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長南年恵の不思議現象

ア)長南年恵の実在性

☆長南年恵の弟の話

心霊科学研究会は「心霊現象を研究審査すべき真面目な機関が日本国にただの一つも設置されていないのは余りに時代遅れである」(『心霊研究』創刊号、『心霊界』創刊号の記載)として、浅野和三郎は自ら主唱者となって奔走し、大正12年(1923年)323日に心霊科学研究会を創立した。そして本部を東京・本郷元町(現在の文京区本郷)1丁目11番地の中野岩太(→夫婦とも大本信者。資料によっては“中野岩太郎”という表記もある)の自宅に置いて、機関誌『心霊研究』を発刊した(→この機関誌は関東大震災によって3号で廃刊となった)。しかし心霊科学研究会は関東大震災で事務所が罹災したので大正1212月に本部を大阪に移して、廃刊となっていた機関誌は翌年2月に『心霊界』として復刊させた。

 

この雑誌『心霊界』創刊号に「長南年恵の奇蹟的半生(注1)」という記事が掲載された(雑誌『心霊界』創刊号82頁~112頁)。その記事によれば、浅野は大正124月中旬に人を介して長南雄吉(→資料には“をさなみゆうきち”とルビがふってある)を紹介された。雑誌『心霊界』の記事では「本会が最初さる人から、日本蓄電池株式会社の専務取締役長南雄吉という人の姉年恵(としえ)という婦人に関する事柄の報告を受けた」と記されている。

当初、心霊科学研究会の編集部員や実験部員の間では、この話は「話半分」として疑っていた(注2)。しかし関係者の氏名が判明していたので大阪在住の会員を通して長南雄吉の所在確認を行って、訪問の約束を取り付けたという。浅野は大正12622日に長南雄吉の自宅(天王寺茶臼町3708番地)に出向いて長南年恵にまつわる現象を詳しく聞いた。

 

☆長南年恵とは

長南年恵(1863年→1907年:戸籍上の名前は登志惠)は「山形県西田川郡稲生村大字八日町乙86番地(現在の鶴岡市陽光町)」で生まれた。年恵の父の寛信は庄内藩の藩士であったが明治維新で零落し、年恵が19歳の時に死去した。間もなく「一家はたちまち離散状態となった」という。

 

長南雄吉は姉の年恵について浅野に次のように語った。「姉が人並外れて寡黙の性質であったこと、母や目上に対して極めて従順で、未だその命令に背くようなことが無かったこと、体質が優れて強健であったこと、それから無欲も無欲、ほとんど馬鹿に近いほど無欲で、人が欲しいと言えば、羽織でもかんざしでも、さっさと呉れてしまって惜しまなかった」と。さらに長南雄吉が郷里に帰った際に、年恵の母は雄吉に涙ながらに次のように話した。「今年35歳(→雄吉の記憶違いで30歳が正しいらしい。なぜなら年恵は文久3年=1863年生まれだから。不二龍彦著『日本神人伝』学研2001年、198頁参照)にもなるのに、年恵はまだ経水もなく、身体ばかり大きく、顔なり、気分なりはまるで1314の小娘のようである。それにまた近頃は煮たり焼いたりしたものは一切食べず、ホンの少量の生水と生のサツマイモを食べるばかり・・・、そして家の中では時々不思議も起こります。何事もないのに家鳴り振動したり、また神様から品物を授かったり」(注3)という。

 

イ)貴重な心霊資料

☆心霊現象を撲滅する

郷里から大阪に戻った長南雄吉のもとに、郷里の親類縁者・村役人・学校の教員などから、たびたび姉に関する情報が寄せられるようになったという。その情報とは、近頃全く両便が不通になったこと、日清戦争の予言が的中したこと、不思議に病気が治るので遠方から病人が訪ねて来ること、空中で笛・鈴などの音楽の合奏があること、巡査が警戒して巡回してくることなどであった。

長南雄吉は「当時の日本の官憲はいかにして心霊現象を撲滅し、この無邪気なる霊覚婦人を抑圧すべきかに全力を挙げたのでした。西洋の物質文明に中毒した日本の官憲は、恐らく国内に係る心霊現象の起こるのを国家の恥辱とでも考えたのでしょう。とにかく当時の長南年恵に対して執れる態度方針は無茶というか、乱暴というか」(注4)と述べている。

 

☆当時の社会状況

明治時代、各種心霊現象に対する政府や社会における扱いはどうであったか。

徳川幕府は大政奉還によって権力の座から退き、明治政府は天皇親政のもとで、短期間で西洋列強に比肩する近代国家建設を独力で推し進めた。とくに政府は近代化推進のために、西洋伝来の科学や思想・制度を積極的に導入して、社会の各層に残る前近代的な遺物、蔓延していた迷信(→キツネやタヌキが人間を化かす、人間に取り付く、山彦は山に住む動物の返答であるなど)や祟り(→祟り地、霊木の祟り、動物霊の祟りなど)を積極的に排除していった。この政府の近代化政策は、社会の各階層の人たちに意識の変革を迫ることになった。とくに合理的思考と相入れない心霊現象(→霊媒現象・千里眼・予言など)は迷信の一種とされて、学問を身につけた人たちの間では、福来友吉の「千里眼事件」報道に見られるように軽蔑の対象となって、まじめに取り扱われることなく排除されていった。

 

このような背景があって明治政府は、心霊現象は迷信か詐術でありそれを行うものは「安寧秩序を乱す者」であるとして取り締まりの対象(→三田光一の事例にみられるように幼少期の少年といえども例外ではなかった)として排除に乗り出した。

明治6年(1873年)115教部省通達(梓巫市子馮祈祷狐下ケ禁止ノ件:教部省第二号達)で、「梓巫(あずさみこ)、市子(いちこ)、馮祈祷(よりきとう)、狐下(きつねさげ)等禁止」したまた明治7年(1874年)67教部省通達(禁厭祈祷ヲ以って医薬ヲ妨クル者取締ノ件:教部省第22号達)では、まじないや祈祷で医療類似行為を行うことを禁じた。このような依頼者の求めに応じて霊を呼び出すこと、霊媒(巫女、いたこ等)にかからせることなどの行為が政府の通達で禁じられた。当時はこのような通達・方針が多く出されており、政府の方針が地方の末端行政組織にまで行き渡っていたことが分かる。

 

この時期は、心霊現象は迷信と同列視されて排除の対象となっていたため、霊媒はさまざまな弾圧を受けている。霊媒三田光一の場合は「不良の子弟である狐つき」の光一少年の放置は、地域社会の秩序を乱すとの理由から座敷牢に幽閉する処置に付された。同じ頃、奥羽山脈を越えた日本海側の山形県鶴岡市でも、庄内藩の没落士族の家に生まれた長南年恵の身の上にも同様な悲劇が降りかかっていた。光一少年の場合は座敷牢に幽閉であったが、32歳(明治28年前後)の年恵は7月から60日間にわたって監獄に拘留された。

 

☆年恵に対する弾圧

長南雄吉は、警察が姉を地域の秩序を乱すとして、山形県監獄鶴岡支署に監禁したことについて憤慨して語っている。長南雄吉は鶴岡支署長宛に「事実証明願」を提出したが、「明治32921日付を以て長南年恵在監中之儀に付き願い出の件は、証明を与えるの限りに在らざるを以て却下す」とされて戻された(注5)。

 

二度の逮捕拘留の後、伊勢参宮を口実にして明治33年(1900年)に姉を郷里から連れ出して雄吉宅に逗留させていたが、8月に三度目の逮捕拘留があった。人づてに「不思議な神女が大阪に来るとの風評により、大阪の雄吉宅に病気直しや伺いを立てる人が大勢尋ねてきて大騒ぎ」になったという。この騒ぎを「大朝」という新聞(→大阪朝日のことか?)が記事(明治338月の記事)にしたが、この記事が原因となって雄吉宅は家宅捜査にあい、年恵は逮捕・拘留された。

年恵は大阪区裁判所で拘留10日間の判決があり、長南雄吉はこれを不服として控訴した。大阪控訴院で控訴破棄されたが、神戸地方裁判所で再審理を受けた。1212日の神戸地裁の公判で「中野裁判長から、被告はこの法廷においても霊水を出すことが出来るか」との質問により、年恵は弁護士詰所の中の電話室を借りて厳重に検査されたうえで、空き瓶のなかに霊水を取り出した。このことによって年恵は即刻無罪となった。この裁判の記事は各種書籍で引用されているが、引用元になった記事は明治331214日付「大阪毎日新聞」の記事である。

 

☆長南年恵の位置づけ

長南雄吉は姉の周囲で起こる現象は研究材料になると考えて、井上円了と相談の上、手続きをとろうとしたところ「姉の身辺を囲繞する例の頑固連の猛烈な反抗により、惜しいかなその計画も実行されずに過ぎてしまった」と述べている。頑固連とは「物の道理の判らぬ者や神をダシに使う宗教策士達」のことを言うとしているが、彼等は研究とか実験とかいう事には常に極力不賛成を唱えた(注6)。

このように自分たちの思い通りに年恵を利用しようとする人たちが出てきたこと。そして病気直しや相談事を行う物欲のない無邪気な年恵を囲い込んで、一般相談者との間に壁を作ってしまうこと。このようなことは宗教教団の初期によく見られる現象であり自然な流れであろう。

 

このような長南年恵の心霊現象は、弟の雄吉によって数多くの証拠物件が残されており、裁判所の判決や「事実証明願」等によって、それらの現象の真実性が担保されている。

埋もれていたこれ等の資料が、浅野たち心霊科学研究会のメンバーの調査によって表に出されて、日本の「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチの草創期」における極めて貴重な心霊資料となった。現在、長南年恵の事績を知り得るのは、このような地道な資料収集があったからであり、彼らの功績に負うところが大きい。

なお浅野は昭和3年(1928年)にロンドンで開催されたISF大会で長南年恵に関する報告を行っている(注7)。

 

浅野は昭和3年の国際スピリチュアリスト会議に参加しての帰りに、ボストンのクランドン邸で行われた霊媒マージャリー夫人の物理実験会(昭和31017日)に出席した。その最中に出現した霊が“ラッパ”を使って浅野に「オサナミ」「オオサカ」「アリガトウ」「サヨナラ」と日本語で語ったという。浅野は「大阪に在住されていた故長南雄吉氏の霊魂が、私に向かって試みた霊界通信であると推定される」(注8)と述べている。

 

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<注1>

■長南年恵の名前の読み方は「ちょうなんとしえ」と「おさなみとしえ」の二通りある。浅野和三郎は「長南年恵の奇蹟的半生」の中で、「日本蓄電池株式会社の専務取締役長南雄吉(をさなみゆうきち)という人の姉年恵(としえ)・・・」と記して、わざわざ「長南雄吉(をさなみゆうきち)」とルビを振っている。本稿ではこの表記に従って「おさなみとしえ」とした。

■雑誌『心霊界』創刊号に掲載された「長南年恵の奇蹟的半生」は大きな反響を呼んだ。その後、昭和59月に心霊科学研究会発行の心霊文庫第三編『続幽界問答』の付録として「長南年恵物語」として再録されている。また昭和87月号『心霊と人生』には「長南年恵物語補遺」として掲載されている。

 

<注2>

■南博編『近代庶民生活誌19 ―迷信・占い・心霊現象』(三一書房1992年刊)214頁。

――本会の編集部員、実験部員の間にはしばしば次のような会話が起こりました。「話半分にきいてもこりア大変なものですネ」「しかしそれほどの珍奇な現象ならば、どうして今まで世間に喧伝せずにいたのでせう? 50年前100年前の出来事だというのなら無理もないが、明治30年代、しかもそれが大阪の真ん中で起こり、裁判沙汰にまでなっているというではありませんか。いかに物質万能の時代とはいえ、これはあんまりではないでしょうか」「しかし関係当事者の姓名も判っていて、いかにも相当の根拠があるらしい。議論は後回として何よりもまずその長南という人に直接面会してみるのが近道ですね」となって、調査が始まった――と。

 

<注3>

■田中千代松編『新・心霊科学事典』(潮文社1984年刊)320頁以下。

長南年恵に関する記載を箇条書きにまとめた。

25歳>食事に変化が起き、以後サツマ芋を生のまま一日200g程度と少量の生水を取るだけで、煮焼したものは受け付けなかった。

30歳頃>この頃から次第に霊能力を発揮し始める。アポーツ(八幡宮のお札など)や失せ物を言い当てる。家なり震動など。と同時にほとんど何も食べなくなり、果物の汁を吸う程度で水も少しばかり口を湿すくらい。

31歳>両便(大小便)不通になる。40日間ほど腹の張りや胸のもやつきが続いて苦しむが、それが収まると“神様がおいでになるように”なった。

32歳>7月より60日間“妄りに吉凶禍福を説き、愚民を惑わし世を茶毒する詐欺行為”として山形県監獄鶴岡支署に拘留される、続いて翌年10月にも同罪で7日間再拘留される。

 

■南博編『近代庶民生活誌19 ―迷信・占い・心霊現象』(三一書房1992年刊)217頁。

弟の雄吉はこのような姉の生理現象や不思議現象について疑いを持っていたという。「姉が煮焚きしたものを食べられない事が第一に信じがたい事柄でした。食べられないのではあるまい。自分の気ままで、そんな事を言って居るのだろう。私はそれ位に考えて、真っ先にその真偽を確かめてみようと決心した。・・・私は素知らぬ振りをして湯冷ましをつくって、それを生水だと称して姉に勧めたのであります。無邪気な姉はそんな企みのあることは夢にも知らず、何気なくそれを飲みましたが間もなく非常な苦痛で、飲んだ湯冷ましを吐いたばかりでなく、その後で血を吐いたのです。それがただ一回の吐血なら、偶然という事もありますが、試験のつど必ずそうなのですから、さすがに頑固な私もこの事実だけは承認せざるを得なくなりました・・・事実はあくまでも事実で、理屈を以ってそれを取り消す訳にはまいりません・・・なお私が帰宅したその当夜から、母の述べた家鳴り震動、その他数多い怪異が起こったことも事実でした」と浅野に述べている。

 

<注4>

■南博編『近代庶民生活誌19 ―迷信・占い・心霊現象』(三一書房1992年刊)219頁。

 

<注5>

■長南雄吉は山形県監獄鶴岡支署長渡辺吉雄に対して、長南年恵が明治287月から60日間、および明治291010日から7日間、監獄に拘禁された際の年恵の身の回りで実際に起きた事実に対して列挙して証明願を提出した。しかし鶴岡支署は、下記の事実証明願に対して次のような文面の付箋を付けて却下した。「明治32921日付を以て長南年恵在監中之儀に付き願い出の件は、証明を与えるの限りに在らざるを以て却下す」。

長南雄吉が証明すべきとして記載した項目は以下のとおり。

1.60日の拘禁期間中、一切の大小便がなかったこと

2.拘禁期間中、絶食

3.拘禁中に前署長の有村実礼の求めに応じて、監房内において神授を受けて、霊水一壜、

守り一個、経文の一部、散薬一服を贈与したこと

4.同囚の求めに依り散薬を与えたところ、身体検査の際に発見されたこと

5.監房内の年恵に神が降りてくると、空中から笛声鳴物の音が聞こえること

6.60日間の拘禁中、洗髪入浴禁止にもかかわらず、髷はいつも結いたてのようであった

7.一斗五升(約27キロ)の大桶の水を絶食中にもかかわらず軽々と運んだこと

8.夏季蚊虫群集するも、年恵ひとり蚊帳の外に寝起きしたが蚊等に刺されなかったこと

 

■田中千代松編『新・心霊科学事典』(潮文社1984年)322頁の記載では、「官憲である鶴岡支署は、この願書を表向きには却下としながらも、実際には事実として認めたに等しい返書を雄吉に与えている」としている。これは後の心霊研究の貴重な証拠となった。

 

<注6>

■南博編『近代庶民生活誌19 ―迷信・占い・心霊現象』(三一書房1992年刊)223頁以下。

 

<注7>

■浅野和三郎著『世界的名霊媒を訪ねて』(心霊科学研究会1949年刊)188頁。

 

<注8>

■浅野和三郎著『世界的名霊媒を訪ねて』(心霊科学研究会1949年刊)145頁。

 

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