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ISF大会、英米の霊媒探訪(昭和期)

目 次

 

①.ISF大会参加

ISF会議 

・第三回ISF会議

 

②.欧米における心霊事情の視察

・ウイリアム・ホープ

・霊媒マージャリー

・支配霊の霊格について

・ウォルターの指紋

 

③.ISF大会参加と物理霊媒出現との連動

ア)亀井三郎との出会い

・時期の到来

・浅野の願い

・亀井三郎の能力

イ)系統の異なる霊媒の評価

・霊媒の系統

・福来系霊媒に対する眼差し

・霊界側の意図

 

④.浅野和三郎のナショナリズム(国粋主義)

ISF大会参加とナショナリズム

・浅野の固着思想によるスピリチュアリズムの変容

・日本文化の世界

 

<注1>~<注20

 

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①.ISF大会参加

ISF会議

各国のスピリチュアリストたちは、1923年にベルギーのリェージュに集まって「国際スピリチュアリスト会議(International Spiritualist Congress)」を開催した。そしてこの会議で「国際スピリチュアリスト連盟(International Spiritualist Federation、略称ISF)」が結成された(注1)。

ISFの第二回会議は1925年にパリで開催され、この会議で次の四か条がスピリチュアリズムの基本原則として採択された(注2)。

①神が存在すること。

②人間は霊であること、その霊は中間物質によって肉体に結合していること。

③霊は不滅であり完成に向けて進化していること。

④人間は自分に対して責任を負うと同時に集団に対しても責任を負うこと。

 

戦後の会議でISFの基本原則は上記の四か条から、「①肉体死後の個性存続、②現世と霊界との間の通信が可能であることを事実として認める」の二か条に変更された。この基本原則は「霊魂説」そのものである。

ISFは「スピリチュアリズムの土台部分」たる「霊魂説(→物理的心霊現象を目的とした交霊会や近親者が出現する交霊会で明らかとなった霊的真理)」を基本項目として掲げて、その上部構造に位置する「神の概念、人類同胞思想、霊魂の永遠(再生を含む)の向上」等の「スピリチュアリズム思想(→高級霊の霊界通信によって人類にもたらされた思想)」については、「加盟団体が抱く原理に意見を表明せず」(注2)とした。

 

このように従来基本原則として掲げていた「スピリチュアリズム思想」を引っ込めて、「霊魂説」という霊的事実を前面に押し出すことによって(→ともすれば様々な解釈がなされる思想から霊的事実へと軸足を移動した)、バックグラウンドの異なる多くの組織をISFに結集し易くさせたものと思われる。この変更によってISFを「スピリチュアリズム普及」の運動体の“前衛”と位置付けて、組織の役割を明確にしようとしたのではないだろうか。

 

☆第三回ISF会議

国際スピリチュアリスト連盟(ISF)の第三回大会は、昭和3年(1928年)97日から一週間の日程で、ロンドンのクイーンズ・ゲート・ホールで開催された。この大会には日本から浅野和三郎と福来友吉が参加した(注3)。

910日に各国代表の講演が行われた。日本からは浅野が演壇に立ち「近代日本における神霊主義」というテーマで講演を行った。この浅野の代表演説とは別に、福来は『日本の諸霊媒について行える念写の実験』(The Experiment of Thoughtgraphy with Japanese Mediums)という24ページの英文報告書を参加者に配布して、数分間のスピーチを行った(注4)。この福来の透視と念写に関する英文報告書は1929年(昭和4年)にオランダ語に訳されてアムステルダムにおいて出版され、さらに1931年(昭和6年)にはロンドンのライダー書店(Rider . Co. London)から英文著書(Clairvoyance and Thoughtgraphy)として出版された。これらの出版によって「念写発見者、福来友吉」の名は世界に知れ渡った(注5)。

 

②.欧米における心霊事情の視察

☆ウイリアム・ホープ

浅野和三郎はISF大会参加の機会を利用して、イギリス、フランス、アメリカ等で開催された心霊現象実験や交霊会に立ち会い、多くのスピリチュアリストとの出会いが持てた。浅野は1928819日、ロンドンから列車で3時間余りの場所にあるクルユーのウイリアム・ホープ(William Hope1863年→1933年)を訪ねた。ホープは当時のイギリスで最も有名な心霊写真の霊媒であり、そのホープを中心として結成されたのがクルユー団(Crewe Circle:またはクルー団とも言う)であった。ホープも他の霊媒と同様に「詐術論争と告訴の渦中」に巻き込まれたが、ホープの能力が真性であることは多くの研究者が認めている(注6)。

 

☆霊媒マージャリー

アメリカ・ボストン在住の霊媒マージャリーは、本名をミナ・クランドン(Mina Stinson Crandon1888年?→1941年)といい、夫はボストンで人望熱い外科医のルロイ・G・クランドンである(注7)。

1923年以降、マージャリー(=ミナ)は自宅で、ラップ音やテーブル浮揚などの物理的心霊現象を来客たちに披露するようになった。マージャリーの霊能力に関しては、19237月にハーバードの心理学者によって調査がなされたが、霊能の真偽に関する結論は出なかった。同年にマージャリーはパリで、ジュレイ博士(Gustave Geley1863年→1924年)とリシェ博士(Charles Richet1850年→1935年)による厳格な管理の下で実験を受けた。またSPRのメンバーによる同様な実験も受けている。双方の実験会とも素晴らしい成果が得られているという。

 

☆支配霊の霊格について

192369日に開かれた交霊会において、トランス状態に入ったマージャリーの口から男の声で「俺ならできると言っただろう」と発せられた。この声の主は1911年に鉄道事故で他界したマージャリー(=ミナ)の兄のウォルター・スティンソン(Walter Stinson)であった。ウォルター霊はこの時の交霊会が初出現であり、こののちマージャリーの交霊会の支配霊となった。

 

支配霊の霊格について、高級霊のシルバーバーチは「入神霊言霊媒にかぎって言えば、支配霊はかならず霊媒より霊格が上です。が、物理現象の演出にたずさわるのは必ずしも霊格が高い霊ばかりとはかぎりません。なかにはまだまだ地上的要素が強く残っているからこそ、その種の仕事にたずさわれるという霊もいます」(注8)と述べている。

一般に霊が物質に働きかけを行う際には、媒体となる中間物質(=半物質、幽質結合体)が必要となる。人間は霊体と肉体の二重構造になっているが、霊は中間物質(=半物質、幽質結合体)がなければ肉体に働きかけることは出来ない。このことから「地縛霊」(注9)や地上的習慣からいまだ抜けきっていない「低級霊」(注9)は、地上に影響力を行使しやすい。このため地縛状態を脱した低級霊は、物理的実験会では霊界の技術者として最も適している。

 

物理的実験会に霊界側の技術者として関与する霊は、一般に地縛霊の状態を脱した低級霊であり、これらの霊が霊団(→シルバーバーチの霊団やインペレーターの霊団など)に所属して高級霊の監督の下で大勢働いている。翻訳家の近藤千雄の解説によれば「ある程度その仕事に携わって霊的に向上してくると、代わって別の低級霊団が同じ仕事を受け持つと云うふうにして、よく入れ替わりが行われた。その種の霊にとっては、それまでの怠惰や罪の償いをする絶好のチャンス」(注8)となっていると言う。

このようなことから考えて、地上的習慣からいまだ抜けきっていない低級霊であるウォルター・スティンソン霊が、マージャリーの交霊会の支配霊となってもおかしくはない。

 

☆ウォルターの指紋

1911年に鉄道事故で死んだミナの実兄(→著書によっては弟という記載もある)のウォルター・スティンソンは、19256月の交霊会からは物質化して“5本の指を備えた手の形”を出現させるようになった。1926630日、かかりつけの歯科医フレデリック・コールドウェルを訪ねたマージャリーは「カー(Kerr)」と呼ばれる“歯科用の蝋型”の提供を受けた。その晩の交霊会でマージャリーはこの蝋型を用いて、中間物質(=エクトプラズム)をまとって「物質化」したウォルターの手から二個の部分的な指紋を採取した。

 

この指紋に関しては、1927年にマージャリーの母親が屋根裏部屋のトランクからウォルターの形見の剃刀を見つけ出してきて、その柄の部分から「指紋の断片」を検出している。この検出された「指紋の断片」と交霊会で採取された指紋との関連性については、専門家によって同一であると結論づけられた(→ただし異論が出されている:注10)。この「ウォルターの指紋」は1930年代初頭までには、200個近く製作されたという。

 

浅野はロンドンで知遇を得た英国心霊カレッジ主宰のマッケンジー夫妻を紹介者として、マージャリーの交霊会の参加がかなった。浅野は交霊会参加のため、1928年(昭和3年)1110日に豪華客船ベレンガリア号でイギリスを立ち、予定より1日遅れの1117日早朝ニューヨーク港に到着した。同日午後1時発のボストン行きの急行に乗り、午後6時過ぎボストンの駅に到着。そしてライム通り10番地の外科医クランドン邸にタクシーで向かった(注11)。浅野は1117日と18日の両日にマージャリーの実験会に立ち会い、この時に作製された「ウォルターの指紋」三個は彼によって日本に持ち帰られた。

 

③.ISF大会参加と物理霊媒出現との連動

ア)亀井三郎との出会い

☆時期の到来

浅野和三郎はスピリチュアリスト連盟(ISF)の国際会議に出席した際に、英米の多くのスピリチュアリストや霊媒と接触して実験会に参加する機会に恵まれた。これらの体験はその後の浅野がスピリチュアリズムの普及を進めていく上で、かけがえのない財産となった。浅野の古くからの友人である宮澤虎雄は「浅野さんの心霊研究は昭和37月より12月に亙る欧米心霊旅行によりエポックを画するに至った」(『心霊研究』昭和264月号)と述べている。この時の浅野の個人的な体験は、その後の日本の心霊事情にとってエポック・メーキングな出来事になった。

浅野は帰郷後に雑誌『心霊と人生』に「世界神霊大会の概況、ご挨拶にかえて所信を披露す」を掲載した。この一文から浅野は、日本においても「心霊現象の科学的研究」や「霊媒能力の実地応用」の必要性を痛感していたことが窺える(注12)。

 

浅野の今回の一連の体験には、その背後に霊界側の配慮が見て取れる。なぜなら帰国した翌年から、亀井三郎をはじめとする物理的心霊現象を得意とする霊媒が、浅野の周りに次々と集まってきたからであった(注13)。この状況を昭和4年以前における浅野の“霊媒発掘に注いだ努力”と比較してみると、「時期の到来」という言葉が実感として感じられる。この時期、次々と物理霊媒が浅野の周りに出現したが、これはISF大会参加に際して多くのスピリチュアリストや霊媒との交流が持てたことと連動している。このことから西洋での体験は、霊媒の扱い方や実験会の模様を浅野に体験させる狙いがあったものと推察できる。

 

☆浅野の願い

浅野は昭和3年にISF大会に参加して、西洋における心霊事情を視察した体験から、日本において心霊知識の普及のためには、「心霊現象の科学的研究」に耐ええる霊媒の出現がどうしても必要であるとの思いを強く抱き続けていた。

そんな浅野のもとに、昭和45月に亀井三郎(1902年?→1968年:本名は松森俊雄)が訪ねてきた。亀井は“偶然”に浅野が昭和44月号の『科学画報』に掲載した基調報告の記事(→西洋における物理霊媒の心霊実験に触れた記事のこと)を読んで、「これくらいのことなら自分にも出来るという自信があった」ので、横浜の鶴見にある浅野の自宅を訪れたという(注14)。

亀井の出現について、浅野は「日本に初めて真正の意味の物理的心霊現象の作成に耐えうる一人の霊媒が出現したのは、(ISF大会参加と心霊行脚から戻った)翌年の春からでありました」「とにかく単なる偶然事件と考えうるには話が少しうますぎるようです」(注14)と述べている。

 

☆亀井三郎の能力

浅野の自宅で亀井三郎は即興の物理的心霊実験を行った。最初の頃の亀井の物理的な心霊能力は、僅かに透視や縄抜きの物理的実験に耐えられる程度であったが、その後次第に強くなってきて7月末には物品が浮揚するまでに強化された。

 

亀井の心霊能力発揮のいきさつについては、御船千鶴子の場合と同様に催眠術との関連性が窺える。浅野は雑誌『心霊と人生』の中で次のように述べている。「皆様に亀井三郎をご紹介いたします。同君は本来文筆の人で職業霊媒ではありませんが、今から10年前、同君がまだホンの少年の際から次第にこの方面の能力を発揮したようです。何でも同君の実兄は薬剤師で職業柄薬物療法と催眠療法との比較研究を試みた時、同君を引っ張り出して実験材料にした。それが動機(→心霊能力発揮の動機)をなしたのだということです。私の観る所によれば亀井さんの能力は物理的心霊現象の作成に向いているようで、欧米諸国に現れるような諸現象は大部分同君によって現れます」(注15)。

 

この時期の浅野は、亀井の能力を高く評価していた。それは次の文章からも窺える。「年齢も若く体力も強健、殊に私共にとって何より良いのは宗教臭い殻を仕負っていないことで、純科学的見地から出来ることは出来る、出来ないことは出来ない。研究の為ならばどんな統制も甘受するといった態度を示してくれたことである」(注16)。この発言から浅野の亀井に対する期待の大きさが感じられる。

しかし1年余りで浅野は亀井の性格に愛想が尽きたようであった(注17)。

 

イ)系統の異なる霊媒の評価

☆霊媒の系統

日本では物理実験が可能な霊媒は、主に三つの系統に分かれて出現している。

まず長南年恵に代表されるように信仰集団の枠内で囲われていて科学的研究に応えられなかった霊媒グループがある。次に福来友吉の透視や念写の実験に協力した「御船千鶴子、長尾郁子、森竹鉄子、高橋貞子、武内天真、渡辺偉哉、三田光一」などの“福来友吉系の霊媒”グループ。最後に「亀井三郎、本吉嶺山、津田江山、北村栄延、萩原真、竹内満朋」などの“浅野和三郎系の霊媒”グループ(注13)。このように三つに分類できる。

浅野がISF大会から帰国した後は、物理実験に協力して一定水準の成果を出せる物理霊媒が次々に現れて、昭和4年頃から昭和20年代にかけて日本においても物理的心霊現象の実験会が盛んに行われた。この期間の“浅野和三郎系の霊媒”が行った心霊実験の記録は、日本における「スピリチュアリズム普及」と「心霊現象研究の理論構成」に多大な貢献をなした。

 

☆福来系霊媒に対する眼差し

日本には亀井三郎が出現する以前にも物理的心霊現象を起こせる霊媒はいた。しかし長南年恵に代表されるような「信仰グループの中に取り込まれた霊能者」の場合には、信仰グループに特有の「信者の取り巻き」が壁となって、科学的な立場からの研究の実施を阻んでいた(注14)。

また福来友吉の念写や透視の実験に協力した“福来友吉系の霊媒”については、浅野は「厳密な統制下において、実験室内で起こる現象ではない」として、「学術的にはさして価値があるとは思われない」(注14)と軽視している。

 

なぜ浅野は“福来友吉系の霊媒”を無視ないし軽視したのか。

まず考えられることとして、心霊現象を起こすメカニズムの解釈が、浅野と福来とでは根本的に違っていたことがあげられる。浅野は背後霊の関与の下で物理的心霊現象が起きるとする“背後霊説”を採ったのに対して、福来は霊の存在を認めず“念=精神作用説”を主張していた。この解釈の違いから、福来が関与した霊媒の能力を不当に低めてしまったのではないだろうか。

 

さらに次のようなことも指摘できる。浅野は大正123月創立の心霊科学研究会に関与したことによって、「心霊研究家・浅野和三郎」としてデビューしたが、当時の浅野に向ける世間の眼差しは“邪教の大本教団幹部で大本事件に関与した浅野”であり、宗教者的なイメージを強く持たれていた。これに対して福来のイメージは“心霊研究に手を染めて東京帝国大学を放逐された博士”であり、心霊研究家としては浅野より福来の方が有名人であった。そのため浅野は事あるごとに福来を意識せざるを得なかったのではないだろうか。

 

三つ目の理由として、浅野が唱道して大正12年に設立した心霊科学研究会の設立賛同者には多くの科学者が集まってきたが、この中には「千里眼事件」の際に“反福来陣営の立場”に立って批判的論陣を張った者や、三田光一の“念写のトリックを暴いた”と称する者も加わっていた、このことが影響していたと思われる。

 

当時、物理霊媒の御船千鶴子や長尾郁子の擁護者であった福来は、「千里眼事件」によって結果的に“大学を放逐された”が、これを世間では「福来の敗北」と見ていた。また、三田光一に関しては“念写疑惑事件”や“金塊引揚詐欺事件”の新聞報道の影響から、世間の見方は極めて「胡散臭い霊媒」であった。

このようなことから浅野の“福来系の霊媒”に対する評価は、彼の無視ないし軽視に近い発言内容から見ても分かるように、世間一般の認識と同程度であった。また心霊科学研究会の設立賛同者のメンバー構成を見ても、浅野は“福来系の霊媒”の実験成果に対しては、“懐疑論者に近い立場”に立っていたことが分かる。このように優秀な実績を残した霊媒であっても、霊媒の系統が異なると実績に対しては批判的になる傾向が見えて興味深い。

 

☆霊界側の意図

ここでは日本における“霊的潮流のターニング・ポイント”である昭和4年について、霊界側の視点に立って見ることにする。

まず霊界側に日本に霊的知識を普及して霊的レベルを底上げするというプランがあり、その実施実行のための地上側の手足として、まず福来友吉が選ばれた。明治30年代「心理学と心霊研究の狭間」にあった催眠術を研究して博士号を取った福来は、催眠術の延長線上にあった変態心理学という学問分野に進んで行き、そこから次第に心霊研究(Psychical Research)にのめり込んでいった。その彼の下に霊界側から「御船千鶴子、長尾郁子、森竹鉄子、高橋貞子、武内天真、渡辺偉哉、三田光一」などの物理霊媒が次々と送り込まれてきた。

この中でも特に御船千鶴子と長尾郁子の役割を考えて見れば、両名は当時学問の世界で主流となりつつあった唯物論的世界観に対して一石を投ずるために、“デモンストレーション活動”を担わされたと言えるのではないだろうか。

 

原野に道路を作るという譬えを使って、“福来友吉系の霊媒”と“浅野和三郎系の霊媒”が果たした役割を考えて見ると、両者には明確な役割分担があったことが見えてくる。

まず“福来系の霊媒”が果たした役割は次のように言える。“福来系の霊媒”は図面(→霊界側が作成したプラン、つまり地図上に引かれた道路予定地の計画図面)を携えて現地に出向き、そこに広がる唯物論や迷信という名の“藪地”に分け入って、“測量杭(=霊的知識普及のための足掛かりを確保)”を打ち込む“測量隊”としての作業を受け持った。

この“福来系の霊媒”が確保した「霊的橋頭堡(→藪を切り開いて道を作るために打ち込んだ測量杭)」を足掛かりとして、霊的知識の普及のための第二陣として“浅野系の霊媒”が霊界側から送り込まれてきた。“浅野系の霊媒”は物理的心霊現象の実験会を、あたかも藪を切り開くための“建設重機(=油圧ショベル、ブルトーザーなど)”のような形で活用しながら、草の根的に霊的知識の普及活動を行って影響力を広げて、少しずつ“道路”を造っていった。

 

このようにして“福来系の霊媒”が作った「霊的橋頭堡」は、“浅野系の霊媒”によって霊的知識の普及のために活用された。著名人を招いた物理的心霊実験会では、日本でも西洋に見劣りしないような物理的心霊現象が数多く出現した。そしてその後の心霊知識の普及活動に大きな役割を演じていった。

大局的にこの時期を見れば、亀井たち“浅野系の霊媒”が行なった心霊現象を前面に押し出した霊的知識の普及活動は、日本の霊的レベルアップを大きく押し上げて、日本のスピリチュアリズムを「黎明期」から「発展期」へと飛躍させたと言える。

 

④.浅野和三郎のナショナリズム(国粋主義)

ISF大会参加とナショナリズム

ISF大会に参加した頃の浅野和三郎のナショナリズム(国粋主義)を一言で表現すれば、日本の歴史・文化・宗教(特に神道)などについて独自性や優位性を主張して、日本の国威発揚を願った、いわば「開明派的な国粋主義」であった。

 

浅野は神道について次のように誇らしげに語っている。世界の識者が「日本にはあんな貴重なものがあったのだナ。道理でこそ、日本という国は、不思議な真似をする国だと思っていた」と。また浅野は、西欧のスピリチュアリズムは日本における神道と多くの点で共通点があり、この神道の真価を発現して「これが私どものヤリ方です。そう世界に宣言し得た時に、日本国は精神的にも、初めて世界に重要な一席を占めることになる」(注18)と述べている。

 

このようにこの時期の浅野のナショナリズムは、日本固有の伝統や神道が日本人の宗教文化に深く根ざしている事実を踏まえて、これらの優位性を強調した日本人としての存在証明であり、国威発揚に根ざした「素朴な愛国心(ナショナル・アイディンティティ)」であった。そして殊更にスピリチュアリズムとの類似点を強調する傾向にあった。

この頃の浅野の主張からは、晩年の極端な超国家主義的な傾向はいまだ見られない。

 

国際スピリチュアリスト連盟(ISF)の大会に出席して、各国の心霊家と交わることによって、浅野の中に「日本国の心霊界の代表」であるとの強い気概が湧いてきた。宮澤虎雄によれば「(大会参加が)浅野氏に与えた最も深刻な教訓は日本国の精神統一を計らなければならない」(注19)であり、この体験によって浅野のナショナリズム(国粋主義)は大いに刺激された。このように浅野のナショナリズムの高揚が、神道色の強い「和製スピリチュアリズム」の誕生に繋がったともいえる。

浅野の「スピリチュアリズム受容の過程」を見れば、日本の歴史が海外からの新しい宗教・文化・文物等を受け入れて、日本の伝統に合うように変容させながら共存し、重層させて、日本文化を作り上げてきた伝統的な手法を無意識的に踏襲している(注20)。

 

☆浅野の固着思想によるスピリチュアリズムの変容

浅野のスピリチュアリズムの理解は、不敬罪事件の謹慎生活中に深まり、その後のISF大会参加は、彼の思想の根底にある「復古神道・天皇中心主義思想」を大いに刺激して、心霊面におけるナショナリズムを強調することになった。

和製スピリチュアリズムの誕生は、浅野によって意図的に「神道」と「スピリチュアリズム」の二つの思想が融合されたわけではない。西洋のスピリチュアリズムは、浅野の固着思想である「復古神道・天皇中心主義思想」というフィルターを通過していく過程で自然に変容し(→翻訳は解釈であるから)、“ローカル・スピリチュアリズム”としての「和製スピリチュアリズム」を誕生させたのである。

 

当時は「神道(=皇室の神道を含む神社神道)は非宗教であり国民道徳である」とされた時代であった。「宗教としての神道」と「西洋のスピリチュアリズム」という二つの思想を意識的に融合して、「和製スピリチュアリズム」を誕生させたと説く人もいるが、当時の浅野の周辺には「非宗教としての神道、国民道徳的な神道、文化としての神道」など、「神道をベースにした日本文化」が色濃く満ち溢れていた。この「文化としての神道」の世界にどっぷりと浸かっていた浅野には、ことさらに二つの思想を接ぎ木して、ローカル・スピリチュアリズムを誕生させようとの意識はなかったと思われる。

 

当時の日本の状況を考えて見れば、スピリチュアリズムは浅野の固着思想を通過する過程で、結果的に「神道をベースにした日本文化」に接ぎ木されたと見た方が自然であろう。いわば英語を日本語に置き換える際に、「西洋のスピリチュアリズム」という“思想”が翻訳者の“フィルター”を通過する、その過程で変質が起きてローカル・スピリチュアリズムを誕生させた、このように言えるのではないだろうか。なぜなら翻訳は“一種の解釈”であるから。このことは『シルバーバーチの霊訓』の翻訳にも表れている。霊訓を翻訳した近藤千雄と桑原啓善の訳が微妙に違うのは、両者のスピリチュアリズムに対する“解釈”が異なるからである。

 

☆日本文化の世界

日本はモンスーン型の気候風土の中で、稲作農業に適した精神文化が「つくる」「うむ」「なる」という発想から生まれてきた。そして多様な「神」の存在を前提とした精神文化が出来上がっていった。この「古層」としての文化の上に、各時代に流入してきた異質な宗教や文化を重層構造にして取り込み共存させて、その結果、日本人の“ものの見方・考え方”を豊かにして独特な日本文化を作り上げてきたといえる。ここで言う「日本文化」とは、次のような特徴を持った世界観である。

 

日本の精神文化の特徴の一つに“調和”がある。この調和を重んじた文化の代表として「連歌」をあげる識者は多い。連歌とは、五七五の上句(長句)と、七七の下句(短句)との唱和を基本とする詩歌で、多人数で長句と短句とを交互に連ねて、他の参加者の句との調和を重んじるものである。

さらに日本には、専門の学問・技芸を“道”と呼んだ独特な文化の世界がある。“道”の代表的なものとして、茶の湯の世界がある。茶の湯とは、床の間に花を活け、掛け軸をかけた茶席に客人を招きお茶を味わう行為をいう。茶席には「生花や掛け軸(山水画)」、さらには型に則った「茶道といった芸術」がある。芸術とは「技・技量の良し悪し」の上に、「人格の陶冶を目指したものが存在」している。それらを総称して“道”と呼んでいる。

また日本人の美意識には、「幽玄」(→優艶を基調として言外に深い情趣・余情があること)や「わび」(⇔派手・豪華)などの特徴がある。

 

このような文化や宗教に育まれた日本人の倫理観には、自然の清浄さを好む傾向があり、さらには「自らも清浄であろうとする清明心」を持っている。これは武士道に見られる「いさぎよさ」を“良し”とし、これが欠けた場合を“恥”とした行動にも引き継がれている。「日本文化」とはこのような宗教・文化を含んだ総合的な観念(=日本思想)である。

 

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<注1>

■田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)321頁以下。田中千代松著『高等霊交思想についての考察』(自費出版1976年刊)15頁以下。田中千代松著『新理想郷物語』(出版科学総合研究所1987年刊)162頁以下。田中千代松著『新霊交思想・心霊研究・超心理学年表』(日本心霊科学協会1974年刊)。浅野和三郎著『世界的名霊媒を訪ねて』(心霊科学研究会1949年刊)169頁以下参照。

ISFの第一回会議は1923年にベルギーのリェージュで、第二回会議は1925年にパリで開催された。第三回会議は1928年にロンドンで開催されて、この会議に浅野和三郎と福来友吉は参加している。第四回会議は1931年ヘーグ(オランダのハーグ)、第五回会議は1934年バルセロナ(スペイン)、第六回会議は1937年グラスゴー(イギリスのスコットランド)でそれぞれ開催された。

1947年イギリスのボーンマスにおいて、国際スピリチュアリスト連盟(ISF)を復活するための協議会が開かれた。この会議において翌年“ハイズヴィル事件百周年”に合わせて開催することが決定した。1948331日ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで「新スピリチュアリズム百年記念祭」が行われた。これが復活後の第一回会議となった。

その後、第二回会議は1951年ストックホルム、第三回会議は1954年アムステルダム、第四回会議は1957年パリ、第五回会議は1960年ロンドン、第六回会議は1963年フィラデルフィア(アメリカ)、第七回会議は1966年コペンハーゲンで開催された。

第八回会議は1969年グラスゴーで開催され、この会議に参加した社会学者の田中千代松は論文『日本における念写の実験―福来教授とその後』を公表した。第九回会議は1972年ブライトン(イギリス)、第十回会議は1975年ロンドン近郊で開催された。

 

<注2>

■田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)328頁~329頁参照。および宮澤虎雄著「心霊主義は世界的運動である」:雑誌『心霊研究』昭和48年(1973年)11月号所収、34頁~35頁参照。

戦後発行されたISFのリーフレット『世界に働きかけるスピリチュアリズム』(SpiritualismA World Movement)では、基本原則が「肉体死後の個性存続」と「現世・霊界間の通信可能」の二か条に簡略化されている。

なおこのリーフレットにはISFの主要目的が示されている。

①スピリチュアリズムを世界的運動として強化すること

②各地のスピリチュアリストの間に友愛関係を促進すること

③科学的、哲学的、道徳的、および宗教的な面より心霊現象研究に協力し、激励すること

④学者、研究者を援助すること

⑤雑誌その他の文献を刊行し、また情報の収集と伝達を行うこと

⑥同様なる目的の協会等の設立、もしくは設立の援助、および既存のものを支援すること 

 

<注3>

■浅野和三郎著『世界的名霊媒を訪ねて』(心霊科学研究会1949年刊)参照。

浅野和三郎は昭和3年(1928年)710日、ISF大会に参加するため東京を立った。神戸港からバイカル丸に乗船して大連に向かい、大連からハルビンまで列車で移動して、ハルビンの北満ホテルで福来友吉と合流した。この後は、浅野は福来と共にシベリア鉄道を使ってモスクワに入り、その後ポーランドのワルシャワ、ドイツのベルリン、ベルギーのオステンドを経由して730日午後にイギリスのドーバーに着き、そこからロンドンに列車で移動して731日に到着した。浅野は「シベリア経由も、一度は面白い経験ですが、二度と行いたいとは思いません。少々面倒くさくても、矢張り船の旅の方が身体には楽なようです」と述べている(前著52頁)。当時は現在とは違ってヨーロッパに行くには相当の日数を要したようである。

 

<注4>

■浅野和三郎著『世界的名霊媒を訪ねて』(心霊科学研究会1949年刊)189頁。

浅野は前著で「当夜幹部側が気を利かせ、遠来の福来博士のために、特に数分間挨拶の辞を述べることを許し、念写に関する英文の小冊子を配布してくれたことは、特筆すべき好意の現れでありました」と記している。この記載から浅野と福来の関係が見えてくる。

■秋山美智子著「心霊講座、発刊の頃の想い出」:浅野和三郎著『心霊講座―読みやすい現代語訳』(ハート出版2014年刊)所収。

浅野和三郎の長女、秋山美智子によれば「第三回世界神霊大会は英国・ロンドンで97日より1週間、クイーンズ・ゲート・ホールで世界27ヶ国の代表者四百人が集まり、コナン・ドイル名誉総裁のもとに開催されました。その会より日本代表として唯一人、正式な招待状と許可証が父に送られてきたのは昭和3年の3月のことでございます」(558頁)と記してある。浅野系統の書籍ではことあるごとに「日本代表は浅野和三郎唯一人である」と強調した記載が目につく。サイキカル・リサーチを志向した福来友吉は、どのような資格でスピリチュアリズムの大会に参加したのだろうか。

 

<注5>

■田中千代松著『第四の世界』(講談社、1960年刊)170頁~171頁参照、および田中千代松著「追想と解説」:『心霊研究、第1期(1947年~1956年)補巻』所収。

第二次世界大戦が終了してアメリカとの間で郵便の取り扱いが再開されると、浅野和三郎とともに古くから心霊研究に携わってきた粕川章子(かすかわあきこ:1887年→1969年)は、戦前から文通していたアメリカのピュリツァー賞作家(1943年授賞)のアプトン・シンクレア(1878年→1968年:心霊関係の著作がある)に「北米における心霊界の近況を報じて貰いたい」と依頼した。シンクレアはアメリカでは、今は心霊研究よりもパラサイコロジィの研究が盛んだといって、この研究の開拓者のJB・ライン博士に連絡しておいたという内容の返信がきた。ライン博士からの手紙が粕川に届いたのは昭和225月のことであった。ライン博士の手紙の中に「福来博士はどうしているか」と福来の身を案じる記載があったという。

 

<注6>

■浅野和三郎著『世界的名霊媒を訪ねて』(心霊科学研究会1949年刊)70頁以下。浅野和三郎著『心霊講座』(潮文社1999年刊)190頁以下参照。

コナン・ドイルは「ホープが職業的霊媒であることは恐らく多少の疑惑を招き易い点かと思われる。詐術と職業とは時とすれば不幸にも合併している。が、不正な霊媒は早晩発見されるもので、決して五年十年二十年と永続するものではない。なお厳密に言えばホープは純粋の職業霊媒というべきものではない。私はこの人物ほど金銭に淡いものにただの一度も遭遇したことが無い。彼は乾板一枚に付き僅か四志六片(4シリング6ペンス)という破格に安い費用を請求するだけである」(『心霊講座』192頁)と述べている。

■ウィリアム・クルックスは「私はクルユーに赴いて、例のクルユー団の手で自分の写真を撮ってもらった。私の姿は大変良く写り、そして同一乾板の上に、すぐ自分の側に、亡妻そっくりの姿が現れたのである。私はクルユーに赴くに当たり、わざわざロンドンから一封の乾板を懐中して行った。無論それは買い取ったまま開封してなかった。ホープ氏の住所に着いてから私は氏と共に暗室に入って行った。氏はそうすることを喜んで承認したのである。それから私は自分で乾板の封を切り、その中から一枚を取り出して自分の姓名を附し、残りの11枚は元の通り、包装紙に包んだ。右の一枚の乾板は矢張り自分の手で取り框に収めてポケットに入れた。ついでホープ氏の撮影室に入り、私は一脚の椅子に坐を占めた。いよいよ準備が整った時に私はポケットの取り框を取り出して、ロンドンから同行した一人の婦人の手を借りてそれをホープ氏に渡した。ホープ氏はその取り框を暗箱に入れ、その蓋を開けて私の写真を撮り、またそれを閉じて暗箱から取り出して右の婦人の手を経て私に戻した。・・・私は取り框を携えて再び暗室に入り、自分の手で現像した。・・・ホープ氏は乾板の定着が終わるまで、一切それに手を触れなかった。私は右の乾板を自宅に持ち帰って、自分で焼き付けを行った。・・・私はたった一枚しか写真を撮らなかった。撮影に際して私の側には何人の姿も見えなかった。ロンドンから同行の婦人の眼にも何物も映らなかった。写真に現れた姿は(妻に相違なかった)。それは自宅にあるどの写真とも異なっている。その表情は彼女が最後の病臥中のそれと酷似していた」(『心霊講座』193頁~194頁)。

■ジョン・ハーヴェイ著、松田和也訳『心霊写真』(青土社2009年刊)65頁参照。

ホープの撮影における手順は、心霊写真の撮影の前には、未露光の写真乾板に、「一種の祝福」が与えられ、カメラが「按手」され、祈りが唱えられ、『詩編』が読まれて、讃美歌が歌うことによって撮影が始まる。

 

<注7>

■霊媒マージャリーは、本名をミナ・クランドン(Mina Stinson Crandon1888年?→1941年)という。なお『新・心霊科学事典』では“マージャリー”の死亡が1931年となっているが1941年の誤りではないかと思われる。

■ステイシー・ホーン著、ナカイサヤカ訳『超常現象を科学にした男―J・B・ラインの挑戦』(紀伊國屋書店2011年刊)21頁以下参照。

192671日(金)ライン夫妻はクランドン家の実験会に参加した。当時ラインは米国心霊研究協会(ASPR)の会員であったが1927年に退会している。

ラインは「通常の行為やトリックでは説明できず、また解釈に矛盾もないとほぼ確実に言えるようでなければ、それは科学ではないし、心霊現象について何かを知ることもけっしてできないだろう」(29頁)として、ミナの交霊会を酷評する記事をASPRの学会誌と『異常心理学と社会心理学』の二誌に投稿した。

晩年のマージャリーについて次のような記載がある。――1939年に夫が死に、一人遺されたミナは太り、美貌を失い、酒を飲み始めた。彼女はうつになってしまい、交霊会の途中に屋上から身を投げようとしたことさえあった。「私は今週の夜は5回会席しましたが、ミナは毎晩酔っぱらっていました。しらふだったのは土曜の朝だけでした」と、ラインの友人からの手紙に書かれている。・・・酔っぱらいの痛ましい見世物は、ミナが肝硬変で1941年に52歳でこの世を去って、ようやく終わりを迎えた(30頁)――。

■晩年

1939年に夫に先立たれて1941年に死去するまでのミナ・クランドンは、スピリチュアリズム史に名を残した多くの霊媒と同様に、「孤独とアルコールに身を沈めた不遇な晩年」を送ったという。

 

<注8>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、7巻』(潮文社)177頁。近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、8巻』(潮文社)51頁参照。

 

<注9>

■「地縛霊」とは

地縛霊とは、死によって肉体を捨て去ったにもかかわらず、本人の意識は霊的世界に来ても、いまだに肉体を有していると信じており(→自分が死んだということを自覚していないから)、意識が地上世界に向いている霊のこと。またはいまだに意識が地上世界に向いているため霊的な波長に同調しない霊のこと。中間境(冥府)に於いて霊的調整が完成していないために、中間物質(=半物質、幽質結合体)を脱ぎ捨てられず、いまだ中間境(冥府)に留まっている霊のことをいう。

広義の「低級霊」の一種。霊は中間物質がなければ物質界に働きかけを行うことができない。その点、いまだ中間物質を脱ぎ捨てることができない地縛霊は、最も人間に影響力を及ぼしやすい霊と言える(→地縛霊の悪影響が人間社会に及んでいる)。

■狭義の「低級霊」とは

狭義の「低級霊」とは「明確な死の自覚」は持てたが(→それなりの霊的な波長に同調することができた霊)、いまだに物質的な志向が強いため「霊としての本来の生活」ができず、幽界の低い界層の世界に滞在している霊のこと(→いまだ「明確な霊的自覚」が持てないでいる霊のこと)。地縛霊とは異なって霊的レベルに相応した霊的視力が開いている。

このような霊が幽界の低い界層には数多く存在している。このような低級霊は中間物質(半物質、幽質結合体)を身にまとうことが容易い霊である。なお幽界とは、ごく自然な形で地上的なものを捨て去っていく世界のことで、意識の焦点を物質的なモノから霊的なモノに移行させて、霊界へ進む準備をする世界のことをいう。

地縛霊と狭義の「低級霊」との違いは、「明確な死の自覚」を有しているか、中間物質を脱ぎ去って「冥府(→地上世界に最も近い幽界の下層世界のことで霊的調整をする場所)」をすでに抜け出ているかの違いにある。また身にまとう身体も、地縛霊は「中間物質(→その中で“幽体=霊的身体”を完成させている)」であるのに対して、狭義の「低級霊」はすでに中間物質を脱ぎ捨てており、“幽体=霊的身体”となっている点に違いがある。

 

<注10

■橋本一径著『指紋論』(青土社2010年刊)12頁~20頁参照。

マージャリーの「幽霊の指紋」に関しては次のような問題点が指摘されている。以下要約。

――19323ASPRに積極的に投稿していたジャーナリストのEE・ダットリー(Dudley)による調査で、「幽霊の指紋」はマージャリーに蝋型を提供した歯科医コールドウェルの指紋と一致することを発見した。外部の専門家である解剖学者・皮膚紋理学者のハロルド・カミンズ(Harold Cummins1893年→1976年)からも同様な見解が出されたことで、幽霊指紋に対する疑惑は決定的なものとなった。

ウォルターの形見の剃刀から採取されたという指紋については、ASPRも認めているように実際には同一性を議論するには値しない、ごくわずかな断片にすぎなかったようだ。

それでもASPR1885年ボストンで設立)はマージャリー擁護の立場をとったが、攻撃側に回った「ボストン心霊研究協会(1925年設立)」との間で内紛を繰り返した。

ウォルター・フランクリン・プリンス(Walter Franklin Prince1863年→1934年)は1925年にASPRの会長を辞して、「ボストン心霊研究協会」を設立した(→田中千代松によればこの協会はプリンスが死去した後に消滅したとのこと)。彼は「マージャリー事件は心霊研究の歴史における最大のペテンとして記憶される」と述べて最後までマージャリーを攻撃した。問題は、その指紋が仮に歯科医のものと一致したからと言って、マージャリーはそれをいかにして入手したのか、それを交霊会においてどのように複製したのかは謎のままである――。 

 

<注11

■浅野和三郎著『世界的名霊媒を訪ねて』(心霊科学研究会1949年刊)133頁以下。

■客船ベレンガリア号とは、ドイツのハンブルク・アメリカ・ライン(略称HAPAG)によって191010月に起工され、1912523日にハンブルクのブレーマー・フルガンで「インペラトール」という船名で進水した船である。「インペラトール」は1913年~1914年頃、世界最大の客船であった。その後第一次世界大戦の賠償船としてイギリスに譲渡された。「インペラトール」はキュナード・ラインがチャーターして「ベレンガリア」と船名を変えて、1921年に政府から同社に売却された。サザンプトン~ニューヨーク航路に就航したが1938年に引退している。浅野はこの客船に乗船した。

 

<注12

■浅野和三郎は雑誌『心霊と人生』(昭和42月)に「世界神霊大会の概況、ご挨拶にかえて所信を披露す」を掲載した。この中で「心霊現象の科学的研究を行なわないことには、実験ヌキで理化学の権威が築きあげ得ないようなものです。もしも日本で、これに適せる良い霊媒が得られなければ、外国から輸入する。私の手で話をつけて置いた名霊媒は、米国にも、英国にも相当多数に上がります」と述べている。

このように文面から、浅野は日本において実験に耐えられる霊媒の出現を強く待ち望んでいたことが分かる。

■浅野にとってISFの会議に出席して獲得した最も大きな教訓は、宮澤虎雄によれば「この大会の浅野氏に与えた最も深刻な教訓は日本国の精神統一を計らなければならない」ことであったという。いわゆる“ナショナリズム”の高揚であった。この浅野の高揚感は、その後の「日本神霊主義」という“ローカル・スピリチュアリズム”形成につながっていった。

また著書を読む限り、当時の浅野のスピリチュアリズム観の中には「高級霊界発の地球を霊的に刷新する運動」という観点が、充分には理解されてはいなかったように見える。しかし当時の書籍は事前検閲を受けていたので、「国体」との関係から踏み込んだ記載ができなかった可能性もある。そのため浅野の“スピリチュアリズムの本質”に関する理解については、当時の社会状況と切り離した形での一面的な批判には問題があるといえる。

 

<注13

昭和4年から昭和20年代にかけて活躍した主な“浅野和三郎系の物理霊媒”は次の通り。

・亀井三郎(1902年?→1968年)

・本吉嶺山(1883年→1958年)

・津田江山(1902年→1991年)

・北村栄延(1905年?→1941年)

・萩原真(1910年→1981年)

・竹内満朋(1912年→1991年)

 

<注14

■浅野和三郎著『心霊読本』(心霊科学研究会出版部1937年刊)165頁~170頁参照。宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(18)」:雑誌『心霊研究』19758月号所収参照。

浅野が帰国した翌年の5月に亀井は浅野の自宅を訪れた。亀井は浅野に「あなたが西洋で実験された霊媒現象中、少なくともその一部分は、私にもできるように思われますが、今晩一つ実験していただけませんか」と単刀直入に切り出したという。

さらに浅野は亀井との出会いを次のように記している。「私が欧米の心霊行脚から戻ったのは昭和3年の年末であったが、妙なもので日本に初めて真正の意味の物理的心霊現象の作成に堪え得る一人の霊媒が出現したのは、実にその翌年の春からでありました。人間の方では気が付かないが、暗黙の裡に何らかの機縁が結ばれているのかもしれません。とにかく単なる偶発事件と考えるには話が少しうますぎるようです。その出現した霊媒というのは外でもない、亀井三郎という青年でした」。

浅野の“福来系の霊媒”に対する視線は厳しい。「これ等は何れも信仰的儀禮と関連しており、厳密なる統制下において、実験室内で起こる現象ではないから、学術的にはさして価値がありとは言われず、若しもこの種の能力者にかかわり合えば、却って群疑の焦点となるくらいなものであります」と述べている。浅野は“福来系の霊媒”は「学問的価値なし」として、亀井三郎につき「日本最初の物理的霊媒」と名付けた。正確に言えば「日本最初の物理的霊媒」は亀井三郎ではない。ここに浅野の“福来系の霊媒”に対する偏見が見える(→この点に「人間・浅野」の限界が感じられる)。

■宮澤虎雄著「浅野さんと心霊研究と私」:『心霊研究』昭和264月号所収。

宮澤は「奮起したのは亀井三郎氏であった。昭和4年代官山の同氏のアパートを浅野さんに伴われて粕川さんと私とがお訪ねし、カビネットの代わりに蚊帳を釣り、私が蓄音機をかけ浅野さんの司会で実験に取りかかった。やがてベルが見事に鳴りながら動き回った日本最初の物理的心霊現象の発現は忘れがたい感激であった」と記している。

■浅野和三郎著「長南年恵の奇蹟的半生」:南博編『近代庶民生活誌19 ―迷信・占い・心霊現象』(三一書房1992年刊)所収、223頁以下参照。

従来日本の物理霊媒は福来友吉の念写実験に協力した霊媒を例外として、大部分は宗教の枠内で囲われていて科学的研究に応えられなかった。最も有名な霊媒は長南年恵だが、弟の長南雄吉は姉の周辺で起きる現象は研究材料になると考えて井上円了と相談の上、手続きをとろうとした。しかし「姉の身辺を囲繞する例の頑固連の猛烈な反抗により、惜しいかなその計画も実行されずに過ぎてしまった」という。この場合の「頑固連」とは長南雄吉によれば「物の道理の判らぬ者や神をダシに使う宗教策士達」のことを指すというが、彼等は研究とか実験とかいう事には常に極力不賛成を唱えたという。

■浅野和三郎著『神霊主義』(でくのぼう出版2003年刊)173頁。浅野和三郎著『心霊研究とその帰趨』(心霊科学研究所19646版)136頁参照。

福来系の物理霊媒の高橋貞子や三田光一について、浅野は「日本では、現在三田光一氏、亀井三郎氏の二人に念写能力があることは確かなようですが、その本領は別にあり、ほんの片手間で、ごくたまに実験に応じるだけですから、学問の問題となるには至っていません。過去には、大正2年に、諸々の学者が立ち会って、高橋貞子女史の念写実験が行われ、『金』『天』の二文字、その他の影像が乾板に現れたことがあります。たしかに心霊写真の能力者に相違ないと思われますが、その後は、いっこうに学術上の実験に応じようとしないので、現在の能力は不明です」と述べている。

東大を放逐後の福来は、心霊現象の実験に学者を招いたが誰からも相手にされなかったのであり、浅野の上記の文章には事実誤認がある。また三田光一については多くの念写乾板が残されているので、研究をしようと思えば誰でも可能なはずである。

 

<注15

■雑誌『心霊と人生』昭和48月号:名古屋での物理的実験会の挨拶。

 

<注16

■雑誌『心霊と人生』昭和51月号参照。

 

<注17

■亀井三郎は日本の霊媒の中で「最高の物理霊媒」と言われたが、人間関係や金銭面では問題があった人物らしい。亀井は浅野和三郎とコンビを組んで各地で実験会を行なったが、昭和5年末ごろに浅野と別れた。一説によると心霊科学研究会と亀井との間でトラブル(小田秀人によれば、浅野との感情の行き違い)があったからという。

■物理霊媒に関する事項は次の著書を参照した。

小田秀人著『超心理学入門』池田書店1973年、50頁以下。雑誌『心霊研究』1978年:昭和5310月号。雑誌『心霊研究』1969年:昭和442月号、3月号。小田秀人著『生命の原点に還れ』(たま出版1985年刊)参照。

 

<注18

■浅野和三郎著『世界的名霊媒を訪ねて』(心霊科学研究会1949年刊)193頁参照。

 

<注19

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(10)」:雑誌『心霊研究』(19746月号)所収。

 

<注20

■和辻哲郎著『風土』(岩波文庫1979年刊)参照。

農耕民族である日本人の精神風土は、日本思想史家の和辻哲郎(わつじてつろう:1889年→1960年)によれば「モンスーン」型的な風土であるという。この日本的モンスーン型の風土の下で、人は自然に対して受容的(⇔対抗的)、忍従的(⇔征服的)な性格を持つと述べている。「シナも日本も、風土的にモンスーン域に属する」(前著29頁)。「梅雨と台風とを特徴とする我々の国土は、古代の祖先が直感的に『豊葦原の瑞穂の国』と呼んだように、特に湿潤の国土である」(前著31頁)。「我々国民もその特殊な存在の仕方においてはまさにモンスーン的である。すなわち受容的・忍従的である」(前著161頁)と記している。

■野村純一他編『柳田国男事典』(勉誠出版1998年刊)573頁~参照。

民俗学者の柳田国男(1875年→1962年)は「常民(一般庶民のこと)の生活の中心に、氏神信仰がある」と考えた。そして柳田の氏神信仰説によれば、氏神とは村における代々の祖先の霊の融合したものであり、村人は誰でも死ねば一定期間を経て村の氏神と一体となる。この氏神は通常は村の近くの山頂に留まって人々の生活を見守り、春になると山から下りてきて「田の神」となって稲作を助けて、秋になって収穫が終わると山に帰って「山の神」に戻る。氏神を祭る主な農耕儀礼が春と秋の村祭りであり、この氏神信仰論が日本文化の基層にあると考えた。

――『先祖の話』で柳田は、死者の霊魂が仏教で言う西方浄土など遠隔の他界に赴かず、山深い山林に集まり鎮まり、先祖祭や収穫祭などの折々に家々の子孫に迎え祀られ、彼らに庇護を与えると理解し、「忌みと穢れとを厳重に遮断し、清く祭らねばならぬ先祖のみたまのために、屋外の一地を点定したことが、今ある十万余の国内の御社の、最大多数のものの起こりであった」と述べる。一定の期間(弔いあげ)の後は、「人間の私多き個身を棄て去って、先祖という一つの力強い霊体に融け込み、自由に家のためまた国の公のために、活躍しうるものと、元は考えていた。それが氏神信仰の基底であった」と、私穢を清められた家々の死者霊の融合が、家郷社会における氏神信仰へと接合するととらえる。氏神に祀られる霊格を、人とは本質的に異なる神祇諸霊とみなさず、浄化され、個性を失う事により融合を果した祖霊とするその理解は、人の死後の時間軸へ神々の世界を引き寄せ、死と再生の円環を主張するものである。――

――祖霊となった死者の霊は、村近くの「森」に迎え祀られるとする観念を、柳田は、里宮と山宮という二重の宗教施設や、田の神と山の神の交代伝承にも見出す。また、家郷社会をその祭祀圏とする氏神を「村氏神」と位置付ける一方で、同じく氏神と呼ばれながらも単独の家の屋敷地や耕作地などの屋敷付属地に祀られる屋敷神としての「家氏神」「屋敷氏神」や、同族団によって祭祀される同族神としての「一門氏神」の存在を指摘する。そして、「一門氏神」からの「村氏神」への拡大、あるいは「家氏神」「屋敷氏神」の派生を示唆する。村境外部の埋葬地において死穢を浄化された祖霊は、本分家からなる一門(同族集団)を単位として、田の営みの始めと終わりに、山から山麓の「森」へと迎えられ、子孫と交歓する。これが、柳田にとっての氏神信仰の原型であり、それは水稲稲作に生産の基盤を置く「常民」の同族結合社会を念頭に置いたモデルであった。――

■丸山真男著「歴史意識の古層」:『丸山真男全集、第10巻』(岩波書店1996年刊)所収、7頁、45頁参照。

思想史家の丸山真男(1914年→1996年)は「歴史意識の古層」の中で、日本人の歴史意識の底に「原型」「古層」「執拗低音」といった「日本人に固有な思考パターン」が存在していると指摘している。そしてこの思考パターンを「つくる」「うむ」「なる」と表現している。丸山は『古事記』の記載から、「神」が次々に「成」って、最後にイザナギの命・イザナミの命が「成」って「国生み」「神生み」が始まったとして、「つぎつぎになりゆくいきほい」に原型発想を見出すことができるとする。ここからこの世界は、それ自身に内在する力・勢いによって次々と「成」ってきた世界であると述べている(→キリスト教でいう創造神によって創られた世界とは異なる)。

さらに丸山は「(この単純なフレーズは)どの時代でも歴史的思考の主旋律をなしてはいなかった。むしろ支配的な主旋律として前面に出てきたのは儒・仏・老荘などの大陸渡来の諸観念であり、また維新以降は西欧世界からの輸入思想であった。ただ右のような基底範疇は、こうして『つぎつぎ』と摂取された諸観念に微妙な装飾をあたえ、ときにはほとんどわれわれの意識を超えて、旋律全体のひびきを『日本的』に変容させてしまう。そこに執拗低音としての役割があった」として、外来思想が日本的に変容されていく過程を解説した。

 

 

◆浅野和三郎研究:目次

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