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スピリティズム

目 次

 

<1.アラン・カルデック流スピリチュアリズム>

①.フランス系スピリチュアリズム

・ヨーロッパ諸国へ

・「スピリチュアリズム」と「スピリティズム」の違い

・キリスト教との相性

②.アラン・カルデックとは

・カルデックの人物像

・スピリチュアリズムとの出会いと使命

・『霊の書』について

③.スピリチュアリズムの位置関係

・科学の世界と信仰の世界

・志向性の違い

 

<2.「再生」に関して>

①.「再生」に関する二つの流れ

・スピリチュアリズム陣営の分裂

・再生を肯定した者

・再生を否定した者

②.カルデックの理解

・再生に関してカルデックの理解

・霊団側の配慮

・不適切な用語の使い方

 

<3.南米における「スピリティズム」の浸透>

・ブラジルへの流入

・出版記念百年祭

・ブラジルの宗教

・宗教統計について

 

 

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<1.アラン・カルデック流スピリチュアリズム>

①.フランス系スピリチュアリズム

☆ヨーロッパ諸国へ

スピリチュアリズムはアメリカ人霊媒によって1852年にイギリスにもたらされてブームとなったが、同じ頃にフランスでも“テーブル・ターニング”がブームとなっている(注1)。

当時のフランスにはスピリチュアリズムが根を下ろしやすい下地(アントン・メスマーによる動物磁気説:注2)があったが、「1854年、パリの科学アカデミーは、心霊主義だけではなく、超常現象そのものにも反対の立場をとった」(注3)。

 

D.D.ホーム(Daniel Dunglas Home1833年→1886年:ヒュームという読み方が原語に近いという)は1855年イタリアに行き、各地で心霊現象を披露したが、1855125日の夜、自宅入り口で暴漢に襲われた(注4)。翌年1856年パリに行ってルーヴル宮殿に隣接するテュイルリー宮殿に招きいれられ、ナポレオン三世と夫人ユージェニー(またはウジェニー:Eugénie)および陪席の人達に心霊現象を披露している。

 

☆「スピリチュアリズム」と「スピリティズム」の違い

1848331日にハイズヴィルで起きた低級霊(地縛霊)によるラップ現象は、新時代の幕開けとなった事件であった。ここから「新スピリチュアリズム(=近代スピリチュアリズム)」は始まった。この霊界発の霊的潮流は1852年に大西洋を越えてヨーロッパに渡った。

 

現在「新スピリチュアリズム」を表現する言葉には、「スピリチュアリズム(Spiritualism)」と「スピリティズム(Spiritism)」という二通りの言葉が用いられている。前者は「心霊主義」の一般的な表現として使われているが、特に「スピリティズム」に対峙する言葉として用いる場合に“イギリス系スピリチュアリズム(またはアングロサクソン系スピリチュアリズム)”を指す言葉として用いられることがある。また後者の「スピリティズム」は“フランス系スピリチュアリズム”を指す言葉として使われている。フランスのスピリチュアリズムは、「再生とカルマ(→再生はカルマと表裏一体の関係にある)」を中心テーマに据えたアラン・カルデックの教義を中心として発達したため、その教義に基づく教えを学ぶ点に特徴がある。

 

「実証科学としてのスピリチュアリズム」を強調したカルデックは、「スピリチュアリズムという言葉が、一般的な精神主義にも通じる紛らわしいもの」(注5)と考えて、カルデック自ら「スピリティズム」という造語を作って区別した(注6)。しかし「スピリティズム」の実態は宗教性を帯びた思想であった。

似たような事例は日本においても存在する。和製スピリチュアリズムの提唱者の浅野和三郎(1874年→1937年)や浅野正恭(1858年→1954年:浅野和三郎の兄)は、一般的な訳語である“心霊主義(Spiritualism)”を使わずに、より信仰的な面を強調した“神霊主義”という言葉を用いている(注7)。

 

その後「スピリティズム」は次第に「スピリチュアリズム」とは一線を画して、「カルデックの教義に基づく教え」を指す言葉として使われるようになった。両者が明確に分離していった理由は、「再生」を巡ってイギリス系のスピリチュアリストとの間で確執があったこと(注8)。カルデックのキリスト教に対するスタンスが穏やかであったこと(→カルデックの背後霊団の役割は「最初の礎石を置くこと」であり、モーゼスの背後霊団との役割に違いがあった)。さらにはスピリティズムの主要テーマとして「再生とカルマ」を置いたこと。このような理由からスピリディズムは宗教と相性の良い思想となった。

 

フランス本国ではスピリティズムは、カトリックの伝統的教義と相反するため衰退したが、ブラジルではアフリカの民俗宗教のカンドンブレやブラジルの習合宗教であるウンバンダなどの「霊と霊媒の宗教」、さらには「民俗カトリック(またはフォーク・カトリシズム)」などと習合化していった。ブラジルのスピリティズムは、宗教統計調査に「スピリティスト・カトリック」という項目が立てられるくらいに盛んである(→この表記ではスピリティズムはキリスト教の一派という扱いである)。このようにカルデックのスピリティズムには“宗教・信仰”に対する志向性があり、宗教との相性は極めて良い。

 

☆キリスト教との相性

カルデックは、『スピリティズムによる福音』(1864年)や『創世記、心霊主義による奇蹟と予言』(1868)を出版して、『聖書』をスピリチュアリズムの立場から解釈し直した。これらの著書は、キリスト教を全面的に否定するのではなく、スピリチュアリズムの立場からキリスト教に対して「実証的な新解釈」を施したものであった(注9)。

 

たとえば角智織訳『スピリティズムによる福音』では、スピリティズムは「イエス・キリストの教えを受けついている」(491頁)として、「スピリティズムもキリストの法を破るために来たのではなく、実行するために来た」(53頁)と述べる。キリストの教えを発展し、補足して誰にでも分かるように解説しているという。

またカルデックの著書『天国と地獄』(1865年:邦訳として浅岡夢二訳『天国と地獄』および『霊との対話』がある)では、再生人生においてカルマがどのような形で係わりを持つのかというテーマの実例集となっている。

 

このようなカルデックのキリスト教に対する傾向が、「スピリチュアリズムは宗教である」(注10)という側面を強めていったものと思われる。シルバーバーチも度々述べているように「スピリチュアリズムは自然法則のこと」である。人間の自由意志を尊重して、この自然法則を各自の自己責任で「生き方の指針」とするようにと説いているに過ぎない。そのため結果的に「スピリチュアリズムは宗教性を持つ」ことになるのであって、短絡的に「スピリチュアリズム=宗教」となるのではない。

 

スピリティズムがラテン・アメリカに伝えられると「アラン・カルデックの教えを信奉する運動(一種の宗教運動、カルデシズム)」として、“カトリック(民俗カトリックのこと)”や土着の宗教と習合した「折衷型スピリチュアリズム(=ローカル・スピリチュアリズム)」となって広く普及していった。

 

②.アラン・カルデックとは

☆カルデックの人物像

ハイズヴィル事件のわずか9年後、いまだ混沌としていたスピリチュアリズムの勃興期に、霊界から「多岐にわたる霊的真理」が複数の霊媒を通して地上世界にもたらされた。アラン・カルデック(Allan Kardec1804年→1869年)はこれらをテーマ別に分類して、コメントをつけて編纂し、『霊の書』(1857年)や『霊媒の書』(1861年)として出版した。

カルデックのスピリチュアリズムに関する著書には次のようなものがある。

主要な著書としては『霊の書』(1857年)、『霊媒の書』(1861年)、『スピリティズムによる福音』(1864年)、『天国と地獄』(1865年)、『創世記、心霊主義による奇蹟と予言』(1868年)などがあげられる。

このようにスピリチュアリズムの勃興期に、運動の先陣を切る形で活躍したアラン・カルデックとはどのような人物であったのか。

 

フランスのリヨン生まれの教育家イポリット、レオン、ドゥニザール・リヴァイユ(Hippolyte Leon Denizard Rivail)は、ラテン系諸国にスピリチュアリズムを広めた功労者である。アラン・カルデックというペンネームの方が一般には通りが良い。

リヴァイユ家は15世紀まで遡ることができる旧家で法曹の家柄であった。リヴァイユ家の宗教はカトリックで、カルデックは生後8ケ月のときに洗礼を受けている。

カルデックが10歳から14歳頃までは、スイスの著名な教育者ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ(Johann Heinrich Pestalozzi1746年→1827年)がスイスのイヴェルドン(Yverdun)に開いた“実験的な寄宿舎(→家庭的な温かさと同時に、農作業や織物を織る作業を通して自活していくことの大切さを教えた)”に入って、教育を受けている。この時カルデックはペスタロッジの教育理念に感化されて、その後、教育者としての道を選んだ。

 

1824年頃パリに出て翻訳(→青少年用の教科書をフランス語からドイツ語に翻訳)によって生計を立てていた。1828年にペスタロッジの理念に沿った塾(または学校)を設立して、教育事業に専念したが、カルデックの叔父が賭博で巨額の借金をしたため1835年に塾(または学校)を閉鎖した。

またカルデックは教育に対する改革の提言も行っている。1831年フランス北部の都市アラスのアラス・ロイヤル協会は、「時代の必要にもっとも調和する教育システムは何か」という課題を出した。カルデックはその課題に対して、報告書を提出して認められ、ロイヤル協会から名誉賞を授与された。

カルデックは28歳の時(1832年頃)に公証人の娘で教師をしていた女性と結婚した。その後、妻の協力を得て自宅で物理学・天文学・解剖学などを教える無料の塾を、1835年から1840年にかけて開いている(注11)。

 

☆スピリチュアリズムとの出会いと使命

カルデックは1854年に知人に誘われて交霊会に出席して、初めてスピリチュアリズムと係わりを持った。カルデックが関心を持つきっかけとなったのは、知人のフォルチエから聞いた“テーブル・ターニング”の話であった。しかし自然法則に反するフォルチエの話にカルデックの理性は反発して受け入れることを拒否したという(注12)。

18555月頃、カルデックは家庭交霊会に誘われた。交霊会において“テーブル・ターニング”を目撃したカルデックは、背後に極めて重大な意図が隠されているのを感じて、自ら探求してみようと考えた(注12)。

 

その後カルデックは、プレヌメゾン夫人を経由してボタン家の人たちと知り合った。ボタン家の交霊会では、霊媒をボタン家の二人の娘が務めていた。ボタン家との親交が深まるにつれて「私はまじめに霊現象を研究し始めた」という。その後カルデックは、ティクトヌ街のルスタン家でジャフェ嬢が霊媒となった交霊会を行い、その他多くの霊媒たちと家庭交霊会を行っている。

 

カルデックは1856430日ルスタン家の私的な交霊会(霊媒ジャフェ嬢)で、指導霊から自らの使命を告げられた。それによれば「最初の礎石を置くことがあなたの使命です」「反対者がいくら騒いでも放っておきなさい。同じ志を持つ人々に語りかければよいのです。そうした人々を癒しなさい。そして各人が自分の役割を果たすのです。そうすれば、すべてがうまくいきます」(注12)という内容の通信であった。カルデックはこのアドバイスを守った(注13)。

 

背後霊団から知らされたカルデックの今生における使命は、M氏(過激な思想を持った若者)とともに当時の人々の精神構造に深く染み込んだキリスト教の誤った教義(→三位一体論、天国や地獄、悪魔、奇跡など)を打ち破って、その上にスピリチュアリズムの知識体系(→顕幽の交流は可能、死後の世界に移っても個性は存続し一歩一歩進化向上していくこと、生まれ変わりを肯定、肉体は中間物質によって霊体と繋がっていることなど)を築くこと、つまり破邪顕正であった(注14)。

 

☆『霊の書』について

カルデックが出席したボタン家の交霊会では、二人の娘が霊媒となって“テーブル・ターニング(Table turning)”と“プランシェット(Planchette)”による自動書記で通信が行われた。カルデックが同席していない時の通信は、世俗的な一般的な内容であったが、同席した時には一変して重々しい真面目な通信に変化したという。

 

カルデックは霊団から「君がわれわれの教えを具体化する本は、君個人の著書というよりはわれわれの著書であるから“心霊の書(Le Livre des Espirits →日本語表記は原文のまま)”という書名をつけなさい。そして君の名ではなく、“アラン・カルデク(Allan Kardec →日本語表記は原文のまま)”というペンネームを用いて出版しなさい」と告げられた(注15)。このように『霊の書』は、カルデックと霊団側の役割分担のもとに出来上がった著書であった。

 

カルデックが編纂した『霊の書』の構成は、交霊会に同席して直接入手した霊界通信と、他の交霊会で行われた通信を人伝に入手したものとを、カルデック自身が項目別にまとめて総合的に編纂したものであるという。この点が『シルバーバーチの霊訓』やモーゼスの『霊訓』との違いとなっている。

しかしカルデックが編纂した著書の内容に関しては、霊団側が自ら全体に目を通す形で、誤りがないように校正作業が行われている。なぜならば『霊の書』の出版は、「実質的には我々の仕事だからである」「我々には大霊から割り当てられた使命があり、本書の編纂はその使命の一端にすぎない」(注16)と霊団側が述べているからである。

 

『霊の書』は発行されるや好評で、各国の言葉に翻訳されて広く読まれた。英語圏では1875年にアンナ・ブラックウェル女史(Anna Blackwell)が“The SpiritsBook”という英訳書を出版し、これを基にして桑原啓善氏や近藤千雄氏は『霊の書』を重訳した。また1876年にアンナ・ブラックウェル女史が英訳した“The MediumsBook”を、近藤氏は重訳して『霊媒の書』として出版した。このようにカルデックの著書は、フランス語から英語に、さらに英語から日本語へと二段階の翻訳を経て読者に届けられることになった(注17)。

 

③.スピリチュアリズムの位置関係

☆科学の世界と信仰の世界

スピリチュアリズムの体系はその土台部分に、19世紀に科学者たちの調査研究によって「科学的に実証された霊魂説(→死後の世界や死後個性の存続を肯定し、顕幽の交流を肯定する立場)」があり、この「事実」の上に“スピリチュアリズム思想”が組み立てられている。よく言われるように、スピリチュアリズムの位置関係は「右隣りには実証を重視した科学の世界」が広がっており、反対側の「左隣には信念を重視した信仰・宗教の世界」が広がっている。このような位置関係から「信念と実証の二面性」を持っている。

 

交霊会において頻発する心霊現象は、間もなく科学者の関心を呼び起こして、科学的な調査研究の対象となった。科学者の一連の調査研究によって心霊現象の仕組みが明らかとなって、「霊魂説」が確固たる事実として打ち立てられた。1848年以降を「新スピリチュアリズム」と呼んで区別する理由がここにある(→なお懐疑論者は霊魂説を排除する方向で考えている)。このスピリチュアリズムの土台部分である「霊魂説」は、実証重視の科学の世界へと繋がっている。

 

交霊会には各種心霊現象が伴うが、これらの現象を調査研究して解明する「心霊研究(心霊現象研究:Psychic research)」には、同義語として「超心理学(Parapsychology)」がある。超心理学は1934年に登場して(→この年にデューク大学内に超心理学実験室が設立された)、1957年に国際超心理学会(PAParapsychological Association)が設立された。そして1969年にアメリカ科学振興協会(AAASAmerican Association for the Advancement of Science)への加入承認が認められて、(AAASの)下部機関として認定された。このように「超心理学」は既成科学の学問分野の一角を占めるに至っている。

 

これに対して「霊魂説」の上部構造には、高級霊から霊界通信によってもたらされた“スピリチュアリズム思想(哲学)”がある。この思想には「人生をどのように生きるべきか」や、「困難や苦難にはどのように対処するか」など、人の生き方を深く掘り下げる力がある。

高級霊シルバーバーチが述べているように「知識には責任が伴う」ことから、“スピリチュアリズム思想”を学んで知識の分量を増やしていくと、次第に「生き方が問われてくる」ことになる。いわば生き方の「質的な変換(知識から生き方へ)」を迫られることになる。この「質的な変換」は個々人の自由意志にゆだねられているが、なかには“スピリチュアリズム思想”をこの世を生き抜くための「生き方の指針(=実践哲学、信仰)」とする人も出てくる。そのため上部構造たる“スピリチュアリズム思想”は信仰と相性が良く、宗教の世界へと繋がっている。

 

このようにスピリチュアリズムは、その下部構造(土台部分)に「霊魂説」が存在し、この部分が科学的側面を持っている(→スピリチュアリズムの「右隣りには実証を重視した科学の世界」が広がっている)。また霊魂説の上部構造である“スピリチュアリズム思想”は、物事の本質を深く考えさせるため哲学的側面を持っている。さらに“スピリチュアリズム思想”はその人の生き方さえも変えてしまうので、信仰や宗教的側面も併せ持っていると言える。ここから「スピリチュアリズムは科学であり、哲学であり、宗教である」とする伝統的な定義が思い起こされる。

 

☆志向性の違い

大まかに言えば、イギリス人の持つ実証的精神や探究心旺盛な気質が作用して、イギリス系は「スピリチュアリズムの土台部分である霊魂説」に重きを置いた。このことがその後の心霊研究協会(SPR)の設立などに見られるように、スピリチュアリズムの科学的側面を志向する傾向を強めていくことになった(→トンプソンの「再生に付いては科学的に証明できる証拠がありません」という言葉に表れている。注18参照)。

 

これに対してスピリティズムは、霊魂説の上部構造たる“スピリチュアリズム思想”を強調したため(→カルデックは「再生とカルマ」や「スピリチュアリズムの立場からキリスト教を解釈し直す」ということを主要テーマに置いたため)、このことが信仰や宗教との相性を良くして、スピリティズムは強い宗教性を帯びることになった。

 

いわばイギリス系スピリチュアリズムは、土台部分(下部構造)の霊魂説にスポットを当てたのに対して、アラン・カルデックは「物理的霊媒は精神的に低い」(注19)として、上部構造の“スピリチュアリズム思想”にスポットを当てた。そのため科学の研究分野に進んで行ったイギリス系とは対照的に、フランス系は次第に信仰や宗教性を強めることになった。このように両者は視点の置き所が違っていたため、結果的に分裂という事態を招くことになってしまった。

 

はからずも「信念重視は、信仰へ傾斜する」という傾向と、「実証重視は、科学へ傾斜する」という傾向が、スピリチュアリズムの持つ二面性(→宗教と科学という異なる立場)として、志向性の違いからくっきりと浮かび上がってしまうことになった。なおこの信念重視と実証重視という二面性は、“証拠に対して求める厳密さの程度”にその違いが明確に現れてくる。

 

<2.「再生」に関して>

①.「再生」に関する二つの流れ

☆スピリチュアリズム陣営の分裂

カルデックは、「霊魂は進化するために地上世界に幾度も生れて経験を積む必要がある」と主張した。生まれ変わる「霊魂は同一でも、別の肉体を受け、物質的世界に生まれてくることを再生と呼ぶ」として、「(その際に)個々の霊が分裂したり、複数の霊が一つになったりすることはない」(注20)と述べた。このようにカルデックは、同一霊魂があたかも服を着替えると同様にして、再び別の肉体に宿って生まれ変わる“再生(=全部再生)”を主張した(注21)。

 

19世紀後半から20世紀中頃に活躍したイギリスのスピリチュアリストの大部分(モーゼス、オーエン、エバンズ、フィンドレーなど:注22)は、霊は進化のため地上に繰り返し戻ってくる再生を認めなかった。霊の進化は地上世界に生まれ変わることによって起きるのではなく、霊の世界で常に同一人格を維持しながら永遠の進化向上をしていくと考えた。

 

このように「再生論」をめぐっては、一方に再生肯定に立つ「スピリティズム」と「神智学」(注23:→どちらも「全部再生」の立場に立つ)の陣営。これに対して再生否定に立つイギリス系の「スピリチュアリズム」の陣営。この二つに大きく分裂した。

アメリカで勃興しイギリスやフランスから世界に発信されたスピリチュアリズムは、霊界側のシナリオにはなかった分裂(→当時のスピリチュアリストの“自由意志の行使”の結果このような形となった)という事態に至って、その状態のまま世界に拡散していった。

 

☆再生を肯定した者

フランス系の「スピリティズム」の有名人に、再生肯定論者のヴィクトル・マリー・ユゴー(Victor Marie Hugo1802年→1885年)がいる。ユゴーはフランスの詩人・小説家・劇作家であり、『レ・ミゼラブル』の著者としても知られている。

ユゴーはナポレオン三世のクーデタを弾劾して、18年間英領ジャージー島やガーンジー島で亡命生活を送った。ジャージー島での亡命生活期間(18539月から185510月にガーンジー島に移るまでの期間)、ユゴーは当時欧米諸国で一大ブームとなっていた“テーブル・ターニング”による交霊に没頭した(注24)。そのユゴーは「私の内には何人ものヴィクトル・ユゴーがいる」(注25)と述べて再生を肯定した。

 

☆再生を否定した者

アレクサンダー・N・アクサコフ(1832年→1903年:ロシアの宮廷顧問官、ロシアの先駆的な心霊研究家)は、再生否定の立場からカルデックを批判している(注19)。ホーム(またはヒューム)の妻はロシア人なので、アクサコフはその縁で再生否定論者のホームと交流があったという(注19)。彼はホームの影響を受けたのではないだろうか。

『近代神霊主義百年史』の著書であるアーネスト・トンプソン(Ernest Thompson)は、1940年代後半、エンマ・ハーディング・ブリテンが1887年に創刊した週刊心霊誌『ツーワールズ(Two Worlds)』の主筆であった。トンプソンも再生に付いては、科学的に証明できる証拠はないとして否定している(注18)。

 

この頃の再生論議は肯定論者も否定論者も「全部再生説」の考え方に立って論じている。1930年代には「マイヤースの通信」や「シルバーバーチの霊訓」が出ていたが、「類魂・再生説」はいまだ良く理解されず(またはキワモノ的な霊界通信扱いで)、その結果として英米系のスピリチュアリズムの世界では「再生否定」の論調が強かったのではないだろうか。

 

イギリス系の「スピリチュアリズム」の有名人に、再生否定論者のD.D.ホームがいる。ホームは明るい室内でも物理的心霊現象が起こせるほど霊能が強かったことや、多種多様な心霊現象を惹き起こしたことから、スピリチュアリズム史上最大の霊媒といわれている。

そのホームは「私はかず多い再生論者に出会う。前世がマリー・アントアネットであったという人々に少なくとも12人、スコットランドのメアリ女王であったという人々6、7人、ルイ王その他の国王であったという人々ときわめて多数に、私がお目にかかる光栄に浴した。しかし、ありふれたジョン・スミスにはまだ会ったことがない。もし諸君がお会いになったら、珍物としてかごに入れておいていただきたい」(注26)と。このように誰もが著名人の生まれ変わりであることを主張する再生論者をホームは痛切に皮肉った。

 

このホームの言葉は、当時のイギリス系スピリチュアリストの再生否定の論拠を、分かり易く表現したものであるといえる。また「再生論」否定の立場を一層強めた要因として、再生を認めた神智学協会とイギリスの心霊研究協会(SPR)およびスピリチュアリズム界との決裂が大きく作用している。この決裂の原因は、ブラヴァツキーのスピリチュアリズム批判と「神智学の奇跡」のトリックの暴露であった。

 

②.カルデックの理解

☆再生に関してカルデックの理解

カルデックが編者となって出版した『霊の書』と『霊媒の書』において、霊団側は「たとえ真理であっても、現段階で急激にそれを広めることはいたずらに目を眩ませるだけで賢明でないとの判断から、わざと差し控えることがある」と述べている。この理由からか「類魂」と「再生」をリンクした「類魂・再生」を明確には説いていない。

しかし霊団側は「再生」を、「類魂・再生」の観点に立って述べていることが次の発言から推測できる。「個々の霊が集まって全体を構成するわけですから、集合体に戻ると表現してもよいのではないでしょうか。あなたも集合体に戻ればその不可欠の一部となるわけです。ただ個性は維持しています」(注27)。

 

これに対して、カルデックの理解の仕方は「全部再生(→同一霊魂の再生のことで、同一霊魂が服を着替えると同様な形で、再び“別の服に着替えて=肉体に宿って”物質世界に生まれ変わること)」に立った理解であった。カルデックの「個々の霊が分裂したり、複数の霊が一つになったりすることはない」とか、「霊魂は同一でも別の肉体を受け、物質世界に生まれてくる」(注28)という言葉に再生観が明確に表れている。

 

カルデックが編纂した『霊の書』(注29)や『霊媒の書』(注30)とは異なって、自らの考えをまとめた「スピリティズムの教義の要約」(注31)の記述からは、「類魂(霊的家族)」と「再生」を組み合わせた「類魂・再生」の理解までは達していなかったことが分かる。なお当時スピリチュアリストに影響を及ぼしていた神智学も「全部再生」の立場をとっていた。このようなことからカルデックの理解には、キリスト教圏に生を受けた者であることの限界や、スピリチュアリズムの勃興期であったという時代的な限界が存在している。

 

カルデック著『天国と地獄』(1865年:浅岡夢二訳『天国と地獄』『霊との対話』)では、神智学と同様に「再生(全部再生)」と「カルマ」を前面に出して述べている。このことが“カルデック流スピリチュアリズム”は「再生を中核理論としている」と言われる理由である。

カルデックが著した『天国と地獄』では、さまざまなレベルの霊が登場して、当時の人たちが理解しやすいような内容の体験が述べられている。これは当時の人々に「倫理や道徳に関する事柄の霊的教訓」を理解させようとする霊団側の意向があって、それに沿った形でそれぞれの霊は自らの体験をしゃべらされた(→意識しているか否かを問わず)ということが推測できる。

 

スピリティズムの特徴である再生は、カルマと密接に関係している(表裏一体関係)。カルデックはカルマを主要テーマにした『天国と地獄』を発行しているが、このようなスタイルの書籍はイギリス系には見られない。

なぜならイギリス系では、再生やカルマは「研究対象ではなくドグマ(=教義)」(注19)であり、これらは「インドの民族宗教(=ヒンドゥー教)における思想」であると見ていたからである。『天国と地獄』によってカルデックのカルマや再生論が、あまりにも安易に無批判に大衆レベルに受け入れられていくさまを見て、イギリス系のスピリチュアリストは、前述したD.D.ホームの発言に代表されるような形で批判したのであろう。

 

☆霊団側の配慮

カルデックの霊団は、再生(類魂・再生)を霊側から見た視点で一貫して述べているにもかかわらず(→しかし表現はカルデックたちが理解できるように合わせている)、なぜカルデックの理解の誤りを正さなかったのか疑問に思える。この疑問を当時の状況から次のように考えてみた。

 

思うにカルデックの使命がスピリチュアリズムの「最初の礎石を置くこと」であったこと。霊団は表現をぼかしているが「類魂・再生」の観点から説いたが、1860年当時の人々の霊的理解力(霊的受容性)が、スピリチュアリズムの根幹部分(類魂・再生)を理解するまでには達していなかったこと。かりに霊団がその誤りを指摘して、詳細な「類魂・再生」のメカニズムを説明したとしても、スピリチュアリストの間にいたずらに混乱をもたらしかねないこと。その結果スピリチュアリズム普及の遅れの原因となることなど。これらの理由から霊団が配慮したのではないかと思われる。

そのためカルデックとその時代のスピリチュアリストたちが、再生を「全部再生」と理解して、その理解の状態で霊団から訂正もされずにそのまま止め置かれた状態が見て取れる。

 

カルデックの再生論には、「類魂・再生」概念や「分霊再生」という発想自体がなかったため、「数多くの再生を繰り返す」という言葉の解釈が、カルデックと霊団とで異なっていた。再生によって「地上体験という試練」を受けることによって、霊は一歩一歩進化向上の階梯を登っていくことになるのだが、霊団は「類魂・再生」を前提とした上で、類魂レベルで数多くの再生を述べたのに対して、カルデックは一個の霊が、あたかも服を着替えるように次々と再生を繰り返すと理解していた(→当時の一般的理解のレベル)。

 

☆不適切な用語の使い方

カルデックによれば、地上生活を終えた霊は「さすらう霊」(→訳によっては「さまよう霊」や「遍歴する霊」という表現もある)として、次の再生までの期間「“待ち”と“期待”」の状態に入るという。

この「さすらう霊」や「さまよう霊」という言葉から受ける印象は、地上生活を終えたすべての霊は、地縛霊または物質的欲望や現世的執着が抜けきっていない低級霊の状態で、幽界の下層世界で次の再生までの期間、あたかも無活動の状態(→幽界の下層界では時間の経過がゆっくりと流れている)で存在すると読み取れてしまう。この点につき翻訳者の近藤千雄氏はカルデックの語句の使い方の不適切さを指摘している(注32)。

 

霊団はここでもカルデックたちの理解の程度に合わせて、「さすらう霊にも低級から高級まであらゆる等級があります。むしろ再生している状態の方が過渡的期間と言えます。霊の本来の状態は物質から離れている時です」(注32)と述べている。

言葉の適切な使い方の問題よりも、霊団が伝えたいと思う思想内容に重点を置いて、カルデックの不適切な言葉をあえて使ってまで霊的真理を説いている。ここからも霊団の高度な思想内容を理解できるまで、当時のスピリチュアリストたちの理解力が追い付いていなかったことがよくわかる。

 

<3.南米における「スピリティズム」の浸透>

☆ブラジルへの流入

アラン・カルデックの著書はラテン諸国(=フランス、スペイン、イタリア、南米のブラジル、アルゼンチンなど)を中心に広まった。ブラジルという国は、ローマ・カトリックの影響力の強い国であると同時にスピリティズム(=カルデシズム)の盛んな国でもある。この地でスピリティズムの宣教は1865年頃から始められた(注33)。

 

1865年には、バイア州のサルバドールに「心霊主義家族グループ(Grupo Familiar do Espiritismo)」が設立された。その後ブラジルのエスピリティズモ(=スピリティズム)の中心はリオデジャネイロに移り(注34)、1873年最初のエスピリティズモの公的な協会である「心霊研究協会(Sociedade de Estudos Espiríticos)」がリオデジャネイロにおいて設立された(注35)。さらに1884年にはベゼーラ・デ・メネゼス(Adolfo Bezerra de Menezes Cavalcanti)によって「ブラジル・スピリティスト連盟(FEBFederacão Espírita Brasileira)」が設立された(注36)。

なおポルトガル語圏のブラジルでは「スピリティストはエスピリタ」のことであり、「心霊主義(スピリティズム)はエスピリティズモ」となる。

 

☆出版記念百年祭

ブラジルでは、20世紀中ごろにカルデックの著書の「出版百年記念祭」や「記念切手の発行」などが行われた。ブラジル在住の宗像春雄氏は次のように記念切手の発行の経緯を述べている。「(ブラジルでは)国教であるカトリック教団から、いつもエスピリティズモは攻撃の的となっている有様です」「19584月に発行されたフランス人アラン・カルデク氏の肖像入りの切手・・・この記念切手発行までにはカトリック教僧侶の猛烈な反対を受け、賛否両論に分かれて1957年末から議論が闘わされた・・・4月に発行の運びになったいわくつきの記念切手です」(注37)。

 

同じく記念切手の発行について重栖度哉氏は次のように述べている。「ブラジルの首都リオデジャネイロではこの日(418日)を公式に“書籍の日”と名付け、市当局も書籍の市営慈善市を開きます。この日はアラン・カルデクの書“精霊の書”が1857年にフランスではじめて出版された日です。2年前の1957418日には“精霊の書”出版百年記念祭が南米の各地で盛大に行なわれ、特にブラジルではアラン・カルデクの記念切手が全国の郵便局から500万枚も売り出されました・・」(注38)。

 

☆ブラジルの宗教

ブラジルの宗教は「原住民インディオの原始宗教」「西アフリカの黒人の部族宗教」「ポルトガルのカトリック教」がベースにある。ここに19世紀にスピリティズムやプロテスタントの福音主義が加わり、近年ではさらに多様な宗教が加わって相互に習合し合っている。

スピリティズムとの関係では「カルデシズム(=スピリティズム)」がある。カルデシストの集会所(=セントロ)における日常活動は、「勉強会:カルデックの教えを学ぶ勉強会や霊能力開発のための勉強会」と「奉仕活動:教育や食糧援助を通して貧者の社会的救済を行う」。さらに「心霊治療:スピリティズムを基礎とした磁気按手療法(=パス)や除霊などの治療を行う」の三点に集約できる(注39)。

 

ブラジルの宗教で最も信者数が多いのはカトリックである。カトリックには、「伝統的なカトリック信仰を持つ信者グループ」と、形式的にはカトリックだが実態は民間信仰という「民俗カトリック(またはフォーク・カトリシズム)の信者グループ」とがある。この「民俗カトリック」では「霊と霊媒の存在」を肯定しており、心霊治療を行う治療師が存在する。ブラジルの“カトリック”と心霊治療や心霊手術、スピリティズムとの接点がここにある。

 

この他にアフロ・ブラジル宗教の「カンドンブレ」(注40)、スピリティズムと習合化した宗教の「ウンバンダ」(注41)、原住民インディオの宗教の「カボクロ崇拝」などもある。

ブラジルの「霊と霊媒を前提とした宗教思想」という観点から分類すれば、「奴隷時代にもたらされたアフリカの民族宗教(→カンドンブレなど)」「フランスから伝えられたカルデシズム(=スピリティズム)」「この二つの宗教思想と先住民の宗教が習合して生まれたウンバンダ」の三形態に分ける方法もある。

 

☆宗教統計について

ブラジルの宗教人口統計によれば、キリスト教徒は全人口の90%近くを占めている。多くのブラジル人は、霊や霊媒と関係がある教会やセンターや寺院などに頻繁に通うという。ラテン・アメリカのカトリックには「伝統的なカトリシズム」と民間信仰の側面を含んだ「民俗カトリック」とがあることは良く知られているが、後者のカトリックには「民俗カトリック治療師」が存在している。

本来キリスト教は霊媒現象を嫌う(注42)のだが、ブラジルではキリスト教も「民俗カトリック」として土着化しており、霊の存在を前提とした「治療儀礼(心霊手術や心霊治療)」が盛んに行われている。そのためブラジルにおいては「カトリックは他の宗教に見られるような治療儀礼に反対であると決めつけるのは、間違い」(注43)であるという。

 

ブラジル司法省は、宗教統計ではそれまで“エスピリタ(=スピリティスト)”と一括して発表していたのを、1965年に「ウンバンディスタ部門」、1969年に「カルデシタ部門」として分けて調査結果を発表した。それ以後の統計ではこの二つは区分されており、現在では「ウンバンディスタ部門」を「ロー・スピリティズム(baixo espiritismo)」とし、「カルデシタ部門」を「ハイ・スピリティズム(alto espiritismo)」として分類している。

1980年の時点では、ハイ・スピリティストに分類される「カルデシズム」は2149万人であり、ロー・スピリティストに分類される「ウンバンダ(この統計項目では“アフロ・アメリカン・スピリティスト”になっている)」は2528万人となっている。

 

なおカトリックの信者であっても、ハイ・スピリティストとロー・スピリティストの活動に参加している潜在的信者は3300万人を超えているという。この数字はブラジル人口の30%以上を占めている(注44)。この数字が独り歩きしてブラジルはスピリチュアリズム大国とされている(→実態は“純粋なスピリチュアリズム”ではなく、“習合的または折衷的スピリチュアリズム=ローカル・スピリチュアリズム”であるのだが)。

 

2000年にブラジル地理統計院(Instituto Brasileiro de Geografia e Estatistica IBGE)が発表した「IBGE、国勢調査2000年――宗教人口統計表」によると、ブラジルのカトリック教徒の人口は、全人口(16987万人)の73.6%(約12498万人)で、次に多いのはプロテスタントで全人口の15.4%(約2618万人)となっている。エスピリタ(=スピリティスト)は1.3%(約226万人)、アフリカの民間信仰を起源に持つウンパンダとカンドンブレは0.3%(約53万人)。この調査と1980年時点の調査を比較してみれば、2000年時点のエスピリタの約226万人は、ハイ・スピリティストに分類される「カルデシズム」の2149万人とほぼ同じ数字である。

 

現代ブラジルにおけるカルデシズムは、当初の“スピリティズム思想”から大きく変容しているという。このようにブラジルにおいては、いわばスピリティズムがさまざまな宗教や習俗と結びついて土着化し、次第に変容して「ブラジル化(=ローカル・スピリチュアリズム)」していきつつある状態が見て取れる(注45

 

 

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