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学び舎の時代(明治期):注記

<注1>

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、21頁(7頁)参照。

 

<注2>

■山川菊栄著『武家の女性』(岩波文庫1983年刊)11頁~21頁参照。

素読の情景に関しては「お塾の朝夕」(前著所収、11頁~)が、幕末水戸藩の教育システムを描いているので参考になる。以下において、水戸藩の下級武士である青山延寿の漢学塾の朝の情景の該当箇所を抜粋した。

――お塾の方ではだんだんに集まってきた何十人の子供が、声をはりあげて、ある者は『論語』を、ある者は『孝経』を、それぞれ年と学力に応じて、いま自分の習っている所の素読をやっていますから、その賑やかなこと。・・・

この「朝読み」の素読の声で、子供の頭の良し悪しはたいてい分かったもので、大勢の中で「あれは誰さんの声」などいわれるようにハッキリしたのは、必ずしも大きい声ではなくても、際立って出来のいい子にきまっていたそうです。・・・

ひと通り素読をすますと次々と先に来た者から帰って行きます。その間12時間もありましょうか。子供たちは帰ってから朝飯を食べてまた出直して来ますが、・・・

弟子は満6歳から始めて20近くまで来るのが普通でした。もっとも13,4からは、藩校弘道館にはいり、そこで中等以上、高等教育まで行われるのですが、この方は毎日ではなく、身分により、また長男か次三男かによって出席の義務にも違いがあり・・・基礎的な教育は塾で仕込まれるのです。・・・

授業は個人教授で、十人十色、年や学力に応じ、違った教科書で、小学生の年頃の者は素読一点張り、134から講釈を聞くわけで、おいおいに漢詩、漢文の作り方も習います。お弟子はときどき先生につれられて弘道館で素読、手習いの御吟味すなわち試験を受けます。・・・――

ここで描かれている塾の風景から、素読が漢学の基本であること、塾に入門する年齢は明治時代の「制度化された学校」に上がる年齢とほぼ同じであること、当時の水戸藩では初等教育や中等以上の教育システムが機能していたこと、などが分かる。水戸藩における家塾(→儒官などが藩命の内意によって藩士の子供を教育するために開いた学校)は、すべて「皇室中心の国体史観に徹した教育を試みた弘道館の支配下」に置かれていた。

 

<注3>

■新渡戸稲造著「諸家の読書論」:『新渡戸稲造全集、11巻』440頁参照。

新渡戸は「東洋でも西洋でも、精神の糧となるべき古典の暗誦が、初等教育の第一歩に踏み入る少年に課せられてきた。我が国では五経のいわゆる「素読」がそれであり、西洋では、ラテン、ギリシャの古詩等を暗誦させたものである。現今、かかる機械的な教育法は排せられ、行われなくなったが、この方法も、巧に用いられる場合は、非常に有益なることを、忘れてはならない」(前著440頁)と述べている。

漢学の素読の風習が次第に薄れていくに従って英語力が落ちてきたのは、新渡戸も指摘しているように、素読のような「機械的な教育法の排除」を一律に推し進めたところに問題があるのかもしれない。当時の文部省には、従来の漢籍の素読中心の学習に対しては日常生活と直ちに直結しない内容であり、文章の意味や内容を教えるのではなく暗誦偏重の学習であることなど、弊害を指摘する批判があった。

■明治26年に文部大臣に就任した井上毅の「復古主義の教育政策」の影響を指摘する人もいる。夏目漱石は井上の教育政策が「日本の学生の英語力を著しく低下させた原因の一つである」と述べている(研究社出版『日本の英学100年』明治篇、53頁、506頁)。当時の高等教育はすべての学科が外国語で授業を行っていたが、井上の教育政策の転換によって英語の授業以外の科目では日本語が使われるようになった。この背景には「明治のナショナリズム」の高揚があると思われる。

この時期、明治の教育政策の変革期にあり、明治5年に学制が発布して従来の儒教中心の教育から、西洋の文化・科学の啓蒙書の中から児童向きのものを翻訳(直訳)して、学習教材として使用する新しい教育体制に変わっていった。そのため次第に漢籍の教科書は使用されなくなり、素読の教授法も衰退していった。

■研究社出版1968年刊『日本の英学100年』明治篇、52頁~、506頁参照。

井上毅は外国語奨励の方針を改めて国語尊重の方針を示した。「人類の最大智能は、言語文字を以て各自の意志を表明し、他人に通知し、後世に残すにあり。国語国文の発達し、各人がその意志を表明する手段材料に富んだ国は、文明従て隆盛となり、国民の智識は次第に進歩し、国語国文の発達しない国は之に反する。故に、文明国はその言語文章を尊重し、之を普通教育の首位に置いて、之に最長の時間を与えて学習させる。国語の発達を図るのは、復古ではなく進歩である。而して国語は学術界の思想に応ずるために、広く漢文漢学に取るのみならず、欧州の論理法にとって、文明の進歩と提携随伴すべきである」(53頁)。

 

<注4>

■大久保利謙編『森有礼全集、1巻』(宣文堂書店1972年刊)537頁参照。および竹内洋著『立身出世主義』(世界思想社2005年刊)69頁参照。

伊藤博文内閣の森有礼文部大臣は、明治22年の地方巡視の際に「高等中学校と尋常中学校との違い」を演説の中で次のように説明した。

それによると高等中学校とは、「高等官(官吏)」「理事者(商業者)」「学術専攻者(学者)」などのような、「社会上流の仲間に入るべきもの」「社会多数の思想を左右するに足るべきもの」を養成する学校であり、尋常中学校とは「社会の上流に至らずとも下流に立つものではなく」「最実用を為すの人」を養成する、いわば中流社会に入る人たちの学校であると述べた。このように「学問」によって入るべき社会的階層に差異を設ける考え方は、時代の立身出世主義の風潮に溶け込んで広く浸透していった。

 

<注5>

河内町史編纂委員会編『図説、河内の歴史』(2003年刊)。河内町史編纂委員会発行の郷土研究誌『かわち、第7号』参照。

浅野和三郎が生まれた当時の利根川沿岸の村々(源清田村を含めた地域)はコメの生産地であり、天狗党が軍用金を徴発するための“襲撃のターゲット”になっていた。河内町が発行した『河内の歴史』(143頁)によれば、元治元年(1864年)910日付の地頭所役場からの達書が金江津村(現在の河内町)名主伝五左衛門の手許に届いた。その達書には漁船のほかは船を出さないようにという内容が書かれてあった。この達書の存在によって、伝五衛門にとって天狗争乱は極めて身近な憂慮すべき問題であったということが窺える。また河内町史編纂委員会が発行した郷土研究誌『かわち』(第7号)所収の根本赳著「天狗党秘話」によれば、「天狗の鉾先が向いてきたらしい。福田の藤右エ門や、田川の岩橋家も同断であったと伝え聞く(一部鴻巣篤義氏談)。金江津では福田嘉兵衛家も彼らの目標となった。福田家の当主錦斉先生は近隣に鳴り響いた人物であったためでもあろうか」。このように天狗党は、当時の源清田村(河内町)の住民にとって日常生活に大きな影響力を及ぼしかねない存在であったことが分かる。

 

<注6>

■水戸の内紛

幕末水戸藩では改革派(鎮派、激派)と保守派との対立が激化して、18643月に水戸藩の尊王攘夷派の激派(=天狗党)が筑波山で挙兵して、その挙兵を契機に各地で激しい騒乱がおこった。茨城県西部・南部や栃木県では、幕府の天狗党追討軍との間で戦いが繰り広げられた。茨城県の南部には潮来館・小川館・玉造館などの水戸藩の郷校(→農民などの教育機関であり、尊王攘夷思想普及の拠点であった)があり、ここを拠点として天狗党が各地で暴行・押借事件を起こしていた(→「村に天狗がやってくる」として恐れられていた。栃木町は焼き打ちにあった)。水戸の藩校である弘道館の学生(→学生は諸生と呼ばれていた。そのため諸生派という呼び名が付いた。佐幕派のこと)を結集した保守派と改革派の天狗党は、明治の初めまで血みどろの内戦を繰り広げていた。明治の廃藩置県(明治4年:1871年)頃までは、水戸人にとっては「受難の時代」であった。

■山川菊栄著『武家の女性』(岩波文庫1983年刊)162頁以下参照。山川菊栄著『覚書、幕末の水戸藩』岩波文庫1991年刊。島崎藤村著『夜明け前、第一部下』(新潮文庫)111頁以下参照。資料集『新聞“いはらき”に見る河内町』参照。

 

<注7>

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(4)」:雑誌『心霊研究』昭和4811月号。宮澤は浅野和三郎の幼年時代を「正恭氏と浅野和三郎氏とは年が7歳も違うので、幼い時は浅野さんは兄におぶさったなどの事で、兄には頭が上がらなかった」と記して、正恭と和三郎との心理的関係を述べている。

■春川梄仙著『日本スピリチュアリズムの成立』(日本スピリチュアリスト協会2001年刊)66頁の「大本教からの転身」参照。

浅野正恭は和三郎の性格を「彼は寧ろ一本調子で、策略などを廻らし、駆け引きで事を運ぶことなどは、性格上出来ぬ方なのであります。唯一本調子であるところから、熱心に事にあたり、また比較的意思も強固であるところから、世の誤解を招くことにも立ち至ったものと思われます」(67頁)と述べている。

■池田昭編『大本史料集成、3巻』(三一書房1985年刊)159頁参照。

大本事件の上告趣意書の中に浅野和三郎と水戸学の関係を述べた箇所がある。「元来私(浅野和三郎)は郷土の関係上、幼少の時から水戸の学風に感化せられ、それが私の思想行動の基調を為して居ります。後年英文学を研究し、又大本を信仰してもその基調に何らの変化はないのであります」と。このように浅野は水戸学における国体論、特に天皇制との関係で思想的に大きな影響を受けている。

 

<注8>

■雑誌『心霊と人生』昭和2911月号所収。中川宗平(横浜戸塚・富塚八幡宮宮司)著「浅野正恭翁命のしのびの詞」参照。

 

<注9>

■鈴木彦四郎著「明治初期における英学」:明治文化研究会編『明治文化研究、第4集』(日本古書通信社1969年刊)所収、233頁~249頁参照。

鈴木彦四郎は著書「明治初期における英学」の中で、浅野和三郎は「第一高等中学校の入試にパスした」ために名前が載っていないと述べている。

 

<注10

■東京英語学校

東京英語学校の校舎は明治25年(1892年)410日の神田の大火で焼失し、同年半蔵門外の麹町区山元町に移転して、同年81日「尋常中学私立日本中学校」と改称した。この名称変更により従来までの「官立諸学校入学希望者のための予備校的な性格を持った学校」が、名実ともに尋常中学校組織に変更になった。校名の「日本」の由来は、校長の杉浦重剛が所属していた政教社の機関誌「日本人」からとったもので、日本主義を教育の根本精神とする中学校との意味があるからという。

その後、明治32年(1899年)26日の「中学校令」の改正により校名が「日本中学校」と改称され、明治36年に学校は財団法人となった。「日本中学校」は大正5年(1916年)9月に校舎を新宿の淀橋に移転し、その後昭和11年(1936年)1018日に世田谷区松原に移転して「日本学園」となった。現在でも同地において「日本学園中学校・高等学校」として存続している。同校の出身者には、歌人の佐々木信綱(1872年→1963年)、画家の横山大観(1868年→1958年)、文学者の上田敏(1874年→1916年)、文芸評論家の高山樗牛(1871年→1902年)、政治家の吉田茂(1878年→1967年)らがいる。

<この項目の参考文献>

日本中学校編『日本中学校五十年史』(日本中学校1937年刊)。

大町桂月・猪狩史山共著『杉浦重剛先生』(復刻版、思文閣・杉浦重剛先生顕彰会1986年刊:政教社1924年刊)。

■同名異校

なお同名の「東京英語学校」はもう一つあった。明治6年に当時の最高学府であった「開成学校」は、組織を改めて専門の学生のみを収容する「東京開成学校」へと変わった。同時に語学生のみを別に集めて、新たに「東京外国語学校」が創立(明治611月)された。翌年の明治7年(1874年)1227日に、「東京外国語学校」の中で特に需要が増加した英語の科目のみを分離して、別個に独立させて「東京英語学校」を設置した。明治10年(1877年)412日に「東京開成学校」は「東京医学校」を併合して「東京大学」と改称した。これに伴い「東京英語学校」は「東京開成学校普通科(予科)」を併合して、「東京大学予備門」と改称(明治104月)した。明治19年(1886年)429日に「東京大学予備門」は、「中学校令」によって「第一高等中学校」と改称したが、依然として教育内容は帝国大学の予備教育を主とするものであった。その後明治27年(1894年)911日に「高等学校令」により「第一高等学校」と改称した。ここでいう「東京英語学校」とは、杉浦らが設立した学校とは別組織である。

■授業は英語で行われた

大学南校以来、教科書は原書を使用していた伝統から、東京大学本科の授業は英語を中心とした外国語で行われていた。そのため大学教育についていけるようにと、予備門には「東京大学の各学部に入るべき学生に必要なる予備教育を施す機関」(『東京帝国大学五十年史、上』)との教育機能が課せられており、外国語(英語を中心とした)の能力の養成が主要な教育機能となっていた。

 

<注11

■三菱商業学校

三菱商業学校(神田錦町に明治11年設立)につき、東京商業学校東京学園高等学校編『回顧百年:東京商業から東京学園への歩み』(1989年刊)に次の記載あり。

前著7頁の記載によれば「日本において初めて商業学校の名称を用いたのは、岩崎弥太郎が設けた三菱商業学校である。慶応義塾卒業後その教員をしていた森下岩楠が商業立国論をもって岩崎を説得し、開設させたものである。同校は予科三年、本科二年の五年課程とし、本科の教科目は銀行、船泊、保険、簿記法実験の四科とした。正式の私学開業願いは明治112月に出され、森下が教員となり主に英語で教育が行われた。商法講習所よりもさらに高い水準の専門教育を施しており、慶応義塾や商法講習所から同校に転入する者も数多く、一時期生徒は百名を超えたといわれる」。

■参考までに「三菱商業学校」と「明治義塾」との関係について明らかにした記述が下記のホームページに載っている。

http://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro15.html

これによれば「明治11年、神田錦町に三菱商業学校が設立された。校長の森下を始め理想に燃える教官のほとんどが福沢諭吉の門下生だった。・・・(三菱商業学校の)教員である馬場辰猪(ばばたつい)や大石正巳(おおいしまさみ)らが自由党の結成に参加、(三菱)商業学校の校舎を使って、夜間教室・明治義塾を開設した。土佐の熱血漢たちの、自由民権思想普及の場として大いに人気を集めたが、当然薩長閥の政府から睨まれる処となってしまった」。そして「(岩崎)彌太郎は嫌気がさし、三菱商業学校に対する情熱を失った。・・・

三菱商業学校は明治17年廃校となった。創立以来わずか6年だった」と。

 

<注12

■大町桂月・猪狩史山共著『杉浦重剛先生』(復刻版、思文閣・杉浦重剛先生顕彰会1986年刊:政教社1924年刊)463頁参照。

■日本中学校編『日本中学校五十年史』(日本中学校1937年刊)15頁~19頁参照。

この建物は「大きな冠木門を入ると、立派な式台に至る旧旗本屋敷で、元来学校には適当しない建築であった・・・昔の儘の日本家の部屋々々の壁を打ち抜き、畳を剥がし、そこに二人並び三人並びの腰掛と腰掛同型長机を並べて、にわかに洋風の教場を型作った。生徒は下駄を脱ぎ、草履きであったという」(18頁)。

 

<注13

■厳平著『三高の見果てぬ夢』(思文閣出版2008年刊)280頁参照。

 

<注14

竹内洋著『立志・苦学・出世―受験生の社会史―』(講談社現代新書1991年刊)26頁他参照。

■高等中学校受験のための予備校

明治20年代には高等中学校(のちの高等学校)はナンバー・スクールとして、第一が東京、第二が仙台、第三が京都、第四が金沢、第五が熊本に置かれていた。当時の入試は志望者が過剰でふるい落とす試験ではなく、高等中学校の授業についていけるかどうかの絶対的学力をみる試験であり、学力が高ければ上位の学年に編入することもできたという。

入学しても学力不足で退学させられる者も多く、入学試験が絶対のハードルではなかった。この具体例を示した報告事例がある。明治26年(1893年)10月の第四高等中学校長の大島誠治の学事報告では「本校創設以来、入学者は総数733人、退学者は356人にして、すでに卒業せる者55人」と述べており、学力不足で多くの人が退学していることが分かる。

なお明治20年代の高等中学校の定員充足率は40%~70%にすぎなかったという。

■「高等学校入試倍率推移(明治28年~大正8年)」(文部省年報より)および竹内洋著『立身出世主義』(世界思想社2005年刊)参照。

上記の表によれば、明治28年の倍率は1.5倍くらい、明治30年代以降は2倍、明治38年ごろは3倍となってそれ以降は右肩上がりで、大正8年には7倍になっている。

高等中学校の教育に関する機能が充実してきて、すべての高等中学校で卒業生を出せるようになってきたのは明治25年頃のことであり、それまでは卒業生(帝国大学の入学資格保持者)の大半は第一高等中学校の生徒であったという。帝国大学入学と直結する卒業生を出すことによって実績が出来上がり、それによって次第に入試倍率も上がってきたことが分かる。

竹内洋の『立身出世主義』によれば「明治38年の浪人合格者は、入学者の4割近くになっている」「明治30年代後半からの入試が激化・・・『最近受験界』という受験専門雑誌第一号が明治40年に出てくる。入試問題や合格・失敗体験談、参考書の紹介、学校案内などが書かれている。・・・この雑誌は『中学世界』という雑誌の特集号。この特集号の売れ行きはよかったようである」「明治30年代後半から40年代は予備校の設立ラッシュの時代」であったという。

厳平著『三高の見果てぬ夢』(思文閣出版2008年刊)200頁参照。

厳平によれば「東京大学への進学を目指す地方中学校の生徒の多くは、一旦退学(卒業)してから私立予備校に入る道を選んでいた。言い換えれば、東京の私立予備校は、地方中学校生徒を受け入れる教育機関として、予備門への進学機能を果たしていたのである」と。

 

<注15

■落合直文とは

落合直文(落合鮎貝:1861年→1903年)は、歌人で国文学者であり、多くの歌集や文学全書の刊行など多彩な文筆活動を行った。明治14年(1881年)東京大学古典講習科に入学したが、明治17年(1884年)春に理由不明だが落合だけが徴兵令を適用(→当時の国立学校の生徒には兵役免除の規定があった)された。そのため大学を中退して3年間の軍務に従事(明治20年春まで)した。軍務では歩兵第一聯隊の聯隊長立見尚文の理解により、陸軍医務局附の看護卒として衛戍(えいじゅ)病院勤務となり、勉学の機会を与えられた。

除隊後は、明治21年(1888年)皇典講究所(現在の国学院大学、晩年まで在職した)の教師、明治22年(1889年)からは第一高等中学校、東京専門学校(現在の早稲田大学)、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)、跡見女学校(現在の跡見学園女子大学)などで教鞭をとった。落合の第一高等中学校の講師就任を推挙したのは、伊勢神宮教院から東京大学古典講習科を通じて同学であった小中村義象(池辺義象)であった。小中村は第一高等中学校の教官であり、古典講習科時代の恩師である久米幹文が主任教授でいたことが落合に幸いした。久米は落合を迎えて一高に国文科を創設した。この裏付け資料として『第一高等学校六十年史』198頁に、明治221018日付「本校校務分掌規定教務部における学部中、和漢文学部を廃し、改めて国文学部及び漢文学部の二部を置く」とある。この記載から分る。

■落合直文の思想

落合の歌はしばしば「戦前の国民教化の道具」にされた。歌人で『落合直文―近代短歌の黎明―』(明治書院1985年刊)の著作がある前田透によれば、落合の本質は明治中期型の開明的で素朴なナショナリストであって、偏狭的な超国家主義者ではなかったという。明治20年代に登場した愛国心としてのナショナリズムは、極端な「欧化主義」の反動として登場してきたものであり、落合のナショナリズムはそのような意味での「日本主義」であり「憂国の士」であったという。

明治中期のナショナリズムの流れの一つに「日本主義」があり、高山樗牛や井上哲次郎らが提唱(→ただし国家主義の傾向があるという)した。このナショナリズムは徐々に変質して、昭和期に唱えられた極端なナショナリズムとなっていく。その際に落合の「日本主義」は国民教化の道具に使われたが、本質的には両者は別ものであるとされている。

■小中村義象とは

小中村義象(池辺義象:1861年→1923年)は歌人で国文学者、東京大学古典講習科卒。小中村清矩の養子となって小中村義象と名乗ったが、後に復姓して池辺の姓を名のる。1898年から1901年までパリに留学し、帰国後東京帝国大学の講師や御歌所寄人などを務めた。

落合直文と小中村(池辺)義象とは生涯の友であり、多数の共著がある。

■短歌革新運動の母体「浅香社」

落合直文は新進気鋭の国文学者であり、国文学復興の気運に乗って短歌の改良を主張し、創作上の新しい試みを行った。落合は短歌革新論を具体的に実践した最初の人と言われている。落合は短歌の革新運動のための私塾として、明治26年(1893年)2月に「浅香社」を設置して組織的に運動を開始させた(→「浅香社」の実質的な活動期間は明治284月まで)。この私塾には大町桂月、塩井雨江、与謝野鉄幹(寛)、尾上柴舟、金子薫園たちが集まってきた。

前田透は「浅香社という名は、直文を師とする人々間に精神的共同体の象徴的な名称として師の没後まで残った・・・浅香社の活動期に、直文は歌論および実作を以て範を示したというようなところはほとんど見られない。直文の人格的感化によって、一群の青年がそれぞれに直文の期待するような方向へ、かなり自由に動いて行ったというのが実情であろう。和歌革新初期のエネルギーは、そのような星雲的集団の中で培われてきたと見ることができる」(前田透著『落合直文―近代短歌の黎明―』161頁参照)と述べて、革新運動の中で落合直文のはたした役割を解説した。

■新詩社の機関誌『明星』

その後「浅香社」は短歌革新運動の母体となった。このロマン主義の大きな流れに明治32年に与謝野鉄幹が結成した「新詩社」があり、その機関誌が『明星』(明治334月創刊:ロマンチズム短歌の源流)であった。この『明星』という雑誌は、与謝野晶子の「みだれ髪」などの掲載誌として有名であり、ここから北原白秋、吉井勇、木下杢太郎らが育っていった。

この雑誌『明星』のロマン主義の流れと、正岡子規の「根岸短歌会」(伊藤左千夫、長塚節らが入門)のリアリズム短歌の流れが、現代短歌への二大潮流となっていった。

浅野和三郎は落合直文や大町桂月とも交流があり、それらの人脈から雑誌『明星』と関係を持ち、この雑誌に明治337月に「勝力の岬」、明治351月に「監獄の火事」、明治357月に「汽車の旅」、明治3611月に「山崩れ」等を載せている。

 

<注16

■金子薫園著「落合直文の国文詩歌における新運動」:『明治文学回想集(上)』(岩波文庫1998年刊)所収、294頁~310頁参照。

 

<注17

■前田透著『落合直文―近代短歌の黎明―』(明治書院1985年刊)248頁参照。金子薫園著「落合直文の国文詩歌における新運動」:『明治文学回想集(上)』(岩波文庫1998年刊)所収、303頁参照。

 

<注18

■金子薫園著「落合直文の国文詩歌における新運動」:『明治文学回想集(上)』(岩波文庫1998年刊)所収、302頁参照。

 

<注19

■勝原晴希著「孝女白菊の歌」解説:『新体詩・聖書・讃美歌集――新日本古典文学大系、明治編12』(岩波書店2001年刊)所収、567頁~573頁参照(該当ページ569頁)。

 

<注20

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、21頁(7頁)参照。

 

<注21

■昭和女子大学近代文学研究室著『近代文学研究叢書、41巻』(1975年刊)380頁、参照。

 

<注22

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、21頁(7頁)、24頁(10頁)参照。

 

<注23

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、22頁(8頁)参照。

 

<注24

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、22頁(8頁)参照。

 

<注25

■言文一致とは

言文一致とは、「思想・感情を自由的確に表現するため、書き言葉の文体を話し言葉に近づけようとする主張およびその文体」をいう。国語学者の山本正秀によると、日本では話し言葉(口語体)と書き言葉(文語体)を一致させる考え方はなかったが、幕末の洋学者が西洋では書き言葉と話し言葉が一致しており、それが近代文化をもたらした要因と気づき、「旧来の言文二途を口語建て一本に統合」しようとしたのが発端であったという。

幕府開成所の反訳方である前島密は、漢字廃止論者・仮名専用論者でもあった。前島は物事を理解する手段として漢字は習得に時間がかかり無駄であり、仮名文字にすれば西洋文化の摂取も容易になり近代化も促進されると主張して、効率性という観点から慶応2年(1866年)に徳川慶喜に「漢字御廃止之議」を建白したが全く無視された。

■言文一致運動

明治中期は内面の世界を描き出すための文章表現方法の研究がされて、言文一致運動が次第に盛り上がっていった時期であった。明治16年(1883年)に「かなのくわい」(現:カナモジカイ)、明治17年(1884年)に「羅馬字会」(現:日本ローマ字会)が創立された。

明治19年(1886年)、物集高見(もずめたかみ)が「言文一致」を出版し、次第に漢字廃止論から言文一致論へと議論の主眼が移っていった。明治20年に二葉亭四迷の「浮雲」や山田美妙の「武蔵野」が言文一致体で発表された。しかしこの出版によって、文章の表現技法が「急激に言文一致の方向に進むということはなかった」。言文一致の動きに刺激されて、文語体による新しい文体も真剣に模索されていったからという。

■言文一致の確立

明治以降、西周(にしあまね)や谷田部良吉らのローマ字論者、福沢諭吉や加藤弘之らによって言文一致が唱えられた。これらの言文一致の主張は、物集高見(もずめたかみ)らの論文、三遊亭円朝の講談筆記、二葉亭四迷や山田美妙らの口語小説の発表などで具体化され、さらには正岡子規の写生文運動や自然主義文学の興隆によって、文学面では言文一致が確立された。このように言文一致は文学者が積極的に関わって、いわば「民間主導」で進められてきたものであったという。

「標準語政策」は文学以外の領域でも始まり、学校現場を通じて広まった。慶応年間に始まった言文一致は大正末期には一般新聞雑誌にも採用され、昭和21年(1946年)に法令文や官庁の公用文も口語体になって完成された。

 

<注26

■佐藤能丸著『明治ナショナリズムの研究』(芙蓉書房出版1998年刊)参照。

 

<注27

■浅野和三郎著『世界的名霊媒を訪ねて』(心霊科学研究会1970年版)192頁~193頁参照。

 

<注28

■丸山真男著「歴史意識の古層」:『丸山真男全集、第10巻』(岩波書店所収)参照。

丸山真男(1914年→1996年)は「歴史意識の古層」の中で、日本人に固有な思考パターンが歴史的に存在することを古事記や日本書紀などから見ることができると述べている。この思考パターンを「つくる」「うむ」「なる」として、「古事記」を取り上げて解説した。「古事記」の冒頭においては、天地の初めのようすから「神」が次々に「成」って、最後にイザナギの命・イザナミの命が「成」ってきて、この二神による「国生み」「神生み」が始まることが述べられている。このことから丸山は「つぎつぎになりゆくいきほひ」(45頁)に原型発想を見出すことができるとする。ここからこの世界は、それ自身に内在する力・勢いによって次々と「成」ってきた世界であるとする(→キリスト教でいう創造神によってつくられた世界とは異なる)。

またこの単純なフレーズは「どの時代でも歴史的思考の主旋律をなしてはいなかった。むしろ支配的な主旋律として前面に出てきたのは、儒・仏・老荘などの大陸渡来の諸観念であり、また維新以降は西欧世界からの輸入思想であった。ただ右のような基底範疇は、こうして『つぎつぎ』と摂取された諸観念に微妙な装飾をあたえ、ときにはほとんどわれわれの意識を超えて、旋律全体のひびきを『日本的』に変容させてしまう。そこに執拗低音としての役割があった」(45頁)として、外来思想が日本的に変容されていく過程を解説した。

 

<注29

■平川祐弘監修『小泉八雲事典』(恒文社2000年刊)386頁参照。

安藤勝一郎著、京都女子大学「東山論叢」第1号(昭和24年)参照。

 

<注30

■研究社出版1968年刊『日本の英学100年』明治篇、446頁、113頁参照。

 

<注31

■秋山美智子著「父浅野和三郎のこと」:浅野和三郎著『心霊講座』(潮文社1999年刊)所収。秋山美智子は浅野和三郎が「心霊研究の道」に入った理由を以下のように述べている(前著623頁)。

①先の「吹雪」の発想がある種のインスピレーションによって成ったこと。

②恩師、小泉八雲先生が、怪談妖怪等日本の古いものに興味を示され、その影響を受けたと思われること。

③外国文学翻訳中、「スケッチブック」「クリスマスカロル」「奇々怪々」等で幽霊譚に触れたこと。

④三男三郎が原因不明の発熱を起こし、それが、行者の予言通りの日に治癒したこと。

⑤妻、多慶子が優れた霊能者であったこと。

 

 

◆浅野和三郎研究:目次

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