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幕末期の水戸藩:メモ

資料集『新聞“いはらき”に見る河内町』より

当時の茨城県南部や西部は水戸藩ではなく、幕府直轄地・旗本領地・他藩の領地などが複雑に入り組んでいた。資料集『新聞“いはらき”に見る河内町』によれば、河内の歴史は平安時代まで遡ることができるという。室町時代に源清田、長竿、金江津の各区が拓かれ、戦国時代には江戸崎の土岐氏の支配下にあった。徳川家康が関東に領地を持った頃に支配下にはいり、間もなく源清田は麻生藩の支配下(長竿は仙台藩の伊達領、金江津は佐倉藩)となったが、寛文3年(1663年)の新利根川の開削によって幕府直轄領となり、その後旗本知行地となった。天狗党の襲撃の頃の源清田は旗本知行地であったが、水戸藩の内紛の影響を強く受けていた。

明治元年に「上総安房知県事管轄」となり、明治229日に「宮谷県」となった。明治4714日に「前橋県」を合併して、同年1113日に「新治県」となって、明治857日「茨城県」となった。浅野が生まれたころは「新治県」であった。このように源清田村一帯は古くから豊かな土地であったことが分かる。

 

☆水戸藩の特殊事情

水戸藩の藩主は定府(江戸常住が制度化された)であり、参勤交代の義務はなかった。定府制のため江戸と水戸に二つの藩邸が存在しているので、国元では常に領主不在の状態で、「江戸家老・執政」と「城代家老・執政」との間で情報の伝達の誤伝、齟齬等が生じやすい制度上の欠陥を持っていた。水戸藩の歴史を読んでみると、この藩主が江戸に定府するという制度上の欠陥が幕末に集中して出ており、これによって党派間の闘争が激化していった一因が読み取れる。

水戸藩における学派(党派)対立の端緒は、享和3年(1803年)2月に「大日本史」の「論賛」削除問題であった。この事件で立原翠軒らが彰考館を去ったが、これ以降立原翠軒派(佐幕派:穏健的)と藤田幽谷派(尊皇派)とが分裂して、党派(学派)闘争へとつながる端緒となった。これが1860年代以降、水戸藩の定府制度の欠陥の露呈と党派間の内紛激化に伴って、明治初年に至る凄惨な「水戸戦争」に連なっていった。

 

☆水戸の内紛

幕末水戸藩では改革派(鎮派、激派)と保守派との対立が激化して、18643月に水戸藩の尊王攘夷派の激派(=天狗党)が筑波山で挙兵して、その挙兵を契機に各地で激しい騒乱がおこった。茨城県西部・南部や栃木県では、幕府の天狗党追討軍との間で戦いが繰り広げられた。茨城県の南部には潮来館・小川館・玉造館などの水戸藩の郷校(→農民などの教育機関であり、尊王攘夷思想普及の拠点であった)があり、ここを拠点として天狗党が各地で暴行・押借事件を起こしていた(→「村に天狗がやってくる」として恐れられていた。栃木町は焼き打ちにあった)。水戸の藩校である弘道館の学生(→学生は諸生と呼ばれていた。そのため諸生派という呼び名が付いた。佐幕派のこと)を結集した保守派と改革派の天狗党は、明治の初めまで血みどろの内戦を繰り広げていた。明治の廃藩置県(明治4年:1871年)頃までは、水戸人にとっては「受難の時代」であった。

 

浅野和三郎が生まれた当時の利根川沿岸の村々(源清田村を含めた地域)はコメの生産地であった。幕末期この地域は、天狗党が軍用金を徴発するための“襲撃のターゲット”になっていた。河内町が発行した次の資料に載っている。

河内町史編纂委員会編『図説、河内の歴史』(2003年刊)

河内町史編纂委員会発行の郷土研究誌『かわち、第7号』

 

上記『河内の歴史』(143頁)によれば、

――元治元年(1864年)910日付の地頭所役場からの達書が金江津村(現在の河内町)名主伝五左衛門の手許に届いた。その達書には漁船のほかは船を出さないようにという内容が書かれてあった――。

この達書の存在によって、伝五衛門にとって天狗争乱は極めて身近な憂慮すべき問題であったということが窺える。

 

上記『かわち』(第7号)所収の根本赳著「天狗党秘話」によれば、

――天狗の鉾先が向いてきたらしい。福田の藤右エ門や、田川の岩橋家も同断であったと伝え聞く(一部鴻巣篤義氏談)。金江津では福田嘉兵衛家も彼らの目標となった。福田家の当主錦斉先生は近隣に鳴り響いた人物であったためでもあろうか――。

このように天狗党は、当時の源清田村(河内町)の住民にとって日常生活に大きな影響力を及ぼしかねない存在であったことが分かる。

 

☆水戸藩の主役交代

評論家で婦人問題研究家の山川菊栄の祖父は弘道館の教職にあった人だが、彼女には幕末維新を題材にした著書(→山川菊栄著『覚書、幕末の水戸藩』岩波文庫1991年刊、『武家の女性』岩波文庫1983年刊)がある。

上記『武家の女性』162頁以下に次のような記述がある。

――内紛と復讐とに没頭して中央の政治勢力から落伍してしまった水戸藩は、世間の進歩からも取り残され、文明開化の声すらきかず、御一新が来ても天狗さんが諸生さんに替ったというだけで、ほかには何の変わりもありませんでした。

かつて天狗党の家族をみまった悲惨な運命は、今度は諸生党の家族の上に落ちてきました。大きい息子たちは殺されたので、助かったのは、田舎や他領にかくまわれた幼児たちでした(177頁~178頁)――。

 

☆島崎藤村著『夜明け前』

島崎藤村著『夜明け前、第一部下』(新潮文庫)111頁以下参照。

島崎藤村は『夜明け前』の中で水戸藩の内紛を次のように記している。

――(水戸藩)一つの藩は裂けて闘った。当時諸藩に党派争いはあっても、水戸のように惨酷を極めたところはない。誠党が奸党を見るのは極悪の人間と心の底から信じたのであって、奸党が誠党を見るのもまた御家の大事も思わず御本家大事ということも知らない不忠の臣と思いこんだのであった。水戸の党派争いは殆ど宗教戦争に似ていて、成敗利害の外にあるものだと言った人もある(116頁)――。

――幕府の水戸における内外の施政に反対した志士は殆ど一掃せられ、水戸領内の郷校に学んだ有為な子弟の多くが滅し尽くされたことは実に明日の水戸のなくなってしまったことを意味するからで、水戸は何もかも早かった。諸藩にさきがけして大義名分を唱えたことも早かった。激しい党争の結果、時代から沈んでいくことも早かった(194頁)――。

 

☆政策的に水戸学を利用

明治初期の茨城県は、幕末維新の内戦によって人材が払拭して人心が荒廃していたこと、政府に対する「不平分子」が多かったこと、地租改正反対のための農民一揆が全国に先駆けて起こったこと、自由民権運動が盛んであったこと。このようなことを理由に「他国者との融和はしにくい固陋さ、頑固者の多い精神風土とされてきた」「全国有数の難治県(治めにくい県)と云われた」。そして明治政府はこのような風土を考えて、「それを変えるには(県の上層部を他県からの)天下り的か・・・などして解決する道を選択している」。さらに「水戸学を利用して、それを結集の核として使っている」(芳賀登著『近代水戸学研究史』358頁)。

明治58月渡辺県令は赴任直前に県の役人全員を更迭して水戸藩士族を退けたため、その報復として水戸城が放火された。そのため旧士族の懐柔策として、明治6年常磐神社の創建が認められて明治10年竣工。また招魂社の建立などが明治政府の「国家の祭祀」の中に組み込まれて「水戸人結集の核として水戸学が政策的に利用された」。

 

 

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