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心霊科学研究会時代(昭和期)

目 次

 

①.東京心霊科学協会

ア)種子は地に蒔かれた

・第一の収穫

・第二の収穫

・今後の課題

イ)東京心霊科学協会の活動

・東京における代表的実行機関

・東京心霊科学協会の事業目的

・戦後は日本心霊科学協会に合流

ウ)東京心霊相談所

・雑誌の性格を変更する

・心霊相談所の設置

・戦後の東京心霊相談所

 

②.物理的心霊現象

ア)物理的霊媒―霊的環境整備の先遣隊

・心霊現象の科学的研究の必要性

・小田秀人の「菊花会」

・小田秀人と亀井三郎

イ)物理的心霊現象の衰退

・百花繚乱の時代

・物理的心霊現象が衰退した理由

・霊的実在の証明方法の変化

 

③.出版活動

ア)心霊知識の普及活動

・普及活動の方法

・時代による普及手段の変化

・『心霊講座』と『心霊現象の科学』

イ)各種出版物の発行

ウ)立場の違いによるモーゼスの評価

・浅野のモーゼス評価

・小熊のモーゼス評価

・科学的な検証が必要な理由

 

④.精神統一研修会

ア)「精神統一」についての考え方の相違

・浅野の「精神統一実修会」について

・浅野和三郎の見解

・浅野正恭の見解

・脇長生(または長男)の見解

・日本心霊科学協会の精神統一会(1980年代の実態)

・『初心者のための精神統一入門』から見えてくること

イ)精神統一の舞台裏

・精神統一の意義・仕組み

・個人的な記憶の貯蔵庫

・精神統一の目標

・「アンテナの錆び落とし」と「受信装置の周波数」との関係

・精神統一の裏側

・精神統一の病的状態

ウ)日本と西洋の「精神統一」についての説き方の差

・日本人と西洋人の精神統一の違い

・「モーゼスの霊訓」における瞑想のすすめ

・『シルバーバーチの霊訓』における瞑想のすすめ

 

<注1>~<注48

 

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①.東京心霊科学協会

ア)種子は地に蒔かれた

☆第一の収穫

昭和4年以降“普及活動の前衛”を担う組織が出揃ったこと、さらに有望な霊媒が出現したことによって、日本におけるスピリチュアリズムは「攻めの普及活動」の時期に入った。

浅野和三郎は論稿の「種子は地に蒔かれた」(注1)において「昭和4年度の第一の収穫は蓋し各地に斯学の実行機関が設置されたこと」であると述べている。この年(昭和4年:1929年)の5月に名古屋において「中京心霊協会」が、7月に大阪において「大阪心霊科学協会」が、そして12月に東京において「東京心霊科学協会」が相次いで設立された。このように浅野は関東・関西・中部地区において、それぞれ心霊科学研究会の目的や趣旨に沿って活動を行う組織を“入れ子状”的に作ったわけである。

 

この“入れ子状”的な組織形態は、現在の経済界において運営されている「持株会社」と「事業会社」という企業グループの中に、その類似形体を見ることができる。推察するに浅野は当時の財閥本社が「(純粋)持株会社」の形態をとって、その傘下に多数の「事業会社」を有して経済活動を行っていた事例からヒントを得て、「本部と支部」という関係ではなく、このような組織形態を考えついたのかもしれない。しかし“心霊の世界”でこのような組織形態をとるメリットは何だったのであろうか。

昭和4年以降、浅野の霊的知識の普及活動は「事業会社」の一つである東京心霊科学協会を中心として進められたが、その際に同様な「事業会社」である大阪心霊科学協会(理事長は間部詮信:まなべあきのぶ)と協力して行われた(→なお昭和4年に結成された「中京心霊協会」の活動詳細は不明)。

 

☆第二の収穫

さらに浅野は、昭和4年度の第二の収穫として「日本国にも有望な霊媒が少しばかり見出されたことである」と述べている。明治以降の日本は、近代合理主義思想に基づいた近代化政策の中で、迷信撲滅の一環として権力による霊能者などに対する弾圧、さらには西洋医学に基づく医療制度の構築に向けた取り組みの中で、民間医療(→医業類似行為)に対する規制強化が行われてきた。

前者に対しては「千里眼事件」における福来友吉に対する迫害や、長南年恵に対する権力からの弾圧などに、後者の事例としては、浜口熊獄(1878年→1943年)の生体磁気エネルギーを使ったサイキック・ヒーリングに対する弾圧に見ることができる。

 

このような中で浅野は「研究の主力を霊媒能力の養成を掲げて、出来る限り各方面に捜査網を張って」客観的(物理的)心霊現象が起こせる優秀な霊媒を探し求めてきた。しかしたびたび霊媒の詐術にあって裏切られ(注2)、苦労の多い割には十分な成果は得られなかった。このような体験を経て昭和4年に亀井三郎との出会いがあり、浅野は亀井の心霊能力の強さに大きな期待を寄せた。この期待感が前記の「第二の収穫」という表現に現れている。

この時の浅野と亀井との出会いは、日本における「スピリチュアリズムの発展期」の幕開けをもたらした。なぜなら当時はいずれの国においても「客観的(物理的)心霊現象の霊媒が、心霊運動の口火を切る役になっていた」からであった。

 

☆今後の課題

しかし浅野は今後の課題として次の点をあげて自問自答している。

①.日本国に霊媒を養成し保護する機関が出来ているか? 答えは、ない。

②.日本国に心霊に関する研究書・参考書が揃っているか? 答えは、ない。

③.日本国に心霊実験の適当な設備があるか? 答えは、ない。

④.日本国に心霊科学の組織的教育を施す機関ができているか? 答えは、ない。

⑤.日本国に社会民衆の理解を進め、常識を高めるべき心霊会館の設備があるか? 答えは、ない。

⑥.日本国に心霊図書館があるか? 答えは、ない。

⑦.日本国に世界の各心霊団体との連絡を講ずべき準備があるか? 答えは、ない。

 

このように現状は悲観的であるが、浅野は今後の努力次第で容易に解決すべきものであると述べている。そして最後に「種はすでに地に蒔かれた。これからは之を培養し大成すべきかの問題である。私はこの点に関してすこぶる楽観するものである」と結んでいる。

この「自問自答」からも分かるように、心霊現象を目の当たりにしなければ何事も信じようとはしなかった人たちが多かった時代、いわゆる「客観的(物理的)心霊現象を必要とした時代」に生きた浅野は、当然のごとく組織を核とした心霊知識の普及啓蒙活動を考えていた。なぜなら普及活動を行う場合に、個人で行うよりもグループや団体で行えば、より大きな仕事ができるし、物理的実験会を行う場合にも、個々人で行うよりも組織形態を採った方が円滑に行えるから。この点が組織に頼らないで普及活動ができる「霊的教訓の時代」とは対照的である(→組織の在り方や役割が浅野の時代と「霊的教訓の時代」とでは異なってきている)。

 

イ)東京心霊科学協会の活動

☆東京における代表的実行機関

東京心霊科学協会は昭和4年秋頃から有志によって会合が行われて、協会の趣意書や会則が作成された。東京心霊科学協会は12月に創設されたが、実質的な活動は翌年に持ち越された。昭和5115日に東京心霊科学協会の新年総会が開催されて、その2日後の17日に「事務所開き」が行われた(注3)。

 

東京心霊科学協会の創立趣意書によれば、東京心霊科学協会は心霊科学研究会の東京における代表的実行機関であると記されている。そして「本会は会員組織のもとに心霊現象に関する諸般の学術的研究を行う」として「心霊研究(サイキカル・リサーチ)」を目的に掲げている。さらに「本会は一切の宗教、主義、学説等に超越し、純然たる自由討究の立場に於いて人生の帰趨を明らかにする目的とする」として「心霊主義(スピリチュアリズム)」をも目的に掲げている。このように会の目的として「心霊研究(サイキカル・リサーチ)」と「心霊主義(スピリチュアリズム)」の双方を掲げていることから、東京心霊科学協会は英米の心霊研究協会(SPR)とは一線を画す組織であることが分かる。この立場は戦後の財団法人日本心霊科学協会に引き継がれている(注4)。

 

☆東京心霊科学協会の事業目的

雑誌『心霊と人生』の“だより”欄(注5)から、当時の東京心霊科学協会の活動の概要が窺える。東京心霊科学協会では、心霊問題に関する研究会・講演会・座談会・実験会(霊媒:亀井三郎等)等を行なうとして、事業目的に次の各項目を掲げている。

①毎月一回心霊問題に関する講演会を開催する事、その他必要に応じて臨時会合を開催する事あるべし。

②心霊現象の学術的実験を行う事。

③霊媒を用いて病気診療、人事物件の調査をなす事(→この項目は後に創設される東京心霊相談所の設立根拠ともなった)。

④死者の霊魂との交通その他交霊実験を行う事。

⑤内外の心霊研究団体と連絡を保ち研究資料を交換する事。

⑥その他本会の目的を達成するため必要な諸種の事業をなす事。

 

☆戦後は日本心霊科学協会に合流

その後東京心霊科学協会は、昭和19年(1944年)に戦争の激化に伴って休会となった。

戦争が終結した翌年の昭和21年(1946年)4月の総会で、東京心霊科学協会は解散した。そして東京心霊科学協会をはじめとして、大阪心霊科学協会や各種心霊グループ、心霊研究家たちは大同団結して、同年121日に「日本心霊科学協会」を設立して、これに合流した。なお東京心霊科学協会の母体である心霊科学研究会については、日本心霊科学協会に合流して解散したか否かは、当時の関係者の間で意見が分かれている(→浅野正恭は日本心霊科学協会に合流したが解散はしていないと述べている)。

 

このような形で多くの組織や個人が大同団結して、新しい組織を作った経緯からも分るように、さまざまな心霊観を持った人たちが集まってきたいわば“寄り合い所帯”のため、当時の執行部は組織をまとめていく困難さに度々出会った。その象徴的な出来事が昭和24年に組織の分裂という形で起きた。この年に活動方針の違いから浅野正恭・脇長生・浅野多慶(または多慶子)たちは、日本心霊科学協会から分裂して東京心霊科学協会を復興させた。復興した東京心霊科学協会は、その後昭和34年(1959年)に「日本スピリチュアリスト協会」と改称した(→現在は休会中のようである)。

 

ウ)東京心霊相談所

☆雑誌の性格を変更する

浅野の念願は“心霊”を「なるだけ実生活との接触を深くして心霊問題の民衆化をつとめる」(注6)ことにあった。そのため機関誌と心霊相談所という二つの面で「心霊問題の民衆化」に着手した。

まず手をつけたのが機関誌の役割変更であった。心霊科学研究会の機関誌『心霊研究』は創刊号から3号まで発行されたが、関東大震災によって事務所が罹災して資料等が焼失したことから廃刊となった。この廃刊誌『心霊研究』の性格は「純学術的報告機関」という位置付けであったが、後継誌である『心霊界』では「宗教、政治其の他百般の人生問題、思想問題」を扱うとして、雑誌の性格を大きく変更させた。

このように従来の『心霊研究』とは一線を画して、雑誌の役割を「大衆誌」的に変更して誌名も『心霊界』に変えて創刊させたわけである。この雑誌『心霊界』はその後『心霊と人生』に改題されたが、雑誌の性格はそのまま維持されて、昭和53年(1978年)12月号まで発行された(注7)。

 

☆心霊相談所の設置

もう一つの「心霊問題の民衆化」は心霊相談所の設置となって現れている。この心霊相談所は昭和7年(1932年)5月に東京心霊科学協会の「実行機関」として東京心霊相談所が、さらに大阪心霊科学協会の「実行機関」として大阪心霊相談所がそれぞれ開設された。この心霊相談所の事業内容は昭和710月号の雑誌『心霊と人生』の広告面によると「人事百般の第六感的解決」とあり、その事業は「交霊実験、病気診療、運命・縁談並びに各種事業の鑑定・心霊観相・因縁解除・漁場鉱脈その他の調査・無痛分娩並びに安産等」となっている。

 

当時の雑誌『心霊と人生』には「実行機関」という言葉が頻繁に出てくるが、誌面から見た限りでは、「心霊科学研究会」「東京心霊科学協会」「東京心霊相談所」の組織の概念や各組織相互間の関係の不明確性、なぜ組織を“入れ子状”的にする理由があったのかなど、よく分からない点が多い。

浅野正恭の次の言葉からも、その後しだいに組織間の役割が不明確となって行ったことが窺える。「私が(東京心霊科学協会の)理事長となって様子を見ると、協会と相談所との関係が、どうもはっきりせぬところにあることを感ずるに至りました。弟(→和三郎のこと)と岡田氏(→岡田熊次郎のこと)とが如何なる相談の下に現在の如くになっているかは知らぬが、このままではどうも面白くないから、協会と相談所とを分離せねばならぬと考え、多少の経緯を経たる後、(昭和)1310月をもって、協会事務所を平河町に移し、10余年来の岡田氏と手を切ることになったのですが、私としては少なからず遺憾に思うものであります。しかしこれはどうともすることのできなかったもので、またかくのごとくすることが理事長としての責任でもあると感じたことでもありました」(注8)と。

 

浅野正恭は具体的に何を以て遺憾としたのかは誌面からでは分からないが、推察するに昭和12年当時の「東京心霊相談所」は、巷に数多く存在する「心霊を生業とする業者」との境界が不鮮明になってしまい、協会との間で矛盾が顕在化していったのではないかと思われる。浅野和三郎の構想では、心霊科学研究会の「実行機関(→子会社)」が東京心霊科学協会であり、さらに東京心霊科学協会の「実行機関(→心霊科学研究会から見れば孫会社)」として東京心霊相談所を開設したものである。組織を“入れ子状”にした理由は、より一層「心霊問題の民衆化につとめ」ようとしたからであった。

 

一般に「心霊知識の普及啓蒙活動」を行う場合には目標を高く掲げて置かないと(注9)、初期の目的から逸れてしまう傾向が見られる。浅野和三郎が行おうとした「心霊の民衆化」は、いわば一種の“大衆迎合型”政策であり、相談者の限りなく物質性を帯びた要求に引きずられてしまう危険性を常に内包している。

このような「心霊の民衆化」的発想が生まれた背景を推察するに、当時「国体」思想が猛威を振るっていた社会では「スピリチュアリズムの本質」を前面に掲げることが難しかったため、日常生活の中に「心霊的な生き方」を取り込む形で、社会との融合を図ったとも考えられる。なぜなら翻訳者の近藤千雄の指摘にもあるように、浅野の著書『心霊講座』ではスピリチュアリズムの「肝心なところはきちっと押えている」(注9)からである。

 

☆戦後の東京心霊相談所

戦後の東京心霊相談所の活動は、公益財団法人日本心霊科学協会の機関誌『心霊研究』のバックナンバーの広告欄(昭和241月号から7月号に毎号掲載されている)から窺い知れる。戦後の東京心霊相談所の所長は北村研 (→当時の日本心霊科学協会の理事) であり、相談所設置の趣旨は 「自然科学と基礎部門と、応用部門の両者が存在するように、心霊科学にも基礎的研究の方面と、これが実際生活への応用方面とが、併存しなければなりません。東京心霊相談所は、専ら心霊研究における実際的応用の部門を担当し、心霊方面より皆様の生活の浄化、向上、発展、繁栄、福祉を図ることを使命と致しております」 とある。

相談所の取り扱い項目としては、「物理的霊実験、招霊、守護霊調査、因縁霊の処置、心霊治療、運命調査(事業の成否、適職指導、縁談調査等)、その他処世百般の心霊相談」となっており、担当霊媒として萩原真の名前が広告に記載されている。内容的には昭和7年に浅野和三郎が開設した相談所を踏襲している。

 

北村研の息子の北村熊雄によれば、「昭和23年の暮に東京八重洲口に所有していた敷地の上に延べ60坪の木造二階建ての建物を建てた。その一部の12坪を利用して東京心霊相談所を開設した」。そして「東京心霊相談所は昭和241月頃から26年まで約3年間続いた。当時の記録によると、熱心に協力してくれた霊能者は萩原真、竹内満朋の両氏だった」(注10)とのことである。

 

この東京心霊相談所は日本心霊科学協会が法人格(→財団法人の取得)を取得する際に問題となった。昭和2311月末に日本心霊科学協会の事務所が、 東京都目黒区 富士見台 1561番地から 中央区京橋 槙町2丁目5番地5 に移転した。東京駅の八重洲口から徒歩数分の好立地の場所にある移転先は、北村研 の事務所の一画であった。 弁護士の吉田正一は昭和24年6月1日に財団法人の設立申請書を主務官庁に提出したが、思いのほか手続きは難航した。吉田は難航した理由の一つとして「許可がなかなか下りないので調べてみると、その時協会の事務所の隣の室に東京心霊相談所があったので、それが協会と一つのものであると誤解されて、純粋な研究団体ではなくて、迷信的要素がまじっていると疑われていることが分かった」と述べている(注11)。

なお現在、日本心霊科学協会で行われている「霊能者の相談業務」が、“東京心霊相談所的な役割”を担っているのではないだろうか。

 

②.物理的心霊現象

ア)物理的霊媒―霊的環境整備の先遣隊

☆心霊現象の科学的研究の必要性

不敬罪事件が大正天皇崩御による「大赦令」適用によって免訴(昭和2517日)となって、浅野は長年の精神的重圧から開放された。翌年(昭和3年:1928年)国際スピリチュアリスト連盟(ISF)の第3回大会がロンドンで開催され、これに出席した浅野はイギリス、フランス、アメリカ等での心霊現象の交霊会に立ち会う機会に恵まれた。この体験から浅野は、日本においても「心霊現象の科学的研究」や「霊媒能力の実地応用」の必要性を痛感した。

 

☆小田秀人の「菊花会」

亀井三郎は浅野和三郎とコンビを組んで各地で実験会を行なったが、昭和5年末ごろに浅野と別れた。一説によると心霊科学研究会と亀井との間でトラブルがあったとされる(→小田秀人によれば、浅野との間で感情の行き違いがあったという)。

詩人の小田秀人(おだひでと:1896年→1989年)が始めて物理的心霊現象の実物を見たのは、昭和4年秋の霊媒亀井三郎の実験会であつた。小田は「私は、最初浅野和三郎氏の主宰する東京心霊科学協会の一室で、霊媒亀井三郎氏の交霊会に列席して、はじめて物理的心霊現象を実見しました」と述べている。このことによって小田は物理的心霊現象を100%納得したと著書(注12)の中で述べている。その小田に亀井は「君、ほんとうに研究する気があるなら、手伝ってもいいよ」(注14)と言って接近して来て、間もなく亀井は浅野と別れて小田と組んだ。

 

小田は著書の中で「浅野先輩に相談もしないままに、(昭和5年)113日の菊の佳節に」(注14)に、心霊研究グループの「菊花会」を作ったと述べている。この会には作家の芹沢光治良や元東洋大学学長の大嶋豊などがメンバーとして名を連ねていた。

工学博士で東大教授や工業技術院長などを歴任した後藤以紀(ごとうもちのり:1905年→1992年)は「直接心霊現象の物理実験を見せていただくようになったのは、確か昭和6年ごろだったと思います。小田先生の菊花会の雑誌(→『心霊知識』のこと)を拝見して、是非実験などに参加させていただきたいと思って伺った」(注13)と述べている。

このように当時の菊花会の物理的心霊現象の実験会は、多くの著名人に影響を与えている。その後亀井は「心霊写真展覧会事件」を切っ掛けにして満州に移り住むことになるが、それまで職業霊媒として活躍した。

 

☆小田秀人と亀井三郎

小田秀人の「物理現象霊媒―亀井三郎氏の思い出」(注14)の中に興味深い記事が載っている。関西の安藤弘平(大阪大学教授:工博)から小田に電話があり「亀井さんが危ない。奥さんも戸惑っている。亀井さんの本名は何といい、本籍地はどこなのか、(亀井の奥さんから)聞き合わせがあったが、知っていれば知らせて欲しい」との連絡を受けた。十何年連れ添った亀井の奥さんも本名と本籍地(→死亡届けを出すために必要)を知らなかったという。小田も知らないので友人の岡重英から聞いて、始めて亀井三郎の本名(松森俊雄または敏雄)と本籍地が分かったという。その数日後の昭和43年(1968年)1130日に亀井は「脳充血」により逝去した(注14)。

小田は「経済的に急迫していた」亀井の奥さんに見舞金を送ったという。匿名の人生を生きてきた亀井の晩年は恵まれた生活ではなかったようである。

 

小田秀人は亀井の生前の人となりを多くの著書の中で詳細に語っているが、特に昭和13年の飯田橋大神宮で行われた補永茂助(ほながしげすけ:1881年→1932年、文学博士)の交霊会では、亀井の性格が良く表れていて興味深い。

この交霊会で「困ったことに肝心の亀井霊媒が待てど暮らせど顔を見せない、念のため(小田は)内山女史に様子を聞くと、ここ数回の謝礼金を渡していないとのこと」。小田は参加者を待たせたまま至急金策に走り回り、200円(→昭和42年当時の貨幣価値で換算すると10万円位)を工面して、このお金を持って亀井の自宅に直行して連れてきた。しかしその日の交霊会は不首尾であったという(注14)。

 

さらに小田は「かつての名霊媒亀井三郎こと松森敏雄(→原文表記のまま。俊雄?)君は、一面ダンスの上手なパリパリの近代的プレイボーイだった。霊媒業でガメツク手に入れた金は湯水のように気前よくはたいたものだ」(注15)と述べている。亀井は一時期「高野二郎」と名乗り新宿のムーラン・ルージュの歌手と浮名を流したという。

さらに「(昭和27年ごろ)新日本窒素でまた亀井交霊会を始めることになった。なにしろスポンサーが大きいので亀井君も大乗り気であった。しかし余り調子に乗りすぎて一回ごとに謝礼金を値上げするので、私もいささかウンザリした」(注15)と。

浅野和三郎と小田秀人との間には、晩年まで親しい交流があった。浅野は昭和1223日に死去したが、その2日後、小田が主催した交霊会に出現して挨拶をしたと著書の中で記している(注16)。

 

イ)物理的心霊現象の衰退

☆百花繚乱の時代

霊的実在を物的手段で証明しなければならなかった時代には、華々しい物理的心霊現象が発生したが、このような時代も1950年代中頃には下火になった。

北村熊雄(元日本心霊科学協会監事)の父親は、当時の日本心霊科学協会理事の北村研であるが、熊雄は父親(北村研)の傍で物理的心霊実験を数多く見てきた。その感想を晩年、次のように述べている。

「戦後の混乱もやっと落ち着きを取り戻した昭和22年後半頃には、物理的心霊実験で著名な霊能者との連絡が取れた。昭和228月~9月にかけて、大阪の津田江山氏、東京の萩原真氏、竹内満朋氏による戦後最初の心霊実験が行われてより、十数回の実験が繰り返された。神戸の亀井三郎氏の実験は、やや遅れて昭和27年頃であった。当時どうしてこんなに心霊実験が同時に集まって起きたのだろうか、今も疑問に思っている」(注17)。

昭和265月の津田江山の実験会では、板谷松樹(東京工業大学教授)の指導の下で、赤外線乾版を使用して物品浮揚の赤外線写真撮影が行われた。当時は物理的心霊現象の“百花繚乱の時代”であった。

 

☆物理的心霊現象が衰退した理由

日本において物理的心霊現象の発生が衰退していった一般的な理由として次のようなことが考えられる。一般に心霊現象を発現させる交霊会の設定条件が難しいこと、物理現象は高級霊の監督の下で物質臭を帯びた低級霊を介在させなければならないことなど、このような霊媒と交霊会にまつわる顕幽双方の事情があげられる(注18)。

 

さらに意識面における大局的な変化も指摘できる。昭和時代初期(昭和20年代頃まで)の客観的心霊現象が華やかなりし頃の平均的な国民の意識と、昭和時代末期(昭和60年代)の人たちの意識を大局的に比較してみれば、その違いが良く分かる。両時代を比較してみれば次のようなことが言える。

まず物質面における生活水準の向上に伴う意識の変化、テレビの普及による「情報の不均衡」の格差解消に伴う「国民の意識のさらなる均一化」などがあげられる。さらに唯物的傾向の強い人たちの時代から、精神的なものや霊的なものを受け入れやすい人たちの時代へと変化してきていることも特徴としてあげられる。近年では「地球環境保護や温暖化防止」といった、よりグローバルなテーマが日常的に交わされるようになり、意識面において現代社会は、浅野和三郎が活躍した時代と比べて大きく変化してきていることが窺える。

 

しかし現代社会でも、物理的心霊現象を必要としない段階に全ての人類の霊性が向上したわけではない。「いつの時代にも、自分の目で確かめ、手で触れないと気が済まない人、つまり物的次元での証拠を必要とする人」が存在する以上、その人たちにとって物理的心霊現象は有効な手段となっている(注19)。

 

☆霊的実在の証明方法の変化

次第に人々の意識が変化してきたことから大局的な流れとしては、霊的実在の証明を重視した即物的な「客観的心霊現象の交霊会」を必要とした時代から、「心霊治療」や「霊的教訓(霊訓)の普及」という形で、スピリチュアリズムが「生き方の問題」や「霊的教訓の受け入れ」といった方向に変化しつつあることが分かる。このように霊的実在の証明方法は、その時代に生きる人たちの意識の変化に応じて変わっていくものである。

 

③.出版活動

ア)心霊知識の普及活動

☆普及活動の方法

浅野和三郎は日本の「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」の「草創期」から「発展期」にかけて、物理霊媒を“心霊知識の普及活動の手段”として積極的に活用した。さらに心霊に関する“草の根的な啓蒙活動”の一環として、雑誌や冊子を中心とした出版活動の展開、各地において精神統一実修会の開催など、スピリチュアリズムの普及に多大な貢献を行った(→なお福来友吉の場合は物理霊媒を使って“心霊研究の側面”から多大な貢献をなした)。

 

浅野の行なった心霊知識の普及活動には二つの側面がある。一つはデモンストレーション効果を狙って、講演会や実験会を各地で開催して心霊知識の普及啓蒙活動を行ったこと。この講演会・実験会に参加して霊的世界に関心を持った人は多い(→現在でも講演会は行われているが、実験会に関してはほとんど開催されていない)。

次に雑誌や冊子などの発行や精神統一会の開催など、心霊知識の普及活動を組織的・継続的に行ったことがあげられる。出版活動(→媒体は時代によって紙からインターネットへと変化するが)は今も昔も「基本的な心霊知識の普及」のための有効な手段となっている。このような出版を中心に据えた普及形態は、出口王仁三郎(注20)の「文書宣教」の影響を受けたものと思われる。

さらに精神統一研修会において「霊的能力者の発見・養成」につとめた。一般参加者に対しては「神霊主義(=スピリチュアリズム)に基づいた指導」の場として活用した。このように普及活動の常道を選択したが、このことは同時代の浅野以外のスピリチュアリストには見られない特徴となっている。

 

☆時代による普及手段の変化

浅野が活躍した大正から昭和初期における表現媒体と、現在の表現媒体とを比較してみれば、情報通信機器の発達によって普及手段が大きく変化してきていることが分かる。

誰でもアクセス可能なインターネットの発達は、心霊知識の普及方法も大きく変えた。従来の紙という物理的制約の大きい出版物から、ホームページやブログを通じての普及に流れが変わり、多くの人が目にする機会が格段に増えてきた。さらにこの表現媒体の変化は意識の変化ももたらして、誰でも自由に自分の意見を述べることが可能な時代となり、組織に頼らず(→ともすれば「独善性、排他性」に流れ易い組織に所属せず)に霊的真理の探求が可能となった。このように普及手段は時代に見合った形をとることになる。

 

☆『心霊講座』と『心霊現象の科学』

浅野が昭和36月に刊行した『心霊講座』は、「心霊問題の基礎的知識の普及」のために、できるだけ「簡単明瞭に要領が得られる参考書」を著したいとして、2年間かけて「東西両洋に跨りて、続出せる無数の心霊事実の中から一番正確味に富み又一番有意義と思考せられるものを選り出して適宜に分類」(注21)して書き上げたという。

霊魂説の立場に沿って心霊現象を系統立てて簡潔にまとめた『心霊講座』は、この後スピリチュアリストのテキストとなり、また心霊現象の理論構成に大きな影響力を及ぼした。

浅野は昭和3年(1928年)にロンドンで開催された第3回国際スピリチュアリスト連盟(ISF)の大会に参加した際に、ロンドンのサウス・ケンジントンの「ライト」社を表敬訪問した。事務所でダビット・ガウに日本のスピリチュアリズムの現状を話した際に、新刊の『心霊講座』を贈呈(注22)した。

 

心霊を研究的視点で扱った先行図書として小熊虎之助著『心霊現象の科学』(大正13年刊:本稿では全て復刻版を参照している)がある。この著書の立場は心霊現象の事実を客観的に精査して、「心霊現象を公正で科学的な態度で学術的に研究」する心霊研究の観点に立って書かれている。心霊現象を徹底的に疑って、極めて厳密な態度を要求している点に特徴がある。

この『心霊現象の科学』を日本超心理学会会長の大谷宗司は、「本書は、超心理学初期の研究についての我国最初の本格的紹介批判の書である」(注23)と述べている。このように“心霊研究(超心理学)の立場”から著しているので、霊魂説に立った浅野の著書とは観点が異なっている。浅野と小熊とは立場・役割が異なっているので、その違いがそれらの書籍に現れていると云える。

 

イ)各種出版物の発行

日本では明治末期から大正にかけて、イギリス系の「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」の文献が翻訳を通して盛んに紹介された。著述能力に長けていた浅野は英語を日本語に変換する翻訳技術を持っていたので、西洋のスピリチュアリズム関連の翻訳紹介者としては適任であったといえる。その浅野が活躍した主な時期は昭和初期であり、発表の舞台は雑誌『心霊と人生』であった。

浅野和三郎は執筆に講演にと多忙な日常の中で、次のような書を著した(→翻訳は抄訳の形が多い)。なお単行本の多くは、和三郎が雑誌『心霊と人生』に掲載したものを、彼の死後に兄の浅野正恭によってまとめられて刊行されたものであった。

 

主な翻訳については次の通りである。なお書籍・冊子として刊行された年および雑誌『心霊と人生』に掲載された年を判明した範囲で記載した。いずれも心霊科学研究会出版部から発行された。

「死後の世界」(大正14年刊行)、「幽界行脚」(昭和5年刊行)、J・S・M・ワード著

「ステッドの通信」(昭和6年刊行、昭和5年雑誌掲載)、スコット著

「霊訓」(昭和12年刊行、昭和10年雑誌掲載?)、モーゼス著 

「永遠の大道」(昭和10年刊行、昭和8年雑誌掲載)、ジェラルディン・カミンズ著

「新時代と新信仰」(昭和12年刊行、昭和9年雑誌掲載)、フィンドレィ著

「霊能養成法」(昭和14年刊行、昭和5年雑誌掲載)、レナード著

「個人的存在の彼方」(昭和13年刊行、昭和11年雑誌掲載)ジェラルディン・カミンズ著

「死者と交わる30年」(昭和16年刊行、雑誌掲載年不明)、ウィックランド著

 

主な心霊関係図書は次の通り。いずれも心霊科学研究会出版部から発行された。

『岩間山人と三尺坊(大正14年刊行)』『心霊講座(昭和3年刊行)』『幽霊問答・続幽霊問答(昭和5年刊行)』『心霊研究とその帰趨(改題後:神霊主義、昭和5年刊行)』『新樹の通信(昭和9年刊行)』『精神統一と第六感(昭和10年刊行:「天才養成・自己発揮の秘訣」と同一内容)』『小桜姫物語(昭和12年刊行)』『心霊読本(昭和12年刊行)』『心霊学より日本神道を観る(昭和13年刊行)』『欧米心霊行脚録(改題後:世界的名霊媒を訪ねて、昭和13年刊行)』『心霊小品集(昭和14年刊行)』『日本国民の精神的指導原理(昭和14年刊行)』などがある。

 

心霊文庫として以下のものが発行された。いずれも心霊科学研究会出版部から発行された。

第1編「心霊研究の栞」(昭和56月)

第2編「幽魂問答」(昭和56月)

第3篇「続幽魂問答」(昭和58月)

第4篇「人は死せず(上)」(昭和119月)

第5編「人は死せず(下)」

第6編「ステッドの通信」(昭和1311月)

第7編「新樹の通信(その1)」(昭和99月)

第8編「新樹の通信(その2)」(昭和125月)

第9編「新樹の通信(その3)」(昭和1212月)

第10編「個人的存在の彼方(上)」(昭和1312月)

第11編「霊能養成法」(昭和148月)

第12編「霊界通信の種々相」(昭和153月)

第13編「二つの怪奇な心霊現象」(昭和154月)

第14編「果してウイルソンか?」(昭和157月)

第15編「心霊問答」(昭和159月)

第16編「再生問題の検討」(昭和159月)

第17編「死者に交わる30年」(昭和16年)

第18編「諸名家の心霊観(上)」(昭和16年)

第19編「諸名家の心霊観(下)」(昭和1610月)

第20編「心霊問題の表と裏」(昭和1610月)

*なお発行年月は『近代文学研究叢書、41巻』の「浅野馮虚」の「著作年表」を参照した。

 

以下については、どのような形で刊行されたのかは不明。いずれも心霊科学研究会出版部から発行された。

『国家の守護神(昭和99月)』『日本民族の使命と信仰(昭和910月)』『照魔鏡(昭和1010月)』『心霊から観たる世界の動き(昭和1012月)』

なお『国家の守護』と『日本民族の使命と信仰』は『心霊学より日本神道を観る』に収録されている。

 

ウ)立場の違いによるモーゼスの評価

☆浅野のモーゼス評価

ステイントン・モーゼスの自動書記現象は有名であるが、彼自身はテーブル浮揚現象、物品引寄現象、ラップ現象、光球出現現象、直接談話現象などを行った物理霊媒でもあった。

浅野は『心霊講座』の中でモーゼスの自動書記現象について「近代自動書記の産物中横綱格の“スピリット・テイチングス”――自己の潜在意識の混入防止に死力を尽くしたモーゼス」とか、「至る所に純真高潔なる宗教的感情が流露していることといい、また措辞用語がいかにも整っていて、全体にどっしりした貫禄が備わっていること、たしかに他の追随を許さぬところがあります」として紹介している。さらにモーゼスは持って生まれた懐疑的、研究的性分のために「容易に心霊現象の真実性を容認するに至らず、煩悶苦慮を重ねた」とも述べている。

 

浅野はスピリチュアリストの世界における“モーゼス評価”を踏まえた上で、「(モーゼスは)学者であり、文士であり、また立派な牧師でもあり・・・他の霊媒に対するように彼に対して矢鱈に詐術呼ばわりしたり、迷信扱いしたりする訳にもまいりません」(注24)と記している。このように浅野のモーゼス評価は高く、モーゼスを霊魂説に立って心霊知識の普及の観点から取上げて解説している。

 

☆小熊のモーゼス評価

小熊虎之助は『心霊現象の科学』(大正13年刊行)の「第三章、真実の心霊現象」の中で、モーゼスの交霊現象を扱っている。小熊はウィリアム・バレット(1845年→1926年:SPR創立者の一人)やフランク・ポドモア(1856年→1910年:SPR創立時のメンバー)の説を引用しながら研究者の立場からモーゼスの能力を検証した。

小熊はモーゼスの自動書記現象はモーゼス自身の顕在意識や潜在意識の表れであるとして次のように述べた。「バレット教授のように単に表口だけからではなく、ポドモアのように裏口からも観察してみると、この有名な霊媒モーゼスの自動書記を介して現れてくる他界からの通信は、結局モーゼス自身の顕在的なまたは潜在的な知識が現れてきたまでに過ぎないものとみられる。したがってその意味で、真実の場合もあれば、また詭妄の場合も多いのである。このように真実の自動書記や、自動言語による交霊現象には詐術がない代わりに、詭妄の要素が多く含まれてくる欠点がある。というのは、その自動者自身の空想がその自動現象の内容となって客観化して発表されてくるためである。」(注25)と科学者らしく徹底的に事実を検証する立場で結論付けた。そして自動書記で記した文面を「自動者自身の空想」という表現で、モーゼスの潜在意識の表明であるとした。

 

心霊現象を科学者の立場(→SPRの観点と同じで心霊研究の立場)から厳密な説明・証明を求める小熊の立場からすれば、たとえ現象が事実に適合していたとしても、詐術・まぐれ当たりや無意識の記憶、覚醒時に知りえた記憶などがあるため、あらゆる可能性の有無をチェックして、すべてクリアーした場合に限り真実な現象であったということになり、モーゼスの場合もこの考え方を適用した。このように小熊のモーゼスに対する評価は、通信の内容そのものに価値を置く浅野の評価とはおのずと異なっている。

 

☆科学的な検証が必要な理由

小熊はなぜ徹底した科学的な検証が必要であると主張したのか。一般的な分かりやすい例をあげて説明する。

たとえば「武田信玄」と書いた用紙を密封した容器に入れて、透視実験を 山梨県の甲府市で行なった場合に、 透視能力者が用紙に書かれた 「武田信玄」の文字を言い当てたとする。その際に透視能力者が本当に透視したのか、あるいは 「甲府市 = 武田信玄」と連想して当てずっぽうに言って正解となったかの区別がつかない。結果的に正解であったのだから実験は成功であるとの主張も可能であるが、これでは学術的には全く意味がない実験であったと言えよう。このように科学的研究手法に則って行なわなければ、後世に残せる真に価値のある学術的な実験とはならないということである。

 

小熊はのちに、心霊現象を学問領域に取り込んで研究する超心理学の日本における初代会長に就くが、その研究態度は詐術・錯誤を注意深く排除して事実の確認の上に立つ立場であった。すべての不思議現象を心霊現象であるとする「軽信家」や、霊魂説に立つ人たちからは煙たがられた存在であったが、心霊研究を公認された学術の世界で認知させるためには欠かせない存在であったといえる。

 

④.精神統一研修会

ア)「精神統一」についての考え方の相違

☆浅野の「精神統一実修会」について

雑誌『心霊と人生』の昭和10年(1935年)12月号に、東京心霊科学協会内に精神統一会を設けた旨の広告が載っている。広告によれば「精神統一実修会」は「東京心霊科学協会の付属事業とし、同会員に限り精神統一実修の希望に応ず」として、浅野和三郎を指導員として毎週月・水・金の午後1時から開始するとなっている。

浅野の後継者の脇長生(または長男)は、浅野の晩年は「日本神霊主義の唱道とその実践に全エネルギーを注がれた」(注26)と述べている。浅野は「精神統一実修会」の開催を日本神霊主義の実践の一環として位置付けたのであろう。

それでは浅野や彼の後継者は精神統一に関してどのような考え方を持っていたか、以下においてそれぞれの主張に沿って跡づけをしてみた。

 

☆浅野和三郎の見解

浅野は精神統一法について「在来の諸修法、例えば座禅、鎮魂、祈祷、催眠術等」から超越して、「過去の因習が付着している在来の諸修法」(注27)と一線を画した心霊科学の成果の上に立った精神統一の実修でなければならないと述べる。従来心霊知識がなかったために、信仰者が神前で祈祷中に気が変になったり、座禅病になったりする状況が理解できず、「信心深い者がなぜ」このような事態に至るのかとの思いが人々の中にあったという。

霊的知識があればこれらの現象は、信仰者の日頃の精神状態に見合ったレベルの霊が、祈祷や座禅といった精神統一中の行為に同調して憑依したものであることがわかる。このようなことから浅野は、「心霊科学の上に立った精神統一の実修の必要性」を痛感した。

 

浅野は「自己完成・天才養成と精神統一」(注28)の中で、精神統一によって「できるだけ肉体意識と絶縁して、そして、できるだけ下積みになっている高級のエーテル意識を開発」しなければならないと述べている。浅野は精神統一によって肉体意識とのズレが生じてくると、日頃その人に同調(共鳴感応)していた「各種の憑依霊(→浅野は地縛の亡霊・動物霊・下級自然霊などが浮き上がってくると述べる)が表面的活動に移って」浮き上がってくるので、これらの浮き上がってきた不良霊を本人の体から引き剥がして霊媒(→没我式の巫女型霊媒)に移して、諭して適切な処理をして本人の「心身の浄化」をはかること、これが精神統一の準備段階であると述べている(→ここから浅野は精神統一に霊媒の必要性を認めている)。

 

本来「心身の浄化」とは、本人の生活改善を通して霊的向上を目指す自力的なものでなければならないのだが、浅野はここに霊能者を介在させて他力的に本人の浄化をはかろうとした。この点に大本時代の鎮魂帰神の影響の跡が見られる(→本人の固有の霊的波長を上げることによって同調してくる霊を選別するのではなく、一種の“除霊によって浄化を図る”点に特徴がある)。

さらに浅野は「心身の浄化」をはかった修行者は、目標(後述)を持った精神統一を行う必要があり、その際の指導は「すぐれた霊媒その他を集めている一つの心霊センター、一つの心霊科学的組織団体の受持ちに帰する」としている。ここから精神統一と霊媒とのセットを考えており、それを提供できるのは心霊科学研究会の実行機関たる「組織」であるとしている。これは東京心霊科学協会という組織で行っている霊能者による精神統一会を踏まえての見解であるが、後継者の脇長生は、浅野のこの点を批判して独自な考え方を述べている。

 

☆浅野正恭の見解

浅野正恭は「精神統一の工夫」(注29)の中で、守護霊の波長に同調するために統一者の「心の波長」を上げる工夫として、「自立的工夫」と「他力的工夫」とに分けて精神統一を述べている。

「自力的工夫」とは「精神修養」のことであり、具体例として「吾れ日に三たび吾身を省みる」(注30)方法を述べている。これにより「精神的水準線が知らず知らずに向上していく」ことになり、波長(同調)の原理から低級霊の影響圏から脱して、高級霊と感応道交がはかれることになる。このように「内省は一種の自力統一法」であるとする、いわば「自己修養的な生活スタイル」の確立を精神統一の前提として述べている。

これは本人の固有の霊的波長を上げることによって同調してくる霊の選別を図るという、心霊研究の成果をもとにした見解であり、和三郎の霊能者を介在した精神統一の見解を一歩進めて明確にした点に特徴がある。

 

さらに「他力的統一法」としては、審神者(さにわ)によって統一状態に導き、修業者の背後で浮き上がってくる霊魂を審判して「それが不良であるならこれを改心せしめるか、若しくは退散を余儀せしめる」と述べている。この審神者の代わりに霊媒をもってきてもよいが、「これはどうかすると一から十まで霊媒にのみ頼らんとする風を順致するから、これにも自力の伴うことを要す」としている。和三郎の「精神統一と霊能者をセット」にした見解から一歩踏み出した見解になっている。

 

☆脇長生(または長男)の見解

脇は「精神統一の正しい目標」(注31)の中で、「真の目的を、心身浄化による各自の守護霊との連絡にある」「守護霊との道交による結果としての霊能発揮により、各自の先天的使命が完全に発揮されて、遂に各々の人格が完成される」「この自己完成こそが精神統一の真の目的」であるとして、どこまでも「心身の浄化」が第一義でなければならないとする。

脇はこのように真の霊能発揮は守護霊との連絡後において発揮されるものであり、精神統一の目標を「霊能発揮」におくことは誤り、順序が逆であると述べる。

なお睡眠は「自我意識」も「肉体意識」も休止させることだが、精神統一は「肉体意識の活動を休止」させるだけで「自我意識」はある、この状態で初めて守護霊が働けるとして精神統一は催眠とは異なるとも述べている。

 

脇は『精神統一要諦』(注32)の中で、「(精神統一とは)背後の良い霊魂を一層働かせるようにして、未発達の霊魂を整理し向上させることである。これによって守護霊への道はひらかれる」「統一とは日常にある。日常から我をなくすこと、ここに統一の真締がある」として、浅野正恭と同様に日常の「精神修養」「内省」による「心身浄化」の大切さを述べている。脇がこのような考えに至るきっかけに、東京心霊科学協会の精神統一実修における反省がある。

当時の精神統一実修会では、優秀な霊媒体質者を発掘してこの者に「鎮魂帰神を行って霊能を誘発・強化させて、幽界事情を調査させる」と同時に、一般人に対しては「鎮魂を指導して、憑依する霊があればその都度、審神者である浅野がこれを鎮める」という方法をとっていた。

 

脇によれば1930年代当時は、精神統一をする者は霊能者の本吉嶺山や小林寿子などによって、背後の整理(除霊)をお願いしてから統一することになっていた。しかし結果は良いとはいえなかったという(注33)。霊能者によって一時的に“背後霊の整理”を行う他力的な「心身の浄化」では、本人の心境が変わらなければ同様な霊を再び呼び込むだけであり、限界があったからであろう。このような体験が背景にあって、脇は一貫して精神統一の指導者に霊媒を据えることの弊害を述べている。実修者の関心が背後霊に向いてしまい精神統一の本旨から外れるので、「霊媒による統一指導は危険」であると晩年まで述べていた。

 

このように「浅野和三郎→浅野正恭→脇長生」の系譜を検討してみると、「精神統一会の指導者に霊能者を介在させること」と、「心身の浄化(=日常の意念の統制)の方法」に問題の焦点が絞れてくる。和三郎は「統一会指導者」と「心身の浄化の方法」に霊能者を介在させているが、浅野正恭は和三郎の見解を一歩踏み出して霊能者の介在を例外的な場合に限定している。さらに脇は霊能者の介在を完全に排除している。このように三者間には変化が見て取れる。

 

☆日本心霊科学協会の精神統一会(1980年代の実態)

浅野和三郎の系列を引く団体に「公益財団法人日本心霊科学協会」がある。1980年代前半に協会の機関誌である『心霊研究』の編集長や審神者を勤めた梅原伸太郎(1939年→2009年)は、協会の精神統一会について次のように述べている(注34)。

日本心霊科学協会には「一般会員の自由参加による精神統一会があり、本部ではこれが毎日行われている。霊能者とよばれる霊媒の指導で行われ、一時間ほどの精神統一のあと霊界からの注意として霊媒からの種々の取次を受ける。これを霊査といっている。別に会員に対する個人相談の制度があり、親密な霊能者の指導を受けたい会員は自由に受けることができる。霊能者を用いるこの方式は協会の幹部と親交のあった伊藤真乗によって宗教団体の真如苑などに影響を与えている。」「研究的側面が弱まるにしたがって、霊能者中心の会となる傾向がある。中老年の女性参加者の多い精神統一会を担当する霊媒はそれぞれ一種の小教祖に似た存在となり、協会は彼らを横に緩く束ねたような組織になってきている。」

 

梅原が述べた精神統一会とは、会員有志の心霊同好会が母体となって昭和2811月から大岡山同好会館で始まった「精神統一研修会」のことである。初期の主なメンバーには旧東京心霊科学協会の関係者である宮澤虎雄、粕川章子、吉田正一に、霊能者の吉田綾が加わっている。

当初この研修会は「心霊同好会は協会会員有志間の催しであり協会の事業ではない」(注35)との位置付けであった。しかし霊能者吉田綾による精神統一会での霊査が好評で評判となり、次第に協会本体に組み込まれてメインの活動になっていった。この精神統一会は霊能者を統一会の指導者として行ったところに、浅野和三郎の東京心霊科学協会の流れをそのまま引き継いでおり、この点で浅野正恭や脇長生の立場とは異にする。

 

この統一会はその後しだいに霊能者中心の会へと変質して、1980年代頃は梅原の指摘しているように霊能者中心の会となっていたことが分かる。

これは昭和24年に日本心霊科学協会から分かれて、東京心霊科学協会を復興した浅野正恭や脇長生らが、戦前の東京心霊科学協会の霊能者を中心に据えた精神統一会を修正して、霊能者を極力関与させずに日常の意念の統制を中心に据えた「心身の浄化」に重きを置く精神統一会へと向かったのとは対照的である。

 

☆『初心者のための精神統一入門』から見えてくること

日本心霊科学協会で行われている精神統一会の実態については、『初心者のための精神統一入門』という冊子から窺える。この冊子によれば、精神統一の目標は「統一者が心身の統制と霊魂の浄化・向上を通じて、高級祖霊と感応道交をはかり直結することを目指す」こととしている(→脇が述べる「守護霊への道」と同じ趣旨)。さらに精神統一によってその人の背後が整理されても、依然として心境が同じであれば、同調の原理からまた別の同じような因縁を持った霊が憑依してくるので、精神統一者の日常生活を見直して普段から心境を高める努力を行う必要があると指摘している。このように冊子からは、浅野和三郎の霊能者による「他力的な浄化」とは異なって、浅野正恭や脇長生が述べた「自力的な心身の浄化」に近い考え方が見られる。

 

さらに冊子では、精神統一にはその者の背後で働く霊との結びつきを強める作用があり、その際に他界から働きかけを行うのは、地上の人間の心境に相応するレベルの霊であるとして「同調の原理」を述べている。そして精神統一の実修を継続して行うと同時に、その者の固有の振動数を引き上げる努力を行って、より高い背後霊と感応してその結びつきを強めていくことが必要であるとしている。

このように『初心者のための精神統一入門』では、精神統一と同時に「日常生活の大切さ」が強調されているため、「心身の浄化」に関しては浅野正恭や脇長生の主張と基本的には同じである。しかし日本心霊科学協会では精神統一会の指導者に霊能者を介在させている。この点で浅野和三郎の立場を引き継いでいる(→脇は雑誌や座談会において、霊能者を精神統一会の指導者として介在させることの弊害を長年にわたって批判してきた)。

 

イ)精神統一の舞台裏

☆精神統一の意義・仕組み

精神統一とは本人の心が何か一つのものに集中している状態を言う。座禅、瞑想、統一、鎮魂、祈願、神前での祝詞・経を一心にあげる、神仏を拝むなども広義の精神統一である。さらに熱心に仕事に集中しているときや、何かに熱心に打ち込んでいる状態も無意識のうちに精神統一状態に入っているといえる。

一般に日頃から霊的な事柄に関心のある人、霊能開発を目指す人、自己修養に関心がある人などの間で、精神統一(瞑想)に関心がある人を多く見受ける。これらの中には霊媒体質者や、霊的に敏感な人などをよく見かけるが、霊的に鈍感な人であっても、長年精神統一(瞑想)を続けていると霊的感受性が強くなってくるのを実感することがある。

 

一般に精神統一と言われるものには、次のような“身体技法”が存在する。

ヨーガでは心を一つに集中していくと、心の働きが静まり澄み切った状態になり、自分の意識が消えて光輝くサマーディの状態に入るとされており、そこに至るための身体技法が存在する。仏教系の密教(天台・真言)には、行によって自己の本性を観察して、真実を明らかにしていくことによって仏の世界が見えてくるという「観察・観心」がある。禅宗では一切の雑念を払い無念無想の状態に入ることによって、何ものにも囚われない“あるがままの真の自由”に到達することを目標として「座禅を組む」という技法がある。道教では宇宙の根源的な真理をタオ(道)といい、これと一体となるための瞑想があり、そのための身体技法が存在する。さらに日本古来の鎮魂法や、古武術系の修業法なども数多く存在している。

現在ではこれらの各種瞑想法を使って、癒しやストレスの解消、心身の調和などのメンタル面での活用が行われてが、一例として精神統一によって集中力が高まると言う効能を生かしたメンタル・トレーニングや身体改造法などがある。

 

☆個人的な記憶の貯蔵庫

人の意識には脳に依存して働く顕在意識と、依存しないで働く潜在意識とがある。言語機能、同一の思考パターンや身体機能などに見られるように、人がある動作を意識的に反復継続して行うと、脳(意識)と身体動作との間に一種の回路が作られて、その後はその回路を使って意識せずとも連携的に働くことが知られている(→いわば潜在意識の領域が機械的な身体動作を担うようになるから)。

 

潜在意識の領域には、この“機械的に反復する領域を担う潜在意識”とは別に、その人がそれまでの人生で学び体験した全ての記憶がしまい込まれている「個人的な記憶の貯蔵庫」がある。精神統一(瞑想)をすると、この「個人的な記憶の貯蔵庫」に仕舞い込まれた種々の記憶が、想念となって表面意識に浮かび上がってくる場合がある。一般に精神統一の熟練者は、この想念を湧き出るに任せて「流す」「とらわれない」として上手に処理している。しかしこの処理を誤ると古い記憶が表面に蘇り、しばし激しい感情の渦に巻き込まれて、翻弄されてしまうこともある。

 

西洋人は精神構造上「個人としての自己を捨てることが難しい」といわれているのに対して、日本人の場合には一般に「個人的無意識を処理するのが上手」であるとされてきた。しかし最近の日本人を観察して見ると、西洋人と精神構造上の差異が少なくなってきたように思われる。筆者の印象としては、最近の人たちに見られる一般的な傾向として、個人的無意識の領域から表面意識に浮かび上がってくる想念の処理がうまくできず、精神統一における集中がより困難になって来ているように見受ける。

 

☆精神統一の目標

浅野和三郎は精神統一には目標があるとして具体的にケース分けして述べているが、その前提には波長の原理がある。浅野の後継者を自任する脇長生は、浅野の説をまとめて次のような形で精神統一の目標を掲げている。

「純真な愛情の上に立つ者」として心から愛する他界の者と通信したいと願う目標、「着実な研究心の上に立つ者」としての目標、「高邁なインスピレーションに接したいと思う者」が置く目標、「衆生済度の念願に燃える者」の目標、「心身の浄化修行を目的とする者」が置く目標などである。他方、感心できない目標として「なんらかの正しくない、不合理な欲望や野心に駆られる者」「好奇心に駆られる者」「これを職業にしようとする者」「目標のない者」をあげている。さらに霊媒志願者は「生活の顧慮のない人か、少なくとも生活問題を他に何とか解決した人に限る」(注36)としている。

 

一般に霊媒体質者や霊的に敏感な人が精神統一(瞑想)を行う場合には、統一の目標を高く掲げて、自らの体調や精神状態を見極めて十分に注意して行う必要がある。体調が悪い状態で精神統一を行っていると、意識が肉体に向いて霊的波長が低くなるので、低級霊と同調し易くなり最悪の場合には憑霊状態になることもある。本来は精神的・肉体的に問題があるような人は、無理に精神統一(瞑想)をしようとせずに、浅野正恭が述べたように「吾れ日に三たび吾身を省みる」行いをして、「意識の底上げ」や「意念の統制」を行った方がよい(→広い意味での精神統一につながるから)。そして精神的・肉体的に状態が安定してきたら、高級な背後霊との感応道交を求めた統一を短時間に止めて、少しずつ慣らしていけばよいと思われる。

 

☆「アンテナの錆び落とし」と「受信装置の周波数」との関係

人間とは霊的存在であり、私たちの周りには高いものから低いものまであらゆるレベルの霊が取り巻いている。その中でどの程度の霊と感応道交(霊的影響力を受けること)するかは、その人が持つ固有の「霊的波長」いかんにかかっている。

私たちは誰でも霊界と交流できる受信装置の“アンテナ”をもっているが、先天的に感度が良好な霊媒体質者は別として、一般にはその“アンテナ”に錆が付いていて感度が悪い。精神統一という身体技法は、この“アンテナ”の錆を落として感度を上げる行為と考えればその仕組みが理解しやすい。

 

その人に感応道交してくる霊は、修業者の固有の波長(受信装置の周波数、振動数)に見合った霊なので、精神統一の実修と同時に修業者の固有の振動数(受信装置の周波数)を上げる努力をしなければ、「アンテナの錆び落とし」が進んだ分だけ霊からの影響を受けやすくなる。したがって精神統一を行おうとする者は「アンテナの錆び落とし」をして背後霊との結びつきを強固にすると同時に(→精神統一の修錬は受信感度を高める行為だから)、「受信装置の周波数」を上げて感応道交する霊の選別を行う必要がある(→修養的生活を心がけることにより修業者の固有の振動数を引き上げることが大切となる)。

 

人間は肉体をまとって雑多な人間が混在している社会で生活している以上、低い意識状態から高い意識状態の間を終日揺れ動いている。高い意識状態を一日中保っていられるわけではない(→霊性レベルが高いと言われる人でさえ、肉体が不調の時は意識が肉体面に向かうため、霊性レベルを落とすことになる)。修業者の固有の振動数とは、その人の“平均的な振動数”のことである。修養的生活を心がけるということは、その人の“平均的な振動数”の底上げを図る努力を行うということである。

 

☆精神統一の裏側

精神統一の裏側はどのようになっているか、少し検証したい。

私たちの日常の意識状態は、五感から入ってくるさまざまな刺激に対して過敏に反応して興奮した状態に置かれている。精神統一はこのようなさまざまな物に反応している状態を鎮めて、意識の焦点を自己の身体からずらせていく行為に他ならない。ズレの程度が大きければ深い統一状態となり、ズレが小さければ浅い統一状態となる。統一の熟練者は容易く深い統一状態に移行できるようになる。しかし精神統一はあくまで意識を肉体意識からズラす技法であって、その者の心境(=霊格)を高めることとは必ずしもイコールではない。

 

精神統一をしている状態の時に霊界(幽界)から働きかける霊は、「同調の原理」から統一者の日頃の心境に応じた霊(→その人の“平均的な振動数”に応じた霊)である。一般に精神統一は清浄な気分で行うため、その人の最も高い振動状態で行うのが普通だが、体調不良や精神状態の悪化などから、稀に低い波長のままで統一に入る場合もあり、この場合は憑依され易くなる。精神統一者が統一時において高い背後霊と感応道交しようとするためには、日頃から意識の底上げを心掛けなければならない。

脇長生が述べている「精神統一のポイントは日常生活にある」、また浅野正恭が云う「吾れ日に三たび吾身を省みる」「内省は一種の自力統一法」の実行は、まさに正鵠を得ている。このように日頃の努力があった上で、さらに精神統一の技法を身につけることにより高級背後霊との感応道交が密接となり、充分な指導(→脇の言う「守護霊の道」のこと)が受けられることになる。

 

このような前提を欠く統一は、意識のズレ(→浅い統一から深い統一状態になるにしたがって)に応じて危険度が増していくことになる。精神統一法はたんなる技法であって、そのことのみで高級背後霊と感応したり霊性が向上したりすることはない。坐っているだけでひとりでに霊格が上がっていくものではない。技法はあくまで技法(“アンテナ”を磨くだけ)にすぎないことをよく銘記する必要がある。また前提条件を具備した正しい精神統一であても、あせりや気負いは禁物である。自然体でリラックスして背後霊に任せた統一をすべきである。このようなことを充分に注意して行う必要がある。

 

☆精神統一の病的状態

浅野は大本時代、憑依状態になった修業者をたびたび見てきた。大本の鎮魂帰神が憑依霊を発動させる方式で行っていたので、正座していた者がピョンピョンと飛び跳ねたり、霊動を伴った動きをしたり、大きな声で怒鳴るなどの現象が日常的に見られたという。

これらの現象は修業者の精神状態(霊的状態)に同調した低級霊(地縛霊も含む)の影響や、修行者の“個人的無意識の領域”から浮き上がってくる想念に修業者自身の感情が翻弄されたためでもあり、弊害も多かった。

 

心霊に長年携わってきた先人たちの体験から、次のような事例が報告されている。

「宗教の作法において熱中すると無我の状態となり、一種の統一状態に入るのでさまざまな障害が現れやすい」。精神統一によって「精神錯乱の状態を呈する場合も決して珍しくない」など。霊媒体質者は特に注意する必要がある。また「霊能を啓開されたがために、かえって不幸な結果を招いている実例があまりにも多く見聞する」「性格的に著しく調和を欠いた問題行動を起こしやすい人間を生み出してしまう」という報告例もある。さらに日常生活における行動で、ふとした出来心、激情、陰鬱な気分、イライラ、不可解な衝動、精神的奇行などが生じたり、強められたりすることも起きる。これは“アンテナ”が磨かれた分、同調の原理から修業者の固有の波長に見合った霊からの影響力が強く作用した結果であると思われる。

 

一般に危険性がある精神統一とは、「統一の前提条件が欠けた状態」で行うケース、統一の目標を「利己的なもの・物質的なもの」に置いたケース、このような場合に多く見られる。また精神的に障害をもっている者や情緒不安定者・ノイローゼ気味の者の場合には、精神統一中に霊動が発動しやすくなり危険な状態になることが多い。

 

ウ)日本と西洋の「精神統一」についての説き方の差

☆日本人と西洋人の精神統一の違い

霊能開発には精神統一の修業は欠かせないが、精神的心霊現象や物理的心霊現象を起こせるような能力者になることが、霊能開発のすべてではない。このような現象が発現せずとも、より高い霊からのインスピレーションが受信できることや、背後霊との感応道交が増して人生観が明るく変化していくこと、このようなことも広い意味での霊能開発である。このような効用があるため、心霊書において精神統一(瞑想含む)は推奨されている。

 

日本と西洋とでは精神統一(瞑想含む)に関する説き方が異なっている。特徴的な差異として「霊的影響力」「呼吸法」「精神構造の違い」等があり、これらに両者の説き方の違いが表れている。「霊的影響力」については、「善なる存在」を強調するのが西洋のスピリチュアリズムの特徴であり、『シルバーバーチの霊訓』にこれが見られる。しかしモーゼスの『霊訓』では低級霊の弊害が事細かに述べられている点で、この特徴からややはみ出した形になっている。

このように「善なる存在」の霊的影響力を強調するのは、「西洋のスピリチュアリズムが白魔術の系統にあるから」といわれている。日本では古来より「祟る」「憑依する」という観念があって、加持祈祷を行う者による「悪しき存在」を除霊するという風習があった。このため日本の心霊の世界では、「悪しき存在」の影響を語るケースが非常に多い。

 

一般に云われている呼吸法の違いとしては、西洋人の胸式呼吸と東洋人の腹式呼吸の違いがあげられる。西洋人は一般に胸や肩の発達がよく、胸式呼吸が中心であるため重心が上がり、その結果として交感神経が刺激されて活動的になると言われている。東洋では座禅やヨーガの呼吸法は腹式呼吸であり、この呼吸法を行う場合には姿勢を正す(背筋を伸ばす)必要があり、精神を安定したり集中力を高めたりすることに優れている。西洋人が瞑想の際の姿勢を重視しないのは、呼吸法と密接な関係があると言われている。さらには西洋人と日本人の「精神構造の違い」が存在する。

このような違いが前提にあるため、精神統一の説明の仕方は西洋と日本とでは当然に異なってくる。むしろ西洋では祈りを重視する傾向が見られる(→但し呼吸法に関しては、近年では体格に差異がなくなりつつあるので一般化はできないが)。

 

しかし「霊能開発を目指す精神統一」の場合には、西洋人でも日本人と同じような説き方をしている。O.レナード著『超能力を開発する本』(注37)の「第二章、精神統一の訓練」においては、坐り方、呼吸の仕方、邪霊悪霊の対処の仕方、初心者に対する注意点など、日本における「霊能開発講座」で配布される「精神統一の注意書き」と似たような内容になっている。

 

☆「モーゼスの霊訓」における瞑想のすすめ

高級霊のインペレーターは『霊訓』(注38)の中で、「われらの側より最も近づき易い魂は普段より霊的交わりを重ねている者である」(注39)として、背後霊との感応道交の大切さを述べている。そして「今のそなたには瞑想と祈りが何より大切である。友よ、祈るのである。真実への道を求めて一心に、そして真摯に祈るのである」(注40)。このようにあくまで「真実への道を求めて」であって「物質的要求を求めて」の祈りや瞑想ではない。

さらに「かくして同胞のための公共的奉仕の生活にはげみつつ、一方においては絶え間なく霊的向上のための生活―真理への憧れと発展、霊との交わり、物質的・地上的なものからの超脱によって一歩でも主イエスの完全なる模範に近づかんとする修養を怠らぬ」(注41)として、利他的行為と修養的生活の大切さを述べている。

 

しかしながらモーゼスのような高い境地の者に対してさえ、「神経の一本一本が震えるほど神経組織全体が過労ぎみで緊張の極みにある時は・・・せめてそうした精神状態が呼び寄せる低級霊に憑依される危険からそなたを守るのが精一杯である。そのような状態の時はわれらの世界との交信は求めぬように忠告する」「そなたはこれより急速に進歩し、それがあらゆる種類の霊的影響を受け易くする」(注42)と述べている。

さらに「霊的知覚が鋭敏さを増すにつれて邪霊の敵対行為も目立ってくる」(注43)として、精神的・肉体的に状態が悪い時は「霊との交わり」をしないようにと忠告している。高級背後霊との感応道交が常にはかられているからと云っても、状態によっては肉体特有の波動の低さゆえに低級霊の影響を受けてしまう場合があるからである。

 

インペレーター霊は「磁石が鉄を引きつける如くに霊的影響力を何でも引き寄せてしまう。・・・地上では低き次元での霊的引力の作用が現実にあるからである」(注44)として、同調の原理を述べた上で「軽薄なる心で以て霊界と係わりをもつ者、単なる好奇心の対象に過ぎぬものに低俗なる動機からのめり込む者、見栄っ張りの自惚れ屋、軽率者、不実者、欲深者、好色家、卑怯者、おしゃべり、この種の者にとっては危険が実に大である。われらとしては、性格的に円満を欠く者が心霊的なものに係わることは勧められぬ」「節度なき精神、興奮しやすき感情、衝動的かつ無軌道な性格の持ち主は低級霊にとって恰好の餌食となる。その種の人間が心霊に係わることは危険である」(注45)とも述べて、このような人は「心霊的なもの(=霊との交わり)」を求めない方が良いと述べている。

このようにインペレーター霊は誰かれ構わずに、やみくもに「祈り・瞑想」を行うようにとは述べていない。

 

モーゼスの『霊訓』では低級霊の跋扈を、詳細に事例を挙げて述べているが(注46)、『シルバーバーチの霊訓』ではそれほど触れられていない。この違いは何か。

推察するにインペレーター霊には「地上人類救済のための総合的基本計画」に沿った先陣(→いわば切り込み隊の先鋒)としての仕事が割り当てられていた。その仕事とはキリスト教社会に霊的真理普及のための「橋頭堡」を築くことであった。そのため地上側に強固なキリスト教神学を持ったモーゼスを立たせて、論争という形をとってキリスト教神学という壁を打砕き、さらにモーゼスに悪影響を及ぼして計画阻止を企てる邪霊集団と熾烈に切り結んで、それらの影響力を排除して霊的真理を地上に根付かせる必要があったから、と考えられる。

 

このことはインペレーター霊の次の言葉から明らかである。「今そなたを中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈なる反目がある。われらの霊団と邪霊集団との反目であり、言い換えれば人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせ挫折させんとする働きとの闘いである」(注47)と。

その後インペレーター霊が獲得した陣地を足掛かりにして、後に続く霊団が陣営を広げてスピリチュアリズムを地上に根付かせることに成功した。ここに霊界における霊団の役割分担が垣間見えてくる。

 

☆『シルバーバーチの霊訓』における瞑想のすすめ

高級霊のシルバーバーチは、参加者の質問に応えて「精神統一をなさることです。時には煩雑なこの世の喧騒を離れて魂の静寂の中にお入りなさることです。静かで受身的で受容性のある心の状態こそ霊にとって最も近づき易い時です。静寂のときこそ背後霊が働きかける絶好機なのです。片時も静寂を知らぬ魂は騒音のラッシュの中に置かれており、それが背後霊との通信を妨げ、近づくことを不可能にします。・・・少しの間でいいのです。精神を静かに統一するように工夫することです。・・・背後霊のオーラとあなたのオーラとが融合する機会が多いほど、それだけ高度なインスピレーションが入ってきます」(注48)として精神統一の重要さを述べている。

 

上述したように統一時は霊にとって最も近づき易い時であり、近づいてくる霊は「同調の原理」から統一者の日頃の心境に応じたレベルの霊である。『シルバーバーチの霊訓』の記載からも分かる通り、シルバーバーチは利他的行為や霊的視野から物事を見ることの重要さを繰り返し述べている。これらが前提にあってその上で精神統一を勧めているのであり、上記の回答部分だけを取り出して、やみくもに「霊との交わり」を求めて精神統一(瞑想)に入ると、人によってはさまざまな問題が起こるので注意する必要がある。前述したように精神統一(瞑想)を行おうとする者には霊的敏感者が多いので、その点を踏まえた説き方をしている「和製スピリチュアリズム」は参考になる。

 

以上のことから云えることは、高級霊のシルバーバーチやインペレーターは「霊的教訓」の内容を理解できるレベルの西洋人に対して、精神統一(瞑想含む)の勧めを述べているのであって、これを万人向けに一般化することには弊害が伴う。「霊との交わり」には前提条件があり、それを十分に知らせずに、やみくもに精神統一(瞑想等)を積極的に勧める人達がいるが、舞台裏から見れば危険であり問題である。十分に注意する必要がある。

 

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― 

<注1>

■雑誌『心霊と人生』昭和51月号

 

<注2>

■雑誌『心霊界』創刊号に「わが心霊科学研究会が創立するまで」の記事がある。この記事の中に「今度の大震災を機会として本邦に於ける心霊的活動が百尺竿頭長足の一大進展を遂げたことでありました」とある。ここにある「一大進展」とは、雑誌『心霊と人生』(昭和32年:1957年)1月号の注記によれば「当時括目すべき物品引き寄せ霊媒品川守道、更に平田篤胤翁の『寅吉物語』を連想せしむる霊媒後藤道昭両氏の出現であった」とされている。ここに出てくる物理霊媒の品川守道について、浅野は「当代随一、無比の霊媒」と称賛しており、たびたび雑誌『心霊界』で取り上げられている。

小熊虎之助著『心霊現象の科学(改訂版)』(芙蓉書房1983年刊)の「あとがき」によれば、「シャッツの下に隠していた物品を小熊によって引き出された主婦の友社ビル上での御岳行者の遠方からの物品引き寄せの念動実験・・・」と記されている。小熊は霊媒の詐術を暴露したが、文中にその霊媒の名前は出していない。しかし他の著書から推測すればこの霊媒は品川守道ではないかと思われる。

■青郷生著「記憶を辿りて」:雑誌『心霊と人生』1941年(昭和16年)11月号所収。青郷生は浅野正恭の筆名。兄の正恭は「(浅野和三郎は)御岳行者の品川某に苦杯を嘗めさせられた」と記している。

 

<注3>

■雑誌『心霊と人生』昭和51月号、3月号

 

<注4>

■創立時の日本心霊科学協会会則第3条、雑誌『心霊研究』創刊号参照。

 

<注5>

■雑誌『心霊と人生』昭和51月号の「東京心霊科学協会創立趣意書」参照。

 

<注6>

■雑誌『心霊と人生』大正15年(1926年)6月号のP.47「謹告」参照。

W.T.ステッドは1909年にロンドンに「霊界通信所」を設置した(浅野和三郎著『心霊講座』540頁)。浅野はこれにヒントを得て「心霊問題の民衆化」の一つとして「心霊相談所」を設置したのではないだろうか。

 

<注7>

■雑誌『心霊界』創刊号「わが心霊科学研究会が創立するまで」。雑誌『心霊と人生』昭和32年(1957年)1月号に再録。

この記事に次のような記載がある。「更に心霊と人生の前身である『心霊界』は大正132月、更に新生面を開き、わが日本における唯一の心霊科学ことにスピリチュアリズム(神霊主義)の研究唱道誌として発足したのであるが、大正147月号より『心霊と人生』と改題し、事務所を神奈川県鶴見町に移し、・・・昭和194月太平洋戦争の激甚につれ、政府の要請により一時休刊のやむなきに至った。が、終戦後、再び昭和244月復刊・・・」との記載がある。

 

<注8>

■春川栖仙著『日本スピリチュアリズムの成立』(日本スピリチュアリスト協会2001年刊)の中で、浅野正恭の文章が「大本教からの転身」として引用されている(77頁参照)。

■青郷生著「記憶を辿りて」:雑誌『心霊と人生』1941年(昭和16年)11月号~12月号所収。青郷生は浅野正恭の筆名。

正恭は「記憶を辿りて」の12月号の中で、東京心霊科学協会は創設当初、大本信者であった岡田熊次郎宅に事務所を置いていたが、間もなく芝桜田本郷町の鳥羽ビル内に移転した。その後東京心霊科学協会と繋がりを持った本吉霊媒は後援会事務所を榎本氏宅に置き、小林霊媒は後援会事務所を尾道氏宅に置いて、それぞれの事務所で実験の依頼に応じていた。その後諸般の事情(経費節減?)により、中西霊媒の後援会事務所も含めて、協会付属の東京心霊相談所に一本化させて、岡田氏宅が事務所(中西、小林、本吉霊媒の事務所)として使われるようになった。それが昭和1310月まで続いた。正恭は十余年来の岡田氏と手を切ったという。

 

<注9>

■トニー・オーツセン編、近藤千雄訳『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ――シルバーバーチの霊訓』(スピリチュアリズム普及会)131頁~132頁参照。

高級霊シルバーバーチは目標の設定について次のように述べている。なおこの一節は「動物を人間の食糧や衣服、また遊牧民の住まいとするために殺すこと」について質問が出された際に、「動物を殺害するのは間違いである」と回答を述べた箇所の一部である。「皆さんは変化しつつある世界に生きており、わたしたちも、どうせ今すぐには実現できないと知りつつ、理想を説いております。もしもわたしたちが努力目標としての理想を説かずにいたら、与えられた使命を全うしていないことになります。目標の水準は高めないといけません。低くしてはいけないのです」。

■近藤千雄著『スピリチュアリズムと宇宙哲学』(現代書林1998年刊)226頁、227頁参照。

 

<注10

■北村熊雄著「母と私の心霊体験」:『創立五十周年記念特集』(財団法人日本心霊科学協会2000年刊)70頁~86頁参照。

 

<注11

■雑誌『心霊研究』昭和322月号参照。

 

<注12

■小田秀人著『超心霊学入門』(池田書店1973年刊)では、「浅野和三郎氏の主宰する東京心霊科学協会の一室で、霊媒亀井三郎氏の交霊会に列席して、はじめて物理的心霊現象を実見しました。その後、私は同士と共に菊花会を組織し、たびたび会員を集めて交霊会を開催しました」(前著50頁)とある。

■小田秀人著「物理霊媒、亀井三郎の思い出」:雑誌『心霊研究』昭和44年(1969年) 2月号。ここに「私(小田)が昭和5年の秋初めて待望の物理現象の実験会に出席を許された」とある。

 

<注13

■雑誌『心霊研究』昭和53年(1978年)10月号、「座談会:心霊研究の回顧と展望」の中の後藤の発言より。

 

<注14

■小田秀人著「物理霊媒、亀井三郎の思い出」:雑誌『心霊研究』昭和44年(1969年) 2月号及び3月号所収。

■小田秀人著『四次元の不思議』(潮文社1971年刊)63頁~64頁に「昭和5年の113日新宿西大久保の中野氏邸においてであった。仲間としては中野一家の外に、大嶋豊氏や芹沢光治氏などがいた。会の名称は、当日が文化の日、菊の佳節だったので・・・経済的には大本の二代目教主補出口日出麿氏が適時ピンチを救ってくれた。時々相談に行くと、神前に供えてあった玉串料の紙包みを一握り、中も調べずに『当分何とかやって下さい』といって渡してくれたりした」と記されている。

■雑誌『心霊研究』昭和44年(1969年)1月号に「亀井三郎氏死去」の記事(48頁)が載っている。これによれば「霊能者として過去の物理実験について有名であった通称亀井三郎氏(又は泉氏)は、薬石の効なく去る1130日枚方市の協立病院にて脳充血のため死去されました。葬儀は121日午後3時から守口市の乗雲寺にて同友の集まりの下でしめやかにおこなわれました」との記載がある。

 

<注15

■小田秀人著『生命の原点に還れ』(たま出版1985年刊)79頁参照。

 

<注16

■小田秀人著『四次元の不思議』(潮文社1971年刊)125頁~134頁参照。宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(20)」:雑誌『心霊研究』197512月号所収。

 

<注17

■北村熊雄著「母と私の心霊体験」:『創立五十周年記念特集』(財団法人日本心霊科学協会2000年刊)70頁~86頁参照。

 

<注18

W.Sモーゼス著、近藤千雄訳『霊訓、下』(スピリチュアリズム普及会)29節(152頁~172頁)参照。

 

<注19

■近藤千雄訳『霊的新時代の到来―シルバーバーチの霊訓』(スピリチュアリズム普及会)49頁参照。

 

<注20

■大本70年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)292頁参照。

大本は明治41年(1908年)81日に従来の「金明霊学会」の名称を「大日本修斎会」に改めた。そして91日に初めての機関誌『本部講習』(月刊)を発行して、文書配布による布教活動を開始した。これ以降大本は、たびたび警察の干渉を受けながらも出版と宣教を結び付けた布教活動を展開している。

当時は公認の宗教団体以外に宗教活動を行うことは許されていなかった。文書配布が宗教活動の一環と見なされれば、非合法活動に当たるため警察の干渉を受ける。そのため出口王仁三郎は『本部講習』の性格に気を使っている。彼は『本部講習』は雑誌でも新聞でも書物でもなく、ただ「会員が集まって学術を研究する学科である」と位置付けた。その学科の内容は「敬神の道に関した古今の書から抜粋」したものであると警察に説明したが認められず、『本部講習』は4回で廃刊となった(前著298頁参照)。

■明治41年当時、心霊現象を扱った団体に平井金三が主催した「心霊現象研究会(心象会)」が存在する。この会の性格はテレパシーや透視、テーブル・ターニング、催眠術などを研究する学術グループであった。この会が心霊思想(スピリチュアリズム)の普及を目的としたグループであったなら、一種の宗教活動と見なされて警察の干渉を受けたのではないかと思われる。

■心霊研究グループも同様にたびたび警察の干渉を受けていた。津城寛文著『鎮魂行法論』(春秋社2000年刊)の一文からも窺える。「大正12年、宇佐美(景堂)の父親が霊媒・中西リカを見出し、多くの依頼者を引き付けていたが、無届けの活動のため警察の干渉を受ける。そこで教会の設立を計っていたところ、優秀な霊媒を求める大阪心霊研究会の浅野和三郎から共働の招きを受けた」(前著62頁)と。

推察するに宇佐美のグループは、警察から「宗教・信仰グループ」と見なされていたため干渉を受けたのではないだろうか。当時霊的な活動は宗教の管轄下に置かれていたことから、中西霊媒の霊的な相談業務は一種の宗教活動と判断されたのであろう。この点からも戦前の日本では心霊思想(スピリチュアリズム)の普及を行う場合には、現在とは異なって様々な制約があったことが分かる。

 

<注21

■浅野和三郎著』『心霊講座(復刻版)』(潮文社1999年刊)の「序」より。

 

<注22

■浅野和三郎著『世界的名霊媒を訪ねて』(心霊科学研究会1970年刊)62頁~70頁。

 

<注23

■大谷宗司著「小熊先生著『心霊現象の科学』復刻改訂版に際して」:小熊虎之助著『心霊現象の科学(改訂版)』(芙蓉書房1983年刊)所収。

 

<注24

■浅野和三郎著『心霊講座(復刻版)』(潮文社1999年刊)75頁参照。

 

<注25

■小熊虎之助著『心霊現象の科学(改訂版)』(芙蓉書房1983年刊)233頁参照。

小熊は心霊現象に対して、科学的な厳密さを求めるあまりスピリチュアリストからは「心霊現象の否定派」と見なされてきた(→小田秀人の著書では、たびたび心霊否定論者として登場してくる:『超心霊学入門』86頁~)。

しかし大谷宗司著「小熊先生著『心霊現象の科学』復刻改訂版に際して」によれば別の見方が成り立つ。大谷宗司は「(小熊)先生は先入観をもった単純な否定論者ではない。当時の研究段階においては、真に科学的批判に堪え得る証拠が乏しいことを厳密な検討の上で結論されたのであり、先生の本旨は、この領域の研究を進めることの必要性を強調する所にあった」と記している。

筆者は「証拠性の問題」は、当人の心霊に関する理解力の程度に応じた形で、霊界から証拠が示されると考えているため、小熊が求めるような全ての人を納得させるだけの客観的証拠はあり得ないと考えている。なぜなら心霊現象はスピリチュアリズム思想に導くための入り口に位置し、究極的には当人の霊性向上にその目的があるため、本人の理解力に沿った形で心霊現象が示されるからである。

高級霊のインペレーターの言葉に「関心を向けるべきは通信の内容であり、通信者の身元ではない」とある。当人の心霊に関する理解力が高ければ、関心の方向は「通信者の身元」ではなく当然に「通信の内容」に向いていくであろう。小熊に代表される懐疑論者が求める科学的厳密さは、心霊現象の内容以前に入口部分の問題で終始してしまう傾向にある。

 

<注26

■雑誌『心霊と人生』昭和321月号、脇長生著「誌齢三十巻に想う」より。

脇は「先生(浅野)の晩年は心霊現象の研究は、第二義的となって、全身全霊、日本神霊主義の唱道とその実践に全エネルギーを注がれた」と述べている。

 

<注27

■浅野和三郎著『心霊読本』(心霊科学研究会1937年刊)229頁参照。

 

<注28

■浅野和三郎著「自己完成・天才養成と精神統一」:脇長生編『精神統一入門』(霊魂研究資料刊行会1980年刊、5版)所収、43頁。

 

<注29

■浅野正恭著「精神統一の工夫」:脇長生編『精神統一入門』(霊魂研究資料刊行会1980年刊、5版)所収、63頁以下。

 

<注30

■浅野正恭著「精神統一の工夫」:脇長生編『精神統一入門』(霊魂研究資料刊行会1980年刊、5版)所収、64頁参照。

近藤千雄訳『霊の書』(スピリチュアリズム普及会)315頁参照。この記載によれば「私(聖アウグスティヌス)は一日の終わりに自分にこう問いかけました――何か為すべき義務を怠ってはいないだろうか、何か人から不平を言われるようなことをしていないだろうか、と。こうした反省を通じて私は自分自身を知り、改めるべき点を確かめたものでした。毎夜こうしてその日の自分の行為の全てを思い起こして、良かったこと悪かったことを反省し、神及び守護霊に啓発の祈りを捧げれば、自己革新の力を授かることは間違いありません」と。浅野正恭と同趣旨の事を述べている。

 

<注31

■脇長生著「精神統一の正しい目標」:脇長生編『精神統一入門』(霊魂研究資料刊行会1980年刊、5版)所収、71頁以下。

 

<注32

■脇長生著『精神統一要諦』(日本スピリチュアリスト協会2000年刊)76頁~77頁参照。

 

<注33

■脇長生著『精神統一要諦』(日本スピリチュアリスト協会2000年刊)78頁参照。

 

<注34

■縮刷版『新宗教事典』(弘文堂1994年刊)155頁以下の「精神世界の運動」の項目参照。

 

<注35

■雑誌『心霊研究』昭和297月号、粕川章子著の編集後記より

 

<注36

■脇長生著「精神統一の正しい目標」:脇長生編『精神統一入門』(霊魂研究資料刊行会1980年刊、5版)所収、71頁以下。

 

<注37

O.レナード著、近藤千雄訳『超能力を開発する本』(潮文社1999年刊)

 

<注38

W.Sモーゼス著、近藤千雄訳『霊訓、上・下』(スピリチュアリズム普及会)

 

<注39

W.Sモーゼス著、近藤千雄訳『霊訓、上』(スピリチュアリズム普及会)167頁参照。

 

<注40

W.Sモーゼス著、近藤千雄訳『霊訓、上』(スピリチュアリズム普及会)187頁参照。

 

<注41

W.Sモーゼス著、近藤千雄訳『霊訓、下』(スピリチュアリズム普及会)202頁参照。

 

<注42

W.Sモーゼス著、近藤千雄訳『霊訓、下』(スピリチュアリズム普及会)44頁~45頁参照。

 

<注43

W.Sモーゼス著、近藤千雄訳『霊訓、下』(スピリチュアリズム普及会)193頁参照。

 

<注44

W.Sモーゼス著、近藤千雄訳『霊訓、下』(スピリチュアリズム普及会)126頁参照。

 

<注45

W.Sモーゼス著、近藤千雄訳『霊訓、下』(スピリチュアリズム普及会)168頁参照。

 

<注46

W.Sモーゼス著、近藤千雄訳『霊訓、上・下』(スピリチュアリズム普及会)12節、13節、29節参照。

 

<注47

W.Sモーゼス著、近藤千雄訳『霊訓、下』(スピリチュアリズム普及会)152頁~153頁参照。

 

<注48

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、2巻』(潮文社)18頁参照。

 

 

◆浅野和三郎研究:目次

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