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浅野和三郎の家族と出身地

ア)和三郎の両親

資料によれば和三郎の父の元斎は、稲敷郡阿波村(現在の桜川村)阿波の農業小松助右衛の三男として、天保14年(1843年)817日に生まれた。文久2年(1862年)108日に、漢方医浅野元庵の長女かん(弘化元年:1844517日生)の婿として浅野家に入った。浅野家は代々にわたって医者を家業としていた。元斎は農家の生まれであり医学を修めていなかったため、養父の元庵は「茨城県行方郡行方村五町田の医師大輪宗貞」の下に修行に行かせて医学を学ばせた。元斎は漢文の造詣が深く、性格的には「物事に厳格で節倹力行、容儀正しく曲がったことが嫌いな人」であったという。明治22年(1889年)、源清田村の初代の村長に選ばれた(昭和女子大学近代文学研究室著『近代文学研究叢書、41巻』378頁参照)。

この記載から江戸時代末期において、医者となるための過程がよく分かる。

 

イ)和三郎の家族

浅野和三郎の次兄、正恭の妻は松子(→または“まつ”とも呼ばれていた。旧佐賀藩士族の海軍中佐である安住保弘と妻“はる”の間に生まれた長女)であるが、その妹に多慶子(明治161011日生)がいた。多慶子は横須賀で生まれ育ったが、多慶子が17歳になったばかりの明治33年(1900年)1126日に和三郎と結婚した。

和三郎は多慶子との間に、長男の勝良(かつら:明治3410月生)、次男の新樹(しんじゅ:明治376月生)、三男の三郎(明治405月生)、長女の美智子(大正77月生)の男3人と女1人を得た(→生まれた年月は松本健一著『神の罠』75頁、100頁の記載を参照)。

資料によれば、その後長男の勝良は昭和4年(1915年)に結婚して一男一女に恵まれ、神奈川県で養鶏業を営み、三男の三郎は昭和12年(1923年)に結婚して三人の男子に恵まれ、農業や養鶏を営んだという。次男の新樹は福知山中学を卒業後古河電気工業に勤務、のち大連赴任となったが昭和4年(1929年)228日、黄疸がもとで死去した。長女の美智子は昭和15年結婚により秋山美智子となって横浜に住み、祖父の資料収集をしている浅野修一(和三郎の孫、三郎の長男)とともに、昭和49(1974)に自費出版で『吹雪 浅野馮虚生誕百年記念集(1)』(非売品)を出版した。その書籍は馮虚が明治313月に『帝国文学』に発表した処女作「吹雪」ほか、いずれも『帝国文学』に掲載された美文12編と2編の論文を復刻したものという(昭和女子大学近代文学研究室著『近代文学研究叢書、41巻』426頁参照)。

 

ウ)源清田小学校

源清田小学校は創立百周年にあたる1992年に『百年の歩み――源清田小学校』を発行した。この『百年の歩み』を含む各種資料から次のような事実が分かる。

源清田小学校は明治8年に光明院という廃寺を仮校舎として開校した。茨城県教育史の「文部省第3年報による本県公立小学校」の中に、明治8年創立、源清田小学校、場所廃寺、生徒数は男81名、女8名、職員1名の記載がある(→明治857日に「新治県」は「茨城県」となった)。当時の小学校は「上等」「下等」の二科に分かれており、就業年数はそれぞれ4年となっている。

和三郎は明治13年(1880年)に満6歳で源清田小学校に入学した(→明治13年作成の茨城県内小学校一覧表の中に源清田小学校の名前がある)。入学時の校舎は光明院の廃寺であった。源清田小学校は明治161月に、新橋沼北側に校舎を新築し移転した。明治19年一村一校により、源清田小学校は古河林小学校と合併して「古河林小学校」となった。明治22年(1889年)41日町村制施行により近隣の村が合併して「茨城県河内郡源清田村」が誕生した(初代村長は浅野和三郎の父、浅野元斎が就任)。明治25年(1892年)61日に「源清田本校尋常小学校」として設置認可された(→源清田小学校ではこの日を創立記念日としている)。現在の名称は河内町立源清田小学校という。

 

エ)源清田村の歴史

もともと源清田村は「天領・旗本領」であった。明治22年(1889年)41日の「市制、町村制施行」によって、河内郡源清田村、手栗村、羽子騎村、猿島新田、宮淵鍋子新田、古河林村、平三郎町歩、布鎌町歩が合併して、源清田村が誕生した。浅野和三郎の父の元斎は、村制施行された村の初代村長となった。明治38年(1905年)の県の訓令で定められた制度に、市町村に作成を義務付けた「事跡簿」がある。現存している「源清田村事跡簿」には、明治23年に初代村長の浅野元斎の下で村役場が新築された旨が記されている。大正2年当時の源清田村の人口は2444人で、医師3人となっている。

その後の源清田村は、昭和30年(1955)年5月3日に稲敷郡生板村、長竿村(旧、瑞穂村)と合体して 河内村となり消滅した。平成8年(1996年)に 河内村は河内町となった。(河内町史編纂委員会編『図説、河内の歴史』2003年刊、164頁~参照)。

 

オ)生まれ故郷の風景

浅野和三郎は茨城県の最南部の利根川沿いの村(稲敷郡源清田村大字源清田116番地――出生地については池田昭編『大本史料集成、Ⅲ』25頁の警察資料を参照)で生まれた。現在は河内町と町名が変更になっているが、この町は都心から50キロに位置し、南北2.8キロ、東西19.2キロの面積を持ち、利根川と新利根川に挟まれた米作農業を主とする町である。

昭和女子大学の光葉会の会員である鈴木まさ子は、浅野和三郎の調査研究のために昭和29912日に源清田村を訪れた。その時の情景が「浅野馮虚」(雑誌『学苑』昭和318月号)に載っている。

――常磐線、佐貫駅から竜ケ崎線に乗り換え、竜ヶ崎駅で下車、それからほぼ二里の道程をバスで「源清田」で降りる。停留所の近くに4,5軒の家があるきりで、まわりにずっと畑が続き、遠くに家が散在している小村である。バスを降りると浅野家は直に分かった。停留所の右手にある浅野医院がそれである。古めかしいわら屋根の一階建ての家で、そこには馮虚の長兄璋(あきら)が父の後を継いで医者を開業していたが、47歳で世を去り、現在は令息の秀雄氏が盛岡の医大をおえて後をついている(48頁)――。

このように当時の源清田の風景が描写されている。こののどかな村落で和三郎は生まれた。

 

 

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