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英文学者時代(明治期~大正期)

目 次

 

①.美文作家時代

・この項目の概要

ア)不思議体験

・筆名について

・浅野の文学熱

・不忍池(しのばすのいけ)の体験

イ)文壇デビュー作「吹雪」

・作品のあらすじ

・「吹雪」の書き出し

ウ)インスピレーション

・浅野の不思議体験

・送信者は誰か、中身はどうか?

・高級霊シルバーバーチの解説

・通信の入手手段

エ)浅野に送信した霊界人とは

・インスピレーションの送信者

・「地ならし」的な役割を担った霊

オ)浅野の美文作品

・美文とは

・浅野の主な美文作品

・美文作品の評価

 

②.東京商業学校時代

・浅野の腰掛け就職

・文芸雑誌の主筆

・作家という職業

・海軍機関学校に職を得る

 

③.海軍機関学校時代

ア)浅野和三郎

・横須賀での生活

・資料「海軍機関学校生活」

・教官(文官)の集合写真

・浅野和三郎とスティーブンソン

イ)芥川龍之介

・芥川龍之介と海軍機関学校

・上層部の信任が厚かった龍之介

ウ)宮澤虎雄

・宮澤虎雄と海軍機関学校

・宮澤虎雄と浅野和三郎

・宮澤虎雄と芥川龍之介

・世界一周

 

④.英文学者時代の業績

ア)主な作品

・評論・随筆作品(明治33年頃)

・翻訳作品・英文学者(明治34年頃~)

イ)シェイクスピア全集

・シェイクスピア全集の翻訳

・画期的な翻訳

ウ)その他の翻訳・著作

・『スケッチ・ブック』と『クリスマス・キャロル』

・英文学史

 

<注1>~<注37

 

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①.美文作家時代

◆この項目の概要

浅野和三郎の創作・翻訳活動期間を大まかに見ると「美文創作(主に明治31年~32年頃)」「評論・随筆(主に明治33年頃)」「翻訳・英文学者(主に明治34年頃以降)」という時代区分ができる。

 

ア)不思議体験

☆筆名について

明治31年(1898年)310日発行の雑誌『帝国文学』の「詞藻」欄に、馮虚道人著「吹雪」が掲載されたが、この作品が浅野和三郎の文壇デビュー作となった。この時使用した“馮虚(ひょうきょ)”というペンネームは、もともと兄の正恭が使用していたものであった。浅野正恭は「亡弟和三郎を憶ふ」の中で、次のような“馮虚”にまつわるエピソードを披露している。「それは彼(和三郎)が134歳の頃であったと記憶するが、其の頃はまだ漢学的風習があって、人は良く号などを付けたものでした。私も其の頃“馮虚”という号を付けていたのでしたが、軍籍に身を投ずるようになって、号など不要であるからお前に譲るということでした。それ以来彼は“馮虚”の号を使用して改めるようなことはせなかった」(注1この頃の正恭は海軍兵学校に在籍する学生であった。和三郎は兄から譲られた号を文壇デビュー作「吹雪」に、ペンネームの一部として使用した。

 

☆浅野の文学熱

浅野は一高時代から大学の二年頃にかけて「一篇の作品も発表できずにいた」ため、「何か一つ傑作を出したい」との気持ちが強くなり、「文学熱は高まるばかり」であったという。文学青年であった浅野は文章の表現技法につき、当時の言文一致運動という大きな変革期の中で、従来の漢文系の「文語的な表現技法」と新しい「口語的な表現技法」とが交錯する中で悩んでいたという。半生を綴った自伝では「熟語成句語法等が旨く噛み合わず満足した作品が書けずにいた」「何か一つ傑作を作り出したい」との熱望から書いては破り、破っては書くという状態の中で、気持ちばかりが上滑りして納得できる作品はなかなかできなかったと述べている。そんな時は「上野の森、谷中の墓地、足に任せて単独散歩をするのが癖」(注2)であったと自伝に記している。

 

☆不忍池(しのばすのいけ)の体験

そんな状態の中で明治313月に浅野は「不思議体験」、いわゆるインスピレーション体験をした。彼の自伝である『出盧』には、この時の「不思議体験」の模様が描かれている(注3)。以下、関連する主な部分を要約してみた。

 

浅野は大学の寄宿舎を出て人影もまばらな不忍池(しのばすのいけ)の湖畔を一人、散歩をしていると、「蓮の枯葉に寂しみを湛へ、何処となく自己の感情と融合調和するなつかしみを覚えた」。湖畔を二廻り、三廻りするうちに「従来いまだ嘗て経験せざる微妙不思議の状態に引き入れられて行った」。浅野の心は冴えてきて「情思脈々泉の如く湧き出て、それが一貫した秩序と字句とをなして頭脳の奥に印刷されていく」という形で、インスピレーションが湧いてきた。そして湖畔を何周かするうちに「一篇の作物が出来上がっていた」。浅野は記憶が消えないうちに急いで寄宿舎に戻って、散歩中にインスピレーションで受け取った文句を書き写した。しかし「思いのほかに分量が多く、翌晩もまた其の翌晩も、たしか四五晩もかかって筆を走らせた」という。

その間の情景を「いわば筆を執りつつある自分は一種の写字生の如きもので、散歩中に出来上がって居るものを思い出しては書き、考え出しては続けるだけで、従来紙に対して推敲するのとは全然遣り方を異にした」と述べている。そして標題を「吹雪」とつけて読み返して見たところ、「綺麗な擬古文体で作り上げられた五十頁ばかりの短篇小説で、自分の従来の作品とはよほど趣が違っていた」と記している。

 

始めて体験した“文章を受信する”というインスピレーションによって、浅野は一篇の作品を書き上げたがそのメカニズムは長年の謎であったという。このインスピレーションで書かれた文章は、5年たっても10年たっても頭の奥に印刷されたかのように容易に消え去らなかったと述べている。のちに浅野が創作から離れた理由の一つがこの点にあった。それはインスピレーションで受信した文言が「心の帳面に永久に殖えるばかり、消えることがない」(注4)。それによる苦痛であった。

 

イ)文壇デビュー作「吹雪」

☆作品のあらすじ

浅野の文壇デビュー作品「吹雪」は、全体が美文体で綴られている。掲載誌の『帝国文学』は現在では入手困難であるが、筆者の手元に新聲社が明治32年に出版した『白露集』がある。これに「吹雪」が収録されているので参考にした。あらすじは次の通りである。

――常陸の山奥にある吉見峠、その奥の谷底深い場所で、七兵衛(60歳すぎ)は雪の中に埋もれた旅人を助け出して自宅に連れ帰った。遭難者の名は信次(江戸生れ)といい、商用で松前に出向き、江戸に帰る途中で事故にあった。みどり(七兵衛の孫娘)は、三月の間、重体の信次の看護にあたり、その間、病気平癒の神だのみをするために神社にも参詣した。いつしかみどりは信次を恋い慕うようになったが、信次には江戸に許婚がいた。

体が癒えた信次は、恋い慕うみどりの思いを振り切って江戸に戻った。帰宅した信次は、そこで許婚が柳橋の芸妓になった旨を知らされた。再び常陸の山里を訪れた信次は、その地でみどりの消息を聞いた。みどりは七兵衛が長年使用していた鉄砲と、失恋のために切り落とした自身の髪を社に納めて、行脚の旅に出たという。それを聞いた信次は髪をそり托鉢僧となって、みどりを追って行脚の旅に出た。

それから40年の年月が経過し、いつしか信次は老僧になっていた。あるとき老僧の信次は吹雪に出会い、その中で七兵衛に救助され、みどりに看病された日々を思い出していた。そして雪に埋もれ、息を引き取ろうとした時に、信次は老尼に抱かれる幻想を見た。老尼の姿が何時しかみどりの姿にダブっていくなかで信次は凍死していった――。

 

☆「吹雪」の書き出し

「吹雪」は華麗で巧みな擬古文で書かれている。その書き出しは「立てる華表(=神社の鳥居)はいくとせの雨にうたれ風にさらされけん。半ばくちてかたへに傾き、かけわたせる注連も亦、いつの祭りのなごりならん」で始まり、「華表のうちは老松すきまなく茂りあいて、枝に通ふ風のねは太古の響きを伝え、露にうるはう細路は千年の苔にうつもれつつ、あたりのけしき何となくものさびたるに、ひときは暗き奥の方にほの見ゆる鎮守のみやしろの、之も又古木と共に老い、落葉とひとしく朽ち果てて・・・・」このあたりの文章は練りに練って、装飾の限りを尽くした美文調の特徴が良く出ている。

 

ウ)インスピレーション

☆浅野の不思議体験

浅野の不忍池の「不思議体験」は、インスピレーション(霊感)体験であった。今回のケースでは浅野の創作に対する熱意が先行して存在しており、その熱意に感応した霊が“物語”をインスピレーションで送信してきた。それを浅野の潜在意識が受信して、受信した“物語”を物的脳がキャッチできる状態にまで顕在意識化させて(→頭に思い浮かぶ思念のこと。この思念を書き綴ること)、一篇の作品としてまとめられて、浅野の文壇デビュー作「吹雪」となった。発表された作品「吹雪」は、インスピレーションという形で送信してきた霊界人と、世に出した浅野との共著ということになろうか(→著作権との関係でいえば、物的社会の秩序維持のため浅野が権利者となったが)。

 

一般にこのインスピレーションのメカニズムは、霊界にいる送信者が地上にいる受信者の潜在意識に情報を送信して、その情報が受信者の顕在意識に上がってきて、物的脳に明確に感知されて言葉として綴られるという図式になる(→思念という霊的なものから言葉という物質への転換が行われる。多くの霊界通信は受信者の潜在意識によって大なり小なり色が付いている)。浅野の場合には潜在意識から顕在意識に上ってくる過程が、常人よりも優っていたため(→霊的に敏感であったため)、より明確に「不思議体験」として顕在意識化されて“物語”として綴られたということであろう。

 

一般にこのメカニズムを知らずに単に“違和感”として感知して、本人はその“違和感”によって行動を修正し、それによって難を逃れたというケース。または一種の“反射行動という形”で、無意識のうちに行動を修正して難を逃れるケースを私たちはしばしば見聞きする。このようなケースの場合は、霊界人から送信されてきた思念が“明確な物的形体”として顕在意識化されず、漠然とした“違和感”として存在し、本人はその不快な“違和感”によって行動を修正したケースであろう(→明確な思念という形をとって頭に思い浮かぶことはなく、いわば左脳に代わって右脳機能が優位となった状態で、理屈よりも直観として感知する状態)。

 

☆送信者は誰か、中身はどうか?

一般にインスピレーションを受信する際には、情報の内容が問題となる。よくあるケースとして生者や霊界人から送信されてきた情報を本人の潜在意識が受信して、顕在意識に上げる過程で、本人の中にある偏見や固着思想等によって受信した情報を歪めてしまう場合である。この場合は物的脳に歪められた状態で浮かび上がってくるため、その状態のまま受信者(情報の受け手)から色付き状態で外部に発信されてしまう。

 

送信者(情報の送り手)の霊的レベルが問題になるケースもある。本人の霊的レベルが低い場合や、低い感情に翻弄されている状態の時などは、未熟霊や悪意ある霊、生者からの「低次元の思い」を「同調の原理」から本人が受信してしまうケースがある。このようなケースでは受信した内容によっては、理不尽な感情に翻弄されてしまうこともある。

さらに“類魂の原初的な形態”とでも言える現象で、親和性の強い仲間の一人が有する“潜在的な願望”を、受信感度の良い他の仲間が拾ってしまい、それが受信者の顕在意識に「ひらめき」として上がってくる場合がある。

 

☆高級霊シルバーバーチの解説

インスピレーションについて、高級霊のシルバーバーチは次のように述べている。「あなたがた人間は受信局と送信局とを兼ねたような存在です」「人間にもそれぞれのフリークエンシー(周波数)があって、その波長にあった思想、観念、示唆、インスピレーション、指導等を受信し、こんどはそれに自分の性格で着色して送信しています。それをまた他の人が受信するわけです」「その波長を決定するのは各自の進化の程度です。霊的に高ければ高いほど、それだけ感応する思念も程度が高くなります。ということは、発信する思念による影響も高度なものとなるわけです」(注5)と述べている。

さらにインスピレーションとは「霊界の者がある種の共通の性質、関心、あるいは衝動を覚えて、自分がすでに成就したものを地上の人間に伝えようとする、はっきりとした目的意識を持った行為です」。そして「地上の音楽、詩、小説、絵画の多くは実質的には霊界で創作されたものです」(注6)と述べている。

 

霊界人が発した思念は、同質の性質を持つ地上人に引き寄せられて顕在意識に上がって、その人の“オリジナル作品”として世に発表されることになる。

ミュージシャンが作曲する際に、しばしば“楽曲が湧いてきた”とか、“音が天から降ってきた”などと語る場合がある。これは上記のことを指している。このようなインスピレーションの恩恵に与ったミュージシャンが、次第に物欲まみれの生活になっていくと、霊界人との霊的波長が合わなくなっていく。そしてインスピレーションが枯渇していく。その状態に焦りを感じたミュージシャンの中には、再び楽曲が湧いてくるようにと願い、薬物に手を出して転落して行く者もいる。

さらにケースによっては、インスピレーションを受信することは出来るとしても、受信者の自己主張が強く出てしまい、著しく内容が歪められてしまうこともある。このケースの場合は、霊界人から送信されてきた情報を本人の潜在意識が受信して顕在意識に上げる過程で、本人の中にある偏見や固着思想等によって受信した情報が歪められてしまう場合である。そのため送信者の霊界人の思念とは大きく異なって、俗悪性の強い楽曲として発表されるケースも多い。

 

☆通信の入手手段

一般に霊界からの通信を入手する方法には次のような形式がある。

<霊言によって受信>

このケースでは、霊界人が霊媒の発声器官を使って通信を送ってくる方法であり、高級霊シルバーバーチが「霊界の霊媒」を介して、地上側の霊媒モーリス・バーバネルの発声器官を使って送信した事例が知られている。

<自動書記によって受信>

このケースでは、霊媒の腕を使用して通信を送ってくる方法があり、英国国教会の牧師であったW.S.モーゼスの事例が有名である。

<霊感書記によって受信>

このケースでは、霊媒が霊感で感じ取ったものを(→精神状態を平静で受身の状態にさせて頭に思い浮かぶ思念を綴る形式)、書きとる形で通信を送ってくる方法である。この方法はG.V.オーエンの『ベールの彼方の生活』や、初期のSPRで活躍したマイヤースが死去後に霊界から送ってきた通信がよく知られている。

浅野の不忍池の「不思議体験」は、この「霊感書記による受信」のケースにあたる。

<霊界探訪によって持ち帰る>

このケースでは、霊媒体質者が指導霊の指示に従って幽体離脱して、幽界の出来事を霊的意識で見聞して、覚醒後にそれを(→霊的意識で見聞したことを)顕在意識に浮かび上がらせて綴る方法がある。F.C.スカルソープの『私の霊界紀行』(潮文社)はこの事例である。スエーデンボルグの「霊界探訪記」もこの事例だが、彼の場合は霊界で見聞した事柄を顕在意識に浮かび上がらせる段階で、潜在意識にある固着思想が強く影響を及ぼしてしまい、結果的にキリスト教的色彩の強い著書となってしまった。

 

エ)浅野に送信した霊界人とは

☆インスピレーションの送信者

不忍池で「恋する男女がふとした行き違いから結ばれずに仏門に入ってさ迷う」という“物語”を、インスピレーションで送ってきた霊とはどのような霊か。

一般に幽界に居住する霊は物質臭が抜けきれていないため、地上の人間と接触を持つことは容易である(→意識の焦点が物質から完全に霊的に切り替わる、その移行過程が幽界生活である。“明確な霊的自覚”が芽生えていない霊の場合は意識の焦点が物質的なモノに強く縛られている)。そのため地上に影響を及ぼしてくる霊のほとんどは、幽界に居住する霊である。このようなことから考えて、浅野の文壇デビュー作「吹雪」をインスピレーションで送ってきた霊界人とは、多分に文学癖のある物質臭の抜けきれていない、幽界に居住する霊であったのではないかと思われる。

 

☆「地ならし的」な役割を担った霊

浅野の創作活動(美文作家)は短期間で終了したが、その理由は何か。筆者は浅野が創作から離れて、評論や翻訳に向かっていった背景を次のように推察してみた。

この「吹雪」という物語の思念を発した文学癖のある霊は、浅野の霊的使命に対する「地ならし的」な役割を受け持っていたと考えられる。つまり浅野を指導監督する高級霊の下で、彼が潜在的に有する霊的感受性を高めることを目的として、さらには初歩的な霊的体験(インスピレーション体験)を積ませることを目的として、先駆けとして使われて感応してきたと言えようか。その期間が「美文作家時代」であった。

このように考えると、浅野の創作活動(美文作家)が短期間で終了したのは、所期の目的がすみやかに達成できたからであり、次に続く霊に交替したからであったと考えられる。

 

その後の浅野は「英文学者時代」の活躍によって名声を得たが、結局その名声も全て捨て去って、鎮魂帰神等の霊的な実地体験を積むために、当時“唯一の心霊道場”であった宗教教団の大本に入っていった(→次のステップに進むためには“心霊体験”が是非とも必要であったから)。捨て去った名声は皇道大本で、大本が飛躍的な発展をするために利用された。さらに名声ゆえに浅野は幹部として優遇され、そこで豊富な霊的体験を積むことができた。このように浅野は自由意志の行使によって「大本入信」とその後に続く宗教活動を行ったが、これによって「大本事件」という一大転機に見舞われてしまった。

結果的に浅野自身が誕生前に決意した再生目的に目覚めることができたという意味で、高い代償を支払うことになった「大本事件」の体験は、スピリチュアリストへの最短ルートであったといえる。

 

その後の浅野は、昭和2年(1926年)517日に大赦令が適用されて、「大本事件」による「不敬罪」は免訴となり、これによって「刑事被告人」という長年の精神的重圧から解放された。この昭和2年頃からISF大会から戻った昭和4年頃にかけては、日本におけるスピリチュアリズムが「黎明期」から「発展期」へと大きく飛躍するために、霊的環境(=霊的な面でのインフラ整備)が急速に整えられた時期であった。このように霊界側の準備と地上側の準備の両面が整ったことによって、地上における心霊状況は昭和4年以降大きく動くことになった。その後の浅野は「心霊研究(サイキカル・リサーチ)」から「神霊主義(スピリチュアリズム)」に軸足を徐々に移して、本来の再生目的であった「霊的知識の普及活動」に残りの地上人生を捧げていった。

このような流れから浅野和三郎の地上人生を振り返れば、「神霊主義者」へと続く道に誘ったのが「文学癖のある霊」であった。

 

オ)浅野の美文作品

☆美文とは

美文は明治30年代に全盛を極めた。文体は擬古文(優雅な文体である雅文)であり、内容よりも形式美を重んじたため、思想や感情を盛り込む文章表現の技法としては不向きであった。美文は自己の内面や現実をありのままに写しとろうとする自然主義文学(→代表的な作家としては島崎藤村が有名)の台頭によって、明治の末頃には次第に勢いを失った。

 

新潮社の創業者で1896年新聲社(新潮社の旧社名)を立ち上げた佐藤義亮(1878年→1951年)は「出版おもいで話」(注7)のなかで、「美文は帝国文学から発生した関係か、どうしても大学(=東京帝国大学)派専売の観があって、新聲社で出した泉鏡花、小栗風葉、田山花袋三氏の花吹雪などは評判にならなかった」と記している。

なお明治から大正期に発行された雑誌と大学の関係を見てみると、『帝国文学(明治28年創刊)』と『新思潮(明治40年創刊)』が東大系、『三田文学(明治43年創刊)』が慶応系、『早稲田文学(明治39年創刊)』と『奇蹟(大正1年創刊)』は早稲田系、『白樺(明治43年創刊)』が学習院大系となっている。

 

☆浅野の主な美文作品

浅野の主な美文作品(明治31年~32年頃)は次のとおりである。

馮虚道人著「吹雪」(明治31310日発行『帝国文学』に掲載)、

馮虚著「梅雨」(明治31610日・710日・810日発行『帝国文学』に掲載)、浅野馮虚著「谷川の水」(明治32110日、210日発行『帝国文学』に掲載)、

馮虚著「若木の桃」(明治32310日発行『帝国文学』に掲載)、

馮虚生著「血くもり」(明治32610日発行『帝国文学』に掲載)、

浅野馮虚著「おぼろ影」(明治3210月『新声』に掲載)など、

さらに少し時代がさがって馮虚生著「花見ぬ人」(明治36410日発行『帝国文学』に掲載)が、浅野の主な美文作品(注8)である。

この美文作品が頻繁に誌上に載った時期は、主に東京帝国大学在学中から卒業(明治327月)までの期間と、明治329月から明治331月まで東京商業学校で英語を教えた時期に当たる。

なお「浅野の発表作品と掲載誌」は下記を参照のこと。

http://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/06/post-f5b3.html

 

☆美文作品の評価

前述したように「吹雪」は華麗で巧みな擬古文で書かれていたが、「美文作家・浅野和三郎」の評価はどうであったか。

詩人で評論家の大町桂月(おおまちけいげつ:1869年→1925年)は、『文芸倶楽部』や『太陽』などに随筆を書き美文家として知られた人だが、浅野の「吹雪」を評して、小説の筋は「陳腐なり」「深き所なし」としたものの、全体的に見て「帝国文学の詞藻欄の散文の中にて、尤も面白しと感じたるものの一つとして、世に推薦するもの也」(『文芸倶楽部』明治315月)と評価した。

また大町桂月著「赤門文士に就いて」(明治348月)の中で「浅野馮虚の美文、殊に谷川の水の如きは、一代の絶品なり。戸沢姑射の小説美文、亦見るべし」(注9)と評している。当時の代表的な美文作品を集めた『白露集』にも、「血くもり」「谷川の水」「吹雪」の三篇が収められていることから、「美文作家・浅野和三郎」は極めて高い評価を得ていたようである。

 

しかし浅野が美文創作から徐々に離れていくに従って、批評内容に変化が出てきた。

漢学者で評論家の久保天隋(1875年→1934年)は美文家であり、多くの漢文評論や漢詩評論などを著しており、この方面で活躍した人である。久保は「赤門派の文士を評す」(明治347月『新文芸』)の中で、浅野と戸沢を批評している。「戸沢姑射・浅野憑虚の二氏の美文、均しく英文学の趣味に得たる者にして、文品また伯仲の間にあり。老練の妙に於いては、憑虚遂に姑射に一籌を輸すべきも、貼張の工に於いては、姑射却って憑虚に及ばず。姑射の文は、久早の名山、尚ほ空翠を流すが如く、憑虚の文は、半濁の渓流、飛沫僅かに白きが如し。二氏の文に病むところは、警句なく、一掉その勢を振起する底の霊想巧思を缺くにあり。故を以て、動もすれば、平板浅庸の幣あり、近日見るところ、殊に然りと為す。かくの如くして、往年の盛名を保つべしと為すか。二子願わくは旃を勉めよ」(注10)と述べている。

『帝国文学』は明治28110日に1号を発行して、明治36410日発行の雑誌がちょうど百号であった。この百号記念号は300頁を超える特集号となった。大町桂月は『帝国文学』百号記念に当たり、「醉言醒語」(明治365月:注11)という一文を『太陽』の「文芸時評」で書いている。この文中で「中頃の詞藻欄を飾りし姑射、憑虚の二氏、その割に進歩せざるは惜むべき也」と述べている。

この頃の浅野は創作の世界から離れて翻訳に移っており、また戸沢は教職に就いていた。

 

②.東京商業学校時代

☆浅野の腰掛け就職

浅野は文壇デビュー作「吹雪」を明治313月に『帝国文学』に掲載後、つづけざまに作品を発表している。大学卒業の年(明治32年)は多作であった。大学卒業後は一時期、新潮社の前身である「新聲社」の文芸雑誌『新声』の主筆となって文学の世界に身を置くと同時に、生活の糧を得るために夜間の商業学校で英語講師も務めていた。

 

その間の事情を『出盧』の記載が雄弁に物語っている。それによれば「大学の課程も終わりを告げ、否応なしに自分は広い世の中に押し出されてしまった。自分は在来の惰性が続いて居るので、其の後も筆を廃したわけではなく、『新声』という文学雑誌の主筆などを引受け、傍ら神田辺の学校に雇われて英語の教師をやって見もしたが、どれも余り面白くなかった。やがてふとした事で横須賀の海軍機関学校から招かれ、明治33年の春の初めに赴任することになった」(注12)と。極めて示唆に富んだ文章である。

浅野が勤務していた東京商業学校は、当時は生徒数が大幅に減少して経営難(→明治333月の在籍生徒は、1年生19名、2年生33名)の状態にあった(注13)。このことからも明治329月から翌年1月頃(?)まで勤めた浅野の“腰掛け的な講師”も簡単に辞職できたのだと思われる。

 

☆文芸雑誌の主筆

浅野は一時期文筆の世界に身を置いていたが、その間のことを新聲社の社長の佐藤義亮は『出版おもいで話』の中で「(浅野には)明治33年の上半期に『新声』の巻頭時評を書いてもらった」(注14)と述べている。この文芸雑誌『新声』の発行部数は明治35年頃(1902年頃)には1万部に達していたが、この部数は当時の純文学雑誌としては最大であった(注14)。

浅野は『新声』の主筆に携わるという形で作家生活を行っていたが、生活の糧を得るために大学を卒業した年の9月から「新聲社」の隣接地にある東京商業学校(夜間の商業学校)で英語講師を務めた。しかしこのような浅野の創作活動期間(=美文作家時代)も三年余りで終わり、その後は翻訳の世界に移っていった。

 

☆作家という職業

浅野が大学を卒業した明治32年頃の創作に携わる者に対する社会の評価はどうであったか。作家の伊藤整(いとうせい:1905年→1969年)は「近代日本の作家の生活」(注15)の中で、明治30年代(1897年~)の社会をスケッチしている。

 

伊藤によれば、当時は「官吏、大会社の勤め人、軍人、教師らは尊敬され、確実な生活を営むことができた」。しかし官立大学や軍関係の学校の出身者でない者、社会に反感を持つ者、落伍者的性格を持った知識人たちは、生活の保障は不十分であったが、自由に自己の意見を発表する機会がある新聞社や出版社(→博文館や春陽堂など)に籍を置いていた。当時は新聞小説が主流の時代であり、主な作家は長編小説の発表の場を確保しておきたいがために、何れも新聞社に籍を置き、記者兼作家というスタイルが一般的であったという。さらに伊藤は当時の記者兼作家の生活に関して、彼らは相当放縦であり、酒や女に浸るその日暮らしの遊蕩生活で、多くはまともな家庭を持っていなかったと記している。例外は軍医の森鴎外や官吏の二葉亭四迷、教員の坪内逍遥だが、彼らも勤務先での地位が上がるにつれて「小説を書くのが直接間接に拘束」されて筆をおいたという。

 

このように当時の社会は、作家だけで生活していくのは難しかった時代であった。伊藤整の前著によれば「晩年に中西梅花(なかにしばいか:32歳で死去)、斎藤緑雨(さいとうりょくう:36歳で死去)が窮乏生活に陥ったのは、いずれも彼らが新聞社における職を失ったのが原因であった」(注15)と記している。

島崎藤村は明治38年以降に作家として自立していったが、この頃から「自立した文士が出てくるようになった」。藤村は明治38年に小諸義塾(→長野県小諸市にあったキリスト教系の私塾で、明治26年に開校し明治39年に閉校した)の英語・国語の教師を辞めて上京して職業作家の道を選んだ。しかしこの時期に相次いで娘三人を栄養失調で亡くしていることから、藤村の生活は相当苦しかったものと思われる。なお夏目漱石は明治40年に朝日新聞社に入社して職業作家となったが、記者を兼任することによって生活の糧を確保した。

当時の作家が置かれた社会状況から考えて、浅野の作家生活と夜間学校の英語講師というダブルの職業スタイルは、当時の社会にあっては取り立てて珍しいものではなかったと思われる。

 

浅野と同様に『帝国文学』にたびたび作品を発表していた友人の戸澤姑射(戸澤正保:1873年→1955年、元東京外国語学校長)は、明治30年代頃の「小説戯曲類」に向ける世間の見方を「沙翁全集の思いで咄(上)」(注16)の中で述べている。それによると明治30年頃は、まだ文学に対する偏見が強く、明治40年頃になってやっと社会的認知を得ることができるようになったという。浅野が大学を卒業した年は明治32年であり、創作に携わる者に対する社会的偏見がまだまだ強い時期であった。

 

☆海軍機関学校に職を得る

浅野は『出盧』のなかで、また『近代文学研究叢書、41巻』でも大学卒業から海軍機関学校の教官となる部分は曖昧なままにされているが、筆者は浅野の「ふとした事」の真相を次のように推察してみた。

当時の社会にあっては出版社や作家という職業は社会的評価が低かった。浅野は東京帝国大学卒業の「学士」であり、社会の上層世界に出入りできる「有資格者」でもある。「お上意識」や「官尊民卑」的な風潮が強い明治期の社会にあって、卒業後もいつまでも腰の定まらない浅野和三郎に身内が心配になったことは容易に想像がつく。肉親の情愛が強く弟思いの海軍士官である浅野正恭は、奔走して弟のために社会的地位が高い海軍機関学校の教官の口を見つけてきた。このようなことが背景にあったのではないだろうか。

浅野和三郎は明治33127日に海軍省から海軍機関学校(注17)の英語学教授の嘱託を受けて、明治3336日に海軍機関学校の教官となった。一時期兄弟は武官と文官の違いはあるが、兄は明治33212日から明治35212日まで砲術練習所教官として、弟は英語学教授としてともに機関学校の教官の職にあった。

 

③.海軍機関学校時代

ア)浅野和三郎

☆横須賀での生活

浅野は明治33年(1900年)36日、海軍機関学校の海軍教授に任ぜられて英語学を担当することになった。そしてこの年の1126日に結婚した(和三郎26歳、多慶子17歳)。自伝では海軍教授就任を「呑気なもので、一寸行ってみる位のつもり」で、明治33年の春の初めに赴任したと記している。また浅野は大正5(1916)121日に退職するまでの17年間を、三浦半島の横須賀で「単調平凡というだけでつきてしまう」日々を過ごしたと述べている。

 

☆資料「海軍機関学校生活」

海軍機関学校が明治40年(1907年)12月に発行した『海軍機関学校生活』という珍しい本を、東京都立中央図書館(東京都港区)が所蔵していた。この本の序文を書いた学校長の山本安次郎少将によると、海軍機関学校の教官の浅野和三郎、市川俊雄、浦口善為(以上、文官)、神崎大尉、牧大尉、大貫大尉、藤江少佐、加茂大佐(以上、武官)の8名が編纂委員となって「海軍機関学校内部の生活状態を活写し併せて其の沿革変遷の大体をほうふつたらしめんとする」目的で編纂したという。8名の編纂委員は約1年かけて資料の収集にあたり、さらに写真を撮り、生徒には折々の感想文を書かせて、それらを編纂して明治4012月に海軍機関学校から出版された。

 

浅野は編纂委員の一人としてこの資料の作成と資料の収集にあたったと思われる。『海軍機関学校生活』の中に「学校の周囲」という一文が収録されている。この記事は三浦半島の旧跡を紹介しながら白浜にある海軍機関学校の位置関係を明らかにした内容となっている。記事の旧跡紹介では、嘉永6年(1853年)6月のペリー来航の地である浦賀の久里浜や、徳川幕府初期の外交顧問である三浦按針(=ウイリアム・アダムス)の墓(=長浦町にある按針塚)、そして後年の浅野夫妻の家庭交霊会の記録『小桜姫物語』の舞台である三浦半島の新井城の攻防戦の模様などが記されている。無署名の記事であるが、美文調のあとが見られる独特な文体から浅野が書いたのではないかと思われる。

 

☆教官(文官)の集合写真

この本の中に海軍機関学校の教官(文官)の貴重な集合写真がある。浅野の隣に顎鬚を長く伸ばしたエドワード・スタンリー・スティーブンソン(Edward S Stephenson)が写っていた。スティーブンソンは1871年生まれのイギリス人で、明治35年(1902年)101日から20年間機関学校の「雇教師」として勤務した。

 

日本海軍と外国人教師との取り合わせに多少の違和感を覚えるが、歴代の海軍機関学校の教官名簿を調べてみると次の各人の名前が記載されていた。明治3年(1870年)の太政官布告「海軍ノ制式ハコレヲ英式ニ」の関係からか、教官はイギリス系で占められていた。

明治28年(1895年)411日から明治33年(1900年)331日までの期間、イギリス人のジー・イー・グレゴリーが「雇教師」として勤務。明治30年(1897年)127日から明治34年(1901年)1130日までの期間、イギリス人のエー・アール・パチソンが機関少監として勤務。明治33年(1900年)331日から明治35年(1902年)930日までの期間、アメリカ人のシー・エム・ブラツドベリが「雇教師」として勤務。これらが記録上残っていた。時系列から見てブラツドベリの後任者としてスティーブンソンが就任したようだ。昭和になってからも英領マルタ島生まれで、ロンドン大学卒の.J.Inglottが教官として昭和4年から昭和14年まで務めている(注25)。このように海軍機関学校には明治から昭和にかけて、英国系の外国人が「雇教師」として勤務していた。

 

☆浅野和三郎とスティーブンソン

浅野はスティーブンソンが海軍機関学校の「雇教師」になった明治35年(1902年)101日以降、浅野が退職した大正5年(1916年)121日までの14年間、二人は同じ職場で英語担当の同僚として、親しく交流があった。この間、スティーブンソンはブラヴァツキー著『霊智学解説』やジョセフ・エッチ・フセル著『霊智学運動歴史の事実』を翻訳(共訳:注18)し、また逗子で神智学のロッジを運営して、明治・大正期におけるわが国の神智学普及運動の中心的な人物であった。浅野とは『Famous People of Japanancient and modern)』(出版社Kelly& Walsh Limited1911年刊)という書籍を共著で出している。

この期間の浅野は現実主義的な懐疑論者であったが、同僚のスティーブンソンから神智学の話を聞かされており、影響を受けていたと思われる。このことは浅野の心霊関係の著書の中で、しばしば使われている神智学用語の痕跡からも窺える。

 

浅野は大正4年の“息子の病気”がきっかけとなって「不可思議な世界」へ入っていくが、大正5年の春に出口王仁三郎や教祖の出口なおとの出会によって、筆先や鎮魂帰神の魅力に嵌って一層大本に傾斜していった。その頃から、浅野とスティーブンソンとの間で心霊に関して論争が行われるようになった(注19)。

浅野は、大正512月に海軍機関学校を退職して、京都の綾部に転居し大本教団の幹部信者となった。また機関誌『神霊界』の主筆として「大正維新運動」推進の当事者となっていった。その浅野のもとにスティーブンソンから長文の手紙が届いた。

 

スティーブンソンは浅野宛ての手紙の中で、「神霊との交通は有害無益であり、道徳的、肉体的に許すべからざる悪い結果を生ずる」「神霊の予言などは的中した例は皆無である」「鎮魂神懸りの法は名称の違いだけで従来世界各地に存在したものと同一である」等と述べて、ブラヴァツキーの著書『霊智学解説』に沿った形で、浅野の鎮魂帰神や交霊を批判した。

神智学の立場では亡くなった霊はこの世に帰ってくることは出来ず、しかも顕幽の交流も否定(→神智学とスピリチュアリズムとの最大の相違点)している。

浅野はこの批判に対して大本の機関誌『神霊界』(大正63月号)に、「霊の発動と其の目的」という一文を載せて反論した(注20)。浅野の反論の趣旨は大本の立場(→スピリチュアリズムの観点ではない)から、鎮魂帰神の正当性と教祖出口なおの筆先による予言の正確性を述べている。しかし両者の立場の相違から論点がかみ合っていない。

 

イ)芥川龍之介

☆芥川龍之介と海軍機関学校

浅野和三郎は大正5(1916)121日退職辞令により海軍機関学校を退職した。浅野の後任には同年7月に東京帝国大学英文科を卒業したばかりの芥川龍之介(1892年→1927年)が就いた。当時の芥川は就職の当てもなく「いい口があるまでぶらぶらしているつもりだ」とのん気に構えて9月に大学院に進学したが、12月に一高時代の恩師畔柳都太郎(畔柳茶舟)の世話で海軍機関学校の英語の嘱託教官として就職した(注21)。「気の弱いことが大きな欠点」の芥川は、鎌倉の和田塚に下宿して、大正8年(1919年)3月に辞職するまで海軍機関学校に勤務した(注22)。

 

☆上層部の信任が厚かった龍之介

海軍機関学校は大正7年に外国語の授業として、従来の英語のほかにドイツ語とフランス語が加わることになった。芥川はドイツ語教官に内田百閒(うちだひゃっけん:1889年→1971年)を、フランス語教官に豊島與志雄(とよしまよしお:1890年→1955年)を、それぞれ海軍機関学校の語学教官として推薦した。内田百閒は大正5年(1916年)から陸軍士官学校でドイツ語の教官をしていたが、芥川の推薦で海軍機関学校のドイツ語教官(嘱託)として、大正7年(1918年)から大正12年(1923年)まで週一回兼務した。豊島與志雄は推薦された当時は陸軍中央幼年学校の教官であったが、機関学校の嘱託教官になると幼年学校を退職した。

芥川は年も若く嘱託教官でありながら、機関学校の新設学科に迎える講師を自分の知友から推薦できたことは、校長などの学校上層部に信頼されていた証拠でもある。

なお「芥川龍之介と海軍機関学校」は下記を参照のこと。

http://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/06/post-3729.html

 

ウ)宮澤虎雄

☆宮澤虎雄と海軍機関学校

宮澤虎雄は明治19年(1886年)1月、東京麹町の下二番町で生まれ、昭和55年(1980年)1014日に94歳で亡くなった。虎雄の父栞は幕臣で、明治初期から大蔵省に勤務していた。虎雄は満6歳で小学校(尋常科4年、高等科4年)に入学したが、家庭で父と机を並べてランプの下で、儒教の経典である「大学」や「中庸」の素読、習字の手習いなどを受けたという。

明治324月に早稲田中学の2年に編入し、その後第一高等学校(理・農科)に入学した。さらに東京帝国大学理科大学に入学し、明治427月に物理学科を卒業して、早稲田中学で講師をしたのち、明治434月に佐野静雄(理論物理)の推薦で海軍機関学校の講師(嘱託教授)となった(注23)。

 

☆宮澤虎雄と浅野和三郎

宮澤虎雄が機関学校に赴任して間もなく、前例によって文官教官による新任の歓迎会が開かれた。この席に英語科の浅野とスティーブンソンを含む、文官教官10名(数学科3人、理工科4人、英語科3人)が集まった。宮澤は歓迎会で浅野和三郎とゆっくりと話すことができたという。その時の状況を「浅野和三郎さんと私とは年齢が12程の差があるが何となく気が合った」と述べている。

宮澤は大正24月に海軍教授になったが、その頃「特に浅野さんとは親しくなり、中里のお宅にお邪魔したり、夏には田戸や大津海岸に海水浴に出かけたり、又富士登山にも一緒に出かけた。その頃、浅野さんは同僚の豊嶋さんと共に英和大辞典の作成に努力されていた」と述べている。さらに宮澤は浅野和三郎の幼年時代を「正恭氏と浅野和三郎氏とは年が7歳も違うので、幼い時は浅野さんは兄におぶさったなどの事で、兄には頭が上がらなかった」と記して、正恭と和三郎との心理的関係を述べている(注24)。

 

☆宮澤虎雄と芥川龍之介

浅野の後任の英語の教官には芥川龍之介が就いた(嘱託教官)。宮澤は芥川について「話がよく合って物理教官室によく来て教官達と雑談をしていた。その話は彼の小説などの材料になっている」と述べている。その小説とは『寒さ』(大正134月)であり、作中で物理の教官室の場面で堀川保吉と共に登場してくる「眼鏡姿の宮本理学士」、この“宮本理学士”のモデルが宮澤であった。日本近代文学研究者の塚越和夫は、芥川の『寒さ』は「“保吉もの”の一つで、ごく短い作品だが、技巧の冴えの鮮やかな、きちんと整った仕上がりとなっている」と評価している。芥川は機関学校の教官を辞した後も、文官教官の懇親会の席に時折出席していたという(注25)。

 

☆世界一周

宮澤虎雄は当時としては珍しく、世界一周を二度行っている。一回目は大正98月であり、海軍機関学校の卒業生が乗艦した軍艦「浅間」と軍艦「磐手」の練習艦隊が、世界一周の遠洋航海に出た際に宮澤は海軍教授としてこれに同行した。

二回目の世界一周は、昭和512日横浜から日本郵船の太洋丸に乗って外国出張に出た。出発に先立ち前年の12月に、宮澤は浅野から西洋の心霊研究家に対する紹介状をもらった(注26)。

宮澤はサンフランシスコに到着後(昭和5114日頃)、大正11年に横須賀を去った元同僚スティーブンソン夫妻の移住先であるサンジェイゴ近郊のポイント・ローマを訪れた。宮澤はスティーブンソンから「機会があったら霊智学本部を訪問するように」と言われていたので、今回の外国出張の途中で「霊智学協会本部」のラジャ・ヨガ・スクールを訪問した。しかしスティーブンソンはすでに死去しており、夫人も留守であったので息子の鉄雄に学校を案内してもらったという(注26)。

 

④.英文学者時代の業績

ア)主な作品

☆評論・随筆作品(明治33年頃)

浅野が評論や随筆を発表していた頃、身辺に大きな動きがあった。明治33127日に海軍省から海軍機関学校の英語学教授を嘱託されて、同年36日海軍機関学校の教授となり、その年の11月には結婚して生活上の大きな転機を迎えた時期であった。

 

浅野の評論には、「文界時評」(明治331月、2月、3月『新聲』)や、『英文評釈』(新聲社、明治336月刊)などがあり、文芸批評を行っている。『英文評釈』ではワシントン・アーヴィングの「アルハンブラ伝説」と「スケッチ・ブック」の中の一遍を評釈したもので、浅野の『英文評釈』は明治の若い学生に人気があったという。

浅野の随筆には、「勝力の岬」(明治337月『明星』)、「海辺の逍遥」(明治3310月『新聲』)、「按針塚」(明治3311月『帝国文学』)、「汽車の数日」(明治342月『新文芸』)などがある。これらは横須賀や三浦半島の自然風物・名勝、旅を素材にした美文調のエッセイである。 

 

☆翻訳作品・英文学者(明治34年頃~)

浅野の創作期間は短く明治34年以降は、海軍機関学校の教官(英文学者・翻訳者)の生活に専念していった(注27)。

この期間の翻訳・著作は次のとおり。

・ワシントン・アーヴィング著『スケッチ・ブック』明治34

・チャールズ・ディケンズ著『クリスマス・キャロル』明治35

・オリヴァー・ゴールド・スミス著『ヴィガー物語』明治36

・シェイクスピア著『ベニスの商人』(シェイクスピア全集3巻)明治392

・シェイクスピア著『御意のまゝ』(シェイクスピア全集8巻)明治415

・シェイクスピア著『十二夜』(シェイクスピア全集10巻)明治4211

・浅野和三郎著『英文学史』(大日本図書、明治40年:1907年刊)

 

浅野が著した『英文学史』は、海軍機関学校の英語教官時代に約8年間かけて完成させて刊行したものである。また浅野は『シェイクスピア全集、第10巻』の翻訳以降、英和辞典の編纂にも取り掛かっていた。しかし「数人の助手を使って少なからぬ時日と労力とを費やし、九分通り完成していたが、新たに起こった霊的問題と世の立替立直しの前には、いかにもこの仕事の影が薄く見えて、今さらペンを執る気がしなくなった」(注28)と。このように辞典の編纂の仕事を大正5年に放棄してしまった。

 

イ)シェイクスピア全集

☆シェイクスピア全集の翻訳

シェイクスピア(1564年→1616年:沙翁)はイギリスの劇作家で詩人でもある。『シェイクスピア全集』については、明治385月から明治4211月にかけて出版された戸澤姑射と浅野憑虚訳の『沙翁全集』(全10巻:大日本図書)がある。しかし戸澤の病気のため10巻で中断(明治4211月)した(注29)。シェイクスピアの全集を実質的に全て翻訳したのは坪内逍遥(1859年→1935年)であった。逍遥は明治42年の『ハムレット』の翻訳から始まり、昭和5年『詩篇』で全40巻の翻訳を完成させた。

 

シェイクスピア研究家の飯島小平は「明治とシェイクスピア」の中で次のように述べている(注30)。

――明治のシェイクスピア翻訳中、戸澤姑射、浅野馮虚訳のシェイクスピア全集(未完)について一言しておく。故射・馮虚は共に東京帝国大学在学中ラフカディオ・ハーンの講義を聴講、ハーンがシェイクスピアを訳すときの心得として「先生諸生に勧めて曰く、汝が日常の言語を以て質朴に沙翁を翻訳せよ」と教示したとその序文中に記してある。逍遥の最後の口語訳もハーンが今日シェイクスピアを訳するなら、口語体で訳するが当然だと、語ったのを伝え聞いて逍遥も口語訳に移ったことを思いあわせるとき、ここにもハーンのすぐれた文才がみられる。浅野・戸澤は明治38年「ハムレット」訳に始まり「ロメオとジュリエット」「ベニスの商人」「オセロ」「リア王」「から騒ぎ」「ジュリアス・シーザー」「御意のまま」「行違い物語」「十二夜」と十冊を出して終わっているが、その訳は口語訳であり、当時としてはかなりくだけた清新な訳し方をしている。中でも「ハムレット」「御意のまま」は良訳である。当時逍遥の「ハムレット」は未だ第一幕四場までしか訳されていなかった――。

この文面から小泉八雲のシェイクスピアの翻訳に与えた影響の大きさが見えてくる。

 

☆画期的な翻訳

坪内逍遥が訳したシェイクスピアは「歌舞伎調的な訳」で「クラシックな訳」に特徴があり、戸澤と浅野の訳は逍遥の訳よりも訳者の個性を主張しない点で「現在の翻訳に近い感覚の文章といえる」と言われている。この訳の違いについて研究者は、ラフカディオ・ハーンから韻律にこだわらない口語的な翻訳を勧められたため「言文一致風の文章で戯曲を訳したから」であるという(注31)。

 

『シェイクスピア全集』について戸澤が7巻、浅野が3巻翻訳したが、評論家の松本健一は「(これは)日本で初めての全集であったこと」「二人とも美文創作の経験があって文章が練れていること」「英文の実力があったこと」「訳文が言文一致体という、当時の戯曲では画期的なものであったこと」(注32)などにより、両者の訳本は売れ行きが好調であったと述べている。なお浅野が訳したのは、第3巻『ベニスの商人』(明治392月)、第8巻『御意のまゝ』(明治415月)、第10巻『十二夜』(明治4211月)の3巻である。

 

ウ)その他の翻訳・著作

☆『スケッチ・ブック』と『クリスマス・キャロル』

浅野和三郎は明治34年に『スケッチ・ブック』(ワシントン・アーヴィング著)を訳した。アーヴィングの『スケッチ・ブック』には32編の短編とエッセイが入っているが、浅野はこのうち27編を上下2冊に分けて訳した。当時浅野の訳は「訳語の妥当、文章の流麗、解釈の丁寧、世既に定評あり」(注33)と評価されていた。

後年浅野はこの翻訳に関して次のように述べている。「私がスケッチ・ブックを訳したのは、やっと大学を終えたばかりの20代の時で、当時の風潮に連れて、極度の美文式の装飾をほどこし、今から見れば、少々あくどいところがあるが、あの翻訳を通じて、私に対する学生時代のなつかしい記憶を有する者が、何万人かにのぼるらしく『あなたのお蔭で・・・』などと間断なしに、各方面の人達から挨拶を受ける。よっぽど私と云う人間は、この書物と深縁があるらしい」と(注34)。

 

明治35年には『クリスマス・キャロル』(チャールズ・ディケンズ著)を訳したが、この著書の最も初期の翻訳家として浅野の名前が挙がってくる。資料によれば初期の翻訳として明治35年(1902年)に浅野和三郎が訳した『クリスマス・カロル』(大日本図書)と、同年の草野柴二が訳した『クリスマス・カロル』(尚文館)が記されている。この『クリスマス・キャロル』はその後多くの翻訳者によって翻訳されている。

なお浅野はアーヴィングやディケンズなどの著書を通して、西洋のスピリチュアリズムに関心を寄せたという。

 

☆英文学史

明治40年代までに出版された英文学史に関する著書で最初のものは、渋江保著『英国文学史』(明治2411月刊)である。比較文学者の小玉晃一や福田光治は、渋江の『英国文学史』には誤りや不備が多かったと言われているが、渋江自身が英文学者ではなく時代を考えればやむを得なかったと述べている(注35)。

浅野は『英文学研究書目』(注36)の中で、坪内逍遥著『英文学史』(明治34年)を「文章もよく親切であるが、近代に至りて頗る偏頗で不平均である」と述べている。さらに栗原基・藤沢周次著『英国文学史』(明治40年)については「簡にして要を摘みたるに近い」と批評している。

そして自ら著した『英文学史』(明治402月)については「これは自家の研究の副産物で、新奇の意見を立てるよりは衆説を集めて大成したもの、従って研究書目なども得るに従って一々列挙してある。斬新の意見を爰に求めようとすれば失望するが、普通にして、公平という事は大体において保たれている」として自賛している。

 

浅野の『英文学史』は英文学研究者にとって適切かつ親切な指導書として迎えられたという(注37)。『英文学史』には付録として、「米国文学史」と「英詩の種類及韻律法」が載っている。この中で日本においてはアメリカ文学の紹介がイギリス文学に比べてかなり少ないが(→大正末頃までは少なかったという)、その理由を付録の「米国文学史」の中で次のように述べている。

それはアメリカの歴史の浅さの問題とともに「(アメリカ)文学の方面においては、尚全然英文学の勢力の外に超越し得たりとは言い難きものあり」と。当時の見方は「一般にアメリカ文学は植民地の文学であり、イギリス文学の一支流と考えられていた」、このことが理由であると言う。

 

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― - ― ― ― ― ― 

<注1>

■雑誌『心霊と人生』昭和2623月号。

 

<注2>

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、24頁(10頁)参照。「自分はどうしても満足が出来ない。自分は書いては破り、破いては又書き、一高時代から大学の二年生時代に至るまで一篇の作物をも発表するに至らなかった」と記している。

 

<注3>

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、25頁~28頁(11頁~14頁)参照。

 

<注4>

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、28頁(14頁)参照。

 

<注5>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、8巻』(潮文社)39頁参照。

 

<注6>

近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、3巻』(潮文社)140頁参照。

 

<注7>

■佐藤義亮著「出版おもいで話」(日本ペンクラブ:電子文芸館)。以下のページを参照。

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/pdf/satogiryo.pdf

■浅野和三郎は文芸雑誌『新聲』の主筆として文学の世界に身を置いたが、この雑誌は佐藤義亮(さとうぎりょう)が明治29年(1896年)に秀英舎(後の大日本印刷)で校正係をしていた当時、仕事の合間を見て同年710日に第1号(発行部数800部)を創刊した雑誌であった。佐藤はこの雑誌を、牛込区左内坂町28番地「新聲社」(新潮社の前身)として発行した。その後「新聲社」は明治329月に神田錦町一丁目10番地に移転したが、この時期に浅野は大学を卒業して「新聲社」で主筆として携わることになった。佐藤義亮によると「(浅野には)明治33年の上半期に新声の巻頭時評を書いてもらった」(出版おもいで話)という。浅野は在学時に「古寺」や「雷雨録」をこの『新聲』に発表していたが、雑誌の内容は『文庫』と同じく文芸投稿雑誌であった。明治35年頃には1万部発行したが、純文学雑誌として当時は最大であったという。

 

<注8>

■発表作品と掲載誌

浅野和三郎が創作、評論、翻訳等を発表した文芸雑誌の中で、最も作品数が多いのは『帝国文学』である。

 

<注9>

■大町桂月著「赤門文士に就いて」(明治348月『新文芸』に掲載):『明治文学全集、41巻』(筑摩書房1971年刊)所収、378頁~381頁参照。

 

<注10

久保天隋著「赤門派の文士を評す」(明治347月『新文芸』):『明治文学全集、41巻』(筑摩書房1971年刊)所収、239頁~242頁参照。

 

<注11

■大町桂月著「醉言醒語」:『明治文学全集、41巻』(筑摩書房1971年刊)所収、196頁参照。『帝国文学、26、索引』(日本図書センター1981年刊)78頁参照。

明治36410日発行の『帝国文学(百号記念号)』には、桂月が「帝国文学の元老、もしくは元老の継続者の所謂三階送出也」と記しているように、井上哲次郎、上田万年、久保天隋、内ケ崎作三郎、土井晩翠、塩井雨江、戸川秋骨、芳賀矢一、戸沢姑射、高山樗牛、畔柳茶舟など、当時の著名人が名を連ねている(→『帝国文学(百号記念号)』の掲載者名より抜粋)。その著名人たちに交じって浅野和三郎の名前が載っている。このことの意味は、当時「美文作家・浅野和三郎」の評価は極めて高かったと言うことである。

 

<注12

浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、33頁(19頁)参照。

 

<注13

■東京学園高等学校編『回顧百年:東京商業から東京学園への歩み』(1989年刊)参照。

 

<注14

■佐藤義亮著「出版おもいで話」(日本ペンクラブ:電子文芸館)。以下のページを参照。

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/pdf/satogiryo.pdf

■浅野和三郎は文芸雑誌「新声」の主筆として文学の世界に身を置いたが、この雑誌は新潮社の創業者である佐藤義亮(さとうぎりょう:1878年→1951年)が明治29年(1896年)に秀英舎(後の大日本印刷)で校正係をしていた当時、仕事の合間を見て同年710日に第1号(発行部数800部)を創刊した雑誌であった。佐藤はこの雑誌を、牛込区左内坂町28番地の「新聲社」(新潮社の前身、実際は6畳一間の間借の下宿部屋)から発行した。その後「新聲社」は明治329月に神田錦町一丁目10番地の神田警察署長の官舎跡地に移転した。一時期浅野は「新聲社」で主筆として携わっている。佐藤義亮によると「(浅野には)明治33年の上半期に『新声』の巻頭時評を書いてもらった」と『出版おもいで話』の中で述べている。浅野は在学時に「古寺」や「雷雨録」をこの『新声』に発表していたが、雑誌の内容は『文庫』と同じく文芸投稿雑誌であった。明治35年頃には1万部発行したが、純文学雑誌として当時は最大であったという。

■『白露集』の巻末に「新聲社」の出版目録が載っている。この中に月刊誌『新聲』の広告が掲載されている。掲載文によれば「今の世青年雑誌と称するもの極めて多し。而もその内容を看れば、学術の講究を事として、滿紙乾燥無味の文字を以て埋め、突然中学校の科外講義の如きもの、滔々として皆然り。此間に在りて青年の志気の発揚を努め、優雅高潔の趣味の涵養に盡すものは只一つの『新聲』あるのみ。・・・大いに年少文士の投稿を歓迎して、之が為に誌面の大半を割く。・・・」とあり、『新聲』は青年のための文芸投稿誌である旨を謳っている。

 

<注15

■伊藤整著「近代日本の作家の生活」:坪内祐三編『明治文学遊学案内』(筑摩書房2000年刊)所収、74頁~75頁参照。

■新聞小説とは、毎日の新聞に数か月ないし数年にわたって連載される小説のことで、近代文学の発展と密接に関係している。浅野和三郎も『大正日日新聞』に大正9年(1920年)9月から大正102月にかけて「綾部生活の五年、第一部“出盧”、第二部“冬籠”」を連載している。

■縮刷版『大衆文化事典』(弘文堂1994年刊)402頁参照。

明治初期の大新聞(おおしんぶん)は政治ニュースを重視したのに対して、小新聞(こしんぶん)は巷のニュースや花柳界の話題に重点を置いた記事を取り上げて、それらを「しばしば“続き物”として掲載」した。明治中期以降、それまで連載小説を扱わなかった大新聞も載せるようになった。

■野崎左文著「明治初期の新聞小説」:『明治文学回想集、上』(岩波文庫1998年刊)100頁~158頁によれば、大新聞(おおしんぶん)は主に「国家の経綸にあって、もっぱら政府を反省せしむると共に、一方国民をも覚醒せしめんという主義の上から筆を執る」のに対して、小新聞(こしんぶん)は「政治にはほとんど無頓着」「男女間の痴情に関する記事など」を掲載する傾向にあったという(102頁)。現代に置き換えれば「一般紙」と「スポーツ紙」の違いであろうか。

明治10年代は、『日々』『報知』『朝野』『曙』『東京横浜毎日』が大新聞で、『読売』『絵入』『絵入自由』『絵入朝野(後に『中央新聞』と改題)』『自由燈』『有喜世(うきよ)』『改進』『いろは』『めざまし(後に『東京朝日』と改題)』『仮名読』などが小新聞として名前が挙がっている。

野崎左文著の前著に収録されている「新聞小説の嚆矢」によれば、「(絵入新聞)記者の前田夏繁氏が『金之助の話』という、三分の事実へ七分の潤色を加えた続き話を載せる事」になった。この続き話が「おそらく新聞へ小説を載せ始めた嚆矢」であると記している。その後小新聞は競ってこの絵入の続き物を掲げ、後には大新聞までがこれに倣ったという(106頁)。

 

<注16

■明治31年(1898年)4月に創刊された英語・英文学研究者向けの専門誌『英語青年』(研究者発行)の19507月号に掲載されている。

 

<注17

■海軍機関学校(Naval Engineering College)とは機関科の海軍将校を養成するエンジニア養成学校であり、海軍大臣に直属した海軍三校(海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校)の一つである。一般には「機関学校」や「海機」と略称されることが多い。

 

<注18

■ブラヴァツキー著『霊智学解説』(博文館1910年刊)、ジョセフ・エッチ・フセル著『霊智学運動歴史の事実』(自費出版?1911年刊)は共に、スティーブンソンと宇高兵作が訳している。

 

<注19

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、152頁(138頁)参照。

前著には「鎮魂は催眠術の一種であるから、直ちに禁止せざるべからずと息巻く霊智学徒もいた。自分(=浅野)はこれらの人々から忠告と攻撃の的となり、一時も早く鎮魂を中止せよ、大本を棄てよと迫られた」と。このような批判に対して浅野は「覚束ないながらも弁明を試みた」と記している。このように同僚スティーブンソンから忠告と批判があった旨が記されている。

 

<注20

■浅野和三郎著「霊の発動と其の目的」:復刻版『神霊界、1巻』大正63月号(八幡書店1986年刊)93頁~99頁参照(ただし頁数は八幡版)。

■浅野和三郎著「皇道大本略説」84頁~103頁:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)646頁~665頁に所収。

 

<注21

森本修著「芥川と経済生活」(19815月雑誌『国文学』に掲載):新文芸読本『芥川龍之介』(河出書房新社1990年刊)所収、66頁~71頁参照。

■芥川龍之介の教官就任は、最後まで「本官」にならず「嘱託」のままであったという。

 

<注22

■清水昭三著『芥川龍之介の夢』(原書房2007年刊)に海軍機関学校時代の英語教官の様子が描かれている(25頁~30頁参照)。

■内田百閒著「竹杖記」:内田百閒著『私の漱石と龍之介』(筑摩書房1965年刊)所収、196頁~216頁参照。

 

<注23

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(1)」:雑誌『心霊研究』昭和488月号。昭和4810月号。

 

<注24

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(3)」:雑誌『心霊研究』昭和4810月号。および「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(4)」:雑誌『心霊研究』昭和4811月号。「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(19)」:雑誌『心霊研究』昭和5011月号。

 

<注25

■志村有弘編『芥川龍之介大事典』(勉誠出版2002年刊)476頁の「寒さ」の項目参照。

宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(6)」:雑誌『心霊研究』昭和491月号参照。

宮澤は前著の中で芥川が海軍機関学校を辞職した理由を「芥川氏は機関学校より、英文英語担当の海軍教授たることを求められたので、これを嫌って教授嘱託を辞し、更に文学に専心するようになった」と記している。創作に携わる者として、世俗的な地位よりも自由を求めたのであろう。

■安田和生著「海軍機関学校の英語教育」:日本英語教育史学会、研究紀要『日本英語教育史研究』19号(2004年)89頁~106頁、所収。

――芥川は機関学校時代の見聞をもとに大正12年に5編の短編を発表、その一つに『寒さ』と題して物理学教官室での伝熱論の話を題材にしたものがあり、舞鶴時代に機関学校の主席文官となった物理学担当の宮澤虎雄教授がこの短編に仮名で登場しています(同教授の縁者である第53期斎藤義衛氏による)――との記述が94頁にある。

■外人の英語教官に関しては安田和生著「海軍機関学校の英語教育」(94頁~95頁)に次の一文がある。「教官は英領マルタ島生まれ、ロンドン大学卒のR.J.Inglott氏で昭和4年に着任」「時局緊迫による海軍の方針により昭和14年解職となっている」。この記載から昭和14年まで外人の教官が海軍機関学校で教鞭をとっていたことが分かる。 

 

<注26

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(7)」:雑誌『心霊研究』昭和492月号。および「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(12)」:雑誌『心霊研究』昭和499月号。

■宮澤はサンフランシスコに到着後(114日頃)、サンジェイゴ近郊のポイント・ローマを訪れた後、大陸横断鉄道でボストンにわたり、ボストン市リマ街十番地のクランドン邸を訪問(昭和5年の2月下旬)した。しかし霊媒マージャリー夫人はイギリスで心霊実験を行ってきて現在静養中とのことにつき、実験を見る機会には恵まれなかった。

浅野は国際スピリチュアリスト連盟(ISF)の大会に出席した帰路(昭和31017日)に、クランドン邸で行われた霊媒マージァリー夫人の実験会に立ち会っている(浅野和三郎著『世界的名霊媒を訪ねて』133頁以下)。

■宮澤は311日にニューヨークを発ってロンドンに向かった。65日ロンドンから汽車でクルー駅に着き、バスに乗り換えてウイリアム・ホープ(1863年→1933年)を訪問した。ここで宮澤はホープによって心霊写真を撮影してもらっている。クルー団のホープのことは浅野も『世界的名霊媒を訪ねて』(70頁以下)で報告している。

宮澤のイギリス滞在は3月中旬から6月中旬までであったが、公務の合間を縫って心霊研究の関係者を訪問している。その一つに英国心霊科学カレッジ(British College of Psychic Science)を浅野の紹介状をもって訪問した。その後フランス、イタリア、スイス、ベルギー、ドイツなども訪問している。宮澤はモスクを経由してシベリア鉄道を使って820日に東京に戻ってきた。

 

<注27

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、27頁~28頁(13頁~14頁)参照。

浅野はこの理由を「出盧」の中で述べている。「一旦インスピレーションによりて筆を執ったが最後、其の文句が自分の記憶にありありと印象されて、5年たっても10年過ぎても牢固として消え去らない」として、現在(大正9年時点)でも「吹雪」の一字一句までも記憶に残っているという。このことが次第に負担に感じてきて「自分が両三年後に全く創作を断念し、一時翻訳に遁れたのは、一つは文学者の生活というものに愛想をつかしたためでもあるが、一つは此の苦痛から脱出せんがためでもあった」と。当時の文士の生活はかなり放縦なため、厳格な家庭で育った浅野にはついていけなかったのであろう。

 

<注28

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、188頁(174頁)参照。大正51215日付の『英語青年』の「片々録の個人消息欄」参照。

浅野は「出盧」の中で「自分が十年ばかり以前から従事していた、英和辞書編纂の事業を打ち棄てたのもこの時であった」と述べている。また『英語青年』の「片々録の個人消息欄」にも英和辞典の編纂放棄の件が「それにしても古くから編集中であった英和辞典はどうなることであろう」との記載が載っている。

 

<注29

■戸沢姑射著「沙翁全集の思い出咄」:『英語青年』(19507月号・8月号)参照。

戸澤正保はシェイクスピア全集が中断した事情を「沙翁全集の思い出咄」の中で述べている。戸澤は熊本の五高時代(明治42年以降)に「脳充血で片耳の聴力を失った」。その時治療に当たった久保猪之吉博士(一高時代の同級生)は「爾後一切読むことを止めよ。書くことも止めよ。内耳やられて平衡感を損ねたから机に向って頭部を下に向けると、眩暈を覚えるだろう。だから机に向ってはならぬ」と。ドクター・ストップがかかったことが、翻訳を中断した真相であったと記している。

また戸澤は学生時代の明治31年頃に、高山樗牛が編集をしている『太陽』(博文館発行)にシェイクスピアの四大悲劇の一つである「マクベス」を翻訳して掲載した際に、翻訳に関して識者からだいぶ批判を受けたという。その時「高山樗牛氏は私を慰めて、どうせ字引と翻訳は後から出るものほど良いに決まっておる。初めから完全なものは決してない。捨て石になる積りでやれ」と激励されたとのこと。後に戸澤が『シェイクスピア全集』を翻訳する仕事に就いた時、翻訳の過程で行き詰った際に高山樗牛の言葉を思い出して仕事を続けたという。

 

<注30

■研究社出版1968年刊『日本の英学100年』明治篇、178頁参照。

 

<注31

■戸沢姑射著「沙翁全集の思い出咄」:『英語青年』(19507月号・8月号)参照。

 

<注32

■松本健一著『神の罠―浅野和三郎、近代知性の悲劇―』(新潮社1989年刊)96頁参照。

 

<注33

■明治34927日『青年』参照。

後に掲載誌の『青年』は『英語青年』に改題された。

 

<注34

■浅野和三郎著『世界的名霊媒を訪ねて』(心霊科学研究会1970年刊)14頁参照。

 

<注35

■研究社出版1968年刊『日本の英学100年』明治篇、83頁以下参照。

 

<注36

■『東亜の光』44号(明治42年):『近代日本英語・英米文学書誌、第5巻』(ゆまに書房1995年刊)所収。

 

<注37

■昭和女子大学近代文学研究室著『近代文学研究叢書、41巻』(1975年刊)、419頁以下。

 

 

◆浅野和三郎研究:目次

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