存によってますます富を蓄えることが出来た勝利者とした)」であり、また人種に優劣をつけて「劣った黒人は優秀な白人に使えるのは当然である」として人種差別を正当化していた。

1920年代にファンダメンタリストが取り組んでいた運動に「反進化論州法」があるが、この背景にスペンサー流の「社会進化論(社会ダーウィニズム)」に対する批判があった。象徴的な事件として「進化論裁判」として有名な1925年の「スコープス裁判」がある。この裁判の要因の一つに「ドイツの軍国主義の一因が社会ダーウィニズムにあると考えられていた」(マイケル・ルース著、佐倉続・土明文・矢島壮平訳『ダーウィンとデザイン』共立出版2008年刊、281頁)という。

 

<注11

■フランシス・ゴルトン

優生学の始祖フランシス・ゴルトン(Francis Galton1822年→1911年)の母方の祖父はエラズマス・ダーウィンであり、チャールズ・ダーウィンとは従兄弟にあたる。彼は1865年に「遺伝性の才能と形質」という論文を書いた。この中で「家畜の育種家が経験的に知っている遺伝法則は人間の肉体的形質ばかりでなく精神的才能にも当てはまるとし、具体的に著名人の血縁関係をあげてみせた」(渡辺正雄編著『ダーウィンと進化論』共立出版1984年刊、125頁)。この著名人の血縁関係の研究は、その後さらに補強されていった。なお「優生学」という言葉は1883年にゴルトンが初めて使った。

ゴルトンは1904年にロンドン大学で開かれた第一回イギリス社会学会で講演を行った。その講演の中で優生学とは、人種や民族の改良を研究する科学であるとして、「ユーゼニックス(優生学)とは人種の生来の質を改良するあらゆる影響、また、それらを最大限有利な方向へ発達させるすべての影響に関する科学」であると定義した(鈴木善次著「進化思想と優生学」:柴谷篤弘・長野敬・養老孟司編『講座進化2』東京大学出版会1991年刊、99頁)。つまり優生学とは「完全なる人間の育種」のことである。

 

■優生学の社会への適用

アメリカは移民の国であるため優生学に対する関心は高かった。1901年にはユーゼニックス・レコード・オフィス(優生記録局)が組織されて、家系調査や人の遺伝の研究、結婚相談などが行われた。その後1926年にアメリカ優生学協会が設立されて、各州で法制化された断種(消極的優生の断種)の実施状況が検討された。

ドイツでは1905年に世界で最初の優生学会である「ドイツ民族衛生学会」が創設された。第一次世界大戦後はワイマール政府による民族の優化策がとられて、1927年には「カイザー・ウイルヘルム人類学・人類遺伝学・優生学研究所」が設立された。その後この研究所はナチス政権下で「ナチス民族衛生学」のセンターとしての機能を果たした(鈴木善次著「進化思想と優生学」:柴谷篤弘・長野敬・養老孟司編『講座進化2』東京大学出版会1991年刊、103頁)。

 

■自然選択と優生学

ゴルトンはダーウィンの自然選択(適者生存)と優生学との関係を、1865年の論文で次のように述べている。「文明化の一つの効果は自然選択の法則の適応力を減ずることにある。未開な地域においては滅びるであろう者が弱々しく生き延びる。金持ちの家庭の病弱な子供の方が貧乏人の家庭の頑丈な子供より生き延び、子供を育てる機会に恵まれる。身体の場合と同様、心の場合も同様である。・・・文明社会では、自然選択の法則とその正当な多くの犠牲者との間に金が盾となって入り込む」(鈴木善次著「進化思想と優生学」:柴谷篤弘・長野敬・養老孟司編『講座進化2』東京大学出版会1991年刊、110頁)と。

ダーウィンの提唱した自然選択は、医学が発達した文明国の人間には「逆選択」という形となって、かえって不適格者が生き延びることになった。そのため、集団として好ましくない方向へ向かってしまう。この考え方が優生学の中心にあるという。

 

■弊害

ダーウィン自身は人間を正面から扱うことをせず、できるだけ生物学の側面に限定して控えめな態度をとってきたと言われている。しかしこのようなダーウィンの思惑にもかかわらず、スペンサーは人間を適者生存・優勝劣敗という発想から、進化論を社会ダーウィニズムとして発展させた。この社会ダーウィニズムは人種差別や帝国主義国家による侵略、植民地化を正当化する強者の論理として使われた。

またゴルトンは自然選択を「逆選択」して、人間を優生学的見地から「選択」する優生学を唱えて発展させた。この考え方は「完全なる人種の育種」として、ナチスによるユダヤ人のホロコーストや大規模な断種の実施、アメリカにおける「劣った血統の移民」の流入を制限した1924年制定の移民法、さらには重大な遺伝病者や精神疾患者の断種等が各国で実施された。19世紀後半から20世紀にかけて、各国に社会ダーウィニズムや優生学を受け入れる素地があったとはいえ、ダーウィニズムは過去において好ましからざる影響を残したことは事実である。

 

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