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1.資料:新聞記事

ア)三田光一公開実験会の新聞切抜帳

三田光一が残した新聞切抜帳は3冊ある。第1冊(全127頁)(文献26~文献32)は明治44年1月12日付『大阪朝日新聞』の切抜(長尾郁子夫人の乾板紛失事件の記事)から始まり、大正5426日の新聞切抜(自覚会松山支部発会式の報道記事)で終わっている。第2冊(全192頁)は大正5929日付『濃飛日報』の切抜(帝国自覚会岐阜支部における実験予告記事)から始まり、大正1456日付『京城日日新聞』の切抜(54日の京城府庁楼上での実験会の模様の報道記事)で終わっている。第3冊(全21頁)は昭和2814日付『朝鮮商工新聞』の切抜(811日の開城劇場での実験会の記事)で始まり、昭和91025日付『日刊宇部時報』の切抜(地下水探水第二期工事の開始記事)で終わっている。(文献26

 

三田光一の新聞切抜を『福心会報』に転記した際に、「年」を省略して「月日」だけ明記したものが多い。今回取り上げた以下の切抜については、資料性という意味から「年月日」が明記してあるものに限った。

 

なお『福心会報』に新聞切抜帳を連載した巽直道氏は、「私の手許に三田光一氏の新聞切抜帳が3冊そろっている。子息が死の直前に私に託したものだが三田氏が生前に、自分の手で克明に作成したものであって、超心理学会としては国宝級のものだと私は思っている」として、『超常の人―三田光一の足跡』を自費出版(神戸市、直道会発行)した。どのようなものなのか内容を確認していないのでコメントできないが、3冊分の新聞切抜帳をまとめて出版したものと思われる。

 

イ)実験会の新聞切り抜き

№1.明治4491日『大阪毎日新聞、京都付録』所載(文献27

<自覚術実験:記者の提出せし六重包の写真板見事に的中す>

宮城県人自覚術者、三田光一の自覚術を新京極明治座(京都市)で千余名の観客の前で行った。記者が密かに或る物に加工して、六重包に密封して卓上に置いたものを三田は数分凝視して「板に薬のかけてある写真板」と答えて中身を当てた(一部抜粋)。

<筆者注記>三田光一は明治448月に「千里眼自覚術三田光一」としてデビューしたが、この記事は関西での“興行”デビューを伝えたもの。

 

№2.明治441122日『京城日報』所載(文献27

<昌徳宮にて千里眼を演ず>

過日来当寿座に於いて開演中の自覚術三田光一は、21日昌徳宮に召され午後430分より仁政殿に於いて李王同妃殿下台覧の栄を得たり、光一は最初数回の感応術を演じ次に千里眼透視術を演じたり。

①―透視は初め侍従の一人が入れたる本一冊を見事に的中し、今一回印肉其の他の物品を入れしも悉く的中、両殿下は倍観者一同と共に晩餐を喫せられ、午後7時より再び開演し、物体現出術に際し昌徳宮博物館十号室の王冠及び朝鮮鶉二羽を現せし、これまた非常に喝采を賜り

②―引続いて数番の奇術を演じ最後に腹上の石割を為したるが当夜は特に50貫の大石を2回まで腹上に於いて打砕きたる不思議さに多大の御賞賛に預かり・・・(一部抜粋)

<筆者注記>デビューした年に朝鮮の王宮で「千里眼透視術」を披露したもの。②で「危険術」の一種である石割の実演をしている。「危険術」は香具師の大道芸である。

 

№3.大正2828日『高知萬朝報』(文献27

<掘詰座における三田光一>

①―予め報じてあった如く、千里眼三田光一氏は、一昨26日の夜本町掘詰座に於いて、その独特の千里眼自覚術を開催する事となったので、これに興味を寄せている我が社の記者4名は、早速これが見物にて掘詰座へ駈け付けた・・・舞台では既に洋服姿軽々しき光一が,余興としてカードの使分とでもいおうか、50余りのカードを掌に置き、その掌を自由自在に動かしていた・・・次は同じく余興として「天地人」「不思議」「三光」と書いた三本の扇と一つの袋を観客の一人に提供し、その中より一本の扇を抜いて前記の袋に収め、その袋の中にある扇の文字を当てるのだが、これまた充分の成績を上げた・・・

②―我々は糊付けした新しい光沢があるハンカチに、用意してきた金縁眼鏡を包み、なおこれを収べく先方から提供された箱を充分に調べたうえ、光一の元へ提出した。彼はそれを舞台正面に置かれたテーブルの上に安置し、これに向かって静かに黙想すること暫時、立ちあがって其の外被は白色であって光沢がある糊付けのあるものであると云い、更に内部のものは金属製であって非常に反射力のある物だといったが、終りに金縁眼鏡であると正確に透視した・・・

③―遠隔透視実験、舞台に現れた光一は、まず観客に向かって観客が透視を希望する所の町名家名などをカードに書かしめたが、カードは殆んど15枚に至ったので、その中から特に5枚を選ばせ5ケ所を透視することになった。第一に透視するのは八百屋町南鹿蔵方の家屋、扁額、家人の模様および電話番号というのである。これを読み上げた光一は静かに椅子に寄りかかって瞑目したかと思うと立ち上がって舞台中を様々な風をして歩き回るのであった。ある時は人に何事か尋ねるが如き有様を見せ、またある時は仰ぎ向いて額を眺めるが如き風であった。さてふっと正気に帰りたるが如く、形を改めて南家の有り様を残らず観客に向かって報告した。何一つとして実際の南家の模様と異なる所なく、電話番号も正確に的中した・・・

④―気合を持って徳利および正宗の空瓶を木端微塵に粉砕し、あるいは一羽の雄鶏を捕えてこれを活殺自在なる術を試みた。次に石割術を行った・・・(以下省略、一部抜粋)

<筆者注記>①④は実験会というより“見世物興行”的色彩が濃厚。②③につき三田の関係者の関与の有無は不明。

 

№4.大正3616日『大阪朝日新聞』(文献27

<透視で贓物発見>

高知県より神戸に送り来る郵便物を本年春頃から盗み取る犯人あり、此の程、相生橋署に検挙したるも肝腎の郵便物が発見されねば厳しく本人を訊問すると、大行李3個を元居留地京橋と高浜の浮橋とに打ち捨てたると申し立つ、しかれど海の中なれば手も着けられず、過般大黒座に於いて興行した千里眼三田光一が透視に基づき14日同所にて3個とも発見したりと。

 

№5.大正3616日『神戸又新日報』(文献27

<三田光一の透視>

前科数犯の曲者森鉄丸(41)は阪神各港より四国へ航行の汽船に乗り込み郵便行李を窃取し、在中の手形其の他価格五千円を抜き取り、金にならぬ物は四個の行李に封じ込み遺棄したる事、相生橋署の刑事が探知し、此の程同人を逮捕取調べたるに強情で容易に自白せず、四個の行李は市内蟹川尻及び旧居留地海岸京橋付近の海中に投棄せりとのみ申し立て、しからば過般大黒座にて実験せし千里眼三田光一をして透視せしめたるに、京橋の下海浜より十四歩右一間の箇所に一個、同所より一間半隔たりたるブリキ缶の横に一個、蟹川尻は同所桟橋三枚の橋板四歩目の下に一個ありと透視したよるに、午後3時頃小林署長以下水上署のランチにて同所に赴き、捜査せしに果たして的中、右の箇所にそれぞれ投棄しあり、早速引き上げて目下引続き取調べ中なるが・・・(一部抜粋)

<筆者注記>三田は若い頃、透視能力を使って警察の犯罪捜査に協力した。新聞記事№4と№5に関しては、事案の性格上、真実性が極めて高い。

 

№6.大正31010日『芸備日日新聞』(文献28

<演芸館の透視実験>

8日午後7時開会、山田楽天氏の紹介演説についで、自覚会長三田光一は、フロックコートの瀟洒たる姿を舞台に運び、感応術に着手せし。

①―数本の白扇に観客の注文せる文字を揮毫し、客をして任意の一本を袋に入れ、その扇に記せし文字を専念せしめること十数秒にして、術者は之を感応し、右扇面と同じ字を貼紙に揮毫す。次に箱の中へ入れし客の洋刀、巻煙草入、招待券等を透視する。

②―次に最も有趣味なる遠距離透視を行い、客の希望に応じ、或いは比叡山陸軍墓地の状況より服部少佐の墓銘、及び墓前に播磨屋町有来清重なる名刺の散在せること。熊谷直一方邸宅の構造。在呉港内潜航水雷母艦の艦名及び停泊位置。高等師範学校の構造より、門番室の火鉢の火が餘にさかんなること、及び就寝時間を過ぎたるにも拘わらず、音楽室にて只今オルガン様の楽器を弄する音聞こえし事などを、手に取るごとく報告して満場の舌を捲かしめたり。

③―次に舞台に仰臥し腹上に卅二貫の長方形花崗岩を載せ、客が鉄構を一下すると共に石材は見事に中断して、左右に飛ぶや徐に起き上り「精神一到何事か成らざらん。陽気の発する所金石亦透る宜し精神修養を怠る勿れ」と満場を激励し、歓呼喝采裡に閉会せる・・・(一部抜粋)

<筆者注記>この時期の三田は、③にあるように必ず石割の実演をしている。②に際して三田の関係者の関与の有無は不明。小熊虎之助氏はこのような実験会を「一種の興行か余興会のようなもの」と批判している。

 

№7.大正4210日『徳島毎日新聞』(文献29

<三田光一氏再来、帝国自覚会講習>

当市に来たり物体透視・遠距離透視の実験を緑館に行いて、世人を驚かしたる帝国自覚会長三田光一氏は、今回同会員に対し講習を行はんため一昨日来県し、中通町山品旅館に滞在中なるが、目下会員既に六十余名の申込みあり不日適当の会場を借受けて講習会を開始すべく、尚、今十日より三日間午後6時より1030分まで緑館に於いて公衆の為に実験会を開き、心霊作用の不思議なる事を周知せしめん筈なりと、・・・自覚会に千里眼の、即ち透視等の能力を得るを第一の目的とするに非ず、専ら静座調息の方法によりて、無念無想の境に入り、精神と肉体との修養をなし健康を進め元気を養い精神の向上を図らむとするに在り。この方法を実行せば確に無病息災なるを得べし而して、其の無念無想の境に入る結果として霊界との交通を得る、透視自在成るを得るや否やは、その人の能力如何に在り云々と、その調息静座の方法、能力の養成等に関しては、今回「実行」と題する一書を刊行せられたれば就いて学ぶも可なり・・・(一部抜粋)

<筆者注記>三田は大正2年に高知市で、精神修養団体“洗心会”を結成し、翌年本部を神戸市に移して名称を“帝国自覚会”と改称した。それ以降、各地に支部が作られた。この記事は“帝国自覚会”の活動を紹介したもの。

 

№8.大正4年6月14日『北陸新聞』(文献30

<四高の千里眼実験、両回とも見事に的中す>

千里眼三田光一氏は、溝淵第四高等学校長の招聘に応じ、昨日午前10時より同校講堂に於いて透視の実験を試みたり。当日は寺島検事正を始め、同校教授職員等挙って出場し、三田氏は随員山田楽天氏をして諸般の準備を整えしめ、正面の卓上には例の木製四脚の小函を備え、其の傍らには透視用に供する燭台に西洋蝋燭を点じ、コップに水を盛り、大谷教授より提出せる物体に対して透視すべく、睡眠状態に入るや・・・分秒を費やさずして三田氏は、黒板に向かって円筒小瓶に類せる物体を描き、その底に針のごとき物の付着するあり、瓶の直径一寸二分と記し、その内部には星のごとく光を放つものありと、透視を報告せり。斯して函中に収めたる現品を検めたるに、果たして円筒小瓶の如き役状を備え、レスピンザリスコープと称するラジュームの放射線を見る装置ある理化学実験機にして、茲に透視は的中せるを確かめたり・・・(一部抜粋)

<筆者注記>三田の関係者(随員)の山田楽天氏が実験の準備をした旨の記載がある。記事からは実験中に関係者が、どのような関与の仕方をしたかは不明。

 

№9.大正4610日『石川新聞』(文献30

<千里眼の初日>

来る11日より福助座に開催する千里眼の実験会第一日には、県知事を始め、県庁内各部長及び市長その他各官衛の長官、市公史、新聞記者、各学校長及び職員、病院長、会社長、銀行頭取、市内の各学士博士等各階級に渉る知名の士数百人に招待状を発し、各種実験を試むる由にして、当日は一般の実見者も入場する事を得べしと、因みに三田氏は昨朝当地に着し、柿木畠藤屋旅館に滞在せる由・・・(一部抜粋)

<筆者注記>三田の実験会の特徴は、必ずその地の名士を招待していることである。新聞記事№9でも県知事、市長、高級役人等の名前が挙がっている。

 

10.大正4721日『大阪新報』(文献30

<腹に百貫目の大石を積せて打砕く>

本邦千里眼のオーソリティー自覚会会長三田光一氏は、今回我が衛生博覧会にて来る26日午後1時より、天王寺公園公会堂に於いて氏独特の神秘的大実験会を試みる事となれり、当日、大実験の順序は、第一感応作用の実験、第二物体透視、第三遠距離透視、第四念写、第五大石割等なるが、いまや三田氏の念力は斯かる単純なる所謂処女式時代を超越せるを以て、以上の実験のごときは同氏に取りては易々たる問題なるべく、従って予め透視物体等を検するの要なかるべしという、最も念のため、実験に供すべき物体等は全部一般観覧者中より、立会人を選び本会員立会の上、実験に先立ちて公衆の眼前に於いて、厳重なる査定を行う可く、また実験物体の提供希望者あらば本会は喜んでこれを歓迎すべし・・・

<筆者注記>この頃の三田の実験会では、「透視・念写・石割」がセットになっている。新聞記事№10では実験会の式次第が書かれている。

 

11.大正482日『福井新聞』(文献30

<菓子を透視して母を手古摺らせた幼時の三田氏>

3日から三日間、昇平座で公開する千里眼の先覚者三田光一氏の妙技は、今更吹聴するまでもない事だが、その幼時に就いて面白い話がある。元来氏は宮城県の生まれでその叔父に当たる人が透視に巧であったというから、氏は先天的にその性を受けたものらしい。何でも幼時の氏はすこぶる菓子好きであったものと見え、その母は何時も菓子を買って置いたが氏が餘り馬食するので、健康上面白くないと云うところから、時には戸棚の奥に秘しておく様な事がある。すると氏は何時の間にかそれを取り出して食ってしまうので、ついには菓子を鏙の中に入れて上からいろんな物でとりまいて、一寸見ても判らぬようにして、それを天井の裏などに秘して置くことさえあったけれど、氏は母の前で暫く黙念した上、直ちに菓子の在所を発見して食ってしまうので、さすがの母も氏の妙技には全く舌を巻いてしまったそうである。それが僅か7歳の頃とかで、附近一帯の村民は氏を神の如く敬って、常に神の子神の子と云う尊様を附していたという。その他司法犯人の透視や三陸海嘯の予言、海底の透視を行って当局者を驚倒せしめた事も一再でない事は、既に社会が知悉している事実だ。

<筆者注記>三田の幼少時代の逸話を紹介している。

 

12.大正41123日『沖縄民報』(文献31

<霊覚作用実験雑観>

昨日午後4時頃から、いろは楼で来県中の自覚会会長三田光一氏の霊覚作用の実験があった。県庁の各高等官・麓前代議士・官民の主なる者及び各新聞社合わせて、六七十名二階に陣取って妙な顔つきをしている。仲吉朝日君の挨拶、今岡神戸新報記者の紹介、山田公一氏の挨拶についで三田光一氏が現れた。白い顔にあごひげ、金縁眼鏡、フロック姿はどう見ても一癖ありそうだった。

第一回は伊波文学士が曲玉を入れたのを透視したが、なんなく当て而も伊波氏が頭に描いている考え迄も当てて伊波氏を驚愕させた。

第二回は記者団の入れた物体を透視したが、明確には当て得なかったが琉球社の社員章であること、形状、包んだもので当て得た。

第三回は医師団が金のメタル大の容器に生きた蟻一匹を入れて透視したが、ハッキリ蟻だとは云い得なかったが、生物で而も金の容器に這い入って動いていると透視したのは妙だった。

遠距離透視の時、和田署長(那覇警察署長和田竹四郎氏)の床の間の掛軸を透視し、和田氏が家族はいたかとの問いに答えて、年寄りの婦人がいたと云ったので、和田氏は婦人を年寄りと云われたのでソウではないと云い張っていたのは愛嬌だった。和田氏夫人は三田氏の云うごとく年輩五十位で的中している。それから孔子廟の内部を透視し終り、お隣は大名屋敷らしい所だが何だか薄気味悪い所であったと云ったので、かの官舎に住んでいる品川土木、内海地方の両課長は聞いていて苦笑していたので少々滑稽だった。兎に角不思議である。

<筆者注記>三田の出立ちは「あごひげ、金縁眼鏡、フロック姿」で、立ち会った記者は「どうみても一癖ありそうだった」と感想を述べている。当時の三田はあえてこのスタイルをとっていたようである。

 

13.大正5222日『愛媛新聞』(文献32

<問題になった蝙蝠井戸―海南新聞社の探検、三田氏の透視適中>

県会議員銭岡慶三氏が非命の最後を遂げたる松山城山頂の蝙蝠井戸は、当時松山市の手にて井戸替を執行したるが、その際人夫の報告によれば、水面より三間の土手西側に足場の設けある洞窟を発見したりとのこと、定めし故老等の伝説する衛戍病院付近に貫通されたる抜け穴なるべしと取り沙汰せられたるが、本社が今回三田光一氏を招へいし、千里眼実験を催したるに、引き続き市内の有志が心霊研究会なる名称の下に同氏を招待したる席上、会員中より蝙蝠井戸の問題を提出しその深浅並びに抜け穴の有無をただしたるに、氏は透視の結果抜け穴に非ず、十四間位の処に岩石の陥没ありと明言したるが・・(一部省略)・・同業海南新聞社にては同井戸の探検を思い立ち、田辺松山郵便局長、小松崎師範学校教諭の立会を得、今20日午前9時、今井、野市の両記者軽装して、筏に乗り懐中電灯・電話機及び寒暖計等を携帯して下降し、周到の用意を以て極めて詳細に調査したるが、その結果三田氏の発表せる如く中央部に石垣の墜落したらんと思わるる深さ三尺、直径また三尺位の陥没ありて、中に蝙蝠の累々として楼息せるを発見したりと云えば、この調査は偶然にも三田氏の透視に裏書したものと云うべし、尚この調査により水深及び水面の気温等も確かめたりと。

<筆者注記>新聞記事№13および№17は、三田の透視能力を「鉱山や温泉の開発」に活用していく初期の頃の事例と思われる。

 

14.大正5102日『濃飛日報』(文献33

<本社主催千里眼実験会>

各地の深山に籠って透視能力の益々増進せる三田氏は、明治44年朝鮮に航し、京城に滞在中、李王殿下は三田氏の声望を聞こし召され、其ご希望により、昌徳宮内仁政殿に伺候して朝鮮の貴族、山県政務総監以下顕官の居並べる晴れの場所に於いて、各種の透視を実験せる後、特に殿下の御思召しにより、朝鮮の王冠を御前に髣髴として現出せしめて殊の外なる御賞詞を賜はる光栄を博したる・・・(一部抜粋)

<筆者注記>三田は朝鮮で何度も公開実験を行っている。昭和2814日付朝鮮商工新聞には「帝国自覚会長、三田氏の霊覚実験、透視、念写悉く的中。11日開城での大盛況」との見出しとともに、実験会の模様が記載されている。

 

15.大正6211日『名古屋毎日新聞』(文献34

<故総理大臣桂公を念写>

愛知県会議事堂に集まる四千人の人々を驚かし、各種の実験皆的中・・・愈々実験に移ることになった。念写によって其の物体を写真乾板に写し出すべく種板12枚入りの箱を取り出し、念写物の希望を問うと場内は俄かにイゴめいて、一陽来福の如く嬉々の声が聞こえ、松井知事の肖像を写せとか、騎兵の乗馬を写せなどと云う声が起こった。投票用紙を配布するといろいろの投票が集まってきた。会長も其の選定に困難したので、遂に居合わせた神頭参謀長の指名を待って念写する事となった。参謀長は多数投票の中から「総理大臣当時の桂公」というのを選定した。愈々念写する事となったが、サアそれを何枚目に写すのかとの事で又もや是も神頭参謀長の指定で6枚目に写すことになって、会長は暫く先方の机上に載せた種板の包みを見詰めて居って、サア写りましたという。現場で現像設備不完全のため、これを南桑名町岩田写真館の暗室で現像する事となり、神頭参謀長、中央探偵社の杉山氏とが入場者を代表して立会人となり、山田氏が同道した。この現像の結果如何に念写が出来ていようか、三田会長はフロック姿の桂公を写したといったが、満場の人々は其の結果を待って居る。その間に他の実験が始まった。場内は又も騒々しくなってきた。

<遠距離透視皆的中>

遠距離透視は各自の投票を以て募り、愈々開始した。先ず東区高岳町加藤鐐五郎氏居宅の座敷床の間にある掛物を透視し、山水の軸なりといへば加藤氏立って然りと答え、又玉屋町金森店の陳列にある人形を透視し、30歳前後の丸髷美人が右側に立って左にショールを掛けた小児ありといえば是また的中と叫ぶ者あり、次いで若宮八幡神社境内に植えたる御大典記念樹の問題に関し、其の植えつけられた樹の数から種類まで、詳細に答えたので的中的中の声騒々しく、次いで今度は旭廓金波楼娼妓1月中の売上げ順序を問うたのがあったので、会長は是を透視した。その結果門燈に欧文で高田とある。入口二つあり、玄関を入った座敷に札が13枚掛けてあって、始めは高尾と書いてある。その高尾は背がスラリとして居る大阪生まれのまだ20歳前後である。との答えを聞いて、満場の人々は的中的中と総立ちとなって拍手した。

<念写成功>

別項の如く、桂公の総理大臣当時の肖像を念写して、神頭参謀長等が県会議事堂を出発したのが午後312分で、岩田写真館へ着したのが同時20分、直ちに暗室に入って現像をした処30分の後、見事に桂公の肖像が現れたので、一同は会場に帰り神頭参謀長は是を詳細に報告して、その現れた種板を見せたので、満場の人々今更の如く其の念写の成功せるに打ち驚き、如何にもこの神秘的の事に感じて居った・・・(一部抜粋)

<筆者注記>三田は大正628日に福来博士と出会っている。この頃から実験会的要素が濃厚になってくる。

 

16.大正6213日『名古屋毎日新聞』(文献34

<的中せる三田氏の透視と念写、市内は至る所大評判でもちきり>

去る10日愛知県会議事堂に於いて我が社が主催した霊界の偉人三田光一氏の千里眼の講演と実験会は前号所報の通り入場者四千を算し、空前の大盛況であった上、三田氏の透視念写の実験が百発百中悉く的中したので、入場者は何れも今更の如く氏の能力の偉大なるに驚いて帰途に就いた・・・今回の模様について前号で書きもらした事を書いた。多数の投書の中から神頭参謀長が入場者を代表して選定された故桂公の総理大臣当時の念写は、別項にある写真版の通り見事に念写された。

それと同時にその上下にあった(7枚目と5枚目)種板に其れも別項挿入の写真版通り、つなぎ合せると「至誠」という字が念写されていた、それは桂公を念写した時こんなのが出たのだから奇異に感じたが、三田氏及び山田地方部長の語る処によると、去る9日西濃揖斐郡に於いて、福来、坪井、小野木の三博士は今後霊界研究に関し種々協議した上、福来博士の提案で三田氏に、種板を東西別々の処に置き、それに至誠の文字を半分だけ念写し、二枚合わせたなら至誠の文字を明らかに認め得べく念写が出来れば、今後大いに海外に向かって氏の能力を吹聴し、我が国霊学界の誇りにする事が出来るといったので、氏は直ちに念写をしたが如何なる都合にや、それが不成功に終わったが、氏は其の時必ずこの至誠の念写は何れかに出来ていると明言をしておいたのが、図らずも前記の場所に出現したので、県会議事堂へ微行してきた三博士は大いに驚いた・・・(一部抜粋)

<筆者注記>この新聞記事№16と№15は同じ実験会の取材記事。№1628日の実験で現れなかった「至誠」という文字が、時間を超えて210日の実験会の念写で現れた。そのことが記事の中で触れられている。

 

17.大正643日『岐阜日日新聞』(文献35

<三田光一の透視で温泉発掘―下呂温泉復活近し>

下呂温泉は飛騨益出郡下呂村大字湯之島地内益出川東岸に位置し、文永以来安政大洪水に至る頃まで、其の特効全国に知られ草津有馬と並び立って、殷盛を極めいたるも爾来幾度洪水に見舞われて昔日の面影なく、天下の名泉も漸くその名を忘れらるるに至りしが、当日市の事業家小林重正氏は深く之を嘆き、洪水の患いなき益田川東岸石堤内官有高地の払い下げを受け、農商務省技師野田房次郎氏の実地踏査に基づく温泉脈走向適示、並びに京都帝国大学の比企教授の温泉脈走向兌、及び透視専門家三田光一氏の透視によって示適されし岩盤中を大阪市のボーリング専業者森川組の手によって、経四インチのボーリング坑を試掘中地盤以下四十尺に達し、85度の温度を示せるより更に三田氏の透視を乞ひたるに地下四十尺余にして百度以上の温度を有する旨を断言したるが、果たして地下四十尺余にして百五度の温泉を示し、尚掘下ぐるに従って温度を増し来るにぞ、工夫等は大いに勇み立ち百十八度以上の温度となるまで掘下げんとて、目下工程を急ぎ居れりという、右事業にして完成せんか下呂温泉の復活となり、一時に昔時の繁盛を盛返すに至るべく、尚同泉の塩類性の硫黄泉なるを以て、硫化水素臭気全くなく透明にして花柳病、婦人病、皮膚病等に特効ありと聞く。

 

ウ)その他の新聞記事

18.大正7210日『気仙沼新報』

世に怪聞奇術多しと雖も恐らく世人を瞞着し社会をたばかる者ほど憎むべきはなし。当町出身にして芸名三田光一事三田才二(34)は三田半造の二男なるが、幼少の頃よりよく詭弁を弄し、または魔術様の行為を以て多くの人を驚かしたりしたが、果たせるかな彼才二は己の長所(?)とも云うべき魔術に心を寄せ、ある魔術師の門に入りて之を研究し、遂に之をよくするまでは良かりしが、暫時心おごり、昨今に至りて透視術とか、また念写とかいう奇術を行うことを揚言して之を実行し、巧みに世人の眼を偽り、以て一場の詐欺的行為をなすもの一再に止まらず。現に去る7日午後7時より、当町小学校講堂に於いて念写を行い、一般公衆に観覧せしめたるも、その結果はいささかも其の当を得ず。観衆皆彼の詐欺的行為を悪みたりと。光一事才二はいやしくも当町の出身にして,しかも故郷人を偽り、自ら人気を博せんとしたるは最も憎むべき怪物たるは勿論、みだりに町役場を発起者の一と偽称し、且場所も神聖なる小学校を選びて之に充てつる等、一の詐欺的芸術を公行したる彼の心情、まことに町民を軽蔑したるものと云うべし。ちなみに光一は明治38114日東京地方裁判所に於いて、窃盗犯にて重禁錮215日監視6月、また同年411日東京区裁判所に於いて窃盗犯のかどにて重禁錮4月監視6月、同年817日東京控訴院に於いて詐欺取財にて重禁錮8月罰金8円監視6月に処せられ、なお明治40429日気仙沼区裁判所に於いて、徴兵令違反にて罰金5円に処せられたる前科四犯の曲者なりという(「念写問題の経過」雑報子著:『心理研究』大正74月号、99頁)。

<筆者注記>当時の三田の透視や念写に対するマスコミ人やインテリたちの評価は、この新聞記事の論調によく表れている。

 

19.大正7215日『東京朝日新聞』

<千里眼三田光一暗撃(やみうち)さる。本郷大学前に於いて、背後から頭部を乱打され人事不省に陥る――福来博士の招聘で上京>

福来博士監督の下に、最近に於いては奈良県に於いていわゆる念写を行い、世間の問題となりおる神戸市中山通り5丁目4番地千里眼者三田光一(33)は去る10日福来博士の招聘により片山外1名の随行員と共に神戸より上京し、本郷区本郷5の11旅館伊勢栄こと安田春吉方に止宿し居りしが、昨夜外出して10時ころ大学赤門前を通行中突然、雪降る暗中より何者か現れ、石様の物を以て同人の後頭部を乱打せし為、三田はその場に人事不省となりて打ち倒れたるを、程経て通行人が発見し、その旨本郷3丁目の交番に通じたるより、本富士警察署より係官出張して同人を安田旅館へかつぎ込み、付近の柿島医師を聘して応急手当てを施したるより、今晩零時頃に至りようやく生気付き、生命には別条なき模様にて、目下引き続き治療中なるが、本富士署よりは係官同旅館に臨場して、諸般の取り調べに着手したり。一方福来博士も急を聴きて駆けつけ、前期片山某其の他の関係者と看護の傍ら、鳩首何事か協議に耽りつつありしが、何故にか事件のすべてを絶対に秘密に付し居れり、なお、光一に応急手当てを為したる柿島医師はいわく、「自分の駆けつけた時は、既に旅館にかつぎ込まれて人事不省に陥っていた。非常に込み入った重大事件が含まれている様子なれば、詳細の模様を語る事はできないが、傷は頭部だけで刃物で斬られたか、それともこん棒様の物でやられたものか判断できないが、歩行中を要撃されたものらしい。非常の重傷ではあるが今のところ死ぬようなことはあるまい。しかし、余病は今の処、勿論はかることは出来ない。

<筆者注記>三田は大正7212日に実験会を行った。この実験会は立会人の本田親二氏や中桐確太郎氏が、三田の詐術があったとしてその旨を雑誌に発表している。その二日後に三田は暴漢に襲われた。このような傷害事件があったにもかかわらず、当時の新聞報道は三田に冷たかった。

 

 

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