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学び舎の時代(明治期)

目 次

 

①.幼少時代

ア)漢学的環境

・幼少時の家庭環境

・漢学の素読

イ)立身出世主義的な風潮

・学問のすすめ

・ステップアップを目指す

ウ)水戸学の影響

・水戸の内紛の余韻

・浅野和三郎と水戸学

 

②.東京英語学校

・この項目の概要

ア)浅野和三郎と東京英語学校

立身出世主義のステップ

・明治233月「東京英語学校定期試業優劣表」

イ)東京英語学校とは

・ナショナル・アイディンティティの確立へ

・東京英語学校の創立

・東京英語学校の教育課程

ウ)受験予備校

 

③.第一高等中学校

ア)国文学の復活

・第一高等中学校に入学

・国学の分裂

・落合直文の講義風景

イ)漢文→国文→英文へ

・漢文から国文へ

・浅野の文学熱を刺激

・英文学へ進路決定

 

④.ナショナリズム(国粋主義)

ア)日本におけるナショナリズムの勃興

・ナショナリズムの定着時期

・ナショナリズムの台頭

イ)政教社

・政教社の設立

・政教社の国粋主義とは

ウ)志賀重昴と三宅雪嶺

・志賀重昴

・三宅雪嶺

エ)浅野和三郎の国粋主義

・浅野の本来の国粋主義とは

・和製スピリチュアリズムの誕生

 

⑤.東京帝国大学時代 

ア)小泉八雲との出会い

・小泉八雲に対する憧憬と尊敬の念

・小泉八雲の講義風景

イ)小泉八雲の役割

 

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①.幼少時代

ア)漢学的環境

☆幼少時の家庭環境

浅野和三郎は、医師(漢方医)である父元斎と母かんの三男として生まれた。浅野元斎は明治22年に村制施行された際に初代村長となった。このことからも分るように和三郎は地元の有力者の家の子供であった。

資料『近代文学研究叢書、41巻』の記載によれば、元斎は漢文の造詣が深く、また母かんは元庵(母の父)に就いて漢籍(中国の書物、漢書)を学び、幼少にしてすでに「大学」「中庸」「論語」および「唐詩選」の有名な詩をことごとく暗記していたほどの才女であったという。このように和三郎の両親はともに漢学の素養があった。

和三郎には、長兄の「璋(あきら:1863年生)」と、次兄の「正恭(まさやす:18671228日生)」の二人の兄がいる。彼等兄弟は教育熱心な厳格な家庭環境のもとで、母から手習いと読書の手ほどきを受けながら幼少期を過ごした

 

後年浅野和三郎は自伝において「学校の課程を放棄して、放縦なる文士生活に突入するに至らざりしは、主として厳格なる家庭の力が大いにあずかっていた」(注1)と述べている。和三郎は明治21年(1888年)に上京して、進学準備のために東京英語学校に通い、その後第一高等中学校、東京帝国大学と進学したが、刺激の多い東京の生活でドロップ・アウトすることもなく学業を全うできたのは、このような家庭環境に負うところが大きかったといえよう。

 

☆漢学の素読

明治期に国際的に活躍した人物の伝記などを読むと、英語の上達と漢文の素読には関係があることが窺える(注2)。武士には士族のたしなみとして漢籍の学習があり、士族の出であった者の子供時代には「論語」や「孝経」などを、声を張り上げて素読をさせられていた。素読をすることによって文章を読みこなすコツをつかみ、言葉の持つリズム感や抑揚などが体得でき、ひいては英語の習得にプラスに働いたという。

 

明治初期に国際舞台で活躍した日本人の中には、幼少期に素読を行って、しらずしらずのうちに暗唱してしまうほど熟読して素養として身につけた者がいた。たとえば明治時代の美術会で活躍した岡倉天心(おかくらてんしん、岡倉覚1862年→1913年)は、10歳のころに神奈川の長延寺に預けられた時に「大学」「中庸」「論語」「孟子」などの漢籍に夢中になったという。その後明治初期の代表的な漢詩人の森春濤(もりはるとう:1819年→1889年)に漢詩を習い、奥原晴湖(おくはらせいこ:1837年→1913年)からは大和絵の指導を受けた。岡倉は来日したアーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa1853年→1908年)から英語力を見込まれて、一緒に日本美術の復興のための仕事を行っている。さらに西洋に日本文化(→『茶の本(The Book of Tea)』など)を紹介し、ボストン美術館の東洋部長(1910年~?)として国際的に活躍した。

 

同じく国際舞台で活躍した人に新渡戸稲造(にとべいなぞう:1862年→1933年)がいる。新渡戸はアメリカで1900年(明治33年)に『武士道(Bushido The Soul of Japan)』を刊行し、さらに国際連盟の事務次長(1920年→1926年)の要職を歴任したことで知られている。新渡戸も南部藩士の子として漢籍の素養があった(注3)。この他に浅野和三郎とは古くからの心霊関係の友人であり、海軍機関学校の同僚でもあった宮澤虎雄も幼少期、両親から漢籍の手ほどきを受けて素読を行っていた。

 

イ)立身出世主義的な風潮

☆学問のすすめ

浅野和三郎と同時代人で茨城県西部(結城郡石下町:現在の常総市)出身のアララギ派の詩人に、長塚節(ながつかたかし:1879年→1915年)がいる。長塚は地元の国生尋常小学校と、下妻高等小学校を卒業して、水戸市にある茨城県尋常中学校に明治26年(1893年)4月に14歳で入学している。この中学校は当時県西・県南・県北各地から優秀な生徒を集めていた。浅野は長塚のように茨城県尋常中学校に行かずに、上京して東京英語学校に入学した。なぜだろうか。

 

少年時代の和三郎の周囲には、職業選択や居住移転が自由となり、江戸時代までの固定した身分制度や家柄から解放された立身出世主義の自由な風潮が漂っていた。誰でも能力があれば政府の高位高官となって自己実現が図れるという、明治期の立身出世主義的な風潮は、庶民に富や名誉や社会的地位などといった世俗的な“力”に対する憧れを誘った。その憧れは競って子弟に学問をさせるための主要な動機付け、原動力となった。

明治初期のベストセラーである福沢諭吉の『学問のすすめ』には、「学問を勤めて物事をよく知る者は、貴人となり富人となり、無学成る者は、貧人となり下人となるなり」と記されている。学問をしているか否かの差がそのまま貴賎貧富となるので学問をしなさいと述べている。福沢の「勉学は立身出世の基礎である」との主張は、『学問のすすめ』的な類似本の出版の影響もあって、多くの若者に「青雲の志」を抱かせた。

 

☆ステップアップを目指す

このような風潮の中で、地方在住の経済的に比較的恵まれた家庭の青年たちは、学問を通して立身出世のステップを登るため、上級校への進学準備のために上京して、予備校へ入学するという道を考えた。このように社会の上層を目指す者の家庭では、学校間格差を当然の前提とした上で、進学校の選択を行っていた(注4)。

地方の家庭では縁故や伝手をたよって子供を上京させて、より高い「学問」を身につけるべく、大学予備門や旧制高校の前身である高等中学校の受験勉強に奔走していった。なぜならばエリート校である高等中学校(前身である大学予備門を含む)を卒業しさえすれば、当時はほぼ自動的に帝国大学に入学できたからであった。しかし時代が下るに従って、選抜が始まり受験熱が加熱していった。

浅野の周りの家族や親類縁者、地域にも、明治時代の風潮である立身出世主義的な空気は漂っていた。当然のように和三郎は水戸の中学校ではなく、兄正恭の後を追うようにして上京していった。

 

ウ)水戸学の影響

☆水戸の内紛の余韻

浅野が生まれた明治初年の茨城県南部には、幕末期の水戸藩の激しい騒乱の影響が色濃く残っていた(注5)。水戸の内紛は保守派の佐幕派・諸生党と改革派・天狗党との間で、血で血を洗う闘いが水戸の周辺部の藩や栃木県、遠くは福井県敦賀市なども巻き込んで、際限なく繰り広げられていた。

水戸藩の藩主は江戸定府のため城下町の水戸には常住していなかった。そのため幕末期以降の水戸城の支配者は、「尊王攘夷派(激派)→保守派の佐幕派→改革穏健派(鎮派など)」と、藩内の勢力図の変化によって目まぐるしく入れ替わっていた。

 

明治時代になると、「鎮派・入牢していた者・諸藩にお預けの身となっていた者」などが、自由の身となって続々と水戸に戻ってきた。それまで水戸城の支配者であった保守派の佐幕派たちが会津藩に合流して水戸を離れていた隙に、彼らは水戸城の支配者となった。

明治元年(1868年)秋、東北地方の攻防戦から戻ってきた保守派(佐幕派の市川派・諸生党)との間で、水戸城や弘道館の奪取をめぐる攻防戦が繰り広げられた。この戦いは水戸藩周辺部にまでおよび、千葉県の八日市場まで落ち延びた保守派(市川派・諸生党)はその地で水戸勢と戦って全滅した。このような骨肉の争いの後遺症は長く残り、その子孫の代に至るまで感情的しこりが残ってしまったという。

このように浅野の両親や親族は、水戸の内紛(注6)に直接に、また時代の支配的な空気の中で間接的に巻き込まれていった。和三郎の幼少期は、騒乱の余韻がいまだ郷土の雰囲気の中に色濃く残っていた時期であったといえる。

 

☆浅野和三郎と水戸学

和三郎にとって多感な青春時代を過ごした明治20年代とは、政教社の設立(明治21年)に見られるように「明治のナショナリズム」の高揚期にあたる。また“後期水戸学”の中に胚胎していた「万世一系の天皇統治」「神国日本(日本は神州である)」「国体論」「君民一体」的思想が明治新政府の中に引き継がれて、水戸学的思想の影響を受けた明治憲法(明治22年)や教育勅語(明治23年)が制定された時期でもあった。このような「明治期のナショナリズム」や、水戸学の影響を受けた「近代天皇制イデオロギー」が、和三郎の多感な時代の思想形成に影響を及ぼして次第に固着思想となっていった。さらに海軍兵学校に入り高級軍人の道を目指した兄正恭の思想的影響も大きかった(注7)。

 

②.東京英語学校

◆この項目の概要

浅野和三郎は明治21年(1888年)に上京して、東京英語学校に通って第一高等中学校への進学準備を始めた。浅野が明治23年頃まで通った東京英語学校とはどのようなところだったのか、次に述べる。

 

ア)浅野和三郎と東京英語学校

立身出世主義のステップ

浅野和三郎が郷里で過ごした時代は、誰でも学問をすることによって立身出世することができ、高位高官となって社会・国家のための仕事ができるという雰囲気、時代の空気があった。この雰囲気を醸造した要因の一つに、明治初期のベストセラー『学問のすすめ』(福沢諭吉著、明治5年刊)や『西国立志編』(中村正直訳、明治3年刊)などがあった。

 

浅野の父元斎は医師として、また地域の有力者として、明治22年(1889年)村制施行後の初代村長となって活躍した。浅野家の兄弟たちも明治期という時代の雰囲気の中で少年時代を過ごした。和三郎の長兄の璋(あきら)は医師である父の跡を継ぎ、次兄の正恭(まさやす)は15歳の時(明治15年:1882年)に上京して、神田区淡路町にあった共立学校(→大学予備門入学のための英語を主とする予備校)で学び、明治18年(1885年)11月に18歳で海軍兵学校に入学して職業軍人の道に進んだ(注8)。和三郎も源清田小学校から萩原漢学塾(北総の国)を経由して、次兄正恭の跡をなぞるように明治21年(1888年:当時14歳)に上京して、東京英語学校(明治18年設立、校長は増島六一郎)で学んだ。

浅野正恭と和三郎は同じようなルートを通って、共に上級校進学を目的とする予備校の英語学校で学び、それぞれ進学していった。

 

当時の進学事情について教育社会学者の竹内洋の解説によれば、当時の地方の尋常中学校の教育水準は低く、第一高等学校などが要求する学力水準を満たしていないため、地方の人は地元の中学校を中退して上京して、東京英語学校などで英語と数学を中心とした勉強をするのが普通であったという。浅野家兄弟のコースは、当時としては地方在住の経済的に恵まれた子弟が辿る教育コースとしては標準的であったようである。

 

☆明治233月「東京英語学校定期試業優劣表」

浅野和三郎が学んだ東京英語学校では、定期的に試験を行って進級していくシステムになっていた。国会図書館に保存されている明治23年当時の「東京英語学校定期試業優劣表」に記載された人名や数字、さらに各種文献を参考にして東京英語学校の概要を見ると次のようなことが分かってくる(→但し資料相互間に整合性がないのであくまでも参考程度)。

 

東京英語学校は初等科(第6級から第1級)と高等科(第2級、第1級)からなり、本科生と夜学生の二部構成をとっていた。高等科第1級のカリキュラムは訳読、算術、代数、幾何、作文、文法があり、第2級ではこれに読方が加わった。学年は48日から翌年の47日(→但し明治2211月の記載では、710日から翌年630日となっている)まで、修業年限は初等科3年・高等科1年(1年に2級ずつ進級した)となっていた。なおこの頃(明治22年頃の調査?)の進学先は、第一高等学校に405名、東京商業学校(→官立の学校で一ツ橋大学の前身)に129名、第二高等学校・第三高等学校・海軍兵学校に合わせて20名とあり、当時屈指の大予備校であった。

 

明治22年(1889年)における1年間の入学者数(→入学試験は毎月随時行っていた)の合計は1445名であるが(神辺靖光著『明治前期中学校形成史』223頁参照)、同年12月末の調査時点の生徒数は627名、夜学は414名が在籍していた(→生徒の出入りが多いことが分かる)。

明治233月の定期試験の際には、浅野和三郎は高等科2級に在籍していたが、受験者の中で3番であった。この時の高等科2級の受験者は68名であり、及第は59人、落第は7人で欠席2人となっている(→初等科と高等科合わせた本科生総計1751人、受験者1193人。夜学生の総計464人、受験者166人が在籍)。次の明治2310月に行われた高等科第1級生、2級生の定期試業の受験者リストに浅野の名前はない。この理由を鈴木彦四郎は、浅野は「第一高等中学校の入試にパスした」(注9)ために名前が載っていないと述べている。

なお英吉利法律学校(現在の中央大学)との関係では、初等科第1級以上になれば無試験で入学が許されており、当時両校は密接な関係にあったことが窺える。

 

イ)東京英語学校とは

☆ナショナル・アイディンティティの確立へ

江戸時代の末期から始まった日本の近代化は、対外的危機意識の中から、いわば外圧(→黒船来航に象徴的に見られる)という形で引き起こされたものであった。当時の日本の状況は、西洋諸国に追いつくために物質的な近代化が急がれていた。

明治期の「開明化政策」の象徴的な建造物として、明治16年(1883年)に外国人賓客の接待の場として、また上流社会の社交の場として、外務卿井上馨によって建設された鹿鳴館がある。この明治10年代後半の外交を「鹿鳴館外交時代」と呼んでいるが、この頃の日本は西洋崇拝が頂点に達していた時期でもあった。当時の政府の「欧化政策」は、幕末に西洋諸国と結んだ不平等条約を解消するための「手段」であったと言われている。しかしその急激な西洋化は、反動として国粋主義(=ナショナル・アイディンティティ)の台頭を呼び起こし、当時の政府の政策を「欧化主義」と呼んで批判した。この頃から意識的に国家や国民の一体感の形成を図る“アイディンティティ”確立のため、日本独自の路線の模索が始まった。

 

☆東京英語学校の創立

当時の国粋主義の特徴は、日本国民本来の長所を重視し、日本古来の伝統・道徳が頽廃していくことを憂いたものであって、日露戦争頃から出現した国家主義と結びついた国粋主義や、昭和期に唱えられた偏狭的で独善的・排他的な超国家主義的な国粋主義とは異なる。

国粋主義を唱えた一人に杉浦重剛がいた。

杉浦重剛(すぎうらじゅうごう:1855年→1924年、東京大学予備門の校長)は東大の前身の大学南校(だいがくなんこう)以来の親友であった宮崎道正と、明治義塾の教員であった千頭清臣、谷田部梅吉、松下丈吉と共に、東京遊学者の便宜を図って官立学校へ入学を希望する者のための予備校設置を計画した。そして東京神田区錦町二丁目二番地の旧明治義塾の跡地に、明治18年(1885年)7月に東京英語学校(注10)を創立した。

 

著書『杉浦重剛先生』の記載によれば「東京英語学校の前身とは云えないが、土台とも云うべきものに、明治義塾がある。場所は神田錦町二丁目二番地である。三菱商業学校(注11)が明治義塾と併立していた。二校とも、岩崎家で建てたものであって、豊川良平翁が二校の校長であった。明治17年から、更に英吉利法律学校ができた。間もなく明治義塾も三菱商業学校も廃せられて、英吉利法律学校のみが残った。後に中央大学と名が変わった。明治18年から、新たに東京英語学校ができた。東京英語学校は明治義塾の遺礎に建てられたものである。岩崎家とは関係がない」(注12)と記されている。

 

東京英語学校は前年に同じ敷地内に増島六一郎らによって設立された英吉利法律学校(東京法学院→東京法学院大学→中央大学)と校舎を共有していた。校舎は旧明治義塾の校舎であったものを、東京英語学校と英吉利法律学校とが共同で岩崎家から買い取った(敷地は借地)もので、建物の正面左側が東京英語学校で使用し、正面右側が英吉利法律学校で使用した。増島が初代校長(→増島は英吉利法律学校の初代校長でもあった。1890年からは杉浦重剛が東京英語学校の校長に就任した)となった(注12)。

 

☆東京英語学校の教育課程

東京英語学校の設置願(188578日付)には「英語数学漢文の三科を教え傍ら東京大学予備門及び其他諸官立学校に入る者の為にす」と、設置の目的が述べられている。資料によれば東京英語学校の生徒は地方からの遊学生で東京大学予備門への志願者が多かったため、英語、数学を正科とし、漢文は随意科とした。また英語のみを教える夜学も附設(明治1810月)した。このように東京英語学校の創立趣旨は「官立諸学校の入学試験準備教育」と謳っていたが、実際には大多数の生徒は東京大学予備門入学を目的としていた。そのため学科も必然的に予備門の入試試験に沿ったものとなっていた。

 

東京英語学校は明治19年(1886年)の学制改革により規則を改め、「本校は主として普通の英語学及び数学和漢文の学科を教授し第一高等中学校を始め諸官立学校に入らんと欲する者を養成する所とす(第一条)。昼間修学の餘暇なき者の為に夜学科を設け専ら英語学を教授す(第二条)」(明治209月)とした。この規則改正に伴って科目も増やして、明治19年の「中学校令」に沿ったものに改められた。この結果、教育内容は実質的に中等普通教育(尋常中学校の組織)に沿ったものとなった。

 

ウ)受験予備校

東京には大学予備門(後の高等中学校)や官立の学校を受験するための各種学校があった。浅野和三郎が通った東京英語学校もその中の一つであった。

大学や大学予備門(後の高等中学校)での授業についていくためには、十分な英語の基礎学力を身につけておく必要があった。そのため地方の青年は地元の中学校を卒業、もしくは退学して上京し、各種学校で語学や数学の学力を養ってから大学予備門や官立の学校に入学していった。彼らが選んだ進学先(各種学校)として、英語を中心とした教育課程を設けた東京英語学校や共立学校(→1871年創立:現在の開成中学校・高等学校)、夏目漱石が通った成立学舎(→明治中期まで存続していた:設立廃止の年月日は不明)は特に有名であった。

 

これらの学校の実力を裏付ける資料として、「第三高等中学校1887年(明治20年)12月臨時募集生徒一覧表」と「第三高等中学校入学者入学前修業学校区別表(1887年~1890年)」がある。これらの資料によれば予科第三級合格者12名の最終出身校を見ると、東京の私学に籍を置いた合格者は全体で8名(→東京英語学校と共立学校の出身者は各3名いる)で、官立の尋常中学校出身者は3名だけである。この一覧表に記載された校名の中に「私立東京英語学校」という名称が見られる。

明治20年(1887年)に第三高等中学校に入学した117名の最終出身校は、私立学校が69名、尋常中学校中退が38名、尋常中学校卒業が3名他になっている(注13)。

 

教育社会学が専門の竹内洋の『立志・苦学・出世』によれば、「東京英語学校や共立学校、成立学舎、独逸語学校などの学校は、第一高等中学校などに入学するための受験指導の学校(注14)だった。社会主義運動の先駆者堺利彦や法学者美濃部達吉は明治20年前後に地方から上京し、これらの学校で勉強したのち第一高等中学校に合格している」。これらの学校は「中等教育を修了した者が受験のためにさらに勉学するという予備校とは異なっていた」。現代の予備校の元祖は明治30年代以降に設立されたものであると述べている。

 

③.第一高等中学校

ア)国文学の復活

☆第一高等中学校に入学

浅野和三郎は明治24年(1891年)に第一高等中学校に入学した。「高等中学校」とは明治19年布達(1886年)の「中学校令」によって生まれ、明治27年(1894年)の「高等学校令」で消えた官立の2年生中学校であり、旧制高校の母体となったものである。第一高等中学校は予科3年、本科2年を設けており、浅野は5年間在籍(予科・本科)して明治29年(1896年)9月(22歳)に帝国大学に入学した。当時の受験制度では、高等学校を卒業すれば帝国大学にはほぼ問題なく入学ができた。

浅野の第一高等中学校での受け持ち担任は、国文学者であり歌人として短歌革新運動に携わった落合直文(1861年→1903)や、小中村義象(1861年→1923年)(注15)であった。

 

☆国学の分裂

落合直文は第一高等中学校で国文学を教えたが、落合の講義に刺激された学生が国文に興味を持つようになったという。江戸時代の後期から幕末期にかけて国学が隆盛を極めたが、明治時代になると国学の分裂が進んで“神秘主義的な研究に向かうグループ”と、“近代的な国文学等へ自立していくグループ”とに分かれていった。前者のグループは神代文字、言霊の研究、霊的皇国主義を説く復古神道家や霊学者等の神道思想家たちへと引き継がれて行き、後者は宗教的要素が排除されて国文学、歴史学、国語学などの学問分野へと、それぞれ分化していった。

 

この学問分野へと分化した後者のグループの動向としては、明治234月に立花銑三郎と芳賀矢一の共著『国文学読本』の刊行があげられるが、この著書は「日本文学史研究の先駆」とされている。またこの年は上田万年の『国文学』や、三上参次と高津鍬三郎の共著『日本文学史』が刊行されており、国文学研究が緒に就いた年であった。その後ドイツ留学から帰国した芳賀矢一は、ドイツの文献実証学を取り入れて、国学を「日本文献学」と規定して「国文学の方法論を定めて学問として自立」させた。

浅野の第一高等中学校の在学時は、このような国文学が復活してきた時期とダブっており、この背景には「明治のナショナリズム」の高揚があった。この時代のキーワードは「ナショナリズム(国粋主義)」である。

 

この「明治のナショナリズム」の高揚は出版界にも見ることができる。落合の門下生の金子薫園によれば、博文館の『日本文学全書』24巻刊行の企画は、落合が明治22年(1889年)に「国語伝習所(→飯田永夫や杉浦鋼太郎等が大成学館に併設の形で1889年に創立)」において講師として勤めた際に、一冊の書籍を数人で見るという状況であった。そのため「講義に不便を感じたのが動機となった」(注16)と述べている。翌年(明治23年)4月から落合は小中村義象や萩野由之と共編で『日本文学全書』を逐次刊行したが、「出版早々異常な売行きで、忽ち幾回かの版を重ねるに至ったのは、編者も発行者も全く予期せぬ出来事であった」という。この全書の出版によって「国語国文の学の復興を助成したるところ頗る多い」、また「この書が出て初めて中等学校の国語科に文典教育普及の端を開いた」(注17)とされ、国民は久しく忘れていた古典文学の存在と真価を知ることになったという。

 

ちなみに博文館発行の『日本文学全書』24巻(明治23年~25年刊)には、「竹取物語」「方丈記」「十六夜日記」「堤中納言物語」「和泉式部日記」「宇治拾遺物語」「源氏物語」「太平記」「平家物語」「大鏡」「増鏡」などが収録されており、当時としては本格的な文学全書であった。浅野たち第一高等中学校の生徒にも、この文学全書はよく読まれたという。

 

☆落合直文の講義風景

一般に漢文や国文の講義は「字句の穿さくに終始して眠気を催す」と言われているが、「(落合の)活気ある講義ぶりは青年学生の間に非常な評判であった」という。また文典や古典講読の講義は名講義で評判が高く、教室の空気は緊張して受講者は常に教室に溢れていたと、金子は「落合直文の国文詩歌における新運動」の中で述べている(注18)。

 

落合は学生に「常に国家、国体、人情、風俗等すべて日本たる思想を脳裏に据えて、講義の際、須臾(しゅゆ:しばしの間)も忘れざる」ように求めていた。また「歌は本邦固有の文学」「我国文学は、我国、徳育の基礎」「国語は、国民の団結を固くし、国家的観念を起こし、愛国心をさかりにするもの」(注19)であると語っている。

落合の『萩之家歌集』(明治書院、明治396月)には、「明治26年の末つ方、第一高等学校の生徒を率い、鎌倉にて発火演習を行いける時、従軍行と云う題にて百首よみける歌」として、39首が収録されている。第一高等中学校の学科課程表によれば「兵式体操」が生徒に課せられており、その一環として発火演習が行われたのではないだろうか。当時浅野は高等中学校の生徒であったので、あるいは落合たちと発火演習を行ったのかもしれない。

 

イ)漢文→国文→英文へ

☆漢文から国文へ

浅野は漢文の造詣が深かった両親の影響や、萩原漢学塾で学んだ関係から、14歳頃から18歳頃までは、日記でも、紀行でも、論説でも残らず漢文で書いていたという。しかし思想を漢文表記で表現するには構文上不自由であり、徐々に不便に感じられてきた。その頃に「国文学の復活」があった。半生を綴った自伝によれば浅野の多感な時代は「少年時代から盛んに文学書類を耽読した」「自分は1314の頃から文学熱に冒されていた」、さらに「独居と空想と執筆、これが不断の何よりの楽しみであった。散歩するにも成るべく単身で出かけて、そしてこの満足を恣にせんとした」(注20)という。この文面から見ても浅野の少年時代はロマンチストで感じやすい文学少年であったことが分かる。

 

国文への移行につき『近代文学研究叢書、41巻』の記載によれば、浅野は第一高等中学校の春休み(明治26年:189341日から6日間)に単独旅行に出かけたが、その際に記した「明治26年春季旅行日記」は、漢文から和文への筆ならしとして書かれたものであったという(注21)。

 

☆浅野の文学熱を刺激

明治27年(1984年)10月に読売新聞が「歴史小説脚本懸賞募集(→選者は尾崎紅葉・依田学海・高田半峰・坪内逍遥ほか1名)」をした時に、浅野の友人の戸沢姑射が「しのぶ露」で一等に入選した。浅野は戸沢が玄人の江見水蔭を抜いて入選したことから、ライバル心を掻き立てられて学校の科目以上に創作に精を出すことになったと述べている。この出来事は浅野の文学熱をいたく刺激したが、当時は「(文章は)古典的な色彩がなかなか強く、国文系と漢文系との熟語成句語法等が、発刺たる思想の飛躍に強圧を加えて」(注22)思うように筆が進まなかったという。

 

この頃浅野は、国文学の文章表現法に興味を示して、創作スタイルを従来の漢文から国文に移行させていた。浅野によれば、従来までの「ゴツゴツした漢文」調の文語体に変えて「ダラダラした国文」の表記法に移行したが、この移行には難渋したという。自伝によれば創作スタイルの移行に伴って「漢文好きの書生は何時しか国文かぶれの書生に変わっていった」(注22)という。ここに「国文かぶれ」の浅野和三郎が誕生したわけである。

 

☆英文学へ進路決定

次第に浅野の英語の力が付いてきて、バイロン、ワーズワース、ロングフェロー等の詩人をはじめ、ディケンズ、サッカレー、スコット等の作品にも親しみ、テニスンの詩集をひもとくまでになってきた。大学の進路決定の際には「一つ英文学を専攻して見よう。漢文と国文の書物なら片手間に読破できる。昔の人は和魂漢才と云ったが、自分は和魂漢才洋想ということで進んでみよう。専攻科目を選ぶには、日本人に最も困難を感ずる外国語でなければ嘘だ」(注23)と決意して、英文学の道に進んでいったと述べている。

このようにして浅野の文章表現技法は、漢文から国文へ、さらには英文へと変化していった。明治29年(1896年)9月に「帝大の英文学科に籍を入れる」ことになって、英文学者の道へ一歩踏み出すことになった。

 

後に浅野は「自分は英文学を専攻したことを格別に愉快であったとも、また自己の天分に適ったことであったとも思わない」(注24)と述べている。この「格別に愉快であったとも・・・」の感想は、発言当時(大正9年)は宗教教団大本の幹部であり、自己の半生を自伝的にまとめて客観視した立場で述べた言葉であること。さらに鎮魂帰神法によって人間の本質は霊であるという事実に目覚めたことによって、自己が進むべき道をおぼろげながらに見出したこと(→大本事件の謹慎期間中に確定的になったが)。このような状況の中で出た発言であり、いまだ英文学の世界に留まっていたならこのような突き放した言葉は出てこなかったのではないだろうか。

なお浅野は「二十幾年後の今日でこそ、漸く日本の文章が物の用に立つ所まで一般に発達して来たが、其の頃は古典的な色彩がなかなか強く、国文系と漢文系との熟語成句語法等が、はつらつたる思想の飛躍に強圧を加えていた」として、当時の言文一致運動(注25)の只中で創作活動を行った苦労を述べている。

 

④.ナショナリズム(国粋主義)

ア)日本におけるナショナリズムの勃興

☆ナショナリズムの定着時期

nationalism(ナショナリズム)」は「民族主義」や「国粋主義」などと訳されている。日本においてナショナリズムが定着したのはいつ頃だろうか(→個人で言えば自我の確立期のこと)。イギリスのジョージ・オーウェル(1903年→1950年)は「右であれ左であれ、わが祖国」と述べたが、このような民族意識(→本稿ではこれを「素朴な国粋主義」と呼ぶ)を日本人が持つようになったのは、少なくとも自由民権運動が沈静化していく明治20年以降のことであるとされている。

 

明治新政府が文明開化政策として打ち出した郵便制度の拡充・鉄道網の整備・軍隊制度の充実は、日本という国土の空間的一体感を強める働きをした。江戸時代の藩幕体制下では、人々の忠誠心の対象は所属する藩であり、藩の集合体たる日本国ではなかった(→1863年にイギリスに密航した長州藩の井上馨や伊藤博文たち5人の藩士が、海外から攘夷に揺れる日本を見た際に、初めて“日本国というナショナリズム”を明確に意識した初期の人たちであったと思われる)。当時はせいぜい所属する「〇〇藩」がすべてであり、ましてや世界という観念はなかった。そこにはおのずと血縁者中心の伝統的な霊魂観や世界観が出来上がっていた。幕末の対外的危機意識の高まりの中から、日本という国家や国民意識が徐々に生まれてきたが、明治時代の初期「政府は薩長の藩閥が幅を利かせていた」ために、明治新政府の施策にことごとく反対する風潮が強かった。

 

☆ナショナリズムの台頭

明治17年(1884年)の華族令の制定は、旧幕臣側に対する融和政策となって政権に返り咲く者が多くいた。この制定は明治政府の体制を盤石にさせて、日本という国家や日本国民としての一体感を生み出す要因となった。当時の古今東西の一般常識では、旧政権の権力者は全員殺害か追放であったが、明治政府はこれを行わなかった。このことが日本という国の一体感を大きく促進させる上で主たる要因になったと思われる。

 

日本では幕末期の外圧から生じた「尊皇攘夷というナショナリズムの萌芽」が、明治10年代の「自由民権運動の民権論や国権論を掲げた政治運動(→ナショナリズムが内在していたとされる)」を経ることによって、明治20年代に真の意味でのナショナリズム(=ナショナル・アイディンティティ)が育ってきた。この時期、政府は西洋諸国と結んだ不平等条約(→治外法権問題や関税自主権問題等)を解決する必要から、西洋流の政治・経済制度の早急な構築や、個人主義をベースにした「西洋流文化」を積極的に取り入れようとしていた。このような政府の急激な「欧化主義」や外交政策などに反対して、国粋主義的な文化団体として政教社(→明治21年、1888年:「日本主義」を唱導した団体)が創立された。

 

イ)政教社

☆政教社の設立

明治中期に国粋主義(=ナショナリズム)を唱えた代表的な思想家に、陸羯南(くがかつなん:1857年→1907年)、三宅雪嶺(みやけせつれい:1860年→1945年)、志賀重昂(しがしげたか:1863年→1927年)、杉浦重剛(すぎうらじゅうごう:1855年→1924年)等がいた。

三宅雪嶺、志賀重昂、杉浦重剛等は、明治21年(1888年)に国粋主義的文化団体の政教社を作り(→国粋主義者の思想団体)、志賀重昂が主筆となって雑誌『日本人』を発行した。政教社は、明治22年(1889年)に日本新聞社を設立して『日本』を発行した陸羯南(くがかつなん)とは友好関係にあった(→『日本人』と『日本』は姉妹誌とされている)。

 

政教社の創立当時の同人は13名であり、人脈的には井上円了(1887年に哲学館創設)が中心となって、三宅雪嶺(本名:雄二郎)、島地黙雷(浄土真宗本願寺派の僧侶)、加賀秀一、辰巳小次郎、杉江輔人、棚橋一郎の「哲学館人脈」。そして杉浦重剛(東京大学予備門校長)が中心となって、宮崎道正、今外三郎、松下丈吉、菊池熊太郎、志賀重昂の「東京英語学校人脈」の二系統があり、この流れが合流した(注26)。

政教社は1887年に徳富蘇峰が設立した民友社とともに、1890年代の思想界・言論界を二分して大きな影響力を行使した。

 

☆政教社の国粋主義とは

志賀重昴は、政教社発行の機関誌『日本人』において「国粋主義」を主張したが、志賀や三宅の「国粋主義」は「国家主義」ではなく、体制批判を含んだナショナリズムであった。彼らが唱導していた「国粋主義」とは、政府の欧化主義路線に反発して日本独自の路線を模索した「ナショナル・アイディンティティ」、つまり日本国民本来の長所を重視し、日本古来の伝統・道徳が頽廃していくことを憂いた「素朴な国粋主義」の主張であった。

 

この「素朴な国粋主義」は日露戦争(1904年→1905年)の頃から、「国家主義」と結びついて徐々に体制擁護の偏狭な「国粋主義」に変容していった。ここでいう「国家主義」とは国家を第一義的に考える立場であり、この傾向が強まると対内的には国家権力の行使は無制限となって独裁体制へと進み、対外的には国家膨張主義を招くことになる。

さらに昭和に入ると「皇国史観」が台頭してきて、極端な排外主義的イデオロギーとなった。この「皇国史観」とは、日本の歴史を万世一系の天皇(→「現人神」との位置づけ)が永遠に君臨する世界に比類なき神国の歴史として描く歴史観のことをいう。このように昭和の「国粋主義」の実態は、明治中頃に唱えられた「国粋主義」とは異なり、「素朴な国粋主義」に「国家主義」と「皇国史観」が結びついた「国粋主義」であった。

 

ウ)志賀重昴と三宅雪嶺

☆志賀重昴

志賀重昴は西欧が支配する南洋諸島の植民地の惨状を見て回って、列強による南洋分割の脅威と日本の南洋に対する進出の可能性を論じた『南洋時事』(1887年刊)を出版した。また代表的著書『日本風景論』(1894年刊:復刻版、講談社学術文庫2014年刊)では、日本の変化に富んだ風景(四季・景観)は先進諸国に比べても最優秀であり、このような風光明媚な「国土を日本民族に賜与」されたことに感謝し、「風景を日本国民の精神的統合の象徴」としてナショナリズムとの結合をはかった。志賀の主張には「国家主義」や帝国主義体制に利用される傾向が内包していたため、『南洋時事』はその後の日本の「南進論」の思想的な根拠付けとなり、『日本風景論』は日清戦争時に刊行されたために「国威発揚」に多大な貢献をして広く読まれたという。

 

☆三宅雪嶺

三宅雪嶺は「独特な真(学術の伸張)・善(正義の伸張)・美(芸術の伸張)という価値観に基づいた言論」を終生述べて、日本人が世界に寄与し得る道を模索した。

三宅は「新しいものが創造されるためには多様な異質なものが競合し練磨し合って結びあわねばならないとの認識があり、各国におけるさまざまな長所(=固有性)を検討し、異質のそれを学ぶことによって、かえって殊別の固有性(=国粋)を堅固なものに再構築していこうとの姿勢があった。そのことが世界文明の創造への一翼を担い得るものである」と確信していた。この三宅の「国粋主義」は、排外的で独善に満ちた偏狭な「国家主義」とは無縁であった。

 

エ)浅野和三郎の国粋主義

☆浅野の本来の国粋主義とは

国際スピリチュアリスト連盟(ISF)の大会に参加した当時の浅野の「国粋主義(ナショナリズム)」の特徴は、日本国の国威発揚を願い、我が国固有の歴史・文化・宗教(特に神道)の独自性・優位性を主張した、いわば開明派的な「素朴な国粋主義」であった。

たとえば神道について、世界の識者が「日本にはあんな貴重なものがあったのだナ。道理でこそ、日本という国は、不思議な真似をする国だと思っていた」と感想を述べたことを誇らしげに語っている。また浅野は西洋のスピリチュアリズムは日本における神道と多くの点で共通点があり、この神道の真価を発現して「これが私どものヤリ方です。そう世界に宣言し得た時に、日本国は精神的にも、初めて世界に重要な一席を占めることになる」(注27)とも述べている。

 

このように浅野は海外の識者の意見を紹介しながら、日本古来の伝統や神道が日本人の宗教文化に深く根ざしている事実を踏まえて、ことさらにスピリチュアリズムとの類似点を強調している。このような浅野のスピリチュアリズムの受容の過程は、日本の歴史が海外から新しい宗教・文化・文物等を受け入れて、日本の伝統に合うように変容させながら共存し、重層させて日本文化を作り上げてきた、伝統的手法を無意識的に踏襲している(注28)。なおISF大会に参加した頃の浅野の主張からは、晩年に唱えた「素朴な国粋主義」に「国家主義」と「皇国史観」が結びついた「極端な超国家主義」的な傾向は、いまだ見られない。当時の浅野にとっての「国粋主義(ナショナリズム)」は、日本古来の伝統や神道を基盤にした日本人としての存在証明であり、国威発揚に根ざしたものであったといえる。

 

☆和製スピリチュアリズムの誕生

浅野は昭和3年のロンドンで開催された第3回国際スピリチュアリスト連盟(ISF)の大会に出席したことによって、彼自身の中に日本国の心霊界の代表であるとの強い気概が湧いてきた。各国の心霊家と交わることにより、「(浅野は)日本国の精神統一を計らなければならないとの、最も深刻な教訓を得た」(宮澤虎雄)ことによって、「ナショナリズム(国粋主義)」を大いに刺激されて日本に戻ってきた。このように大会参加による浅野のナショナリズムの高揚感が、「和製スピリチュアリズム」を誕生させた要因ともいえる。

 

浅野のスピリチュアリズムの理解は、不敬罪事件の謹慎生活中に深まり、その後のISF大会参加によって異なった思想と出会ったことが、彼の思想の根底にある「復古神道・天皇中心主義思想」を大いに刺激して、心霊面においてナショナリズムを強調することに繋がったといえる。これによって西洋のスピリチュアリズムは、浅野の内部にある支配思想である「復古神道・天皇中心主義思想」というフィルターを通過していく過程(翻訳という過程を経て)で変容し、ローカルなスピリチュアリズムである「和製スピリチュアリズム」となっていった。

 

⑤.東京帝国大学時代 

ア)小泉八雲との出会い

☆小泉八雲に対する憧憬と尊敬の念

浅野和三郎は『大正日日新聞』に自らの半生を綴った自伝を執筆した。この「綾部生活五年、第一部“出盧”」のはしがきに「自分が神霊の世界に目覚めかけてから今日に至るまで満五年になんなんとする」とある。浅野はこの五年の間に「人間は霊であり肉体はその容器にすぎない」ということを、数多くの鎮魂帰神を通じて実地に体験してきた。この体験が「実を言うと現在の自分は五年以前の自分とは異なり」という価値観の変化につながったが、それにもかかわらず小泉八雲に対する憧憬と尊敬の念は今でも変わらないという。次の言葉に表れている。「ただ三年の星霜を小泉先生の薫化の下に送り得たのは、無上の幸福であったと感謝せぬ訳には行かぬ。あの脈々たる情想、あの周囲の凡てと絶縁して一管の筆に全生命を託せる犠牲的精神、あの日本人特有の使命天職を高調して模倣崇拝を極力排斥されたる識力卓見、あのギロギロせる独眼、あの口を吐いて出る金言玉辞――自分は二十余年前の当時を回想して見ると、小泉師の講堂だけにはもう一度入って聴講したいような気分がする」(注24)と。

 

☆小泉八雲の講義風景

浅野和三郎と小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)との最初の出会いは、明治29年(1896年)911日、八雲が帝国大学文科大学の英語英文学の講師として初講義をした日であった。この時小泉八雲46歳、浅野和三郎22歳の出会いであった。

八雲は英文学史、英詩解釈、英文学作家および作品の評論、シェイクスピア論、韻律論等を講義した。八雲は講義に必要な書籍を購入するため、エルウッド・ヘンドリック(→最後まで交際や文通を続けた数少ない友人の一人)に手紙を送り、本のリスト表に購入代金を同封して至急書籍購入の手配をするように依頼した。その手紙の中で「とにかく本がない、学生の学力が低い、異なる学年を合併したクラス編成のため教えにくい」と不満を漏らしていた。その後は八雲自身が講義を行うことに習熟するにつれて、「ハーンの講義は日本人学生の感じ方や考え方を考慮したわかりやすいものとなり、学生のハーンに対する敬愛の念も深まっていった」(注29)。

 

当時の八雲の講義風景は「先生は常に平明な表現、同時に流暢な調子で学生が充分書き取りうる程度のテンポで講義の口授を進められる。絶対に必要なき限り異常な難解な語句表現は避けられた。然るにその講義のノートを後に読み返して見ると、盤上に珠を転ばすような名文となっているのに感嘆する。否、先生の講義の書き取りに夢中になっている間にも、先生の名文の名調子は我々の耳朶を打ってその快い楽音に我々を陶酔させるのであった」(注29)と。こうして書き取られたノートは後に活字となり、Interpretation of Literature (2 vols.)1915ほか6部の講義録にまとめられて残った(注30)。

 

八雲は英文学の講義の教科書に、テニスン(テニソン)、ロセッティ等の19世紀詩人の作品を用いた。アルフレッド・テニスン(1809年→1892年)はイギリスの詩人で、SPR(英国心霊研究協会)の初期の会員でもあり、人間の死後存続について深い理解を持っていた。八雲が教科書に用いたもう一人の詩人ロセッティとは誰のことか。詩人のロセッティは二人いる。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828年→1882年)は、画家であり詩人でもあった。もう一人の詩人、クリスティーナ・ロセッティ(1830年→1894年)は、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの妹である。クリスティーナは英国国教会の熱心な信者で、社交を好まず、隠者のような生活を送り、厭世的な詩が多く宗教的な詩を残したという。八雲はテニスンとロセッティは主観詩人であると述べているので、ロセッティとはクリスティーナ・ロセッティであると思われる。

 

小泉八雲は元来が文明嫌いであり西洋嫌いであった。日本の最初の赴任地の松江が「古い日本」を残した町であったために、八雲は日本美の讃美者となった。当時の西洋人は、ヨーロッパの文化以外は認めようとしない「白人至上主義」を採っていた。その西洋人向けに、日本に関する多数の著書を著わして(→西洋人向けに日本を紹介した本の質と量において八雲に及ぶ者はいない)、海外に日本を紹介し続けた。八雲の第一作は松江時代の旅行や見聞を綴った「知られぬ日本の面影」であり、日本讃美の側面が目立った本であったが“熊本時代”を境にして、次第に日本観が深いものに変わっていったという。

 

イ)小泉八雲の役割

学生時代、浅野和三郎は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)から思想的影響を受けた。浅野の長女秋山美智子は「父浅野和三郎のこと」(注31)の中で、「入学の年小泉八雲先生が、英文学担当教師として赴任し、卒業まで教えを受けることになりました。・・・以下のような経緯から心霊研究の道に入りました」。心霊研究に入った理由の一つとして「恩師、小泉八雲先生が、怪談妖怪等日本の古いものに興味を示され、その影響を受けたと思われること」と述べている。このように浅野は八雲から影響を受けたことを指摘している

 

浅野にとって小泉八雲の存在は何であったのか。一般的には人格的に八雲からの薫陶を受けたこと、見えないものや神秘的なものに造詣の深い八雲との出合いによって、浅野の霊的感受性が増したことなどが指摘できる。

さらに浅野の生涯を概観して二人の出会いを考えた場合に、浅野の中に潜在していたスピリチュアリズム的使命感が、八雲との出逢いによって触発されて意識の表面近くまで浮かび上がってきたこと。いわば八雲の役割は、親鳥がくちばしで卵の殻を外から突き孵化を促す行為に例えることもできる。

 

 

◆浅野和三郎研究:目次

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