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国家神道

①.国家神道の成立

☆神道を二つに分離

西洋社会で主流となっていた「政教分離」政策を進める必要に迫られた明治政府は、窮余の策として「祭祀と宗教の分離」を行って、従来からある神道を「祭祀中心」の神道と「信仰中心」の神道とに分けてこれに対応した。

 

前者では、神道から民間の神道信仰を切り離して、祭祀中心の「神社神道(→皇室神道と祭祀中心の神社神道が結合したもの)」として、これを非宗教扱いとした。この祭祀中心の神道は「神道は非宗教である。神道は宗教にあらず」とか、「神道は治教である」。また「神社神道は宗教ではなく国家祭祀である」などと言われた。

後者では、国民の間で広く行われている神道信仰を、「神社神道」から切り離して「民間の神道」とした。徳川時代まで盛んであった神仏習合的な神道や復古神道、「創唱宗教系の教派神道」などは、神社神道から切り離されて「宗教主義的神道」とか、「祈祷卜相的神道(きとうぼくそうてきしんとう)」と呼ばれた。これらは「神社神道」より一段低く位置付けられて差別化された。

 

このように政府は「開明化政策」を進めるにあたり、神道を二つに分けて「政教分離」の観点から、「神道は宗教に非ず、国家の祭祀道徳である」とする「神道非宗教論」に立った見解を採用した。この見解は浄土真宗本願寺派の指導的僧侶の島地黙雷(しまじもくらい:1838年→1911年)の説によったものであった(注1)。

 

☆国家神道の成立根拠

国家神道(注2)の成立について、宗教学者の村上重良氏(1928年→1991年)は「国家神道は、明治維新期に神社神道と皇室神道が結合して成立した」と述べている。一般的には国家神道の成立根拠を次の二つの内務省達に求めて、これ以降の神社神道を「国家神道」と呼ぶのが通説となっている。

①明治15年(1882年)1月24日内務省達「自今、神官は教導職の兼補を廃し、葬儀に関係せさるものとす此旨相達候事、但、府県社以下(神官)は当分従前之通」の神官教導職分離。この但し書きによって、府県社以下の神主が神道的教説を述べたり、教導を行ったり、神葬祭等の神道的な宗教活動をすることを、当分の間折衷案として認めた。

②明治33年(1900年)内務省の中に神社局(後の神祇院)を設置した法令に国家神道の成立根拠を求める。

 

しかしこの通説に対しては「明治15年や明治33年の内務省達は、あくまでも通達であり行政上の取り扱いにすぎず、“国家神道=非宗教”は直接の法的根拠を持っていたわけではない」。また「非宗教の内容も布教活動や葬儀をしないことでありそれ以上は明確になっていたわけではない」との批判がある。

なお戦前において「国家神道」と類似した用語としては、「国家的神道」「国体神道」「惟神の道(かんながらのみち)」などが用いられていた。

 

神道史を紐解けば「律令神道」や「国家神道」に特徴的に見られるように、神道には「時の支配思想と調和を図って絶えずその内容を変えてきた歴史」があることが分かる。明治以降は天皇を頂点とする支配体系のもとで、「祭政一致、崇祖忠皇、敬神愛国が神道の主な思想」形態となって「国家神道」が登場した。昭和期にはいると国家神道は「神国主義」や「八紘一宇」という思想を付け加えてファシズムに貢献した。

このような点から国家神道は「日本特有の曖昧さ」によって形作られたものと言えるのかもしれない。

 

②.国家神道とは

☆「国家神道」の用語の使用

この「国家神道」という用語の使用は、一般的には昭和201215日に出されたGHQの「神道指令」(=国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件)に始まるとされる。

この「神道指令」は「国家指定の宗教ないし祭式に対する信仰あるいは信仰告白の強制より日本国民を解放するために・・・」という目的で出された。

この指令によって「国家と神社神道との完全分離が命ぜられ、神社神道は一宗教として他の一切の宗教と同じ法的基礎の上に立つこと、そのために、神道を含むあらゆる宗教を国家から分離すること、神道に対する国家、官公吏の特別な保護監督の停止、神道及び神社に対する公の財政援助の停止、神棚その他国家神道の物的象徴となるものの公的施設における設置の禁止及び撤去等の具体的措置が明示された」(津地鎮祭訴訟、最高裁判所判決の際の裁判官の反対意見より抜粋)。

 

☆国家神道の定義

神道指令では「国家神道」を「日本政府の法令に依って宗派神道あるいは、教派神道と区別せられたる神道の一派すなわち、国家神道ないし神社神道として一般に知られたる非宗教的なる国家的祭祀として種別せられたる神社の一派(国家神道あるいは神社神道)を指すものである」と定義づけている。

そしてこの「国家神道」が「軍国主義的ないし過激な国家主義的イデオロギー」形成に係わったと断罪しているが、これについては神社人や右翼からの強い批判がある。神道指令では「神社神道は国家から分離せられ、その軍国主義的ないし過激なる国家主義的要素が剥奪せられたる後」は、神社神道も国民が自由に信奉する一宗派(仏教、キリスト教他と同様に)として認められると述べる。神道指令によって神社の国家管理が否定されて、この後、神社神道は民間組織たる神社本庁(全国約8万の神社を包括する宗教法人)として存続することになった。

 

☆津地鎮祭訴訟

GHQの「神道指令」が発せられた戦後の社会において、「神道は宗教に非ず、国民道徳である」とする議論が再び起こった。昭和40年(1965年) 津市 主催の体育館地鎮祭が政教分離の観点から問題となり、「地鎮祭における公金支出が政教分離規定の憲法に違反する」 として行政訴訟が起こされた。

この訴訟の市長側の鑑定人は「神道は神ながらの道であり、日本古来の信仰、文化を包含するが故に非宗教である」(渋川謙一)、「いわゆる国家神道または神社神道の本質的普遍的性格は、宗教ではなく国民道徳的なものであり、神社の宗教性は従属的、偶然的性格である」(大石義雄)、「神社神道は宗教性があっても、いわゆる宗教ではなく、戦後宗教法人となったのは単なる法の擬制であって、行政上の取り扱いである」(小野祖教)等と述べて「神社非宗教論」に立脚した説を展開した。

津地鎮祭訴訟の最高裁の判決(昭和52713日、最高裁大法廷判決:破棄自判)では、津市 の公金支出は憲法に違反しないとされた。

 

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<注1>

■島地黙雷の説

政府は「神道非宗教論」(→神道は宗教に非ず、国家の祭祀道徳である)に立った見解を述べたが、これは「政教分離を念頭に置いたもの」であって、西本願寺の指導的僧侶の島地黙雷(しまじもくらい:1838年→1911年)の説にのったものであった。

島地黙雷の説は、「神道は宗教でないことだけは確かである、神道とは朝廷の治教である、朝廷の百般の制度、法令、みなことごとく神道である、この皇室の神道こそが真の惟神の道である」。さらに「水戸学であれ、本居・平田学であれ、これらは皇室国家の神道とは全く別の一私人一私閥の偏見とすればよい」と述べた。

この島地の「皇室の神道は宗教なるものにあらざるなり」の理論は、皇室の神道を非宗教とすることによって、民間の神道と皇室の神道とを分離する思想(→これは「祭祀と宗教の分離」のこと)であり、後の「国家神道」「神社非宗教」の発端となる論理であった。これが後年、明治政府の公式見解となっていった。島地はその最初の提唱者であった。(葦津珍彦著『国家神道とは何だったのか(新版)』神社新報社2006年刊、参照)

このように島地黙雷の「治教」理論や近代西欧の宗教制度に基づく理論は、近代日本における信教の自由・政教分離の導入に多大な貢献をなした。

なおスピリチュアリズムの普及には「政教分離」が導入されていること、「思想・信教の自由」が保障されていること、これらが前提となって始めて「純粋なスピリチュアリズム」は普及していく。この点からも戦前の日本には普及の前提が欠けていたことが分かる。

 

■桂島宣弘著『幕末民衆思想の研究』(文理閣2005年刊)70頁~72頁参照。

大国隆正は「御一新之神道」につき、「聖行神道」と「易行神道」の二者の結合を提示した。桂島氏は隆正の「聖行神道」と「易行神道」は、国家神道体制が成立する起源(→濫觴:らんしょう)であると述べている。このように当時は、島地黙雷の説以外にも政教分離に関する理論は複数存在していた。

 

<注2>

■参照文献

土屋英雄著『自由と忠誠』(尚学社2002年刊)、土屋英雄著『思想の自由と信教の自由』(尚学社2003年刊)、葦津珍彦著『国家神道とは何だったのか』(神社新報社2006年刊)、阪本是丸編『国家神道再考』(弘文堂2006年刊)。

 

■国家神道は「皇室神道と結合した神社神道を行政的に“非宗教”として実質的に国教化した制度とイデオロギー」(土屋英雄)をいう。この国教は宗教としての中味を欠いた形式的な国家宗教であり、神社「非宗教化」は明治憲法(大日本帝国憲法)制定以前に制度的に先行していた。神社神道は祭祀中心であったために明治憲法下で国家と結びつき、結果として「神社神道は自ら積極的な布教伝道活動を行う必要はなかった」(土屋英雄)という。この布教活動不要の理由として「明治・大正・昭和三代を通ずる神社神道史上未曾有の教勢隆昌には、政府それ自体を布教機関とする努力があったことを、唯一の原因として感謝しなければならぬ」(幡掛正浩)として、国家の手による布教という現象の存在を幡掛正浩氏は指摘している。

 

■国家神道は、昭和20年(1945年)1215日の神道指令では「日本政府の法令に依って宗派神道あるいは教派神道と区別せられたる一派を指す」として定義が述べられている。この神道指令によって国家神道という言葉が一般化した。国家神道は敗戦によって制度的には解体・消滅させられた。

神社人の立場に立つ葦津珍彦氏は、著書『国家神道とは何だったのか』(神社新報社2006年刊)の中で「国家神道とは明治以来の国家と神社との間に存した法制度」であり「非宗教の立場をとったために神社行政は消極的で名目のみであった。全く神道信仰のない世俗的行政に神社の精神を拘束した」として、「論理的に言えば、占領軍は、ただ引きずられた国家神道よりも、その実勢力たる“一部神道思想家”へ攻撃を集中すべきではなかったか」「神道指令が目標としていた神道とは、帝国政府の法令下にあった“国家神道”の神社ではなくて、“神社の外から”“神社を象徴”として、神社に結集してきた在野の国民に潜在する日本人の神国思想ではなかったか」と主張する。その制度のみが独立に存続していたのではなく、国家神道を支えていたのは天皇崇拝、天皇への忠義という思想や信仰等を持った在野の国民であったと葦津氏は指摘する。

この点については宗教学者の岸本英夫氏も同様に「このような傾向を持つ神道思想の源流が、神社人の間から起こったとは決して言わない。むしろ神社人以外にあったと断言してもよいであろう。当時の実情からすれば、神社人はこの種の思想家たちの眼には、歯がゆいほど無為無力な存在として映じていたという方が事実に近い」と述べる。

筆者と立場は異なるがこれらの意見は「浅野和三郎の思想」を考える上でも参考になる。

 

 

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