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1.三田光一の透視能力

目 次

ア)試験霊媒(テスト・ミディアム)への一大飛躍

・福来友吉との出会い

・三田光一の立ち位置

イ)福来友吉による透視の通信実験

ウ)遠距離透視

・スウェデンボルグの遠隔透視

・三田光一の遠距離透視

エ)犯罪捜査の協力

オ)その他の透視能力

 

<注1>~<注9>

 

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ア)試験霊媒(テスト・ミディアム)への一大飛躍

☆福来友吉との出会い

福来友吉は、大正6年(1917年)28日岐阜県揖斐郡の坪井秀宅で三田光一と出会った。後年(昭和7年頃)福来は、三田と出会った大正6年頃の心霊現象に対する受容性に関して「その当時は今と違って、知識階級の人達が一般にこの問題(→透視や念写などの心霊現象のこと)に対して理解がなかった」(注1)と述べている。

この指摘は福来のアカデミズムの世界からの追放や、三田の念写に対する激しいバッシング(大正7年2月に顕著に表れている)と重ね合わせるとよく理解できる。当時は社会に蔓延していた迷信を排除して、名実ともに西洋の先進国の仲間入りをしようとしていた時期であり(大正7年は第一次世界大戦が終結した年で、戦勝国日本はこれ以降西欧列強と肩を並べたと自負するようになっていった)、知識人の間では心霊現象も迷信の一種とされて軽蔑の対象となっていたこともその背景にある。そのため社会一般の心霊現象に対する受容性は低かった。

 

さらに福来は当時の三田の「公開実験会」について、「(三田)氏の実験法に欠点が有ったのとで、少数の人は氏を偉大なる霊能者として崇拝していたけれど、多数の人は純然たる詐術として氏の実験を排斥した」(注1)と述べている。ここで指摘した「実験法に欠点があった」とは、当時の三田の「公開実験会」が「資料・新聞記事:資料№1~№14(№4、№5、№11、№13を除く)」から分かるように、奇術ショー的な色彩が強く厳密さに欠けた点を述べているのではないだろうか。これは昭和4年以降に浅野和三郎や小田秀人氏たちによって行われた、物理霊媒を使った実験会と比較するとその欠陥がよく分かる。

 

☆三田光一の立ち位置

福来によれば心霊研究(サイキカルリサーチ)における三田光一の位置付けは、「透視能力者として、御船千鶴子嬢よりもずっと以前から、世に知られていたのは三田光一氏である。しかし念写をやり出したのは長尾夫人の実験を伝え聞いてから後の事である。だから、三田氏は透視能力者としては千鶴子嬢の先輩であり、念写能力者としては長尾夫人の後輩である」(注2)という。

 

福来との出合いは当時の三田の心境を変えた。各地を転々としていた「一介の職業霊媒から試験霊媒(テスト・ミディアム)」への一大飛躍であった。心霊研究家の甲山繁造氏(本名:千原範一)によれば、三田は「(福来との出会いごろ)この頃から、こそくな個人啓蒙による心霊智識の普及方法を止して、一挙に何百、何千人を啓蒙出来る公開実験を目指すようになったらしい。そして昭和10年頃まで、この方法で機会あるごとに大衆啓蒙運動を展開している事が記録の上に残されている」。そして「放浪の霊人三田光一が世に知られるようになったのは、実に福来友吉先生に巡り合ったことによるもの」(注3)として、欧米の霊能者とよく似た行動をとったとして高く評価している。

 

イ)福来友吉による透視の通信実験

三田光一の透視能力は、「公開実験会」、「福来博士による透視実験」(大正6218日)、神戸の自宅から五島列島との間で行った「遠距離透視による水死体発見」、透視による「犯罪捜査の協力」、透視による「鉱脈・水脈・温泉発掘、沈没船の引揚協力」など多方面にわたって発揮された。しかし観客を前にした公開実験会では、検証に耐えるだけの実験記録が残されていないことが多い。そのため「資料:新聞記事」を参照せざるを得ないが、この記事の内容からは多くの問題箇所が見つかる。

 

A.実験概要

三田の透視能力を大正6218日に行われた「福来博士による透視の通信実験」から見ていくことにする(注4)。

実験日時――大正6218日午後8時半頃

実験場所――岐阜県大垣町森恭造氏宅

立会人――可児陸軍少将、竹内安八郡長、吉村中学校長、坪井秀氏、安八郡役所第一課長奥村規矩夫氏、濃飛日報記者澤田栄太郎氏、大垣中学校教諭坂本義久氏、森恭造氏

 

B.透視する実験物の準備

検証を容易にするため、福来の文章のポイントを「 」で括り、そこに番号を振った。

 

福来は「二枚の手形乾板を膜と膜とを合わせて重ね―①」、「鼠色の不透明紙に包んだ―②」。それを「淡黄色のボール紙製の箱―③」に入れた。箱の蓋に「レッテルが貼り付けてある―④」。更にこの箱を「光沢のある黒色のボール紙製の箱―⑤」に入れた。その「箱にレッテルが縦に貼付―⑥」してある。「古雑誌のページを斜めに切って、幅八分位の細長い二筋の紙を作り、それでこの箱に十字形の帯封―⑦」を施した。「帯封の紙の両端は箱の裏面で固く貼り付けた―⑧」。さらに「その上には薄い方形の日本紙を貼付―⑨」し、さらに「封じ目に福来友吉という認印を六ヶ所に捺した―⑩」。また「二箇所に赤インキで福来と署名―⑪」した。この「実験物を頑丈な木製の箱に入れた―⑫」。あとで「この箱を取り出しやすいようにするため箱の下に細長い紙をしき、この両端を上方に露出させておいた―⑬」。この両端をつまんで引けば、実験物の箱が容易に取り出せるわけである。木製の箱を新聞紙で包装して212日に書留小包として神戸の三田氏方に郵送した。これに次の依頼書を同封した。「浅草観音堂の裏に掲げてある山岡鉄舟の書いた額面の文字を神戸市に於いて透視すること―⑭」「透視した文字を箱に入れてある乾板に念写すること―⑮」

 

C.実験の状況

福来が実験物を準備した際のポイントは上記の①~⑮になるが、これを三田がどこまで透視することができるかが問題である(ただし⑮については念写)。

三田は福来から郵送されてきた実験物の包装を解かずに、そのままで内容を透視した。

 

以下、三田の透視の状況をまとめた。

表包装の下に、新聞紙にて包み、新聞紙の内に特製に係る杉の「頑丈なる木箱―⑫」あり。木箱のなかには、「光沢ある黒色のボール箱―⑤」がある。その「レッテルは縦―⑥」に長く、英文字がある。その「箱を八分位の雑誌紙で十文字に封じてある―⑦」。箱の裏は茶色で、次の図(第16図)の如く、「十文字の上に、長さ四寸、幅三寸位の透明な紙が貼り付けてある―⑨」。貼り紙には、「福来の二文字を朱書―⑪」し、「六ヶ所に二十年程前に彫刻した福来友吉の印を捺してある―⑩」。この「箱には木箱より取り出すに便利なように、生紙にて図の如く準備―⑬」がしてある。この箱の中には、また「淡黄色のボール箱―③」あり。「レッテルは白にて縦に貼付―④」してある。この箱には、「鼠色の紙で二枚の乾板を包み―②」がある。「乾板は薬と薬とを相面―①」してある。⑦⑧は図で示した(第16図)。

 

D.実験結果

三田の透視した実験物のポイントとなる箇所は、すべての点で一致しているので大成功と云える。透視の状況は次のとおりである。

 

山岡鉄舟の額については、「南無観世音」であると透視―⑭し、その書体まで書いて送ってきた(第17図A)。これを実物の文字(第17図B)と比べてみると、書体が良く似ている。なお三田は×印を付した所には、彫刻の際に刀がそれて、刀痕が出来ていると云って注意を付け加えている。われらは平素全く知らずにいた。三田の注意により実物の文字を吟味した上で、はたして×印を付した箇所に刀痕があることを初めて知った。今回の実験報告の書面と実験物が(福来博士のもとに)届いた。その包装は送りだしたときのままで、少しも変化していない。郵便局の印もそのままである。包装を解きその箱の中に入れてある乾板を現像して見ると、南無観世音の五字が明瞭に現出した―⑮。

 

ウ)遠距離透視

☆スウェデンボルグの遠隔透視

スウェデンボルグの遠隔透視には次のような有名な事例がある。

1759719日イギリスから帰国したエマニュエル・スウェデンボルグは、ストックホルムから500キロ離れたスウェーデン西部の都市ゴッテンバーク(またはイェーテボリ)で友人と一緒にパーティに出席した。パーティの途中で「火事だ、火が見える。ストックホルムで」と口走り、その場で「ストックホルムの大火災の模様を実況中継」を始めた。この大火災はスウェデンボルグの家の三軒手前で鎮火した。「ゴッテンバーグの市長がストックホルムへ人を遣って火事のことを調べさせ、その報告がもたらされたのは、それから一月ほどしてからであった。その報告によると火事は私(スウェデンボルグ)が友人との昼食中に火事のようなものを感じた時間に起こり、やはり私が見たように市の西の方から起き、私の見たのと同じ様子で広がっていった。また、私の家は三軒手前まで火が来たが、ここで火の手がおさまって類焼をまぬがれていた。火事が終わった時間も私が見た時間と同じだった」(注5)。この話はスウェデンボルグと同時代人のドイツの哲学者カントが、スウェデンボルグの不思議な能力の実例として取り上げている。この事例と同じことが日本でも起きた。

 

☆三田光一の遠距離透視

五島列島の浦港と神戸市須磨との間で行った「遠距離透視」は、三田善靖(光一)著『霊観』(注6)に記載がある。この透視には浦港と須磨との連絡手段として電報が使われており、全体的に客観性が担保されている。事実が文章通りであれば貴重な透視事例である。事件は次のような経緯で起こった。

 

大正9年(1920年)1225日、長崎県五島列島の南端玉の浦港に近い大宝湾あたりで、大宝部落にある小学校長の浦健一郎は小舟を操ってイカひき漁を行っていた。夜の8時30分ごろから空模様が急変して、間もなく大暴風雨となった。部落の区長近藤半兵衛は浦校長よりも沖に出ていたが、天候が急変したので急いで引き返した。岸に戻る途中で浦校長のそばを通り過ぎた。浦校長はおぼつかない漕ぎ方であせっている様子であったが、自分のことで手一杯だったので「先生、いそいで、いそいで」と声をかけただけで、そのまま小舟を操って何とか岸に戻れた。

暴風雨の去った翌朝(26日)、海に出ていた浦校長の行方が知れないことが分かり、部落では当然に大騒ぎとなった。この時、部落の青年入口光右衛門は、前年(大正8年11月下旬)玉の浦を訪れた透視能力者の三田を思い出した。その際三田は校長と会っていたので、入口は浦校長の行方を捜索するのに、三田の透視能力を活用することにした。

 

神戸市須磨の三田の自宅にあてて、「昨夜9時、浦校長小舟にのり湾内にてイカひき中に波にさらわれ生死不明、ご透視のうえ、ご指示あおぎたし」(原文はカナ文字)と浦局から発信、神戸須磨局がこれを受信して三田の自宅に26日午前1020分配達した。三田は直ちに透視して、昼過ぎに入口宛に返電した。その電報には「津多羅島の南側砂浜の岩にはさまれている現場に行けばすぐしれる、三田」(原文はカナ文字)と打ってあった。電報を受け取った入口たちは現場に急行し、指示された場所で浦校長の遺体を収容した。三田は入口から26日午後450分に「お指図の場所にて死体発見した、シヤス(?)、入口」(原文はカナ文字)との感謝の電報を受け取った。

 

社会学者(社会思想史)の田中千代松氏はこの三田の透視能力を、「エマニュエル・スウェデンボルグがイギリスからの帰途ゴェーテボルグで、直線距離で二百数十マイル離れているストックホルムの大火の模様を正確に透視したのと比べて、いささかもひけをとらぬものであった」(注7)と述べて高く評価している。

 

エ)犯罪捜査の協力

三田は透視能力を使って警察の犯罪捜査協力に協力している。「資料:新聞記事」№4(大正3年6月16日:大阪朝日新聞)および№5(大正3年6月16日神戸又新日報)に記載がある。これらの記事は、窃盗犯人が汽船に乗りこんで郵便行李を窃取し、その中から金目のものを抜き取って行李を遺棄した事犯である。逮捕された犯人は証拠物件たる行李の遺棄場所を自白しなかったため、三田の透視によって場所の特定をすることになった。

 

新聞記事によれば「過般大黒座にて実験せし千里眼三田光一をして透視せしめたるに、京橋の下海浜より十四歩右一間の箇所に一個、同所より一間半隔たりたるブリキ缶の横に一個、蟹川尻は同所桟橋三枚の橋板四歩目の下に一個ありと透視したよるに、午後3時頃小林署長以下水上署のランチにて同所に赴き、捜査せしに果たして的中、右の箇所にそれぞれ投棄しあり、早速引き上げて目下引続き取調べ中なる」とある。三田の透視能力が犯罪捜査に活用された事例である。

この大正3年(29歳頃)という年は、前年高知市で組織した精神修養団体「洗心会」の名称を「帝国自覚会」に変えて、本部も神戸市に移転させた時期であった。

 

また神戸の相生警察署での事例では、ある殺人犯人を捕らえたが犯行に使った出刃包丁の捨て場所をどうしても白状しない。そこで三田に調査依頼がきた。そこで三田は透視して「近くの川の橋の下へ捨てた」と回答し、警察が指示された場所を探したら出刃包丁が出てきた。それを犯人に示して問い詰めたが頑として白状しない。そこで再び三田に依頼して出刃包丁を手に入れた場所を調査してもらった。すると三田は「それは大阪のこうした町の何と云う金物店で買った」と教えた。そこで刑事が大阪に飛んで、指示された金物屋を探すと、確かにその金物屋はあった。そこでその主人を呼んできて犯人に“面通し”をさせた。するとその主人いわく「あゝこの人なら何日前に私の店に来られて、確かにこの出刃包丁を売りましたよ」と証言した。この時、立ち会っていた三田をグッと睨んだ犯人の眼の怖かった事は、今でも忘れられませんよと占部氏に述べたという(注8)。

 

このように若い頃の三田光一は警察の犯人捜査に協力していたが、ある時からぷっつりと手を引いたという。その経緯を甲山繁造氏は「この霊的巨人の足跡を見よ」(注8)の中で、三田光一自身が占部真一氏に語った話として紹介している。三田は「警察というところは真犯人を見つけるのが本職なんでしょう。したがって真犯人が見つかって当たり前のことなのです。そこで大変な精力を消耗して探しても“イヤどうも御苦労様でした”の一言に添えてほんのワラジ銭程度の御礼を呉れてさようならとくるんです。それに引き換え、相手の犯人から怨まれる恐ろしさときたら、生涯忘れられぬ思い出になりますよ。こんな割の合わない仕事は御免ですよ」と述べたという。三田らしい割り切り方であり、この言葉からは「能力と(社会的)責任との関係」の観点はない。

 

オ)その他の透視能力

「資料:新聞記事」№13および№17の記事は、その後の三田が自らの透視能力を「鉱山開発や温泉、沈没船のサルベージ等の分野」に活用していく初期の頃の事例と思われる。

大正5年2月22日の愛媛新聞(№13)は、「蝙蝠井戸」を透視して井戸の深さや抜け穴の有無を調査したものであった。大正6年4月3日の岐阜日日新聞(№17)は、岐阜の下呂温泉が幾度かの洪水で昔日の面影がなくなったので、洪水の心配ない場所で新たにボーリングして温泉脈を探さなければならなかった。そこで三田の透視能力が生かされて、指示した場所をボーリングしたら新たな温泉脈を掘り当て、下呂温泉が復活したという。この他に「満州事変に際しては、軍属となって渡満し軍と共に起居し、透視により軍に給水をし多大の貢献をした」(注9)との記載もある。さらに甲山氏の記載によれば「(三田は)透視術を利用し、昭和鑿泉株式会社を創立して、社長となり活躍」「三重県大平鉱山会社、京都府笠取鉱山会社を創立し社長となり鉱山業を経営した」という。このように透視能力を使って多方面で活躍した。

 

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<注1>

■福来友吉著『心霊と神秘世界(復刻版)』(人文書院1986年刊)51頁。

<注2>

■福来友吉著『心霊と神秘世界(復刻版)』118頁。

<注3>

■甲山繁造著「この霊的巨人の足跡を見よ」:『心霊研究』昭和345月号、12頁および昭和344月号、5頁。

<注4>

■福来友吉著『心霊と神秘世界(復刻版)』51頁以下、第16図、第17図は同著の写真を参照。

<注5>

■エマニエル・スウェデンボルグ著、今村光一抄訳・編『私は霊界を見てきた』(叢文社1975年刊)222頁。

<注6>

■三田善靖著『霊観』(昭和7年発行)186頁以下。

『霊観』は1998年に八幡書店が復刻版を発行している。

<注7>

■田中千代松著『霊の世界』(日本心霊科学協会1978年刊)198頁以下。

<注8>

■甲山繁造著「この霊的巨人の足跡を見よ」:『心霊研究』昭和352月号、10頁。

<注9>

■甲山繁造著「この霊的巨人の足跡を見よ」:『心霊研究』昭和347月号、2頁。

 

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