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3.三田光一の青年時代

目 次

ア)奇術師時代の三田光一

・ギャクラー魔術団

・三田の奇術能力

イ)苦難の時代

・刑事事件

・知られざる期間の動静

・経歴の喰い違い

 

<注23>~<注39

 

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ア)奇術師時代の三田光一

☆ギャクラー魔術団

岩手県花泉町(現在は一関市)在住の高橋成通氏の調査によれば、光一少年は「気仙沼小学校を卒業後、気仙沼市八日町の中井浅吉糸店に丁稚奉公二箇年を過ごした。それから同店を去り、独立して行商渡世を始めたが、幼少から才気煥発、人の意表に出る、手品等上手で行商中も顧客を楽しませる人気があった。22~23歳で行商を止め、志して上京、精神修養団(洗心会)を創立し、後に帝国自覚会と改称、会長となった」(注23)という。この記述は昭和28年5月発行の『気仙沼町誌』の記載(注24)とほぼ同じである。このように12歳(明治31年)で故郷を離れた三田は次々と職業を変えてのち、「奇術師ギャクラー」という名の興行師一座に入り全国各地を巡業した。

 

文明開化と共に日本にも西洋奇術が入ってきた。水芸・曲独楽などの日本手品が衰退の一途をたどっていた時期、人々は目新しさや従来の日本手品にはない奇抜さを前面に出した西洋奇術を歓迎した。当時の西洋風の魔術団(奇術師一座)が活躍した社会的背景には、このような事情が存在していた。

仙台市でカイロ・プラクチック療法を本業としているS・T氏は、三田とは奇術師仲間で同業者的なつながりがあった人であった。そのS・T氏によれば、西洋風の名前を持った「ギャクラー宗翁氏の一座は、縄抜け・万物取り寄せ・帽子から火のついた提灯をとりだすなど、素人から見るとかなり高度な奇術を行って」(注25)おり、人気のあった魔術団であったという。「ギャクラーとは正真正銘の日本人で、明治から大正にかけて奇術師としては有名な一流の人で、多い時には30人から40人位の座員がいて、日本全国を巡業していた。晩年は不遇で盛岡市の内村座の巡業中、弟子たちに背かれたのと病気を苦にして自殺したという」(注25)。

さらにS・T氏は「三田さんはある人に(佐藤権右衛門氏のことか?)ギャクラー一座の座長に見こまれて、“ギャクラー光一”の芸名を貰ったというが、それは事実ではないと思う。奇術師仲間の通例からいえば、もし、そのような芸名を貰ったとすれば一座を継いで、奇術師一座としてやっていかなくてはならないはず」(注25)として、「ギャクラー光一」の芸名説を否定している。

 

黒田正大氏によれば、三田が「魔術師ギャクラー」一座に入った期間は「(12歳から17歳の)一時期、2~3年であろう。佐藤さんの言では、20歳ころは劇団に入って、着物を着て芝居もやっていた」と述べている。さらに「三田氏のギャクラー観は、直接は知り得ないが、佐藤さんの受けた印象ではあまり良くないようである。(ギャクラーは)才能はある人だが不親切で金儲け本位の人だったと佐藤さんに語っている。おそらく(三田は)冷たい不愉快な仕打ちを受けたのであろう。そうして、その時期のことは、あまり思い出したくもない」「昔の魔術団での巡業のことは一言も語ってはいないようである」(注26)。

 

☆三田の奇術能力

三田光一の奇術能力について『気仙沼町誌』の中に、「後年朝日光一と名乗りをあげ八日町の気仙沼座に於いて天勝はだしの手品奇術を公開して大人気を博した」(注27)との記述がある。『気仙沼町誌』にある「天勝」とは誰のことか。

明治時代「西洋大魔術団」と名乗った天一は、「神秘現象」にタネも仕掛けも持ち込んだ奇術で一世を風靡した。その天一の跡を継いだのが天勝であった。天勝は明治後半から昭和初期まで活躍した女流奇術師で、アメリカ興行も成功させた松旭斎天勝(しょうきょくさいてんかつ:本名は“中井かつ”:1886年→1944年)のことである。『気仙沼町誌』では「奇術といえば天勝」という代名詞にもなった松旭斎天勝を取り上げて、光一を「天勝はだしの手品奇術」として高く評価している。

 

黒田氏は三田の奇術能力と心霊現象との関係について、かつての奇術師仲間であったS・T氏の「一座に何年かいたはずの三田さんは当然、ある程度(奇術を)やれたと思う」という証言を紹介した上で、この能力の存在は「真の透視・念写能力と奇術能力によるトリックとの鑑別という難しい課題を残す結果になったことは否定できない」(注28)と指摘している。

三田自身は奇術と霊能をどのように見ていたか。大川定次郎氏の「2月25日の念写実験について」(注29)や「自覚会」主催の実験会での三田の発言(注29)から、三田は自身に奇術能力があることを認めているが、その為に透視や念写がことごとく奇術であると、世間から断定されることは迷惑であると述べている。

このように三田の奇術師時代の経歴や自身の奇術能力は、たとえすばらしい透視や念写を成功させても、たえず「批判派」から、「三田は何らかのトリックを行った」のではないかとの疑惑が向けられる原因の一つとなっている。

 

イ)苦難の時代

☆刑事事件

奇術師一座から離れた三田は放浪生活中に刑事事件を起こしている。黒田正大氏は念写に否定的立場の地方新聞(→発行日や新聞名の具体的な記載はない)を取り上げて、記事内容の信憑性の検証を行った。黒田氏は三田が佐藤氏に語った「日露戦争の頃、仙台市長の早川智寛翁の尽力で放免された、同翁は控訴院にまで掛け合った」(注30)ことを根拠として、最終的に新聞記事にある事件の存在を肯定した。なぜならば三田が語ったことが事実であれば「収容された事実、刑事事件がなくてはならず、その点、時期的にも、事件の程度(→第三者の運動により放免が可能となる程度の罪、いわば微罪のこと)からみても、この新聞報道の刑事事件の事実性、信ぴょう性が浮かび上がってくる」(注30)からであった。

 

その刑事事件とは一体どのような性格のものだったのか。黒田氏は当時の刑事事件の内容や裁判記録を調査して新聞報道の裏を取ろうとしたが、事件があまりに古いため資料が残っていなかった、そのため新聞記事の内容を信頼するほかなかったという。記事によれば最初の窃盗で禁固2ヶ月半、次の窃盗で禁固4ヶ月、最後に詐欺取財で禁固8ヶ月、このように3回立て続けに刑事事件を起こしている。

 

黒田氏はこの一連の刑事事件に関して「手品、奇術能力を第三者に利用されるとか、官憲に特に注目されるようなことがなかったならば、特に刑事事件となるほどではなかったのであるまいか」(注30)と感想を述べている。

黒田氏が調査した地方新聞とはどこの新聞か。手掛かりとなる記載はないが、推察するに大正7年2月10日発行の『気仙沼新報』(注31)ではないかと思われる。この記事は心霊現象否定派に立ったかなり悪意に満ちたものであり、当時の地方ジャーナリズムの質がよく分かる内容である。

 

☆知られざる期間の動静

三田光一が12歳で郷里の気仙沼を離れて以降の動静については、一般にあまり知られていない。黒田氏は各種資料を調査して「三田の少年期動静年表」としてまとめた(注32)。これを筆者は時系列に<A>~<E>としてまとめ直した。

 

<A>:三田が12歳(明治31年)から17歳(明治36年)頃の期間

家郷、気仙沼を離れて行商生活に入り、次々職業変わる。ギャクラー魔術団に入り、全国各地を巡業し、手品や奇術を修得する。ある時期に同団を離脱した。

 

<B>:三田が18歳から19歳(明治37年)頃の期間

東京に居を構えて、自立を目指して手品や奇術業(?)を生業としたが生活は不安定であった。此の間、刑事事件を起こしている。

 

<C>:三田が19歳から20歳(明治37年末から393月)頃の期間

三回の刑事事件被告、および禁錮刑者として収容生活を1年3~4月をおくる。早川仙台市長の尽力もあって刑が軽減される。

なお筆者の調査によれば、早川智寛氏(はやかわともひろ:1844年→1918年)の仙台市長としての在任期間は、明治36年4月2日から明治40年7月1日なので時期的に一致する。

 

<D>:三田が21歳(明治40年から41年)頃の期間

徴兵令違反で罰金刑5円に処せられている。判決は本籍地の関係で気仙沼区裁判所において受けたが、本人は当時東京に居住していた。

なお筆者の調査によれば、旧戸籍制度において本籍地は現在とは異なって基本的に住所地を指していた。しかし仕事・学業・病気静養等の事情で、本籍地以外に住所地を有する場合、これを居所というが、この場合には住所地の役所で寄留手続き(寄留簿に登載)を取る必要があった。この場合でも召集令状は本籍地の役所から伝達されたが、徴兵検査は本籍地、寄留先のどちらでも可能であった。三田の場合には本籍地は郷里の親もとにあったが、東京に住所(寄留先)を有していた。

 

<E>:三田が21歳(明治40年から41年)頃の期間

自覚するところあり、洗心会(精神修養団)創設に進んだ。

なお筆者の調査によれば、洗心会結成は三田光一著『霊観』の「本書発行に就いて」によれば、大正2年で28歳の時である。三田は明治40年に「大気養法実行」の指導を始めたので、このことを指していると思われる。

 

三田の明治38年頃(19歳から20歳にかけて)の動向については、大正7年2月10日発行の『気仙沼新報』(注31)の記事や、黒田氏の調査結果を時系列で丹念に追ってみると、警察との関係で不自然さが浮き彫りになってくる。

まず「日露戦争の頃に仙台市長の早川氏の尽力で放免された」(注32)という三田本人の証言があるので、明治37年から38年頃にかけて「何らかの事件」があった事が窺える。この「何らかの事件」とは『気仙沼新報』の記事によれば「窃盗等」であった。

 

資料から当時の事件を時系列に再現すると次のようになる。

三田は明治3712月または明治381月上旬頃に、他人の財物を窃取して警察に捕まり取調べののち、東京地方裁判所で明治38114日に罪名「窃盗罪」で2月半の重禁錮(→定役に服す刑罰のこと)および付加刑として監視6月の判決を受けて、3月末まで拘置所生活を送った。刑期が満了して釈放後すぐに、再び他人の財物を窃取して警察に捕まり取り調べののち、東京区裁判所(→形式的には現在の簡易裁判所に相当)で4月11日に「窃盗罪」で4月の重禁錮および監視6月の判決を受けて、8月上旬まで再び拘置所生活を送った。釈放後すぐに今度は他人に対して何らかの欺罔行為を行い、財物を窃取して捕まり取り調べののち、東京控訴院(→地方裁判所の判決に対する控訴の裁判を行う裁判所)で8月17日に罪名「詐欺取財」で、8月の重禁錮および付加刑として罰金8円と監視6月の判決を受けて、翌年(明治39年)4月中旬まで拘置所生活を送った。

 

このように毎回出所した直後に罪を犯して、すぐに捕まり「警察での取調→裁判→拘置所生活」を繰り返している。拘置所から出所して自由の身となった日が数日もない不自然な経緯から、「監視」という付加刑が付いているとはいえ、三田は警察から徹底的にマークされていたことが推測できる。

 

なお三田が受けた判決には、それぞれ付加刑として「監視」が6月付いている。この「監視」とは旧刑法時代の付加刑(旧刑法10条:剥奪公権、停止公権、監視、罰金、没収)の一つであり、これは受刑者の釈放後一定期間執行するものであった。この「監視」期間中は住居移転の自由は認められず、警官によって常に生活が監視されていた(→明治38年4月から導入された「刑の執行猶予」とは異なる)。

 

旧刑法では窃盗罪の法定刑は「二月以上四年以下の重禁錮」(旧刑法366条)であり、詐欺取財は「二月以上四年以下の重禁錮」(旧刑法390条)となっている。三田のケースでは、最初の事件で2月半の重禁錮判決を受けたが、法定刑から見れば微罪であることが分かる。この時期の三田には、法定刑に見合うだけの何らかの「他人の財物の窃取行為(→当時は心霊現象は詐欺や窃盗とされた)」があったのであろう。それ以降は再犯となるため「重禁錮4月」や「重禁固8月」をそれぞれ科せられたが、やはり法定刑から判断するとこれらも微罪であったことが窺える。それぞれに「監視」という付加刑が付いており、警察の監視下にあったとは云え、全体として不自然さが感じられる事件である。心霊現象が詐欺罪や窃盗罪(→アポーツ現象などの物品引き寄せ)として扱われた当時の時代背景を考慮しなければならない。

 

☆経歴の喰い違い

次に三田本人が述べた自身の経歴と、実際の経歴との喰い違いの問題がある。まず座敷牢幽閉期間の喰い違いについては、三田が佐藤権右衛門氏に語った内容によれば「巡査の監視の下14歳まで幽閉させられた。食事は格子戸より慈母が供給した」(注33)として、幽閉期間は6年間であったと述べている。これに対して黒田氏は、「未成年者で廃疾者でない者の幽閉期間としては、その当時としても永すぎる」「数えとし14歳、明治31年までが事実とすれば、他の資料で示された年代的事実とダブる」(注34)として、明治26年から2年間と考えた方が妥当であるとした。

 

次の喰い違いとして小学校の修業・卒業時の問題がある。三田が佐藤氏に語った内容によれば「座敷牢から解放された三田少年は、学校当局は小学校全科卒業の能力あるものとして、修業証書、卒業証書8枚を皆と同一の日付で一括交付してくれた」(注35)という。これは義務教育期間の小学4年と、義務ではない高等科の4年を合わせた卒業証書と云うことになる。これに対して黒田氏は「実際は小学4年卒、つまり義務教育年限の修業、卒業証書の交付にとどまったものと解した。それは当時でも昭和の現在でも、義務教育の卒業証書だけは就学期間のいかんを問わず、交付する反面、義務教育以上の修業証書は実際の修学がある程度確認されなければ交付されないという慣習が一般化している。小2中退だけで高等科4年卒の卒業証書の交付を受けることはあり得ない」(注36)と理由を述べている。筆者は黒田氏の説の方が一般的に考えて妥当性があるように思われる。

 

さらに黒田氏の調査によれば、三田の明治31年(12歳)から明治36年(17歳)にかけての動静は、ギャクラー魔術団に加わっていたこと以外は、明らかな裏付け資料がなく不明であり推測の域を出ないという。前述したように三田は18歳から19歳頃には、ギャクラー魔術団からも離れて東京で暮らしていた。また「ある資料(→前述の地方新聞の記事内容のことか)を信頼すれば、明治37年末(19歳)から明治39年3月(20歳)までは、刑事事件の被告としての収容生活の連続であり社会的活動のできるはずはない」(注37)としている。一方三田本人は著書『霊観』の中でこの期間を「吾人は明治36年の師走より肺結核に犯され、同40年の立春まで40ヶ月の間を病床に暮らした」(注38)と述べている。この黒田氏の時系列の調査結果と三田の記述との間には、事実関係についての齟齬がある。両者の齟齬についての常識的な解釈として、三田自身にとってこれら一連の刑事事件は隠しておきたい経歴のため、肺結核の病床期間を引き延ばして辻褄合わせを行ったのではないだろうか。

 

それでは三田はなぜこのような矛盾した内容の話をしたのか。黒田氏は精神科医の立場からその理由を次のように解説した。「氏の性格はその秀でた能力をバックとして、非常に振幅が広く、凡庸の徒の理解しがたいものを持っているが、タイプとしては循環(躁鬱または過動)性と顕耀(ヒステリー)性の混合型に類似しているように思う。その特性の人は、社会的活動、その能力発揮は目覚ましいが、その反面、どうかすると、自己表現に誇張、修飾があり、いわゆる憎めない誇張や作為が、その優秀な社会活動、表現の中に多少混入する傾向がある」(注39)と述べている。

 

この病床にあったという明治37年から明治41年にかけては、刑事事件や病気などが立て続けに起こっており、三田にとってこの期間はあまり触れてもらいたくない時期であったといえる。この「刑事事件」は後の「金塊引揚詐欺事件」と相まって、三田の人物像に「信頼できない人間」というレッテルを貼ることになった。そして「信頼できない人間」が行った透視や念写がたとえすばらしいものであったとしても、「霊媒の誠実さ」の問題から「批判派」を納得させるに足る価値ある研究材料にはならないという結論になっている。

 

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<注23

■甲山繁造著「この霊的巨人の足跡を見よ」:『心霊研究』昭和347月号、1頁。

<注24

■気仙沼町誌534頁。

<注25

■黒田正大著「三田光一余聞録」:『福心会報』№1534頁以下。

<注26

■黒田正大著「三田光一余聞録」:『福心会報』№1426頁以下。

<注27

■『気仙沼町誌』534頁。

 

<注28

■黒田正大著「三田光一余聞録」:『福心会報』№1534頁以下。

■近代合理主義思想が浸透していくに伴って、奇術師に付きまとっていた「妖術家や魔女的イメージ」は払拭されて、奇術は娯楽となった。この奇術と心霊現象は密接な関係にある。ジャネット・オッペンハイムは『英国心霊主義の抬頭』(和田芳久訳、工作舎1992年刊)の中で、1840年代のイギリスでは「英国生まれや外国出身の奇術師が大勢活躍」し、この「19世紀前半の英国における奇術ショーの成功」がスピリチュアリズムブームに繋がり「心霊現象が受け入れられる下地を作った」(46頁)と述べている。

 

<注29

■大川定次郎著「225日の念写実験について」:『心理研究』大正74月号、88頁。

大正7225日に私立衛生会で開催した実験会を「自覚会」が主催した、この中での三田の発言のこと。

<注30

■黒田正大著「三田光一余聞録」:『福心会報』№1426頁以下。

 

<注31

■大正7210日付『気仙沼新報』。この新聞記事は『心理研究』大正74月号99頁の雑報子著「念写問題の経過」の中にある。

――世に怪聞奇術多しと雖も恐らく世人を瞞着し社会をたばかる者ほど憎むべきはなし。当町出身にして芸名三田光一事三田才二(34)は三田半造の二男なるが、幼少の頃よりよく詭弁を弄し、または魔術様の行為を以て多くの人を驚かしたりしたが、果たせるかな彼才二は己の長所(?)とも云うべき魔術に心を寄せ、ある魔術師の門に入りて之を研究し、遂に之をよくするまでは良かりしが、暫時心おごり、昨今に至りて透視術とか、また念写とかいう奇術を行うことを揚言して之を実行し、巧みに世人の眼を偽り、以て一場の詐欺的行為をなすもの一再に止まらず。現に去る7日午後7時より、当町小学校講堂に於いて念写を行い、一般公衆に観覧せしめたるも、その結果はいささかも其の当を得ず。観衆皆彼の詐欺的行為を悪みたりと。光一事才二はいやしくも当町の出身にして,しかも故郷人を偽り、自ら人気を博せんとしたるは最も憎むべき怪物たるは勿論、みだりに町役場を発起者の一と偽称し、且場所も神聖なる小学校を選びて之に充てつる等、一の詐欺的芸術を公行したる彼の心情、まことに町民を軽蔑したるものと云うべし。ちなみに光一は明治38年1月14日東京地方裁判所に於いて、窃盗犯にて重禁錮2月15日監視6月、また同年4月11日東京区裁判所に於いて窃盗犯のかどにて重禁錮4月監視6月、同年817日東京控訴院に於いて詐欺取財にて重禁錮8月罰金8円監視6月に処せられ、なお明治40429日気仙沼区裁判所に於いて、徴兵令違反にて罰金5円に処せられたる前科四犯の曲者なり――。

 

<注32

■黒田正大著「三田光一余聞録」:『福心会報』№1436頁。

<注33

■佐藤権右衛門著「三田氏の念写実験記録と私の体験」:『福心会報』№227頁。

<注34

■黒田正大著「三田光一余聞録」:『福心会報』№1430頁。

<注35

■佐藤権右衛門著「三田氏の念写実験記録と私の体験」:『福心会報』№227頁。

<注36

■黒田正大著「三田光一余聞録」:『福心会報』№1432頁。

<注37

■黒田正大著「三田光一余聞録」:『福心会報』№1434頁。

<注38

■三田善靖著『霊観』(昭和7年発行)214頁。

『霊観』は1998年に八幡書店が復刻版を発行している。

<注39

■黒田正大著「三田光一余聞録」:『福心会報』№1430頁。

 

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