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鎮魂帰神の修業時代(大正期)

目 的

 

①.息子の病気

ア)身内の死

・オリバー・ロッジとコナン・ドイル

・土井晩翠の場合

イ)三男の病気

・大正4年の出来事

・公権力からの規制

・民間における差別的な扱い

 

②.大本との出会い

ア)「霊妙不可思議」な世界の肯定

・実証実験

・「心霊治療」をしたのか「予言」のみか

・霊力と霊格の違い

・「行者、石井ふゆ」の役割

・物理的心霊現象を必要とした時代

イ)急速に大本に傾斜

・キーマン飯森正芳との出会い

・飯森は間もなく大本から離れる

・全国英語教員大会

・浅野の大本訪問

ウ)鎮魂帰神の実習

・鎮魂の実習

・宮澤虎雄の“天狗霊”

・職場で問題となる

 

<注1>~<注19

 

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①.息子の病気

ア)身内の死

☆オリバー・ロッジとコナン・ドイル

身内の死や病気がきっかけとなって霊の世界に導かれた話は、古今東西数多く語られている。このような体験を有する著名人に物理学者オリバー・ロッジ(Oliver Lodge1851年→1940年)がいる。

オリバー・ロッジは、第一次世界大戦で戦死(1915914日)した次男のレイモンド・ロッジと、顕幽に立ち塞がる“壁”を乗り越えてたびたび交霊会を開いている。この交霊会の記録はまとめられて、1917年に『レイモンド』として出版された。オリバー・ロッジは著書で「親を、子を、夫を、同胞を、あるいは友人を失える人々よ、悲しむなかれ、彼等は皆生きている」と説き、同じ悲痛にあえぐ人々に慰安と希望を与えた(注1)。

 

また「スピリチュアリズムのパウロ」とまで言われたコナン・ドイル(Arthur Conan Doyle1859年→1930年:「シャーロック・ホームズ」シリーズの作者)も、長男と実弟を戦死させている。そのドイルは、心霊現象は「電話のベル」であると述べている。「電話のベルが鳴る仕掛けは他愛もないが、それが途方もなく重大な知らせの到来を告げてくれることがある。心霊現象は、目を見張るようなものであっても、ささいなものであっても、電話のベルにすぎないのだ。それ自体は他愛もない現象である。が、それが人類にこう呼び掛けていたのだ。目を覚ましなさい。出番にそなえなさい。よく見られよ、これが“しるし”なのです。それが神からのメッセージへと導いてくれますと」(注2)。非常に分かりやすい表現である。

 

☆土井晩翠の場合

浅野和三郎と親交があった土井晩翠(1871年→1952年)は、東京帝国大学英文科卒で在学中は『帝国文学』の編集委員をしていた。土井晩翠の第一詩集『天地有情』(1899年)は出版当時評判が高く、『若菜集』(1896年)を発表して文壇に登場した島崎藤村(1872年→1943年:浪漫派詩人で後に作家となった)と並んで、日本を代表する詩人でもあった。また土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲の「荒城の月」は特に有名である。

 

晩翠は妻八枝との間に三人の子供をもうけて育て上げたが、長女照子(1932年死去)と長男英一(1933年死去)を相次いで亡くしている。晩翠は浅野を介して、息子を亡くした霊媒の小林寿子(こばやしひさこ:注3)と出会い、旧制二高関係者等と共に、昭和10126日に「旧制二高ボート部遭難事件(→冬の松島湾で起きたボート転覆事件で全員死亡)」の真相を知るための交霊会を開いた。

翌日晩翠夫妻は、小林寿子を霊媒にして二人の子供を招霊する交霊会を行った(注4)。このことがきっかけとなって晩翠は心霊に関心を持つようになり、その後バレット著『霊界の実験的証明』の翻訳を、雑誌『心霊と人生』(昭和162月号から18年にかけて)に掲載している。昭和21年(1946年)に東北心霊科学研究会が結成された際には、晩翠は福来友吉や志賀潔と共に顧問に就任した。

 

イ)三男の病気

☆大正4年の出来事

浅野が心霊と関わったきっかけは息子の病気であった。大正4年(1915年)の春頃から半年の間、浅野の三男の三郎(満7歳)が原因不明の発熱(→午前10時に微熱が出て夕方になると平熱に戻るという症状)に見舞われた。いろんな医師に掛かり転地療養もしたが治らなかった。

10月初旬、妻多慶子から「髪結いから聞いて、お祖師様のわきの三峰山という女行者のところへ三郎を連れて参りました。よく効くというので」と。妻からこの話を聞かされた時の浅野の感想は、「自分は先ず一種の侮辱を感ぜない訳には行かなかった」と述べている。

 

浅野が“侮辱”と感じた背景には、当時の社会には“霊的な問題に携わる者”に対して向ける偏見が根強く存在していたからであった。

一般に浅野が属している“実証主義・現実主義的な社会階層の人たち”が、霊的仲介者に問題の解決を持ち込む人たちに向ける眼差しには、「あんなものは全然別世界の人間に対する事」という偏見があった。この“二つの階層の人たち”の間には意識の断絶があった。

それが今、偏見の対象たる「女行者の門」をくぐって相談に赴いた妻の行為に対して、浅野は「実になんともいえぬ不快な感じ」(注5)がしたのであろう。このように自伝『出盧』には、当時の平均的知識人が“霊的な問題に携わる者”に対して向ける視線が、率直な言葉で記されている。

 

☆公権力からの規制

なぜこのような根強い偏見が生まれたのか、二つの面から原因が考えられる。一つは霊媒行為に対する権力側からの一貫した“規制の歴史”の存在であり、他方は“民間による差別的な自己規制”の事実である。権力側からの規制を歴史的に見ると次のようなことが云える。

 

巫者や行者等による霊媒行為に対しては、律令体制以降一貫して「公権力による規制の対象」であり続けた。757年に制定された「養老律令」では、妖言によって治安や人心を乱した場合には、律(=刑法)によって規制弾圧を行った。また「僧尼令5条、非寺院条」においては非公認の宗教活動を禁じ、「僧尼令2条、卜相吉凶条」では「凡僧尼。卜相吉凶。及小道巫術療病者。皆還俗。其依仏法。持咒救疾。不在禁限(まじないや巫術などによって病を癒すことを禁じた。ただし仏法によって行う場合はこの限りにあらず)」としている。

 

江戸幕府は既成宗教に対して、本山末寺制の導入、吉田・白川両家による神社の支配、土御門家による陰陽師の支配等を通して幕藩体制に組み込んでいった。また「公事方御定書」の「新規之神事并奇怪異説御仕置之事(しんきのしんじあわせてきかいいせつおしおきのこと)」によって個人や小規模の宗教活動を規制した。

このような既成宗教に対する規制が存在する中で、託宣行為の多くは権力によって統制された宗教の枠外の行為であったが、ともすれば社会秩序を乱す原因ともなるので、各時代を通して一貫して規制の対象であり続けた。

 

明治以降、従来の規制を引き継いだ政府は、さらに西洋の近代合理主義思想を付け加えて、加持祈祷等の医療行為に対して厳しい態度で臨んできた。明治政府は近代合理主義思想に合致しない行為は、ことごとく迷信として扱い、取締まりの対象としたことが政府が度々出した「達」に表れている。

明治6年(1873年)115日に教部省通達(梓巫市子馮祈祷狐下ケ禁止ノ件:教部省第二号達)があり、「梓巫(あずさみこ)、市子(いちこ)、馮祈祷(よりきとう)、狐下(きつねさげ)等が禁止」された。依頼者の求めに応じて霊を呼び出して霊媒(巫女、いたこ等)にかからせる行為を禁じたのであった。

さらに明治7年(1874年)67日に教部省(禁厭祈祷ヲ以って医薬ヲ妨クル者取締ノ件:教部省第22号達)は、まじないや祈祷で医療行為の類似行為を行うことを禁じた。

これ以降、同種の通達が何度も出ている。明治15年(1882年)710日には、 神官・僧侶などが禁厭祈祷(きんえんきとう)により病人を治療することが禁止(内務省通達)されまた明治17年(1884年)10月には、内務省は、神道教派内の教会によって行われる「禁厭祈祷による医療妨害行為の禁止」を改めて出している。その後この政府の政策が基本的に維持されて昭和20年まで続いた。

 

☆民間における差別的な扱い

霊からのお告げを伝達する霊能者に対する名称には「売卜者(ばいぼくしゃ)」「拝み屋」「ミコ、イチコの類い」などの蔑称があり、この言葉からも貶しめられてきたことが分かる。このような社会的偏見の上に、託宣は社会的に地位の低い宗教者の活動であり、価値的にも低俗なものであるという差別的イメージが醸成されてきた(注6)。

この背景には宗教という世界の階層構造の中で、聖職者(僧侶・神官・牧師等)によって霊能者(巫女・霊媒等)が排除されてきた歴史的経緯があった。

 

このように民間においても「公権力からの規制」と背中合わせの形で、いわば「民間による差別的な自己規制」の存在を通して、霊能者に対する極めて低い社会的評価が出来上がっていった。浅野の「実になんともいえぬ不快な感じ」は、当時の平均的知識人が“霊的な問題に携わる者”に対して向ける一般的な感想であった。その背景には律令社会以降、一貫して見られる霊媒の社会的地位の低下と、霊媒行為に対する“規制と蔑み”の存在であった。

 

②.大本との出会い

ア)「霊妙不可思議」な世界の肯定

☆実証実験

浅野の妻が訪ねた女行者は、本名を“石井ふゆ”(50歳位)といい、元海軍工廠の職工の女房で「孝信教会(通称:三峰山)」という看板を掲げて、霊能を使って病気治し(サイキックヒーリング)や当て物などの相談に応じていた。

その女行者は多慶子に、子供(三郎)の病気について「気管支の上部にソラマメ位の傷があって、それが治りかけては擦りむけ、治りかけては擦りむける。それで低い熱が出る・・・11月の4日に全治する」と話した。その話を妻から聞いた浅野は、真偽のほどを確かめるため、自ら米ケ浜祖師堂付近の「孝信教会」に出向いた。

 

浅野は「孝信教会」について次のような感想を述べている。「横須賀に住みながら、裏面にかかる一種の社会の存在していることを更に知らずに暮らしてきた」「社会の表通りのみを見て簡単明瞭に暮らしておった」「自分にとって殊に意外であったのは、行者巫女などいふものが、日本人の内部生命に向かって中々重要な役割を演じておる」(注5)ことであると。

石井と対面した後、浅野はさっそく「実証主義的知識人の悪い癖」が出た。浅野は石井に「どうして身体の何所が悪いというようなことがわかるのですか」「私の懐のがま口にいくら入っているかも見えますか」「一つ試しに当てて見せてくれませんか」などと、透視の実験を迫った(注7)。

 

☆「心霊治療」をしたのか「予言」のみか

その後も「孝信教会」に週に12回通って、浅野流の霊的現象の調査・実験を行った。約束の114日、三郎の熱は平熱に戻り、この日を境に血色を取り戻し体重も増えていった。浅野の自伝『出盧』の記載だけでは、石井ふゆは三郎に対して“心霊治療(サイキック・エネルギーによる直接または遠隔治療)”を行ったのか、または何もせず“病気治癒の日付を予言しただけ”なのか、判然としない。浅野はこの違いを明確に述べていない。

 

思うに自伝執筆(大正9年:1920年)当時、浅野は心霊治療のメカニズムに関心を持っていなかった、または知識がなかった。そのためこの違いを明確に理解していなかったとも推察できる。なぜなら西洋において“心霊治療(スピリット・ヒーリング)”が盛んに取り上げられるようになったのは1920年代後半以降のことであり、当時の浅野に心霊治療全般に関する知識がなかったとしても何ら不思議ではない。ともあれ浅野は息子(三郎)の病気治癒の体験から、世の中には「霊妙不可思議」な世界があることを理解した。

 

☆霊力と霊格の違い

浅野は石井ふゆの態度を冷静に見ていた。『出盧』では「このお婆さんは決して聡明な頭脳の持ち主ではない」「参拝者に対するお婆さんの態度もあまり感服ばかりは出来なかった」「また足繁く通う人のことは盛んにほめるが、遠のいてくると現金に風向きの変わるのが目立った」「しかしその発揮する一種の霊力には感心せぬわけには行かなかった。透視も千里眼もどちらも鮮やかなところがあった」(注8)と。総じて霊力は強いが霊格には問題ありというところか。

 

☆「行者、石井ふゆ」の役割

「孝信教会」の石井ふゆは、浅野の人生の中でどのような役割を果たしたのか、そしてどのような位置を占めるのか。

浅野の半生を綴った自伝『出盧』の記載から判断すれば、石井は“表街道”を「単調平凡」に歩んできた実証主義的な知的エリートを、息子の病気治しを介して霊的世界へ誘う役割を担っていたといえようか。石井の予言どおり息子の病気は程なくして回復したが、この病気直しや透視・当て物実験等は、浅野の意識に変化をもたらして、現象の奥に広がる広大な霊的世界に目を向けさせるきっかけとなった。

 

浅野の人生を時系列に並べて「石井のポジション」を考えて見れば、ラインの「AG」において重要な位置を占めていたことが分かる。

A:浅野は「表街道を単調平凡に歩む」

B:息子の病気に遭遇する

C:行者・石井ふゆとの出会い

D:大本信者・飯森正芳との再会

E:出口なお・出口王仁三郎との出会い

F:大本入信、大本事件

G:スピリチュアリズム普及

 

浅野は晩年に“石井の実証実験”に関して次のように述べている。「それまでの私は、心霊問題や宗教団体等には何等の興味を持っていない、純然たる懐疑論者で、従って全然かかる教会の存在さえも知らずにいたのですが、ふとした動機で、半ば好奇心から、この女行者の霊視能力を試験することになりました。もしも当時の私がそんな好奇心に駆られなかったとしたら、もしもその時の試験がまんまと失敗に終わってでもいたとしたら、私という人間は、恐らく終生心霊問題などに関わり合わずにすみ、従って日本の心霊事業も、恐らく現在のような発展を遂げずにいたでありましょう」(注9)と。

このように三男の病気治癒や石井による実証実験等の一連の体験は、霊的観点から見て浅野の人生にとって最初のターニングポイントとなった。

 

浅野は息子の病気を通して石井ふゆと出会い、実証実験によって心霊の世界の奥深さを目の当たりに体験したことが、その後、事あるごとに物理的実験の必要性を力説することに繋がった。なぜなら自らの体験を踏まえて、実証実験は懐疑論者で実証主義・現実主義者を「心霊問題」に関心を向けさせるためには必要であると考えたからであった。

 

☆物理的心霊現象を必要とした時代

行者、石井ふゆの人物評価はあまり良いものではなかったが、実証実験がことごとく成功したことによって、懐疑論者で実証主義・現実主義者の浅野を霊的な世界に誘うことができた。ここに石井の役割の重要さがある。このように浅野のケースでもわかるように、目に見える形の物理的心霊現象の意義と役割は、その奥に控える思想(霊的真理)へと導く導入部に位置するということである。

 

当時は懐疑論者の知識人を霊的世界に導くためには、心霊現象を経由する形が本筋だったのではないかと思われる。なぜなら“霊性レベルという観点”から見れば、当時の日本の社会はいまだ「物理的心霊現象を必要とした時代」であったから。

現在では良質のスピリチュアリズムの出版物が刊行されていること、精神世界というジャンルが出現していること、さらには霊的に柔軟性を持った人達が出現していることなど。このような状況を前提にして考えてみれば、浅野の時代とは異なり必ずしも物理的心霊現象を必要とはせずに、または経由せずに、直接に霊的真理を受け入れることができるまでに、日本における霊的レベルが全体的にアップしてきていることが分かる。

 

イ)急速に大本に傾斜

☆キーマン飯森正芳との出会い

大正412月に大本信者の飯森正芳は「(大本信者の福中鉄三郎から借りた)古い陣笠をかぶり、『直霊軍』とかいたタスキをかけ、異様な風体」の人目を引く姿で、横須賀方面へ大本の布教に出向いた(注10)。立ち寄った「孝信教会」で、飯森は旧知の間柄である海軍機関学校の元同僚の浅野と“偶然”に出会った。

飯森との“偶然の出会い”について浅野は次のように述べている。「平坂の下まで来た時に、ふと例の三峰山へ寄って見る気になった。別に深い考えがあったわけではなく、しばらく無沙汰をしたから、様子を見物方々子供の病中の好意を謝するつもりであった。神ならぬ身の、この一場の気紛れが、自分と綾部との媒介をなそうとは夢想だも為し得なかった」(注10)と。

 

足が遠のいていた場所に再び出向かせるという「一場の気まぐれ」は、両者の出会いをもたらしたが、この浅野の行為は本当に「気まぐれ(偶然)」であったのであろうか。日本におけるスピリチュアリズム普及・発展に浅野が果たした役割という観点から考えれば、当然に偶然はあり得ないので“否”ということになる。これは「一場の気まぐれ」という形の背後霊からのインスピレーションであり、浅野の顕在意識に「ふと思いつく」という形で浮き上がらせて、飯森の訪問先の「孝信教会」に足を運ばせた、と考えた方が実態に即している。

 

この出会いには、霊界側の一貫した意図が感じられる。なぜなら浅野を当時唯一の「心霊道場」である大本で霊魂研究をさせて、「スピリチュアリズム普及のためのレール」にのせるためには、飯森との出会いがカギとなっていたからである。そのためには「大本の布教師」の飯森が、横須賀に足を運ばせるための“立ち寄り先”が必要であり、その“立ち寄り先”は浅野とも縁がある場所でなければならなかった。結果的に息子の病気がきっかけとなって、浅野はその“立ち寄り先”と縁を作った。

 

☆飯森は間もなく大本から離れる

浅野は飯森を中里の自宅に伴って、彼から出口なおの「筆先」の話や神懸りの話などを聞いた。飯森は翌年(大正5年)の2月頃まで、浅野の自宅をたびたび訪れて泊り込んで話しをしていった。彼の話から浅野は急速に大本に傾斜していった。これに対して飯森は、浅野が大本に傾斜していくのとは対照的に少しずつ大本から離れていった。

浅野と大本との接点に立つ飯森は、浅野が大正512月に大本の本部がある綾部に転居して、程なくして大本を離れていった。出口和明の著書(注11)によると、「(飯森は)大正622日、母たけ帰幽のため郷里の能登へ帰った」。そして「210日、飯森の妻久子は家財をまとめて引き払い、夫の後を追って郷里の能登へ帰った」。飯森はその後二度と大本には戻ってこなかったと記されている。霊的に見れば飯森は「浅野をレールに乗せる」という役目を終えたので大本を去った、と言えようか。

 

このように浅野の前に現れた「行者・石井ふゆ」と「大本を離脱した飯森正芳」。この後に出会うことになる「教祖・出口なお(→浅野は大本時代を総括した文書の中で、一時期心酔した“筆先”は潜在意識や血縁重視の思いが混ざった玉石混交のものであったと述べている)」や「霊能者・出口王仁三郎(→後年浅野は王仁三郎の霊媒体質を批判している)」などは、それぞれ“問題ありの人たち”であった。しかし彼等は、いわば実証主義的知識人を霊的世界に誘い、大本の中で数多くの霊的な体験を積ませて、浅野を「スピリチュアリズム普及のためのレール」にのせるという大役を、それぞれの“持ち場”の中で役割を分担しながら成し遂げていったと言えるであろう。

 

☆全国英語教員大会

大正53月末から43日にかけて大阪天王寺の高等商業学校で「全国英語教員大会」が開催された。浅野は「官命」によって同僚とともにこの大会に出席した。

この「全国英語教員大会」の第一回大会は、大正2年(1913年)43日に京都で開催されて、ここに外人教師も数多く参加して盛会であったという。この大会の成功によって第二回大会が大正3年(1914年)4月に東京で開催された。この東京大会のテーマは「英語に対し中学生をして、なお一層の興味を感ぜしむる方法」であった。第三回大会は大正5年(1916年)4月に大阪で開催された。この大阪大会に浅野は「官命」によって出席した。浅野が参加した大会では「英語教授を学生の徳政を進めるために有効ならしむる方法」というテーマで協議が行われた(注12)。しかし「全国英語教員大会」は、大阪大会を最後に以後開かれることはなかった。

 

☆浅野の大本訪問

大会終了後の44日に、浅野は同僚と別れて単身綾部に出向いた。綾部の鉄砲屋旅館に荷物を置いて、すぐに大本本部に出向き王仁三郎と会った。さらに翌日、教祖出口なおと会った。浅野はその時の感想を「この教祖に対する自分の憧憬は実に大正545日の面謁の最初の5分間から始まった」。そして「自分の頭脳は教祖の言葉に対してまだ多少の疑問をさしはさんだ。が、自分の感情は教祖の人格に対してあくまでも敬服の意を表した」(注13)と述べている。

 

この教祖出口なおとの出合いは浅野に深い感銘を与えた。浅野は7月下旬に夏休みの休暇を利用して再び単身綾部に向かった。滞在期間中に出口なおの筆先を綿密に調査して、その結果「自分は大本神諭の予言警告が絶対的に正確なことをさとり、またその教訓論告が痛切的確を極めて骨髄に徹するのを感じ、そして全然此の神の前に叩頭してしまった」(注14)。このようにして浅野は教祖に心酔し、大本の「世の立替え立直し」の実現を確信した。

この時に得た「確信」は、浅野を「因縁の身魂を引寄せて御用に使う」との筆先の言葉通り大本にのめり込ませることになった。そして海軍機関学校を退職して、綾部に引っ越して「世界の人類を救済すべく、微力の限りを尽くすとしよう」(注14)との一大決心を浅野にもたらした。

 

大本滞在中の浅野を訪ねてきた戸澤姑射とともに綾部を立ち、戸澤は任地の熊本(当時は熊本五高教授)に向かい、浅野は822日大阪経由で横須賀中里の自宅に戻った。浅野の大本信仰を狂人扱いする友人たちと異なって、戸澤は理解を示したという(注14)。

浅野は帰京後直ちに海軍機関学校に辞職手続きをとった。11月下旬に17年間在職した海軍機関学校から121日付の退職辞令が届いた。退職後の1210日、家族全員は横須賀を引き払って綾部の和知川べりの並松に居を移した。

こののち地方の小規模教団を全国的な大教団へ発展させるための“看板の役目”を担った浅野は、大本に未曾有の発展をもたらして「大正維新」の中心的推進者へと変えていった。

 

ウ)鎮魂帰神の実習

☆鎮魂の実習

大正5428日に浅野の妻に伴われて出口王仁三郎が、横須賀の浅野の自宅にやってきた。浅野はこの機会を利用して王仁三郎から大本霊学の講義と鎮魂帰神の実習を受けた。自伝の中で「自分の大本研究は実にこの時を以て始まった」と記しているように、この時の学びは大本入信、そしてその後に続く心霊の世界に入っていく端緒となった出来事であった。

当時はまだ鎮魂帰神に関する内容や実態は、神道の行法家など一部の者以外には知られておらず、いわば“神秘主義的な秘儀や密議的な様相”を持っていた。そのため「鎮魂帰神は催眠術の一種である」とか、「妖術・邪法のたぐい」とか言われていた時代であった。

 

宮澤虎雄は5月初旬、浅野の自宅で海軍機関学校の木佐木幸輔校長(校長の在職期間は大正541日~大正61130日。最終階級は中将で、海機旧4期)、岩辺季貴?(最終階級は中将で、海機1期)、竹内寛?(最終階級は少将で、海機5期)、上村 工学士、 北村高等女学校長、 吉田中学校長 らと共に鎮魂の実習を受けた。

浅野は2回目の鎮魂の実習の際に、王仁三郎から審神者(サニワ)を行うように言われて、宮澤たち参加者に対して急遽審神者を行った(注15)。

 

☆宮澤虎雄の“天狗霊”

この時の模様が宮澤虎雄著「浅野さんと私」の中に記されているので引用する。「浅野さんと私の交友関係は約30年に亘り、心霊問題に関係してから殊に親しくなった。最初に心霊問題に触れたのは横須賀中里のお宅であり、大正5年の5月頃で、新築された離れの8畳の間で大本の出口さんから霊的体験談を聞かされたことに始まる。話だけでは納得できず遂に鎮魂の実習になった次第で、私の最初の霊的体験たる“カラカラクルクルロクロクダ”と腹からこみ上げてくる大きな声で怒鳴りだしたのはこの時であった」(注16)と記されている。この時、宮澤に憑依した霊は自称「タケミカツチノミコト」と名乗ったが、優美さ、上品さ、謙虚さ全くなしの低級霊(→関係者は“天狗霊”と称しているが実態は人霊の低級霊)であった。

 

しかし宮澤に懸かった“天狗霊”はたんなる修行途上の未熟霊ではなかった。

この時出現した“天狗霊”は霊媒役の宮澤の口を借りて、「浅野はまだ鎮魂の修行が十分でない。この方がこれから鎮魂をしてやる。ねむれ」と審神者の浅野に命じた。さらに「浅野、何故そういろいろの事を考えるか、鎮魂にならん」と。このように「審神者が神懸者(かみがかりしゃ)から審判される」というアベコベの状態が生じたという。

この「宮澤君が神懸りの状態において自分を鎮魂するという奇現象」によって、浅野は始めて「木の葉一枚、針一本動くのも聞き逃し、見逃すことはできない透徹した状態を体験し」、さらに「天眼通(=霊視)の何物たるかを体得し、神霊の実在をますます明瞭にした」(注17)と記している。

一般に物質臭が抜けきれない低級霊は地上の人間と接触しやすいという利点がある。一連の経緯から見て宮澤に憑依した“天狗霊”は、高級霊の指導・監督の下にあって、この時点における浅野の霊的修行に対する“指導者”としての役割を担っていたと言える。

 

王仁三郎は浅野に対して審神者の資格を与えて、58日に横須賀を発って綾部に戻った。それ以降、浅野は宮澤の自称「タケミカツチノミコト」を名乗る低級霊に振り回され通しであった。霊媒役の宮澤を練習台にして審神者の勉強をしていたある日、“天狗霊”は海軍機関学校の文官教師全員を招集せよと審神者の浅野に命じた。同席していた浅野の同僚の 上村と 田中はびっくりして、 あわてて文官教師6~7名を引き連れて戻ってきた。何れも 「霊的問題には一向興味を持たず理解もない」 人たちであった。

“天狗霊”は「これから鎮魂をしてやるのだ。時期がモウ切迫しておる、何を愚図愚図しておる、コラ手の組み方が違う、首が曲がっておる、浅野何故早く直してやらんか、眼を開けてはならん、姿勢が悪い・・・」と、事情が分からずやって来た者をいきなり座らせ頭から噛み付くように叱りつける。招集された同僚は何がなにやら全く分からず「日頃おとなしい宮澤君の精神に異常をきたした」と思ったという(注17)。

 

☆職場で問題となる

この一件以降、浅野は職場の同僚や宮澤の家族から、鎮魂帰神に関して忠告や反対を受けるようになった。さらに事態が悪化して“鎮魂帰神の一件”が海軍の本省に知れて、本省から実情調査の内命が機関学校の校長宛に出されたという。

この頃「鎮魂は催眠術の一種であるから、直ちに禁止せざるべからずといきまく霊智学徒」の同僚がいたと浅野は記している(注18)。この同僚とは機関学校で英語を担当し、また宇高兵作と共同でブラヴァツキーの著書『霊智学解説』(博文館、明治43年発行)を共訳した、ES・スティーブンソンのことである(→浅野とスティーブンソンは明治35年から大正5年までの14年間、同じ職場の同僚であった)。

 

大正5年の春以降、浅野にとっては鎮魂の修業時代となったが、浅野の内面では「新たに起こった霊的の問題」と「世の立替立直し」によって、心境に大きな変化が生じた時期でもあった。この時期の浅野は、これまで10年余り苦労して続けてきた英和辞典の編纂事業を、何の執着もなく放棄している。また食物の好みも変化して、4月末頃から牛肉が嫌いになり、5月半ばごろには全く食べられなくなったという。浅野は「肉食党には気の毒だが、どうも肉類と霊覚は両立せぬようだ」(注19)と述べている。

 

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<注1>

■オリバー・ロッジ著、野尻抱影訳『レイモンド』(人間と歴史社1991年刊)「訳者の序」参照。

 

<注2>

■コナン・ドイル著、近藤千雄訳『コナン・ドイルの心霊学』(新潮選書1992年)51頁参照。

 

<注3

■三浦正雄・矢原秀人著『あの世はあった』(ホメオシス2006年刊)所収、「第六章、荒城の月の大詩人、土井晩翠と霊媒小林寿子の出会い」116頁~134頁参照。

入神型の霊媒である小林寿子(こばやしひさこ)は岩手県盛岡市在住の主婦。「ご主人は東京獣医学校を出てその方面の仕事をしている人でした。その妻である寿子は、読書も余り好まない、子育てに専念する内気で気のやさしい普通の主婦」(120頁)であるという。その彼女に霊能が出たのは息子の和彦を10歳で亡くした昭和5年で、仏壇で祈っている最中(一種の精神統一状態)に息子の霊が現れた時からだった。それ以降、和彦霊が死後の世界のことや、亡くなった方との橋渡しをしてくれた。

小林寿子は昭和11322日に主婦の友主宰の「九条武子夫人(故人)と語る霊界の座談会」に霊媒として参加した。この座談会には浅野和三郎、浅野正恭、土井晩翠、岡田熊次郎などが参加している。この時の編集部の記者が書いた文章に「小林夫人の全くご存じない、記者の近親の霊を呼んで、いくつかの実験をしましたが、故人の臨終の有様を如実に表し、生前そのままの癖のある動作をし、記者の質問にいちいち明確に答えられた時には、不思議を通り越して、驚かずにはいられませんでした」(128頁)とある。記者は小林寿子の霊媒能力の高さを立証していると述べている。

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(24)」:雑誌『心霊研究』昭和5110月号。

この文章に「(小林寿子は)今年386歳にて他界された」と記されている。ここから逆算すると、だいたい明治23年(1890年)頃に出生したことになる。そして昭和51年(1976年)3月死去した。

 

<注4>

■雑誌『心霊と人生』昭和103月号。

 

<注5>

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、42頁~52頁(28頁~38頁)参照。

 

<注6>

■池上良正著『死者の救済史』(角川選書2003年刊)170頁参照。

前著によれば「日本の宗教史全体の流れからいえば、律令体制の確立や、仏教の定着・普及などの過程を経て、こうしたポジティブな神による託宣も含めて、『憑依』の価値は徐々に低下していった」。そして「近世期には、家職の堅持と他職との差別化の意図の中で、ミコなどの社会的地位の低下が進む」(170頁)と記されている。

 

<注7>

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、52頁~60頁(38頁~46頁)参照。

 

<注8

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、54頁~55頁(40頁~41頁)参照。

浅野は50歳位の石井を「このお婆さんは・・・」と述べている。現在ではこの表現は侮蔑的な言葉と見なされるであろう。当時の社会ではどうであったか。

厚生労働省の「簡易生命表」の「平均寿命の年次推移」によれば、大正10年~14年(1921年~1925年)の男性は42.06歳、女性43.20歳となっている。そのため当時の感覚からすれば、50歳位の石井は当然に高齢者の範疇に入るので、浅野は石井を侮辱したわけではない。しかし平成25年(2013年)時点の平均寿命は、男性80.21歳、女性86.61歳となっている。この平均寿命から見れば、浅野の発言はかなり違和感を覚える。

ちなみに総務省の人口統計では「45歳~55歳未満を中高年齢者」と呼んでおり、現在では50歳位の石井はここに入ることになる。さらに「55歳~65歳未満を高年齢者」「65歳以上を高齢者」と呼んでいる。老年医学会では「65歳~74歳を前期高齢者」「75歳~84歳を後期高齢者」「85歳以上を超高齢者」としている。

古い記録を読む場合には、時代背景を考慮して読まないと的外れた解釈になってしまうという好例である。

■吉田正一著「霊能養成の分析的考察」:日本心霊科学協会機関誌『心霊研究』昭和22年(1947年)4月号、5月号、6月号所収。

弁護士で心霊研究家の吉田正一は、霊能の養成を「霊能の強化」と「霊能の進化」に分けて分析している。吉田によれば「霊能の強化とは、霊能を強めることを言い、その背後霊と、より密接になることであって、これによってその背後霊の支配が、より充分になり、より完全になる」。その結果として霊能修行者が発現する心霊現象は素晴らしいものとなる。しかし心霊現象を起こし得る背後霊と密接になったとしても、霊能修行者の境地が高級になったわけではない。霊能の強化とは「霊能の量的養成」である。

これに対して「霊能の進化とは心境の高まることを意味する」「心境を高めるとは、より『まこと』になることをいう」「その結果必然的に、より高級な善い霊魂に感応」する。霊能の進化とは「霊能の質的養成」である。このように吉田は、霊力(霊能の量的養成)と霊格(霊能の質的養成)に分けて霊能を分析している。

 

<注9>

■浅野和三郎著『心霊読本』(心霊科学研究会1937年刊)68頁参照。

 

<注10

■大本70年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)338頁~339頁。浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、61頁(47頁)参照。

 

<注11

■出口和明著『大地の母、11巻』(みいづ舎1994年刊)249頁以下参照。

浅野と飯森との間で、筆先解釈を巡って感情的な問題があったようである。前著の記載によれば大正622日、飯森は能登へ帰った。「浅野は心重かった。飯森は再び大本へは帰ってこまいという、予感があった。浅野と飯森の間に感情の齟齬をきたしたのは、すでに昨年6月、飯森が横須賀再訪の頃からで、その感は夏の綾部参籠中に一層濃厚になり、12月綾部移転後、さらに顕著になった。それは人間的関係からというよりは、信仰観の相違に根ざしている。口でこそ飯森は筆先を尊重する。が、浅野から見れば、飯森の筆先に対する解釈は不徹底だと批判したくなる」(前著249頁~250頁参照)とある。

飯森の筆先解釈は「象徴的な意味に解すべき」「筆先の文字は決して文字通りに解釈されるべきではなく、すべて比喩である」との立場であった。また「世の立替え」に関しても「下が上をひっくり返すような革命が現実の世界に起こるのではなく、精神上の立替えであり、世界人心の大改革である。現界とはあくまで没交渉」と理解していた。これに対して浅野の解釈は飯森とは反対に「筆先の文字は人間の浅知恵などはさまず、素直に字義通り解釈すべき」だと考えていた。

この両者の立場の違いは、現在でも宗教教団における「原理主義派」と「現実対応派」との対立に見られる。この時期の浅野は「原理主義派」の立場であり、出口なおの筆先に絶対的な信頼感を置いていたことが分かる。

■浅野和三郎著「冬籠」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、335頁~339頁(33頁~37頁)参照。浅野が綾部に移って以降の事柄で、飯森に対する感想が述べられている。

 

<注12

■研究社出版1968年刊『日本の英学100年』大正篇17頁参照。

この時期「(英語の)教育効果が思うように上がらないのはなぜか」との批判が出されて、「英語教育の改善が強く叫ばれる」ようになった。そして全国英語教員大会が開催されることになったと記されている。

 

<注13

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、89頁(75頁)、91頁(77頁)参照。

 

<注14

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、223頁(209頁)、226頁(212頁)、246頁(232頁)参照。

 

<注15

■大本70年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)342頁参照。

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、99頁~116頁(85頁~102頁)参照。

 

<注16

■雑誌『心霊と人生』昭和2623月合併号。

 

<注17

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、146頁~152頁(132頁~138頁)参照。192頁~198頁(178頁~184頁)参照。

大正5621日の交霊会(審神者は福島久子と浅野和三郎、霊媒は宮澤虎雄)の問答によって、宮澤虎雄に憑依した霊は「武甕槌命(たけみかつちのみこと)」と名乗っていたが、この名称は僭称であったこと、実態は低級霊であったことが明らかにされた。これ以降「この時を境として宮澤君は強烈なる意志を奮い起こして、天狗の霊の発動を押さえつけてしまい、五年後の今日までなお依然として海軍機関学校の教官を勤めている」。浅野は“天狗霊”によって「自分は審神者として貴重なる経験修行を積むことができた」(197頁:出盧183頁)と述べている。このことからも浅野にとってこの低級霊の役目は、ハイズヴィル事件における地縛霊のような役割があったのであろう(→新スピリチュアリズム運動における“口火を切る”役割、端緒としての役割)。

■低級霊が交霊会の支配霊となる事例は物理的心霊実験会ではよく見かける。ボストンの霊媒マージャリーの交霊会では、鉄道事故で他界した兄のウォルター・スティンソンが支配霊となっている。詳細は「10.心霊科学研究会時代:昭和期」の「②.欧米における心霊事情の視察」を参照のこと。

 

<注18

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、152頁(138頁)。

 

<注19

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、94頁(80頁)、170頁~171頁(156頁~157頁)、188頁~190頁(174頁~176頁)参照。188頁(174頁)には「自分が十年ばかり以前から従事していた、英和辞書編纂の事業を打ち棄てたのもこの時であった」とある。

 

 

◆浅野和三郎研究:目次

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