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日本における霊的潮流

目 次

 

①.はじめに

・全体の構成

・霊界主導による普及運動の経路

19世紀の世界史

・二つの宣言

 

②.日本における霊的潮流

ア)霊的潮流の本流

・神道系の復興運動

・江戸時代末期

・本格的な流入

・スピリチュアリズムの発展期

イ)スピリチュアリズムの翻訳・啓蒙書

・出版による霊的環境の整備

・高橋五郎

・平田元吉

・平井金三

・その他

ウ)文学者と心霊

・夏目漱石

・芥川龍之介

 

③.スピリチュアリズム流入の日本的な特徴

ア)西洋とは対照的な経路

・スピリチュアリズム普及の経路

・アカデミズムにおいて心霊現象研究が先行した理由

イ)スピリチュアリズム流入に関する私見

・流入ルートの側面から

・霊的土壌の側面から

 

<注1>~<注31

 

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①.はじめに

☆全体の構成

1848331日にアメリカのニューヨーク州ハイズヴィルで起きた地縛霊によるラップ現象は、霊界主導による“物的地球を霊的に刷新する運動”の幕開けであった(注1)。これ以降“スピリチュアリズム(=霊的知識)”は世界各国に広まっていった。当ブログではスピリチュアリズムが「アメリカ→イギリス→日本」という経路を辿って日本に流入してきた過程を、川の流れに譬えて“霊的潮流”と表現した。

この“霊的潮流”には大きな流れである“本流(=霊的潮流の本流)”と、この時期各国で散発的に発生した“宗教界の霊的な浄化運動(=傍系としての霊的潮流)”の二面がある。本稿においては江戸時代末期から大正期にかけて、日本にスピリチュアリズムが流入し普及していく過程を、“霊的潮流”という言葉をキーワードにして概観してみた。

 

全体の構成は大きく「日本における霊的潮流」「江戸末期~明治期」「明治末期~大正期」に分けた。まず「江戸末期~明治期:その1」では心霊研究の嚆矢と言われている平田篤胤と「迷信と俗信」を、「江戸末期~明治期:その2」では井上円了の妖怪研究と「コックリさん」「催眠術」を取り上げた。さらに「明治末期~大正期:その1」では福来友吉の千里眼事件を、「明治末期~大正期:その2」では霊媒の三田光一と明治時代の神智学ブームを取り上げた。

 

なお本来であれば全ての個々人に敬称を付すべきところ、本稿においては文章全体を統一する必要から敬称を省略した。ご了承願いたい。

 

☆霊界主導による普及運動の経路

霊界主導で始まった物的地球を「霊的に刷新するための運動(新スピリチュアリズム:New Spiritualism Modern Spiritualism)」は、ニューヨーク州ハイズヴィルで1848331日の晩に、フォックス家の姉妹と地縛霊の“ラップ(叩音)による会話”で始まった。この霊界主導で始まった“スピリチュアリズムの普及運動”の幕開けを、事前に背後霊を通して受信していた者がいた。

その受信者とは「調和哲学(哲学的スピリチュアリズム:Philosophical Spiritualism)」を説いたアンドリュ-・ジャクソン・デイヴィス(Andrew Jackson Davis1826年→1910年)であった。デイヴィスは1848331日のメモ(または日誌)に次のように記している。「けさ日の出頃、寝ている私の顔の上を温かい息が吹き抜けた。そして優しく、しかし力強い声で“友よ、いよいよ仕事が開始された。見よ、生きた証拠が生まれようとしている”と言った。いったい何のことだろうと、一人考えていた」(注2)。これを今風に言えばテレビドラマがオンエアーされる前に、“番宣(番組宣伝)”が流される状況と似ている。

 

この霊界主導による運動の口火は、先進国の大都会に住む上流階級出身者が受け取ったものではなかった。当時の二流国家の農業国アメリカ(注3)の片田舎に住む、名もない姉妹が地縛霊の交信者となって普及運動の口火が切られたのであった。

このようにして口火が切られた“スピリチュアリズムの普及運動”は、またたく間にアメリカ中を席巻した後、大西洋を渡ってヨーロッパに舞台を移して、各国の上流階級から一般庶民まで巻き込んだ一大ブームとなった。そして当時の先進国であるイギリスやフランスを発信地として、スピリチュアリズムは全世界に向けて広まっていった。

 

スピリチュアリズムは日本や中国が霊界から受信して、そこから世界に向けて発信されたのではなかった。なぜなら19世紀は白人至上主義の時代であり、キリスト教の宣教と重ね合わせた形で、西洋から中南米・アジア・アフリカへという“大きな流れ”が存在していたからである(注4)。霊界側はこのような地上世界の勢力図を上手に使って、霊的潮流を全世界に行き渡らせていった。

 

よく言われるように“定評ある高級霊からの霊界通信”にはキリスト教的な“いろ”が付いている。それは通信の受信者にイギリスやフランスの霊媒が用いられたためであり、このため「霊媒現象のメカニズム」(注5)からも明らかなように、どうしても霊界通信にはキリスト教的な“いろ”や、西洋的な価値観が付き纏ってしまうからである(→霊媒が日本人や中国人であれば、同様に通信内容に人種特有の“いろ”が付く)。そのような欠陥はあるものの高級霊からの通信の受信者に日本や中国の霊媒を選ばずに、イギリスやフランスの霊媒を選んだのは、ひとえに当時は「東洋→西洋」という流れよりも「西洋→東洋」という流れの方が、1800年代後半から1900年代前半の世界においては最も各国の人々に受け入れやすい、との地上側の事情を霊界側が利用したものと思われる。

 

この霊的潮流は、日本には明治時代に西洋の各種思想とともに断片的に流れ込んできたが、20世紀初頭の明治末期から大正時代にかけて、心霊関係の書籍の翻訳(英語→日本語)という形で、主にイギリス系のスピリチュアリズムが流入して一大出版ブームが起きた。大まかに言えば霊的潮流は、主として「アメリカ→イギリス→日本」という経路を辿って日本に流入してきたと言える。

 

19世紀の世界史

“ハイズヴィル事件”が起きた1800年代の時代背景を大まかに押さえておきたい。

18世紀のイギリスでは産業革命によって毛織物産業が急成長したが、その背景には資本の蓄積や「大西洋三角貿易」で得た豊富な原料、そして「エンクロージャー」によって、農村から都市への人口流入による安価な労働力の確保などがあった。その後のイギリスは、19世紀に入ると石油やモーターを動力源とする重工業中心の第二次産業革命がおこった。

 

このような急速な工業化は、副産物として都市部への急激な人口の流入、これに伴う住環境の悪化、貧困層の増大などをもたらした。このように資本主義の影の部分が顕わになってくると各地で社会問題が発生してきた。この過程で社会主義者や労働者階級が台頭してきて、労資の対立が徐々に表面化するようになってきた。1837年頃には最初の組織的な労働運動であるチャーチスト運動がイギリスで起きた(→労働者階級の普通選挙権獲得運動)。

一方パリでは2月革命(18482月)がおこり、共和主義者と社会主義者による臨時政府が樹立された。ベルリンやウィーンその他の主要都市でも一時革命状況が出現した。この頃の西洋社会では、さまざまな思想傾向を持つ労働者が集まって、各地に秘密結社が作られ、活発に活動を行っていた時代でもあった(注6)。その結社の目標とするところは、直接行動(暴力の行使を肯定する)によって革命を達成し、それによって自らが理想とする社会を実現することにあった。このように従来までの価値観が揺らぎだして、変革を求める機運が高まりを見せていた時期が19世紀の西洋社会であった。

 

19世紀から20世紀初頭にかけてのアメリカは、西欧社会の中では明らかに後進国であった。18465月から18482月にかけて、テキサスの所属を巡ってアメリカ・メキシコ間で戦争が起きた。戦争に勝利したアメリカはカリフォルニア・ネバタ・ユタ・その他の広大な土地を領有した。そのカリフォルニアでゴールド・ラッシュが起きた。発端は18481月下旬にサンフランシスコの東方コロマで製材所を建設していた大工が、アメリカ川から引いた水車用水路で偶然に金鉱石を発見したことであった(注7)。この金発見のニュースは瞬く間に広がり、1849年に一獲千金を夢見る大勢の野心家がカリフォルニアに大挙して押し寄せてきた。

 

19世紀後半のアメリカは「金ぴか時代」と言われて「自由競争と経済の放任主義」が歓迎された時代であった。「南北戦争後~20世紀初頭」にかけてのアメリカには、鉄鋼業、製造業、輸送業で巨万の富を蓄えた富豪たちが数多くいた。カーネギーは「鉄鋼王」、ロックフェラーは「石油王」と呼ばれた。当時の「金ぴか時代」という名称は「トム・ソーヤの冒険」で知られたアメリカの作家のマーク・トウェイン(1835年→1910年)の同名の小説からとって名付けたものであるという(注8)。20世紀初頭ニューヨークのマンハッタンには相次いで高層ビルが建てられた。このマンハッタンの摩天楼は、国力が右肩上がりで成長が著しい国に特徴的に見られる“自己顕示欲の現れ”ともいえる。

このように“ハイズヴィル事件”があった19世紀後半の時代背景を一口で言えば、「金ぴか時代」という言葉に象徴的に見られるように「政界、経済界、宗教界を問わず、あらゆる方面がさまざまなスキャンダルにまみれた」(注8)物質至上主義と社会矛盾に満ちた時代であったと言える。

 

☆二つの宣言

当時の農業国家で西欧社会から見れば二流国家であったアメリカ。そのアメリカの一寒村のニューヨーク州ハイズヴィルで、1848331日の晩に地縛霊を使ったラップ現象という形で、物的世界を霊的に刷新する“スピリチュアリズムの普及運動”の口火が切られた。この時のラップという単純な通信手段はその後発展して、霊的真理を地上に降ろして「地上の悲劇」と「霊界の悲劇」を解消するための洗練された手段へと発展していった(注9)。

このようにハイズヴィルのラップ現象とは、霊界側の“地上介入の意思”を示した現象であり、霊的潮流が本格的に地上世界に流れこむ際の端緒となった事件であった。1848年という年は期せずして相対立する二つの陣営から、それぞれの「宣言(共産党宣言、スピリチュアリズム宣言)」が出された象徴的な年になった。興味深いことに何時の時点においても、何らかの霊的な動きがある時は対極にある物質界にもそれなりの動きが起きており、両者は連動関係にあるように見える。

 

②.日本における霊的潮流

ア)霊的潮流の本流

☆神道系の復興運動

日本では江戸時代末期に、教派神道の誕生につながる民衆を基盤とする「神道系の復興運動」が起きていた。一般に「信仰復興運動(リバイバル・ムーブメント)」とは、近代において主にプロテスタント系の集会で情緒的な高揚観を引き起こして、参加者に「回心体験(=強い信仰覚醒)」を起こさせることを目指す運動のことを指す。

江戸時代末期は教義や組織を持たない庶民信仰が、信者の病気治癒や商売繁盛などの現世利益の要求に応える形で次々とグループ化して、神道系の教団として誕生して霊的活動が活発化した時期であった。この現象を「神道系の復興運動」と呼んでいる。いわば宗教界の霊的な浄化を目指した“傍系としての霊的潮流”と言える現象である。

“ハイズヴィル事件(1848年)”が起きた頃の日本は、このように政治的にも思想的にも霊的にも江戸時代末期の激動期にあった(注10)。

 

☆江戸時代末期

19世紀前半、平田篤胤は異界情報の持ち主である子供から聞き取り調査をして、幽冥界に関する資料収集を行い、『仙境異聞』や『勝五郎再生記聞』を著した。このような篤胤のフィールドワークによる幽冥界の資料収集や、文献的な調査研究の手法は、「心霊研究や民俗学の研究に通じるものがある」と指摘されている。さらに篤胤の調査方法は、19世紀末にロンドンの心霊研究協会(SPR)でガーニー、マイヤース、ポトモアが、当時人々の間で起こった「偶発的な現象」を収集し、これを整理分類して『生者の幻影』を著したが、この手法と共通する部分があるという。

このような篤胤の幽冥界の資料収集によって「日本の心霊研究は始まった」として、「平田篤胤は日本における心霊研究の先駆者」(注11)として位置付けられている。

 

☆本格的な流入

江戸時代の檀家制度によって、当時の支配宗教であった日本仏教は、藩幕体制の中に組み込まれて形骸化・権威化していた。このような宗教界の現状に対して、幕末期における復古神道の誕生から「神道系の復興運動」に至るまでの流れ、いわば“傍系としての霊的潮流”は当時の「宗教界を浄化」して、硬直化していた霊的土壌を耕すという側面を持っていた。この潮流によってそれまで沈静していた日本の霊的世界は活性化されていった。

 

そして20世紀初頭になって、やっと“霊的潮流の本流”を受け入れるだけの霊的土壌が、日本という国の中に出来上がってきた。この“本流”は明治時代末期から大正時代にかけて翻訳という形をとって、本格的に日本に流れ込んできた。

しかしこの“霊的潮流の本流”は、昭和の初期までは細々とした一筋の流れであった(→本稿ではこの時期を「日本におけるスピリチュアリズムの黎明期」と呼ぶ)。しかしこの流れは、昭和4年を境として大きく流量を増やして日本に押し寄せてきた(→本稿ではこの時期以降を「日本におけるスピリチュアリズムの発展期」と呼ぶ)。

 

☆スピリチュアリズムの発展期

昭和の初期、大きく流量を増やして流入してきた霊的潮流は、その内容から見て二つの時期に分けることが出来る。まず「日本におけるスピリチュアリズムの発展期」の「第一期」は昭和4年(1929年)から昭和57年(1982年)までの期間にあたる。前半の1945年までは「国家神道の体制内思想」として、「国体思想(神→天皇→民衆)」に沿った形のスピリチュアリズムの普及がなされた。戦後の普及活動は「伝統的な祖霊観や霊魂観」が前面に出た形で行われた。この「第一期」は日本の霊的レベルの底上げを図りながら「時期の到来」を待っていた時期と言える。

 

昭和の末期に「近代天皇制イデオロギー」思想から大きな影響を受けた浅野和三郎の「同行者」や後継者が相次いで亡くなり、この時期スピリチュアリストの世代交代があった。いわば「近代天皇制イデオロギー」の呪縛から解き放たれた、柔軟な思考を持ったスピリチュアリストの出現による新しい時代の到来であった。この世代交代はスピリチュアリズムの世界に新しい風を呼び込んだ(→この時期、日本という国が霊的面で「時期の到来」を迎えたと言える)。

昭和の末期バブル景気という拝金主義の風潮に日本中が浮かれていた頃、霊的な環境整備が「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」関連書籍の相次ぐ刊行という形をとって静かに進められていた。そして1990年代後半以降に訪れたインターネットの発達という“時代の追い風”に乗って“霊的潮流の本流”は再び表舞台に浮上してきた。“スピリチュアリズムの本質(神→人類)”を前面に掲げた活動が始まった。

昭和57年以降「第二期」が始まり、日本における“スピリチュアリズムの普及運動”は新たな展開を見せている。

 

イ)スピリチュアリズムの翻訳・啓蒙書

☆出版による霊的環境の整備

日本では「欧米の研究とは全く独立に」平田篤胤によって心霊研究が行われてきた。明治期に入ると「サイキカル・リサーチ(心霊現象研究)」や「スピリチュアリズム(心霊主義)」は、西洋の各種思想とともに断片的に日本に流れ込んできた(注12)。

1848年に霊界主導で始まった“物的地球を霊的に刷新する運動”は、明治末期から大正時代にかけて「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」の出版ブームという形で、本格的に日本に流入してきた。その際に篤胤に代表される心霊研究の流れ、つまり日本において霊的土壌を活性化させる役割を担ってきた「傍系としての霊的潮流」は、この時“前座”としての役目を終えて“霊的潮流の本流”に合流した。

 

日本における“霊的潮流の本流”は西洋の心霊関係の書籍の翻訳(主に英語→日本語)という形を通して、主としてイギリスを経由して流入してきた。高橋五郎や平田元吉などは著書を通してスピリチュアリズムの普及啓蒙を行ない、この分野における先駆けとして霊的知識普及のための“インフラ整備(→本来は社会基盤の整備という意味だが、本稿では霊的な環境整備の意味として用いる)”という地ならし的な役割をはたした。

 

☆高橋五郎

この時期の心霊関係の著者で特に活躍したのは高橋五郎(1856年→1935年)であった。高橋は聖書やキリスト教系の著作家、バイロンなどの翻訳家、評論家、英語学者として知られており、明治末期から大正時代にかけて、多くの宗教・哲学・教育などに関する論文や著述を発表している。また西洋の心霊関係の文献紹介や啓蒙書の刊行を通して、心霊知識の普及に大きな貢献をした。

 

明治5年(1872年)9月にキリスト教の宣教師会議(長老派、改革派、アメリカン・ボード)が横浜のヘボン診療所で開催されて、共同事業として聖書の日本語訳が決議された。明治6年(1873年)はキリスト教の宣教が解禁(→キリスト教禁制の高札が撤去されるという形で)された年であったが、その翌年の明治7年(1874年)3月に翻訳委員会の初会合が横浜の山手で行われた。この委員会に宣教師S.R.ブラウンの協力者(いわば助手)という形で、当時18歳の高橋五郎は参加した。まもなく日本語に翻訳するための「翻訳委員社中」が発足して、聖書の日本語訳の事業が始まった。明治20年(1887年)に日本語訳聖書の最初の完本『明治元訳』が完成した(注13)。

 

高橋五郎は明治36年(1903年)に『神秘哲学』(昌文堂)を出版して、海外のスピリチュアリズムや心霊研究の動向を本格的に紹介している。高橋の心霊に関する主な啓蒙書には『心霊万能論』(前川文栄閣、明治43年:1910年刊)、『新哲学の曙光』(前川文栄閣、明治43年:1910年刊)、『霊魂実在論』(日高有倫堂、明治44年:1911年刊)、『霊怪の研究』(嵩山房、明治44年:1911年刊)、『心霊哲学の現状』(大證閣、大正8年:1919年刊)、『幽明の霊的交通』(広文堂書店、大正10年:1921年刊)がある。翻訳書にはイギリスのデゼルチス著(V.C. Desertis)『心霊学講話』(玄黄社、大正4年:1915年刊)や、オリヴァー・ロッジ著(Oliver Lodge)『死後の生存』(玄黄社、大正6年:1917年刊)などがあり、海外の心霊関係文献の紹介や啓蒙書を多数著した。

 

千里眼事件が起きた明治43年(1910年)に刊行された『心霊万能論』では、「人はパンのみにて活きる者に非ず、霊心問題は人生至要至急の講究事件」と述べて、霊的観点に立った生き方を主張している。ここからも高橋はスピリチュアリズムを「生き方の問題」として理解していたことが分かる。また当時の英国心霊研究協会(→高橋はSPR を“心霊探求会”と訳している)の動向も紹介している。さらに『心霊万能論』の「第六章、今日の交霊術」の中でブラヴァッキーを批判しているが、この批判の記述から高橋はスピリチュアリズムと神智学の違いを理解していたことが見て取れる。

高橋の『新哲学の曙光』では、スピリチュアリズムは精神界と物質界を統合して従来の世界観を根本的に変革する新思想であると紹介されている。このように同時代の数多い翻訳者・スピリチュアリズム紹介者の中でも、高橋は一頭地抜け出たパイオニアであった。

 

高橋は大正12年(1923年)323日に創設された心霊科学研究会の設立発起人の一人として、研究会の立ち上げに協力した。社会学者の田中千代松は「(高橋は)東京本郷元町の中村岩太郎邸における心霊科学研究会の発会に出席した・・・(心霊科学研究会が)浅野和三郎中心の会になっていったのを見れば、高橋五郎は受身の参加者であったのではあるまいか。関東大震災のとき高橋は67歳、燃える勢いで新たな方向に突進しつつあった浅野は49歳」(注14)と述べている。

明治から大正時代にかけて日本のスピリチュアリズムの黎明期に、西洋のスピリチュアリズムの動向を翻訳や啓蒙書を通して日本に紹介した高橋五郎は、比喩的に言えば霊的知識の普及という“バトン”をこの時、浅野和三郎に託したといえる。

 

☆平田元吉

平田元吉(1874年→1942年)には、フェヒネル著(フェヒナー:Gustav Theodor Fechner)『死後の生活』(丙午出版社、明治43年:1910年刊)、『心霊の秘密』(同文館、明治45年:1912年刊)、『近代心霊学』(人文書院、大正14年:1925年刊)などの心霊関係の著書がある。宮澤虎雄によると、平田元吉は第三高等学校のドイツ語教授であったが、海軍機関学校の外国語教官であった豊嶋与志雄(フランス語)と内田百間(ドイツ語)の後任の一人として、京都の第三高等学校から週1回講師として舞鶴に来たという(注15)。

 

平田元吉の著書に『死後の生活』があるが、これはフェヒネルの著書を翻訳したもので、内容は「死後の体」「死者との交流」「現世と来世の状態比較」「人と神」など心霊主義的な著書となっている。この『死後の生活』は絶版となったので、これを増補して書名を『近代心霊学』と改めて大正14年に出版している(注15)。

明治45年に出版した『心霊の秘密』は、欧米の心霊研究の詳細な紹介を始めて行なったものであり、この中でイギリスのSPRを“英国心象研究協会” と訳して(→高橋五郎は『心霊万能論』で“心霊探求会”と訳した)、設立目的や研究内容などを紹介した。千里眼事件については「第三篇、所謂透視及び念写」の中で、福来友吉の立場を援護した(注16)。

 

☆平井金三

平井金三(ひらいきんざ:1859年→1916年)は京都出身で、父は儒者・書家の平井義直(春江)、母は山科の西宗寺の出身である。“金三”の幼名は“鱗三郎”で、のちに“金三郎”と改めた。しかし外国人と交際するようになってから、呼びやすい“金三”で通すことが多かったという。平井金三の肩書は「言語学者・宗教家・思想家・僧侶・心霊研究家」と数多いが、東京外国語学校や慶応大学などで英語を教えている。評論家の姉崎政治(あねざきまさはる:1873年→1949年)、仏教学者の加藤咄堂(かとうとつどう:1870年→1949年)、フランス文学者の平野威馬雄(ひらのいまお:1900年→1986年)は平井から英語を学んでいる。また平井は明治22年(1889年)に神智学協会のオルコットを招聘したことで知られている。明治26年(1893年)には、シカゴで開催された世界宗教会議に参加して流暢な英語で弁舌をふるった(注17)。

 

平井は明治41年(1908年)に「心霊現象研究会(のちの心象会)」という心霊現象の実験団体を自ら組織した(注18)。また明治42年(1909年)には『心霊の現象』(警醒社)を著して、アメリカ滞在中に体験したサイコメトリー実験会の模様や自己の心霊体験などを記した。明治43年(1910年)にスティーブンソン(海軍機関学校の英語講師)と宇高兵作は共同でブラヴァッキーの書籍(ポイント・ローマ版)を共訳して『霊智学解説』(博文館)を刊行したが、この刊行に平井金三は深くかかわった(注19)。

 

☆その他

大正時代初期に『青い鳥』の作家モーリス・メーテルリンク(Maurice Maeterlinck1862年→1949年:1911年にノーベル文学賞を受賞)が日本に紹介された。メーテルリンクは1913年に『死』を著したが、この日本語版は栗原古城(栗原元吉:1882年→1969年)の訳によって『死後は如何』(玄黄社、大正5年:1916年刊)として出版されている(注20)。

メーテルリンクは『死』の中で「死は肉体からの開放」であると述べている。そして「生がこのような叡智を身につければ、天寿が尽きるとき、一日の仕事を済ませた人が夜毎帰宅の途につくように、自らの最期が来たことを悟って少しもじたばたすることなく、静かにこの世を去っていくだろう」と記した(以上『死後の存続』から:注21)。

スピリチュアリズムの浸透に危機感を持ったカトリック教会の保守的な教皇ピウス10世は、メーテルリンクの著書が教義に反するとして、全著作を191421日付けで禁書に指定した(注21)。

 

渋江保(1857年→1930年:この名前の他に、易軒、羽化仙史がある)は、江戸時代末期の医師・考証家・書誌学者である渋江抽斎の息子である。渋江保には多数の翻訳があるが、明治42年頃に催眠術や心霊に関する著作を数多く残している。そのうち『心象及び其の実験』(内外出版協会、明治42年:1909年刊)では、海外の心霊現象研究を紹介している。またこの頃、海外の心霊写真(→当時は「幽霊写真」と呼んでいた)も日本に紹介している。渋江はこの著書以外に『心理応用以心伝心術』『原理応用降神術』『学理応用遠距離催眠術』(以上明治42年:1909年刊)などを著している。

仏教学者の忽滑谷快天(ぬかりや かいてん:1867年→1934年)は、アメリカで出版されたアッディントン・ブルースの著書『心霊の謎』(森江書店、明治44年:1911年刊)を門脇探玄とともに翻訳して出版した(→フランスを含む欧米の心霊界の状況が記された本)。

 

ウ)文学者と心霊

☆夏目漱石

スピリチュアリズムは文学の世界にも多大な影響を及ぼした。明治期から大正期にかけてスピリチュアリズムから影響を受けた著名な作家としては、夏目漱石と芥川龍之介がよく知られている。この他に森鴎外は“実話”をもとにした『魔睡』(1909年)で催眠術を扱い、志賀直哉は『焚火』(1920年)で精神感応(テレパシー)を扱っている。

 

夏目漱石(1867年→1916年)がイギリスに留学した時代(1900年→1902年)は、ビクトリア朝(1837年→1901年)とエドワード朝(1901年→1910年)の境目の時期にあたり、この頃イギリス国内ではスピリチュアリズムが盛んであった。文学研究者によれば漱石と心霊との接点はこの時代にあるという。漱石の日記によれば、アンドリュ・ラング著(Andrew Lang)『夢と幽霊』を留学中の明治34年(1901年)39日に読んだと記されている。このことからも漱石は「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」に関心を持っていたことが分かる(注22)。

 

漱石の『吾輩は猫である』(明治38年、1905年刊)では当時の催眠術ブームを反映して、催眠術やテレパシーが取り上げられている。また短編集の『漾虚集(ようきょしゅう)』(大倉書店、明治39年:1906年刊)には「倫敦塔、カーライル博物館、幻影の盾、琴のそら音、一夜、薤露行、趣味の遺伝」が収められているが、これらの作品にはテレパシー・予知・幽霊などの心霊現象が数多く登場してくる。また『行人(こうじん)』(大正元年、1912年刊)では「千里眼事件」の影響を受けてか、テレパシー実験に熱中する人物が登場する。このように漱石は明治末期に話題となったサイキカル・リサーチ(心霊現象研究)を作品中で取り上げて、作中人物の性格描写に活かしている。さらに明治43年(1910年)秋から翌年春にかけて『東京朝日新聞』及び『大阪朝日新聞』に『思い出す事など』を連載している(注22)。「合理主義のリアリズム作家」と言われた漱石であったが、このように心霊の世界に並々ならぬ関心を抱いていたことが作品を通して窺える。

 

☆芥川龍之介

浅野和三郎は大正5(1916)121日退職辞令により海軍機関学校を退職した。浅野の後任には同年7月に東京帝国大学英文科を卒業したばかりの芥川龍之介(1892年→1927年)が就いた。当時の芥川は就職の当てもなく「いい口があるまでぶらぶらしているつもりだ」(注23)とのん気に構えて「大学院に就職した」。芥川を海軍機関学校に紹介したのは、浅野とも旧知の第一高等学校の英文学教授の畔柳芥舟(くろやなぎかいしゅう、畔柳都太郎:1871年→1923年)であった(注23)。畔柳の一高の英語教授時代の同僚には夏目漱石がいる(→芥川は漱石邸で開かれた木曜会に出席して、漱石から文章表現についての批評を受けている:平岡敏夫ほか編『夏目漱石事典』勉誠出版2000年刊、10頁参照)。

 

芥川文学や芥川の人間像は、各研究者によって詳細に研究されてきている。

芥川の怪奇趣味は、幼少期の回想を綴った『追憶』によれば生得的なもののようである。芥川が一高から帝国大学時代に大学ノートに書いた『椒図志異(しょうずしい:明治45年頃)』には、彼が「旧制高校から大学時代にかけて、先輩、知己、友人、家族、その他から聞き、また読書などによって識り得た『妖怪』談等の類を分類し、清書したもの」(注24)が書かれてあり、妖怪、天狗、河童、幽霊・怨念などの怪異譚が記載されている。

また柳田國男の『遠野物語』は明治43年(1910年)6月に自費出版として350部刊行されたが、芥川は程なくこの本を入手しており、この本から強い影響を受けたという(注25)。

 

芥川の怪奇・心霊的なものに対する関心は、生得的なものの外に海軍機関学校の同僚のスティーブンソン(神智学)の影響や、千里眼事件や浅野が連座した大本事件、心霊科学研究会の立ち上げなどから影響を受けて強まったと考えられる。芥川は怪奇幻想作家としてこの手の作品を数多く著している。また『煙草と悪魔』や『きりしとほろ上人伝』など異国趣味からキリスト教を扱った作品も多い。晩年の作品の『点鬼簿(てんきぼ)』(大正15年刊)では、実母が狂人であることを述べている。この頃の芥川は神経衰弱・胃腸病・不眠症等で薬漬けの日々で幻覚症状も起きている(→芥川は霊的に敏感体質だったのではないだろうか)。

 

なお芥川の“心霊”に関する興味の範囲は、彼の著作等を通してみる限りでは、あくまで表面的な怪奇趣味に留まっており、心霊が生き方にまで昇華されてはいなかったようである。そのため自殺という行為に走ったのであろう。作家の「心霊に対する関心と自殺との関係」という観点から、自殺した著名作家の生き方を見れば、表面的で生半可な心霊に対する興味は、その人の精神状態によっては悲惨な結末を迎える場合がある、ということが分かってくる(→ひいては死後の世界における悲惨な状態へとつながる)。

自死した著名作家としては、197011月に東京・市ヶ谷の自衛隊総監部で割腹自殺した三島由紀夫や、1972年に自殺した川端康成が知られている。彼らの著作等から見る限りでは、二人の心霊に対する興味の範囲は芥川と同様に表面的な関心に留まっており、それが生き方にまで反映されていなかった、そのため自殺という行為に及んだと言えよう。

 

③.スピリチュアリズム流入の日本的な特徴

ア)西洋とは対照的な経路

☆スピリチュアリズム普及の経路

日本では「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」は、明治末期から大正期にかけて翻訳という形で次々と紹介され、この時期に本格的に流入してきた。これは心霊関係の翻訳書や啓蒙書の出版点数から判断してこのように言える。

 

スピリチュアリズムがブームとなった“大まかな経緯”を西洋と比較してみれば、イギリスやフランスなどでは庶民レベルの家庭交霊会を通してスピリチュアリズムがブームとなり、心霊現象を科学的に解明するという機運を「下から上へ」という方向で盛り上げていった。

これに対して日本では、イギリスやフランスとは対照的にアカデミズムの世界が「火付け役」となって始まったため、いわば「上から下へ」という方向性がみられる。

なお明治30年代の催眠術ブームも、「近代科学としての催眠術」という形でアカデミズムの世界がリードしていた。日本における「上から下へ」の流れは、たとえば当時の学術雑誌『東洋学芸雑誌』(明治183月号)に掲載された箕作元八の「奇怪不思議の研究」による心霊の紹介、井上円了による「不思議研究会」の開催や「妖怪研究」、さらには「千里眼事件」などに見ることができる。ここからアカデミズムの世界が発端となって、マスコミを通して庶民レベルに心霊ブームが広がっていった状況を見ることができる(→背景に庶民の霊的なものに対する柔軟な受容性があるが)。

 

周知のように日本における「心霊現象研究(=サイキカルリサーチ)」は、明治43年(1910年)に福来友吉(東京帝国大学文科大学助教授)と今村新吉(いまむらしんきち:1874年→1946年、京都帝国大学医科大学教授)によって、御船千鶴子(みふねちづこ:1886年→1911年)の透視実験や長尾郁子(ながおいくこ:1871年→1911年)の念写実験が行われたが、そこに大学関係者が立ち会うという形で始まった。このように日本における「物理的心霊現象の研究」は、アカデミズムの世界が口火を切る形でスタートした。

 

翻訳を除くスピリチュアリズム(=心霊主義)やサイキカル・リサーチ(=心霊研究または心霊現象研究)に関する代表的な書籍の発行時期を比較してみるとよく分かる。元明治大学教授で心理学者の小熊虎之助(おぐまとらのすけ:1888年→1978年)は大正7年(1918年)に『心霊現象の問題』(心理学研究会出版部)を刊行し、さらに大正13年(1924年)に『心霊現象の科学』を刊行した。これらの著書の中で小熊の立ち位置は「心霊現象を公正で科学的な態度で学術的に研究」する心霊研究者の観点(→証拠性を重視した懐疑的な研究者の視点)に立っており、この立場から当時の西洋の心霊現象研究を体系的に整理紹介したものであった。この著書『心霊現象の科学』を日本超心理学会会長の大谷宗司は、「本書は、超心理学初期の研究についての我国最初の本格的紹介批判の書である」(注26)と紹介している。

 

これに対して浅野和三郎が昭和3年(1928年)6月に刊行した『心霊講座』は、「簡単明瞭に要領が得られる参考書」として「心霊問題の基礎的知識の普及」という観点に立って出版されたものであった。浅野は『心霊講座』を2年間かけて「東西両洋に跨り・・・無数の心霊事実の中から一番正確味に富み又一番有意義と思考せられるものを選り出して適宜に分類」して書き上げた(注27)と記している。霊魂説の立場に立って心霊現象を系統立てて簡潔にまとめた『心霊講座』は、こののちスピリチュアリストのテキストとして用いられた。また心霊研究の理論構成に大きな影響力を及ぼした(→この出版趣旨から小熊の出版物とは性格が異なっていることが分かる)。

 

心霊現象に対して徹底して懐疑的態度をとった小熊虎之助の『心霊現象の科学』は、スピリチュアリズムの基本書となった浅野和三郎の著書『心霊講座』よりも先行して刊行されている。日本ではイギリスやフランスなどとは異なって「千里眼事件」に象徴的に表れているように、アカデミズムにおける「物理的心霊現象の研究(=サイキカルリサーチ)」が、庶民レベルにおけるスピリチュアリズムの普及に先駆けて起きている。

 

☆アカデミズムにおいて心霊現象研究が先行した理由

このようにアカデミズムの世界において心霊現象研究が先行した背景を、日本近代文学研究者の一柳廣孝(横浜国立大学教授)は次のような理由をあげて説明している(注28)。

一柳は「心霊学がアカデミズムの注目を集めた理由」として、「明治40年代に積極的に心霊学の動向を紹介していたのは、(→『東洋学芸雑誌』や『哲学雑誌』などの)アカデミズム系の雑誌だった」こと。催眠術は「台頭しつつあった心理学と心霊学が密接に関係していた」分野であったこと。物理学との関連では相対性理論や量子力学などの確立によって古典物理学の破綻があったこと。そして「(当時の)日本のアカデミズムがさかんに心霊学を紹介した」事情があったことなど。このようなことが背景にあって「大規模なパラダイム・チェンジのなかで、心霊学はあらたな“科学”として注目を集めた」と述べている(→ここから「心霊科学」という用語が登場してきた)。

さらに「千里眼事件」の背景として、一柳は心理学の分野からは心霊学への接近に警戒心が起こり、物理学の世界からは物理学教育の危機、さらに「物理学の守備範囲に心理学、医学が介入して、学問の守備範囲を犯したことへの不満」などがあったという。

 

イ)スピリチュアリズム流入に関する私見

☆流入ルートの側面から

このような「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」に関する動向が、庶民レベルのスピリチュアリズム普及に先駆けてアカデミズムの世界で起きた理由を、筆者は「流入ルートと霊的土壌」の両面から次のように考えてみた。

 

当時の日本を取り巻く国際情勢から(→アジア諸国や太平洋諸島が次々と西洋諸国の植民地や従属国にされていった状況)、政府は近代化政策を推進させて早急に西洋諸国の国力レベルに追いつかなければならないという強い方針を持っていた。この方針の下で当時の日本は、西洋の思想・文物を取り込んで国内の近代化政策を積極的に推進させるために、イギリスを近代化の手本とした。これに対してイギリス側の事情としては、ロシアの南下政策(→不凍港確保)に対抗して植民地インドの防衛上の理由から日本との関係を緊密化させる必要があった。このようなことが要因となって、明治期の日本はイギリスと良好な関係を保っていた。

 

そのためイギリスからの思想の流入は、アカデミズムに最も受け入れ易いルートであったといえる。このルートを通って流れ込んできたものの中に、スピリチュアリズムやSPR(心霊研究協会)における研究動向も含まれていた。当時イギリスでは「スピリチュアリズムの科学性」を志向する傾向が強かったことも(→SPRの活動はサイキカル・リサーチを目指していた)、日本のアカデミズムに受容される要因であったと言えよう。

このようなイギリスにおける心霊に関する動向は、一柳の指摘にもあるように早い時期にアカデミズム系の雑誌に取り上げられて日本に紹介されてきた。このようにイギリスからのルートを通って、アカデミズムに西洋の心霊研究者の研究動向が入ってきたことが、「上から下へというルート」が出来上がった大きな要因であったと思われる。

 

小熊虎之助は不思議現象の大半は取るに足らぬものだが、「おびただしい錯誤と詭妄との底に、西洋の研究家の熱心な努力の結果として、我々がかなり問題としなくてはならぬ真実の現象も発見されている」(『改訂版:心霊現象の科学』序)という見方を示して、西洋の心霊研究者の研究に敬意を払っている。イギリスからの情報によって西洋の研究者の研究成果に刺激を受けた小熊は、心霊現象研究を体系的に整理紹介した著書『心霊現象の問題』を大正7年という比較的早い段階で出版している。

このように小熊は一連の研究によって、アカデミズムの立場から庶民の間に流布しているさまざまな不思議現象の分類整理を、井上円了とは異なった立場から行ったといえよう。「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」が科学的志向の強いイギリスからの流入ではなく、再生やカルマを中心テーマに据えた宗教的志向の強いフランスからの流入であったなら(→カルデック流スピリチュアリズムまたはスピリティズム)、また違った展開になったのではないだろうか。

 

☆霊的土壌の側面から

スピリチュアリズムは1852年にアメリカ人霊媒によってイギリスに流入して、ラップやテーブル・ターニング等という心霊現象を伴った形で、庶民の間に家庭交霊会というブームをもたらした。当時のブームの状況は「小さな家庭内サークルでのプライベートな霊媒たちの活動は、プロの霊媒による公開交霊会とは比べものにならないほど身近なもので、多くの信者の生活に心霊主義を持ち込むきっかけとなった。他人の家具が変な具合に動き回ったという記事を読むよりも、自宅の食卓の妙な動きをこの目で見届ける方が遥かに心躍る体験なのだ」(注29)、この言葉に端的に現れている。このように庶民の間に広まったスピリチュアリズムは「霊魂や霊の世界が実在すること」「顕幽の交信が可能なこと」を、具体的な“事実”という形で証明して見せた。

 

歴史的事実として西洋ではキリスト教の伝播の過程に於いて、異端や魔女狩りなどといった形で土着のシャーマニズムは駆逐され、社会の裏側に押しやられてしまった。このような歴史を辿る中で霊媒現象を通して死者の霊が出現するという観念、つまりアニミズムやシャーマニズムが持っている死生観や霊魂観は、ことごとく表舞台から一掃されてしまった。このような経緯が存在するため“スピリチュアリズムの普及運動”はキリスト教と対峙する形をとることになる。そこには一種の緊張感が存在していた(注30)。

ビクトリア朝時代、庶民の間から始まった“霊媒(→「現代版シャーマン」または「あか抜けしたシャーマン」等と表現されている)”による家庭交霊会のブームは、いわばカラカラに干上がった霊的土壌に、クワを入れて耕すという役割を担っていた。そしてこれらのブームによって、キリスト教社会において従来まで抑圧されてきた「霊魂や霊媒現象の復権」に道を付けることに繋がった。西洋におけるこのような庶民レベルのスピリチュアリズムのブームは、心霊現象の科学的解明に道を付けることに繋がって、構造的にはいわば下から押し上げられる形で、SPR(心霊研究協会)などのアカデミズムにおける検証が始まったといえよう。

 

日本では加持祈祷を行う修験者や、「ごみそ、いたこ、のろ」といった名称で呼ばれている“霊を仲介する者”の存在などを通して、身近な形で「霊魂や霊の世界が実在すること」「顕幽の交信が可能なこと」が、何の疑いもなく信じられてきた。そして古くから庶民の間に存在した霊魂の存在を前提とした素朴な霊魂観や祖霊観が、宗教に影響を及ぼす形で同居していた。

6世紀の日本に中国土着のシャーマニズムの影響を強く受けた仏教が入ってきたが、この仏教は国内の宗教や習俗と結びついて、祖先崇拝を取り込んだ形の独自の「日本仏教」を作り上げていった。思想史家の丸山真男(1914年→1996年)は、古層としての文化の上に各時代に流入してきた異質な宗教や文化、外来思想などを重層構造にして次々と取り込み、それらが日本的に変容して共存されていく過程を「歴史意識の古層」(注31)の中で解説している。この伝統的手法に則る形で、日本に入ってきたスピリチュアリズムも土着の宗教や習俗と融合して、祖霊崇拝を取り込む形の「和製スピリチュアリズム」として唱えられていった。

 

このような背景があったため、日本では様々な迷信が霊的土壌の中に紛れ込み混在してきた。日本ではアカデミズムにおいて心霊現象研究が先行したことと併せて、上から下への目線、つまり日本特有の霊的土壌から派生した「迷信の撲滅・排除」といった動き(→アカデミズムにおける井上円了や小熊虎之助などの仕事に見られる)が、スピリチュアリズムの普及に先行して存在した。この点が、西洋社会が霊的土壌の再構築作業を、庶民のスピリチュアリズムのブームといった過程を経て行ったのとは対照的になっている。

このため明治末期に本格的にスピリチュアリズムが入ってきたにもかかわらず、霊的土壌が未整備状態であったこと、さらに当時は「近代天皇制イデオロギー」全盛の時代であったこと、このようなことから「スピリチュアリズムの本質(神→人類)」を前面に掲げた活動は長らく低迷状態にあった。

 

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― 

<注1>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、7巻』(潮文社)151頁。近藤千雄訳『地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)103頁。

――(シルバーバーチは)一時的にインスピレーションがあふれ出たことはありますが、長続きしていません。このたびのコミュニケーションは組織的であり、協調的であり、監理・監督が行き届いており、規律があります。一大計画の一部として行われており、その計画の推進は皆さんの想像も及ばないほどの協調体制でおこなわれております。背後の組織は途方もなく巨大であり、細かいところまで見事な配慮がなされております。すべてに計画性があります。そうした計画のもとに(19世紀半ばに)霊界の扉が開かれたのです。このたび開かれた扉は二度と閉じられることはありません――

■近藤千雄訳『シルバーバーチのスピリチュアル・メッセージ』(ハート出版)99頁。

――唯一これまでの啓示と異なるところは、入念な計画に従って組織的な努力が始められたということです。それが、地上の年代でいえば19世紀半ばのことでした。今度こそは何としてでも霊的知識を地上に根付かせ、いかなる勢力をもってしても妨げることのできない態勢にしようということになったのです。その計画は予定通りに進行中です。そのことは、霊的知識が世界各国でさかんに口にされるようになってきていることでもお分りでしょう――

 

<注2>

■ジョン・レナード著、近藤千雄訳『スピリチュアリズムの真髄』(国書刊行会1985年刊)59頁~60頁、93頁、156頁参照。

 

<注3>

19世紀半ばにおける英米の国力の違いは各種資料によって明らかであるが、国民が受け止める一般的な印象については、浅野和三郎著『英文学史』(明治40年:1907年)の巻末付録「米国文学史」の記載が参考になる。

日本においてはアメリカ文学の紹介がイギリス文学に比べてかなり少なかったが(→現実に大正末頃までは少なかったという)、その理由を浅野は「アメリカの歴史の浅さ」と共に、当時は一般に「アメリカ文学は植民地の文学であり、イギリス文学の一支流と考えられていた」ことによると述べている。

この他に『日本の英学100年、明治編』(研究社1968年刊、106頁)、『日本の英学100年、大正編』75頁を参照のこと。

19世紀中頃のアメリカは、西部に広大なフロンティア(アメリカ国勢調査局長は、1890年の報告書にフロンティアが消滅した旨を記した:有賀貞・大下尚一他編『アメリカ史、2』山川出版社1993年、16頁)が広がっており、毎年大量の移民が押し寄せる“二流国家(農業国家)”と見られていた。そのため“本流たる霊的潮流”は、当時の二流国家のアメリカから、いったん一流国家のイギリスに移してそこから全世界に向けて発信された。

■西洋史を大雑把に俯瞰してみれば、17世紀後半から18世紀にかけては「フランスの世紀」であり、19世紀は「イギリスの世紀」と呼ばれている。

雑誌『ライフ』の1941217日号にヘンリー・ルースの「アメリカの世紀」という論文(→アメリカは「自由と正義の理想の原動力」となって世界をリードすべきであるとする論文)が掲載された。この論文は大きな反響を呼んだ。アメリカが「世界の警察官」として世界史に登場してくるのは、第二次世界大戦の戦勝国となった以降のことである。

 

<注4>

■皆村武一著『“ザ・タイムズ”にみる幕末維新』(中公新書1998年刊)によれば

――19世紀の「万国公法(国際法)」では、ヨーロッパ文明を有する国だけが文明国とみなされ、国際法上の主体として認められていた。文明国は、開拓・征服・割譲によって新たな領土を獲得し、相互にそれを承認し、確定する権利を有していた。世界は三つに分けられる。第一は「自主の国(ヨーロッパ諸国)」で完全な政治的承認がなされた国。第二は「半主の国(半未開国:中国や日本など)」で部分的な政治的承認が得られた国であり、西洋諸国は一定の条約を結ぶ(不平等条約)が、拒んだ場合は武力征服する。第三は「未開国(アジア・アフリカ諸国)」であり、「無主の地」として征服の対象とされた地域である(91頁参照)――。

■当時は西洋優位の考え方が「世界の常識」であった。ここに明治新政府がイギリスを手本として近代化政策を強力に推進させた理由があった。

 

<注5>

■「霊媒現象のメカニズム」は下記を参照してください。

http://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2013/10/post-c5c9.html

 

<注6>

■秘密結社の一つに「秘密結社・共産主義者同盟」があり、その幹部のカール・シャッパーから依頼を受けたカール・マルクス(Karl Heinrich Marx1818年→1883年)とフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels1820年→1895年)は、『共産党宣言』(共産主義者同盟のための綱領文書)を執筆して、18482月末にロンドンで出版した。この『共産党宣言』は「存在が意識を規定する」――物質がすべての基本であるとして、物質=経済構造を土台とした下部構造が、思想・文化・政治制度等の上部構造を規定する――という唯物史観に立って書かれたものであり、スピリチュアリズムとは対極に立った思想であった。

 

<注7>

■有賀貞・大下尚一・志邨晃佑・平野孝編者『世界歴史体系・アメリカ史1』(山川出版社1994年刊)359頁参照。

 

<注8>

■オットー・L・ベットマン著、山越邦夫・斉藤美加ほか訳『目で見る、金ぴか時代の民衆生活』(草風館1999年刊)265頁、266頁、268頁参照。

――「金ぴか時代」という言葉はアメリカの小説家マーク・トウェインが、1865年南北戦争前後のにわか景気に沸いた時代を呼んで用いた言葉である。トウェインがチャールズ・D・ウォーナーと共作で、小説『金ぴか時代』を出版したのが1873年の12月。それはまさしく南北戦争後のバブル経済が破綻し、金融恐慌に見舞われた年であった。また鉄道開発に絡む不正融資スキャンダルが政界を騒がせていた。・・・政治経済からいえば、金ぴか時代とはまさしく開発の時代だった(265頁)――

 

<注9>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、7巻』(潮文社)24頁。近藤千雄訳『地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)188頁。

――私たち霊団の仕事の一つは、地上へ霊的真理をもたらすことです。これは大変な使命です。霊界から見る地上は無知の程度がひどすぎます。その無知が生み出す悪弊は見るに耐えかねるものがあります。それが地上の悲劇に反映しておりますが、実はそれがひいては霊界の悲劇にも反映しているのです。・・・・死んで霊界に来た人は(初期の段階に限っての話ですが)地上にいた時と少しも変わりません。肉体を棄てた、ただそれだけのことです。個性は少しも変わっておりません。性格は全く一緒です。習性も特質も性癖も個性も、地上時代そのままです。利己的な人は相変わらず利己的です。貪欲な人は相変わらず貪欲です・・・少なくとも霊的覚醒が起きるまではそうです。こうしたことがあまりに多すぎることから、霊的実在について、ある程度の知識を地上に普及させるべきとの決断がされたのです――

 

<注10

■心霊研究家の梅原伸太郎は「スピリチュアリズムの歴史的変遷」の中で(ジョン・レナード著、近藤千雄訳『スピリチュアリズムの真髄』国書刊行会1985年刊、所収)、次のように述べている。「西欧におけるスピリチュアリズムの歴史的展開は、わが国において江戸後期ぐらいから始まった霊界研究や、霊的民衆宗教の流れと奇妙な連関を為している」(前著414頁)と。

■習合宗教が存在できる素地

江戸時代を通して神道・儒教・仏教が支配宗教として共存し、「幕府による国教化政策」が存在していたといえども、これらの宗教には西洋諸国のキリスト教に見るような「国教的権威」は持ち合わせていなかった。

なぜなら幕府の「正統的思想がそれほど明確でなく、思想統制も比較的緩やかであった」からであり、当時の宗教風土についても「宗教に対する現実主義的な寛容の伝統が確立し、民族宗教(→習合宗教)や新宗教が比較的自由に活動し、創造性を発揮する土壌が作られていた」(『縮刷版、新宗教事典』弘文堂1994年刊、2頁~13頁:島薗進、参照)からといわれている。

このような理由によって日本には、さまざまな種類の宗教的要素を自らの宗派内に取り込んだ“宗教(=習合宗教)”が存在できる素地が出来上がっていた。

■現世利益を前面に出した習合宗教

江戸時代において山岳宗教系統の「習合宗教」の大部分は「本山派と当山派の修験道の統制に服して活動を行っていた」が、その統制が及ばない冨士講、御嶽講、石鎚講(いしづちこう:四国の石鎚山)などの信仰集団が存在していた。さらに法華行者(中山法華経寺の系統)や稲荷行者(稲荷神社と繋がりを持つ者)などの行者集団、成田不動の十善講や四国遍路の大師講などの社寺参拝の講社、民間宗教家の呪術師を中心とした信仰グループなどが存在していた。

これらの習合宗教には「組織性の弱さや教義が明確でない」という共通した弱点があったとされるが、病気治癒や商売繁盛などの現世利益を前面に出すことによって、江戸時代を通して興隆を極めていた。

■習合宗教の中から多くの教派神道が誕生

組織宗教と比べてさまざまな弱点を持つ「習合宗教」は、明治維新前後の宗教政策、たとえば神仏分離令や修験道の廃止などに見られるような時代の変化に次第に取り残されていった。この「習合宗教」の中から江戸末期以降、多くの「教派神道(→黒住教、金光教、天理教など。神社神道や皇室神道の国家神道とは区別される)」が生まれて、急速な発展を見せた。教派神道は「創唱宗教性(→創唱宗教とは一人の創唱者によって創始された宗教)」に特徴があるが、強固な組織と活発な布教活動、さらには庶民の現世利益(→病気治癒や商売繁盛など)の要求に応えるという形で次第に勢力を伸張させていった。

 

<注11

■大谷宗司著「超心理学の歴史を概観する」:大谷宗司編『超心理の科学』(図書出版社1986年刊)所収、12頁参照。

――日本に於いての研究は、初期、欧米の研究と全く独立に行われていた。すでに19世紀の初め、平田篤胤により心霊的現象の収集・記述が行われている。明治時代に入り、哲学者井上円了は東京大学内に不思議研究会を作り(1886年)、また後に『妖怪学講義』を著し、心霊的現象を含む奇異な現象の収集および科学的説明を行った。その後、心理学者福来友吉は透視および念写の実験を行い、1913年にこれを発表した。後、英文でも報告を出し、彼の業績は広く世界に知られることになった。このように日本においても、欧米の動勢と関係ないにもかかわらず、同様な動きがあったことは興味深いところである――。

■平田篤胤の「幽冥界」の研究は、大谷宗司が述べているように「欧米の研究とは全く独立に行われた」(→いわば「霊的潮流の傍系」たる位置にあった)。この篤胤の「幽冥界」の研究を、1848年に霊界主導で始まった「霊的刷新運動(霊的潮流の本流)」との対比で考えてみれば、一見無関係に始まった篤胤の仕事は、日本における霊的土壌を活性化させるという役割を果たした。この意味において「霊的潮流の本流(地上人に関する分野)」へとつなげていく為の“露払い”としての役割を担ったといえる(→篤胤の仕事は「霊的刷新運動」全体から見れば、「霊的潮流の傍系」としての役割であったが)。この役割を担った点において先駆性が認められる。

■平田篤胤の思想は大きく二つに分けることができる。

まず篤胤の「国家主義(国粋主義)」的思想は、「尊王攘夷運動(水戸学との相性がよい)」―→「近代天皇制イデオロギー(皇国史観との相性が良い)」―→「昭和天皇の人間宣言(神の子孫の否定)」の流れにあり、この流れは戦前・戦中の反省から、戦後は全く顧みられなくなった。

もう一方の流れである篤胤の宗教性を帯びた「幽冥論、死後の安心論」の思想は、実践や行法を重視した神道の「神秘主義的なグループ」によって伝えられて、そのDNAは現在のスピリチュアリズムの中に生きている。この系譜は「本田徳親(ほんだちかあつ)」―→「長澤雄楯(ながさわかつたて)」―→「出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)」の流れとなり、出口王仁三郎を経て広く拡散していった。

弘文堂発行『縮刷版、新宗教事典』の「大本系教団系統図」(75頁)を見れば、復古神道の思想が王仁三郎を介して、昭和の時代に設立された新興宗教の教祖である「谷口雅春、岡田茂吉、友清歓真、岸一太、岡本天明、中野与之助」などに流れ込んでいった状況が良く分かる。

浅野和三郎は王仁三郎の「大本霊学」を通して復古神道から強い影響を受けた。そのため宗教性を帯びた復古神道は、和製スピリチュアリズムの思想的源流の一つとなっている。浅野和三郎研究で問題にするのは篤胤の「幽冥論、死後の安心」論である。

 

<注12

■山折哲雄監修『宗教の事典』(朝倉書店2012年刊)716頁では、

――日本においてSPRの動向をいち早く紹介したのは、1885年(明治18年)3月、『東洋学術雑誌』に掲載された箕作元八(みつくりげんぱち)の「奇怪不思議ノ研究」と思われる。このなかではSPRによるテレパシー、催眠術の実験がかなり詳細に報告されている。SPRの成立が1882年であるから、ほぼリアルタイムで、日本にも情報が伝わっていたことになる。ただし、本格的な紹介は明治40年代まで待たねばならない(一柳廣孝著)――

 

<注13

■鈴木範久著『聖書の日本語―翻訳の歴史―』(岩波書店2006年刊)83頁~85頁、109頁~110頁参照。

18871231日にヘボン(James C Hepburn)は北英国聖書会社から刊行された『明治元訳』を受け取った。聖書翻訳完成祝賀会が188823日に新栄教会で開催された。その祝賀会で演説を行ったヘボンは「(高橋五郎の)旧新約を通した文体の統一への貢献を高く評価した」と述べている(前著110頁)。

■高橋五郎の生涯や業績に関しては、昭和女子大学近代文学研究室著『近代文学研究叢書、第39巻』(1974年刊)248頁~315頁に詳細な記述がある。本章では該当部分の記述を参照している。

 

<注14

■田中千代松編『新・心霊科学事典』(潮文社1984年刊)315頁参照。

 

<注15

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(9)」:日本心霊科学協会機関誌『心霊研究』19745月号所収。

 

<注16

■平田元吉著『心霊の秘密』(同文館1912年刊)383頁参照。

平田は「第三篇、所謂透視及び念写」の中で「念写の事実たるべきは・・・肯定せられるであろう。“時”なる判断者は他日必ず之を証するであろうが、なお之を疑うものは巻末にあげたる参考書によりて、自ら之を研究考察せよ」と述べている。

 

<注17

■佐藤哲朗著『大アジア思想活劇』(オンブックス2006年刊)36頁、189頁~203頁参照。および吉永進一著「神智学と日本の霊的思想(1)(2)」:舞鶴工業高等専門学校、情報科学センター年報『舞鶴高専紀要』第29号(20013月)、第37号(20023月)所収。

吉永進一・野崎晃市著「平井金三と日本のユニテリアニズム」:舞鶴工業高等専門学校『舞鶴高専紀要』第40号(20053月)所収。

 

<注18

■心霊現象研究会

一般に心霊関係の研究会として、浅野和三郎たちが立ち上げた「心霊科学研究会」が知られているが、この研究会は日本における最初の心霊関係の団体や研究会ではない。明治以降最初の研究会として名前が挙がってくるのは、明治19年(1886年)に井上円了によって東京帝国大学内に作られた「不思議研究会」である。

さらに明治期の二度にわたる“霊智学”ブームに名を連ねた平井金三も、神智学の影響から心霊研究に興味を持ち、明治36年(1903年)に松村介石と共にテレパシーや透視、テーブル・ターニング、催眠術などを研究する「心霊現象研究会(通称、心象会)」を立ち上げている。この「心霊現象研究会」の発足時の会員には平井金三のほかに、渡辺千冬、石川安次郎、加藤咄堂、元良勇次郎、野口善四郎、高嶋米峰、益富政助、桜井義肇、福来友吉、葛岡龍吉、村上広治、松村介石がいた(野崎晃市著『平井金三とユニテリアン』参照)。

なお心象会の会員である元良勇次郎は福来の恩師であり指導教官であったが、福来が大学を休職になる前年の大正元年に亡くなっている。

 

<注19

■ブラヴァッキー著、スティーブンソン・宇高兵作共訳『霊智学解説』(復刻版、心交社1983年刊)緒言参照。

 

<注20

■最新の翻訳としては、モーリス・メーテルリンク著、山崎剛訳『死後の存続』(めるくまーる2004年刊)発行がある。

 

<注21

■モーリス・メーテルリンク著、山崎剛訳『死後の存続』(めるくまーる2004年刊)16頁参照。メーテルリンクの『死』は19118月に、5回にわたってフィガロ紙に掲載され、同年10月に英訳された。カトリックはメーテルリンクの全ての著書を1914年に禁書とした(『死後の存続』の「訳者あとがき」193頁参照)。

この時期の教皇はピウス10世(在位1903年→1914年)である。この時期カトリックの知識人は最も過酷な扱いを受けていたという(ピーター・デ・ローザ著、遠藤利国訳『教皇庁の闇の奥』リブロポート1993年、538頁参照)。

 

<注22

■水野葉舟著、横山茂雄編『遠野物語の周辺』(国書刊行会2001年刊)300頁~301頁。

夏目漱石は――明治43年秋から翌年春にかけて『東京朝日新聞』及び『大阪朝日新聞』に連載された「思い出す事など」においては、カミーユ・フラマリオン、オリヴァー・ロッジ、フランク・ポドモア、フレデリック・マイヤーズといった当時の代表的な英仏の研究者の名前と著作が言及されており、漱石が心霊研究の領域に並々ならぬ興味を抱いていたことを示している。そればかりではない。「8,9年前アンドリュ・ラングの書いた『夢と幽霊』という書物を床の中に読んだときは、鼻の先の燈火を一時に寒く眺めた」と彼は記す。日記によれば、漱石が『夢と幽霊』を読んだのは英国留学中の明治3439日である――。

 

<注23

■森本修著「芥川と経済生活」:『新文芸読本、芥川龍之介』(河出書房新社1990年刊)所収、67頁~68頁参照。大正5629日付の恒藤恭宛の私信より。

 

<注24

■志村有弘編『芥川龍之介大事典』(勉誠出版2002年刊)507頁参照。

 

<注25

■志村有弘編『芥川龍之介大事典』(勉誠出版2002年刊)315頁参照。

――芥川が関心を払ったのは、柳田の著作の中で、『遠野物語』と『山島民譚集』の二冊である。『遠野物語』については、明治43年の山本喜誉司宛書簡で、「此頃柳田国男氏の遠野語と云うのをよみ大へん面白く感じ」と述懐――とある。

■高橋宣勝著「柳田国男」:学燈社『国文学』平成13年(2001年)9月号所収、6頁。

――文献上、芥川龍之介と柳田国男との最初の接点は明治43年、芥川18歳、第一高等学校文科の学生のときである。この年柳田の『遠野物語』が出版され、芥川はそれを読んで「大へん面白く感じ候」と親友への手紙に記した。明治45年頃のものと思われる芥川のノート『椒図志異』がある。・・・芥川はそうした怪異譚を彼なりの文体で記録しているのだが、その文体は明らかに『遠野物語』を模したものであると三島譲は指摘している。それほど柳田の『遠野物語』は若き芥川に影響を与えたのであった――

 

<注26

■大谷宗司著「小熊先生著『心霊現象の科学』復刻改訂版に際して」:小熊虎之助『改訂版、心霊現象の科学』(芙蓉書房1983年刊)所収。

 

<注27

■浅野和三郎著『心霊講座(本文復刻版)』(潮文社1999年刊)「序」参照。

 

<注28

■一柳廣孝著『“こっくりさん”と“千里眼”』(講談社選書メチエ1994年刊)110頁~121頁、160頁他、参照。

 

<注29

■ジャネット・オッペンハイム著、和田芳久訳『英国心霊主義の抬頭』(工作舎1992年刊)26頁参照。

 

<注30

■ジョン・レナード著、近藤千雄訳『スピリチュアリズムの真髄』(国書刊行会1985年刊)86頁以下参照。

スピリチュアリズム勃興期の啓蒙書に共通して見られる特徴として、キリスト教に対する配慮(または遠慮)があるという。「当時(1860年代~1870年代頃)はキリスト教絶対の時代であった。そうした理由もあって当時のスピリチュアリズム啓発書の大部分は、本質的にはスピリチュアリズムがキリスト教といささかも矛盾しないことを説明せんとする、いわば弁明的な内容を持つものであった」。さらに「当時は宗教的なドグマというものに対して今日のように自由な解釈を施すことはとても許される世相ではなかった。オーソドックスなドグマと相容れない立場に立つことは大変な勇気のいることだった。したがってスピリチュアリズムについて筆を揮う者は、それこそ恐怖におののきながら筆を執った。そして、きまって自分がキリスト教に背を向ける意志も、否定する意図もないことを立証することに最大の努力を払った。当時のスピリチュアリズム関係書がキリスト教との関連性に力を注いだことは、そうした理由があったのである」。

 

<注31

■丸山真男著「歴史意識の古層」:『丸山真男集、第10巻』(岩波書店1996年刊)所収、3頁~64頁。

 

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