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霊的実在の証明方法の変更

目 次

 

①.霊界側の戦略・証明方法の転換

・近代スピリチュアリズムの幕開け

・霊界側のアプローチの変化

・「一大計画」に沿った心霊治療

・高級霊シルバーバーチの役割

 

②.物理的心霊現象の実験会

・百花繚乱の時代

・北村熊雄の感想

・物理的心霊実験会の曲がり角

 

③.民間医療に対する規制

・近代合理主義思想による取り締まり

・民間医療が主役の時代

・警察処罰令による規制

・催眠術から霊術へ

 

④.日本における心霊治療

ア)1960年代までの心霊治療

・加持祈祷

・サイキック・ヒーラーの活躍

イ)特徴的な人物

・浜口熊獄

・三田光一

ウ)スピリット・ヒーリングの黎明期

・心霊治療(スピリット・ヒーリング)の試み

・海外における心霊治療の調査研究

1980年前後の状況

 

<注1>~<注22

 

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①.霊界側の戦略・証明方法の転換

☆近代スピリチュアリズムの幕開け

人間の本質は霊であり、霊の世界からの働きかけは常に存在すると言う立場を「スピリチュアリズム(Spiritualism)」といい、この考えは古代から存在していた。

これに対して「新スピリチュアリズム(New SpiritualismModern Spiritualism)」とは、上記のスピリチュアリズムの立場を認めた上で、さらに「顕と幽の交信は科学的に証明が可能であるとの確信の上に立つ立場」をいう。この点が従来のスピリチュアリズムとの違いとなっており、「スピリチュアリズム(Spiritualism)」という言葉に「New」や「Modern」がつけられた所以である。この「新スピリチュアリズム」の幕開けは1848331日アメリカのニューヨーク州の寒村、ハイズヴィルのラップ現象から始まった。

 

高級霊のシルバーバーチは、この「新スピリチュアリズム」運動を霊界側から見て次のように説明している。「このたびのコミュニケーションは組織的であり、協調的であり、監理・監督が行き届いており、規律があります」(注1)と。さらに「(新スピリチュアリズムの運動は)一大計画の一部として行われており、その計画の推進は皆さんの想像も及ばないほどの協調体制でおこなわれております。背後の組織は途方もなく巨大であり、細かいところまで見事な配慮がなされております。すべてに計画性があります」(注1)。このように突破口となったハイズヴィルの低級霊の背後には、巨大な組織や霊界側の戦略が存在することを示唆している。

 

スピリチュアリズムの勃興期、霊界側は従来の物理法則では説明ができない現象を「物理的心霊現象」という形で示して、当時の科学者の関心を呼びこんで、科学的な手段を用いた方法で霊的実在の証明を行おうとした(注2)。この方法は当時の人たちの唯物論的思考法や霊的レベルに対応した証明手段であって、霊界側の「一大計画」に沿ったものであった(注3)。これに対して世間の人は「テーブルラッパー」と呼んで、サークルのメンバーを軽蔑し嘲笑した(注3)。

 

☆霊界側のアプローチの変化

霊界主導で始まった「新スピリチュアリズム」運動は、20世紀初頭にアプローチの変化があった。著名な科学者を巻き込んだ物理的心霊現象による霊的実在の証明の歴史が「詐術の嫌疑との闘いの連続」であったこと(注4)、20世紀に入り古典物理学が破たん(→相対性理論、量子力学などの登場)したこと、このような要因によって霊界から地上への働きかけにも当然に変化が生まれてきた。1920年代以降、心霊治療(sprit healing:スピリット・ヒーリング)が盛んになったのはその一つの表れであった(注5)。

高級霊のシルバーバーチは物理的心霊現象が次第に衰退して、それに代わる形で心霊治療が現れてきた背景を、「地上の人間の進化のサイクルが変わりつつあるからです」(注6)と説明している。さらに心霊治療に関しては「身体の病気を治すという意味では物質的ですが、それを治すエネルギーは霊的なもの」(注5)と述べている。このように心霊治療は霊界側が用意した、現代の風潮にマッチした霊的実在の証明手段の一つである。

 

☆「一大計画」に沿った心霊治療

物質世界に現れた霊的徴候から霊界側の意図を推察してみると、次のような霊界側の「一大計画」の存在が推測できる。

治療師の生体エネルギーを使った広義の意味での心霊治療は従来からあった。この心霊治療という形式を用いながら、“中身=治療の質”を高めてより洗練した形に作り変えて、これを「霊的実在の証明」手段として用いるようになってきたのは、1920年代後半以降ではないかと思われる。この従来の「物理的心霊現象」から「霊界の霊医による心霊治療(sprit healing)」という概念を用いた方式への転換は、霊界側の「地上世界にスピリチュアリズムを普及する」という戦略に沿ったものであった。

なおこれは主たる証明方法が「霊界の霊医による心霊治療」に転換したという意味であって、従来の「物理的心霊現象」に関しては、これを必要とする人や地域においては、いまだに「物理的心霊現象が主たる証明方法として有効な手段」として存在している。

 

イギリスにおける「心霊治療(sprit healing)」の功労者の一人W.T.パリッシュは、癌を患っていた妻を心霊治療で治癒させたことから名声が広まり(→手紙は1年間に15,000通に及んだという)、1927年から始めて1946年に死去するまで心霊治療に献身的に携わった。

C.A.シンプソンは1928年に「治療組合(通称名:求道者)」で心霊治療を始めた。またW.H.リレイは1939年にリーズで治療所を作って心霊治療を行った(注7)。その後ハリー・エドワーズ(1893年→1976年)が出現して、「心霊治療(sprit healing)」は広く知られるようになった。

 

☆高級霊シルバーバーチの役割

シルバーバーチは1920年に霊媒バーバネルを介して出現して、1930年代中頃から「本格的」に活動を開始した。これを時期的に見れば、霊界側において「霊的実在の証明」方式が「物理的心霊現象」から「霊界の霊医による心霊治療」に転換した時期と重なっている。なお「本格的に活動を開始した」とは、シルバーバーチが霊媒の潜在意識に影響されずに、純粋な霊的教訓を地上に降ろすことが出来るようになったという意味で用いている。

 

『シルバーバーチの霊訓』を通読してみればよく分かるが、シルバーバーチの使命はスピリチュアリズムの土台部分である「霊魂説の証明(=第一ステップ)」にあったのではない。この「第一ステップ」を踏まなくても、または踏むことによって「霊魂説」の上部構造に位置する「スピリチュアリズム思想(哲学)」を理解できる人が対象となっている。そしてこの「スピリチュアリズム思想」を日常生活の中で実践すること、つまり霊的摂理に則った人生を歩むことを促す点にシルバーバーチの使命があったわけである(=第二ステップ)。

 

シルバーバーチの出現と同時期に普及し始めた心霊治療(スピリット・ヒーリング)は、その本質を患者の霊的覚醒に置いている。いわば病気治癒をきっかけとして自らの生活や考え方を見直すという、“自己努力を伴った生き方の変革”である(=第二ステップ)。

「霊的実在の証明」方法としての「物理的心霊現象」は、主に第一ステップの「霊魂説(→死後個性の存続、顕幽の交流は可能)」を証明して、霊的知識を普及するためのデモンストレーションとしての意味があった。これに対して心霊治療はどちらかというと第二ステップの「生き方としてのスピリチュアリズム」に比重が置かれている。このような点から判断して、霊界の「一大計画」に沿った地上側の進捗状況は、一ランク進んで地上人類は「新たな時代」に突入したことが分かる。このようにシルバーバーチの出現時期と心霊治療(スピリット・ヒーリング)の普及時期とは密接に連動している。

日本では物理的心霊現象は、昭和初期から昭和20年代にかけて興隆を極めたが、この「霊的実在の証明」方法の転換はどのような形で行われたか。その転換の経緯を検証してみた。

 

②.物理的心霊現象の実験会

☆百花繚乱の時代

日本では昭和4年(1929年)に最初の“霊的潮流のターニング・ポイント”があった。これ以降、主に“浅野和三郎系の霊媒”の活躍によって、日本でも西洋に見劣りしないような物理的心霊現象が数多く出現し、心霊知識の普及活動に大きな役割を果たしてきた。このような形で物理霊媒が活躍した「百花繚乱の時代」は昭和20年代まで続いた。

 

昭和20年代(1945年~1954年)に物理的心霊現象の実験会がたびたび開かれていたことは、当時の雑誌『心霊研究』の記事から分かる。

たとえば昭和22年(1947年)7月号の『心霊研究』誌には、「東京在住会員有志」による会合で物理的心霊実験会が行われたことが記されている。同年8月号には日本心霊科学協会の総会終了後に会員懇話会が開かれて、その中で実験会が行われた。またこの時の総会では「一月に二回程度の実験会を開催する計画」が報告されている。

 

萩原真霊媒による物理的心霊実験会は、昭和22年(1947年)9月号の『心霊研究』誌の中で「818日開催、萩原霊媒心霊現象実験会」として報道されており、その実験会の模様は「萩原真氏の物理的心霊現象実験記録」として昭和22年(1947年)10月号の『心霊研究』誌に掲載されている。

さらに昭和23年(1948年)110日に行われた物理的心霊実験会の模様は、昭和235月号の『心霊研究』誌に「萩原氏の物理的心霊現象実験会の記録」として掲載されている。このように萩原霊媒の心霊実験会は、昭和22年(1947年)の夏以来、毎月二回ないし三回の割合で開催されていた(注8)。上記以外にも萩原霊媒の実験会の模様は、昭和23年(1948年)8月号、9月号、昭和24年(1949年)1月号、2月号、4月号にも掲載されている。

 

雑誌『心霊研究』誌の昭和24年(1949年)3月号には「東京心霊相談所実験室より」として、実験会の模様が掲載されている。この3月号には「東京心霊相談所白龍会」の広告があり、ここに竹内満朋霊媒と萩原真霊媒による交霊会の日程表が記されている(→ちなみにこの広告は『心霊研究』誌の3月号から11月・12月合併号まで掲載されている)。広告にある日程表によれば物理的心霊実験会は昭和24年(1949年)4月には17回開催された。

竹内満朋霊媒による物理的心霊実験会の記事は、主に「東京心霊相談所実験室より」として雑誌『心霊研究』誌に掲載されている。昭和24年(1949年)7月号、同年10月号には、北村研による「竹内さんの空中飛行」と題する記事が載っている。

 

津田江山霊媒による物理的心霊実験会の記事は、昭和22年(1947年)10月号の『心霊研究』誌の「報道」欄に、920日に物理的心霊実験会が行われた旨の記事がある。この時の模様は雑誌『心霊研究』誌の昭和22年(1947年)11月・12月合併号と、昭和23年(1948年)1月号、同年2月号、同年3月号にかけて「津田江山氏の物理的心霊実験報告」として掲載されている。さらに昭和23年(1948年)6月号には、同年420日に大阪で行われた「津田江山氏の物理的現象記録」が報告されている。津田江山霊媒の物理的心霊実験会は上記以外に、昭和23年(1948年)11月号にもある。

昭和26年(1951年)5月の津田江山霊媒の物理的心霊実験会では、板谷松樹(東京工業大学教授)の指導の下で、赤外線乾版を使用して物品浮揚の赤外線写真撮影が行われた。この模様は昭和26年(1951年)6月号に記載がある。

なお前後するが、戦前に行われた物理的心霊実験会の報告記事(→霊媒弾圧事件前)が昭和22年(1947年)9月号に載っている。この記事によれば実験会は、昭和141214日に「霊媒は津田江山氏、審神者は間部詮信氏、場所は北村研氏の自宅」で行われた。

このように当時は、物理的心霊現象が「百花繚乱の時代」であった。

 

☆北村熊雄の感想

北村熊雄(元日本心霊科学協会監事)の父親は、当時の日本心霊科学協会理事の北村研であるが、熊雄は父親(北村研)の傍で物理的心霊実験を数多く見てきた。昭和20年代の「百花繚乱の時代」の感想を、晩年次のように述べている。

――戦後の混乱もやっと落ち着きを取り戻した昭和22年後半頃には、物理的心霊実験で著名な霊能者との連絡が取れた。昭和228月~9月にかけて、大阪の津田江山氏、東京の萩原真氏、竹内満朋氏による戦後最初の心霊実験が行われてより、十数回の実験が繰り返された。神戸の亀井三郎氏の実験は、やや遅れて昭和27年頃であった。当時どうしてこんなに心霊実験が同時に集まって起きたのだろうか、今も疑問に思っている(注9)――と。

 

☆物理的心霊実験会の曲がり角

雑誌『心霊研究』誌によれば、昭和2410月に日本心霊科学協会の幹部と作家の長田幹彦(1887年→1964年)との座談会が行われ、その中で協会理事の後藤以紀は「亀井氏も津田氏も(現象が)昔ほどで無いように思われます」と発言している。協会の理事長である吉田正一も「私も同感です。どうも近頃は物の動きの幅が以前と比べてあまり広いとは言えないように思われます」と述べている(注10)。このように従来から活躍してきた物理霊媒の能力衰退発言が協会幹部から発せられている。この発言を受けて新しい物理霊媒を発掘しようとする試みが始まった。

 

その試みの概要が当時の雑誌『心霊研究』誌の広告から窺える。昭和25年(1950年)4月号の『心霊研究』誌の表紙裏側一面を割いて、昭和25415日付で「全国の霊能者諸兄へ」という「お知らせページ」が掲載されている。内容は「物品浮揚またはエクトプラズムの放出、あるいは幽霊またはその一部分の物質化」および「念写」が生起できて、「審判委員によって確認された最初の者に対して賞金五千円を呈す」というものであった。

この広告は昭和25年(1950年)4月号から昭和26年(1951年)5月号まで継続して掲載された。この時の“審判委員”は、4月号の広告では板谷松樹(東京工大教授・工学博士)、後藤以紀(東大教授・工学博士)、長田幹彦(作家)、宮澤虎雄であった。翌月の5月号のお知らせページでは、審判委員に日野寿一(東大教授・医学博士)が加わっている。

 

物理的心霊実験会は、昭和26年(1951年)頃からは柳森神社社務所で行われた会員座談会の中で行われるようになった。雑誌『心霊研究』誌の編集後記に座談会の内容が記されており、そこから実験会の模様を読み取りことができる(→たとえば昭和274月号の編集後記など)。霊的実在を物的手段で証明しようとした時代には、華々しい物理的心霊現象が発生したが、1950年代に入るころにはエネルギーが衰えてきて、次第に下降傾向をたどるようになってきた。雑誌『心霊研究』誌の記事も「実験会の記録」の掲載から、次第に解説記事が多く掲載されるようになってきた。日本でもこの時期、遅ればせながら「霊魂説」を証明する手段が物理的心霊現象から次なる手段へと、移行する節目の時期に差しかかっていたことが感じられる。

 

③.民間医療に対する規制

☆近代合理主義思想による取り締まり

明治政府は民間で行われている呪法や医術の横行はときに社会的弊害が伴うとして、「加持祈祷等の医療行為」に対して厳しい態度で臨んできた。そして近代合理主義思想に合致しないものは、ことごとく迷信と見なして取締まりの対象として排除していった。

明治6年(1873年)115日に教部省通達(梓巫市子馮祈祷狐下ケ禁止ノ件:教部省第二号達)によって、「梓巫(あずさみこ)、市子(いちこ)、馮祈祷(よりきとう)、狐下(きつねさげ)等が禁止」された。依頼者の求めに応じて霊を呼び出して霊媒(巫女、いたこ等)にかからせる行為を禁じたものである。さらに明治7年(1874年)67日に教部省は「禁厭祈祷(きんえんきとう:まじないや護摩祈祷などによる災厄除けや病気治癒などを行う事)ヲ以って医薬ヲ妨クル者取締ノ件:教部省第22号達」を出して、まじないや祈祷で医療行為の類似行為を行うことを禁じた(注11)。

 

これ以降、同種の通達が何度も出ている。霊媒行為や加持祈祷行為禁止に関する明治政府の一連の通達は、公認非公認を問わず宗教活動に従事する人達にとって重圧となった。明治15年(1882年)には、2月に再度「禁厭祈祷をもって医薬を妨げることを禁じる」通達が出され、710日には「神官や僧侶などが禁厭祈祷(きんえんきとう)により病人を治療することが禁止」する内務省通達が出された。同年1月には内務省通達によって「神官の教導職兼補の廃止」が出された。これによって神官と教導職が分離(→神道は非宗教としたため神官は布教をしない)され、多くの教団指導者は「教導職の資格(→教導職ならざれば布教活動厳禁)」を取得して一連の通達を回避していった。

明治17年(1884年)10月には、内務省は、神道教派内の教会によって行われる禁厭祈祷による医療妨害行為の禁止を改めて出している(注11)。

 

このように明治15710日の内務省通達や明治17年(1884年)10月の再度の内務省通達において、教導職の「病気治し」行為が取り締まり対象行為であることを再確認している。この時代、生体磁気エネルギーを用いて心霊治療を行う者や、各種の行法を用いて治療行為を行う者は、絶えず取締りの対象とされていた(→長南年恵や浜口熊獄の治療行為に対する取締りの事例など)。このように霊媒行為や病気治し等の民間療法については、迷信の名のもとに取締りの対象とされてきた長い歴史が日本にはあった。

 

☆民間医療が主役の時代

日本では明治時代コレラ、ペスト、赤痢等の伝染病が繰り返し流行していた。大正から昭和にかけて徐々に医療水準の向上や衛生状態が整ってきたとはいっても、伝染病による死者数は現代と比較すると高水準にあった。

明治政府による医療制度改革によって、医師免許を得た者のみが医療行為を行えるように制度変更されたため、従来までの漢方のみを学んだ者は医師となる道が閉ざされた(→医師の資格を持つ者が漢方の診療を行うことは問題ない)。当時は近代西洋医学の教育を受けた医師は少数であり、一般の人々が今日のように気軽に医療を受診できる状況にはなかった。このような医師不足や公的医療保険制度の未整備によって、日本では昭和30年代後半まで、庶民が気軽に医療を受診できる環境にはなかった(→国民健康保険制度が整備されて“国民皆保険”が達成されたのは昭和36年のこと)。そのためさまざまな民間医療が興隆を極めていた。

 

このような時代、庶民は伝統的な医療(→明治の初期まで主流だった漢方や各種養生論)や民間療法(→薬草、温灸、指圧、食餌療法等)、庶民の中に深く根付いていた加持祈祷による療法、各種宗教の独自な療法などに頼らざるを得なかった。その中でも修験者(山伏)は、庶民の中に深く根付いた民間医療の担い手として大きな役割を果たした。

修験道は日本古来の山岳信仰が外来宗教(特に密教・道教・陰陽道)と混ざり合って、呪術的な活動を行う山伏(修験者)の宗教として平安時代に形成されたものである。この山伏は公的資格のない宗教者(僧侶でも神官でもない)であったが、村落の祭礼行事に深くかかわってきた実績があった。そのため「治病のための祈祷」を通して、中世後期以降、加持祈祷(治病・除役等)や薬草に関する知識を持った民間療法の専門家として、僧医とともに民間医療の主役を務めてきた(注12)。

 

☆警察処罰令による規制

宗教は死後の世界(魂の行くえ)を扱うが、一般に民衆が宗教に求めるものは「病気治し」や「商売繁盛」「家庭全般の悩み事」等の現世利益であり、始めから高邁な真理探求を求めて宗教の世界にやってくる人はまれであろう。そのため宗教者の多くは民衆の心をつかむため、その手段として心霊治療(→主に生体磁気治療のこと)や加持祈祷行為による現世利益を前面に出して、信者の獲得を目指してきた。明治政府は医学との境界があいまいな民間療法に対して、基本的に幕府の規制を引き継いで徐々に規制を強めていった。

 

明治30年後半ごろから催眠術が大流行し、「催眠術で治療行為を行う者」が現われてトラブルが続出したため、政府は明治41年(1908年)9月に「警察犯処罰令」を公布して10月から施行した(→森鴎外は催眠術をめぐるトラブルをテーマにした『魔睡』を1909年に出版しているが、これは実話をもとにして書かれたといわれている)。

この「警察犯処罰令」は徳川幕府の「御定書百箇条(公事方御定書:くじかたおさだめがき)」の「新規之神事并奇怪異説(しんきのしんじ あわせて きかいいせつ)」の禁止が時代に合った姿に変えられたものであった。この中に「濫りに催眠術を施したる者」との規定を入れて、催眠術に対して取締りを強化した。

ちなみに「警察犯処罰令」は第2条で「左の各号の一つに該当する者は30日未満の拘留又は20円未満の科料に処す」として、「17、妄りに吉凶禍福を説き又は祈祷、符呪等を為し若しくは守札類を授与して人を惑わしたる者」「18、病者に対し禁厭、祈祷、符呪等を為し又は禅符、神水等を与え医療を妨げる者」「19、濫りに催呪術を施したる者」を取締りの対象とする旨を定めている。

 

☆催眠術から霊術へ

この「警察犯処罰令」の適用と福来友吉の「千里眼事件」(明治43年)の余波から、催眠療法を行うことができなくなった治療師は、「催眠」という表現を止めて「霊術」に看板を書き換えて治療行為を続けていった。

当時の霊術家は精神療法・心理療法・催眠療法・気合療法家等の肩書きを用いて、感応術・読心術・テレパシー等を使った精神療法や、祈祷・加持・予言・降神・宗教思想等による精神療法などを行っていた。「警察犯処罰令」等の一連の取締り法令の施行によって、治療の技術および名称が「催眠術から心霊的な表現に変更」になったに過ぎなかった。

政府はその後も、明治44年(1911年)按摩術営業取締規則、鍼術・灸術営業取締規則を制定し、昭和5年(1930年)11月に警視庁は療術行為に関する取締規則(警視庁令第43号)を公布して監視を強化した。同様な規則は他県でも公布された。

 

大正中期から昭和初期にかけて、無数の道場、精神治療院、霊術団体(→たとえば体験道舎、修霊会、霊一学会、霊道修養会、自然霊能研究会、帝国精神哲学会、戸田心霊治療院、自彊術、神秘研究会、日本神霊学会、東京心霊研究会、日本心象学界、真如行気法などがある。出典:井村宏次の調査による)などが存在していたが、これらを舞台にして盛んに行われた霊術家の治療行為(霊術、心理療法、手技療法、健康法、電気療法、光線療法等)も昭和10年頃を境にして姿を消していった。

なお心霊治療に関しては、現在でも医療法関連法規の壁がある。

 

④.日本における心霊治療

ア)1960年代までの心霊治療

☆加持祈祷

別稿の「日本の医療の変遷史」http://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/06/post-6faa.html

で見てきたように、古代社会では仏教が民衆の中に浸透していくにつれて多くの僧医が輩出されていった。平安時代の貴族社会では病気平癒や政敵失脚のための加持祈祷を、天台や真言の密教僧である“僧医”に行わせていた。このような経緯から日本の医療は、近世に至るまで「漢方と加持祈祷を行う僧医が主流であった」とされている。

山岳信仰と仏教等が結びついて修験道が現れると、次第に「密教が民衆化」されて、江戸時代には一般人を相手に病気治療の加持祈祷を行って生計を立てる修験者が数多く出てきた。このような加持祈祷では病気の原因は“霊”にあるとして(→憑依霊という「悪しき存在」に原因があるとして)、密教僧や修験者は主に霊体エネルギーや肉体磁気エネルギーなどの生体エネルギーを使って、その“霊”を強制的に排除するとして、または因縁解除によって取り除くとして「除霊治療」を行った。

 

☆サイキック・ヒーラーの活躍

日本においては、霊界のスピリチュアリズム普及の「一大計画」に沿った形で、霊医という概念を使った治療、いわゆる「スピリット・ヒーリング(sprit healing)の試み」が始まったのは1960年代以降のことである。

それ以前は「心霊治療」と言っても、治療師の“生体エネルギー(=霊体エネルギーや肉体磁気エネルギー)”使った治療(直接・遠隔・除霊等)であった。これは後述する浜口熊獄や三田光一の事例、さらには松原皎月著『心霊治療法』(注13)の記載からも窺える。

なかには治療師の霊性レベルによっては、本人は意識していなくとも霊界の霊医が働いたケースがあったことは否定できない。しかし1930年以前は、霊的実在を証明するための手段として、霊界側が「組織的にsprit healingを用いた」とは考えにくいので、このようなケースがあったとすれば、治療師と霊医との間で親和性の法則が働いた結果による場合か、両者に何らかの個人的な繋がりがあって、「スピリット・ヒーリング(sprit healing)」が行われたものと思われる。

 

イ)特徴的な人物

☆浜口熊獄

明治から昭和初期に活躍した有名な「心霊治療師」に浜口熊嶽(はまぐちゆうがく:1878年→1943年)がいる。浜口熊嶽(本名、浜口熊蔵)は10代中頃に那智山の修行でパワーを身につけて、気合術による病気治療を行った。昭和の初期、御木本幸吉や尾崎行雄と並ぶ「三重県の三傑の一人」と言われたほどの有名人である。

浜口が行った気合術は修験道にその起源を有し、明治以降は香具師による大道芸の技になっていた。この技を浜口は病気治療に使った。浜口の治療スタイルは、生体エネルギー(特に肉体磁気エネルギー)によって行うタイプであるが、その治療が官憲の目に留まり医師法違反などによって起訴されて、生涯数多くの裁判を体験した。今もその資料が残っている。

 

浜口熊嶽が関与した次のような興味深い裁判がある。

浜口は明治32年(1899年)10月末に「大阪府違警罪に違反」したとして逮捕拘留された。大阪区裁判所では罰金刑の有罪判決を受けたが、控訴審の大阪地裁で同年1216日に判決があり、「主文:原判決を取り消し被告熊蔵を無罪とす」として、浜口勝訴となった。この判決には「気合術実験」という実地検分があり、判決に先立って125日、裁判官の実地検分が浜口の施術所で行われた。大阪地裁の判決は、このような実地検分の状況が判決に現れたものであった。この判決を不服として検事側が上告し、明治33118日の大阪控訴院判決は「主文:本件上告は之を取り消す」として浜口の全面勝訴に終わった。

 

資料には次のように記されている。

――明治32125日浜口の気合術による治療の実地検分が行われた。裁判官、検事、弁護士、医師等の立会いの下で、患者の抜歯やリュウマチの治療を行った。医師によって浜口が気合術を行う前に診断された15名の患者が実験台として選ばれた。浜口は患者の正面に座り、「呪文のあと九字を繰り返すこと三度」吉田徳松の上顎第3歯を、一切手を触れずに抜歯した。次にリューマチで歩行困難な前田喜一にも同様に「呪文九字のあと例のパァパァが2回繰り返され、駄目押しのパァが1回前田喜一にあびせられると、彼は自発的に立ち上がって歩きだした」。再び抜歯、いぼ取り等と実験が続いた。事前の診察をしていた医師が再度、施術後の患者の状況を診察して治病効果を確認した(注14)。――

 

さらに明治36年(1903年)930日の『神戸又新日報』には、医師法違反事件の被告である浜口は、裁判官の面前で手を触れずに抜歯を行った旨の記事が載っている。1審無罪後、検事側の控訴があり、同年1031日発行の『神戸新聞』によれば控訴審で再び裁判官による実地検分が行われた。当日の患者の中に左右の肩がリュウマチで苦しんでいる地裁の末永判事がいて、一回の施術で治ったという。その際の浜口の様子は「額より流れる汗は玉のごとく」であったとのこと(注15)。

 

☆三田光一

別稿の「霊媒・三田光一研究」http://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/05/post-eb9c.html

で取り上げた三田光一(1885年→1940年)は、明治末期から昭和初期にかけて活躍した霊能者である。三田は「月の裏側の念写」を行ったことで知られているが、「心霊治療師」としての一面も持っていた。その治療光景は子息の三田晴康によれば次のような状況であったという。

――三田は病人からの話を聞いてから「病人の枕元に正座して精神統一に入り、約一分位経過してから覚醒、詳しく病状を説明した後、再び精神統一に入り、そのままの状態で主として右手(時には両手)を病人の各部から続いて患部と思われるところに次々と当ててゆきます」。その際の三田の表情は「勿論その間正座は少しも崩さず、また極度の差こそあれ念写の場合と同様、歯ぎしりする位力を入れ、汗をかき、約3分位して静かに覚醒致します」(注16)。――

このような治療状況から判断して三田の病気治療は「サイキック・エネルギー」や「マグネティック・エネルギー(肉体磁気エネルギー)」を使った治療法であったことが分かる。

 

ウ)スピリット・ヒーリングの黎明期

☆心霊治療(スピリット・ヒーリング)の試み

日本において「スピリチュアリズム普及のセンター的役割」を果たした組織として、戦前の昭和期においては「東京心霊科学協会」であり、戦後は一時期まで「日本心霊科学協会」がその役割を果たしてきた(→少なくとも昭和の末期までは)。

 

その日本心霊科学協会の機関誌『心霊研究』の昭和27年(1952年)10月号において、粕川章子はハリー・エドワーズの心霊治療を紹介して、心霊治療の目的や遠隔治療のメカニズムを解説している。昭和34年(1959年)12月と昭和35年(1960年)2月に開かれた協会の講演会では、「心霊治療」が演題に取り上げられた。

その後イギリスの心霊治療師の団体である「英国心霊治療者国民連合」の事務総長メジャー・パターソンとの交流があり、『心霊治療指導の手紙』(フェノモニスト著:パターソンの筆名)という冊子が昭和36年(1961年)に出版された。さらに昭和39年(1964年)には協会内に「心霊治療研究会」が発足して、事前に医師の診断を受けた者に対して直接治療と遠隔治療の試みが始まった(注17)。これが日本において霊界の霊医の概念を取り入れた、組織として本格的な「スピリット・ヒーリング(sprit healing)」が行われた最初ではないかと思われる。

 

☆海外における心霊治療の調査研究

このような流れと並行する形で、1966年、1968年、1972年に超心理学者兼宗教家の本山博(1925年→ )は「フィリピンの心霊手術」の調査研究を行った。日本では1970年前後にフィリピンの心霊手術がマスコミに大きく取り上げられていた。この調査研究に関しては本山博著『フィリピンの心霊手術』(注18)に詳細な記録が載っている。

さらに医師の東長人(1956年→ )はバージニア大学医学部の研究員であった1985年から1986年にかけて、ブラジルの心霊治療の調査研究を行った。その成果が『ブラジルの心霊治療、奇跡を操る人々』(注19)として出版されている。

 

1980年前後の状況

昭和51年(1976年)から昭和55年(1980年)の雑誌『心霊研究』誌には、心霊治療に関する記事が連載されている(注20)。また昭和57年(1982年)に雑誌『心霊研究』誌に近藤千雄訳編によって『シルバーバーチは語る』の連載(19826月~198310月:第二次シルバーバーチブーム)が始まったが、この中で心霊治療が紹介されている(注21)。

昭和59年(1984年)に梅原伸太郎(1939年→2009年)は、ハリー・エドワーズの「Spirit Healing」を翻訳して『霊的治療の解明』(注22)と題して出版した。

 

日本では霊的実在の証明方法として隆盛を極めた「物理的心霊現象」は、1950年頃に曲がり角を迎えて、1960年代に入ると「スピリット・ヒーリング」という心霊治療が本格的に紹介されるようになった。このような流れを見れば「日本におけるスピリチュアリズムの発展史」は、イギリスのスピリチュアリズムの延長線上にあることが分かる。

 

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― 

<注1>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、7巻』(潮文社)151頁参照。

 

<注2>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの新たなる啓示』(ハート出版)40頁参照。

――おっしゃる通り、一昔前に物理現象が科学者の関心を呼んだ時期がありました。もちろん、それも計画の一環でした。従来の物理的法則では解釈のつかない現象を、あくまでも科学的手段によって、その実在性を立証するという目的がありました。――

霊的実在を証明するアプローチの手段も、当然に時代によって変化していく。

 

<注3>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、5巻』(潮文社)50頁参照。

上記の他に、近藤千雄訳『スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』31頁参照。

 

<注4>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの新たなる啓示』(ハート出版)42頁参照。

 

<注5>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの新たなる啓示』(ハート出版)41頁参照。

 

<注6>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、9巻』(潮文社)165頁参照。

 

<注7>

■アーネスト・トンプソン著、桑原啓善訳『近代神霊主義百年史』(コスモ・テン・パブリケーション1989年)121頁参照。

 

<注8>

■「萩原真氏の物理的心霊現象実験会の記録」:雑誌『心霊研究』19487月号参照。

 

<注9>

■北村熊雄著「母と私の心霊体験」:『創立50周年記念特集』(日本心霊科学協会2000年刊)所収。

 

<注10

■編輯子「研究はどう行うか―研究部員の会合(昭和241212日、粕川記)」:雑誌『心霊研究』19501月号参照。

 

<注11

■山折哲雄監修『日本宗教史年表』(河出書房新社2004年刊)該当項目を参照。

■井村宏次著『霊術家の饗宴』(心交社1984年刊)第一章には、当時の心霊治療として浜口熊獄の治療法が掲載されている。以下要約して述べる。

浜口熊獄(明治11年:1878年→昭和18年:1943年)は、三重県の三傑(御木本幸吉、尾崎行雄、浜口熊獄)の一人である。彼は、修験の醍醐寺の当山派の流れに一時所属していた里修験者であり、加持祈祷、気合術によって病気治しを行った。気合術は山伏の修験道から起こり、明治以降大道芸の香具師の技になっていたのを病気治しに使ったもの。浜口の治療は125銭(大工の日当が66銭:明治33年当時)であったという。浜口の気合術は生体磁気治療(→サイキックレベルの治療)であった。浜口の生涯は数多くの警察沙汰と裁判の連続であった。

 

<注12

■空海『十住心論』

空海の代表的著書に『十住心論(じゅうじゅうしんろん:正確には“秘密曼陀羅十住心論”という)』がある。この著書に真言宗の病気観の記載があるという。

豊島泰国著『日本呪術全書』(原書房1998年刊)100頁によれば、「空海の『十住心論』に人間の心身の病は四大不調と鬼と業より発病するとある。四大不調の四大とは地水火風のエレメントで、その構成要素の崩れが病気の原因となる。これは医療・医薬と加持祈祷で治るが、問題は鬼と業の病である。鬼は強い執念を持った霊魂で(→低級霊のこと)、それが無念を晴らそうとして因縁がある者に取り憑いて病気になるという。また業病はその人間が前世に病気になる原因を作っていて、それが現世で応現したものと見る(→カルマのこと)。鬼と業の病は通常の医法では治らず、密教行法によってのみ治癒できるという」。

この記載から加持祈祷(治病・除役等)や薬草に関する知識を持った修験者の病気観がよく分かる。

■「憑り祈祷」

「憑り祈祷(よりきとう)」とは、修験者が病人に取りついた「霊や物の怪(もののけ)」を調伏する加持祈祷のことをいう。修験者は病人の病状が判明している場合は、その病名に沿った加持祈祷を行う。しかし病名がはっきりしない場合には「憑り祈祷:よりきとう」を行って、物の怪を「憑坐:よりまし」と呼ばれる巫女(霊媒のこと)に移して、「憑坐」が語る事柄を聞いてその霊の正体を見極めて調伏をはかることになる。「憑坐:よりまし」は、地方によっては「仲座:なかざ」「御幣持:ごへいもち」「尸童:よりわら」「乗童:のりわら」「おこうさま」「護法実:ごほうだね」「護因坊:ごいんぼう」などと呼ばれている。修験者が里山伏となって職業化するにつれて、「憑坐:よりまし」は山伏の妻がなる場合がほとんどであったという。なお「憑り祈祷」で「神の託宣」を聞く方法は現在でも行われており、木曾の御嶽講の御座立(おざたて)にその事例が見られる。

 

<注13

■松原皎月著『心霊治療法(復刻版)』(八幡書店1998年)参照。

 

<注14

■井村宏次著『霊術家の饗宴』(心交社1984年刊)88頁~94頁参照。

 

<注15

■田中生著「霊術師濱口熊嶽、上」:雑誌『心霊研究』195411月号。および田中平助著「霊術師濱口熊嶽、下」:雑誌『心霊研究』195412月号参照。

 

<注16

■三田晴康著「父三田光一の思い出」:雑誌『福心会報』№1411頁以下参照。

 

<注17

■雑誌『心霊研究』昭和399月号(37頁)、同年10月号は「心霊治療特集号」となっている。

 

<注18

■本山博著『フィリピンの心霊手術』(宗教心理出版1977年)参照。

 

<注19

■東長人、パトリック・ガイスラー共著『ブラジルの心霊治療、奇跡を操る人々』(荒地出版社1995年)参照。

 

<注20

■滝川登志夫と秦靖幸はハリー・エドワーズ著「A guide to the understanding and practice of SPIRITUAL HEALING」を訳して、雑誌『心霊研究』(昭和51年:1976年~昭和55年:1980年)に「心霊治療その理論と実際」と題して、29回にわたって連載を行った。

掲載されているは次の通り。

昭和5110月号、11月号。

昭和521月号、7月号、10月号。

昭和535月号、6月号、7月号、8月号、9月号、11月号、12月号。

昭和541月号、2月号、3月号、4月号、5月号、7月号、9月号、10月号、11月号。

昭和551月号、2月号、3月号、8月号、9月号、10月号、11月号、12月号

 

<注21

■雑誌『心霊研究』誌19837月号参照。

 

<注22

■梅原隆雅(=梅原伸太郎)著『霊的治療の解明』(国書刊行会1984年)参照。

 

 

◆浅野和三郎研究:目次

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