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スピリチュアリズムとキリスト教:個別テーマ

目 次

<1.神とイエスについて>

①.神と人間の関係について

・キリスト教の考え方

・既成宗教における神と人間の関係

・スピリチュアリズムにおける見解

・スピリチュアリズムにおける祈り

②.イエスは神か人間か

・キリスト教の考え方

・スピリチュアリズムにおける見解

③.神の被造物

・キリスト教の考え方

・スピリチュアリズムにおける見解

・スピリチュアリズムから見た「天使」とは?

 

<2.聖書・教義について>

①.聖書とは何か

・『新訳聖書』と『旧約聖書』

・カトリックの考え方

・プロテスタントの考え方

・スピリチュアリズムにおける見解

②.贖罪説について

・キリスト教の考え方

・スピリチュアリズムにおける見解

③.告白(告解)について

・キリスト教の考え方

・スピリチュアリズムにおける見解

④.イエスの復活・再臨について

・キリスト教の考え方

・スピリチュアリズムにおける見解

⑤.洗礼について

・キリスト教の考え方

・スピリチュアリズムにおける見解

⑥.その他の問題点

・永遠の生命

・教会・教義について

・キリスト教徒の独善性について

 

<3.死後の世界>

①.キリスト教の死後の世界

・死ぬとどうなるか

・霊魂の存在

・墓地で地縛霊となっているケース

②.スピリチュアリズムにおける見解

・死から中間境まで

・幽界の下層世界

・霊的自覚が芽生えると

 

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<1.神とイエスについて>

①.神と人間の関係について

☆キリスト教の考え方

キリスト教では「神」について「三位一体」という立場をとっているが、聖書には「三位一体」という用語は出てこない。

4世紀初頭に東方のキリスト教会でイエスの神性をめぐって論争(=アレイオス論争)が起きた。この論争の収拾を図るため、325年にニカイア(ラテン語読みではニケーア。現在はトルコのイズニク)で公会議が開かれた。

この会議でコンスタンティヌス帝の支持を受けたアレクサンドリア教会の主教アレクサンドロスの「イエスは父の本質から生まれ、父と同質であるとの立場(聖体共存説)」が公認された。これに対して「イエス人間説(子は被造物なので神ではないとの説)」を主張したアレイオス派(=アリウス派)は異端として排除された。その後二転三転するが最終的に「人間イエス説」は異端として排除された。これ以降は「イエスは神である。神が人間になったのであって、人間が神になったのではない」(注1)という「イエス=神」が教会の公式な教えとなった。

 

ここで云う「三位一体の神」とは、神は一つだが「父(全てを司る神)」「子(神の子たるキリスト)」「聖霊(教会や教義の守護者)」の三者(位格)となって現れる(注2)という考え方のことをいう(→神と言う一つの実体は三つの位格を持って現れる)。これは一般には世界の創造は「父なる神が世界を設計された」「子なる神が創造計画を実行された」「聖霊なる神が全ての中に働いて世界を完成させた」と表現されて説かれているものである。

キリスト教徒(カトリックも、プロテスタントも共に)は、「三位一体の神」を信じて、この「三位一体の神」を信じた者に「父、子、聖霊の御名によって」洗礼を授ける。そして教会では「三位一体の神」を礼拝するということが行われている。

 

☆既成宗教における神と人間の関係

既成宗教では神が直接人間に対峙するという形の神観(神⇔人間)が説かれている。たとえば「ダンケルクでの英国軍の撤退作戦のとき海が穏やかで、シチリア島での作戦のときも天候が味方してくれた」(注3)などという形で、聖職者は自分たちにとって都合のよい「依怙贔屓する神」を信者に説いている。またある教団では「神を人格的な創造主(=人格神)」と表現して、いわば人間的な感情を持った神としている。さらには神が人の姿となってこの世に現れたとして、生身の人間を「現人神(あらひとがみ)」として扱っている。

 

このような神が人間と直接相対する「神⇔人間」という「神観」は、信仰者の心理に「神の懐に取り入る」という無意識の感情を引き起こすことになる。この信仰形態は神と人間が直接相対するため、ともすれば信仰が現世利益的な傾向を帯びてきて、一種の取引行為(→神と人間の関係を商取引に見たてて、供え物の多寡や価値によって神の愛の分量が決まるという差別化を求める行為)に擬制する人たちが現れてくることになる。

このような人たちの祈りは、願いを叶えてもらいたい一心から「必死の祈り」(→祈りが叶えられない場合は真剣さが足りないとされる)、「長時間の祈り」(→祈る時間の長さが信仰に対する信念の強さの度合いとされる)となって現れることが多い。この背景には、神に格別の加護や配慮を願う意識が無意識のうちに信仰者に働いて、結果的に神に対して不公平・不平等な扱いを求めることになる。

一般にこの種の“祈り”では結果的に願いが叶えられれば良いのであって、誰に対して祈るのかという“祈りの対象”に対する関心は低くなるため、極論すれば“祈りの対象”は必ずしも神でなくてもかまわないことになる。このような“祈り”が公然と捧げられてきた。

 

☆スピリチュアリズムにおける見解

スピリチュアリズムでは「神の摂理」を強調している。高級霊シルバーバーチは「大霊による直接の関与などというものは絶対にありません」(注4)として、神が人間に対して直接相対する形で説く神観を否定している。このようにスピリチュアリズムでは、神は摂理を介して人間に相対する「神観(神⇒摂理⇔人間)」を述べており、既成宗教が説くような、神が人間と直接相対する形態は誤りであると明言する。

創造主たる神は摂理(→摂理は万物を統治する手段)によって、すべての万物を支配しているので、人間側から見れば「神は摂理と一体化」して存在する(→この場合でも神は摂理の裏側に存在するのだが)。これによってどのような人であろうと、その行為が摂理に合致していれば依怙贔屓されることなく、神の恩恵を平等に受けることになる。

 

従来の既成宗教の「神観(神⇔人間)」であれば、A宗教に属している信者から見ればA宗教の神学に立った神観が正しく、B宗教の神観は誤りとなり排斥される。モーリス・バーバネル(シルバーバーチの霊媒)は「一人の人間が宗教を持つという場合、それがどの宗教になるかは、普通その人間がどの国に生をうけるかによって決まる。たとえば英国国教会の教義を熱烈に弁護する人間も、もしインドに生まれていれば、同じ熱心さでヒンズー教を弁護するであろう」(注5)と述べている。

 

このように現在の既成宗教の「神観」であれば、生まれた場所の宗教によって「神観」が左右されることになり不都合が生じるが、この不都合は神と人間との間に“神の摂理というルール”を介在させることによって解決する。

この摂理を介在させる考え方に立てば、当人の行為が神の摂理に適っているか否かということのみが「唯一の判断基準」となって、従来までの不明確な扱いや依怙贔屓、自己本位の神学的解釈等の不平等な扱いが無くなる。その結果“適用における公平さ”が担保されて基準が明確となる。

このようにルールが“神の摂理”に統一されることによって、現在宗教教団の数だけある「神観」が“神の摂理(=霊的法則)”によって整理されることになる。そして従来の「神⇔人間」という「神観」は根底から覆って、地球人類の霊性は大きく飛躍して、神の摂理の普及に弾みがつく分岐点(注6)も視野に入ってくるであろう。

 

☆スピリチュアリズムにおける祈り

スピリチュアリズムでは神に対する祈りをどのように考えているか。高級霊シルバーバーチは「祈りとは波長の調整である」として、自分自身の霊的波長を高めて「可能な限り高い次元の波長を合わせる行為」であると述べている(注7)。さらに祈りとは、自我の本体に内在している「神の分霊をより多く顕現させること」であり、神(始源)に一歩でも近づこうとする行為、神との感応をはかるための手段であると述べている(注8)。

祈りには「霊的な“行”」という側面もある。祈りはより多くのインスピレーションと霊的エネルギーを摂取するための手段であるため、「魂の開発を目的とした行」という面がある。そのため祈りが出来ない時は無理して祈る必要はないことになる(注9)。

祈りは「内省のための手段」という面もある。この観点に立つならば祈りとは霊的進化における“はじめの一歩”になる。祈りと内省の時を多く持ち、実生活における義務を誠実に果たすことによって内部の神性(神の分霊)が発達することになる(注10)。

 

高級霊シルバーバーチは自ら祈りのお手本を示して、霊界人の神認識を私たちに示した。その祈りからも分かる通り、神概念を理解した者の祈りの対象は“唯一の神”であり、これのみが崇拝対象となる(注11)。これに対して御利益信心的な祈りの場合には、「祈りの内容」は広い意味での“利己的なもの(霊性向上とは無関係なもの)”であり、その祈りが実現しさえすればよいので、崇拝対象は重要ではない(→必ずしも神である必要はない)。

スピリチュアリズムの観点から云えば、唯一の神の存在を理解し、それを崇拝対象として祈ることができるかどうかは(→ピントを合わせた祈りができるか否かは)、各人の霊的理解力(霊的成長レベル)と霊的感性いかんにかかっている(注12)。霊界人は物的衣装を身にまとっていない分だけ霊的感性は地上人より鋭いが、それでも「神はその働きによって知り得るのみ」であるという(注13)。

 

②.イエスは神か人間か

☆キリスト教の考え方

キリスト教においては、「神とイエス・キリストは同質(真の神にして真の人)である」とされている。イエス・キリストは人間になった神であり、神が生んだ一人子であり、神の被造物である子供とは異なるという意味で「子なる神」と呼んでいる。そしてイエス・キリストは全ての人々の救い主であり、全ての人々のために十字架にかけられて殺され、三日後に蘇ったとされている。

 

イエスの誕生について『カトリック教会のカテキズム要約』(カトリック中央協議会)によれば、「おとめマリアが、聖霊の働きにより、男性の協力なしに、自分の胎内に永遠の御子を宿したことを意味します」(注14)と記されている。また「マリアは、イエスの母ですから、真に神の母です。事実、聖霊によってやどられたかた、そして真にマリアの子となられたかたは、父である神の永遠の子です。この方ご自身、神なのです」(注14)と。

この「マリア神の母」説は、451年のカルケドン公会議で決定されたもので、いわゆる「処女降誕説(処女懐胎説)」のことである。ここからカトリックのマリア崇拝が始まったとされている。なおプロテスタントではマリアを神の母とは呼んでいない。

 

☆スピリチュアリズムにおける見解

スピリチュアリズムでは、2000年前に高級天使であったイエスは、至って平凡な夫婦の間に生を享けたとして、マリア崇拝を説いていない。キリスト教ではイエスの出生について「処女懐胎説」が唱えられているが、スピリチュアリズムではいかなる人間といえども自然法則を無視して出生することはありえないので、キリスト教が説く「処女懐胎説」は誤りである(注15)。またイエスは地上へ降りることの可能な霊(天使)の中でも最高次元の霊であったのであり、イエスは神ではなく「神の被造物」であった。それが霊界における「天使から人間への転籍」という手続きを踏んで人間界に誕生した(注15)。つまり「イエス人間説」である。

 

イエスの降誕の目的は、地上の人間に「霊的法則を教えること」、つまりスピリチュアリズムを普及することであった。シルバーバーチの言葉を借りれば、イエスは「人間はいかに生きるべきか、内部の神性をいかにすれば発現できるかを教えるために地上界へ降りた」(注16)のであり、教えの基本は「神を心から愛すること、さらに隣人を自分のように愛すること(自分を愛するように人を愛しなさい)」であった。

このように「イエスの処女懐胎」を否定し「イエスは神の被造物」と説くスピリチュアリズムは、キリスト教から見れば「キリストは父なる神よりも劣位にいる神や天使である」と説く異端の説と同列ということになり、何としても排除しなければならないことになる。キリスト教がスピリチュアリズムを敵視する理由の一つがここにある。

 

③.神の被造物

☆キリスト教の考え方

キリスト教は天使の存在を認めている。『カトリック教会の教え』には「天使は神の意志を人に伝えたり実行したりする、神の使者であり、悪魔は罪によって神に逆らうようになった天使である」(注17)との記載がある(→スピリチュアリズムでは悪魔の存在を認めていない)。さらに『カトリック教会のカテキズム要約』では、天使を「純粋に霊的で、からだをもたず、目に見えない、不死の被造物で、知性と意志を具えたペルソナとしての存在です。・・・神の使者です」(注18)と説明されている。

 

なおキリスト教における「悪魔」と「悪霊」に関する伝統的な解釈によれば、天使長(天使の最高位)であったルシファーは、神にそむいて天上から追放されてしまった。そして地上に堕ちたルシファーは「サタン(悪魔)」となり、ルシファーに付き添った天使は悪魔に従う「悪霊」となった。これ以降ルシファーは堕天使の長(魔王サタンの別名)となったと説かれている。この「悪魔」と「悪霊」に関する解説はスピリチュアリズムの説とは異なる。

 

☆スピリチュアリズムにおける見解

スピリチュアリズムの立場からは、イエスは“大霊(=神)”の使命を帯びて物質界へ降誕した多くの“大霊(=神)”の使者の一人であり、偉大な霊能者であった。現在のイエスはスピリチュアリズムの最高指揮者として活躍していると説かれている(注19)。

 

高級霊シルバーバーチの説明によれば次のようになる。

宇宙には人間界とは別に天使界が存在していること。天使には“宇宙の経綸(摂理の執行)”という仕事があり、一度も物質界に降りたことのない高級霊であること。天使は宇宙の上層部に所属している“光り輝く存在”で形体なき光源体であること。

さらにこのような一度も地上の人間のような形態をもったことのない高級霊(天使)の中から、時々特殊な使命を帯びて地上に降りてくる高級霊(天使)がいると述べる(注20)。イエスはまさにこの事例に該当する霊であった。

 

悪魔とはスピリチュアリズムでは未熟霊(低級霊)のことを指す言葉なので、キリスト教でいう「悪魔という天使(堕天使)」の存在を認めていない。また悪魔が支配する霊界という存在も認めていない。このようにキリスト教とスピリチュアリズムでは立場を異にする。

キリスト教では「悪魔の誘惑」ということが良く言われるが、シルバーバーチは自由意志と自己責任、因果律の観点から「悪魔が誘惑するのではありません。自分にそういう要素があるから悪の道にはまるのです」(注21)と述べている。

さらに罪にも軽重があり、地上での最大の罪は「神の存在を知りつつもなおそれを無視した生き方をしている人々。そういう人々が犯す罪が一番大きい」(注22)と述べる(→キリスト教で「聖霊の罪」とされるもの)。

 

☆スピリチュアリズムから見た「天使」とは?

<天使の役割>

スピリチュアリズムでは、神と人間との関係は「神」⇒「摂理A」⇔「人間B」となる。この“摂理A(=霊的法則)”の執行者として天使が存在する。天使は“人間(高級霊を含む)B”の上位に立ち、守護霊や指導霊を含めた人間(人霊)全体を、“摂理A”によって支配して、霊的法則に違反することがないように全体に目を配っている(→この世においても法の執行者として司法行政に携わる公務員がいるのと同じ)。

この点につきシルバーバーチも「私より勝れた叡智を具えたスピリット(=天使)によって定められた一定の枠があり、それを勝手に超えてはならないのです」(注23)と述べているので、高級霊(人霊)といえども「摂理の執行者である天使」の支配下に置かれていることが分かる。

 

<天使と妖精の関係>

スピリチュアリズムでは、天使は“宇宙の経綸(摂理の執行)”を担当して、その末端の仕事を妖精が行っている(注24)。『霊の書』では妖精に関して「自由意志もなく、何の目的なのかについての自覚もないまま大自然のさまざまな側面での現象の演出に携わっております。指令を発する存在がいて(天使のこと)、それに反応して働く存在がいます。それが知的進化を遂げて指令を発する立場にまわり、造化の仕事から倫理・道徳の摂理の管理へと進みます(個別霊としての妖精のこと)」(注25)と記されている。

このように妖精は天使の手足となって、“地球の進化(→自然現象のことで、人間側から見れば自然災害となる)”に寄与している。この世においても法令の定めで「非権力的な労務」を行う公務員が存在するのと同じである(→技能労務職または現業職公務員のこと。例えばごみ収集作業員、給食調理員、学校用務員などがあげられる。この分野は近年の行政民営化に伴って運営が民間に委託されつつある)。

 

<天使と人間との相違点>

スピリチュアリズムからは、人間は地上体験(再生など)を通して霊的成長をするが、天使は霊的成長に「物的な体験」を必要としない、この点が両者の最大の違いになっている。「年季奉公」という形での地上体験を積んだシルバーバーチは、霊的成長に物的な体験を必要としないレベルまで到達したので、これ以降は天使と同様な形で霊的成長をしていくことになった。このことを「私はもう二度と再生はしません。私にとって地上の年季奉公はもう終わっています」(注26)という表現で述べられている。

ただしシルバーバーチの「心(=霊の心)」の中には、「私もまだきわめて人間味を具えた存在です。誰に対しても絶対に人間的感情を抱かないと云うところまでは進化しておりません」(注27)と述べているように、いまだ心の中に人間味を残す進化レベルに留まっているという。この点が最初から霊的存在である天使の「心(=霊の心)」とのあり様の違いになっている。

 

<天使と人間との共通点>

スピリチュアリズムでは天使と人間はともに「神の分霊を宿した個的存在」として、神によって創造された“永遠の旅人”であるとされている。人間は「同胞のために自分を役立てることによって神に奉仕する」(注28)が、天使は高級霊界において「宇宙の経綸の仕事(神の摂理を執行する)を通して神に奉仕する」。この仕事によって天使はさらなる霊的成長を果たすことになる。

さらに人間は神から自由意志を与えられたことによって「人間も永遠の創造的進化の過程に参加する機会が持てることになった」(注29)。 他方“造化の大事業”に携わる天使は、担当する分野において自由意志の行使が許されており、その結果、造化において千変万化の多様性が生まれたという(注30)。

このように天使と人間は「神の分霊を宿した被造物」「個別霊」「自由意志を持つ」「神の創造行為に参加する」という点で共通性を持っているが、神の分霊の顕現の程度が大きく異なっている。

 

<2.聖書・教義について>

①.聖書とは何か

☆『新訳聖書』と『旧約聖書』

キリスト教の『聖書』は、英語で「The Bible」と必ず定冠詞を付けて用いられる。プロテスタントの教会では、旧約聖書39巻および新約聖書27巻が聖典とされるが、聖典の範囲は教会や教派によって、また時代によっても異なる。なお『聖書』の本文そのものは現存せず、全て写本である。旧約や新約の「約」とは神と人間の契約を意味している。したがって「旧約」とは神と人間の古い契約のことで、「新約」とは新しい契約のことをいう。

 

ヘブライ語聖書(旧約)のみを聖典とするユダヤ教は、自分たちの『聖書』を旧約とは言わない。2世紀初期にキリスト教会が「旧約・新約」のネーミングを行ったもので(注31)、ユダヤ教徒は聖典を「旧約」と言われることを嫌うという。「旧約」とはあくまでもキリスト教から見たネーミングのことになる。

プロテスタントが使用する『聖書』とカトリックが使用する『聖書』とは、多少内容が異なる。『旧約聖書』にはカトリックが認めた「書」の中には、プロテスタントが認めないものもある。またカトリックの場合には、『聖書』に注釈を付ける習慣があるが、プロテスタントの場合には「聖書のみ」の立場から、『聖書』の文言のみで、その解釈は読む人に任せるという習慣がある。

 

☆カトリックの考え方

カトリックは4世紀にローマ帝国の国教(→313年のミラノ勅令で公認されて、391年に国教に昇格した)となったが、それ以来ローマ教皇を頂点として、その下に司教区を管轄する大司教や司教を置くという形で、厳格な階層構造の組織を作り上げてきた。このような組織制度上の問題として、権威主義に陥り易いことや、ともすれば聖職者の都合のいいような「聖書解釈」が行われ易いという点が指摘されている。

プロテスタントでもカトリックでも『聖書』は最も大切な書として扱われているが、その理由は「聖書には神の言葉がある」と信じられているからである。しかしプロテスタントは「聖書のみを認める」のに対して、カトリックは伝統的に「聖書と聖伝を認める」立場をとってきた。

 

キリストが復活した後の数十年の間、徐々にキリスト教徒が増えて教会が作られたが、この期間、『新約聖書』は存在していなかった。そのため教会を創設した使徒たちはキリストの教えを口頭で信者に伝えていた。それが後になって「聖伝」または「伝承(使徒的伝承)」と名付けられて文章化された。カトリックでは『聖書』と同様に、これらの「聖伝」も初期教会以来、大切にされてきた。

カトリックでは「法王→大司教→司教→神父→信者」という形でヒエラルヒーが出来上がっている。教会は信者に対して、『聖書』の解釈とキリスト教の正しい理解を「神父→信者」と言う流れで教えてきた。そのため信者が勝手に『聖書』を解釈することは許されていない(注32)。

 

☆プロテスタントの考え方

15171031日ドイツ人のルターは贖宥状(通称「免罪符」という)に抗議する「95箇条の討論提題」を発表して、これをヴィッテンベルク城の教会の扉に打ちつけた。これがプロテスタント宗教改革の始まりとされている。さらにルターは1520年に「三大宗教改革文書」を発表した。その内容は第一の書として「カトリックの厳格な階層主義を批判して聖職者の権威を否定、ドイツ貴族は教皇権力から独立すべきこと」を説き、第二の書として「カトリック教会の秘蹟制度を否認」し、第三の書として「キリスト者の自由」を説いてキリスト者は「信仰によってのみ」自由であると述べた。

 

聖書に関しては、一般にキリスト教徒は「神ご自身が聖書の作者である」「聖書は神の言葉である」「聖書は誤謬を含まない真実のみが語られている」と考えている。ルターは「純粋な聖書の世界、使徒たちの時代へ回帰せよ」として、『聖書』から逸脱したローマ・カトリックを激しく攻撃した。このような経緯があるため、プロテスタントは『聖書』を字義通り受け止める傾向が強い。

 

プロテスタントではカトリックの「聖伝」と「教会の教え」は認めず、「聖書のみ」という立場をとってきた。ドイツではプロテスタント(ルター派)のことを「ドイツ福音主義教会(Evangelische Kirche in Deutschland)」と呼んでいるが、この名称は文字通り「聖書(福音)のみ」を表しているという(注33)。このようにプロテスタントでは「個人の聖書研究」と「信仰義認」の方が、教会(聖職者)の解釈よりも重きが置かれてきた。そのため字句通りの聖書解釈が起こりやすくなる(→アメリカにおいて「特殊創造説」が生まれてくる背景がここにある)。

カトリックは『聖書』の他に聖伝を権威あるものとするが(→聖伝とは使徒伝承などのこと)、プロテスタントでは認めず、カトリックは『聖書』から逸脱しているものを多く持っていると批判している。

 

☆スピリチュアリズムにおける見解

定評ある高級霊からの霊界通信では『聖書』を次のように見ている。

『聖書』の創世記は当時の宇宙観に基づいて書かれたものであること。神の啓示はその時代の欲求に見合ったもので、その時代の人間に理解できる範囲で授けられたものであること。『聖書』には後世の人たちによって多くの事実でない記述が付け加えられて大幅に改ざんされていること。そのため『聖書』の記述は神の教えとは違ってしまったこと。このような点が指摘されている。

 

高級霊のシルバーバーチは「聖書に書かれていることにはマユツバものが多い」「出来すぎた話は全部割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから」(注34)と手厳しく批判している。高級霊のインペレーターはさらに厳しく、聖書の伝統的解釈である「聖書無謬説(逐語無謬説)」の誤りを指摘している。それによれば「霊的通信のほとんど全てが象徴性を帯びている」「所詮象徴的表現の域を出るものではなく、そのつもりで解釈して貰わなければならぬ。神について霊信を字句通りに解釈するのは愚かである」「神の啓示はそれを授かる者の理解力の程度に合わせた表現で授けられるもの」(注35)であると述べている。

 

調和哲学を説いたA.J.デービス(Andrew Jackson Davis1826年→1910年)はキリスト教に関して次のように述べている。

デービスは「イエスはごく当たり前の人間であり神ではない」が、同時に素晴らしい人格と驚異的な霊能を具えた人間、つまり「イエス人間説」に立っている。さらにデービスはキリスト教の教義の「原罪や贖罪、永遠の地獄、特別な神の寵愛や偏った懲罰といった考え方」は全て人間が考え出したものであること。『聖書』は有益な書物であることは一応認めるが、その価値はごく一般的な意味での価値であって神聖なものとは見ていないこと。『聖書』にはイエスが言った通りのことが記録されていないなど。このように指摘して批判している(注36)。ここからも分かる通りデービスの説は、定評ある高級霊からの霊界通信とほぼ同じ内容となっている。

 

②.贖罪説について

☆キリスト教の考え方

原罪とは“アダムとイブ(人祖)”の罪のことで、人類の歴史の出発点にある罪だから原罪と呼んでいる。人祖が罪を犯したのだから「全ての人間は原罪を背負って生まれてくる(→受胎の瞬間からと言う意味)」とキリスト教では教えている。罪には原罪(→自分の自由意志と自己責任の範疇外の罪であり、いわば“遺伝”として伝播した罪のことで「霊魂伝遺説」といわれている)と自罪(→自分の自由意志と自己責任の範疇内の罪であり、自ら犯した罪のこと)の二種類があるとする(注37)。

 

キリスト教では前者の原罪から赦されるためには、イエス・キリストが全ての人間に代わってその罪を負って、十字架上で死んだということを信じる以外にはないと説いている。これは2000年前にイエスが全ての人類、つまり過去に生きた全人類、現在生きている全人類、将来生まれてくる全人類の罪を一身に受けて死んだ「代理としての死」を信じることであり、この死によって「罪人としての人間と神との和解」ができたということを信じることとされている。

 

原罪説の成立過程を見ると、最初にパウロは「ローマの信徒への手紙、第5章」の中で原罪説を説いた(注38)。このパウロの原罪説をアウグスティヌス(354年→430年)は、自著『自由意志論』(388年~395年)の中で神学として確立させたとされている。

アウグスティヌスは著書の中で「罪は神が人間に与えた自由意志によって生じるが、この自由意志は、原罪の束縛の下にあって、善への自由、愛への自由を失っている。これを回復させ、意志を自由にするのは神の恩寵であり、恩寵はキリストを信じる者に聖霊によって与えられる」と説いた。

 

☆スピリチュアリズムにおける見解

贖罪(しょくざい)とは罪を“贖う(死と罪からの救済)”ことをいうが、高級霊シルバーバーチは因果律の観点から「いかなる人間も自分以外の者のために代わって苦しみを受けることはできない。自分を成長させるのは自分であり、他人は代わって行うことは出来ない」(注39)と述べて、贖罪説を因果律の観点から否定している。

 

これは次の文言から読み取れる。「贖罪説は神学者が時代の要請にしたがってでっち上げた教説の一つです。自分が過ちを犯したら、その荷は自分で背負ってそれ相当の苦しみを味わわなくてはなりません。そうやって教訓を学ぶのです」(注39)。

高級霊インペレーターも同様に「人間の罪を贖ってくれるものと見なすことは赦し難い欺瞞である」(注40)。さらに「アダムとイブの堕罪の物語は根拠なき作り話」(注41)であると贖罪説を厳しく批判している。

またアラン・カルデック編の『霊の書』でも「人類の堕落と原罪とは自由意志のことを言い、比喩でサタンとされるのは未浄化霊の誘惑のことを指す」(注42)と述べている。このようにスピリチュアリズムでは贖罪説を否定している。

 

③.告白(告解)について

☆キリスト教の考え方

カトリックでは告白の行為のみを指す「告解」よりも、現在では「ゆるしの秘跡」という表現の方が一般的であるという。ちなみに2010年発行の『カトリック教会のカテキズム要約』では「ゆるしの秘跡」となっている(注43)。

罪の告白(告解、ゆるしの秘跡)は次のような手順で行われる。「心から悔い改めて」→「権限を与えられたキリストの代理者(司教・司祭)に罪を告白し」→「代理者を通してゆるしを受けて」→「その後に命じられた償いを果たす」。

告白者は神に自分の罪のゆるしを願い、神がこれに応えてその人を赦す。その際、司祭はキリストの道具となって働いているだけであるという。

 

なおプロテスタントでは告白(告解)は秘蹟(サクラメント)ではないとしている。プロテスタントでは、サクラメントは「洗礼」と「聖餐」の二つのみを指している。ルターは告解をキリストの制定した秘蹟とは認めなかった(注44)。カトリックの告解肯定は、ヨハネによる福音書を根拠にしているという(注45)。

 

☆スピリチュアリズムにおける見解

スピリチュアリズムでは「因果律の法則は誰にも介入することは出来ない」として、キリスト教会が行っている行為の矛盾点を指摘している。高級霊シルバーバーチは「(告白は)正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪が拭われるものではない」(注46)と述べている。犯した罪は自ら責任を取らなければならないのが神の摂理であり、この摂理は依怙贔屓なしに万人平等に作用するものとして、“適用における公平さ”をシルバーバーチは説いている。

さらにシルバーバーチは「もしも自己中心の生活を送った者が、死の床での信仰の告白一つで、生涯を人のために捧げた人よりも高い界層にいけるとしたら、それは大霊を欺き、完全な公正が愚弄されたことになる」(注47)とその矛盾点を指摘している。

 

このようにカトリックの「ゆるしの秘跡」は因果律の観点から見て問題がある。手におえない犯罪者が、死に際して告白することによって、一転して偉大な人格者に変貌してしまえば、もはや因果律の法則は成り立たなくなる。性格に問題のある人が告白をきっかけにして、自ら努力してその性格を矯正しない限りは、死後の世界に行っても依然として従前の性格を持ち続けることになるからである。

生前と死後の違いは、ただ単に肉体があるか否かだけである。いわば死は人間の生活の場を、地上世界から霊の世界に変えるだけであり、人間の人格そのものを変えるわけではない。その人の生前の個性・性格・習性・性癖等のトータルな人格は、死後も全く同じ形で持ち越すことになる。死後「明確な霊的覚醒を得る」まではそのまま維持するので、凡人が死んで直ちに聖人となることはない。

 

④.イエスの復活・再臨について

☆キリスト教の考え方

イエスは墓から“復活”したことによって、弟子たちの人生を変えた。パウロの『コリントの信徒への手紙(1)』には、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です」(新共同新訳151314)とある。このようにいったんはイエスを見捨てた弟子たちは、イエスが“復活”したことによって、イエスが伝えた福音を宣教した。いわば“復活”によってキリスト教が誕生したともいえる。

キリスト教によれば、十字架刑によって殺されたイエスを神は復活させた。そして生前のイエスは「自分の身体によって神を人々に示された」が、復活したキリストは「自身の身体である教会」を作って、人々を自分と出会わせて、そこで神に導かれるようにはからったという。いわば「神」→「キリスト=教会」→「人々」の関係になる(注48)。

 

☆スピリチュアリズムにおける見解

この現象はスピリチュアリズムからは次のように説明できる。イエスは処刑された後、物質化するために自らの霊体の周りにエクトプラズムを引き寄せた(→近くにエクトプラズムを供給する霊媒体質者がいた)。そして物質化現象に必要な条件が揃った段階で、その物質化した姿を弟子たちに見せたということになる。

この“イエスの復活”は心霊研究で云うところの物質化現象であり、クルックス博士の面前に現れたケーティ・キング霊と同じ現象である(注49)。そこには何ら奇跡的な要素はない。

 

さらにスピリチュアリズムでは、キリスト教の教義にある「世界の終末の日にキリストが再びこの世に現れる」という再臨についても次のように説明している。これは「肉体の復活ではなく“霊”の復活のこと」である(→肉体に宿っての再臨ではない)。スピリチュアリズムの普及活動こそが「キリストからの福音である」とも述べている(注50)。

 

⑤.洗礼について

☆キリスト教の考え方

キリスト教では洗礼は「キリストの死と復活という“過越(すぎこし)の神秘”にあずかることであり、死からいのちへうつされること」と説かれている。「過越」とは今から3400年前のエジプトでイスラエル民族に起こった出来事で、「エジプト全国の長子が主の使いに滅ぼされた夜、門に子羊の血のついているイスラエルの家の上をその災いが“過越し”無事だったという故事」(注51)のことを指している。

 

キリスト教における洗礼のための前提条件には「イエス・キリストの福音を信じ、これに応えて生きると言う決意(回心)を公に告白すること(→幼児洗礼では親が代行する)」(注52)がある。カトリックでもプロテスタントでも洗礼は、サクラメントの中でも最も根本的で重要なものとされている。

 

☆スピリチュアリズムにおける見解

シルバーバーチは洗礼について次のように述べている。「人間は神の摂理に忠実に生きることが大切であり、洗礼を受けたからと言って、人間の霊性は何ら影響を受けることはない」「赤子に二三滴の水を垂らしたからといって、それで摂理が変えられるわけではない」(注53)。なぜなら水という物質で神の摂理が変わるわけではないから。

いわば洗礼とは「キリスト教という共同体」に加入するための一種の儀式と見ることが出来る。したがってスピリチュアリズムでは、本人の霊性の向上と結び付かなければ、取りたてて「洗礼という儀式」に特別な意義はないとみる。

 

⑥.その他の問題点

☆永遠の生命

新約聖書の中でたびたび出てくる言葉に「永遠の命」がある。この言葉はキリスト教信仰の中心テーマの一つとなっている(→信仰なくして救いは得られない:注54)。

スピリチュアリズムでは「永遠の生命」は、ある宗教やある信仰を持つ者だけに与えられる独占物ではないとする(注55)。人間は誰しも「永遠の生命」を持っている「ゴールなき旅」をいく旅人であるから。

 

☆教会・教義について

イエスの“復活”によって生き方が変わった弟子たちは、聖地エルサレムに集まり、イエスが“復活”したとされる日曜の朝に集会を持つようになった。その後この集会のことを「教会」と呼ぶようになった(→エルサレム原始教会の成立)。新しいメンバーが増えてくると入会儀式として「洗礼」を行うようになった(注56)。

ローマ・カトリック教会は「第二バチカン公会議」(1962年~1965年)において「教会を神の民としての信仰者の集い」であることを再確認した。これにより「教会はキリスト教信仰者の集まりを指す」言葉になった。

 

カルヴァンは、教会には二種類あって「目に見えない教会(普遍的、唯一の教会)」と「目に見える教会(現実にある各個の教会)」があると述べている(注57)。

教義に関してはプロテスタントの諸教会では、「聖書を信仰の規範」としているため、教義に対して比較的自由な態度をとっている。これに対して階層構造的なカトリックでは「神父→信者」の関係を前提として、「教導職による教義の新たな決定の権限と全教会に対する拘束力を認めている」(注58)ことから、信者による勝手な解釈を許していない。

 

シルバーバーチによれば「教会をイエスは“白塗りの墓”」と表現したという(注59)。“白塗りの墓”とは、霊性のカケラも見られなくなった、ただの建造物のことを指すという。

スピリチュアリズムでは、宇宙に遍満している霊的エネルギー(=霊力)は教会を通して信者に配分されるものではなく、霊的摂理に則った生活を送ることによって誰にでも「霊的要素⇒中間物質⇒物的要素」という通路を通って流れてくるとする(注59)。

なおシルバーバーチは教会の組織や教義を一貫して非難している。「教義は必ず足枷になる。魂を縛るもの、魂の自由な顕現を妨げるものは、すべからく排除しなくてはならない」(注60)と述べている。宗教は教義ではないからである。

 

☆キリスト教徒の独善性について

キリスト教は独特の救済論を持っている。パウロの伝えた「福音」とは「ユダヤ教の神に仕え、復活させられた神の子イエスを信じ、聖い生活を送る者はその裁きから救われ、終末前に死んでしまった信者は復活し、終末時に生きている信者は生きたまま天に挙げられ、永遠に生きる者となる」(注61)と言う内容であった。

 

キリスト教では、イエス・キリストを受け入れた者(=キリスト教の信者のこと)は、聖なる生活を送ることによって救済にあずかれると述べている。キリスト教はこの「福音」を全世界に広めて、非キリスト教徒をクリスチャンに改宗させること、そして彼らに聖なる生活を送らせること、これらを内容とした宣教活動を自らの使命としている。この宣教活動に「民族的優越感と家父長主義」(注62)が結びつくことで、キリスト教の独善性がクローズアップされてくる。

 

高級霊のインペレーターはキリスト教徒の独善的な態度を次のような言葉で戒めている。

大半のキリスト教徒は、「自分たちこそイエスが保証した天国の承継者である」「神は自分たちの為に生き、自分たちの為に死すべき唯一の息子を送ってくださった」「自分たちは神の直属の僕によって授けられたメッセージの啓示を受け、かつてそれ以外のメッセージが人類に授けられたためしはない」「自分たちのみに明かされた教義をインド、中国人、そのほかの異教徒すべてに説くことが自分たちの絶対的義務であると思い込んでいること」「その啓示は完全にして、神の最後のお言葉であると思い込んでいること」。このような「キリスト教徒の独善的な言説は即刻捨て去るがよろしい」と厳しく批判している(注63)。

この独善性が2000年の長きにわたって、世界に混乱と紛争をもたらした元凶となっている。キリスト教では「教会の外に救いなし」と考えてきたため、積極的に宣教を行ってきた歴史がある。

 

<3.死後の世界>

①.キリスト教の死後の世界

☆死ぬとどうなるか

キリスト教の死生観の基本は、「主なる神は、土の塵で人(=アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記27)として、人間の生命は神から与えられた「賜物としての生命理解」にある。

しかし『聖書』は死後の生に関しては多くを語らない(注64)。

パウロの死後生は「一般的な罪人がいく地獄」と、「重い罪を犯した者がいく地獄」とに分けた。この世界観がカトリックが支配的な中世の社会になると、ダンテの『神曲』に端的に描かれているように、前者の「一般的な罪人がいく地獄」が「煉獄」となって、死者の住む世界は「天国」と「煉獄:注65」と「地獄」になった。「煉獄」とは現世で犯した罪に応じて罰を受ける場所で、ここで清められて天国に入って行くとされている。

 

現在のキリスト教では、死者がいく世界として「陰府(よみ:非活動的な存在の場所)注66」があり、生前の罪業によって罰を受ける「地獄:注67」とは区別されて使われている。一般的なキリスト教徒の死後観は「人は死ぬと最後の審判まで陰府(よみ)で待機する」。または「墓の下で眠り続ける」というもの。その後、キリスト教徒は復活するという。

復活した人間は「魂」と「肉体と類似した身体(肉体は土に帰っているため)」を持って最後の審判を受ける。この審判で救済されれば天国(神の国)へ行き、永遠の生命が与えられるが、救済されなければ永遠の死を迎える(→悔い改めない者や贖われない者は永遠に地獄で苦しみ続ける)としている(注68)。

このようにキリスト教では、信徒を「天国に行く者」と「地獄に行く者」とに分断する。概してキリスト教が説く死生観は観念的で説得力がない。そのためキリスト教徒は「死後生存」という慰めを求めて、「キリスト教的スピリチュアリストに改宗」していく。

 

☆霊魂の存在

『聖書』の人間観は「人間は肉体と霊からなっている」とする。『旧約聖書』の「創世記」には、土の塵から形づくられた身体に命の息が吹き入れられて、「生きるもの」となったとする人祖アダムの創造物語がある。

霊魂の最終的運命は、最後の審判まで「陰府(よみ)で非活動状態」で待機するので、一時的に肉体と霊魂が分離した状態(肉体は土にかえるので陰府では霊魂のみ)でも生きていけるが、霊魂はそれ自体では完全な人間ではないので、最後の審判において霊魂は再び体(=肉体と類似した身体)と結びつけられると説いている(注69)。

『聖書』の記載によれば、古代イスラエルにおいては、一般に霊媒は厳禁されていた(イザヤ書81920)。この考え方がキリスト教に引き継がれて、人に憑依する霊はもっぱら悪魔や悪霊と看做され、霊媒は迷信として忌避された(注70)。この考えが現在までキリスト教徒が霊媒現象を嫌う理由となっている。

 

☆墓地で地縛霊となっているケース

熱心なキリスト教徒は『聖書』を字義通り解釈している。そのような信者の死後、一部には最後の審判の日を待ちながら死体の埋葬されている墓地に留まり続ける霊がいる。そのような霊は、自らの中に「(ただひたすら)ガブリエルのラッパが聞こえるまで墓地で待つ」という想念体を作り上げている。これはスピリチュアリズムの観点から言えば、ただ待つだけの地縛霊である(→地縛霊には待っているという意識や時間の感覚はない)。

 

このような霊の場合には「自分は待っているのだ」という事実に気がつけば(→自分は死んでいるということを意識することが前提となるが)、その想念体を自ら破ることができる。しかし地縛霊となっているため、気がつくまでは“自分が作り上げた想念体という牢獄”から出ることは出来ない(注71)。

一般に霊的真理から外れた教義を持つ教団の熱心な信者ほど(→まじめで熱心なクリスチャンほど)地縛霊になり易い。このように霊的知識の欠如した信仰者は、善人であるとか、信仰心が篤いとか、倫理道徳心が高いといったことには関係なく、霊的な罪を犯すことがある。個人の思惑には関係なく因果律は厳然と働いている(注72)。

 

②.スピリチュアリズムにおける見解

☆死から中間境まで

<死の直後の状況>

浅野和三郎は日本における「スピリチュアリズム(心霊主義)&サイキカル・リサーチ(心霊研究)」の草分けの一人である。浅野は1937年(昭和12年)23日急性肺炎で死去したが3月14日の交霊会に出現した(注73)。出現した“霊(浅野和三郎の霊)”は、死に際して自らの肉体から幽体が分離していく様子を次のように説明した。

 

浅野和三郎と名のる霊は「自分の死が切迫して来て幽体離脱を人にも見せ(→地上側からは斉藤某氏が霊視していた)、自分でも見て置きたいと思い神様にお願いを致しました。いよいよ臨終が近づくや、自分は既に覚悟しているので、自分の心は極めて平静で、現世の事はことごとく神様にお任せして霊界に行くことは嬉しいことと思いました。自分は幽体の離れていく様子を心静かに眺めていました」「幽体は徐々に離脱し始めました。その時の肉体と幽体との連絡を見ますと、成る程、書物にある通り、白い紐が無数に付いていて、その中で臍の紐が一番太く、次が頭部の紐で、足の紐は更に細く、その他の紐は一層細いものでした」「(幽体の離脱の状況は)頭の方から離れ、漸時足の方へ行きました」「(その時の感覚は)何か或る物を置いていく感じでした。そして全く軽々とした気持でした」「(その時自分の肉体を)見ました。あまり好い感じではないが、六十余年間もお世話になったと思い、これに対して感謝しなければならない感が起こりました」「(幽体の感じは)上に昇ったようでした。しかし暫くはその近所に居りました。時間にして、約二時間位かと思います」と述べている。

 

<死とは何か>

スピリチュアリズムでは「死」とはシルバーコードの切断であり、物的世界の振動数から霊的世界の振動数に変化する現象のことである。いわば波長の荒い肉体(物的要素)という衣装を脱ぎ捨てて、一段と精妙な霊的波長たる幽体(物的要素の強い霊的身体)という衣装をまとう現象である。そこには物的波長から霊的波長に転換するための波長の調整が必要となるため、それが「深い眠り」という形で生じる、一種の断絶がある。この「深い眠り」は物的世界の振動数からより細かな振動数を持つ身体へ移行するために必要な現象であり、その準備として一時的な意識の中断が生じる(→パソコンでインストールを完了させるために再起動するようなもの)。これが「肉体の死」の現象である。

これに対して「幽体の死」とは、幽体から「物質性という程度の低い要素が次第に消えてより精妙化されていく過程」をいうので断絶はない(→パソコンの再起動はない)。

シルバーバーチが述べているように霊的世界(=霊界)においては「何度も死に、何度も誕生する」(注74)ことになる。

 

<死の眠り>

肉体と霊体とは(→人間の霊体とは物質性が濃厚な霊的身体のこと、すなわち幽体のこと)、二本の太いシルバーコードと数多くの糸状の細いシルバーコードで結ばれている。死の現象とはこれらの糸状の細いコードが切断されることから始まって、最後に二本の太いシルバーコードが切断された時に完了する。その切断の瞬間(死の瞬間)は、一般にはほとんど意識がない(→浅野和三郎の場合は特別に死の瞬間を見せてもらった)。この状態を「死の眠り(深い眠り)」と呼んでいる。

 

眠りから目覚めまでの時間(意識の回復時間)はその霊のレベルの程度によって異なる。たとえば霊的知識がない、迷信にがんじがらめになっている、間違った来世観や教義・神学を持っているなど、これらは死後の目覚めを妨げる要因となる(注75)。この場合は死後の世界への適応力が付くまで、長時間の「睡眠」と「休息」が必要となる。

少なくとも最低限の霊的知識(→いわゆる「霊魂説」のこと)さえあればスムーズに霊的世界に順応していけるので、地上時代に霊的知識を持つことの重要性がここからも分かる。

この点についてシルバーバーチは「霊的なことを何も知らない人は、死という過度的現象の期間が長引いて、なかなか意識が戻りません。さしずめ地上の赤ん坊のような状態です」(注76)と述べている。

 

<中間境(冥府)>

死の関門を通過した人間霊は、中間境(→死後の世界の一つで幽界の低い界層のこと、冥府ともいう:注77)でまどろむような状態の中で「地上人生の反省(→言わば自分の地上人生を自分で審判すること)」と「波長(振動数)の調整」を行う。そして中間境に滞在中に霊の世界の衣装である幽体を完成させる(→死によって肉体を脱ぎ棄てたが、半物質状の幽質結合体を幽体の周りにまとっている。これを中間境で脱ぎ捨てて幽体だけとなる)。

中間境(冥府)という界層は、“人間という物的衣装を身に付けた者”は、一人の例外もなく全員が長短の違いはあるが滞在する場所である。イエスでさえもこの境涯に入って、霊的調整という形で暫しの休息を取っている(注78)。

 

この中間境に滞在する期間は長短さまざまである。長い霊になると何百年も霊的調整のため、あるいは地縛霊の状態のままで滞在することになる。このように霊によってはこの中間境で滞在する期間が地上生活よりも長期にわたる場合があるため、マイヤース霊は便宜一つの界層(冥府)として述べた。なお地縛霊はいまだ半物質状の「幽質結合体」を脱ぎ捨てる(脱皮のこと)ことが出来ずにいるため、中間境(=幽界の下層世界)から脱け出ることが出来ない霊ということになる。

 

☆幽界の下層世界

<下層世界に住む霊>

幽界の下層世界で物的波長から完全に抜けきらない未熟霊の場合は、地上時代と同じパターンの生活を営むことになる。これは物質性の濃厚な幽界の下層世界では、新参霊にショックを与えないための配慮から、全ての点で地上とそっくりな世界となっている。たとえば「霊的な覚醒」があるまでは、朝・昼・夜が自分の周りに出現して地上時代と同様な時間の中で生活が出来たり、紅茶が飲みたいと思えば目の前に出現したりと、自分自身で作り上げた内的な思念の世界が自分の周囲に繰り広げられる(注79)。

霊界では周りで生じる変化との関連において、自分の霊的成長と進化を意識するので、時間というのは「そうした変化との関連における尺度にすぎない」ことになる。そのため無意識でいる間は、時間は存在しない。

 

地縛霊とは、いまだ「死の自覚がない」ため(→または「明確な死の自覚」がなく)、身体は霊界にあるにもかかわらず、その世界の霊的波長に感応できずに、いつまでも物的波長の中で暮らしている霊をいう。その霊の内部から霊的理解力が芽生えてくれば、霊的視力が開けて周りが見えてくる(→物的波長から霊的波長に転換が完了すれば次第に周りの霊的波長に同調できるようになるので)。

なお自分が死んだという「死の自覚」は持ったが、いまだ「霊的自覚」が芽生えない霊の場合は(→霊としての実相に目覚めていない霊)、幽界の低い界層から霊界生活をスタートする(注80)。この界層にはモノの考え方がきわめて物質的な霊が集まっている。

 

<モノの考え方や習性>

死とは単に肉体がなくなるだけのことで、その人のものの考え方や習性は生前と何ら変わらない。霊性レベルの低い霊が中間境を出て幽界に落ち着く先は地上とそっくりな世界(→幽界の低い界層)である。そのため本人が「霊界にも昼と夜の変化がある、食事を摂らなければならない、眠らなければいけない」などと思っている場合は、地上時代と同じような行動をとることになる。なぜなら霊の世界は思念が実在となる世界だから(→思いが現実となるので、自分の周りに朝・昼・夜を作り出すことになる)。

 

その人の好みは長い間の習慣によって形作られるが、このことをシルバーバーチは「習慣は精神的な属性であり、死後も存続します。生涯を英国だけで送った人は当然英国風の住居の様式に慣れ親しんでおり、したがって同じような様式の家に住むことになります。そういう習慣が残っているからです」と述べている。このように霊の世界では生活の連続性という形で、新参者が慣れていくための配慮がされている(注81)。

 

浄化のための世界>

地上を去った霊は、中間境で「地上人生の反省(→言わば自分の地上人生を自分で審判すること)」を行って、霊的波長を整えて霊の世界(幽界)に出ていく。中間境における「地上人生の反省」如何によっては、幽界が浄化のための世界に変わる場合もある。たとえば地上時代の“歪んだ欲望(=残忍性・傲慢さ・貪欲・淫乱等)”が魂に深く染み付いている霊にとっては、その歪んだ内面の世界が自分の周りに現実の世界として、そっくりそのまま出現することになる(→その霊にとっては作り上げた世界が、現実に存在する客観的な世界となる)。そしてその歪んだ性癖や習性が苦悩を引き寄せることになる。このような霊は“魂のシミ抜き”をして「霊的自覚」が芽生えてくるまでは、幽界の下層世界に留まることになる。

 

☆霊的自覚が芽生えると

<積極的な歩みを始めた世界>

霊的自覚が芽生えると言うことは、「霊」として何を為すべきかを明確に自覚する意識が内部から芽生えてきた状態をいう(=明確な霊的意識を持った状態)。このような意識が芽生えてきた霊は“まどろみから脱して、霊的向上に向けて「奮闘努力を伴う利他的行為」を積極的に行う世界へと移行していく(→幽界の上層界へ)

の界層で次第に霊的波動が精妙化されてくると、少しずつ地上時代の性向や性癖が消えてゆき、興味の対象も「物事の本質:実相」を知ることに向いていく。それと並行して「本来の私(=インディビジュアリティ)」の霊的意識が表面に浮き上がってきて(→本来の私を覆っていたベールが次第に薄れてくる)、その存在を徐々に自覚するようになり、意識が拡大していく。

 

<本来の私という霊的意識>

表面に浮き上がってきた「本来の私」の中に、地上時代の意識(パーソナリティ)は徐々に溶け込んで、霊的調整(物質から霊へ)が完了していく。完了と同時に「一種の眠りに似た状態」(=霊的波動の調整)に陥り、目覚めると「本来の私」の霊的意識の進化のレベルに見合った界層(→その人の霊格が霊界において住む界層を決める)に、自動的に引き寄せられて「虚の世界(=幽界)」から「実相の世界(=霊界)」に完全に移行する。

霊界に移行すると「類は友を呼ぶ(似た者同士は自然と寄り集まる)」ので、完璧な親和性を持った自分と似通った霊グループ(=霊的家族、意識の共有化の世界)の中に入っていく

 

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