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芥川龍之介と海軍機関学校

■芥川龍之介の海軍機関学校の勤務振りはどうであったか。幾人かの作家の作品の中にその様子が散見できる。

 

■清水昭三著『芥川龍之介の夢』(原書房2007年刊)に海軍機関学校時代の英語教官の様子が描かれている(25頁~30頁参照)。

25歳の気弱で長髪の芥川の担当授業は「実用英語」であった。芥川は生徒たちが将来海軍士官として、外国で充分自分の意思を英語で表現できて相手の言葉も理解できるまでに、一人ひとりが実力をつけることを期待して授業を行ったという。

芥川には独特の持論があった。「学校は勝つためのことばかり教えている。敗けることも考えるべきだ。戦争は勝っても敗けても末路においては同じ」との考えから、彼の英語教材はすべて敗戦物語や衰亡の歴史物語であったという。「戦争に敗れる」という表現は当時の将校養成学校では禁句である。そのため佐官クラスの教官からは「芥川は反海軍的でまことによろしくない」という批判を浴びたという。また芥川の授業風景は「武官は直立不動の姿勢で教えていたが、文官の芥川は椅子を使い、足を組み、横向きになって話す。大正天皇が行幸のときも、横須賀鎮守府司令長官の参観の折も芥川の姿勢は変わらない」「艦砲の音が響くとウルサイという表情で『バカなことをヨーロッパでしているだろう』と生徒に話しかける。生徒は『なぜバカな事ですか』と気負い立つ。芥川はこことばかりに『人殺しはバカなことだろう』と首根っこをおさえてしまう。学校での芥川のニックネームは『敗戦教官』となった」と。

 

■元文官教官の座談会「あの頃の海軍機関学校」につき、下記のホームページ参照(現在はリンク切れの状態です)。

http://tng.sub.jp/a_tango55/mypg3/mypg-053.htm

海軍では、艦が揺れているときでも「立ったままで的確な判断を下さねばならない」との理由から、「休息時でも壁に寄り掛かったり、芝生に寝転がってはいけなかった」という。

教室で教官や生徒が椅子に座れないように、わざわざ机を高くして授業を行ったクラスもあった。このような海軍の伝統から見れば、芥川の授業風景は特殊であったようだ。

 

■芥川龍之介の短編作品に、日露戦争の旅順・奉天の戦いを題材にした『将軍』(大正11年:1922年)がある。この短い作品の中に16箇所、検閲で削除させられて伏せ字になっている箇所がある。たとえば「名誉の敬礼で生命を買い上げて殺す」「陛下に」「陛下の御為」「生命までくれと」「兵隊になった瞬間から、ここで死ぬと決まった」などの表現が元の原稿から削除されたと言われている。

この作品からも芥川が「左翼的、反軍的」な人であったことが感じられる。

 

■内田百閒著「竹杖記」:内田百閒著『私の漱石と龍之介』(筑摩書房1965年刊)所収、196頁~216頁参照。

芥川と校長の船橋の談笑風景が内田百閒の「竹杖記」に生き生きと描かれている。内田の見たある日の食堂風景として、校長(在職:大正6121日~大正1091日)の船橋善弥中将と芥川が文学談をしている。

――「校長、そりゃ駄目です」「面白いと言う意味が違いますよ」。老校長は、芥川の方に向かって、ニコニコ笑いながらいつまでも負けなかった。「そんな事を言ったところがだ、つまり誰も読まんだろ。人が読まんでもいいのかね」。満堂の高等官たち、即ち海軍士官の教官や職員と文官教授とが、食後の茶を飲み、煙草を吹かしながら、二人の議論を聞いているのである――(205頁~206頁)。

陸軍では職名に敬称をつけるので、校長閣下、教官殿(→勅任待遇になると教官閣下になる)と呼ぶが、海軍では呼び捨ての風習があるので、校長、教官となる。芥川が敬称を付けずに「校長」と呼んでいたのは、海軍ではごく自然なことである。このような船橋善弥校長の存在や、比較的校風が自由な海軍機関学校ゆえに“ミスマッチの芥川”も勤まったようである。厳しい陸軍大学や陸軍士官学校では一月も持たないであろう。

 

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(6)」:雑誌『心霊研究』昭和491月号参照。

宮澤は前著の中で芥川が海軍機関学校を辞職した理由を「芥川氏は機関学校より、英文英語担当の海軍教授たることを求められたので、これを嫌って教授嘱託を辞し、更に文学に専心するようになった」と記している。創作に携わる者として、世俗的な地位よりも自由を求めたのであろう。

 

■芥川龍之介の教官就任は、最後まで「本官」にならず「嘱託」のままであったという。

 

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