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5.関係者から見た三田光一像

目 次

ア)三田光一に対する世間の評価

・好意的に見る人、否定的に見る人

・霊能とは何か

・霊能力の活用法

・三田光一のケース

・子息の証言

・関係者の証言

・スピリチュアリズムの観点から

・「霊能と金銭」に対する考え方

イ)三田の性格

・短気でギャンブル好きな一面

・紳士としての対面を保つ

・清廉潔白な人

・三田の人生観

ウ)三田光一の病気治療について

・三田の病気治療

・三田の病気観

・スピリチュアル・ヒーリング

エ)三田光一の晩年

 

<注51>~<注76

 

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ア)三田光一に対する世間の評価

☆好意的に見る人、否定的に見る人

三田光一については、次のような人物評価がなされている。金銭面では「報酬の良い見世物興行を行っていた人」で「物質主義者」であり、仕事面では「営利的実業家」であって「鉱山開発や沈没船の引き揚げに係わり一獲千金を狙った山師的な人」であると。身だしなみに関しては「いつもキチンとした服装に威儀を正して紳士の対面を崩さなかった人」であり、「モダンボーイだった」とも云われてきた。

三田に対するネガティブな評価は心霊批判家に多いが、「日本神霊主義者」(→スピリチュアリストのこと)である脇長生氏の評価も手厳しい。脇氏は「三田氏は無神論者であり、物質主義者で、営利的事業家であった。本心はさほどでもないが、さて、わいわい連中にチヤホヤされると、つい引きずり込まれる。その傾向が強かった」(注51)と。

 

一般に三田の人物評価については「全体として三田を好意的に見ている人か、否定的に見ている人か」「金銭・仕事・霊的な相談事などで三田本人と直接利害関係にあった人の評価か」「三田と感情的な問題が存在して疎遠になった人の評価か」によって食い違ってくるようである。このようにどちら側に立つ人の発言かによって、同じ事実に対し全く相反する評価がなされている。毀誉褒貶が相半ばする原因はこのような所にあるのではないだろうか。

 

☆霊能とは何か

人間は「物的身体を通して自我を表現している霊」であり、霊の世界で自我を表現する手段が心霊的能力である。そのため霊能(心霊的な能力)は程度の差こそあれ誰にでも生来的に具わっている。心霊的な能力は大部分の人は未発達の状態で所有しているが、この能力が比較的肉体の表面に出やすい人は、肉体行や霊能開発などによって容易に能力を発揮して霊能者になることができる。

古代人は数多くの霊的感覚を使用していたと言われているが、物質文明の発達とともにこの能力が次第に委縮してしまい、今日では霊的バイブレーションをキャッチできる人(→霊の世界を感識する心霊的な能力が発達している人)は極めて少数となっている。その少数者を霊能者(霊媒体質者)といい、その者が発揮する能力を霊能(心霊的な能力)という。

三田光一の霊能は幼少期から発現しており生来的なものであった。その能力がその後の不治の病にあった時期(18歳から21歳頃の間)に、自ら工夫した精神統一法(精神旅行や腹式呼吸法)を反復継続して行うことによって、肺結核が治癒すると同時に天賦の霊的能力を鍛えることにもつながった。

 

☆霊能力の活用法

霊能者は大部分の人達と異なって心霊的能力を使用することができる。その能力を大まかに分けて利他的に用いるか、あるいはもっぱら利己的に用いるかは、その人の自由意志の範疇の問題になる。スピリチュアリズムの観点から云えば、知識や能力には当然に責任が伴うことになるため、それらをどのように使用するかによって、その後のその人の霊的成長と深く結び付いてくる。

一般に肉体行や霊能開発によって霊能が発現した霊能者の中で、それは自らの修行と創意工夫によって身につけた能力であるとの思いが強いと「能力の私的利用」に傾きやすい。このような霊能者の中には、自分が獲得した能力をどのような用途で使用しようが自由であると考える者が現れる。このような場合には「霊能と金銭」は問題となることもない。

 

☆三田光一のケース

社会に飛び出した者が生活の糧を得るために取りうる一般的な方法としては、それまでの体験や知識を生かせる職種を選択するのが最も無難であろう。三田の場合は尋常小学校を卒業(10歳)したのち、商店の丁稚や行商さらには奇術師一座で働いた経験(→現在に置き換えれば小学校の5年生頃から高校生にかけての体験)がある。18歳~19歳頃に上京し、その際に生活の糧を得るための職として「手品や奇術で自立」する道を選んだが、これはそれまでの経験を生かした当然の選択であった。

 

その後の三田は26歳(明治44年)の時に、「池田氏の世話」で東京の明治座で透視能力者としてデビューし、引き続き「大坂松竹合名会社の大谷氏の世話」で大阪と京都で千里眼の公演を行った。その後の三田はこの流れに沿って、透視や念写を「資料・新聞記事№1~№14」(№4、№5、№11、№13を除く:明治44年から大正5年)に見られるような、興行的色彩の強い形で行った。福来との出会い以降の公演では、実験会的要素が強まった。

三田は長い間、自身の透視能力や念写能力は、自ら創意工夫した精神統一法による修行の成果であると考えていた(注52)。これはデビューしてからしばらくの間、透視という心霊現象に「術」と云う言葉を使っていたことからも裏付けられる。

 

☆子息の証言

三田光一は自らの霊能で金銭を得ていた。そのため世間の評価は「見世物興業師」「山師的な人」など厳しいものがあるが、三田の“一人っ子(?)”の三田晴康氏が見た父親像は、世間が見ている人物像とは全く異なっていた。子息の三田晴康氏は「父三田光一の思い出」(注53)の中で次のように述べている。ここからもう一つの三田光一像が見えてくる。

 

三田光一は「(世間から)超人よ、大能力者よと騒がれ、たえず東奔西走の、一見まことに華麗な活動」ぶりと、「報酬の良い公開実験」を頻繁に行っていると思われていたことから、財をなした霊媒と思われていた。しかし三田の実生活は世間の評判とは大違いで、実際には公共機関、日本赤十字などに積極的に寄付を行っていたという。子息の次の言葉に表れている。「(父は)公共機関への寄付行為等も随分積極的に行っており、例えば日赤からは早くより名誉社員のバッジが贈られて来ていましたし、郷里の消防団へ支援をしたりして、それらに対する各方面からの感謝状が無雑作に束ねられていた有様をよく憶えています」。この三田の行為に世間は冷ややかだったが「(父は)売名的ときめつけられても一向意に介せずに、ここでも自らの思う通りに振舞っていた」(注54)という。

 

さらに治療行為によって受け取った依頼者からの贈答品に関しても、「御礼や届け物は随分あったようですが、その大部分は家を潤すものとはならず、あちこちへのほどこしや、私のとくに知る限りでは日本赤十字社への寄付にあてられていました」(注55)。「若し物に対する所有欲が強かったならば、あれだけ広範囲の各界各層との交際があったのですから、例えば書画骨董の類にしても相当な質と量のものを集めるぐらいの事は、むしろ容易であったでしょうが、それらしいものの欠片すら持ってはいませんでした」(注56)。このように所有欲が薄く、モノに対する執着が比較的淡白な人であったことが分かる。

 

このため家計を預かる母親の大変さを「その実生活面では全く不安定で、その間の母の苦労は非常なものであった」「晩年に近い十年前後を除いては、母は独り家計のやりくりに大変な苦労をしていました」(注55)と述べている。とくに「私が中学校に入校した前後から三年ぐらいまでの期間が特に家庭経済は苦しかったようで、不在勝ちの家では母が内職したり親類からつなぎの借金をしたり、その為に見なれた家具や調度品がいつの間にか先方に持ち去られているのでした」(注56)。

このような不安定な家計状態にあった三田家が安定してきたのは「家庭人としての生活の安定を一応得られ始めたのは、呉羽紡績の客員として正式に迎えられた頃から」で、「昭和18年5月迄、年数にして十年足らずの間」(注54)であるという。

 

この子息の証言から透視・念写能力者として活躍した時代、いわゆる「霊媒稼業」時代に稼いだ金の多くは寄付に回してしまい、三田家の家計は火の車であったこと。しかし「霊媒稼業」から手を引いた昭和10年頃からは、やっと三田家の家計も安定してきたことが分かる。さらに三田の突然の他界によって、晴康氏は戦時中の切符の入手が困難な時期に中国の上海から急ぎ帰国して一切の家財の整理にあたった。その結果判明したことは「誠に恥ずかしい次第ながら、残ったものは借金でありました」(注56)。このように「モノ・カネに対する淡白さ」から、三田光一の生涯は金とはあまり縁がなく、子息の証言から世間がイメージする三田光一像とのギャップを強く感じる。

 

☆関係者の証言

それでは身内以外の関係者は「三田の霊能と金銭」の問題をどのように見ていたか。次に甲山繁造氏および佐藤権右之門氏の証言を見てみる。

甲山繁造氏によれば「当時の(三田の)実験謝礼が平均して1回百円であったという。現在(昭和34年当時)の物価が当時の二百倍とみても二万円である。“実験を一回やるたびに、自分のいのちが一年位縮まると思うほど精力を消耗しますよ、それに対する代償はお話になりませんよ”と言っていた」(注57)という。ここから透視・念写の実験に関しては、いわゆる「労働の対価=賃金・報酬」の関係は成り立たないこと。三田の実験会に臨む姿勢は「実験謝礼」が目的ではなかったことが分かる。

 

次に佐藤権右之門氏によれば、佐藤氏は大正9年頃個人的な相談事があり、紹介者を通して三田を神戸の自宅から福島県の飯坂温泉に呼び寄せた。その時紹介者から云われた謝礼の額は「先生(三田のこと)に旅費と若干の謝礼を包めばよろしい」(注58)とのことであった。「若干の謝礼」の額にもよるが、この文章からは高額な謝礼との印象は受けない。

同じことを現在に置き換えて「専門家」を呼び寄せる場合の費用を考えれば、その往復の旅費(グリーン車換算)以外に「1日〇〇円×日数」で計算した出張日当と、「相談に要した時間×1時間〇〇円」で計算した合計額の謝礼(実費含む)の支払いが生じるのではないかと思う。三田は個人相談の相談料について、法外な謝礼を要求していなかったことがここから分かる。

 

三田と「霊能と金銭」の問題に関しては、透視や念写の能力は「自ら獲得した能力」との認識だったので、少なくとも「信仰の人」になるまでは「霊能と金銭」の問題は、自身の内部に自己矛盾の葛藤としてあがってこなかったと思われる。このように何かと世間から誤解の多い三田であるが、関係者の証言から「物に淡白で金銭に執着がなかった三田光一像」が明らかになってくる。

 

☆スピリチュアリズムの観点から

人間とは霊であり、その霊的発達程度は各自それぞれ違いがあるので(→霊の顕現の度合い)、本来の住居である霊の世界では、波長の異なる霊が同一平面上で混じり合うことはない。しかし肉体という共通の物的衣装をまとうことによって、霊的発達程度の異なる霊が地上世界という同一平面上で混在することが可能となる。この物的世界で霊的向上のために必要なさまざまな体験(直接体験・間接体験)を積むことが可能となる。

人間は“肉体という衣装”をまとっているため、この物的社会で肉体の維持(衣食住)と「快適な生活」を送るために、交換手段である金銭を取得して、さまざまなモノやサービスに変える必要が生じてくる。そのため本能的により多く金銭を所持したいという欲求が生じることになる。

 

本来交換手段である金銭には「いろ」は付いていないが、これをどのように用いるかによって、使用する人の「いろ」が付いてくる。いわば金銭は諸刃の剣である。人間は肉体をまとっているため、物的世界である地上では、たやすく「物質的・本能的な生き方」に流されやすくなって、霊的波長が荒く(霊的向上に逆行する)なってしまう。その中で大きなエネルギーを使って霊的向上を目指していかなければならないので、まさに地上世界は霊的向上を目指すための「トレーニングセンター」であるといえる。

 

スピリチュアリズムの観点から云えば、能力があるということは当然にその能力に応じた責任も発生するので、「能力と責任とは一対」ということになる。霊能者は霊の世界と地上世界とを仲介する媒体であり、その本来の役目は霊力の通路としての中継機能である。霊能者は霊能という一種の特殊能力を授かっているので、当然に能力に見合った責任が生じてくる。この場合の責任とは、高い霊的波長に感応するための、「霊力の通路・中継機能」としての“品質保持義務”である。

そのため「物質的・本能的な生き方」に流されることなく(→霊的波長が荒くなり通路としての品質が低下するから)、能力の維持向上には人一倍努力しなければならない。このように金銭によってたやすく物欲が刺激されることになるため、「霊能と金銭」に関しては古くから議論が為されてきた。このような観点から、霊能者が行う相談や治療、デモンストレーションに対して、「霊能と金銭」という問題が常にテーマとなってくる。

 

☆「霊能と金銭」に対する考え方

この「霊能と金銭」に関しては、スピリチュアリストの間でも意見が分かれている。この件について筆者は「霊能者の霊能力は“使用目的限定の能力”であるため、生活の糧を得る手段は原則として霊能力以外に求めるべきである」という厳格な見解を持っている。

浅野和三郎も比較的この立場に近かった。浅野は著書の中で次のように述べている。「次にご注意申したいことは、この能力を“糊口の方便とせぬこと”であります。何となれば衣食の方便として、これほど迂遠な、そしてこれほど骨の折れる仕事はめったにないからです。現代の生活苦はまことに同情に値しますが、しかし、たとえ乞食になろうとも、霊媒になって飯を食おうなどとお考えにならぬが得策です。で、統一志願者は生活の心配のない人か、少なくとも他に何とか解決のついた人に限ると思います」(注59)。浅野のこの見解は、今でも和製スピリチュアリズムの中で生き続けている(注60)。

 

一方この意見とは反対の立場に立つのが、シルバーバーチの霊媒であるモーリス・バーバネルである。バーバネルは著書『これが心霊の世界だ』の中で次のように述べている。「霊能の仕事には金銭の報酬があってはならないと主張する人がいるが、私はこれは間違っていると思う。ならば霊媒はどうやって生計を立てていくのかという問題を抜きにしているからである。もし報酬が得られなければ助成金を貰うか、さもなければ慈善資金でも戴かねばならないであろう。同じ霊的な仕事に携わっている牧師はちゃんと収入を得ているし、それでいいのである。あれは年金だと言うかも知れないが、根本的には同じことである。もちろん理想をいえば霊能者は金銭的なことに煩わされないのが望ましい。が現代のような経済的事情のもとでは、霊能者も普通一般の人と同じような生活を強いられる。マージャリーがお金を一切受け取らなかったのは、霊媒の仕事に金銭問題が絡んでくるととかく欲が出て、しくじらないためにうまくごまかすことまで考えてしまう危険があるという、自戒があったことを明記しておきたい」(注61)との有力な意見もある。

 

このバーバネルの見解を読んで、私はだいぶ前にイギリスの心霊事情を調査してきた人から聞いた話を思い出した。それによれば、SAGB(大英スピリチュアリスト協会)で働く霊能者のほとんどがボランティアであり、その背景に協会では「霊的なことは金銭の対象にしてはならない」という不文律があるといわれている。

当時、霊能で生計を立てている代表格の霊能者にジョー・ベンジャミンがいた。彼は週2回の「デモンストレーション」(一人40ペンス、1970年代の貨幣価値で約200円、100人くらいのホールで行う)と、「心霊相談」(一人一時間で2000円以下)で生計を立てていたが、その暮らしむきは質素であったと云う。

 

前述したバーバネルの発言には、心霊関係のジャーナリストとして多くの霊能者の現状を長い間、見聞きしてきただけに重みがある。思うにバーバネルの発言の真意は、SAGBの不文律に関して個別事情を無視して一律に適用することに対する反対意見ではないだろうか。なおバーバネルは「霊能と金銭」に関して肯定発言をしているが、当然に質素な生活が前提であり、その上で自説を述べている。

このように数多い霊能者の中には霊能に頼らずとも生計を営んでいける者がいる一方で、家族を抱えて生活に困窮し生活の糧を得るために自らの霊能を使わざるを得ない者も現実に存在する。霊能者(霊媒体質者)として生まれてきた霊的背景がそれぞれ異なるので一概には言えないが、「霊能と金銭」の問題は各自の自由意志と自己責任の範疇の問題であり、最終的には良識ある判断に任せるべきであろう。

 

イ)三田の性格

☆短気でギャンブル好きな一面

三田晴康氏は父について「非常に気性の激しかった亡父は、その性格の人々がそうであるように、矢張り勝負事は何でも好きでした」「競馬にもよく出かけましたが、時には“今日はこのカバンを一杯にするから持ってついて来い”と、もっともらしい顔をして私をさそい、帰りはご多聞に漏れずオケラにされて“さばさばした”という稚気振りでした」と述べて、三田光一にはギャンブル好きの一面があったことを紹介している。また「賑やかな事の好きなだけあって、また茶目気も随分多かった」とも述べている。

さらに三田には「相当短気」な面があった。「殊に不機嫌の時などには、私を含めて家の者達皆が、何時雷を落とされるかとビクビク」(注62)していたという。晩年の三田の写真(著書『霊観』の写真)の雰囲気から判断して、この証言は間違いないと思われる。また「几帳面」な性格が毎年の年賀状によく表れていたという。

 

☆紳士としての対面を保つ

三田は「モダンボーイ」であったとの証言がある。それは「父は非常なスタイリスト」であり、服装にも気を配る「細かい気遣いを持っていた人」であったことから出てきたのだろう。三田は「いつもキチンとした服装に威儀を正して紳士の対面を崩さなかった人」と云われた。これについては、三田の著書『霊観』の記載の中で次のように姿勢の重要さを説いている。「修養なき人の姿勢は常に不規律であり、したがって下腹部に気力の充実しらざるがために、応対、談判等に際して必ず先方に機先を制せられることは必然である」(注63)。姿勢や威儀の大切さを説いた三田にとっては、これは当然の振る舞いであったろう。

 

☆清廉潔白な人

子息によれば、女性関係については清廉潔白な人であったという。「気前も好過ぎる位でしたので、芸者衆にはえらいモテ方でした。ところが物心ついた私の知る限りに於いて、深い関係を持ったようなお人の姿は勿論のこと、噂すら耳にすることはありませんでした」(注64)という。さらに「気配りの人」だったことが次の証言によく表れている。「(父は)とにかく大変な人気者でした。殊に宴会の席などでは常に花形的存在でしたが、演出もまた巧妙で、まことに全員を終わりまで楽しませてくれました」(注64)。宴会の模様から三田の天真爛漫さと飾り気のないさまが見えてくる。

 

佐藤権右衛門氏は個人相談の件で、福島駅で三田を迎えた時の状況を、「自動車の中では盛んに愛嬌をふりまき、滑稽談に花を咲かせており、少しも気が措けぬ人であるという第一印象でした」(注65)。また三田とは奇術師仲間だった仙台市在住のS・T氏も、「(三田は)世才にはたけていた人だが、その一面、天衣無縫なところもあった」(注66)との証言と相通じる。つづけてS・T氏は「(三田は)とにかく、頭がきれるし、弁舌も達者で、能力のあった人だと思う。ただ、かなり複雑な人で、頭と口が回りすぎて、実際と食い違うようなことはあったようだ」(注66)とも述べている。

 

☆三田の人生観

三田は自らの透視能力を「鉱山開発や沈没船の引き揚げ」事業に生かした。これは『霊観』前篇で述べられている「第一義を民族の精神的発展に置く」「民族発展の根本要諦は国粋の発揮」「文化政策に重きを置く文化的膨張を主とする」(注67)主張に沿ったもので、三田なりの「国家への奉仕であり国民としての義務」の実践であった。三田の持論である日本民族の発展を願い、鉱山開発や沈没船引き揚げと云う「国家的事業」(いわば公共的な事業)に、自らの透視能力を生かすという考えに基づいているのではないかと思われる。

 

このような三田の考え方は息子に語った言葉にも表れている。当時の晴康氏は哲学者西田幾太郎の講義を聴講し、友人と哲学論争を盛んに行っていた頃で、父にも同様に深遠な哲理を聞き出そうとして次のような質問した。「事物の存在意義、人間の存在理由は、何を基準に置き、どのように理解すればよいでしょうか」との晴康氏の質問に対して、父は「人のためになるという事が基礎だよ・・・・吾々としては世の中の為に何等かの役に立つかどうかを、そのものの存在価値判断の一応の基準として解釈して決して間違ってはおらぬ」(注68)と語ったという。三田の辿りついた人生観が窺える。

三田は他人から何と言われようと全く気にせずに、自ら思い通りにふるまったために、このような考え方は世間には知られておらず、誤解されたままの状態で「一獲千金を狙った山師的な人」と見られている。

 

ウ)三田光一の病気治療について

☆三田の病気治療

三田光一は透視・念写能力者として有名であるが、心霊治療家としての一面も持っていた。子息の三田晴康氏は次のように述べている。「私(三田晴康氏)の記憶では随分沢山の方々に請われるままこの精神治療を行っていたようです。宅へ訪ねて来られる人達、自ら出掛けて行く場合、更に全国各地から送られてくる治療依頼の写真がその辺に山積みしている有様でした」(注69)。この証言から直接治療と遠隔治療の両方を行っていたことが分かる。

 

具体的な治療に関しては、子息によれば三田は次のように行っていた。「まず普通の場合には病人からの訴えを一方的に十分聞く事から始められますが、時々は直ちに病人の枕元に正座して精神統一に入り、約一分位経過してから覚醒、詳しく病状を説明した後、再び精神統一に入り、そのままの状態で主として右手(時には両手)を病人の各部から続いて患部と思われるところに次々と当ててゆきます」。その際の三田の表情は「勿論その間正座は少しも崩さず、また極度の差こそあれ念写の場合と同様、歯ぎしりする位力を入れ、汗をかき、約3分位して静かに覚醒致します」(注69)。

この点から三田の病気治療は「サイキック・エネルギー」や「マグネティック・エネルギー(生体磁気エネルギー)」を使った治療法であることが分かる。三田は自身の生体エネルギーを患者に与える方法で病気治療を行っていたが、この治療法は治療者自身のエネルギーを消耗させることになる。

 

☆三田の病気観

三田の病気観は著書『霊観』(注70)の中で述べられている。三田の云う「五大活動力(成長力・生殖力・運動力・結合力・感覚力)」が完全に作用して、新陳代謝が活発に働くことで心身の健康が維持されるが、そこに不調和が起こると病の始まりになるという。

三田の病気治療は、腹式呼吸法によって気力を充実させて、「血液の運行を旺盛にして細胞の抵抗力を増進」させることを基本に置いた。具体的には正しい姿勢を練修して心身の調和をはかる「調身法」と、腹式呼吸の「調息法」に「身体は壮健である、かく強健なる自己の心身を保全するために本修養を行うものであると観念」(注71)する自己暗示法の組み合わせを取っている。このように呼吸法と自己暗示法を組み合わせた精神統一によって免疫力をアップして、自然治癒力を増進させる一種のセルフヒーリングによる病気治療を説いている。

 

☆スピリチュアル・ヒーリング

スピリチュアリズムでは人間は「霊(神の分霊)」であり、自我の本体に「神の完全性と同一のものが種子の状態で潜在化」しており、霊的成長に伴ってその“完全性(神の属性)”が少しずつ外部に顕現していくと説いている。

 

高級霊のシルバーバーチは「健康」を「身体と精神と霊の三者の関係が健全であること。この三つの必須要素が調和のとれた状態にあること」としている。霊が主で身体が従なので、霊が正常で精神も正常であれば、身体も正常になる。神の摂理に従った生き方をすれば健康でいられる。摂理として当然にそうなると述べている。

このように真の健康とは、「霊(自我の本体)」と「精神(意識、心)」と「身体」が調和状態にあり、これらの間の連携関係が正しく機能している状態をいう。この状態であれば人間の肉体に本来的に具わっている、自然治癒力、免疫システム、自律神経、内分泌腺のバランス等が正常に機能して、防御力が働くことによって健康が維持できるからである。

これに対して「病」とは、この「身体と精神と霊の三者の関係」のうち、一つでも正常に働かなくなって相互の連係がうまくいかなくなった状態、相互関係の異常をいう(注72)。この点で三田の病気観とは異なる。

 

スピリチュアル・ヒーリングでは、ヒーラーが扱う治療エネルギーによって次のような分類をしている。まず「霊界の霊医」が扱う治療エネルギーを「スピリット・エネルギー」と呼び、この治療法を「スピリット・ヒーリング」と呼んでいる。そしてこのスピリット・ヒーリングを行う治療者を、本来の意味での「スピリチュアル・ヒーラー」と称している。

これとは別に治療者自身のエネルギーを患者に与えて治療を行うヒーリングがある。まず治療者の「霊体エネルギー(サイキック・エネルギー)」を使った治療法があり、これを「サイキック・ヒーリング」としている。次に治療者の「マグネティック・エネルギー(生体磁気エネルギー)」を使った治療法として、「マグネティック・ヒーリング」がある。このように治療者自身のエネルギーを使った「サイキック・ヒーリング」や「マグネティック・ヒーリング」を行う治療者を、「サイキック・ヒーラー」と称している。

現実には霊性が高い治療者の場合、「サイキック・ヒーラー」に分類できる名称を名乗っていたとしても、内面で働いている治療エネルギーは「スピリット・エネルギー」であり実態は「スピリチュアル・ヒーラー」であった、ということも当然にあり得る。

 

三田の治療法は治療者自身の身体から放射される、「サイキック・エネルギー」や「マグネティック・エネルギー」を患者に注入して病気を治す「サイキック・ヒーリング」や「マグネティック・ヒーリング」と呼ぶもので、広義の「スピリチュアル・ヒーリング」といわれるものである。この場合には霊界人の霊医の関与はなく、あくまで治療者の「サイキック・エネルギー」や「マグネティック・エネルギー」を使った治療法である。

三田が活躍した時代における心霊治療は、現在スピリチュアリズムの世界で行われている「スピリット・ヒーリング」とは異なっており、当時は治療者の間でも「スピリット・ヒーリング」の概念は理解されていなかった。時代背景を考えれば三田の病気治療は、極めてオーソドックスなものであったと云える。

 

また当時の心霊治療家は、神霊を“心的作用の一つ”とみなしていた。精神力こそがすべてであって、物質は精神に従うとして、霊とは精神のことであった(注73)。この考えは超心理学のPK“念力”に近い考え方であり、スピリチュアリズムでいう霊とは違っている。

このように「霊=精神」との考え方を持っていた当時の心霊治療家の「心霊治療」とは、主に「呼吸法」「精神統一」「気合い」「暗示効果」「気」「催眠術」などを行って、精神レベルに治療エネルギーを送って肉体の疾患を癒すものであり、その際に使用した治療エネルギーは、「マグネティック・エネルギー」や「サイキック・エネルギー」であった。

 

エ)三田光一の晩年

三田はいつもきちんとした身なり(→批判者:詐欺師は身なりがきちんとしていることが条件)で住居も立派(→批判者:興行で大儲けした)であったこと、透視によって沈没船の調査や水脈・鉱脈等の鉱山関係の会社を経営(→批判者:透視能力を金儲けに利用)していたことなどから、一部批判者から「山師(詐欺師のこと)」とも呼ばれていた。しかし前述した三田を良く知る証言者たちによって、従来言われてきた「三田像」は虚像でありそれが独り歩きしていたことが分かる。

三田の実像は「純情で信義に厚く」、物欲は薄く収入があれば慈善団体に寄付(特に赤十字)を行い、身辺は清潔であったこと。さらに国や地域を思う気持ちが人一倍強く、それが鉱山関係の会社の経営や、軍属として満州に渡って活動したことなどに表れている。

 

昭和10年頃には、三田は実験会や様々な発掘、引揚事業からも次第に遠ざかっていた。その頃の三田の姿は、三田晴康氏によれば「サク井の事業を経営(日本サク井株式会社)し始めた後も、本業の現場の指図や詳細な地層の断面図の作製などは、皆さんが帰られた後、遅くまでかかってこつこつと仕上げておりました。それが時として2時、3時の深夜に及んだり、完全に徹夜してしまう事すら度々ありました」(注74)。ここから見えてくるのは「霊媒・三田光一」ではなく「経営者・三田光一」の姿である。

晩年に関係を持った呉羽紡績とのきっかけは「呉羽紡績が朝鮮に工場を新設した際に、それに要する工業用水の鑿井が、ことごとく不成功で、困りぬいていたのを、立派に解決したのがきっかけとなり、時の伊藤忠兵衛社長の信任を得たことに始まる」。このことが縁になって「(三田は)呉羽紡績の客員のような立場で、各工場に必要な工業用水の鑿井関係の仕事に打ち込んでいた」(注75)という。

 

三田は昭和18年に59年間に及ぶ波乱万丈の地上人生の幕を閉じたが、その最後の状況を子息の三田晴康氏は次のように述べている。「当時、父は日本サク井株式会社の社長で、その本拠は呉羽紡績株式会社の大阪本社の一隅に在ったそうです。その日(昭和18年5月7日)も平常通り執務していましたところへ、女子従業員の一人にかかって来た男性からの電話に偶然出ることとなり、何か話の行き違いから突然、非常に立腹した瞬間、脳溢血に襲われて机上に突っ伏し、そのまま遂に再び覚醒する事無く翌5月8日に59歳の生涯を終わったという事でありました」。その時三田晴康氏は上海で仕事をしていたが「チチキトク スグ キコクセヨ」との電報で、なんとか乗船券を入手して大急ぎで帰国した。帰国した晴康氏に女子従業員は「帰国した私にくやみを述べながら、自分のために全く取り返しのつかぬことになってしまったと、さめざめ涙された有り様を今も明瞭に記憶しております」と当時の状況を語っている(注76)。

 

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<注51

■脇長生著「日本の生んだ世界的霊媒」:『心霊と人生』昭和363月号、16頁。

<注52

■占部真一著「三田氏の念写と透視」:『心霊研究』昭和305月号、12頁。

<注53

■:三田晴康著「父三田光一の思い出」:『福心会報』№6、『福心会報』№8・№9合併号、および『福心会報』№14

<注54

■三田晴康著「父三田光一の思い出」:『福心会報』№8・№9合併号、26頁。

<注55

■三田晴康著「父三田光一の思い出」:『福心会報』№1412頁。

<注56

■三田晴康著「父三田光一の思い出」:『福心会報』№8・№9合併号、26

<注57

■甲山繁造著「この霊的巨人の足跡を見よ」:『心霊研究』昭和3412月号、4頁。

<注58

■佐藤権右衛門著「三田氏の念写実験記録と私の体験」:『福心会報』№222頁。

<注59

■脇長生編「精神統一入門」58頁。

<注60

■『吉田綾・霊談集(上)』(日本心霊科学協会1986年発行)273頁、395頁。

上記の中に「啓示を受け取る者は生活を他から得ている、パンの糧にしない」(273頁)、「霊能者の心得の状、霊能をパンの糧にすべからず」(395頁)との記載がある。

 

<注61

■モーリス・バーバネル著『これが心霊の世界だ』(潮文社)120頁以下。

<注62

■三田晴康著「父三田光一の思い出」:『福心会報』№1412頁。

<注63

■三田善靖著『霊観』220頁。

<注64

■三田晴康著「父三田光一の思い出」:『福心会報』№1413頁以下。

<注65

■佐藤権右衛門著「三田氏の念写実験記録と私の体験」:『福心会報』№223頁。

<注66

■黒田正大著「三田光一余聞録」:『福心会報』№1536頁。

<注67

■三田善靖著「霊観」146頁参照。

<注68

■三田晴康著「父三田光一の思い出」:『福心会報』№65頁。

<注69

■三田晴康氏「父三田光一の思い出」:『福心会報』№1411頁以下。

<注70

■三田善靖著『霊観』178頁。

<注71

■三田善靖著『霊観』243頁。

 

<注72

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、1巻』(潮文社)127頁、『シルバーバーチの霊訓、6巻』34頁、『シルバーバーチの霊訓、9巻』90頁参照。

近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、5巻』(潮文社)125頁。近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、3巻』(潮文社)209頁。近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、9巻』(潮文社)128頁。近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、4巻』(潮文社)191頁参照。

近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、1巻』(潮文社)132頁。近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、11巻』(潮文社)63頁。近藤千雄訳『シルバーバーチ最後啓示』(ハート出版)97頁、110頁参照。

近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、2巻』(潮文社)193頁。近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、5巻』(潮文社)136頁。近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、9巻』(潮文社)171頁。近藤千雄訳『シルバーバーチ最後の啓示』(ハート出版)73頁、137頁。近藤千雄訳『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)109頁、112頁参照。

 

<注73

■井村宏次著『新・霊術家の饗宴』(心交社1996年刊)304頁以下。

<注74

■三田晴康氏「父三田光一の思い出」:『福心会報』№1413頁。

<注75

■三田晴康氏「父三田光一の思い出」:『福心会報』№64頁以下。

<注76

■三田晴康氏「父三田光一の思い出」:『福心会報』№1412頁。

 

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