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浅野和三郎の「神霊主義」:その1

目 次

 

①.浅野和三郎の「神霊主義」

ア)「神霊主義」とは

・浅野の「神霊主義」は「宗教性」を持つ

・「神霊主義」の四要素

イ)「神霊主義」の15項目の検証

・1項目「心霊現象は科学的事実である」

・2項目「すべての異常現象は自然の法則の現れである」

・3項目「人間一人ひとりは自我表現の機関として各種の媒体を有する」

・4項目「各自の個性は死後にも存続する」

・5項目「各人は永遠に向上進歩の途をたどる」

・6項目「死後の世界は内面の差別界である」

・7項目「幽明の交通は念波の感応である」

・8項目「超現象の世界には種々の自然霊がいる」

・9項目「宇宙の全ての存在は因果律の支配を受ける」

10項目「宇宙の内部は一つの連動装置を構成している」

11項目「全宇宙は物心一体の大生命体である」

12項目「各人の背後には守護霊がついている」

13項目「守護霊と本人とは不離の関係をもつ」

14項目「太陽神(高級の自然霊)が人類の遠い祖先である」

15項目「最高級の自然霊が事実上の宇宙神である」

・神観に関する一つの考え方

 

②.再生について

ア)浅野の「再生」について

・全部再生

・分霊再生

イ)高級霊シルバーバーチの説く再生

・パーソナリティとインディビジュアリティ

・幽界における「意識の拡大」

ウ)「類魂・再生」について

・譬えを使って説明する

・我を無くすとは

・容器の輪郭と意識の変化の関係

・大まかな行程表

・霊界における「意識の共有化」

・“プラスの体験”と“マイナスの体験”

 

③.進化について

・浅野の「類別的進化論」について

・主流派科学の進化論

・主流派科学が説く進化論の問題点

・有神論的進化論とは

・スピリチュアリストとの関係

・「浅野の進化論」批判

 

<注1>~<注19

 

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①.浅野和三郎の「神霊主義」

ア)「神霊主義」とは

☆浅野の「神霊主義」は「宗教性」を持つ

浅野和三郎の晩年は「心霊現象の研究は第二義的」となって、「スピリチュアリズムの宗教性」を志向した「日本神霊主義の唱道とその実践」に重点を移していった(注1)。その第一歩は、ISF(国際スピリチュアリスト連盟)の大会参加を前にして、それまで彼自身が「spiritualism」に対応する訳として複数用いていたのを、「神霊主義」という宗教的要素の強い言葉に統一したことであった(注1)。

 

浅野が「スピリチュアリズムの宗教性」を志向する際に大きな転機となったのはISF大会において「近代日本に於ける神霊主義」という演題でスピーチをしたこと、および西洋のスピリチュアリストとの出会いであった。このISF大会がきっかけとなって彼自身の中にある「素朴なナショナリズム」が大いに刺激されて、その後の神道色(→当時の神道は国民道徳であり非宗教扱い)の強い「和製スピリチュアリズム」誕生の要因となった。

 

浅野がスピリチュアリストとして活躍した戦前の昭和という時代は、天皇を“家長”とし国民は“天皇の家族”と擬制した「家族国家観」が全盛な時代であった。この「家族国家観」の下では、天皇の祖神(=祖先神)にあたる天照大神は、“天皇の家族”である国民にとっても祖神であるとされた。また皇室の神道を含む全ての神社神道は宗教ではなく、「国家の祭祀や道徳である(神社非宗教論=道徳論)」として、個人の信条如何にかかわらず神社崇拝は道徳である「崇敬」とされて、国民の義務とされた(→事実上の強制が存在した)。

このような「家族国家観」は浅野の固着思想である「復古神道・天皇中心主義思想」と無理なく合致した。このような背景を持った「神霊主義(スピリチュアリズム)」を浅野は「日本神霊主義(=日本スピリチュアリズム)」と呼んだが、これは宗教志向の強いスピリチュアリズムであった。

 

☆「神霊主義」の四要素

浅野は「神霊主義」を「科学的事実の論理的帰結であり、大自然の法則そのもの」であり、「神霊主義によって、科学と宗教は完全に握手し、道徳と哲学は立派に安住の地を見出した」と述べている。そして「大自然の法則そのもの」である「神霊主義」を四要素に分類(哲学、科学、道徳、宗教)して、次のように述べている。

・「哲学的」側面から神霊主義を見れば「大自然主義」となる。

・「科学的」側面から神霊主義を見れば「大生命主義」となる。

・「道徳的」側面から神霊主義を見れば「大家族主義」となる。

・「宗教的」側面から神霊主義を見れば「敬神崇祖主義」となる。

 

さらに「神霊主義」を15項目に細分化している(注2)。以下に於いて項目ごとに「神霊主義」を検証してみた(→なお15項目の配列は検証しやすいように変えてある)。

 

イ)「神霊主義」の15項目の検証

1項目「心霊現象は科学的事実である」

心霊現象は、現在の人類がそのメカニズムを理解できないだけであり、あくまでも自然法則の枠内で起きる現象である。人類の進歩によって将来的には科学的に証明可能なものになると述べる。この場合に「科学」とは何かが問題になるが。

 

2項目「すべての異常現象は自然の法則の現れである」

幽霊の出現・物品の空中浮揚・奇跡などといわれるものは、すべて自然法則の枠内の現象であると述べる。現在の人類に未だ知られていない自然法則があり、その法則の裏側にもまた別の法則が働いている。同じことを「1項目」と「2項目」で言葉を変えて述べている。

 

3項目「人間一人ひとりは自我表現の機関として各種の媒体を有する」

浅野は欲望の媒体が肉体、感情の媒体が幽体、理性の媒体が霊体、英知の媒体が本体にあり、「物心一如」は科学的事実であるとして、媒体を「肉体・幽体・霊体・本体(神体)」の四つに分けて説明している。この解説は他の論稿(注2)と組み合わせると次のような関係性が見てくる。なお「一霊四魂」は復古神道の中核理論であるため、ここから「和製スピリチュアリズム」は復古神道の影響を受けていると言うことができる。

・欲望の媒体が肉体。荒魂(あらみたま)=現界=肉体(肉体意識で欲望)

・感情の媒体が幽体。和魂(にぎみたま)=幽界=幽体(幽体意識で感情)

・理性の媒体が霊体。幸魂(さきみたま)=霊界=霊体(霊体意識で理性)

・英知の媒体が本体。奇魂(くしみたま)=神界=真体(本体意識で英知)

 

4項目「各自の個性は死後にも存続する」

霊界通信や物理的心霊現象などを通して、現象の背後で働く“個性を持った霊”の存在(→死後にも個性が存続すること)が推測できる。

浅野は心霊研究における霊魂不滅によって、肉体を捨てた後においても、その人の個性がなお幽体、霊体などを“機関(→自我の本体の衣という意味)”として他界で存続することを述べている。

 

5項目「各人は永遠に向上進歩の途をたどる」

死後の世界は意識の世界なので、その霊魂の心の持ち方いかんによって、居住する世界が変わることになり(→意識に対応した居住世界)、ここに向上の意味が存在すると述べている。高級霊が霊界通信を通して述べているように、個別霊は永遠に続く霊の世界で、一歩一歩霊性を向上させながら進化の道を辿っている。

 

6項目「死後の世界は内面の差別界である」

死後の世界は心による界層の世界、法則に則った霊魂の進化を伴った世界であり、無差別平等の世界ではない。ここから霊によって送られてくる霊界通信の質・内容に違いが生じる原因になっていると述べている(→霊界に居住する霊は、その霊的成長レベルに見合った内容の通信を送ってくるから)。

 

高級霊は霊界には居住者の霊的成長レベルに応じた無数の境涯があり、個別霊は「霊性レベル」と「親和性の法則」によって自分に相応した境涯に落ち着く、その落ち着く世界では、そこに居住する住民の共通した思念によって環境が作られていると述べる(→思念が現実化する世界だから)。シルバーバーチは「こちらの生活はそれぞれの界層で生活している同じレベルの住民の思念で構成されているからです。意識がその界のレベルを超えて進化すると、自然にそこからはなれていきます」(注3)と述べている。

 

7項目「幽明の交通は念波の感応である」

幽界や霊界における通信方法は思念伝達(テレパシー)である。言葉そのものを使って自分自身の観念を送信することは不可能ではないが、思念を送るよりはるかに困難を伴うという。言葉は“物的なモノ”であり、思念伝達という霊的な送信手段から言葉という物的な送信手段に転換する必要があるため。

霊界通信の方法につき高級霊のシルバーバーチは「霊的なものを物的なものへと、二つの全く異なる意識の次元での表現操作を要するのです。その上から下への次元の転換の際にいろいろと混乱が生じます。混乱なく運ぶようになる時代はまだまだ先のことです」(注3)と述べている。

 

高級霊からの通信によれば、霊の世界の共通言語はテレパシーであり、同質者同士で思念のやり取りを行っている。霊が地上に通信を送るための手段には、環境・条件に応じてさまざまの方法が用いられるようである。一般的な方法を「マイヤースの通信」を参考にして解説する。

通信霊は地上に伝達すべき観念や思想を“シンボル”という形で霊媒の潜在意識に送る。霊媒の潜在意識は“柔らかなロウのようなもの”であるため、そこに“シンボル”という形で表現された観念や思想が“型押し”される。その“型押し”された“形”に当てはまる地上の言葉や概念を、霊媒の潜在意識が“自動翻訳機”的な働きをして探し出してくる。ここで言う“自動翻訳機”的な働きとは、霊媒自らが“霊媒の記憶の貯蔵庫”から、“型押し”の“形”に見合った言葉や概念を探し出してきて、地上的言語に置き替えて文章に組み立てることをいう(→霊媒の言葉や概念は当然に“色付き”である)。この一連の流れには霊媒の顕在意識は全く関与せず、無意識(=潜在意識)の領域で行われる。そして組み立てられた文章を霊媒の“口(=霊言霊媒)や腕(=自動書記霊媒)”を通して地上に伝えられる。このような複雑な過程を経て地上に届けられている。

 

8項目「超現象の世界には種々の自然霊がいる」

浅野はここでは霊的世界を「超現象の世界」と述べている。この世界にはかつて肉体を持ち地上生活を営んだことのある「人霊」「動物霊(群魂として)」や、肉体を持って地上に生まれたことのない「自然霊」(→浅野は自然霊として、諸神・諸仏・天使・天人・如来・菩薩・神仙・龍神・天狗・妖精・魑魅魍魎などを挙げている)が存在する。自然霊は意念の働きでどのような姿にでも変えることができると述べる。浅野はこの項目を「敬神崇祖主義」と述べている。

 

高級霊から送られてきた霊界通信によれば、宇宙には“自我の本体”に神の分霊を内在させた個別意識を持つ生命体としては、「人間的存在(→物質界に物的身体をまとって誕生して、そこで体験を積むことによって霊的進化を図る個別意識を持った生命体)」と、「天使的存在(→物質界に一度も誕生することなく霊的進化を図る個別意識を持った生命体)」とがある。例外として個別意識を持った「精霊の高級なもの」もいる(注4)。動物の場合は個別意識を持たないため(→個々の物的身体に対応した霊的要素を持たないという意味)、死後の世界で人間のように個性を維持することはできず、“種”ごとの群魂(または集合魂)に合流すると伝えてきている。

 

和製スピリチュアリズムでは「動物霊」という言葉がよく使われている。個々の動物は死後、個々の霊的身体を持って霊的世界で個性を維持しているという。はたしてこの考え方に問題はないのだろうか。高級霊からの通信を総合してみれば次のようになる。

地上を闊歩する個々の物的身体をまとった動物は、宇宙に遍満する霊的エネルギーを「群魂(=集合魂)」という巨大な霊的要素のグループから取り込み、それを「(個々の物的身体に対応した)半物質状の中間物質」を通して個別の物的身体に取り込んで生命を維持している。

動物と人間の違いは、人間は個々の物的身体に対応する形で「霊的要素(自我の本体、霊の心、霊体)」を持つが、動物には個々の物的身体に対応した形の個別の霊的要素は存在しない。所属する“種”という巨大な霊的要素たる「群魂(=集合魂)」が存在するだけである。そのため動物の死後は、その“意識(=個性)”は個体が属する巨大な「群魂(=集合魂)」という霊的要素に吸収されてしまい、個々の動物の地上体験は「群魂」の中に混じり合ってしまう。したがって動物の死後は、地上で見せていた“意識(=個性)”は維持されず(→例外としてペットのように一時的に個性を有する場合がある)、因果律は霊的要素たる「群魂」全体として働くことになる。ここが個別霊たる人間との違いになる。

 

和製スピリチュアリズムで言うところの「動物霊」とはいったいどのような存在なのか。最終的には個々的な事例で判断しなければならないが、一般的には低級霊が変化した「変化霊」の可能性、霊の想念が作り出した「想念霊」の可能性、ペットのように「一時的に幽質をまとった存在」の可能性、または巨大な霊的要素たる「群魂(=集合魂)」が何らかの意図を持ってその一部を“人霊のエリア内”で見せている可能性などが考えられる。

霊的世界の“ある界層”は、そこに住む住民の意識レベルが反映されているため、その界層における大気や環境はその地の住民の思念によって作り出されたもの、あるいはその地の住民の意識に合わせて高級霊が作り出したものということができる(注3)。ここから「動物霊」の存在が推測できるのではないだろうか。

この項目については「動物の霊(個別化から個性化の道へ)」を参照のこと。

http://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/05/post-df6d.html

 

9項目「宇宙の全ての存在は因果律の支配を受ける」

ただの一つの例外もなく、この物質世界には因果関係が働いている。

因果律は「自分が蒔いたタネは自分で刈り取る」と表現される法則のことで、原因があればそれに対応した結果が機械的に発生していく。この因果律は地上世界に限らず霊的世界も含めた宇宙の全域に働く基本的な法則である。因果律の目的は霊性の進化にある。この因果の流れには高級霊といえども干渉することはできない。

 

10項目「宇宙の内部は一つの連動装置を構成している」

地上の人間と霊界の居住者とは、一瞬の例外もなく「交通(感応道交)」が行われている。高級霊からの霊界通信によれば、交信は霊的に同じレベルにある者の間や、自分より下のレベルにある者に対して、「上から下へ」という形で行われている。自分より霊的レベルが高い者に対して、「下から上へ」という形はできないという。あくまで「同一レベルの者同士」や、霊的レベルの「上の者から下の者へ」という流れであり、このような意味で浅野の言う「宇宙の内部は一つの連動装置を構成している」といえるであろう。

 

11項目「全宇宙は物心一体の大生命体である」

浅野は、霊魂は「無」ではなく姿形があり、宇宙のすべては物心一体の生命体であると述べる。一般に肉体を脱ぎ去った霊魂は、自我の本体(→神の分霊が内在している)を何らかの表現器官たる形体によって表現しているという。地上的な意味での「身体」がない高級霊は「色彩や光輝」を放っているが、これも「形体」の一種である。

 

12項目「各人の背後には守護霊がついている」

和製スピリチュアリズムが説く守護霊説では「守護霊は先祖霊」とされて、一般に「多くの場合、300年から700年前に他界した祖先の霊魂で、男には男の守護霊が、女には女の守護霊がついて守っている」(注5)と説明される場合が多いが、高級霊の見解とは異なる。

浅野はこの守護霊の項目を「敬神崇祖主義」と述べているが、その背景には日本の伝統的な考え方である農地や家名が代々継承されていくと言う「一族中心の血縁者の世界観」や、支配思想の「家族国家観」がある。これらの上に立って守護霊説を展開している。

 

従来、日本には「守護霊」という言葉はなかった。大本時代の浅野は「守護神」という言葉を用いて、「正守護神」を霊の善なるものとして「守護霊」に近い用い方をしていた。また「正守護神」の向上したものが「本守護神」であると述べたが、これは本来の意味での「守護神」のことである。さらに大本時代の浅野は本人の欲望に応じて憑依してくるものを「副守護神」と名付けていたが、神霊主義者時代にはこれを「憑依霊」と呼び変えて「本人の弱点または先祖伝来の悪い因縁などを原因として感応してくる、不良性の人霊または動物霊などを指す」と定義付けた。このように大本時代の浅野は「正守護神(=守護霊)」「本守護神(=守護神)」「副守護神(=憑依霊)」として、それぞれに応じて使用した。

 

宗教では「守護神」がよく使われるが、“スピリチュアリズム(Higher Spiritualism)”では一般には使用されない。なぜならスピリチュアリズムでは「神」は唯一であり、それ以外の日本でいうところの「八百万の神」は「神」ではなく高級霊にあたるため(注13)。なお高級霊であるシルバーバーチは「シルバーバーチ崇拝」を含めた「高級霊崇拝」を否定している。そのため“スピリチュアリズム(Higher Spiritualism)”の観点からは、日本における「八百万の神」の崇拝をどのように考えるかが問題となる(注13)。

 

浅野の「守護霊」の概念は、昭和3年刊行の著書『心霊講座』ではまだ明確に確立していなかった。「支配霊・指導霊」と「守護霊」との混同や、「単数または複数の守護霊」(注6)などのような混乱した使われ方が目につく。それが昭和5年頃に発表した論稿(注7)では、「守護霊」と「支配霊・指導霊」の概念が明確に区別して使われている。

時系列的に見れば、この『心霊講座』の刊行と昭和5年頃の間にはISF大会があった。大会参加によって浅野の霊性は大きく飛躍して霊的真理に対する理解が深くなった。この理解の深まりが「守護霊概念の明確化」や「亀井三郎との出会い」となって表れたと言えよう。このように浅野の霊性の飛躍と、日本に於ける「スピリチュアリズムの発展期」の幕開けとは密接に連動している。

 

再生説との関係で浅野は、第二自我が再生する際に「第一自我である前生霊」は守護霊になると述べている。守護霊は「本人たる第二次自我」の前生霊であると主張した。また「私の所謂守護霊というのは自我の本体をさす」(注8、注14)とか、「肉体の親と魂の親との関係については、今日まだ、はっきりと言えませんが、大体広い意味において血縁関係を持つと考えられる」(注9)との表現を使って両者の関係を述べている。

 

13項目「守護霊と本人とは不離の関係をもつ」

浅野も述べているように当然に守護霊と本人とは密接な関係にある。この項目を浅野は「敬神崇祖主義」と述べている。

高級霊のシルバーバーチは、守護霊は1人につき1霊のみで生涯変わらないが、背後霊には入れ替えがある。背後霊の人数は人によって異なると述べている(注10)。

 

14項目「太陽神(高級な自然霊)が人類の遠い祖先である」

ここで述べられている「太陽神(高級な自然霊)が人類の遠い祖先である」は問題がある。なぜなら現在入手できる高級霊からもたらされた霊界通信(Higher Spiritualism)では全て「創造神」説をとっているので、この「高級霊である自然霊(=天使的存在)が人類の遠い祖先である」は問題がある(注11)。高級霊によれば神によって「天使的存在」と「人間的存在」が創造されたからである。

 

『古事記』や『日本書紀』の記載では、天皇の祖神である天照大神は太陽を神格化した神であるとされているので、一般には「天照大神=太陽神」とされている。浅野が述べた「太陽神が人類の遠い祖先である」には、天皇を“家長”とし国民は“天皇の家族”と擬制した「家族国家観」が色濃く反映されている。この「家族国家観」では、天皇の祖神にあたる天照大神は、天皇の“家族”である国民にとっても祖神となることから、神道の「親→祖先→祖神」という思想を反映して、「神」と「祖先」が混然一体化された血縁重視の世界観となっている。この時代的な風潮である世界観の反映として、浅野は「太陽神が人類の祖先」と述べたのではないだろうか。この項目を「敬神崇祖主義」と述べていることからも推察できる。

 

15項目「最高級の自然霊が事実上の宇宙神である」

浅野は「神」を四つに分類しており、この項目を「敬神崇祖主義」と述べている。

「第一義の神」

宇宙の根本的大生命、無限絶対の唯一の実在を指す。日本の天之御中主神、儒教の天、仏教の真如、キリスト教のゴットなどが大体これにあたる。

「第二義の神」

宇宙の大生命から分かれ出るところの偉大なる内的存在であり、日本神道の陰陽二系の祖神、日月星辰の緒神霊など、仏教では諸仏・緒菩薩、キリスト教では天使・天使長などをいう。これらが超現象世界の一番奥に控える神霊界の支配階級である。

「第三義の神」

先の第二義の神の末流を指す。人間の霊魂、性質の善良な自然霊、動物霊などがこの部類に入る。要するにこの場合のカミには、隠れ身と上位との二つの意義が合併されている。

「第四義の神」

全て肉眼に見えないものの総称で、必ずしも正邪善悪にかかわらない単なる幽的存在をいう。悪神、疫病神、死神など、欧米では、すべてこれらをスピリットと呼んでいる(注12)。

 

☆神観に関する一つの考え方

浅野の「神観」の特徴は、当時の支配思想である「家族国家観(天照大神→天皇→国民)」に最大限の配慮を払っている点にある。この点からもスピリチュアリズムを国家神道体制という枠内で語らなければ、弾圧を受ける恐れがあった時代の制約を感じる。

スピリチュアリズムの観点に立てば、多神教世界の「神」とは、高級霊も含んだ「広義の神概念(神+高級霊)」のことなので、浅野が述べた第二義以下の「神々」とは高級霊のことになる。浅野の「神観」を突き詰めていけば、「第一義の神」である「宇宙の根本的大生命、無限絶対の唯一の実在」のみを崇拝して、高級霊である他の神々(第二義以下の神)を崇めることをしない「拝一神教(一神崇拝)」的理解に行き着くのではないだろうか。このように「多神教」の世界の「神観」は、観点を変えれば「高級霊崇拝(→指導霊崇拝や守護霊崇拝など)」の是非の問題となる。

 

“スピリチュアリズム(Higher Spiritualism)”の観点からいえば、本来の祈りの対象は「第一義の神(→宇宙の根本的大生命、無限絶対の唯一の実在)」のはずである。しかし人間は物的身体を持つがゆえに霊的感覚が鈍くなっているので、多くの人にとっては「神」に祈りの焦点が定めることが難しくなっている。そのため散漫な祈りになる傾向にある。これを解消する便法として一般には「取次ぎ」が利用されている。この方法は日頃から意思の疎通を図っている「守護霊」を通す形で、祈りの波動を唯一の実在である「神」に向けるイメージ法である。

 

一般にライフル銃で遠方の的を狙う場合には、肉眼では距離がありすぎるので「照準器」を用いる。その「照準器」の「+」に的を合わせれば、遠方の標的に命中させることができる(→但しここでは風の影響を度外視する)。これを応用する形で、「+」を守護霊とし「標的」を神と置き換える。

イメージ法として照準器の「+」の位置に守護霊がくるように思念を調整する。人間と照準器(守護霊)が思念的に繋がった瞬間に、祈りの念が標的の「神」に向かって放たれる。祈りは「私→守護霊→高級霊→高級霊→神」という形で、祈りの純粋さに応じて、祈りの波動が届く上位者まで取り次がれる。祈りの純粋さと内容如何によっては神まで届くものもあるだろう。このような思いを強く持つことによって、自らの中に「人間→守護霊→神」というルートが出来上がる。このルートに祈りの念を載せて祈願を行うイメージ法である。

 

このような形式であれば、高級霊のシルバーバーチが批判している「守護霊信仰」「指導霊信仰」「〇〇霊信仰」等の「高級霊崇拝や信仰」の弊害は回避される。和製スピリチュアリズムでも「本人の祈願その他は、本人が自覚するか否かに関わらず、つねに守護霊を経て霊界に通じている」(注13)という「段階論的」な説き方をしているので、整理し直せば「Higher Spiritualismが説く「創造神」的な「神概念」に近づくのではないだろうか。

ただし“スピリチュアリズム(Higher Spiritualism)”の神観と言っても、過去から現在にかけて何かと問題を起こしているキリスト教やイスラム教、ユダヤ教の「一神教的な神観」とは、似て非なるものであるが。「Higher Spiritualism」の観点から見れば、キリスト教やイスラム教、ユダヤ教の神観は「未熟な神観・いびつな霊界観」であり論外である。

 

②.再生について

ア)浅野の「再生」について

☆全部再生

仏教の輪廻転生思想では、人間がこの世に生まれてきたのは過去世においてその生命が積んだ業の結果であり、現世での自己の生命が積んだ業は来世における自己に受け継がれていくので、解脱しない限り永遠にこのサイクルが繋がっていくと述べる。

この自己の「前世」→「現世」→「来世」の生命の輪廻、つまり同一霊魂があたかも「春服→夏服→秋服→冬服」に着替えると同様に、それぞれ「前世」「現世」「来世」という具合に“別の肉体(=別の服に着替える)”に宿って物質世界に生まれ変わる再生理論を「全部再生」という。

 

☆分霊再生

和製スピリチュアリズムの提唱者の浅野和三郎は、当時主流であった「全部再生」説に対して「分霊再生」説を述べた。浅野が述べた「分霊再生」説では、霊の一部が再生するので「部分的再生」、または霊の一部は本体から派生されるので「派生的再生」、さらに派生するにはその部分を創るので「創造的再生」などと呼ばれている。浅野はこの主張を昭和3年頃から雑誌『心霊と人生』に掲載して、昭和9年頃に独特な「創造的再生説」として完成させた。

 

浅野の「創造的再生説」では「生殖行為の原動力とも言うべき情念の発動」と「生殖行為の結果であるところの精子と卵子との結合」を前提として、「この情念のエーテル波動が超現象の世界に拡がり、そこに一人の熱烈な共鳴者を見出す。強い感応に伴う意念の憑着、これが他界の居住者の分霊が地上の卵子と精子の結合体に宿るゆえん」と述べる。「地上にいる肉体の親の精神的波動と、他界にいる魂の親の精神波動との共鳴感応、これが彼の現世に宿った唯一の原因」であると自信を持って述べている。要するに再生はすべて意念の波動説で説明がつくという、極めて独自性に富んだ再生説となっている。

 

浅野は昭和58月号の『心霊と人生』において(注14)、人間の死後、幽界において物質的欲望や現世的執着が次第に薄れていくにつれて、自我の分裂が起きる(→浄化した自我意識と未浄化の自我意識の二つに)。浄化した自我意識は“第一の自我”となってさらに向上進化の道を進む。これに対して未浄化の自我意識は“第二の自我”となって再び物質界に生まれ出ると述べた。

つまり再生する自我とは、物質的欲望や現世的執着を浄化しきれていない「未浄化の第二の自我」に他ならない。これを「分霊再生」と呼び、仏教の輪廻転生思想でいう自我意識が“丸ごと再生”する「全部再生」はありえないと述べている。さらに“第二の自我”が再生する際に、浄化された“第一の自我”である「前生霊」は守護霊になると述べている。

 

浅野が昭和5年頃に提唱した「分霊再生」という考え方は、心霊研究家の梅原伸太郎が述べた「新しい魂は前世霊(複数)の作った枠組みを継承して地上に生まれてくる。この枠組みがいわゆるカルマにあたる」とか、「新しく生まれてくる魂は複数の魂の未熟な部分を合成したものだというから霊界に戻った魂は全部が生まれ変わるのではなく、部分的に生まれ変わるだけである」(注15)と共通している。

筆者は自我が二つに分裂するとか(→個別意識を持った自我の本体が無限に分裂していくとは考えられない)、個別意識を持つ未浄化な部分が合成するなどと主張する「分霊再生」には疑問を感じる。

 

イ)高級霊シルバーバーチの説く再生

☆パーソナリティとインディビジュアリティ

高級霊によってもたらされた再生に関する考え方に、「類魂・再生」の仕組みがある。

高級霊シルバーバーチは「一つの意識(=インディビジュアリティ:individuality)」の中の「部分意識(=パーソナリティ:personality)」が、別々の時期に地上に再生してくると述べた。なぜならこの世に於いて「私という自我意識」は「物的身体」を通して“私”を表現して霊的成長を図っている。その際に物的脳に「一つの意識(=インディビジュアリティ)」の全てが入ることはできず、あくまでも地上に現れる意識は「部分意識(=パーソナリティ)」となるからである。

 

個々の再生を解説する際の説明の仕方には「バケツの水とコップの水」という譬えが頻繁に使われている。一般には個別霊たる“バケツの水”は、地上に再生するために“バケツの水”からコップで水を汲み取る、これが地上で見せるパーソナリティ(地上的人格)となるという形で。

この説明の仕方は神智学における「群魂」を解説する際や、一部の古参スピリチュアリストの間で再生を説明する際の譬えとして使われてきた。また『シルバーバーチの霊訓』を解説する人たちの間でも、この概念を借用して「バケツの水=インディビジュアリティ」と「コップの水=パーソナリティ」という形に置き換えて、「バケツからコップで水を汲み出す」として「類魂・再生」が説かれている。

 

☆幽界における「意識の拡大」

死後「自分が死んだことを悟った個別霊(→明確な死の自覚を持った個別霊)」は、幽界生活の中で次第に「霊として進化向上をしなければならないという意識(→明確な霊的意識のこと)」が芽生えてくる。帰幽直後は未だに“地上的人格(パーソナリティ)”を引きずっていたが、このような意識状態になると地上時代の物質的欲望や現世的執着は薄れてきて、興味の対象は「物事の本質を知ること」に向いて行く。

この段階になると、幽界にいる個別霊の顕在意識に、“本来の私の霊的意識(=インディビジュアリティ)”が浮き上がって来て、意識全体に占める割合が次第に大きくなっていく。いわば“本来の私=インディビジュアリティ”を覆っていたベールが薄れてきて、より大きな自分の存在を自覚できるようになる。そうすると次第に地上的人格(パーソナリティ)はインディビジュアリティの中に溶け込んで消えてゆく。

 

ウ)「類魂・再生」について

☆譬えを使って説明する

シルバーバーチの見解を踏まえて、「バケツの水=インディビジュアリティ」と「コップの水=パーソナリティ」という譬えをアレンジして再生を説明すれば次のようになる。

まず“霊界の出生簿”に名前が登載されると“出生準備段階”に入る。この段階では「バケツの水という意識(=インディビジュアリティ:本来の私)」の中に、透過性ある“仕切り板”で覆われた容器が生じて、「バケツの水」の一部が容器内に閉じ込められた状態になる。

 

地上人生のスタートである「受胎」という言葉を、医学界では受精卵が子宮に着床する時(→妊娠した時)という意味で使用している(→この立場では受精から子宮に着床する約2週間はモノという考えになる。そのため子宮に着床する前の受精卵はモノなので胚の研究に利用される)。これに対して高級霊のシルバーバーチは「精子と卵子とが結合」して、この媒体に「霊の分子が自然の法則に従って融合」する、その瞬間が「意識を持つ個体としての生活が始まる」時期と述べている。ここからスピリチュアリズムでは地上人生のスタートを、父方と母方のDNAが融合して物的な結合体である「受精卵が出来上がった時」としている。

 

いわゆる「受胎(=受精時)」の瞬間に、透過性ある“仕切り板”で作られた容器と繋がる形で、胎児という物的要素が中間物質の幽質結合体によって接続された状態で出現する。死産児の場合は何らかの理由によって胎児という物的要素を失うので、幽質結合体が付着した容器の状態のままで霊的世界に戻ることになる。そのため透過性ある“仕切り板”を自ら壊して容器内の意識を「バケツの水という意識」の中に戻していく作業が、幽界における様々な生活体験を通していく中で行われることになる。

 

地上に無事に出生し成育するにしたがって、透過性ある容器の“仕切り板”は、次第に不透過性の“仕切り板”に変化していく。幼児段階では容器の“仕切り板”はいまだ透過性を有しているため、バケツの水に溶け込んでいる過去世の体験が容器内(潜在意識)に流れ込んできて、幼児の顕在意識に浮かび上がってくることもある。近年何かと話題に上がる「中間生記憶(→筆者は出生リスト登載時から受胎時までの記憶としてこの概念を使用する)」や「胎内記憶(→母親の胎内にいる時の記憶)」は、容器内に閉じ込められた意識(潜在意識)の中に存在しているので幼児の顕在意識に表れてきやすい。

 

その後地上生活を経ていく中で、精神的にも肉体的にも成長してきて、一般には10代頃になると自我意識が確立されてくる(→発達心理学でいう反抗期を経て自我が芽生えてくる時期のこと。地上的意識たるパーソナリティの確立期)。つまり思春期における自我の確立とは、容器の輪郭が不透過性の固形体に変化し、内と外が完全に仕切られ、これが完了したことを意味する。この時点で容器の中の意識(潜在意識)は、完全に「バケツの水という意識(=本来の私)」から切り離されることになる。地上という“学校”で体験を積むためにはパーソナリティの確立、つまり“意識”は不透過性の固形体の輪郭で仕切られる必要があるからである。その後さまざまな地上体験を経るにつれて、容器内に閉じ込められた“意識”に様々な色彩が加わり、地上的人格に応じた“色”に着色されていく。人によっては歪んだ欲望(残忍さ・傲慢さ・貪欲・淫乱など)が魂に深く染み込んでしまい、その結果ケバケバしい独特な“色”となってしまった人もいるであろう。

 

☆我を無くすとは

宗教ではよく「我をなくすことが必要である」と言われているが、これをスピリチュアリズム的に言えば固形体たる容器の輪郭を透過性の良い構造体に変化させることを指す。その結果、容器の輪郭に遮られることなく「バケツの水という意識」と容器の中の意識が滞りなく交流できて、より多くの霊的意識が表面に現れてきやすくなる(→地上体験を積むためには“自我”は当然に必要だから容器の輪郭が消失してしまうことはない)。ポイントは霊的エネルギーを垂直方向のルートと水平方向のルートを使って流すことによって、不透過性の容器の輪郭を透過性ある輪郭に変えていくことにある。

 

☆容器の輪郭と意識の変化の関係

死後、幽界に戻っても「明確な霊的自覚(→霊として何を為すべきかの意識)」という意識が芽生えてくるまでは、依然として霊は物質的な意識を引きずったままである(→自己の意識の焦点がいまだに物的なモノから完全に解き放たれていないため)。霊の世界に戻ったからといっても、容器内の「意識(=地上的なパーソナリティ)」は「明確な霊的自覚」という意識が芽生えてくるまでは維持されたままである。

そのため物質臭の強い多くの霊は、物的な思いが何でもかなう幽界の下層世界は“極楽の世界”であると思い込んでいる。地上において歪んだ欲望(残忍さ・傲慢さ・貪欲・淫乱など)が魂に深く染み込んでしまい、ケバケバしい独特な“色付きの意識”を作ってしまった人の場合は、幽界の下層の浄化の世界で“色付きの意識”を中和させるための厳しい体験が、「明確な霊的自覚」という意識が芽生えてくるまで続くことになる。

 

幽界で生活していく中で「明確な霊的自覚」という意識が芽生えてくるようになると、自覚の程度に応じて自己の意識の焦点は物的なモノから霊的なモノに移行していく。そのため意識が劇的に変化していく。

この意識の変化を比喩的に言えば、容器の輪郭が次第に崩れてきて、容器内の“色付きの意識”が「バケツの水という意識」に、次第に混じり合って行く状態となる。これを「意識の拡大」の過程(→容器という固形体の縁が次第に消えて、容器内の意識が「バケツの水という意識」と混じり合って行く過程)と呼ぶことができるが、この過程は幽界で過ごす中で徐々に進行していく(→主に「明確な霊的自覚」という意識が芽生えた以降となるが)。いわば幽界生活とは、固形体たる容器の輪郭が徐々に崩れていく期間とでもいえようか。このようにスピリチュアリズム的には、パーソナリティという地上的人格、つまり容器内の“色付きの意識”が、インディビジュアリティという「バケツの水という意識」に混じり合って行く過程が幽界生活ということになる。

 

☆大まかな行程表

人の死から霊界入りまでの行程を簡略化すれば次のようになる。

「死」→「手引きしてくれる指導霊との出会い(指導霊は帰幽霊のレベルに合わせて物質化して姿を見せる)」→「明確な死の自覚を持つ(この意識が持てなければ地縛霊となる)」→「明確な霊的自覚を持つ(この意識が持てなければ幽界の下層界で居住するレベルの低級霊の段階)」→「霊界に入り類魂を意識する。そして霊的家族と再会する」となる。

 

☆霊界における「意識の共有化」

霊界では「類は友を呼ぶ(→似た者同士は自然と寄り集まること)」として、完璧な親和性を持った霊が霊的グループ(類魂、霊的家族)を形成している。幽界を卒業して霊界に移行した「本来の私」(=インディビジュアリティ)は、私の霊的成長レベルに見合った界層の類魂(霊的家族)に自動的に引き寄せられる。

霊界で意識する「私という霊的意識」には、客観的存在としての「個としての霊的自我意識(→“本来の私”という意識)」と、主観的存在としての「内面的な協調生活を営むところの大きな共有意識(→所属する類魂の一員たる“拡大した私”という意識)」の二面がある。

 

意識面から再生を考えれば、「拡大した私(=大きな共有意識、類魂意識)」の一部である客観的存在たる「本来の私(=インディビジュアリティ、個別霊)」が再生するのだが、「本来の私」の意識の全てを受け入れるだけの容量が物的脳にはない。そのため地上で見せる人物像は「本来の私」の「部分意識(=パーソナリティ)」となる。

このようにして類魂の一人である個別霊の部分意識が再生して、そこで集積してきた地上体験と知識を、類魂のメンバー各自(=個別霊)が自らの地上体験として身につけて、霊的進化を図るところに「類魂・再生」のポイントがある。本来は再生霊の地上体験であり、その体験は類魂メンバーから見れば間接体験のはずである。その間接体験を自らの“直接体験”にしてしまうところが類魂・再生のポイントになっている。譬えれば「本来の私」と他の個別霊を分ける“仕切り板”が、透過性の良い構造体となっているため、地上体験によって着色した意識は類魂メンバー相互の間を自由に流れて混じり合って行く。そのため他のメンバーから見れば間接体験のはずが、全員の“直接体験”に転換することになる。

 

☆“プラスの体験”と“マイナスの体験”

個別霊が作ったプラスとマイナスの“因果律(=karman:カルマ)”のうち、特にマイナスの“因果律”が自己責任との関係で一般に“カルマ(=霊的負債)”と呼ばれている。類魂との関係でいえば、“個別霊(=インディビジュアリティ)”の作った“プラスの体験”は、類魂全体の霊的成長のために共有体験として活用される。しかし個別霊が再生人生でカルマを作ってしまった場合には、類魂全体に“マイナスの体験”として残り、類魂の霊的成長の足を引っ張ることになる。

 

このカルマの解消は自己責任との関係で、作ってしまった個別霊が自ら清算しなければならない。類魂の他の構成メンバーが代わりにそのカルマを解消することはできない(→霊の世界では“債務の返済”に連帯保証や免責制度はない)。霊的負債の内容によっては、「地上に再生して償う」形でしか解消できないものもある。その場合は負債を作った個別霊は自ら再生して、地上で“借金を完済する”ことになる。現実に再生するのは個別霊の部分意識である。

 

再生には「類魂の一員として地上体験を積む」場合と「本来の私が作ったカルマ解消のための再生」という二面がある。一般には両者を携えて、どちらかがメインとなって再生するケースや、地上体験を積む過程でカルマの解消が図られるケースであり、これらがほとんどであろう。この「類魂」という概念は、個別霊(→実際に地上に再生するのは個別霊の部分意識)が積んだ地上体験を類魂に持ち帰ることによって全体の共有体験として活用して、類魂全体が「共同して霊的成長していくシステム」のことをいう。

浅野の限界は、このカルマは“作った本人のみが解消する”という点(=自己責任)が曖昧であったために、結果的に「日本の伝統的な祖霊観や霊魂観」と結びついたカルマ論(→先祖のカルマを子孫が代わりに償うという和製スピリチュアリズム)を唱えてしまったことであった。

この項目については「旅のガイドブック」を参照のこと。

http://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/05/post-7380.html

 

③.進化について

☆浅野の「類別的進化論」について

浅野が唱えた「類別的進化論(または差別的進化説)」(注16)によれば、人類の祖先は高級な自然霊であって、最初から人類として進化してきた、そのため主流派科学の進化論が言うような猿から進化したのではない。なぜなら猿の祖先は一段低い自然霊であって最初から猿として発達してきたからと述べている。このように浅野は、あらゆる生物は「種」ごとに、最初からそれぞれ類別的な進化を遂げてきたとして、「現在地上の何れの地点にも、人と猿との中間的生物が発見されない以上、私はこの差別的進化説があくまで正しいと信ずる」と述べている。ダーウィンの進化論を「無差別的進化説」として批判した浅野の「類別的進化論(または差別的進化説)」は、「折衷的な進化論」である。

 

☆主流派科学の進化論

主流派科学では生命の起源に関して、あらゆる生物は一つまたは複数の共通の祖先から自然の作用によって生まれたものであり、その祖先それ自体も非生命体(無機物)から生じたものであるとして、「無機物→有機物→原始原核生物(生物の共通の祖先)→〇〇」の流れで生物の進化を説明している。この点から進化論は、宇宙の一切の存在や現象は物質で説明できるとする唯物論の立場に立っていることが分かる。

なお“ネオ・ダーウィニズム(=「総合説」「現代進化論」「ダーウィニズム」とも呼ばれている)”では、「共通の祖先」「漸進的進化による大進化」「自然選択」は完全に証明されているとの立場に立っている。

 

進化論は生物学の一分野であるにもかかわらず、現在では「全ての生物の関係を理解する上での基礎的な枠組み」として用いられている。この進化論は19世紀以降、政治や社会、公衆衛生、学問、思想などのあらゆる分野において応用されて用いられ、生物学という枠を超えて大きな影響力を及ぼしてきた。しかしこの十数年間における「進化論」を巡る状況は大きく変化してきている(注17)。

 

この主流派科学の進化論に対して創造論では、万物は神によって創造されたとする立場に立つ。このように個々の生命体の発生や進化に関して進化論と創造論では、相反する立場に立っている。ただしキリスト教の独断的で原理主義的な「特殊創造論者」の台頭によって、創造論は極めて狭義の意味で使用されるようになってしまった。ある識者は「過去100年余り“創造論者”という言葉は、理神論者や有神論者を含む広い意味としてではなく、一部の特定層を指す言葉として乗っ取られ、固有名詞化されてしまった」(注18)と述べている。

 

☆主流派科学が説く進化論の問題点

主流派科学が説く進化論は唯物論的一元論に立っているため、物的観点からのみ「進化」を考えている点に問題がある。本来は霊的世界におけるグループまたは群魂状態の“意識なるもの”の進化を主として考えて、その成長に対応した物的身体は何か、どのような物的身体をとれば最も霊的進化が促進できるか。このようにまず霊があってその霊の進化に対応する物的身体は何かという順番で考えなければいけない。唯物論的進化論には、霊的観点がソックリ抜け落ちている。そこに問題を見誤る原因があったと言えよう。

 

☆有神論的進化論とは

有神論的進化論(または進化論的創造論、折衷的進化論)は主張する人によって内容が異なるが、大まかに言えば人間の進化を「肉体上の進化(肉体器官の観点から見る)」と「知的進化(肉体器官に宿っている霊の観点から見る)」に分けて、前者は進化論の観点から、後者は創造論(または“意識なるもの”の進化)の観点から論ずる立場のことを言う。多くのキリスト教徒(とくにヨーロッパ)やキリスト教信仰を持つ学者がこの説を支持している。

 

唯物論的な進化論によれば、人間は本質的には動物と変わりないが、能力的に進化した「完成された動物」とされている。有神論的進化論では、肉体器官が高度な理性や自我意識を受け入れるのに十分な段階まで進化した時点で(→肉体は進化論的観点に立って動物界から進化した)、「霊的要素」たる「霊的意識の流入」があったとする(ウォーレス)。

唯物論的進化論では、理性や自我意識は下等動物の知性と本能から発達したものとするが、有神論的進化論では、それらは“霊的要素”なので霊の世界から「霊的流入」したものとする。物的要素と生命的要素が一体化して「限りなく洗練された段階(→霊的要素を受け入れるに十分な準備ができた段階)で霊的流入が起きる」とする。

 

☆スピリチュアリストとの関係

有神論的進化論は19世紀のスピリチュアリストの間では、広く受け入れられていた説である。ウォーレスもこの立場に立っている。なお国書刊行会から1985年から1986年にかけて刊行された世界心霊宝典シリーズに『スピリチュアリズムの真髄』(原題:The Higher Spiritualism1956年発行)がある。この著書を読んでみれば、著者のジョン・レナードは有神論的進化論の立場に立っていることが分かる。このような点から見て現在でも有神論的進化論に立つスピリチュアリストは数多く存在している。

 

浅野は20世紀前半、西洋の多くのスピリチュアリストが「有神論的進化論(=進化論的創造論、折衷的進化論)」の立場に立っていたので、自信をもって「類別的進化論」を主張したのではないだろうか。ただし浅野は人類の祖先は「高級な自然霊である」と述べたが、当時の西洋のスピリチュアリストは「神による創造」の立場に立っていたため、この点の違いは大きいが。

ダーウィンとは異なって「人間の道徳的性質は外から授けられた」と主張したA.R.ウォーレス(Alfred Russel Wallace1823年→1913年)は、主流派科学の世界から次のように言われている。「ウォーレスは進化論を人間精神に、すなわち崇高な感情に、宗教的な感情に、また美的感覚に適用しようとはしなかった。このような一線を画することによって、ウォーレスは幾分神秘的で哲学的な観念論者となった。人体構造の進化については自然選択の力を強く主張したが、人間の知的・美的・道徳的属性を説明するためには、超自然的なものが必要だと感じていた」(注19)と。

 

☆「浅野の進化論」批判

浅野の進化論は折衷的進化論であるため、有神論的進化論批判と同様に「肉体上の進化」を物的観点から考えているところに問題がある。なお浅野は、前世霊(当然に人霊)を前提としているため、「意識の進化」「進化に応じた物的身体をまとう(→浅野は「類別的進化論」を述べている)」「地上体験を積むことによって意識は進化する(→浅野は浄化した自我意識と未浄化な自我意識とに区別しているが)」「進化とは内在する神性がより多く発現すること」といった観点が曖昧である。浅野は人間や動物をあくまで物質世界の側から見ており、霊の世界で進化していくという「意識を中心にした進化」という観点から見ていない。

 

さらに浅野は「高級霊である自然霊(=天使的存在)が人類の遠い祖先である」と述べている。これは宇宙の経綸を担当する“天使的存在”が、「意識なるもの」にさらなる「進化(→神の属性を外部により多く顕現すること)」をさせるため、神の意志を代行して物的身体を意念で作り出す行為を誤解して(→「意識なるもの」は最初から存在している)、高級な自然霊が人類を生み出したと述べている。ここからも浅野の「類別的進化論」には、霊界における「意識なるもの」がさらなる進化を果たすため、物的身体をまとって地上体験を積むと言う観点が抜け落ちていることが分かる。

ここから言えることは浅野の「類別的進化論」や「分霊再生(創造的再生や部分再生を含む)」は、地上側から限られた情報を元にして組み立てられた思考の産物であるということ。この点に時代的な制約下でスピリチュアリズムの普及に携わらなければならなかった浅野の思索の限界が見て取れる。

 

― ― ― - ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― 

<注1>

■脇長生著「誌齢30巻に想う」:雑誌『心霊と人生』昭和32年(1957年)1月号参照。

脇は「先生(浅野)の晩年は心霊現象の研究は、第二義的となって、全身全霊、日本神霊主義の唱道とその実践に全エネルギーを注がれた」と述べている。

■田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)9頁、26頁、335頁、336頁参照。

田中は浅野の「神霊主義」という用語について「日本神道と新スピリチュアリズムとの抱合せを進めつつこの語を採用した」と述べている。さらに「(浅野は)独特の日本的新スピリチュアリズムを提唱した」と記している。

新スピリチュアリズムを翻訳という形で日本に持ち込む際に、浅野は大本時代の古神道を通した霊魂研究体験が影響して(→いわば色付きフィルターとなって)、「国家神道の思想=日本思想との抱合せ」を強く意識させたのではないだろうか。

 

<注2>

■春川栖仙著『新時代におけるスピリチュアルな生き方』(東明社2005年刊)218頁以下。

浅野和三郎著『心霊研究とその帰趨』(心霊科学研究会、昭和39年刊)序および159頁以下参照。

■浅野和三郎著「再生説と古神道」:『心霊学より日本神道を観る』(心霊科学研究会)所収、42頁以下参照。

 

<注3>

■近藤千雄訳『シルバーバーチのスピリチュアル・メッセージ』(ハート出版)55頁参照。

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、1巻』(潮文社)93頁参照。

 

<注4>

■アラン・カルデック編、近藤千雄訳『霊の書』(スピリチュアリズム普及会)では、「自由意志もなく、何の目的なのかについての自覚もないまま大自然のさまざまな側面での現象の演出に携わっております。指令を発する存在がいて、それに反応して働く存在(精霊)がいます。それが知的進化を遂げて指令を発する立場にまわり、造化の仕事から倫理・道徳の摂理の管理へと進みます」(214頁)とある。

 

<注5>

■板谷樹・宮澤虎雄共著『心霊科学入門』(日本心霊科学協会1973年刊)188頁参照。

 

<注6>

■浅野和三郎著『心霊講座(復刻版)』(潮文社1999年刊)577頁参照。

 

<注7>

■浅野和三郎著『心霊研究とその帰趨』(心霊科学研究会1964年刊)181頁以下。

 

<注8>

■雑誌『心霊と人生』昭和93月号。

 

<注9>

■浅野和三郎著『心霊研究とその帰趨』(心霊科学研究会1964年刊)177頁参照。

 

<注10

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、1巻』(潮文社)179頁参照。

 

<注11

■浅野和三郎著『心霊研究とその帰趨』(心霊科学研究会1964年刊)181頁以下参照。

 

<注12

春川栖仙著『新時代におけるスピリチュアルな生き方』(東明社2005年刊)252頁以下参照。

 

<注13

春川栖仙編『スピリチュアリズム用語辞典』(ナチュラルスピリット2009年刊)146頁下、参照。

和製スピリチュアリズムでは「八百万の神」に関しては、「所謂高級自然霊即ち神仏の域に列するもの」(粕川章著「研究は総合的に」:雑誌『心霊研究』19472月号)という位置づけがなされている。そのため「八百万の神」は一神教世界でいう「神」ではなく「高級霊」であるとの認識が存在している。

問題は和製スピリチュアリズムの世界では、「神」という言葉を通して「高級霊崇拝(=八百万の神崇拝)」が日常的に行われている点にある。一神教世界の崇拝対象は絶対神の「神」のみだが、日本では「絶対神+高級霊」となっている。この点が大きな違いとなっている。

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、8巻』(潮文社)。

シルバーバーチは「指導霊崇拝」を戒めているが、その理由を次のように述べている。「指導霊といえども完全ではありません。誤りを犯すこともあります。絶対に誤りを犯さないのは大霊のみです。私たちも皆さんと少しも変わらない人間的存在であり、誤りも犯します。ですから私は、霊の述べたものでも、必ず理性によってよく吟味しなさいと申し上げているのです」(818頁)。「指導霊ないしは支配霊としての資格を得るにいたった霊は、自分自身が崇拝の対象とされることは間違いであるとの認識があるのです。崇拝の念は愛と叡智と真理と知識と啓示と理解力の完全な権化であるところの宇宙の大霊、すなわち神に向けるべきなのです」(821頁)。

W.Sモーゼス著、近藤千雄訳『インペレーターの霊訓―続『霊訓』―』(潮文社1987年刊)。

続『霊訓』には次のような記述がある。質問者の「イエス・キリストを祈願の対象にしても良いか」との問いに対して、「父なる神、純粋無垢の光の中におわす永遠なる大霊の概念が理解できないうちは、イエスに祈るのも何ら差し支えない。神の概念が理解できた者なら直接神に祈ることです。が、それが出来ないのであれば、自分にとって最も身近な信仰の対象を仲立ちとして祈るがよろしい。その仲立ちによって祈りが大神に届けられる」(75頁)。この文章のポイントは「〇〇〇を仲立ちとして祈る(=取次ぎ説、照準器的役割説)」という点にある。

■「取次ぎ説(=照準器的役割説)」

「唯一神教」や「創造神」的な神概念に馴染めない「多神教的」な風土で生まれ育った人には、この「取次ぎ説(=照準器的役割説)」は有効である。なぜなら霊界人とは異なって、霊的感性の鈍い肉体を持った地上人には、イメージし難い「神(絶対神)」に祈りの思念を向けても焦点が合わず、祈りが散漫になる傾向が見られるからである。この欠点を補う便法として、守護霊や指導霊と磁気的通路ができている人の場合には、祈りの対象をイメージしやすい守護霊なり指導霊なりに向けて、一種の「照準器的な役割(仲立ちの役割)」をお願いして、彼らを仲立ちとして「神」に祈りを捧げる方法が、比較的容易に祈りに入りやすい。なぜなら最終的に「神」に祈りのピントが合うからである(→ただしこの過度的形態は本人がこの便法を理解していることが前提となるが)。

「八百万の神」を崇拝対象としている日本では、この「〇〇〇を仲立ちとして祈る(=取次ぎ説、照準器的役割説)」という考え方がどこまで受け入れられるかが、より深いスピリチュアリズム的神観を理解できるかの決め手となる。但しキリスト教やイスラム教のような一神教の神観が正しいわけではないが、多神教の神観より一神教の神観を有する者の方が、比較的スピリチュアリズム的神観を理解しやすいという利点はある。

 

<注14

■雑誌『心霊と人生』昭和58月号。

――さて物質界と離れた自我は幽体に包まれて幽界の方に引き移り、爰に新たなる経験を積む。それが所謂幽界の生活である。だんだん修行をつみ現世生活から持ち越した物質的欲望、現世的執着の名残が次第にその中心意識と離れるに連れ、爰に再び分裂作用が営まれる。即ち浄化した自我意識と浄化せざる自我意識とが当然二つに分かれるのである。右の浄化した第一自我はそのままずんずん向上の途を辿る。之に反して浄化せざる第二自我は言わば現世的執着の塊であるから再び物質界に戻る。それが取りも直さず再生という現象である。即ち再生とは浄化せざる第二自我の再生、換言すれば分霊の再生であり、自我意識の全部が再生するのではない――

 

<注15

■梅原伸太郎訳『不滅への道』(春秋社2000年刊)訳者の解説参照、240頁。

 

<注16

■浅野和三郎著『心霊研究とその帰趨』(心霊科学研究会、昭和39年刊)181頁~185頁、および春川栖仙編『スピリチュアリズム用語辞典』(ナチュラルスピリット2009年刊)343頁上、参照。

 

<注17

■創造論

一般に創造論はキリスト教の『聖書』に書かれていることは事実である(→『聖書』の記述は一言一句事実であるとする者と、記述を象徴的に理解する者とがいるが)という前提に立って述べられているので、現状は「創造論者とはキリスト教徒のこと」を指す言葉になっている。しかし創造論者には大きく分けて二つの立場が存在する。

まずキリスト教の『聖書』とは関係なく、神の存在と神の創造を認める立場の「宗教や思想」があり、創造説に立つスピリチュアリストはここに含まれる。これを「広義の創造論」と呼ぶことにする。これに対してキリスト教徒の『聖書』をベースにした創造論を「狭義の創造論」と呼んで区別することにする。この「狭義の創造論」の中にアメリカで興隆を極める独断的で原理主義的な「特殊創造論者」がいる。

ID理論

IDとは「インテリジェント・デザイン(Intelligent Design)」のことで、その頭文字をとってID理論と呼んでいる。「知的設計・知的デザイン」のこと。

ID理論では、生物の進化は自然発生的なものではなく、「何らかの存在による、何らかの意図のもとに系統だって進んできた」という考え方をとる。この「何らかの知性を持った存在の関与」に関しては、それが「神であるとは限らない」と主張する点がID理論の特徴となっている。ID理論の登場によって、近年進化論をめぐる状況は大きく変化してきている。

ID理論の普及推進に大きな転換点となった学術会議が、199611月ロサンゼルス近郊にあるバイオラ大学で行われた。そこに生物学・化学・物理学・古生物学・天文学・数学・言語学・哲学・神学・ジャーナリスト等の多方面にわたる専門家200名ほどが集まった。「創造の要諦」というテーマで開かれた学術会議は、関係者によれば「反進化論の集会」として記念すべき会議になったとされている。この頃からインターネット上で「Intelligent Design」という用語の検索ヒット件数が急激に増加したという(久保有政著『天地創造の謎とサムシンググレート』学習研究社2009年刊、45頁参照)。

進化論については、別稿「浅野和三郎の類別的進化論」を参照のこと。

http://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/06/post-d287.html

 

<注18

■フランシスコ・コリンズ著、中村昇・中村佐知訳『ゲノムと聖書』NTT出版2008年刊、168頁参照。

有神論的進化論の立場に立つ遺伝学者のフランシスコ・コリンズは「過去100年余り“創造論者”という言葉は、理神論者や有神論者を含む広い意味としてではなく、一部の特定層を指す言葉として乗っ取られ、固有名詞化されてしまった」(168頁参照)と述べて「特殊創造論者」を批判している。

 

<注19

■渡辺正雄編著『ダーウィンと進化論』(共立出版1984年刊)135頁参照。

ピーター・レイビー著、長澤純夫・大曽根静香訳『博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスの生涯』(新思索社2007年刊)312頁参照。

 

◆浅野和三郎研究:目次

http://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/06/post-9fb2.html

 

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