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浅野和三郎の「神霊主義」:その2

目 次

 

①.スピリチュアリズムの本質

ア)「スピリチュアリズムの本質」に対する理解

・「日本神霊主義」は「ローカル・スピリチュアリズム」

・「高級霊界発の霊的刷新運動」と「霊的成長の実践運動」

イ)浅野和三郎訳『霊訓』の特徴

W.S.モーゼス著『霊訓』の霊界側の意図

・浅野訳『霊訓』

・「スピリチュアリズムの本質」に対する訳

・浅野に批判的な一つの説

ウ)前説に対する浅野擁護論

・国民性や文化の違いの差

・翻訳は解釈

エ)スピリチュアリズム思想と「国体」論

・「国体」とは

・国体論に基づく思想統制

・スピリチュアリズム思想

・体制内思想として弾圧を回避した

<マルクス主義思想>

<共通するキーワード>

<一元的な神秩序に反する思想>

<弾圧回避の方法>

オ)浅野のスピリチュアリズム観

・伝統的な定義

・“時代の申し子”の浅野を抜擢した

 

②.「家族の実態」と「家族制度」について

ア)「家族」という言葉

・家族の実態

・家族制度

イ)家族国家観(擬似家族、家族国家イデオロギー)

・疑似家族

・家長を中心とする

・家族国家観

ウ)「家族制度」について

・「家」制度の創設

・二つの大改革

・明治民法

エ)「家」制度の形骸化

・社会の流動化

・保守派の危機感

 

③.浅野が唱えた「大家族主義」とは

◆この項目の概要

ア)浅野の「大家族主義」

・大本時代の「大家族主義」

・スピリチュアリストとしての主張

イ)「大家族主義」の検証

・問題点その1:未分離の状態で二つの概念が同居

・問題点その2:霊界と不完全な現実世界との混同

・問題点その3:天皇制イデオロギーとしての「家族国家観」

・問題点その4:祖先崇拝と結びついた

ウ)浅野の「大家族主義」思想の果たした役割

 

<注1>~<注17

 

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①.スピリチュアリズムの本質

ア)「スピリチュアリズムの本質」に対する理解

☆「日本神霊主義」は「ローカル・スピリチュアリズム」

浅野には「日本国民の精神的指導原理―日本神霊主義の提唱―」(注1)という論稿がある。この論稿では「(万世一系の天皇の)皇位の継承」「日本の国体」「敬神崇祖」などに言及しながら、浅野が主張した「大家族主義」を当時の支配思想である「家族国家」観に沿った形で述べて、これを「由緒正しき国民道徳」と位置付けている。また論稿では「日本精神・日本思想」と「神霊主義」は同義語であり、「日本思想とスピリチュアリズムは主要な点でことごとく一致している」(注2)とも述べている。そして自らを「心霊学徒であると同時に日本の伝統的精神の祖述者である」として、「日本の伝統的な祖霊観や霊魂観」に立ってスピリチュアリズムを説くと明言した。さらに別の著書『心霊研究とその帰趨』でも、「スピリチュアリズムは西洋の神霊主義、神霊主義は東洋のスピリチュアリズム」(注3)であると述べている。

ここから浅野が唱えたスピリチュアリズムには「伝統的な祖霊観や霊魂観を基調とした日本精神や日本思想」=「日本神霊主義または神霊主義」=「スピリチュアリズム」という関係性が見えてくる。このように浅野が述べた“スピリチュアリズム(日本神霊主義または神霊主義)”には、神道(→昭和20年までは非宗教扱い)や日本の伝統的な習俗、さらには時代の支配的な思想たる「近代天皇制イデオロギー」などの国家思想から強い影響を受けていることが見られる。

 

本来スピリチュアリズムは、西洋や東洋とかの地域性や各種宗教などを超越した普遍的な思想であり知識である。普及という観点に立つならばスピリチュアリズムは「高級霊界発の地球を霊的に刷新する運動」となる。これに対して浅野の論稿である「日本国民の精神的指導原理―日本神霊主義の提唱―」における論述には、「近代天皇制イデオロギー」が支配思想であった時代を想起させる記述に満ちている。そして論稿ではスピリチュアリズムを「天皇制国家思想(天照大神→天皇→国民)」の枠内に置いて、国家神道の「体制内思想」としている。このような形でスピリチュアリズムを説いた最大の理由は、厳しさを増していく時代の空気と(→当時は国家神道体制による公認の神々以外は一切認めず、これに反するものは軒並み弾圧された)、浅野が「大本事件」から得た教訓にあった。

出口王仁三郎は「大本の教理」を諸宗教の上に君臨する「超宗教的なもの」として、積極的な普及活動を展開した。このことが主たる要因となって権力から徹底的に弾圧された。そのため浅野は「超宗教的・公共的な普遍的思想」であるスピリチュアリズムを国家神道の「体制内思想」として位置付けた。このような点から見て和製スピリチュアリズムは民俗的色彩や地域性の強いローカルなスピリチュアリズムである。

 

☆「高級霊界発の霊的刷新運動」と「霊的成長の実践運動」

スピリチュアリズムには二つの視点がある。つまり「霊界主導で地球を霊的に刷新する運動」というAの視点と、「地上人類が霊的成長を図っていく」というBの視点である。

浅野は『心霊講座』(昭和3年刊)において、モーゼスの『霊訓』やステッドの『ジュリアの音信』、オーエンの『ベールの彼方の生活』、アラン・カルデックの『霊媒の書』(→『霊の書』は不明)などを引用している。その後イギリスからマイヤースの『永遠の大道』や『個人的存在の彼方』を取り寄せて翻訳している。浅野はこれらの著書から「スピリチュアリズムの本質」を読み取ったと思われる。

 

ここで問題となるのは、この時期に流入した「純粋なスピリチュアリズム(=スピリチュアリズムの本質)」は、その後スピリチュアリズムの世界から消えてしまって、日本の「伝統的な祖霊観・霊魂観」と習合したスピリチュアリズムになってしまった、これはなぜなのかということである。二通りの考え方ができる(→前述した内容と一部重複するが)。

 

一つは浅野の著書を読む限り「神霊主義の実践」を説いていたので、上記「Bの視点」についての理解はあったと思われるが、上記「Aの視点」についての「明確な理解」が不十分であったと言う考え方である。

もう一つは、大本事件によって国家権力に楯突くことの愚かさを、身を持って体験した浅野は、スピリチュアリズムを後世につなげていくために、あえて支配思想であった「家族国家」観の中にスピリチュアリズムを組み込み、当時猛威を振るった「国体論」の嵐をかいくぐったという考え方である。

まず前者の説から検証していく。

 

イ)浅野和三郎訳『霊訓』の特徴

W.S.モーゼス著『霊訓』の霊界側の意図

英国国教会の元牧師であったW.S.モーゼスの著書『霊訓』における霊界側の意図は何か。著書によれば高級霊のインペレーターからの通信は、1873年に始まって1880年まで続いたが、その大部分はモーゼス自身の「指導と教化を意図した私的な」通信であった。そしてその通信はモーゼスに対して「知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示す」というスピリチュアリズムの目的に沿ったものであったという。

 

このような中で特に「キリスト教神学」がテーマとなった場合には、次のような形がとられた。「スピリチュアリズムVSキリスト教」の場合に、インペレーターは筋金入りの英国国教会の元牧師であったモーゼスをキリスト教側の代表(→いわゆる“たたき台”的な役として)として地上側に立たせた。

両者の“論争”を通して「キリスト教的ドグマの誤謬を浮き上がらせる」という手法をとったインペレーターは、霊的真理から見た場合のキリスト教の問題点を指摘した。“論争”はインペレーター霊団の総引き上げ一歩手前まで進んだが、最終的にモーゼスは自由意志の行使により霊的真理を受け入れた。モーゼスとの“論争”に成功したことによって、霊団側は純粋な霊的教訓をキリスト教社会に根付かせる足掛かり、いわゆる「霊的橋頭堡」を構築することができた。

 

なお霊団は自動書記を通して霊的教訓を一方的に述べるという方式をとらず、両者の“論争”形式をとったことによって文体に緊迫感が生まれている。この結果『霊訓』を手に取った読者は、モーゼスの葛藤の経緯を読むことによって、自然な形で霊界からの指導・教化が受けられるようになっている。

モーゼスの『霊訓』は、ともすれば「スピリチュアリズムVSキリスト教」を中心とした霊訓といった観点からのみとらえがちになるが、インペレーターは『霊訓』の中で「スピリチュアリズムの本質」を説いている。その結果、当時の現象中心のスピリチュアリズム運動に、思想面で一大転機をもたらすことができたわけである。この意味でモーゼスの『霊訓』は、スピリチュアリズムの世界において確固たる地位・金字塔を打ち立てたといえる。

 

☆浅野訳『霊訓』

モーゼスの『霊訓』全般を原書で読んだ浅野は、当時の日本の社会風潮から見た『霊訓』の受容可能性の問題、さらに自身の翻訳に割ける時間などを考慮して、全文訳とするか抄訳にとどめるかの選択をしたと思われる。そして浅野は「原本はなかなか大部のものであるから、ここには単に要所だけを紹介するに止める」と断って、抄訳の形で『霊訓』を翻訳した。

 

浅野和三郎が翻訳している箇所を、以下において目次順に近藤千雄の訳と対比してみた。

・「幽明交通とその目途」は、近藤千雄訳『霊訓』の1節の一部に対応する。

・「健全な生活」は、近藤千雄訳『霊訓』の2節の一部に対応する。

・「幽明間の交渉」は、近藤千雄訳『霊訓』の3節の一部に対応する。

・「各種の霊媒能力」は、近藤千雄訳『霊訓』の5節の一部に対応する。

・「幽明交通と環境」は、近藤千雄訳『霊訓』の6節の一部と対応する。

・「夫婦関係」は、近藤千雄訳『霊訓』の6節の一部と対応する。

・「真の宗教」は、近藤千雄訳『霊訓』の7節の一部と対応する。

・「神霊主義」は、近藤千雄訳『霊訓』の8節の一部と対応する。

・「啓示の真意義」は、近藤千雄訳『霊訓』の9節の一部と対応する。

・「進歩的啓示」は、近藤千雄訳『霊訓』の10節の一部と対応する。

・「審神の要訣」は、近藤千雄訳『霊訓』の11節の一部と対応する。

 

☆「スピリチュアリズムの本質」に対する訳

モーゼスの『霊訓』の近藤千雄訳では「スピリチュアリズムはかつての福音の如き単なる見せかけのみの啓示とは異なる。地上人類へ向けての高級界からの本格的働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済でもある。それを総合するものがスピリチュアリズムに他ならない」(注4)、「そなたの言説を聞けば少なくともそなたの知力はわれらの仕事の本質を理解しておらぬことが判る」(注4)、「イエス・キリストの指揮のもとに新しき福音を地上にもたらすことがわれらの使命なのである」(注4)など、「スピリチュアリズムの本質」を述べた箇所が訳されている。しかし浅野和三郎訳(『霊訓』復刻版:潮文社1985年刊)では、この箇所は訳されていない。

 

☆浅野に批判的な一つの説

浅野訳の『霊訓』の翻訳状況から、さらには雑誌『心霊と人生』に発表した論稿の内容から見て、浅野は「スピリチュアリズムの本質」の「Aの視点」に対する理解が不十分であったとの考え方がある。この考え方に立つ者は、次のような根拠をあげて、自説の正当性を主張するのではないだろうか。

 

浅野の翻訳状況から推察するに、浅野はモーゼスの『霊訓』を「スピリチュアリズムVSキリスト教」を中心とした霊界通信として読み取った可能性が高く、この著書が持つもう一つの側面である「純粋なスピリチュアリズム」の普及・啓蒙という側面は、的確に読み取ってはいなかったと。

なぜなら浅野が翻訳するにあたって、「スピリチュアリズムの本質」の「Aの視点」に対する深い理解と重要性を認識していたならば、「近代天皇制イデオロギー」や「神国思想」(注5)といった当時の支配思想や社会風潮に配慮したうえで、受け入れ可能な表現を使って、なんらかの形で翻訳をしたであろうと思われるから。

 

さらに次のような箇所も指摘するであろう。浅野は、スピリチュアリズムの「霊的大家族」や「霊的同胞」という概念を、「世界同胞主義や人類愛善主義」と呼んで批判したではないかと。この浅野の発言の背景には、当時の政治的あるいは社会的風潮として「西洋的価値観の否定」があったにせよ、浅野は「スピリチュアリズムの本質」の「Aの視点」に関して的確に理解していなかったと。そのため一時「純粋なスピリチュアリズム」の視点に配慮した論稿が見られたが、浅野の「スピリチュアリズムの本質」の「Aの視点」に対する理解が不十分であったため、次第に“時代の空気”に迎合した論稿が主流を占めるようになってしまったと、主張するであろう。

 

上記の考え方をさらに発展させると次のようになる。

浅野のスピリチュアリズムの理解の仕方は、地上から霊界を覗く形の地上的視点に立った理解であり、そのため結果的に時代の支配思想と結びついてしまったとも云える。ここから教訓としてスピリチュアリズムの定義に「スピリチュアリズムの本質」の「ABの視点」の正しい理解がないと、スピリチュアリズムは地上のさまざまな宗教や思想と結びついて、たやすく変容してしまう。スピリチュアリズムの純粋さの保持という観点からは、「スピリチュアリズムの本質」の「ABの視点」は譲れない一線である。

浅野にはこの点の正しい理解はなかった。そのためモーゼスの『霊訓』などの形で、イギリスから流入してきた「純粋なスピリチュアリズム」は、日本の伝統的な祖霊観や霊魂観によって掻き消されてしまったと。このような論理展開で浅野批判をしてくるであろう。

 

ウ)前説に対する浅野擁護論

☆国民性や文化の違いの差

筆者は上記には批判的意見を持っているので、少し浅野を弁護したい。

現在では異なる文化圏を比較研究して、文化や社会構造を研究する「文化人類学」が発達しているので、同じ書物を読んでもそこから受け取る印象は、キリスト教をバックグラウンドに持つ西洋の人々と、「神道は非宗教である」とする文化をバックグラウンドに持つ戦前の日本人との間では、大きな違いがあるということは容易く理解がいく。

当時は現在以上に、日本と西洋では国民性の違いや文化の違いが際立っていた時代であった。両地域において問題意識を共通に持つという段階までは人類は進化していなかった(→現在は洋の東西を問わず「地球環境」というテーマで通じ合えるが)。

 

戦前の「神国思想」全盛の時代、また「神道は国民道徳であり非宗教である」という時代に生きた浅野と、同時代人であるキリスト教圏のコナン・ドイルとでは、同じモーゼスの『霊訓』を読んでも受け取る印象や理解の仕方は必ずしも同じではない。なぜなら双方のバックグラウンドや両者の問題意識が異なるからである。当時の浅野には「近代天皇制イデオロギー」や「神国思想」といった支配思想から距離を置くことは無理であった。そのため同じ『霊訓』を読んでも、教訓として読み取る箇所は当然に異なってくる。

 

☆翻訳は解釈

翻訳者といえどもバックグラウンドが異なる書物を日本語に移し替える際には、よほど全体を理解して深読みした上で訳さなければ、ポイントがずれた翻訳になってしまう(注6)。また浅野には日本におけるスピリチュアリズムの「黎明期」から「発展期」にかけて、霊的環境整備に向けて行うべき仕事が多く、翻訳のみに没頭するだけの時間的余裕はなかったはずである。

 

21世紀に生きる私たちは、モーゼスの『霊訓』から『シルバーバーチの霊訓』に至る霊訓の系譜や、18483月のハイズビィル事件以降、現在に至る霊的潮流を概観して、霊界側の意図を推し量ることができるという恵まれた立場にいる。このような全体を見渡せる立場の人間が、限られた情報にしか接することができなかった過去の人物を評価する場合に、無意識のうちに現在のわれわれと同水準の理解ができるはずとの前提で、その人物の事跡を論じてしまうことがある。時代的な制約という“枷”の存在は大きいので、注意しなければいけない。

翻訳は解釈と言われるが、モーゼス著『霊訓』の近藤千雄と浅野和三郎の翻訳の差は、スピリチュアリズム全体を見渡せる場所にいた者か否かの違いである。さらに厳しい時代環境の中で権力からの介入を回避して(→事前検閲制度があり、内容如何によっては発禁処分に付される可能性があった)、先駆者としてスピリチュアリズムの“命脈”を後世につないでいく使命があり、そこに苦慮しながら翻訳しなければならなかった点も配慮しなければならない。

 

以上は、浅野和三郎は「スピリチュアリズムの本質」に対する理解が不十分であったと言う説の紹介と、この説に対して「国民性や文化の違いの差」や「翻訳は解釈」という観点から、筆者の浅野擁護論を述べてみた。

次にもう一つの考え方、浅野はスピリチュアリズムを後世につなげていくために、あえて当時の支配思想の中に組み込んだと言う筆者の考え方である。

 

エ)スピリチュアリズム思想と「国体」論

☆「国体」とは

「国体」という言葉は、国の組織や形体を指すものとして古くから使われてきた。その言葉が日本民族の特殊性を指す「万世一系の天皇統治を根拠にして、日本の伝統的特殊性と優越性を唱える思想」という用例で用いられるようになったのは、幕末の対外的危機意識がきっかけであった。

会沢正志斎は1824年に、水戸藩北部の大津浜にイギリス人が薪水を求めて上陸した際に筆談役を務めた。この事件をきっかけとして翌年に『新論』(1825年)を著した。正志斎は『新論』の最初の章に「国体」を設けて「万世一系の天皇支配」「天皇の国民に対する限りない親密性」「自発的でやむにやまれぬ奉公心」などを述べて、「国体」の用語を天皇制的な意味で用いた。儒学者であった正志斎は『新論』を儒学理論によって執筆したため、儒学を基礎教養とする武士に受け入れられて、国体論が思想として普及する端緒を作った。

 

☆国体論に基づく思想統制

正志斎の『新論』における天皇統治を含む国体論は、吉田松陰や大久保利通たちを通して、明治政府の指導者に受け継がれて、天皇制国家の下での教育政策や国家秩序を支える理念となっていった。

明治22年(1889年)には「天皇は神聖不可侵」「国の元首として統治権を総攬する」とした「大日本帝国憲法」が公布された。翌年には「教育勅語」が制定されて、「御真影(=天皇と皇后の写真)」とともに「天皇制教育推進のための主柱」となった。明治期を通して帝国憲法と教育勅語は「国体の経典」とされて、徐々に「国体論の不可侵性」が強まっていった。

 

二・二六事件に連座して処刑された思想家の北一輝(1883年→1937年)には、「君臣一家論」や「皇統扶翼論」を強い調子で批判した著書『国体論及び純正社会主義』(1906年:明治39年)があるが、この著書は出版後ただちに発禁処分を受けている。

戦前の昭和期に猛威を振った「治安維持法」は大正14年(1925年)に公布され、昭和3年(1928年)に改正されたが、この法律は「国体」を前面に押し出して「国体の変革」をはかる結社の活動や個人の活動に対して厳罰主義で臨んだ。

昭和6年(1931年)の満州事変以降、「国体」という言葉が社会に溢れ出した。大きな転換点となったのは「天皇機関説事件」(1935年)であった。大正期から昭和初期にかけて「国家の統治権は法人である国家に属し、天皇はその最高機関である」とする天皇機関説は学会では通説となっていた。しかし「国家の統治権は天皇にあるとする」天皇主権説の立場から天皇機関説は攻撃されて事件となった。時の政府は193583日に「国体明徴の声明」を発表して、日本を「皇室を宗家とする一大家族国家」であると規定した。

 

明治憲法(=大日本帝国憲法)では「思想・信教の自由」(26条、28条、29条参照)が保障されていたにもかかわらず、政府は天皇制(=国体)に反するような教義や思想を持つと思われる団体や個人を、不敬罪の規定、治安維持法の適用、警察犯処罰令、出版法、新聞法などを使って軒並み摘発した。言論集会や結社も自由ではなかった。各種取締法を使い参加者をチェックすると同時に内通者を通して組織内の発言内容もチェックした。「国体」に反する思想の普及を目的とした団体や、国策に忠実な団体であっても独自解釈をする団体などは真っ先に狙い撃ちされて(→第二次大本事件、「ほんみち」不敬罪事件、「ひとのみち教団」事件など)、国民は事実上天皇崇拝と神社参拝(→当時の政府は「神社ハ宗教ニアラズ」という見解を示した)が強制された。ポツダム宣言受託の際にも「国体」が問題にされた。このように戦前の日本では「国体」に関わる発言は許されなかった。

 

☆スピリチュアリズム思想

スピリチュアリズムでは、地上における基本的な学びとして「①人間は霊であること」「②死後にも個性が存続すること」「③顕幽の交流はたえず行われていること」などの理解が求められている。これらは「霊魂説」と言われているものであり、交霊会や物理的心霊現象の実験会などによって明らかにされた事柄である。この「霊魂説」を証明するための「科学的アプローチ」が「心霊研究(サイキカル・リサーチ)」である。

 

スピリチュアリズムでは、上記①②③の理解を前提(=土台)として、その上に高級霊からの霊界通信によってもたらされた「スピリチュアリズム思想(哲学)」が存在する。この思想には「④自我の本体に神の分霊が宿る(→人類は神のもとで兄弟姉妹を構成している、人間は皆平等である)」「⑤因果律の法則」「⑥個別霊として永遠に進化向上の道を辿る」「⑦自由意志と自己責任」などがある。この④~⑦は交霊会や物理的心霊現象の実験会などを通しては伝えることはできず、高級霊から霊界通信という形で教えてもらう以外に私たちは知るすべを持たない事柄である。この中で「国体」との関係で問題視されるのは上記④である。

 

☆体制内思想として弾圧を回避した

<マルクス主義思想>

19世紀後半以降、社会主義思想は世界各地に広まったが、日本でも改造社から『マルクス=エンゲルス全集』(1928年~1935年刊、全32冊)が発刊されて、思想界に大きな影響を及ぼした。日本における社会主義思想の影響力の大きさは、当時の主要な国の中でも際立っていた。マルクス主義の浸透に強い危機感を持った時の政府は、「国体」論を前面に出した施策で国民に対する締め付けを強めていった。政府の危機感の強さは、内務省による「治安維持法に基づく思想弾圧」、文部省による「学校教育を通した思想統制」、軍部による総力戦に向けた国内引き締め等の施策が、満州事変以降次第に強まっていったことに表れている。

 

<共通するキーワード>

マルクス主義思想は「階級」という観点から世界を解釈して、国家と社会のシステムを分析すると言う思想であり、同時にその観点から社会の変革の道筋を提示した。これに対してスピリチュアリズムでは、霊性レベルという観点から宇宙を解釈し、地上世界を個別霊が霊性レベルの向上を図るための「学校」と位置付けた。そして宇宙に遍満している霊的エネルギーをふんだんに地上世界に流し込み、この世界を席巻している唯物主義と利己主義というガンを根治する処方箋を提示した。双方に共通するキーワードは「社会変革=国体の変革」である。

 

<一元的な神秩序に反する思想>

霊的摂理は当然に諸宗教の全てのベース部分に存在する法則である(→現状は様々な地上的な夾雑物によって押しつぶされているが)。そこからスピリチュアリズム思想は「超宗教的・公共的な思想である」との考え方が出てくる。当然に国家神道を含めた諸宗教の上に君臨する思想ということになる。

浅野がスピリチュアリストとして本格的に活躍した時期は「近代天皇制イデオロギー」が全盛を極めた昭和期であり、独特な「イデオロギー的祖先観」に立った「家族国家」観が国中を席巻し支配した時期であった。この時代、天皇も含めた全人類は神の下に平等であり、兄弟姉妹であると主張するスピリチュアリズム思想は、「神→天皇→国民」という一元的な「神秩序」を要求した支配思想に反することから、権力が最も危険視していたマルクス主義思想と同様に危険思想と認定されて、思想それ自体が弾圧される可能性があった。なぜならスピリチュアリズムが説く神観に代表されるような、国家神道の枠を外れた神信仰を許せば「天皇制が掲げる神々は権威を失墜し、天皇の絶対性を否定する結果となる」(注7)からであった。

 

権力による弾圧は、思想や信仰といった分野に留まらず生物学の進化論にも及んでいた。当時、博物学者の丘浅次郎の著書『進化論講話』は、最も読まれた書籍の一つであったが、生物進化論と天皇制という観点から常に問題視され、特高警察から呼び出されて何度も発禁処分寸前までいった著書であった(注8)。このような事例が戦前の社会には豊富に存在する。このような社会状況から推測するに「純粋なスピリチュアリズム」を前面に掲げて普及活動を行えば、権力からの干渉や弾圧を招く危険性は極めて高かったと言えよう。

 

<弾圧回避の方法>

浅野自身は固着思想に「復古神道・天皇中心主義思想」を持っていたため、当時の支配思想である「家族国家」観と馴染み易かった。日本は満州事変(昭和6年:1931年)以降、国内の思想統制を強めて戦時体制化が進んでいったが、これと歩調を合わせるかのように浅野の主張も支配思想に沿った形となって、その論稿が雑誌『心霊と人生』に掲載されるようになっていった。たとえば昭和10年に雑誌『心霊と人生』に掲載された「天孫降臨の神勅」や「日本国民の卒業論文」等は、天皇制ファシズムを賛美する論稿といわれてもおかしくない内容である。

大本事件で権力からの弾圧を受けた浅野は、“危険思想であったスピリチュアリズム”を日本の「伝統的な祖霊観・霊魂観」といった“オブラート”に包んで、「体制内思想」として弾圧を回避し、普及活動を行った。弾圧回避の方法の一つに翻訳があり、浅野自身のフィルター(→固着思想に「復古神道・天皇中心主義思想」を有していた)を通すことによって言葉や概念の選別が行われた。そして“スピリチュアリズムの宗教性”をより強く志向させたことによって、国家神道との整合性が図られた。

 

この結果、個々の霊能者が権力から詐欺や窃盗といった罪名で弾圧される事例はあったものの(→古くは三田光一や長南年恵に対する弾圧事例があった)、スピリチュアリズム思想それ自体は直接弾圧を受けることなかった。スピリチュアリズム関連の書籍を持っていただけで警察に拘引されるなど、マルクス主義思想と同様な扱いはされなかった。そのため命脈をつなげていくことができた。ここに霊界側で当時の支配思想と共通の固着思想を持った浅野を起用した理由がある。時代背景を見据えた霊界側の配慮を筆者は感じ取る。

 

オ)浅野のスピリチュアリズム観

☆伝統的な定義

著書から浅野のスピリチュアリズム観を推測すれば“伝統的な定義”に行き着く。伝統的な定義とは「スピリチュアリズムとは霊能者が霊界に住む者たちとの交信によって、一般に提供した事実に基づく科学、哲学、宗教である。霊界からもたらされた事実や自然発生的霊現象(幽霊、ポルターガイスト其他)を調査し分析し分類するから“科学”であり、それらについて思索し、霊界、人間界及び自然界に通ずる法則を模索するから“哲学”であり、それら全体が神の業であるという認識に至ることによって“宗教”である」とするもの。

 

このような伝統的な定義が、浅野のスピリチュアリズム観には存在する。そしてこの観点に立って、「神霊主義の四要素」として、「哲学的(大自然主義)」「科学的(大生命主義)」「道徳的(大家族主義)」「宗教的(敬神崇祖主義)」という分類を行った。この定義からも当時の支配思想に十分に配慮した跡が窺える。

 

☆“時代の申し子”の浅野を抜擢した

ここから言えることは、スピリチュアリズムは浅野の固着思想という“フィルター”を通過することによってごく自然な形で変容したが、結果として厳しい時代を生き抜くことができた。そこに“時代の申し子”であった浅野が抜擢された理由があり、スピリチュアリズムを後世に繋げて、時期の到来を待つという霊界側の配慮が見えてくる。

なおスピリチュアリズムの普及には「政教分離」が導入されていること、「思想・信教の自由」が保障されていること、これらが前提となって始めて「純粋なスピリチュアリズム」は普及していく。この点からも戦前の日本には普及の前提が欠けていたことが分かる。

 

②.「家族の実態」と「家族制度」について

ア)「家族」という言葉

☆家族の実態

「家族」(注9)を現実の生活スタイルという「家族の実態」面から見れば、その類型として「大家族(複数の世帯から構成される家父長制的家族)」と「核家族(一組の夫婦とその子供からなる家族)」とに分けられる。現代社会では後者の「核家族」が主流である。

機能面から見れば、戦前の社会では「直系重視の家族で家の存続を目的とした縦型家族」で、親子関係に基礎を置いた「大家族」が主体であった。戦後の社会では「相互扶助と情緒的親和性を持った精神的安定装置たる横型家族」で、夫婦関係に基礎を置いた「核家族」が主体となっている。

 

☆家族制度

他方「家族」を、家族生活が準拠する法律・慣習・道徳などを含めた社会的規範の体系として用いる場合がある。この用例を「家族制度」と呼ぶ。家族制度はその時代の社会に合致する形でシステムを作りあげる。江戸時代の武家の家禄制度や明治民法下における「家」制度が典型的なものといえる。

歴史を振り返ってみれば、「家族の実態」と「家族制度」とは常に一致してきたわけではない。例えば明治民法下の「家制度(=家族制度)」は家長を中心とした大家族を想定したが、現実の都市部における「家族の実態」は夫婦家族(=核家族)が多数を占めていた。

 

イ)家族国家観(擬似家族、家族国家イデオロギー)

☆疑似家族

戦前の日本では「近代天皇制イデオロギー(天皇制国家思想)」の下で、「家制度(家族制度)」の拡張概念として「家族国家観(擬似家族、家族国家イデオロギー、大家族主義)」が唱えられた。これは「国家を一つの擬似家族(家族国家)」として「天皇は父であり、皇后は母であり、臣民は赤子である」とする国家観であった。

教育の現場でも「家族国家」観が教えられていた。明治末期の小学校の教科書には、「天皇神孫論(→天皇は天照大御神の子孫)」や「君民徳義論(→天皇の徳と臣民の忠義によって日本の歴史が続いてきた)」に基づく記述が見られ、大正に入ると「家族国家」観が表れた。昭和に入るとそこに天皇「現人神」論や「八紘一宇」論が付け加えられた。

 

小学校の「修身教科書」(明治25年:1892年)には教育勅語の影響からか、「親に孝行する人は、君につかへて自ら、忠義の名をも、得るぞかし、孝行はげむ、心こそ、家のさかえの、もとゐなれ」との記載があり、ここから「忠孝」や「家族国家」観が窺える。

また擬似家族である「家族国家」観が企業の中にも持ち込まれて、本来利害が対立するはずの資本家と労働者が「経営家族主義」という言葉で括られてしまい、職場の労働環境改善の運動が押さえ込まれてしまった。法学が専門の東京経済大学名誉教授の依田精一は「日本ファシズムと家族制度」(注10)の中で「問題なのは、実は企業組織の根底に労資の利害の対立が存在するにもかかわらず、それが『事業一家』という、疑似共同体の利害にすり替えられている」と指摘している。

 

☆家長を中心とする

昭和12年(1937年)に文部省思想局から出版された『国体の本義』では、形式的な「家」制度が強調された。「我が国民の生活の基本は、西洋の如く個人でもなければ夫婦でもない。それは家である」と。国民生活の基本は「家長」のもとで「親子の立体関係である(=祖先との一体化)」として、社会の構成単位としての「家族制度」が強調されている。そしてこの「家族制度」の中に存在する“親に対する忠孝”が拡大して、“天皇に対する忠誠”にすり替わっていく。

 

また昭和16年(1941年)の『臣民の道』(文部省)では、「家族国家」観に基づいた国民のあり方が説かれている。「我国の家は、祖孫一体の連繋と家長中心の結合とより成る。即ち親子の関係を主とし、家長を中心とするものであって、欧米諸国に於けるが如き夫婦中心の集合体とはその本質を異にする。従って我国の家に於いては、家長と家族、親と子、夫と妻、兄弟姉妹、各々その分があり、整然たる秩序が存する」と。

このような「大家族主義」は、擬似的親子関係(天皇を親とし国民を子とする)を作り出して、「忠」と「孝」が一体化され、さらに「家族国家」観においては個々の「家」の祖先祭祀を国家神道と結びつけて天皇制の下に集約させた(→個々の祖先祭祀は皇祖天照大神を主祭神とする氏神の総本家たる伊勢神宮の下に集約させた)。

 

☆家族国家観

戦前の社会においては、朝鮮や台湾等の民族を帝国内に抱えて総人口(大日本帝国の戦時中の人口は1億人)の3割は非日系人であったが、「単一民族国家を擬制」して権力を使ってさまざまな矛盾を覆い隠した時代であった。この「家族国家」観の社会では、父(=天皇)の権威は天皇個人の人格から派生したものではなかった。

 

天皇は万世一系の皇統を有し、皇祖皇宗によって統治するという縦軸の無限性によって権威が担保されてきた。このように正当性の根拠としての“縦軸の理論(→神話から日本の天皇は天照大神の子孫であるとする)”は、個人は家長が統率する家族のもとに集約(家族主義)され、家族は天孫である天皇のもと(家族国家観)に一元的に集約され、世界は日本天皇の下に集約されるとする概念に拡大していく。図式的に見れば「家を中心とした家族主義」→「天皇を中心とした家族国家観」→「日本天皇を中心とした八紘一宇」となる。

 

国内社会においては天皇を頂点とした国民全体のヒエラルキーを作り上げ、その内部における上下関係の根拠を「天皇との距離の遠近」で表して、天皇を権威付けに活用した。

祭祀の面からも「家」の家長は祭祀の執行者として祖先崇拝を行い、神々を祀る天皇は同時に現人神として祀られた。このような役割を持った「家族制度」は具体的にどのような変遷をたどったのか、以下において概観してみる。

 

ウ)「家族制度」について

☆「家」制度の創設

江戸幕府は1684年に「服忌令(ぶっきりょう)」を制定して、親族や家族の秩序を定めた。

その内容は一定の範囲の親族が相互に喪に服すべきことを定めて、それぞれの喪の日数を定めたが、この制度には武家式と公卿式があり武家式の方が服も忌も短い。そのため明治政府は武家式を採用した。喪に服すべき親族は同じ「家」に属しているため、「服忌令」は「家」の内部秩序を明確にする法令であるとされる。

 

江戸時代には武士は主君から知行や扶持をもらって生活をしていたが、この「家禄」はその「家」に属していたので、「家」が存続する限り代々継承されるべきものであった。継嗣者がいないと一家断絶・家禄没収になるので一大事となる。ここから「家」の思想が生まれたという。このように封建的身分社会を維持するために「家」制度が維持されて、これが武士階層や公卿等から徐々に豪農や豪商等にも広がっていった。武士の戸主権を伴う「家」制度は武家の家禄制度であり、そのため豪農や豪商の「家」制度よりもより切実であった。なお徳川時代に最高潮に達した「家」制度は、家産や家名がない大部分の庶民には始めから無縁な存在であった。

 

☆二つの大改革

明治初期、政府は国家基盤を確立するために二つの大改革を行った。地租改正と「家」制度の前提となる「戸籍制度の整備」であった。

地租改正では従来の年貢(物納)から、地租(貨幣)にその徴収方法を変更した。江戸時代にあっては、納税はムラ全体の連帯責任とされて、その仕組みは「五人組制度」(相互に連帯責任を負わせる)や「ムラに対する徴税命令書の交付」という形が採用されていた。地租改正後は「個人の納税」に変更になった。五人組制度やムラの連帯責任は行政の末端を担う制度であり、封建経済体制時代の根幹をなすものであった。この徴税方法の変更の背景にはムラ共同体の崩壊があるとされており、その結果多くの底辺層の都市労働者を生み出して、多くの「家」を創設することに繋がった(→将来的には核家族化による「家」制度の形がい化へと繋がっていく)。

 

明治時代の戸籍制度の導入は、江戸時代と異なって全国民を対象にした。江戸時代には一種の「戸籍制度」として、切支丹禁圧による宗門改めから「人別・宗門帳」が作られた。また1670年代以降、町人や農民を対象に住所地の仏寺に所属させて、宗門人別帳を作って生活面の統制と移動の監視を行った。

明治民法に先行する形で導入された戸籍制度は、「家」を単位に戸主(家長)の尊属・妻・兄弟・それぞれの子供等が一つにくくられて編成される仕組みであった。戸主は外部に対しては「家」を代表して、内部においては戸籍内の構成員を統括する権限(戸主権)を持った。戸主は隠居や死亡によりその地位を失うと規定された。このように個々人は戸籍を通して、「国家→戸主→個々人」という形で国家の管理下に置かれた。

 

☆明治民法

明治民法によって制度としての「家」が創設された。明治以前の「家」制度は公卿や武家社会等の支配層のためのルールであったが、明治民法の制定によって法的に否応なく一般庶民にまで適用されるルールとなった。

民法学者の中川善之助は「日本には二つの家族観がある」として、「一方に由緒正しき家系の名家名門である上層の『家』を基準に考えるものと、他方に戸主も家族も働いて共同生活をまっとうしている庶民の『家』を基準に考えるもの」であると。明治民法の制定によって「家」制度に基づく家族観は、従来の「上層の家」から「庶民の家」へと拡大された。

 

この明治民法は戸主権による家族統率、男尊女卑、長幼の序などを基本原理としたものであった。また戸主に、家族の居住指定権(家族は戸主の意に反して居住地を定めることは出来ない)、家族の婚姻・養子縁組同意権、婚姻無効請求権・縁組取消請求権、未成年の子に対する職業許可権・財産管理権等を与え、親族会議が法律上明文化された。

また遺産相続は家督相続(長子相続性)で、直系卑属の嫡出子の男で年長者が優先された。この他に戸主は「所得税法」によって家族の所得の納税義務者であり、「兵役法」においては家族内の徴兵適齢者を通告する義務があった。

 

戸主(家長)は長子相続により原則として先代の家長の長男が就いて、家の財産を守り家族を統率するという責任を、連綿と続く「家」の祖先に対して負っていた。このように戸主権は「家族国家」の根幹部分であった。このようにして明治民法や教育勅語の制定により、「天照大神→天皇(現世における神の代表)→戸主(天皇の代行者)→個々人」という図式が出来上がった。

 

エ)「家」制度の形骸化

☆社会の流動化

明治時代に入り国内の移動が自由(通行手形が不要)になり、田畑売買が自由になるとムラ共同体に縛られていた農民層が流動化していった。

日清戦争(明治27年~28年:1894年~1895年)の前後を通じて日本の資本主義は急速に発展し、日露戦争(明治37年~38年:1904年~1905年)や第一次世界大戦(大正3年~大正7年:1914年~1918年)頃になると資本主義の急速な発展に伴う社会矛盾(→劣悪な労働環境による惨状など)が発生した。

農家の次男三男は職を求めて町に出て、分家して戸籍を新たに作り「家」を興すようになった。このような長男以外で都市に出て新しく一家を創設した者や、零落した家を再興した者は、柳田国男の言葉を借りれば「御先祖になる」と呼ばれた。

 

従来までのムラ社会を土台にした農家の共同体が崩壊の危機に瀕し、他方都市には貧困な労働者の家族が多数形成された。当時、農民においても都市生活者においても、家族は夫婦とその子から構成されて夫婦世帯化・小家族化が進み、民法の「家」制度が非現実的なものになっていた。この制度は始めから矛盾を内包した制度であったと言われている。

 

☆保守派の危機感

大正デモクラシーの中で労働争議や小作争議の発生に危機感を持った保守派(→家族制度の秩序維持的機能を重視してその強化をはかる立場の者たち)は、家族制度を強化することでそれらに対応しようとした。保守派から「家」制度を破壊するとして反対があった普通選挙制度(大正14年)は成立したが、この制度は個人主義に基づく近代家族制度への道を開いたといわれている(注11)。

 

③.浅野が唱えた「大家族主義」とは

◆この項目の概要

浅野和三郎は「大家族主義(道徳的)」という言葉を雑誌『心霊と人生』の中で頻繁に使用した。この「大家族主義」は「神霊主義」の四大綱領の一つであり、全体として擬似家族たる「家族国家イデオロギー」としての色彩が強い。この項目では和製スピリチュアリズムに大きな影響力を及ぼした「大家族主義」を検証してみた。

 

ア)浅野の「大家族主義」

☆大本時代の「大家族主義」

浅野が大本時代や神霊主義者時代に述べた「大家族主義」は、当時の支配思想と多くの点で共通している。大本時代の浅野によると、大本は「世界大家族制度の実施実行」のための機関として、「世界の和平、人生の安楽を目的」として「侵略にあらずして、各国の君主臣民がその天賦の職責・権限を格守して一歩も他を犯さない事を主眼」(注12)として活動を行うと述べている。ここでいう「世界大家族制度」とは「家族主義」の拡張概念である。

 

また大本が唱えた「大正維新」について「日本から言えば大正維新であるが、諸外国を含めて言えば世の大立替、大立直である」「国際的には日本天皇の世界統一であり、社会的には霊的階級の厳守を伴える世界大家族制度の実現である」と。そして「皇道大本はこの実行機関として特定された、世界独一無二の大中心である」(注13)と。浅野はこのように宗教的独善性の上に立って、大本が「大掃除」の実行機関であると述べている。

なお「国際的には日本天皇の世界統一」という言葉は、昭和15年(1940年)726日に近衛文麿内閣が出した基本国策要綱と同じであり、「世界を一つの家」とする考え方は「八紘一宇(はっこういちう)」と共通する思想である。

 

☆スピリチュアリストとしての主張

浅野は神霊主義者時代に『心霊研究とその帰趨』等の著書の中で、「家長の無き家、酋長のなき部落は何所にも存在しない」として、集団には必ず中心が存在することを述べ、その上で「君民一體の民族的団結は畢竟この精神の拡張であり完成である」と主張した。この主張は極めて政治的色彩を帯びたものであった。

なぜなら当時、大日本帝国内には朝鮮人や台湾人等を多数抱えこんでおり、国家の統一を維持することが最大の課題であった。そのため政府は「我等は皇国臣民なり」という政治的スローガンを掲げて、天皇を中心とした民族的団結を呼びかけていた。この政府の政策と「家族主義」を浅野は安易に結びつけていたことが分かる。

 

さらに「現在地球の表面に於いてその最もよき標本は蓋し日本にある」として、「万世一系の皇室を中心とせる金甌無欠の日本の国体は正に一の活きた模範を世界の民族に垂れている」と述べて、人種的優秀さ、日本文化の清浄さと純粋さ(→神道の禊の観念が土台にある)をベースにした日本賛美論を展開している。この発言は1930年代以降に徐々に強まった「西洋的価値観の否定」を反映した当時の風潮に沿った主張であった。

浅野の「大家族主義」にはさまざまな問題点が含まれているが、これらを以下に於いて個別に検討する。

 

イ)「大家族主義」の検証

☆問題点その1

<未分離の状態で二つの概念が同居>

浅野は雑誌『心霊と人生』誌上で「大家族主義」という言葉を頻繁に使用したが、その用例はほとんどが「家族国家」観に基づく「家族主義」であった(→なかには「集団や生活共同体」という表現で「家族の実態」に即して用いているケースもあるが)。

 

浅野は「大家族主義」と「世界同胞主義や人類愛善主義」を比較して前者の優位を説く。西洋のスピリチュアリズムは、「世界同胞主義」を大切な標語として使っているが、浅野は断じてこれに賛成することは出来ないという。「家族主義には組織があり、統一があり、中心があるが、同胞主義には全然それが無い。同胞主義は飽くまで平面的、羅列的、悪平等的であり、従ってこの精神で進んだ時に、たとえ千万年を経るとも世界の人類は何ら渾然たる組織体系を造る見込みは無いと思う」と言い切って、縦軸に基づく「大家族主義」の制度としての優秀性を述べている。

 

歴史を紐解けば「家族制度」はその時代の社会システムに合致した制度を作り上げてきた。戦前の日本においてそれは「家」制度であり、戸主の死亡・隠居に伴って起こる戸主権の移動は長子相続を原則とした家督相続であった。

文部省発行の『国体の本義』においても「わが国においては、家の継承が重んじられ、法制上にも家督相続の制度が確立されている。現代西洋において遺産相続のみあって家督相続がないのは、西洋と我国の家とが、根本的に相違していることを示している」と。ここから祖先から子孫に連綿と続く「家」に国民生活の基本(縦型社会)があるとする主張が読み取れる。そして西洋の個人主義に立脚した近代家族制度(横型社会:遺産相続は平等主義を前提)との違いを指摘して、文章全体から見て家督相続の優位性の主張が窺える。

 

具体例をあげて説明する。相続財産が田畑の場合には家督相続は長子相続であるため、長子がすべて相続して田畑の細分化を防ぐことが出来るが、遺産相続の場合には平等相続のために細分化(田分け)されてしまい、数代後には無くなってしまうことになる(→遺産分割の方法に特段の指定がない場合)。「家」の存続を前提とすれば家督相続の方が理に適っている。両者の特徴は、家督相続は連綿と続く「家」の存続であり、遺産相続は平等主義に基づく相互扶助である。近代的な個人主義に基づいた家族主義は、セーフティーネット(→生活保護的制度、扶養制度)としての相互扶助的機能が前面に出た概念である。

 

浅野の「大家族主義」思想には二つの概念(→「家族の実態」と「家族制度」のこと)が明確に意識されていない点や、縦軸の「家」に基づく「家族制度」の比重が強く出ており、個人の生活共同体としての「家族の実態」概念が弱いという特徴がある。そのため「同胞主義は飽くまで平面的、羅列的、悪平等」であるとして、西洋のスピリチュアリストを批判した。

このように浅野の思考には、全体として両者が明確に意識されずに渾然一体となって使われている点や、家族主義の大きな流れとして縦の関係(権威による支配)から横の関係(平等観)への移行の見通しを持っていなかった点に、「近代天皇制イデオロギー」の時代に生きた者の限界があった。

 

☆問題点その2

<霊界と不完全な現実世界との混同>

現実社会の組織や人間関係では、さまざまな問題を抱えて集合離散を繰り返す。

浅野が「大家族主義」の長所としてあげた「中心があり、統一がある」は、不完全な世界ではたやすく独裁や圧制の政治体制に転化する。権威の根拠を「個々人→戸主(天皇の代行者)→天皇(現世に於ける神の代表)→天照大神」の縦軸に求めたが、上位の者に相応の霊性を伴わなければこれもたやすく威圧・強権に変化していく。また浅野が述べた「国際的には日本天皇の世界統一」は「八紘一宇」(世界を一つの家にする)であり、これは戦時中の日本軍の海外進出を正当化する思想の一つとして用いられた(注14)。

 

このように浅野がいう「大家族主義」には、霊界の絶対神を頂点とする霊性に基づく階層構造の秩序ある世界と、修行途上の未熟霊が学ぶ相対界の地上世界との混同が存在する。結果的に「八紘一宇」に繋がった「日本天皇の世界統一」は、神と人類の中間に「神の地上における代行者」として天皇を据えた思想であった。ここに浅野はスピリチュアリズムを持ち込んで「体制内思想」としたが、これはスピリチュアリズムを後世に繋げていくための苦慮の表れともいえる。

 

浅野はスピリチュアリズムにおける神を共通の親とする「霊的大家族」や「霊的同胞」という概念を、「世界同胞主義や人類愛善主義」と呼んで批判したが、その背景には「西洋的価値観の否定」という当時の風潮が存在している。これは浅野の意識に“無意識的な配慮”が働いて、「西洋的価値観の否定」に迎合した言説をとらせたとも言えるが(→事前検閲制度の存在や“思想・信教の自由”が限定的であったことなど)、それが結果的に吹き荒れる国体論の嵐の中で、スピリチュアリズムの温存が図られた、このような見方もできよう。

 

☆問題点その3

<天皇制イデオロギーとしての「家族国家」観>

浅野が述べた「大家族主義」は家族制度の「家」に置き換えられて、その家長が拡大して「家族国家」観となり天皇制ファシズムと結びついた。この浅野の「大家族主義」思想の中には、「近代天皇制イデオロギー」としての「家族国家」観や、「東亜の天地」という表現で明治民法の「家」制度を拡張・拡大した「世界大家族論」が含まれている。

次の言葉に端的に表れている。「くれぐれも言って置くが、家族主義の最も大切な要素はその一糸乱れぬ連動装置である。中心と周囲との過不及なき釣り合いである。有形無形精神物質に亘って切っても切れぬ因果関係である」「我々はせめて東亜の天地に強力なる一大家族主義的連動装置の完成を目標として精進努力すべきであろう」。これは当時の支配思想と同じである。

 

☆問題点その4

<祖先崇拝と結びついた>

浅野は西洋との比較で「祖神中心の大家族主義の方が、キリスト教又近代スピリチュアリズムの唱導する人類同胞主義よりも遥かに実際的であり効果的である」(注15)と述べて、「地上に王道立国の基本を樹立するためには、人類同胞主義ではなく敬神崇拝思想を持った日本思想を中心骨髄とすべき」と主張した。この主張から当時の厳しい時代背景が窺える。なぜなら当時の社会では、スピリチュアリズムにおける神を共通の親とする「霊的大家族」や「霊的同胞」という概念は、「体制内思想」の枠を超えた危険思想であったから。

 

浅野は神霊主義四大綱領の「敬神崇祖主義」について、雑誌『心霊と人生』(注16)において解説をしている。その中で日本の伝統的思想である「人は祖に基づき、祖は神に基づく」は近代心霊研究の結果によって科学的事実に相違ないことが実験的に証明されたと述べている。敬神崇祖には「祖先の、祖先のその又祖先と、だんだん奥深くつきつめて行き、結局、神と人とが同根であること」や、祖先の恩に報いるという「報本反始」の考え方が含まれているという。

この「敬神崇祖主義」によって、スピリチュアリズムの中に祖霊崇拝が持ち込まれた。その結果、仏教や土俗的宗教・習俗で述べられている因縁や多様な霊概念が和製スピリチュアリズムの中に入ってきた。

 

ウ)浅野の「大家族主義」思想の果たした役割

浅野が述べた「大家族主義」は、時の政府が主張した「家」制度や「家族国家」「八紘一宇」などの多様な概念と結びつく。浅野が晩年に雑誌『心霊と人生』に掲載した論稿(→「天孫降臨の神勅」「日本国民の卒業論文」等の論稿:昭和10年)は、当時の支配思想に迎合した「天皇制ファシズム」を賛美する内容となっている。このような表面的な言動だけを見ていけば、浅野は単なる狂信的な「神国思想」を唱えた神道人の一人になってしまう(注17)。しかし浅野には権力に迎合する形をとってまで行わなければならない仕事、つまりスピリチュアリズムを将来に繋げていくという仕事があった。

 

スピリチュアリズムの普及活動とは、神を共通の親(神→国民)とする「霊的家族」「霊的同胞」意識が、人類共通の認識に至る社会が地上に出現することを目標として、個々人の意識を変えていく社会変革運動である。そのためスピリチュアリズム思想は、当時の「神→天皇→国民」という支配思想から見れば危険思想そのものであった。そこに「スピリチュアリズムの本質(神→国民という形で天皇を国民の一人として扱う:霊的家族・霊的同胞意識)」を、そのままの形で語ることはできなかった理由がある。

 

浅野の固着思想には「復古神道・天皇中心主義思想」があり、この思想は当時の「近代天皇制イデオロギー」という「家族国家」観に馴染み易かった。このことがスピリチュアリズムをマルクス主義思想と同様に扱われて、権力から危険思想と断定されて、弾圧を受けることから防いだといえる。当時の厳しい時代を乗り越えてスピリチュアリズム思想を後世に繋げていくためにも、当時の支配思想に沿った形で普及運動をせざるを得なかった。ここに厳しい時代の制約の中で生きた「浅野の役割と限界と悲劇」があった。

 

浅野の思索によって唱えられた「大家族主義」は祖霊崇拝と結びつき、「家」という概念を介して「家の因縁」「因縁霊」「動物霊」などがスピリチュアリズムの中に取り込まれた。このように浅野の説いた「大家族主義」思想は、仏教や土俗的宗教・「伝統的な祖霊観・霊魂観」といった習俗、そして当時の支配思想である天皇制イデオロギーとしての「家族国家」観などと、スピリチュアリズムとを結びつける接点に立ち、和製スピリチュアリズムを検討する上での重要な概念となっている。

 

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

<注1>

■雑誌『心霊と人生』昭和71月号~8月号に連載。

 

<注2>

■浅野和三郎著「日本国民の精神的指導原理―日本神霊主義の提唱―」(8月号、1月号参照):雑誌『心霊と人生』昭和71月~8月所収。

浅野は8月号で、日本思想の特徴を「一神即多神の観念の上に立ち、力点を差別界の整理統一に置く」「民俗的色彩が濃厚」「日本思想は実践道」「日本国民の血脈の中に流れている」と述べる。これに対してスピリチュアリズムの特徴は「力点を無限絶対の理想の神に置く」「平等的同胞観に重きを置き、世界的色彩を帯びる」「スピリチュアリズムは理想主義である」「スピリチュアリズムは実験実証の上に立つ」と。そしてスピリチュアリズムは「近年に至りて発達を遂げたもの」であるので、今後「幽明の交通が発達するにつれていくらでも増補改訂の余地がある」として、両者の食い違いは「おそらく全部除かれることになるかもしれない」と結んでいる。さらに浅野はこのような差異は将来的に取り除かれていくので、心霊研究の主張と主要な日本の伝統的精神との間には何ら違いはないと述べている(1月号他)。

 

<注3>

■浅野和三郎著『心霊研究とその帰趨』(心霊科学研究会1964年刊)202頁以下参照。

 

<注4>

W.Sモーゼス著、近藤千雄訳『霊訓』(スピリチュアリズム普及会)上203頁(国書刊行会166頁)、下58頁(国書刊行会217頁)、下175頁(国書刊行会310頁)参照。

 

<注5>

■「神国思想」とは

縮刷版『神道事典』(弘文堂、401頁)によれば「日本は固有の神々によって生成され、それ故、この神々より特別に護られているという思想」であり、「本来排外的思想ではなかった」という。この「神国思想」は「三韓征伐」の際に新羅王が「神功皇后の軍隊を見て神国の兵であるとして戦わずに降伏した(→朝鮮半島には東方海上かなたに神の国があると信じる信仰があったからという)」という『日本書紀』の記述が初出らしい。

■文永・弘安の役

鎌倉幕府の北条時宗の時代、127410月(文永の役)モンゴル軍と高麗軍27000人が対馬・壱岐を進攻して九州の博多湾に上陸したが、その夜の暴風雨によって壊滅した。12816月(弘安の役)モンゴル軍・高麗軍と南宋の江南軍14万人が博多湾に再度侵入したが、暴風雨によって今回も同様に壊滅した。当時日本全国の寺院や神社では外敵退散・調伏を祈願する祈りが行なわれていた。二度の暴風雨によって国家存亡の危機から逃れた事によって、日本は神国であるとの認識が広く国民の間に浸透した。

■明治期~戦時中

幕末期の後期水戸学には、日本は「神州」であり、万世一系の天皇統治、君民一体、忠孝一体とする思想があり、これが本居宣長・平田篤胤らの国学者の一君万民、忠孝一致思想や神国思想と結びつくことによって尊皇攘夷の政治思想となり、討幕運動に大きな影響力を及ぼした。明治初期の権力者は明治天皇の神格化を強化する必要があったために万世一系の天皇論を採用した。なお復古神道では天皇は絶対的な権威者であり、日本を皇国と呼ぶのは天孫たる天皇が千代に八千代に統治する国だからであるという。

明治期、神国思想は復古主義的な思想と一体となって国粋主義思想と結びつき、国家神道のバックボーンとなった。そして「大日本帝国憲法」や「教育勅語」等によって、復古主義的思想が取り込まれて「家族国家観(国家イデオロギー)」が作られた。戦時中は「神州不滅」が唱えられて、神風特攻隊や本土決戦などの戦法によって再び神風が吹いて、国家存亡の危機を救ってくれると一部の人たちは固く信じていた。

 

<注6>

■翻訳という仕事は翻訳者の解釈を伴った仕事だから。「質の高い高等なスピリチュアリズム(純粋なスピリチュアリズム)」関係の書を翻訳する際に、「スピリチュアリズムの本質」を理解した者の訳と理解していない者の訳では、訳の仕方が異なってくる。このことからも「翻訳は解釈である」ことが分る。

 

<注7>

大本教は公共宗教をめざす「邪教」

津城寛文著『公共宗教の光と影』(春秋社、2005年刊)220頁以下参照。

津城は「公共宗教の一方の極致にある国教は、宗教の政治関与を独占しようとするのが特徴であり、公共宗教をめざすものの介入を最も警戒する」(220頁)として、類「国体」的な大本教は「近代天皇制という国教(公共宗教)に接して政治的主張を行った、いわば公共宗教をめざすもの」であったために警戒され弾圧された。宗教界の政治関与に関しては伝統的宗教(キリスト教や仏教等)であれば、介入の仕方も予測の範囲にあるが、「異端が足元から侵入したり『新興宗教』が干渉してくる場合、予測が立たない。規模が小さい場合の異端の場合は私的な『狂気』『乱心』として処理され、規模が大きい新興宗教の場合には、『淫祀』として社会問題、あるいは『邪教』として政治事件になる」という。大本教は公共宗教をめざす「邪教」とされて、徹底的に弾圧された。

大本七十年史

大本70年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)および大本70年史編纂会『大本七十年史、下』(宗教法人大本1967年刊)参照。

新しい宗教や思想について、大本七十年史では次のように述べている。「明治政府は民間で自主的に形成された新宗教に対しては、一貫して弾圧の方針をとり続けた。それではこれらの民間諸宗教はなぜ弾圧されたのであろうか。その最大の理由は、戦前の日本には真の意味において思想や信教の自由が確立していなかったことにある」「国家神道の枠をはずれた民間の新宗教の神々を正しいものとして信仰すれば、天皇制が掲げる神々は権威を失墜し、天皇の絶対性を否定する結果とならざるをえないから、国家神道体制による公認宗教以外の新宗教に関する限り、類似宗教団体として、その“信教の自由”は完全に無視されてきた」「神憑りや祈祷を禁じる明治初年の法令は、依然として効力をもっていた。またすでに教団となったものには、“教会所教説所等に於いて衆庶に参拝せしむるをえざる件”(明治14年内務省達乙48号)や、神社・寺院以外の祠宇・教務所が神符・神札・祈祷札を授与することを禁ずる1895年(明治28年)社寺局回答第22号などがあって、たえず官憲の監視をうけ、かつ取調べを受ける体制が作られている」(前著、上:523頁以下)。

さらに「明治政府以来の一貫した国家権力による宗教統制の施策が横たわっており、権力が公認した宗教以外は類似宗教団体として、“信教の自由”を完全に奪い去ろうとする当局の方針があった」(前著、下695頁以下)という。

これらの見解は弾圧を受けた大本側の意見ではあるが、当時の権力が宗教や思想を統制する際の論理について的確に述べている。

 

<注8>

■生物進化論と天皇制

公権力が一元的秩序を要求したのは「神秩序」だけではなかった。生物進化論も天皇制という権力の根源を揺るがす問題をはらんでいるだけに干渉を受けた。

明治期の日本では、進化論は生物の理論としてではなく「人間社会の進化・発展を説明する社会理論」として受け入れられた。戦前、生物進化論が低調だった背景には「皇国史観」や「天皇制」「人獣共通祖先説」という問題があったと言われている。

丘浅次郎(18681944:東京高等師範学校、博物学科教授)は、明治37年(1904年)に『進化論講話』を著した。『講話』はその後、版を重ねて広く読まれたが(10版?)、何度も発禁寸前までいった本(発禁は免れたが)でもあった(横山利明著『日本進化思想史、1巻』新水社2005年刊、78頁参照)。

■丘浅次郎の受難

丘浅次郎は特高警察の事情聴取に対して、詭弁を弄して人類の起源までを生物進化の守備範囲とし(→原始原核生物からサルまで)、「人類が地上に出現してからは我が国の発展に天皇制が大きく機能してきたと弁明した」。しかしこの詭弁は認められなかったという(溝口元著「日本におけるダーウィンの受容と影響」:日本学術協力財団編『ダーウィンの世界』キタジマ2011年刊所収、159頁参照)。

丘の特高に対する対応について、筑波常治(元早稲田大学教授)は「進化論に沿って人間の過去を述べることじたい、突き詰めると日本の当時の“国史”教育と矛盾する結果となる」(廣井敏男・富樫裕共著「日本における進化論の受容と展開――丘浅次郎の場合」:東洋経済大学『人文自然科学論集』第129号所収、185頁)と述べている。このように「皇国史観・天皇制」と「生物進化論(→究極的には天皇制否定につながる)」との関係は、キリスト教と進化論との対立構図と似ている。国体護持を任務とする特高警察はそこを問題としてきたのであろう。

このような丘の『進化論講話』の事例からも分かるように、当時の生物学者は、進化論に言及すれば必要以上に社会や政治体制との摩擦を起こすと判断して、生物進化論を避けたという(溝口元著「日本におけるダーウィンの受容と影響」159頁)。このように1945年までの日本には、進化論(社会進化論、生物進化論ともに)を自由に言及し研究する環境にはなかったことが分かる。

 

<注9>

■「家族」という言葉は比較的新しく、幕末になって始めてこの用例が見られるという。この言葉が評論の中で頻繁に使用されようになったのは、国語辞典に登場する明治20年代前後のことらしい。しかし「家族」という言葉が登場する以前から人間の歴史の発生とともに、その「家族という近親者の集団」はあった。

一般に家族は「夫婦・親子・きょうだいなど少数の近親者を主要な成員とし、成員相互の深い感情的関わりあいで結ばれた、第一次的な福祉志向の集団」(森岡清美、他)と規定されている。このように「家族の実態」に視点を置いて、相互扶助集団や精神的安定装置としての「生活共同体」の意味で通常用いられる。

 

<注10

■依田精一著「日本ファシズムと家族制度」:佐々木潤之介編、日本家族史論集3巻『家族と国家』(吉川弘文館2002年刊)所収、161頁参照。

 

<注11

ア)ボアソナード民法法典

■政府は徳川幕府によって調印された安政条約(1858年)等の不平等条約改正のために、近代的な立法編纂の必要性に迫られていた。刑法典は明治13年(1880年)公布(旧刑法)され、明治15年(1882年)1月施行されたが、資本主義経済を発展させるために民法を制定して国民の私法分野での権利義務の明確化が急務となった。

■政府の招きで来日して法典整備にあたっていたボアソナード(フランス人)は、民法の制定に携わった。ボアソナードが携わった旧民法は、個人主義的イデオロギーを背景としたフランス民法の模倣であったために激しい法典論議(ボアソナード民法法典の実施延期)がおきた。論争の原因は身分法の分野において、ボアソナードが日本の慣習や「家」制度に対する理解不足にあったという。

 

イ)民法出でて忠孝亡ぶ

■旧民法の延期論者の代表格である穂積八束(ほづみやつか:1860年→1912年)が『法学新報』(明治248月)に掲載した「民法出でて忠孝亡ぶ」の論稿は、単純明快であったため法典論争の枠を超えて、国民を巻き込んだ政治論争にまで発展した。穂積はこの論稿で旧民法典に対する批判をこれまでの法理批判から、民法を施行するか、それとも参千有余年の日本古来の伝統を守るべきかという単純明快な政治的スローガンに意図的にすり替え、同時に日本固有のよき伝統である先祖崇拝の慣行が耶蘇教によって破壊されるという素朴な国民感情に訴える巧妙な政治論争を展開したという。この論争は延期派の勝利に終わった。穂積は「家は法律関係の主体(法人)であること、家は祖先崇拝に淵源し、国家は家制に則る」ことを主張して新民法(ドイツ法思想の影響が強い)に家長権(=戸主権)の尊重を盛り込ませることに大きな役割を果たしたとされる。

 

ウ)民法学者の学説

■明治時代のいまだ「家」イデオロギー全盛時代に、民法学者の梅謙次郎は家制度の斬進的廃止論を唱えた。梅はヨーロッパにおける家制度を参考にして、親権・父権・夫婦を持って組み立てた新たな家観念に斬新的に移っていくとして、「時代の進展と共に個人制度が確立していけば、家族制度の依拠する慣習もなくなるから、家族制度の維持は不可能となって廃滅し、その結果隠居制度も廃滅し、養子制度は減少する」と述べた。

■同じく岡村司は「日本の親族制度が家族制度から個人制度に移行しつつあり、その進歩を促すべき、家族制度の廃滅は明白な事情である、個人制度の長所(女性の地位向上、子の人格と父母の保護義務の承認、婚姻後の親子別居)をとり、短所(婚姻重視、私生児差別)を矯正すべき」と述べた。梅と岡村は明治民法の施行後の早い時期から、家族制度の廃止を説いていた。

■昭和に入ると末弘厳太郎の「家団」論が注目された。末弘は、「民法上の家は団体的共同生活体とは無関係な、祖先祭祀を中心思想とした縦につらなる思想的存在であり、他方家団は居住と家計を同じくする生活共同体(世帯)の中の内部的規律を持つ団体である」と規定して、「家族制度」と「家族の実態」を明確に分けて論じていた。

 

エ)家族を巡る状況の変化

■日本国憲法の男女平等の規定の下で「家」制度は廃止されたが、保守派からの改革の逆コースの動きが絶えずあった。戦後に唱えられた「家族団体論」の主な傾向は、おおむね個人主義的観点に立脚した近代家族制度への流れになっている。

近年、家族を「家族の実態」から見れば、夫婦関係の変化、未婚、晩婚、離婚等の増加や少子化の進行によって家族をめぐる状況が大きく変化して、家族関係がしだいに緩やかな形に進んでいく傾向にある。最近では社会の最小単位は家族ではなく個人にあるという個人主義的な立場からの学説や、夫婦と未成熟子からなる家族を中心に家族法を規律すべきとの説も出てきている。民法(家族法)の大きな流れは戦前の「家」制度(家族制度)から、戦後の個人主義に立脚した近代家族制度としての「家族集団」に移行しており近年ではより個人主義的な傾向を帯びてきている。

 

<注12

■雑誌『神霊界』大正65月号参照。

 

<注13

■『大本史料集成、2巻』運動篇、参照。

 

<注14

■阿部猛著『太平洋戦争と歴史学』(吉川弘文館1999年刊)では、本来「八紘」は「クニ」であって「世界」を意味していないが、字義の拡大を行っているという(72頁~参照)。

 

<注15

■雑誌『心霊と人生』昭和7年(1932年)8月号参照。

 

<注16

■雑誌『心霊と人生』昭和74月号、昭和9年2月号他、参照。

 

<注17

■浅野和三郎は狂信的な「神国思想」を唱える神道人とは一線を画していたことが雑誌『心霊と人生』(昭和105月号27頁)の記載から伺える。「愛国心とは畢竟手放しでお国自慢をすること、日本精神とは要するに強がりと偉がりの別名、これではどうにも手が付けられません・・・こうした傾向は三千年来の伝統の殻を背負っている神道畑の人達に多いようで・・・」と述べて狂信的神道家の軽薄さを批判している。さらに「旧式の宗教家流又は霊術家流で、彼等の多くは二言目には物質科学を貶し、恰もそれが宗教又は信仰の当面の敵であるかの如く振舞う、その無知と浅見と頭脳の悪さにはほとほと呆れ返ります」と述べて、物質科学の研究と物質主義との混同を批判している。

また『心霊講座』(欧米心霊界の現状)のなかに次のような一節がある。「それから私は近頃流行の団体式神社参拝や仏閣参拝や、またいろいろのお祭り騒ぎ式運動にも余り賛成できない。何となればそんなお手軽のことで斯くまでに化石しきった人心を根本的に立て替えることはとても思いもよらぬと考えるからである」。浅野のインテリゲンチャとしてのプライドが、狂信的神道家や「旧式の宗教家流、霊術家流たち」の付和雷同型で軽薄かつスローガン的「神国思想」とは一線を画させたのであろう。

 

◆浅野和三郎研究:目次

http://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/06/post-9fb2.html

 

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