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シルバーバーチ・ブーム

目 次

 

①.シルバーバーチ・ブーム

ア)第一次シルバーバーチ・ブーム

・最初の紹介者

・「シルバーバーチの霊訓」を学ぶ会

・「ニューエイジ運動」の時代へ

・アプローチの多様化

イ)第二次シルバーバーチ・ブーム

・時代の風に乗った形でブームの再来

・「再浮上」が意味するもの

・拝金主義と霊的環境整備という二つの動き

 

②.「シルバーバーチ・ブーム」人的面からの検証

・スピリチュアリストの世代交代

・翻訳者の田中武

・翻訳者の近藤千雄

・近藤千雄の立ち位置

 

③.「シルバーバーチ・ブーム」組織面からの検証

・霊的潮流の受け皿機関としての役割

・組織の役割の変化

・「シルバーバーチの霊訓」登場の必然性

 

④.「シルバーバーチ・ブーム」がもたらした影響

・スピリチュアリズム観の再考

・霊的潮流の方向性

 

⑤.浅野和三郎と福来友吉

ア)浅野和三郎

・「神霊主義=信仰」としてのスピリチュアリズム

・「学者」を捨てた浅野和三郎

イ)福来友吉

・「学者」にこだわった福来友吉

・晩年は「霊=精神作用」の壁を破る

ウ)両者の「志向性」の違い

・相反するベクトルの向き

・「肌が合わなかった」が同じ道を目指した同志

 

⑥.浅野和三郎の役割

ア)時代的な制約

・先人たちの存在

・時代の制約下にあったスピリチュアリズムの普及活動

イ)浅野が霊界から抜擢された理由

・大本事件からの教訓

・一線を超えた普及活動

・思想の普及を伴う場合の危険性

・浅野が抜擢された理由

ウ)「運動体」としてみた場合

・「受け入れ時期」の到来

・運動を推進する人たちに見られる「光と影」

・宗教的親和性

・浅野の強烈な個性

・「和製スピリチュアリズム」という沼地に咲いた花

 

<注1>~<注16

 

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①.シルバーバーチ・ブーム

ア)第一次シルバーバーチ・ブーム

☆最初の紹介者

筆者がスピリチュアリズム雑誌を調査した限りにおいて、日本で最初に「シルバーバーチの霊訓」を紹介した人は桑原啓善(1921年→2013年)であり、雑誌『心霊と人生』誌の昭和28年(1953年)12月号に掲載された「海外の霊界通信二章」(ツー・ワールズ誌からの翻訳)が最初ではないかと思われる。その後、粕川章子(1887年→1969年)が同様にツー・ワールズ誌を翻訳して、雑誌『心霊研究』誌に紹介しているが、1950年代から1960年代にかけては、桑原啓善の翻訳が質・量ともに充実している(注1)。

 

☆「シルバーバーチの霊訓」を学ぶ会

心霊科学研究会系の日本スピリチュアリスト協会(→昭和34年に東京心霊科学協会を改称した)では、昭和36年(1961年)から昭和38年(1963年)にかけて、「シルバーバーチの霊訓」をもとにした学習会形式の座談会を開催した。その様子が雑誌『心霊と人生』誌に掲載されている(注2)。掲載誌の状況から判断すれば、「シルバーバーチの霊訓」を学習会スタイルで学び、毎月一回継続して開催した模様である。

雑誌『心霊と人生』誌の昭和37年(1962年)7月号に、次のような編者の記述が載っている。「近頃とみに読者からシルバーバーチの著書の訳本はないかとの照会がありますが、今日のところ一冊の訳本もありません。しかし、本邦ではただ一つ本会の研究会でこのシルバーバーチの通信の研究をやっております。そして、本誌に逐号掲載しております。しかし、いずれは一冊として出版の予定で企画はしております」(19頁)と。

一種の“シルバーバーチ・ブーム”が起きた様子が誌面から窺える。しかしこの時期はいまだ霊が宗教の範疇で語られる時代を抜けきっていなかったため、機が熟さないままに一過性のブームで終わってしまった。その後1960年代から1970年代にかけて、霊の世界をめぐる状況が世界的規模で大きく変化していった。

 

☆「ニューエイジ運動」の時代へ

1960年代のアメリカに端を発した文化現象に「対抗文化」がある。「対抗文化」とは、「既存の支配的な文化に対抗するもう一つの文化」という意味であり、一般に「人間と自然との共生型の社会を目指す生活様式・思想・運動などを指す言葉」として使用されている。

この「対抗文化」は、黒人解放運動、女性解放運動、ベトナム反戦運動、ロックミュージック、フォークソング、フェミニズム運動、住民運動、自然回帰、エコロジー、東洋の宗教への指向という形をとって、ヨーロッパや日本などの「先進国や消費文化の発達した大都市圏で同時多発的に多様な形態として展開」(島薗進)した。そしてこれらの運動の経験者が「ニューエイジ運動」や「精神世界」などの分野に幅広く参加していった。

1960年代のアメリカに端を発した「対抗文化」は、1970年代に入ると「ニューエイジ運動」として定着して、日本においても「精神世界」というジャンルが現れて、霊と宗教が切り離されて語られるようになった。この時期、霊を取り巻く客観的な環境は、世界的に見て大きく変化していった。

 

☆アプローチの多様化

この時代、死後の世界へのアプローチも多様化した。1960年代の後半以降、イアン・スティーヴンソン(Ian Stevenson1918年→2007年)は生まれ変わりの研究を行い、のちに『前世を記憶する子どもたち』(笠原敏雄訳、日本教文社1990年刊)などを発表した。またキューブラー・ロス(Elisabeth Kübler Ross1926年→2004年)やレイモンド・ムーディ(Raymond Moody1944年→ )の研究をきっかけとして、臨死体験を学問的研究対象とする動きが芽生えてきて、心理学者、精神神経医、脳生理学者、宗教学者、哲学者などが幅広く研究に参加してきた。

 

イ)第二次シルバーバーチ・ブーム

☆時代の風に乗った形でブームの再来

桑原啓善が雑誌『心霊と人生』誌にシルバーバーチを掲載して、ブームとなってから20年後の1982年(昭和57年)、時代は変わり「精神世界」が「宗教」から分離して一つのジャンルとして出来上がりつつあったころ、二度目のブームは起きた。そのきっかけを作ったのは、公益財団法人日本心霊科学協会の機関誌『心霊研究』誌の19826月号から198310月号にかけて連載された近藤千雄編著「シルバーバーチは語る(シルバーバーチ霊言集より)」であった。

 

この連載は、当時吹いていた“精神世界ブームという時代の追い風”に背中を押される形で、一気にブーム(→第二次シルバーバーチブーム)となった。当時筆者のまわりの人たちも連載中の「シルバーバーチは語る」を話題にして、記事をコピーして回し読みをしていた。また協会を退会した元会員が、連載記事を読みたいがために再び会員となって『心霊研究』誌を購読したという話や、『心霊研究』誌の編集部に「連載終了後に小冊子として出して欲しい」とか、「連載している全ページをコピーして読んでいます」など、多数の声が寄せられた(→筆者はこの話を当時の関係者から聞くことができた)。

その後この連載記事はまとめられて、潮文社から『古代霊は語る』(1984年)として出版された。出版されるや訳者の近藤千雄や出版社の潮文社のもとに「全国各地から感謝と感動の手紙が寄せられた」という(→筆者は翻訳者の近藤千雄氏から、連載に至った状況や当時の反響の大きさを聞くことができた)。この反響の大きさはその後の『シルバーバーチの霊訓』(潮文社)全12巻シリーズの刊行に繋がった(注3)。

 

この時期、次のような「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」の翻訳本が相次いで刊行されている。

例えば、近藤千雄訳編『古代霊は語る』(潮文社1984年刊)。桑原啓善訳『シルバーバーチ霊言集』(潮文社1984年刊)。近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、全12巻』(潮文社1985年刊~1988年刊)。ステイトン・モーゼス著、近藤千雄訳『霊訓』(国書刊行会1985年刊)。梅原伸太郎訳『不滅への道(=永遠の大道)』(国書刊行会1985年刊)。梅原伸太郎訳『人間個性を超えて(=個人的存在の彼方)』(国書刊行会1986年刊)。G.V.オーエン著、近藤千雄訳『ヴェールの彼方の生活、全4巻』(潮文社1985年刊~1986年刊)。アラン・カルデック編、桑原啓善訳『霊の書』(潮文社1986年刊~1987年刊)。ステイトン・モーゼス著、近藤千雄訳『インペレーターの霊訓―続『霊訓』―』(潮文社1987年刊)。ステイトン・モーゼス著、桑原啓善訳『ステイトン・モーゼスの続霊訓』(土屋書店1988年刊)など。

このような相次ぐ出版によって、日本でも原書を取り寄せたりせずとも、容易く「純粋なスピリチュアリズム思想」を学ぶことのできる環境が整ってきた。

 

☆「再浮上」が意味するもの

この出版現象は何を意味しているか、次に筆者の考えを述べてみる。

1982年に雑誌『心霊研究』誌に連載された近藤千雄編著「シルバーバーチは語る」は、その後の一連の「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」の翻訳出版の口火を切る、いわば“先陣の役”を果たすことになった。この「シルバーバーチは語る」の連載は、一時表舞台から姿を消していた「純粋なスピリチュアリズム」が、普及活動の前面に立って運動を牽引していく、いわば“時節の到来”を告げる象徴的な出来事となった。

 

21世紀の地上世界に“霊的潮流の本流(地上人に関する分野)”を隈なく及ぼすという霊界側の意図に沿った形で、昭和の末期、一連の「Higher Spiritualism」の翻訳出版が、日本の“霊的環境整備(霊的なインフラ整備)”の一環として行われた。

その理由は、大本教団の表現を借用すれば「大本から日本へ、日本から世界へという雛形」的な役割を担わせることによって、日本を「純粋なスピリチュアリズム」普及運動のモデルケースとして使おうとしているのではないだろうか。

 

☆拝金主義と霊的環境整備という二つの動き

昭和57年(1982年)に一つの組織内で起きたブーム(→第二次シルバーバーチブーム)は、その後『心霊研究』誌という雑誌や「日本心霊科学協会」という組織の枠を超えて広がり、スピリチュアリズムの普及に大きな弾みとなった。この時期、大型書店では「精神世界ブーム」に便乗するかのように、宗教書のコーナーに隣接する形で精神世界のコーナーが設けられて、そこに少しずつ良質なスピリチュアリズムの文献が並ぶようになった。

 

当時の日本経済は好況期の循環局面に入り、社会全体に拝金主義の風潮が蔓延して、人々はバブル景気に浮かれていた(→バブル景気:198612月→19912月)。その頃、霊界においては「純粋なスピリチュアリズム思想」を日本に着実に定着させるために、良質なスピリチュアリズムの文献を立て続けに刊行させて、霊的な環境を整備するという仕事を行わせるとともに、次なる一手を準備していた。

このようにこの時期の日本では、“バブル景気という拝金主義”と“霊的環境を整備する”という二つの相反する動きが同時に起きていた。

 

バブル景気のさなかに「昭和の時代」が終わりを告げて「平成の時代」に入った。日本では1990年代の後半以降、インターネットの急速な普及があった。それまで煩雑だったインターネット接続設定が、1990年代に入ると新たな「基本ソフト(OSoperating system)」の出現によって容易になり、インターネット利用の環境が整ってコンテンツが充実してきた。この時代の急速な技術革新による生活環境の変化は、私たちにさまざまな恩恵と共に意識の変化をもたらした。2000年代に入ると、インターネットの普及と「純粋なスピリチュアリズム思想」の普及をリンクさせる形で、「スピリチュアリズム・ブーム」が出現した。そしてその流れの中から「浅野和三郎が再浮上」してきた。

 

②.「シルバーバーチ・ブーム」人的面からの検証

☆スピリチュアリストの世代交代

1980年代は「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」の草創期において活躍した影響力の大きいスピリチュアリストが、相次いで亡くなり世代交代が起きた時期であった(→旧来の考えにとらわれないで、誰にも気兼ねなしに自由な発想をする人たちの出現、メンバーチェンジに伴う新たな時代の幕開け)。浅野和三郎と共にスピリチュアリズムの普及啓蒙に努めた宮澤虎雄は1980年に94歳で、脇長生は1978年に88歳で亡くなった。多くの物理霊媒の実験会に関与してきた小田秀人は1989年に93歳で、社会学者の田中千代松は1994年に96歳で亡くなった。また物理霊媒の津田江山は1991年に89歳で、萩原真は1981年に71歳で、竹内満朋は1991年に80歳で亡くなった。

 

浅野たちが大正12年(1923年)に心霊科学研究会という組織を立ち上げて、心霊知識の普及啓蒙の「核」を作り、それを浅野の「同行者・共鳴者」が紆余曲折を経ながらも、戦後の昭和期を守り育て、次の世代に繋げていった。

日本においては昭和20年代までは物理的心霊現象を必要とした時代であったが、この時代を経て「質の高い高等なスピリチュアリズム」を受け入れるまでに、日本の霊的環境が整ってきたのが1980年代であった。この時期、日本の「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」の草創期において活躍した影響力の大きな浅野の「同行者・共鳴者」は、次の世代のスピリチュアリストにバトンを繋げて役目を終えてこの世を去っていった。

 

☆翻訳者の田中武

1980年前後、論理的かつ科学的思考方法になじんだ者にも手に取れる、より垢ぬけした「精神世界」の書籍が書店の店頭に並び始めた。雑誌『心霊研究』誌にも良質なスピリチュアリズムの翻訳が相次いで掲載された。田中武(彦根市の医師)は、雑誌『心霊研究』誌の昭和51年(1976年)1月号から昭和55年(1980年)3月号にかけて、「ヴェールの彼方より」(全13回連載)を連載した。

これはモーゼス、マイヤース、シルバーバーチ、ウィックランド博士等の霊訓を織り交ぜながら、スピリチュアリズムを分かり易く解説したものであった(→この手法は後に近藤千雄が刊行した『古代霊は語る』に通じるものがある)。この連載記事は昭和57年(1982年)に自費出版された『ヴェールの彼方より』の中に収録された(注4)。

 

当時を振り返ってみれば田中武の役割は、近藤千雄の「シルバーバーチ」へ繋げるための、ブームの雰囲気を醸造する役を担った人といえるのではないだろうか(→第二次シルバーバーチ・ブームを作り出す役割の一人)。田中武はこの『ヴェールの彼方より』以外に、カール・A・ウィックランド博士の著書Thirty Years Among the Deadの翻訳許可を取って、昭和52年(1977年)以降『心霊研究』誌に35回に分けて「死者との交流30年」として連載した。これは昭和58年(1983年)に『医師の心霊研究30年』(出版科学総合研究所)として単行本にまとめられた。

 

☆翻訳者の近藤千雄

近藤千雄(1935年→2012年)は19808月末に手島逸郎(水産大学名誉教授:?→1998年)から、当時の日本心霊科学協会福岡支部で発行していた『心霊月報』(同人誌的なもの)に、「何か寄稿してほしい」との依頼を受けた。その依頼に基づいて近藤は、9月から霊言集の翻訳と編纂に取り掛かったが、その最中の10月頃に「ふと、英国に行ってみようかという気」になったという。その気持ちが日増しに強くなり、この年の暮にイギリスに行き、翌年(1981年)14日にバーバネルに会っている(→バーバネルは19817月に死去)。

 

近藤はバーバネルとの面談について次のように述べている。「バーバネル氏に会ったことで霊言集の翻訳に拍車がかかったことは言うまでもない。『心霊月報』は4、5回連載したところで都合で休刊となったが、私の筆は自分でも不思議なほどはかどるので、発表の場を日本心霊科学協会の『心霊研究』に移して、もう一度最初から連載していただいた」(注5)。その際、当時『心霊研究』誌の編集長をしていた梅原伸太郎(1939年→2009年)の尽力があったという。この翻訳・編纂は、当時の『心霊研究』誌に「シルバーバーチは語る」として、昭和57年(1982年)6月号から昭和58年(1983年)10月号まで連載された。この連載がその後のシルバーバーチ・ブームを作り出す基になったことは言うまでもない。手島逸郎と梅原伸太郎はこの「第二次シルバーバーチ・ブーム」のきっかけを作った人であった。

 

☆近藤千雄の立ち位置

シルバーバーチの霊訓の翻訳者の近藤千雄の恩師は、間部詮敦(まなべあきあつ)である。間部家は大名の出で子爵の家柄であった。兄の間部詮信(まなべあきのぶ:1878年→1961年)は大阪心霊科学協会の理事長で、近藤によれば晩年は福岡で過ごしたという。

弟の間部詮敦は三重県上野市に在住で、浅野と出会うまでは神道系の「霊光道」という団体を率いていた(注6)。

近藤千雄と浅野和三郎との関係は、近藤から見れば「恩師の先生」という位置になり(浅野和三郎→間部詮敦→近藤千雄という流れ)、この流れの中で近藤は、間部や浅野の支配的思想である神道から強い影響を受けている。

 

浅野は著名な英文学者であり息子の病気をきっかけとして霊的世界に入り、日本のスピリチュアリズムの草創期に、心霊の普及・啓蒙活動を通して組織や人脈を作り上げてきた。その線上に間部詮敦が登場し、浅野に指導を受けてスピリチュアリズムの世界に入ってきた。

慶応大学を出て海外の心霊書を原書で読んでいた間部詮敦は、浅野と近藤をつなぐ位置にいて浅野の思想を近藤に伝え、さらにスピリチュアリズムの書籍の翻訳に関心を仕向ける役割を果たしたといえよう。ラフカディオ・ハーンと浅野との関係と同様に、いわば親鳥が卵の殻を外から突ついて孵化を促すと同様な役目を間部がはたし、近藤はそれに応えて自らの使命を自覚して、日本において「霊的教訓の時代」を導くための「インフラ整備の仕事(=霊的な環境整備)」を成し遂げた。

 

近藤千雄の一連のスピリチュアリズム関連の翻訳によって、私たちは手軽に『シルバーバーチの霊訓』を始め多くの良質な「霊界通信」を読むことができるようになった。その後しだいに『シルバーバーチの霊訓』が浸透し理解されるようになるに従って、読者の注意が霊訓の細部まで向くようになってきた。このような中で先駆的な翻訳を成し遂げた近藤には、当然に先駆者としての宿命も待ち受けていた。

 

かつて戸澤正保(とざわまさやす:1873年→1955年、東京外国語学校長)はシェイクスピアの四大悲劇の一つである「マクベス」を翻訳した際に、識者からだいぶ批判を受けたと言う。その時「高山樗牛氏は私を慰めて、どうせ字引と翻訳は後から出るものほど良いに決まっておる。初めから完全なものは決してない。捨て石になる積りでやれ」と激励されたとのこと(注7)。のちに戸澤がシェイクスピア全集を翻訳することになった際に、翻訳の過程で行き詰った時にこの高山樗牛(たかやま ちょぎゅう:1871年→1902年、明治の思想家)の言葉を思い出して仕事を続けたという。その後シェイクスピアはさまざまな人が翻訳し、それぞれの持ち味を出して出版されている。読者は好みに応じて翻訳者の訳本を選択して、シェイクスピアの世界を堪能している。同様な事は、近藤たち先駆者が切り開いたスピリチュアリズムの翻訳の世界にも云える。

 

③.「シルバーバーチ・ブーム」組織面からの検証

☆霊的潮流の受け皿機関としての役割

大正12年に浅野和三郎が中心となって創った霊的潮流の「受け皿機関」は、戦前・戦中の過酷な時代を生き延びて、戦後新たな組織に繋げていった。終戦後間もなく浅野正恭たち旧東京心霊科学協会の関係者は「新組織設立のための結成準備委員」となり、彼らの奔走によって各種スピリチュアリズム団体、個人参加のスピリチュアリスト、浅野家親族などが大同団結して昭和2112月に「日本心霊科学協会」が設立された。

しかし間もなく運営方針の違いから、「日本心霊科学協会」から浅野家親族とその関係者が飛び出して「心霊科学研究会と東京心霊科学協会」が再興された。これによって浅野和三郎系の組織は二つに分裂した。

 

心霊科学研究会と日本心霊科学協会は、ともに浅野和三郎の流れを引く組織であるが、霊界では最初に「心霊科学研究会」にチャンスを与えて、小規模ながらも“シルバーバーチ・ブーム(第一次)”をもたらした。その20年後に今度は「日本心霊科学協会」にチャンスを与えた。雑誌『心霊研究』誌に掲載された「シルバーバーチは語る」は、「精神世界ブーム」という“時代の追い風”に乗って評判となり、その後に続く「純粋なスピリチュアリズム」関連書籍の相次ぐ刊行という形で、“シルバーバーチ・ブーム(第二次)”をもたらした(→このように双方の組織にチャンスを与えたことから見ても、霊界は“律儀な世界”であることが分かる)。

最終的に「純粋なスピリチュアリズム」を日本に普及させるという霊界側の意図は、後者の組織を“道具”として使い実現させた。その後「純粋なスピリチュアリズム」は組織の枠を超えて広がり、ブームとなって従来のスピリチュアリズムの在り方を大きく変えていくことになった。この意味で1982年(昭和57年)という年は、1929年(昭和4年)と並んで日本における“霊的潮流の節目に当たる年”であったことが分かる

 

☆組織の役割の変化

1970年代以降の雑誌『心霊研究』誌の誌面には、良質のスピリチュアリズムの翻訳が数多く掲載されており、当時の誌面からは新しい“何ものか”を世に送りだそうとする雰囲気が感じられた。このような雰囲気が醸造されてきた延長線上に「シルバーバーチは語る」が連載されて、間もなくブームを起こして組織的な枠を超えて大きく育っていった。

 

シルバーバーチは折に触れてキリスト教という組織を例に出して「組織の弊害」を戒めていたが、日本において「シルバーバーチの霊訓」が世に出るためには「日本心霊科学協会」という組織が必要であった。浅野たちが作り後継者が繋げて維持してきた組織は、それぞれの時代の中で「スピリチュアリズム普及のセンター的役割」を果たしてきた。「物理的心霊現象の時代」には会員形態をとる組織は有効に機能してきたが、時代が移って「霊的教訓の時代」になると“物的環境(=組織)”はそれほど重要ではなくなった。

 

このように「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」を日本に普及するためには、シルバーバーチ・ブームを作り出す必要があった。そしてそのブームを作り浮揚するまでは“従来型の組織”が必要であった。このような意味において日本心霊科学協会で起きたシルバーバーチ・ブームは、組織を必要とした時代の最後を飾った現象となった。

この後に訪れる「霊的教訓の時代」では、組織に頼った従来型の普及方法に変更を迫り、この手法を過去のものにしてしまった。組織の役割も従来型組織ではなく、「霊的教訓の時代」にふさわしいネットワーク的な機能を重視した形態に徐々に移行していくように見える。

 

客観的に見ても、少なくとも日本心霊科学協会は「第二次シルバーバーチ・ブーム」を作り浮揚させるまでは、日本の「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」に関して常に指導的役割(センター的役割)を果たしていた。このことは和製スピリチュアリズムの拠点として、心霊の分野で多彩な人材を集め、また送り出してきた実績からも分かる。

霊界側はこのような“公的な役割を担った組織”を霊的潮流の受け皿機関として使って、「純粋なスピリチュアリズム」を再び浮上させて、スピリチュアリズムの核心的な思想を普及させるという初期の目的を達成させることができた。ここに昭和という時代に日本心霊科学協会が果たした役割があり、その点に於いて霊界側から見て存在意義があったと筆者は考えている。

 

☆「シルバーバーチの霊訓」登場の必然性

シルバーバーチの霊訓は1980年代のある日、突然に私達の眼前に登場しブームとなったのではない。日本におけるシルバーバーチの霊訓の普及は、近藤千雄という日本語の置き換えに熟達した稀有の翻訳者の存在と、浅野以来のスピリチュアリズム普及の核となった組織の存在があって初めて可能となった。

このように人的面(浅野→間部→近藤)や、組織という物的面(心霊科学研究会→東京心霊科学協会→日本心霊科学協会)の双方の準備が整って、さらに「精神世界」というジャンル分けの確立や情報通信機器の発達などが「時代の追い風」となって、初めて「シルバーバーチ・ブーム」が生れて現在の「霊的教訓の時代」に繋がったのである。

 

浅野と近藤の共通点は、翻訳書においては抄訳と全訳の違いはあるものの、「純粋なスピリチュアリズム」を日本の読者に紹介したことであり、啓蒙書においては共に神道的色彩が強い著述を刊行したことにある。浅野の蒔いたタネは死去から50年後にして、近藤千雄によって「シルバーバーチの霊訓」という形で実を結んだ。

心霊現象の研究(霊魂研究)から出発して「神霊主義の実践家」に至った浅野の仕事は、近藤による一連の純粋な霊的教訓の翻訳出版によって初めて完結し、ここにより高度な「霊的教訓の時代」を迎えることができたといえる。

 

このように「シルバーバーチの霊訓」という「純粋なスピリチュアリズム」は、組織という物的側面からも翻訳者という人的側面からも、ともに浅野が唱えた「和製スピリチュアリズム」の系譜に乗って(もしくは、それらを使って)登場し、その霊的教訓が人々に感銘を与えて、既成の枠を超えたブームとなって花開いたものである。いわば「和製スピリチュアリズム」という沼地に咲いたハスの花である。

 

④.「シルバーバーチ・ブーム」がもたらした影響

☆スピリチュアリズム観の再考

日本においてスピリチュアリズムは、日本の「伝統的な祖霊観・霊魂観」と結びついたローカル・スピリチュアリズムという形で普及している。またスピリチュアリズムの概念の一部は新興宗教の教義の中に取り込まれて、“教義の補強材”として使われている。さらに現世利益的なものを追い求める「スピリチュアリズム産業」に携わる人たちからは、スピリチュアリズムの用語が“客寄せの装飾品”として用いられている。

 

このような混乱した状況の中で1982年以降の「シルバーバーチ・ブーム」は、日本における従来のスピリチュアリズムのあり方に一石を投じることになった。

従来の日本では理解が弱かった「高級霊界に源を発する霊的潮流」や「霊的刷新運動」といった視点や、物の見方を「この世的視点から霊的視点に立った見方への転換」のすすめ。さらには「霊的成長」と「利他的行為」との関係。つまり「霊的成長」によって自己の霊的レベルが向上すれば、宇宙に遍満している霊的エネルギーがより多く自らの中に流れ込んでくる。その流れ込んできた霊的エネルギーを「利他的行為」によって、地上世界に流していくとさらに自己の霊的レベルが向上していく。このように霊的エネルギーをキーワードにして「霊的成長」と「利他的行為」は密接に関連していることが明らかとなる。スピリチュアリズムが目指す「新しい世界」の建設は、霊的エネルギーが垂直方向と水平方向のルートによって、地上に満ち溢れていくことによって形成されていく。これらが明確となってスピリチュアリズムの核心に対する理解が徐々に広まりつつあるように見える。

このような形でシルバーバーチの霊訓の普及によって、「純粋なスピリチュアリズム」という立場からローカル・スピリチュアリズムに対して一つの判断基準を提示できるようになった意義は大きい。

 

☆霊的潮流の方向性

1980年代の「シルバーバーチ・ブーム」に触発される形で、1980年代後半から1990年代にかけて自費出版という形で、スピリチュアリズムの普及に努めた方々がいた。1990年代以降のインターネットの発達は、意見表明の場を従来の書籍というモノの世界から、バーチャル空間に拡大させた。インターネットの利便性が向上するに従い、ホームページやブログなどにおける利用法が多様化して、これらが“スピリチュアリズムを発信する場”として活用されるようになってきた。

 

インターネットの特徴は、意欲があれば誰でもどこにいても、質の高い情報にアクセスすることができるようになったことである。これは昭和30年代にテレビの普及によって、情報面において日本全国が均一化し、地方間格差が解消していった現象と似ている。

このように近年の技術革新は、従来の物理的空間の制約といった縛りから解き放ち、バーチャル空間の中に多様な情報という形で利用者の選択の幅を拡大させた。それに伴って“心霊知識の普及啓蒙活動の在り方”も多様化したが、これらの情報を使いこなして自らの霊性向上(→自分が変わっていくこと)にどのようにつなげるかは、ひとえにリアルな世界である日常生活における実践(→自分に対する実践と他人に対する実践の両面)にかかっている。浅野和三郎が唱えた「神霊主義」の実践活動は、このような形で現代人に引き継がれてきている。

 

私たちはこのような多様な形態の心霊知識の普及啓蒙活動が可能な社会に生きている。現在の私たちが行う、それぞれのポジションでの実践活動(極めてささやかな活動)の集大成が、次に続くスピリチュアリストの現在地点を形作ることになる。そして彼らの取り組みの集大成が将来のスピリチュアリストの足元を作っていく。このようにして次々と引き継がれ積み重ねられことによって、霊的真理普及の成果が目に見える形となって将来の人たちの前に現れてくることになる。

 

⑤.浅野和三郎と福来友吉

ア)浅野和三郎

☆「神霊主義=信仰」としてのスピリチュアリズム

浅野和三郎と福来友吉は、日本における「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」の先駆者、草分けであるが、両者のスピリチュアリズムに対する志向性は異なっている。浅野は宗教教団幹部という経歴を持っており、福来は「催眠の研究で博士号を取った学者」という肩書を持っている。この経歴や肩書が両者のスピリチュアリズムに対する志向性の違いとなって表れていると筆者は考えている。その根拠は以下のとおり。

 

浅野の後継者を自認した脇長生は「先生(=浅野)の晩年は心霊現象の研究は、第二義的となって、全身全霊、日本神霊主義の唱道とその実践に全エネルギーを注がれた」(注8)と述べている。この脇の発言からも分るように、浅野はスピリチュアリズムの土台部分である「霊魂説」を重視した「科学」的な志向性から、晩年は「霊魂説」の上部構造に位置する「スピリチュアリズム思想(哲学)」を日常生活に応用するという「スピリチュアリズムの宗教性」を強く志向した実践に重点を移していったことが分かる。

 

昭和20年までの支配的思想は、天皇は“家長”であり国民は“天皇の家族”である、天皇の祖神である天照大神は、“天皇の家族”たる国民にとっても祖神であるという“宗教性”を帯びた「家族国家観」であった。このような時代にスピリチュアリストとして活躍した浅野は、固着思想(固着観念)に「復古神道・天皇中心主義思想」を持っていたため、当時の支配的思想と無理なく合致させることができた。

それは浅野がISF大会参加を前にして、それまで彼自身が「spiritualism」に対応する訳語として、複数用いていたものを「神霊主義」という宗教的要素の強い言葉に統一したこと。イギリスから入ってきた「新スピリチュアリズム」を翻訳という過程を経て変質させて、宗教性を帯びた「日本神霊主義(=日本スピリチュアリズム)」という呼び名で、「和製スピリチュアリズム」を唱えたことからも分かる。

 

兄の浅野正恭の説明によれば「心霊主義は霊魂の状態、ならびにその動静等に関する一切の研究」であり、「神霊主義は心霊主義の一切を認め、その基盤の上に立ってさらに帰幽した霊魂とは異なる神の存在を認め、可能とする範囲において、この神と交渉の路を開こうとする」(注9)考え方であるという。このように浅野和三郎が唱えた「神霊主義」は「信仰・宗教としてのスピリチュアリズム」であった。この浅野の信仰重視の志向性は、福来がスピリチュアリズムの科学性を重視して心霊研究の道へ進んでいったのとでは対称的である。

 

☆「学者」を捨てた浅野和三郎

浅野和三郎と福来友吉との大きな違いは、「学者」であることを捨てた者と最後まで「学者」にこだわった者との生き方の違いにある。当時実証主義的で知的エリートであった浅野は、息子(三男)の病気をきっかけにして行者石井ふゆと出会い、そこで石井による当てもの実験(透視)を見学した。その後出口王仁三郎との出会いがあり、鎮魂帰神の実修によって霊の世界の存在と霊魂の実在を確信した。このことが浅野を“心霊の世界(=スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ)”へ進ませるきっかけとなった。このように心霊の世界への導入部は、オーソドックスな心霊現象の実証的証明であった。

 

著名な英文学者の肩書を持つ浅野は、海軍機関学校教授という地位と、英文学会における名声を惜しげもなく棄て去って、当時「唯一の心霊道場」であった大本に飛び込んで、そこで霊学と古神道を学んだ。その浅野を間近で見てきた笠井鎮夫(かさいしずお:1895年→1989年、東京外国語大学名誉教授)は、当時のエネルギッシュ感みなぎる浅野の物腰を「(浅野には)確固不動の信念があり、ものすごい熱意にみなぎっていた」(注10)と表現している。

浅野は「大本事件(不敬罪事件)」に連座して謹慎を余儀なくされたが、その期間中にスピリチュアリズムを積極的に学んでいった。この時期の浅野の心境を宮澤虎雄は「(浅野は)新時代の精神的運動の新基盤は心霊研究を持って築き上げるしかないと考えて、筆と口と心霊的実証とにより世間に訴えんとするに至った」(注11)と代弁している。

 

このような経緯からも分るように宗教教団幹部という経歴を持つ浅野には、「業界(=学者の世界)」の意向にとらわれずに、スピリチュアリズムを「信仰・宗教」的に理解することに対する抵抗は少なく、むしろ馴染み易かったと言えよう。スピリチュアリズムに対して「信仰・宗教」的な理解を示した浅野の普及実践とは、当時の時代的な制約を受けた「日本神霊主義」という、日本の「伝統的な祖霊観・霊魂観」と「新スピリチュアリズム」との折衷をはかった「和製スピリチュアリズム」であった。

 

イ)福来友吉

☆「学者」にこだわった福来友吉

浅野和三郎と並んで、日本における「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」の先駆者、草分けと言われる福来友吉は、科学者としての立場から生涯にわたって「スピリチュアリズムの科学」的な側面を重視した研究を続けていった。福来は明治末期に透視や念写という心霊現象の研究をアカデミズムの世界で行ったことによって、社会に大きな影響を及ぼしたが、周知の通り学会やマスコミから徹底的に攻撃されて東京帝国大学を放逐された。

 

その後、福来は在野において確固たる信念を持って研究を続けて、研究成果を著書や雑誌で発表し続けたが、この頃にはアカデミズムの世界では誰からも相手にされなくなっていた。しかし在野に於いては「博士(→催眠術の研究で文学博士の学位を取った)」のラベルに希少価値があった時代であり、公の場所ではつねに「博士」として紹介されていた。このことが福来の心理面に於いて、“学界の意向を常に意識する”という意味で“学者の世界に留まらせる(→福来の意識面で)”ことになり、つねに従来型の「学」を意識して、それに囚われることになったと言えるのではないだろうか。その後の福来の職歴を見ても、研究や教育を行う「学」の世界に留まっている。福来は大正10年(51歳)から大正15年(56歳)までは宣真高等女学校(大阪・池田市)の初代校長であり、大正15年(56歳)から昭和15年(70歳)までは高野山大学の教授(心理学担当)であった。

 

☆晩年は「霊=精神作用」の壁を破る

福来は霊や心霊現象のメカニズムを語る際にも「学」を意識して、当時の支配的な宗教である仏教の用語を借用して解説し、「霊=精神作用」であると述べている。しかし生物学が専門の中沢信午(1918年→2002年:山形大学名誉教授)によれば「晩年の福来博士は霊の存在を絶対的に確信していた」(注12)という。このように霊魂説に立つことを対外的に表明しなかった福来は、スピリチュアリズムを「科学的」な志向性で追及する立場を生涯堅持し続けていた。推察するに福来は、いわば「博士」や「教授」といった肩書が邪魔をして、“霊を精神と考えた”壁をなかなか乗り越えられなかったのではないだろうか。

 

ウ)両者の「志向性」の違い

☆相反するベクトルの向き

公的な肩書をすべて捨て去ってしまった浅野和三郎は、自身の信念を貫いて「学」の世界からは常に胡散臭くみられていたスピリチュアリズムに、大きく足を踏み出して“実践活動”に向かった。これに対して生涯「科学者の立場」を堅持し続けた福来友吉の場合は、「学」の世界の片隅に居場所を確保したサイキカル・リサーチ(=心霊研究)に向かっていった。なおサイキカル・リサーチは後に「超心理学」と呼ばれるようになって、学問の世界の一角に居場所を確保した。

 

このように両者の差異は、スピリチュアリズムに対する「志向性」の違い、つまり浅野は上部構造重視によって“宗教への志向性”を強めたのに対して、福来は土台部分を重視して“科学への志向性”を強めていった。

一般に「新スピリチュアリズム」の位置関係は「右隣りには実証を重視した科学の世界」が広がっており、反対側の「左隣には信念を重視した信仰・宗教の世界」が広がっていると言われている。そのため「実証を重視する者は、科学へ傾斜する」右隣への傾向を強め、「信念を重視する者は、信仰へ傾斜する」左隣への傾向を強めていくことになる。そのため両者のベクトルの向きは相反することになる。

 

浅野はスピリチュアリズムを「信仰・宗教」的に理解して、大きく“実践(和製スピリチュアリズムとして)”に踏み出すことができたが、その背景には宗教教団幹部という経歴を有すること、固着思想に「復古神道・天皇中心主義思想」を持っていたことなどがあげられる。そのため同時代の知識人と比べて見ても、スピリチュアリズムを宗教的に理解することに対する躊躇は格段に少なかったと思われる(→浅野は自らの固着思想である復古神道と絡めて宗教的色彩を帯びた神霊主義を唱えていたから)。これに対して福来は、一貫して心霊現象を科学の領域で説明しようとした。このように両者には「志向性」の違いがある。

この浅野と福来の違いは、アラン・カルデックがカルマや再生といった宗教的志向性の強いスピリチュアリズム(=スピリティズム)を唱えたことに対して、イギリスの心霊研究協会はスピリチュアリズムの土台部分の実証的検証(科学性)を重視した、この両者の動きと類似している。

 

☆「肌が合わなかった」が同じ道を目指した同志

浅野が「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」の世界へデビューした当時、福来は透視・念写の研究者としてすでに著名人であった。両者は東京帝大以来の知り合いであり(注13)、またISF大会にも一緒に参加した間柄である。浅野と福来とはいわば同じ道を目指す「同志」ともいえる関係に立つが、両者の性格の違い、生きてきたバックグラウンドの違い、スピリチュアリズムに対する「志向性」の違いなどから、二人は「肌が合わなかった」のではないかと思われる。

このように考えれば、福来の専属霊媒たる三田光一に対する浅野の冷めた見方も理解できる。最後まで学者的な生き方を貫いた福来は、三田の最大の理解者(注14)でもあった。現在、浅野和三郎の流れは「公益財団法人、日本心霊科学協会」へと、福来友吉の流れは「一般財団法人、福来心理学研究所」へと繋がっている。

 

⑥.浅野和三郎の役割

ア)時代的な制約

☆先人たちの存在

明治時代、当時の政府は社会に蔓延していた迷信や前近代的な遺物を積極的に排除して、西洋の科学や思想を導入して日本の近代化を急速に推し進めてきた。このような時代に迷信視されていた透視や念写といった心霊現象を大学の研究室に持ち込んで、近代合理主義思想を基調としたアカデミズムの世界に果敢に挑んだ福来友吉がいた(注15)。

また明治末期から大正期にかけて、西洋におけるスピリチュアリズム(心霊主義)やサイキカル・リサーチ(心霊研究または心霊現象研究)の動向を紹介して、啓蒙書や翻訳書の刊行によって霊的流入のための“環境整備”に貢献した高橋五郎たちがいた。

さらに「近代天皇制イデオロギー(天皇制国家思想)」全盛時代に、在野において草の根的に心霊知識の普及啓蒙に貢献した浅野和三郎(注16)。その他の多くの先人たちが時代に翻弄されながらも、この百年余り“霊的真理の普及という旗”を高く掲げながら、藪を切り開いて道を作って踏み固めてきた上に現在の私たちが立っている。

 

☆時代の制約下にあったスピリチュアリズムの普及活動

スピリチュアリズムでは地上世界は「魂の修行の場」「学校」「トレーニングセンター」などと位置付けされており、このような場で霊は肉体をまとって様々な地上体験を“磨き粉”としながら、自らの霊性の向上に努めている。またスピリチュアリズムでは、天皇も含めた全人類は神の下に平等であり、兄弟姉妹であると主張する。

戦前の日本は「近代天皇制イデオロギー」や「神国思想」が支配思想となって席巻し、「天皇」は“現人神”とされた時代であった。スピリチュアリズムの立場からいえば、個別霊は地上に於いて「天皇」というポジションに就くことによって、霊性向上のための地上体験を積んでいるに過ぎない。「天皇」とは霊が身にまとう「衣服のブランド名」に過ぎない。「ブランド物」を身にまとうことが霊の偉大さに繋がるわけではない(→天皇の現人神を否定)。

 

スピリチュアリズムは“唯一の神(=全存在の究極の始源、統一原理)”のみを認めて、天皇の現人神を否定する(→究極の始源以外の“神”は全て高級霊である。“八百万の神信仰”の問題は“指導霊信仰”の観点から論ずることが出来る)。従ってスピリチュアリズムは皇国史観とは相容れない。戦前の「近代天皇制イデオロギー」を過度に強調し皇国史観の超原理主義の社会では、日本の「国体」を否定する「純粋なスピリチュアリズム」は危険思想であり、そのままの形で広めようとすれば当然に厳しい弾圧を受けてしまい、普及は難しい。

このような時代に、スピリチュアリズムの普及活動をしなければならなかった浅野には、時代的な制約があった。当時多くの知識人が時代の重苦しい空気の中で次第に沈黙を守った生き方を選択していったのに対して、スピリチュアリズムを後世に引き継いでいく使命があった浅野には、このような生き方は許されなかった。しかし大本に対する弾圧を、大正10年の「第一次大本事件」では当事者として、昭和10年の「第二次大本事件」では同時代人としてリアルタイムで見てきた浅野にとっては、スピリチュアリズム普及のための選択肢は限られていた。

 

イ)浅野が霊界から抜擢された理由

☆大本事件からの教訓

大本教の出口王仁三郎は、宗教思想である大本の教理を数多ある諸宗教の上に君臨するもの(公共宗教的に)、神社神道に対峙する「超宗教的なもの」との考えを持っていた。そのため大本教の教理を“支配思想(天照大神→天皇→民衆)”の上位または同列に置いて、権力を刺激する形で普及活動を行った。その結果、権力側から「第一次大本事件」や「第二次大本事件」という形で大規模な弾圧を受けた。大本側の弁護方針は「検察側は神霊世界と現実世界を混同している」であったが、取り調べは「第二次大本事件」に典型的に見られるように死者が出る過酷な状況であった。浅野和三郎は「第一次大本事件」に連座して、主犯格の一人として厳しい取調べを受けた。その時の詢問状況から権力が何を問題にして、どのような形で介入してくるのかを体験を通して学んだ。

 

このような過酷な体験を通して学んだ浅野は、スピリチュアリズムの普及活動の中にその教訓を生かすことができた(→故事の“人間万事塞翁が馬”のような状況)。それが当時の支配思想たる皇国史観、国体思想、神道、古神道、儒教等を盛り込んだ「日本思想、日本精神」の中に「スピリチュアリズム思想」を取り込み、融合同化して「和製スピリチュアリズム」として打ち立てたことに見られる。それによって権力からの弾圧を上手に回避させることができた。幸いにも浅野自身の固着思想に「復古神道・天皇中心主義思想」があったことから、その変質過程は自然に行うことが出来た。浅野という“フィルター”を通って出てきた「スピリチュアリズム思想」は、「体制内思想」としてのスピリチュアリズムであった。

 

浅野の存命中は権力に対しての警戒感が常にあったが、死去後は「大本事件」から得た浅野の教訓は、必ずしも普及活動には継承されていなかった。死去後の浅野の「共鳴者・同行者」の普及活動は“脇が甘い”状態にあったと言える。それは「心霊写真展覧会事件」に際して、宮澤虎雄(当時、東京心霊科学協会の理事長)の「心霊写真が真面目に問題になろうとは」の発言や、展覧会で不用意に「心霊知識の普及」を前面に掲げた主宰者の間部詮信の認識の甘さに、権力から直接厳しい詢問を受けた者と受けなかった者との違いが見られる。

 

☆一線を超えた普及活動

昭和20年代までの日本は、スピリチュアリズムは物理現象を通して普及させる段階であった。権力は実験会において“空中にモノが浮揚する”などの物理現象には、欺罔行為がない限りマスコミや学者の批判論評に任せて非介入が一般的であった。しかし思想の普及を絡めた活動を行うと、他の団体の弾圧事例から類推すると介入してくる危険性が高まる。

このような時代に華族会館で開催された「心霊写真展覧会」では、心霊写真の裏側に隠されている「スピリチュアリズムの本質」を出席者に紹介する意図が前面に出ていた。そのため上流社会に「国体思想」に反する「心霊知識や思想」が波及することを恐れた権力は、大規模な弾圧を行ってきた(→特高警察の幹部がどこまで霊的真理を理解していたかは疑問だが、漠然と心霊思想を普及する意図を感じ取った故に介入したのではないだろうか)。このように“一線を超えた普及活動”を行ったため、権力は当時の東京と大阪にあった「心霊知識の普及センター」を徹底的に潰しにかかってきたのであった。

 

☆思想の普及を伴う場合の危険性

日本では1920年代にモーゼスの『霊訓』が翻訳という形を通して流入していた。当時の日本は、次第に「天皇制イデオロギーが過度に強調される時代」へと突き進んで行った時期であり、「国体」論との関係から『霊訓』に込められた「スピリチュアリズムの本質」を仲間内で語り合い、それを外部に普及させるという“活動形態(→たとえば「シルバーバーチ読書会」に類似した形態)”をとることは難しかった。このような活動を行えば内通者による通報によって、権力の介入を招き弾圧を受ける恐れがあったから。さらに当時の「支配思想(神→天皇→民衆)」とは異なった「思想(神→民衆:神の下に平等で中間者なし)」を秘密裏に広げて、唯物論と利己主義を打破して“新しい世界”の建設を目論む秘密結社、または“宗教思想の普及”を装った“社会変革を目論む集団”と認定される危険性が高いから。

 

活動の展開如何によっては、スピリチュアリズムはマルクス主義と同様に思想それ自体が弾圧を受ける恐れがあった。たとえば『シルバーバーチの霊訓』を持っているだけで特高警察に拘引される危険性があり、このような事態になればその後のスピリチュアリズムの普及活動は致命的な打撃を受けることになる。この徴候は「心霊写真展覧会事件」で見られた。事件の主犯格であるとされた間部詮信と津田江山は特高から厳しい取調べを受けた。このことによって当時、関西における会員は関わり合いを恐れて軒並み遠ざかっていったという(→津田江山の講演より)。このような現実があったことからも分る。

 

☆浅野が抜擢された理由

昭和15年秋の「心霊写真展覧会事件」のような個々の事例では、霊能者や関係者は詐欺罪等によって弾圧を受けたが、スピリチュアリズムという思想自体は「マルクス主義思想」とは異なって、直接に禁止・弾圧を受けることはなかった。なぜなら和製スピリチュアリズムという形で「体制内思想」に姿を変えていたからであった。

ここに「復古神道・天皇中心主義思想」を固着思想として持っていた浅野が、思想的に厳しい対応を迫られた時代に、霊界から霊的真理普及のために抜擢された理由があった。

 

ウ)「運動体」としてみた場合

☆「受け入れ時期」の到来

昭和期「純粋なスピリチュアリズム」は、日本の伝統的な祖霊観や霊魂観と結びついた和製スピリチュアリズムの中にそのエキスを溶け込ませて、国民の霊的レベルの底上げを図りながら“時節の到来”を待っていた。この「純粋なスピリチュアリズム」は、モーゼスの『霊訓』が日本に入ってきてから60年近く時が経った昭和の末期(1980年代)に、「精神世界ブーム」という時代の追い風に乗って、「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」の普及という形で花開くことができた。そして平成期のインターネットの普及によって着実に足場を固めて、その影響力を広げつつある。このような「再浮上の経緯」を私たちは同時代人として見ることができたわけである。

 

☆運動を推進する人たちに見られる「光と影」

伝統的なスピリチュアリズムの定義にしたがえば、「スピリチュアリズムは科学であり哲学であり宗教である」となるが、スピリチュアリズムの本質部分には「地球を霊的に刷新する運動」という側面が含まれている。その本質部分を理解した者は、自らの日常生活に霊的真理を取り込んで霊性の向上に努めるという方向に、表現を変えればスピリチュアリズムを「実践哲学」的に捉える傾向を強めていく。そのためスピリチュアリズムは究極的には「宗教性」に行き着くことになる。

 

宗教的要素を持ったスピリチュアリズムの普及活動には、宗教団体の伝道活動と極めてよく似た側面が見受けられる。そのためスピリチュアリズムの普及活動に熱心になればなるほど、極めて人間的な「独善性や排他性」といった傾向と無縁ではいられなくなっていく。なぜなら“霊性が高い”と言われている人でさえも、物的身体を通して自我を表現している以上、肉体特有の本能の影響下に置かれるからである。このような「独善性や排他性」を伴った行動や言動をとるスピリチュアリストに、私たちは身近でしばしば遭遇することになる。いわばスピリチュアリズム普及活動の「光と影」である。

 

☆宗教的親和性

スピリチュアリズムの普及活動には、宗教団体の伝道活動に類似した側面があるため(→スピリチュアリズムでは無差別的な勧誘は行わず“時期の来た人”を対象とする)、宗教的な活動に親和性のある人たちで構成されたグループが最も向いている。その際にグループを構成する人たちは、単に「人の良い善意の人々」の集団では力は発揮できないので、当然に強い個性を持った人たちが集まり、彼らが“運動の前衛”となって全体をリードして行くことになる。この“運動の前衛”を担うメンバーの中には、良きにつけ悪しきにつけ特に個性が強く、強い調子で“大義”を述べ、強力なリーダーシップを発揮する者が存在する。さらにこの者は日々の生活の糧を心配することがない人(→援助者がいる、資産がある、扶養家族がいない、リタイアしているなど)でもある。

 

☆浅野の強烈な個性

浅野和三郎は宗教教団の大本で、『神霊界』の主筆、大日本修斎会の総裁、大正日日新聞社の社長などを歴任した。浅野の大本時代を知る笠井鎮夫(東京外国語大学名誉教授)によれば、浅野は「確固不動の信念があり、ものすごい熱意にみなぎっていた」という。また評論家の松本健一は「第一次大本事件は、その責任の大半は浅野一派にある」と述べて、強い調子で“大義”を述べた浅野の責任を問うている。浅野の大本時代を知る人たちは、共通して浅野の強烈な個性の存在を述べている。

その浅野の強烈な個性に惹かれるように、兄の正恭をはじめ大本にゆかりのある人や、大本から思想的な影響を受けた人たちが、彼の周りに集まってきた。このような人たちが浅野の強力なリーダーシップの下に運動体の中核(=運動の前衛)を形成して、その周りに親和性を持つ人たちが集まってきて「攻めの普及活動」が行われた。彼らが普及させたスピリチュアリズムとは、「日本の伝統的な祖霊観・霊魂観」と結びついた「和製スピリチュアリズム」であった。

 

日本のスピリチュアリズム史を概観してみれば、霊界ではその時代において霊的真理がどこまで受け入れることが可能かを見極めながら、その時代の社会状況に見合った形で個人や団体を適材適所に用いて、彼らにスピリチュアリズムの普及という大役を担わせてきたことが分かる。

昭和4年(1929年)は日本における“霊的潮流のターニング・ポイント”となった年であったが、この年以降、個性の強い浅野兄弟のリーダーシップによって、日本のスピリチュアリズムは「発展期」を迎えた。もう一つの“霊的潮流のターニング・ポイント”である昭和57年(1982年)にも、同様の“運動体としての前衛”は存在していた。ただしグループという明確な形を作ることはなかったが、個々人の行動を見れば、まさに見えざる手によって動かされた“一つの運動体”であった。当時身近な位置から眺めていた筆者の印象である。

 

☆「和製スピリチュアリズム」という沼地に咲いた花

日本に「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」が本格的に流入してきて百年余りが経過した。この期間における「純粋なスピリチュアリズム」の普及過程を概観してみれば、人的にも組織的にも「和製スピリチュアリズム」を通過しなければ、普及はあり得なかったことが分かる。一部で言われているような「新しいブドウ酒」は古い革袋を棄てて「新しい皮袋に入れなければならない」との主張には違和感を覚える。ブドウ酒を入れる皮袋は一つだけであり、皮袋自体に受け入れ準備がなかっただけである。昭和の末期に至って“時期が到来”しただけである。

 

夏の朝、湖水一面に白や紅色に咲くハスの花は美しいが、それは何の前触れもなく開花するのではない。その水面下では花を咲かせるための準備が着々と進められていたのである。湖底ではハスの地下茎が複雑に張り巡らされ、そこから茎が伸びて水面に葉を出して「時期の到来」を待っていた。そして開花のための自然条件が全て揃った段階で、湖水に綺麗な「ハスの花」を咲かせたのであった。それぞれに役割があったのである。

 

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<注1>

■桑原啓善

翻訳掲載誌『心霊と人生』195312月号P.1119541月号P.13195411月号P619554月号P.1619555P.1519579月号P.21195710月号P.21195711月号P.12195712月号P.1119583月号P.1119585月号P.1519586月号P.1519587月号P.15195810月号P.1619596月号P.1219628月号P.519629月号P.12196210月号P.12196212月号P.1419631月号P.14にシルバーバーチに関する翻訳がある。

*『心霊と人生』は心霊科学研究会の機関誌(東京都 世田谷区)。

 

■粕川章子

掲載誌『心霊研究』19557月号P.8195610月号、19571月号、195710月号、19588月号、19603月号、19604月号、19609月号、19614月号、19615月号、19618月号、19626月号、19639月号以上表紙裏のページにシルバーバーチに関する翻訳がある。

*『心霊研究』は財団法人日本心霊科学協会の機関誌(東京都 新宿区)。

 

■近藤千雄

掲載誌『心霊研究』196510月号P.2119661月号P.18P.3519662月号P.1219663P.15にシルバーバーチに関する翻訳がある。なお『心霊と人生』には近藤千雄によるシルバーバーチ霊訓の翻訳は見当たらない。

■田中武

掲載誌『心霊研究』19738月号P.5「永遠なる霊魂進化の道」、19761月号P.33以降『ヴェールの彼方より』を連載した。その中で19786月号P.46「ヴェールの彼方より(11)」、19802月号P.18「ヴェールの彼方より(12)」、19803月号P.25「ヴェールの彼方より(13)」にシルバーバーチの霊訓の引用がある。

■その他

桑原啓善、粕川章子、近藤千雄、田中武以外に下記の翻訳がある。

掲載誌『心霊研究』19667月号P.13196811月号P.4619738月号P.5

掲載誌『心霊と人生』19581月号P.1219591月号P.2019614月号P.1619644月号P.13196912月号P.10

■掲載誌『心霊時報』

『心霊時報』1961年(昭和36年)10月号に、シルバーバーチ霊言集として「青年の宗教教育は如何にあるべきか」の記事がある。なお『心霊時報』は心霊時報社が発行し、編集者は間部詮敦。

 

■日本心霊科学協会福岡支部(当時)の『心霊月報』について

近藤千雄編『古代霊は語る』(潮文社1984年刊)のあとがき部分(P.287~)に「19808月末のことであったが、福岡の手島逸郎氏(日本心霊科学協会評議員)から、福岡支部で発行している『心霊月報』に何か寄稿してほしいとの依頼があった・・・『心霊月報』は4,5回連載したところで都合で休刊となったが、私の筆は自分でも不思議なほど捗るので、発表の場を日本心霊科学協会の『心霊研究』に移して、もう一度最初から連載していただいた。(当時の編集主幹梅原伸太郎氏の理解と積極的好意に対し、ここに深甚なる謝意を表したい。それなくしては私の筆はその時点で挫折していたかもしれない。)」とある。

上記の他に『心霊研究』1981年6月号に近藤千雄の「ロンドン心霊の旅」(1)が掲載してある。そこに「福岡市 在住の手嶋逸郎先生 (筑紫交霊録の編者)から、青年部が発行している 『心霊月報』に投稿してくれないかという依頼が届いたのです」とある。

さらに『心霊研究』19803月号奥付に、梅原伸太郎の編集後記として「龍英一郎氏は朝野氏らと共に『心霊月報』を興し・・・」との記載がある。

 

<注2>

■シルバーバーチの霊界通信の座談会の様子が雑誌『心霊と人生』に連載されている。

掲載誌『心霊と人生』19615月号P.1419616月号P.1419624月号P.1519627月号P.17196210月号P.17196211月号P.1519632月号P.1519633月号P.1219634月号P.14参照。

 

<注3>

■近藤千雄が雑誌『心霊研究』に連載した「シルバーバーチは語る」は好評で、連載終了後に『古代霊は語る』(昭和59年:1984年)として刊行された。近藤は「(この『古代霊は語る』は)正直言って、その出版に際して訳者自身も潮文社の担当者も、この種のものに対する一般読者の反応に一抹の懸念を禁じ得なかった。ところが、出版してみると、予想に反して全国各地から訳者と出版社の双方に感動と感謝の手紙が次々と寄せられた」(「シルバーバーチシリーズの刊行に当たって」:『シルバーバーチの霊訓1巻』1頁参照)という。この出版の成功によって、シルバーバーチの霊訓シリーズが世に出ることになった。まさに時代の風が味方したといえよう。

 

<注4>

■雑誌『心霊研究』1980年(昭和55年)3月号参照

この中で田中は「シルバーバーチは、再々、この心霊主義の運動は、霊界の高級霊団の大きな計画のもとに進められている・・・シルバーバーチの語るところと、インペレーターの語るところには、非常に多くの一致点を見出す」と述べており、スピリチュアリズムの本質を理解していたことが分かる。

 

<注5>

■近藤千雄訳編『古代霊は語る』(潮文社1984年刊)「あとがき」参照。

 

<注6>

■間部詮敦(まなべあきあつ)は「浅野先生との出会いでスピリチュアリズムを知り、荒行をいくらやっても無意味であることを悟り、指導書のすべてを捨てた」と近藤に述べたという。この間部のもとに近藤は弟子入りした(近藤千雄著『日本人の心のふるさと“かんながら”と近代の霊魂学“スピリチュアリズム”』264頁参照)。

 

<注7>

■「沙翁全集の思い出咄」:『英語青年』19507月号、8月号参照。

 

<注8>

■脇長生著「誌齢30巻に想う」:雑誌『心霊と人生』昭和32年(1957年)1月号参照。

 

<注9>

■春川栖仙編『スピリチュアル用語辞典』(ナチュラルスピリット2009年)178頁参照。

 

<注10

■昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書、第41巻』(昭和女子大学近代文学研究所1975年刊)427頁参照。笠井鎮夫(東京外国語大学名誉教授)の発言より。

 

<注11

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究⑦」:雑誌『心霊研究』昭和492月号、42頁参照。

 

<注12

■中沢信午著「福来博士は霊の存在をどう考えたか」:『福心会報』№258頁参照。福来友吉著「観念は生物也」:『変態心理』大正612月号、大正71月号。福来友吉著『心霊と神秘世界(復刻版)』(福来出版1992年刊)参照。

 

<注13

■久保舜一著「久保天隋」:『明治文学全集、41巻』(筑摩書房1971年刊)381頁~384頁。

 

<注14

■寺沢龍著『透視も念写も事実である――福来友吉と千里眼事件』(草思社2004年刊)289頁参照。および田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)302頁~303頁、330頁参照。

福来友吉の専属の実験霊媒(テスト・ミディアム)を長年勤めた三田について、1952年にアメリカの心霊研究誌サイキック・オブザーバー№325に寄稿した文章の中で、福来は「彼(三田のこと)は日本において私が出会った最大の霊媒であった」と述べている。

昭和44年(1969年)8月、ISF(国際スピリチュアリスト連盟)の第八回大会がスコットランドのグラスゴーで開かれた。ここに日本心霊科学協会の田中千代松と吉田寛が出席して、田中は「日本における念写の研究――福来教授とその後」という英文の論文を34カ国の参加者に配布した。

 

<注15

■大谷宗司著「小熊先生著『心霊現象の科学』復刻改訂版に際して」:小熊虎之助著『心霊現象の科学(改訂版)』(芙蓉書房1983年刊)所収。

日本超心理学会会長の大谷宗司は「福来博士は大学の研究室では扱うに適切でない対象を研究したという理由で大学を追放された。我が国の超心理学研究はこれにより頓挫を来すことになった」と述べている。

 

<注16

■田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)26頁参照。

社会学者の田中千代松は、浅野を「独特な日本的新スピリチュアリズムを提唱した人」と称している。

 

◆浅野和三郎研究:目次

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