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明治末期~大正期:その2

目 次

 

②.霊媒、三田光一

ア)三田光一とは

・三田の人物像

・福来友吉と三田光一の出会い

イ)三田光一の透視・念写実験

・大正7年(1918年)2月の実験会

・月の裏側の念写

ウ)三田光一の位置づけ

・毀誉褒貶が相半ばする霊媒

・霊媒の系統

 

③.明治時代の神智学ブーム

・この項目の概要

・オルコット招聘の背景

・オルコットの来日と演説会

・神智学のブーム

E.S.スティーブンソンの経歴

・アディヤール派を批判

・宮澤虎雄とスティーブンソン

・ポイント・ローマ派との交流

 

<注32>~<注51

 

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②.霊媒、三田光一

◆この項目の概要

この項目では福来友吉の実験霊媒となった三田光一を取り上げて、両者の関係を概観した。

 

ア)三田光一とは

☆三田の人物像

三田光一(みたこういち:1885年→1943年:→戸籍名は才二であったが昭和93月に善靖“よしあき”に改名した)は明治18年(1885年)817日に、父“三田半造”と母“とりゑ”の二男として宮城県本吉郡気仙沼町(現在:気仙沼市)字釜ノ前118番地で出生した(注32)。

心霊現象が迷信と同列視されて排除の対象であった時期、三田光一は5、6歳の頃から自分の感じたことを悪げなくそのままを口に出してしまい――たとえば近在の泥棒や放火の犯人を暴いたこと、嘘つきを暴いたこと、某紳士の裏面を暴露して困らせたことなど――、近所では薄気味悪い困った子供という評判が立っていた。そのため「不良の子弟である狐つきの光一少年」を放置しておくことは、地域社会の秩序を乱すとの理由から座敷牢(注33)に幽閉する処置に付されてしまった。

 

幽閉が解かれて気仙沼小学校を卒業して後は、丁稚奉公や行商人、奇術師ギャクラーという名の奇術師一座など、転々と職を変えて生活の糧を得ていた(注34)。その後上京して、後に帝国自覚会と改称することになる精神修養団(洗心会)を創立し会長となっている。

明治37年(19歳)から明治41年(23歳)にかけての時期、病気やかなり不可解な「刑事事件(窃盗、詐欺、徴兵令違反など)」が立て続けに起こっている。この「刑事事件」はのちの「金塊引揚詐欺事件」と相まって、三田の人物像に「信頼できない人間」というレッテルを貼ることになった。そして「信頼できない人間」が行った透視や念写がたとえすばらしいものであったとしても、「霊媒の誠実さ」の問題から「批判派」を納得させるに足る価値ある研究材料にはならないという結論になってしまっている。

 

☆福来友吉と三田光一の出会い

福来友吉は大正6年(1917年)28日に、岐阜県揖斐郡の坪井秀宅で三田光一と出会った。この頃の三田の「公開実験会」について、福来は「実験法に欠点があった」(注35)と述べているが、これは奇術ショー的な色彩が強く、厳密さに欠けていたからであった。

福来との出合いは当時の三田の心境を変えた。各地を転々としていた一介の職業霊媒から「試験霊媒(テスト・ミディアム)」への一大飛躍をもたらした。心霊研究家の甲山繁造(本名:千原範一)によれば、三田は「(福来博士との出会いごろ)この頃から、こそくな個人啓蒙による心霊智識の普及方法を止して、一挙に何百、何千人を啓蒙出来る公開実験を目指すようになったらしい。そして昭和10年頃まで、この方法で機会あるごとに大衆啓蒙運動を展開している事が記録の上に残されている」。そして「放浪の霊人三田光一が世に知られるようになったのは、実に福来友吉先生に巡り合ったことによるもの」(注36)として、西洋の霊能者とよく似た行動をとったとして高く評価している。

福来は三田の透視能力や念写能力を検証するため、数々の実験を行っている。

 

イ)三田光一の透視・念写実験

☆大正7年(1918年)2月の実験会

三田が大正7212日に私立大日本衛生会講堂で行った念写と透視の実験は、「種板とフィルムの管理者」の一人である本田親二によって、三田の詐術が明らかにされたといわれる実験会であった。本田や中桐確太郎(なかぎりかくたろう:1872年→1944年、早稲田大学教授)は否定派または懐疑派の立場から、この実験会において三田は詐術を行ったと主張した(注37)。

 

この批判に対して丹波哲郎は次のような疑問を述べている(注38)。

――某立会人は、三田が初めから“学宝”と文字の入ったフィルムを用意していて、それを“すりかえる”ために自ら都合のよい注文をしたと言わんばかりである。しかし、福来博士の証言を見てみると、ただ単に“学宝”の文字が入っているだけでなく“フィルムを縦に丸めてその継ぎ合わせにりっぱに念写”したというのである。万が一、細工や“すりかえ”をするにしても、こんなややこしい真似をわざわざするだろうか――。

 

大正7212日の実験会は、いわば福来と三田本人と助手を除けば、ほとんどの聴衆が懐疑派か否定派で占められていた。この中で立会人および聴衆は三田の念写結果に対して、当然に自然科学の実験と同様な現象の出現を求めていたと考えられる。これは現象懐疑派がその後も三田の念写結果に対して、要求したとおりの念写像が現れて当然、と云った立場に立っていたことからも明らかである。このように212日の実験会は混乱した状況下で行われたことが資料から分る。霊的環境の非常に悪い中で行われた実験会であったため、霊的側面から考えれば当然の結果といえよう。このような霊的状態では、極めて強い霊能力の持ち主の三田でさえ思うような結果は出せなかった。

 

さらに実験会当日の霊媒の体調も考慮しなければならない。霊媒は人間であって機械ではないので、当然に当日の精神状態や身体状態も考慮しなければならない(注39)。

心霊現象の実験会は自然科学系の実験とは違うので、心霊研究者や批判者は固定観念を捨てて(脇に於いて)、このような霊媒の霊的・精神的・肉体的な状態を十分考慮して、さらに実験会の裏側の霊的環境にも配慮して臨むべきである。

この三田のトリック疑惑騒動によって、一時鎮静化していた念写問題が再び世間の話題となった。

 

☆月の裏側の念写

月の裏側の念写は昭和8年に岐阜新聞社主催の実験会場で行ったのと、昭和6年に三田の自宅から大阪の福来友吉の自宅に置いてある乾板に遠隔念写を行ったものとがあるが、念写の出来栄えは、昭和6年のものより昭和8年の岐阜公会堂の方が良かったという。昭和6年に行われた月の裏側の念写は次のようにして行われた(注40)。

昭和6624日午前820分に、福来は自宅二階(大阪府豊郡箕面村桜井)に二枚の乾板を置いた。三田は約40㎞離れた神戸市須磨の三田の自宅から、同日午前830分に月の裏側を透視して、それを福来の自宅二階にある二枚の乾板に念写した。福来はその乾板二枚を直ちに現像(午前830分に現像に着手)したところ、月の画像が現れたというものであった。

 

ウ)三田光一の位置づけ

☆毀誉褒貶が相半ばする霊媒

三田光一は日本におけるスピリチュアリズム史の中で、どのような位置を占めるのか。まず三田の人物評価に関しては「毀誉褒貶が相半ばする霊媒である」といえる。この原因には幾つかの理由が考えられる。三田は若い頃に奇術師一座に加わっていたが、この経歴が心霊現象出現に際しては、つねに「何かトリックを行ったのでは」との疑惑を招く“マイナス要因”に働いていることがあげられる。

また若い頃の刑事事件や金塊引揚詐欺事件によって、三田は信用できない人間であるとのレッテルが貼られたことも大きい。「公開実験会」においてトリック疑惑の事例があったと云われていることもあげられよう。全体的に見て三田には「霊媒の誠実さの問題」が常につきまとっていたといえる。

 

透視は精神的(主観的)心霊現象であり後日検証する際には難点があるが、物理的心霊現象である念写の場合には検証の対象としての念写原版があり、これが福来心理学研究所に残されているので現在でも研究がしやすい。

三田光一が関わった実験会を調べてみると、真実性の極めて高い透視が行われたのが「公開実験会」ではなく、むしろ少人数の「実験会」で起きていることは興味深い。これは実験会の舞台裏(霊的事情)を考えれば、容易に納得がいくことである。

日本におけるスピリチュアリズムの発展と云う大きな流れから三田の霊的な位置を考えて見ると、三田には「人間にはいまだ知られていない自然法則が存在している」という事実を、透視や念写によって当時の人たちに知らしめる役割(→基本的な霊的事実の存在証明)が、浅野和三郎系統の霊媒と同様に与えられていたと云える。いわば当時の日本には類を見なかったスケールの大きな物理的霊媒として、藪を切り開いて道を作るための先遣隊の一員として、「時代を選んで出生」してきたといえよう。

 

☆霊媒の系統

福来友吉の実験の協力者、御船千鶴子や長尾郁子は、明治44年(1911年)に相次いで亡くなった。念写能力者の高橋貞子は福来博士だけを信頼して学者の実験に協力したが、夫の高橋宮二は「学会の悪弊を批判」して郷里の岡山に一家で引っ越してしまった。その間の事情を高橋宮二は昭和8年に刊行された自著『千里眼問題の真相』(注41)の中で、東大の山川健次郎博士の冷淡な態度や、福来友吉の著書『透視と念写』(大正2年刊)が原因とされる休職に対する抗議という形で厳しく批判している。

大正62月に三田光一は福来友吉と出会った。それ以降三田は、福来の実験霊媒として協力し続けた。このように明治末期から大正時代にかけて現れた物理霊媒は、いわば福来友吉系統の霊媒といえる。

 

浅野和三郎は昭和3年にロンドンで開催された国際スピリチュアリスト連盟(ISF)の大会に、福来友吉とともに出席した。その翌年以降、亀井三郎や本吉嶺山、萩原真、竹内満朋など、関西では津田江山や北村栄延など、物理実験が可能な霊媒が日本に立て続けに現れた。彼らは東京心霊科学協会や小田秀人の菊花会、さらには大阪の間部詮信(まなべあきのぶ)子爵が主宰した大阪心霊科学協会で、スピリチュアリズムの普及と云う観点から一般向けに啓蒙的色彩の強い実験会を行った。

 

これに対して三田は明治末期から昭和初期にかけて、浅野の系統の霊媒に先んじて「公開実験会」形式による透視や念写を行っていたが、この実験会にスピリチュアリズムの普及と云う明確な位置づけはなかった。なぜならこの時期、福来友吉は心霊現象のメカニズムを「念」という用語を使って、仏教的影響を帯びた論理で解説していたからである。さらに霊媒の管理面でも両者には相違がある。浅野系統の霊媒が比較的「管理」(注42)されていたのに対して(→霊媒を特別扱いしないということ)、福来は実験を監視するという立会人的な関わりであったため、三田は自由に振舞っていた。

 

③.明治時代の神智学ブーム

◆この項目の概要

日本において神智学はさまざまな人たちに影響を及ぼしてきた。浅野和三郎は海軍機関学校の同僚であるスティーブンソンから神智学の影響を受けており、大本入信に際して両者の間で論争があったことはよく知られている。また浅野の説いたスピリチュアリズムの中にも神智学用語が散見できるが、ここからも日本におけるスピリチュアリズムの黎明期に神智学が及ぼした影響の大きさが窺える。

 

☆オルコット招聘の背景

明治時代、日本において神智学のブームは二回あった。一回目は神智学協会の会長ヘンリー・S・オルコット(Henry Steel Olcott1832年→1907年)が来日した1889年(明治2229日~528日の時)であった。このオルコットの来日は英語塾「オリエンタル・ホール」を経営していた在家仏教徒の平井金三(ひらいきんざ)と、西本願寺の「反省会」(→先頭に立ったのは浄土真宗僧侶の佐野正道であった)が招聘の中心となった(注43)。

 

日本は明治元年(1868年)13日に「王政復古宣言」を行い、新政府の政策は「復古政策・祭政一致政策」が基本となった。そして律令時代の神祇官(じんぎかん:→その後神祇官は1871年に神祇省に格下げされ、1872年に神祇省は廃止された)が再び設けられた。

新政府は明治元年328日に「神仏判然の沙汰」(→太政官布告の「神仏分離令」)を出した。これは「神社に権現や牛頭天王の神号があれば沙汰を待ち、仏像を神体としているところは改め、鰐口や梵鐘があれば取り除く」という神仏判然令であった。この布告によって神社の祭神から権現や菩薩といった神仏習合的な形態が排除されることになった。この布告以降、全国規模で寺院や仏像の破壊、経典の焼却等が展開された(→いわゆる「廃仏毀釈運動」のこと:注44)。

この時期、全国に吹き荒れた「廃仏毀釈運動」で荒廃した寺院の状況や、日本の欧化主義に便乗して布教攻勢をかけるキリスト教に対して、仏教界は強い危機感を抱いていた。

 

オルコット著『仏教問答(The Buddhist Catechism)』(1886年に今立吐酔訳、仏教出版界:1889年に原成美訳)は、クリスチャンがセイロン(=スリランカ)島内で大量に配布した「キリスト教布教用の教理問答集の仏教版」として、オルコットが18817月に仏教入門書として作成したものである。オルコットはこの『仏教問答』を使って、セイロンで仏教回復運動を指導した。スリランカの仏教改革の最大の貢献者であり、「白い仏教徒」とも言われたオルコットは、この運動で多くのキリスト教徒を仏教に改宗させた。この実績から日本の仏教会では「神智学=南伝仏教」との誤解が生まれていた。

 

このような誤解が生まれた原因として、セイロンにおいてオルコットの仏教回復運動が功績を収めたこと、神智学協会とチベット仏教(密教)は密接な関係にあり仏教を重視していたこと、西洋では仏教は神智学を通して知れ渡っており「神智学協会は西洋と仏教の連結器の役割を果たしていた」とさえ言われていたこと、西洋では仏教関係の書籍の多くは神智学関係の出版社から出されていたことなど、このような要因が重なって日本側に誤解が生じたのであろう。

 

オルコットの『仏教問答』は、明治19年(1886年)4月に日本語に翻訳(今立吐酔訳)されて出版されると、廃仏毀釈で沈滞していた日本の仏教界に波紋が広がった。この時期、キリスト教に対して危機感を抱いていた関西仏教徒有志は、オルコットを日本の「仏教改革の起爆剤」と考えて、オルコットの招聘運動を起こした。

オルコット自身の真意はどうであれ、招聘側の真意は神智学の普及とは全く関係ない日本特有の事情、すなわち「仏教改革の起爆剤」であった。神智学会の会長招聘の背景にはこのような事情があった。

 

☆オルコットの来日と演説会

野口復堂(野口善四郎)に伴われたオルコットは、セイロン仏教界のスマンガラ大長老からサンスクリットで書かれた親書(→セイロンの仏教界から日本の仏教界に向けた最初の正式な親書であった)を託されて、アナガーリカ・ダルマパーラ(Anagarika Dharmapala1864年→1933年、スリランカ人)とともに、明治22年(1889年)29日神戸港に上陸し来日した。オルコットの来日は、日本仏教界あげての熱烈な歓迎ムードの中で実現し、全面的支援のもとで演説会が日本各地で行われた。

 

演説会は、明治22年(1889年)2月に京都の智恩院、3月に芝増上寺、浅草本願寺、小石川伝通院、4月に静岡宝台院、名古屋本願寺別院などで行われて、オルコットは精力的に演説を行い(通訳は平井金三、佐久間信恭、徳永満之、松村〇〇が担当した)、各地で「仏教徒の連帯(南北仏教の統一)・反キリスト教・国粋主義(ナショナル・アイデンティティ)・宗教教育の必要性」を訴えた。

これらの講演では多数の講演記録集が残されている。「オルコット来日講演記録」としては、東洋堂出版から『仏教四大演説』(明治22年刊)が、各宗協同有志会から『仏教大演説速記』(明治22年刊)が出されており(→これらは「オルコット来日公演録」として『霊智学解説』の中に収録されている)、現在でも比較的容易に手にすることが出来る。また『浄土教報』(明治224月号他)、『反省会雑誌』(明治225月号他)、『仏教』(明治226月号他)などの雑誌にも、オルコット関連の記事が多数掲載されている。

 

オルコットの役割は「仏教圏における神智学の拡大の一環として、神智学理論を仏教というオブラートで包んで説くことにあった」という。しかし日本の仏教界の理解は違っていた。日本側では「(オルコットが)セイロンの仏教回復運動を指導したこと」や、「(オルコット自身)キリスト教から仏教に改宗したこと」が高く評価された。また日本側に「神智学=南伝仏教」であるとの誤解があったこと(注45)、当時の仏教界には、日本の仏教界を改革するための触媒としての役割をオルコットに期待していたこと。このようにオルコット側と日本側の意図は異なっていた。

 

なおオルコットは明治24年(1891年)10月末にも再度日本を訪問している。しかし前回の来日から2年の間に、日本の仏教界では神智学に対する理解が相当に進んだ。たとえば「西欧で流行している神智学は果たして『仏教』といえるのか」に対しては、「仏教は仏教なり、神智学は神智学なり」したがって両者は別物であると言う具合に。そのため今回の再来日では「オルコット滞在中の待遇も頗る冷淡で前回に比べれば雲泥の差」であったという。オルコットは1210日に失意のうちに日本を発った(注46)。

 

☆神智学のブーム

日本における神智学の一回目のブームの時(1889年)は、インドに本拠を置くアディヤールが本部であり、組織が一つに統一されていた時期であった。その後、神智学協会は1895年の大会で、「アディヤール派(オルコット、アニー・ベサント、リードビーターなど)」と「アメリカ神智学協会(ウイリアム・ジャッジ:William Quan Judge)」の二つの組織に分裂した。

オルコットの来日から20年後の明治40年代から大正期にかけて、二回目のブームが起きた。二回目のブームはアメリカに本拠を置く「ポイント・ローマ派(アメリカ神智学協会)」が中心となっており、前回とは異なって実態を伴っていた。この点が一回目と二回目における「主役(本部)の違い」と「実態の有無の違い」である。

 

明治40年代から大正期にかけて、西洋の多様な霊的思想がさまざまな経路で流入してきたが、明治43年(1910年)に翻訳出版されたブラヴァッキーの『霊智学解説』は、当時の宗教や神秘思想に関心を持つ多くの人たちに読まれたという。第一回目のオルコット来日によって起きたブームは、招聘側の誤解の上で起きた神智学ブームであった。この招聘に主導的役割を担った平井金三は、オルコット来日当時を回想して「霊智学(=神智学)の受容が時期尚早であった」(注47)と述べている。

平井はH.P.ブラヴァッキー著『霊智学解説』(E.S.スティーブンソンと宇高兵作の共訳)が日本語に翻訳される際には、これを積極的に支援した。『霊智学解説』の「緒言」に共著者連名で「本書、翻訳について平井金三氏が種々の点において有益なる助力を与えられしことを謹んで感謝す。相州逗子にて、明治43年晩秋」と記していることからも分かる。

 

スティーブンソン(E.S.Stevenson)はアメリカに本拠を置くポイント・ローマ派の神智学協会員であり、明治・大正期におけるわが国の神智学普及運動の中心的な人物であった。スティーブンソンは逗子で霊智学(=神智学)のロッジを運営していたが、このロッジは日本における神智学普及のセンター的な役割を果していた(→世界同胞及霊智学会)。日本に神智学思想が本格的に流入したのは、この二回目のブームの時期に当たる。

 

E.S.スティーブンソンの経歴

この項目のエドワード・スタンリー・スティーブンソンの経歴については、神智学研究者の吉永進一の著書を要約する形でまとめた(注48)。

スティーブンソンは1871年イギリス、ボーデン州チェシャーに生まれた。祖父はダービー伯爵という貴族の家系で、父は神戸で貿易商社を経営していた。ロンドンのカレッジを中退して各地を転々としていたが、1890年代後半にアメリカを放浪していた時、サンフランシスコで神智学を知った。1898年に父親の商社を手伝うために来日したが、来日後は父の会社の仕事に就かずに、東京でジャパン・タイムズの編集や各学校の非常勤講師の職を転々としていた。190210月に海軍の技術将校を養成する「海軍機関学校(横須賀)」に採用されてからは、外人教師にしては異例の20年間という長期に渡って同校に勤めた。横須賀の海軍機関学校の英語の同僚には浅野和三郎がおり、浅野とは『Famous People of Japan (Kelley& Walsh, 1911)』という共著も著している。

1909年には養子のテツオをポイント・ローマに送り、ラジャヨガ学院に入学させ、その後養女のタミコも同校に入学させている。スティーブンソンは1922年(大正11年)に本人の都合で横須賀の海軍機関学校を辞職したが、文部大臣宛の辞表では、緊急の家庭の事情で辞めなければならなくなったとある。その後、日本人妻と共にアメリカに旅たち、そのままポイント・ローマで亡くなっている。

 

☆アディヤール派を批判

スティーブンソンは、明治43年(1910年)にブラヴァッキー著『霊智学解説』(→1907年にアメリカのポイント・ローマ派から刊行された版の訳)を、博文館から宇高兵作とともに翻訳出版したことで知られている。なお翌年の明治44年(1911年)には両名で、神智学協会の歴史をポイント・ローマ派の立場からまとめた『霊智学運動歴史の事実』(ジョセフ・H・フセル著)を翻訳出版している。

ポイント・ローマ(アメリカ)の神智学会はアディヤール(インド)とは違って(注49)、慈善活動・コミューンでの共同生活や修養・ラジャヨガ学院での小児教育が活動の中心であった。スティーブンソンはポイント・ローマ派の立場から大正2年(1913年)2月の帰一協会(明治45年に渋沢栄一が設立)の会合などでは、一貫してアディヤール派を批判し続けた。

 

☆宮澤虎雄とスティーブンソン

宮澤虎雄は明治43年から大正11年まで、横須賀時代の海軍機関学校で、スティーブンソンとは同僚(文官)であった。そのスティーブンソンについて「日本語をよく話し又日本の新聞を自由に読んでいたし、少しは書くこともできた」(注50)と述べている。また彼は名刺に「寿帝文尊」と記していたという(注50)。さらに宮澤は「私が彼の家に行くとポイント・ローマの霊智学学校に入学させていた長男鉄雄の英文の手紙などを見せて、語学の上達の速やかなこと喜んでいた」という。なおスティーブンソンの妻は日本人であり、夫人の親類から男女二人の子供を貰い受けて育てていたが、その一人が鉄雄であった(注50)。

 

宮澤は「霊智学については横須賀時代に海軍機関学校の外人教師スティーブンソン氏からよく聞かされていた」と述べている。またスティーブンソンは浅野和三郎に対して、「鎮魂は催眠術の一種であるから禁止しなければならない」「一刻も早く鎮魂を中止せよ。大本を棄てよ」と迫っていた。スティーブンソン夫妻は関東大震災の前年、大正11年に横須賀を去り、カリフォルニア州のポイント・ローマに移住した。

 

☆ポイント・ローマ派との交流

神智学のポイント・ローマ派と日本との関係は親密であった。1895年にキャサリン・ティングリー(Katherine Tingley:ポイント・ローマの代表)は世界一周の途上、日本に立ち寄った。またポイント・ローマの機関誌には、スティーブンソンが寄稿した日本関係の記事や写真がたびたび掲載されていた。スティーブンソンが海軍機関学校の教官だった縁で、日本海軍の練習船が入港するたびに神智学協会は歓迎レセプションを行っている。さらに東大倫理学教授の中島力造はアメリカの教育制度の視察旅行において、1910528日に日程の一日を割いてポイント・ローマを訪れた。このことが機関誌Century Path vol.Xlll,June1910に掲載されている。

1909年(明治42年)日本の主要な財界人を網羅した渋沢栄一が率いる渡米実業団(総勢50数名)が、サンディエゴ訪問の際に、ポイント・ローマに半日割いて訪れている。現在のパサディナの神智学協会本部(→旧ポイント・ローマ派)には、ティングリーが接待用に書き込んだプログラムや、実業団が帰国後に送った感謝状などが残っている(注51)。

 

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<注32

■甲山繁造著「この霊的巨人の足跡を見よ」:雑誌『心霊研究』昭和347月号参照。

三田光一には“才二”“善靖”“光一”という氏名があり、それぞれに応じて使い分けていた。光一の戸籍上の氏名は“才二”であり、昭和93月に“才二”から“善靖”(よしあき)に氏名を改めて戸籍の届出をしている。

三田は、すでに5~6歳頃から霊能の発現が見られた。満6歳(明治254月)で気仙沼尋常高等小学校尋常科に入学したが、「先生の教科目をスッカリ予知して受持ちの先生を当惑させた」ことなどがあったという。さらに「先だっての火事は誰さんがやった、あの人のものを盗んだのは誰さんだということを、坊や(三田光一のこと)は人々に悪げもなく、ただ単純に感じたままに云う。すると、それが近所の評判になり、狭い街中のことでもあり、すぐに警察の耳にはいってしまう。警察は半信半疑ながらも、調べてみると、事実、その通りだったことが数回あった」。

 

<注33

■黒田正大著「三田光一余聞録(1)―幼少時代―」:福来心理学研究所『福心会報』№1419674月)参照。

三田光一は霊能発揮が直接の原因となって、気仙沼尋常高等小学校尋常科の2年生(実質就学期間約1年半:明治26年)の時に登校停止となり自宅幽閉(座敷牢)となった。

■座敷牢は近世以降、素行不良者や精神状態に不調をきたした者を屋敷内に監禁する施設として、しばしば登場してくる(→土蔵の一画や離れなどを改造して出入り口を施錠して外部との交渉を厳しく制限するなど、収容者の自由を奪う形体をとった)。

法治国家である明治時代には、どのような法的根拠があって座敷牢が設けられたものなのか。法令等の資料によれば警視庁は明治11531日甲第38号をもって、「瘋癩人看護及び不良の子弟等教戒の為めやむを得ず私宅に於いて鎖錮せんとする者は、明治9310日元警視庁に於いて区戸長へ相達候懲治檻入願手続に照準し、其事由を詳記し親族連印の上、所轄警視分署へ願出、認許を受く可き旨を布告・・・」を出した。

東京以外でも府県単位で同様な「自宅鎖錮(じたくさこ)」の規定が設けられて、精神に障害をきたした者や素行不良者を監禁する施設として利用された。特に精神病者については明治33年に「精神病者監護法」が制定され、その第9条に「私宅監置室」の規定が設けられた。

■小説の世界でもしばしば座敷牢が出てくる。島崎藤村の『夜明け前』の主人公の半蔵は、明治新政府の政策に失望し精神に異常をきたして、座敷牢に監禁される場面が描かれている(→島崎藤村著『夜明け前』第二部下、新潮文庫参照)。

宗教の世界でもたびたび登場してくる。大本の開祖出口なおは明治25年(1892年)にトランス状態(帰神状態)になったが、明治26年に「(周囲から)本人は気が狂っているとの理由で、警察から組内(→町内会の中で同じ班のことを組内という)に命じ座敷牢を作らせて」その中に監禁された(参考:『大本七十年史(上)』89頁、大本七十年史編纂会発行、昭和39年)。

 

<注34

■三田光一の奇術能力については、気仙沼町誌編纂委員会が昭和285月発行した『気仙沼町誌』の中に「後年朝日光一と名乗りをあげ八日町の気仙沼座に於いて天勝はだしの手品奇術を公開して大人気を博した」(『気仙沼町誌』534頁)との記述がある。『気仙沼町誌』にある「天勝」とは、明治後半から昭和初期まで活躍した女流奇術師で、アメリカ興行も成功させた松旭斎天勝(しょうきょくさいてんかつ:本名は“中井かつ”1886年→1944年)のことである。『気仙沼町誌』では「奇術といえば天勝」という代名詞にもなった松旭斎天勝になぞらえて、三田光一を「天勝はだしの手品奇術」としてその技能を高く評価している。

この三田光一の奇術の技能について黒田正大は「真の透視・念写能力と奇術能力によるトリックとの鑑別という難しい課題を残す結果になったことは否定できない」(黒田正大著「三田光一余聞録」:雑誌『福心会報』№1534頁以下)と指摘している。

■三田自身は奇術と霊能をどのように見ていたか。

資料(大川定次郎著「225日の念写実験について」:雑誌『心理研究』大正74月号、88頁所収)によれば、大正7225日に「自覚会」主催の実験会での三田の発言から、三田は自分自身に奇術能力があることを認めているが、その為に透視や念写がことごとく奇術であると、世間から断定されることは迷惑であると述べている。このように三田の奇術師時代の経歴や自身の奇術能力は、たとえすばらしい透視や念写を成功させても、たえず「批判派」から、「三田は何らかのトリックを行った」のではないかとの疑惑が向けられる原因の一つ(ある種の胡散臭さ)となっている。

 

<注35

■福来友吉著『心霊と神秘世界(復刻版)』(人文書院1986年刊)51頁参照。

――(三田)氏の実験法に欠点が有ったのとで、少数の人は氏を偉大なる霊能者として崇拝していたけれど、多数の人は純然たる詐術として氏の実験を排斥した――。

昭和4年以降に浅野和三郎や小田秀人たちによって行われた、物理霊媒を使った実験会と比較するとその欠点がよく分かる。

■福来友吉著『心霊と神秘世界(復刻版)』(人文書院1986年刊)118頁参照。

福来友吉によれば心霊研究における三田光一の位置付けは、「透視能力者として、御船千鶴子嬢よりもずっと以前から、世に知られていたのは三田光一氏である。しかし念写をやり出したのは長尾夫人の実験を伝え聞いてから後の事である。だから、三田氏は透視能力者としては千鶴子嬢の先輩であり、念写能力者としては長尾夫人の後輩である」という。

 

<注36

■甲山繁造著「この霊的巨人の足跡を見よ」:雑誌『心霊研究』昭和345月号、12頁:昭和344月号、5頁参照。

 

<注37

■当日の実験会の立会人であった本田や中桐は、本田親二著「三田光一氏の念写について」:雑誌『心理研究』大正74月号、439頁。および中桐確太郎著「念写実験記」:雑誌『変態心理』大正74月号、43頁でその経緯を報告している。

 

<注38

■丹波哲郎著『稀代の霊能者三田光一』(中央アート出版社1984年刊)106頁以下参照。

■中沢信午著『超心理学者福来友吉の生涯』(大陸書房1986年刊)122頁参照。

中沢信午(山形大学名誉教授)はこの「すりかえ」について、『超心理学者福来友吉の生涯』の中で、分割念写(別々の乾板に分割して念写すること)は「大正7年の“学宝”の文字の念写にも見られる。特に“学宝”はロール・フィルムを封切らずに、巻かれたままで念写された点で重要である。ただしこの“学宝”の念写については中桐確太郎による疑惑も報告されている。それは三田光一がフィルムをすり替えたらしいというのである。真相は明らかでない」(122頁)と述べている。

なお三田はこの実験会の後の214日の夜に、暴漢に襲われて人事不省の重傷を負った。この暴漢に襲われた新聞報道を読んでみると、記事の書き方がかなり偏見に満ちている。

 

<注39

■浅野和三郎の「心霊研究の同行者」粕川章子は、大正の終わりまたは昭和の初期(時期不鮮明とのこと)に三田の実験会に立ち会った。当日の実験会は「福来博士の講演の後で三田氏が壇上に現れた。肉親のお通夜の後、夜汽車で駆け付けた、その上、下痢がひどい半病人であるとして、福来博士も大いに懸念したが、念写はやっぱり不成功、感光は皆無という有様」(雑誌『心霊研究』昭和305月号、編集後記)であったという。

 

<注40

■福来心理学研究所所員共同報告「念写実験の吟味」:「福来心理学研究所研究報告、第1号」22頁以下。および星猛夫著「月の裏側の念写像と福来友吉博士」:『福来心理学研究所研究報告、第3巻』、17頁参照。

 

<注41

■高橋宮二著「千里眼問題の真相」(昭和8年):南博編『近代庶民生活誌』第19巻(三一書房1992年刊)所収。

 

<注42

■宇佐美景堂著『霊媒・本吉嶺山』(霊相道書房1967年刊)13頁の記載によれば、「(東京心霊科学)協会に於ける本吉氏に対する態度は主客を転倒しており、心あるものはその酷使に対して忠言するものがあったのでありますが、霊的修行に対する経験のない故浅野氏をはじめその周囲の人達は、それを遇する道を知らなかったのであります。無口の翁が時に“東京の協会の連中には往生しましたよ”と漏らされるのを見ても、その待遇がいかに酷であり、また実験がいかに峻烈であったかが想像されます」と記している。

本吉嶺山はいわゆる「行者式の修練」を積んだ人であり、それに対して宇佐美景堂は敬意を払うべきであると述べている。このような宇佐美の考え方の欠点は、霊能者を教祖に祭り上げてしまう危険性があることである。スピリチュアリズムを「地球を霊的に浄化する」という観点に立って霊能者の役割を考えて見れば、筆者は宇佐美のような考え方に賛成できない。

 

<注43

■佐藤哲朗著『大アジア思想活劇』(オンブックス2006年刊)36頁、200頁参照。および吉永進一著「神智学と日本の霊的思想(1)(2)」:舞鶴工業高等専門学校、情報科学センター年報『舞鶴高専紀要』第29号(20013月)、第37号(20023月)所収。

吉永進一・野崎晃市著「平井金三と日本のユニテリズム」:舞鶴工業高等専門学校、『舞鶴高専紀要』第40号(20053月)所収。

■明治初期以降、キリスト教徒は仏教僧侶の堕落を取り上げて批判してきた。この批判に対抗して、明治19年(1886年)に京都の真宗西本願寺派普通教校で綱紀粛正の運動が起きた。この仏教復興運動を組織化し、リードしてきたのは西本願寺普通教校の教官や生徒たちが組織した「反省会」であった。「反省会」は西本願寺派の成年僧侶や信徒たちの間で急速に勢力を伸ばしていった。

佐藤哲朗著『大アジア思想活劇』201頁によれば、「明治22年のオルコット来日に際しても大々的にキャンペーンを打った。そして日本中に散らばる反省会の地方会員ネットワークは、汽車と人力車を乗り継ぎながら全国行脚を続けるオルコットを迎え入れるための、地方の受け皿としてフル回転した」という。

 

<注44

■全国に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた時期「仏教側には自らの信仰を守ろうという気概はほとんどなかった」(佐藤哲朗著『大アジア思想活劇』オンブックス2006年刊、27頁)。

また『大アジア思想活劇』27頁以下の記載では――『現代佛教』明治佛教の研究回顧、S8.7.1よれば、増上寺門前に鳥居を建て、浅草寺は本尊を観音でないことにし、下総成田の新勝寺では「当方は印度の佛神などを祭っているのではない。我国神代の不動尊を奉祀するものである」と曲辯して廃業を免れようとした――という。

明治初期の宗教行政は、神祇官(明治元年)→神祇省(明治48月)→教部省(明治53月)→社寺局(明治101月)→神社局(明治334月)とめまぐるしく変化した。明治85月に大教院(大教宣布のための機関)の廃止により、教部省は明治101月に廃止されて、その事務は内務省社寺局に移管されたことからも分かるように迷走ぶりをさらけ出していた。明治10年頃からは、仏教を復興して近代化に対応させようという運動が各地で起きた。

 

<注45

■吉永進一著「神智学と日本の霊的思想(2)」:舞鶴工業高等専門学校、情報科学センター年報『舞鶴高専紀要』第37号(20023月)所収。

 

<注46

■佐藤哲朗著『大アジア思想活劇』(オンブックス2006年刊)235頁以下、参照。

 

<注47

■平井金三著『心霊の現象』(警醒社書店1909年刊)参照。武邑光裕著「神智学、その霊的主導性としての東洋」:『霊智学解説』21頁参照。

 

<注48

■吉永進一著「神智学と日本の霊的思想(2)」:舞鶴工業高等専門学校、情報科学センター年報『舞鶴高専紀要』第37号(20023月)所収。

 

<注49

■神智学協会の分裂

神智学協会は1895年の大会で、オルコット、アニー・ベサント、リードビーターの「アディヤール派(→オルコットの会長在職は1875年→1907年、次のアニー・ベサントの会長在職は1907年→1933年)」と、「アメリカ神智学協会」の二つに分裂した。

その後インドに本部を置く「神智学協会アディヤール派」はインド独立運動と密接に結びつく。二代目会長のアニー・ベサントは、1917年にインドの独立運動に指導的役割を果した「インド国民会議の議長」に就任している。

アメリカ神智学協会は1898年に本部をカリフォルニア州サンディゴ近郊のポイント・ローマに移した。それ以降「ポイント・ローマ派」と呼ばれた。現在はカリフォルニア州パサディナに本部を置き、アメリカでは単に「神智学協会」と呼ばれている(→または「神智学協会、国際本部:カリフォルニア州パサディナ」という表記)。「ポイント・ローマ派」は、学校や孤児院を建設して「ユートピア的なコミュニティを目指した」。まぎらわしいが現在の「アメリカ神智学協会」は、「神智学協会アディヤール派」のアメリカ支部のこと。

 

<注50

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(12)」:雑誌『心霊研究』19749月号所収。

 

<注51

■吉永進一著「神智学と日本の霊的思想(2)」:舞鶴工業高等専門学校、情報科学センター年報『舞鶴高専紀要』第37号(20023月)所収

 

 

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