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日本の医療の変遷史

①.公的な医療制度

☆医学知識の流入

大陸との交流によって日本に体系的な医学が入ってきた。古墳時代中期(390年~500年)に朝鮮から「良医(くすし)」や「医博士(くすりのはかせ)」が来て、日本に医療を伝えたことが『古事記』や『日本書紀』に記載されている。記録に残っているものとしては414年に新羅王からの使者、金武(医者)が来日して允恭天皇(いんぎょうてんのう)の病気を治療した記載がある(注1)。

さらに飛鳥時代の607年に派遣された遣隋使(→日本書紀に記載はないが600年の使節を1回目、607年の使節を2回目とカウントする説もある)の小野妹子には、医学留学生の随員(→随員の惠日と福因は鍼灸を学んで15年後に帰国した)がいたことが知られている。このようにして遣隋使・遣唐使や留学僧・留学生たちによって、少しずつ中国の伝統的な医学知識が日本に入ってきた。

 

☆養老律令

古代社会では病を癒す療法は、もっぱら禁厭(きんえん:まじないを行うこと)祈祷や、草根木皮(そうこんもくひ)による内服療法であったが、これには次のような規制があった。

757年に公布・施行された「養老律令(ようろうりつりょう)」は、「律(=刑法)」と「令」から構成され法典であり、「令」には「神祇令(じんぎりょう)」や「僧尼令(そうにりょう)」などが含まれていた。

 

本稿に関係するものとして「僧尼令2条」の「卜相吉凶条(ぼくそうきっきょうじょう)」では、妖言によって治安や人心を乱すからと思われたため、僧尼が吉凶を占うことが禁止された。また祈祷による医療行為も禁じられた。しかしここで禁止されたのは根拠不明の祈祷や呪術であって、仏教経典に根拠を有する祈祷等は禁止されていなかったことに注意する必要がある。また「僧尼令5条」の「非寺院条」では、「妄りに罪福を説いた者」は還俗にするとして、非公認の宗教活動を禁じた。

 

なお巫術については『古事記』の「人代篇、其の四」(注2)に仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)が琴を弾き、神功皇后(じんぐうこうごう)が憑り代となり武内宿禰大臣(たけうちのすくねのおおおみ)が審神者(=沙庭)として帰神を行った旨の記載がある。しかし時代が下るにしたがって巫術(=シャーマニズム)は禁止されていった。

 

☆古代の医療

文武天皇の大宝元年(701)に大宝律令が定められて、この大宝律令の中に日本で最初の公的な医療制度である「医疾令(いしちりょう)」が含まれていた。この医疾令の中に医学教育の内容や試験の仕方、入学資格、修業年限等が細かく規定されていた(注3)。この法令に基づいて宮内省の中に、医療・調薬を担当する部署である「典薬寮(てんやくりょう、くすりのつかさ)」が置かれた。この長官に典薬頭を置き、その下に「医博士(くすりのはかせ)、医師(くすし)、医生(いしょう)」を置いた。

 

この法令によって医療は全て国の管理下に置かれて実施された(→ただし僧医は典薬寮に属せず、官医に組み込まれていなかった)。具体的には医療に携わる医師を官学で養成して、そこで養成された官医を諸国に配置して医療に携わらせるという「医療の国有化を目指した」制度であった。しかし公的医療制度自体が小規模であったため、この恩恵にあずかれる人は限定されていたことから、十分に機能しなかったと言われている。日本では奈良時代から平安中期頃までは、この「医疾令」にしたがって不十分ながら「国営医療」が実施されていた(注4)。保元・平治の乱(1156年、1159年)以後は天皇政治の衰微と共に律令制も崩壊した。禄を失った官医が巷に出て自ら生計を立てるようになったのが、日本の開業医の発端であるという(注4)。

 

☆近代までの医療

日本に仏教が伝来すると、仏教は多くの僧医(→僧侶である医師を僧医と呼んだ)を輩出した(注5)。近世に至るまで僧医が日本の医療の主流であったが、僧医の医療技術は「草根木皮(そうこんもくひ)の漢方や加持祈祷が主流」であった。

 

ポルトガル人のルイス・デ・アルメイダ(Luis de Almeida1525年→1583年)は、1552年(天文21年)に来日したが、彼は日本(主に平戸、山口)とマカオを行き来して香料貿易に携わった貿易商であった。その後アルメイダは1555年(弘治元年)にイエスズ会の布教活動に賛同した宣教師(諸説あり)として、また日本初の南蛮外科医という資格で日本に渡ってきた。豊後の国の領主大友宗麟の庇護を受けたアルメイダは、豊後府内(大分県大分市)に貿易で得た私財を投じて乳児院を建てた。さらに1556年(弘治2年)には、日本で初めて洋式の病院を開いて西洋医学を伝えたことで知られている(注6)。

 

江戸時代は律令制が崩壊しており、現代のような医業における免許制度はなく、医者になりたいと思う者は誰でも自由に医業を行うことが出来た。医者を希望する者は、一般には漢文を学んで(→医学書の多くが漢文で書かれていたので四書五経を修める必要があった)、医者に弟子入りして手ほどきを受けながら学んだ。名前が知られるようになると大名のお抱え医者となった。当時の医療水準は、伝染病に対しては西洋医学も東洋医学も全く無力であったが、解剖学は西洋医学が進んでいた。これ以外の医療分野では大差なかったという。

 

☆徳川幕府の統制

自分より上位にある者の存在を許さない権力者は、宗教者が医療行為などを通して民衆の心を掌握して支持されるようになり、目立つ存在となってきた場合には、権力を行使して干渉してくる。歴史に残る権力者による有名な宗教弾圧の事例としては、鎌倉時代の法然・親鸞・日蓮に対する迫害や、織田信長による延暦寺焼き討ち、一向宗本願寺に対する弾圧、さらには江戸時代のキリシタン禁制などが知られている。

 

幕府は「本山末寺制の導入(16319月)」や「諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと:16657月)」。さらには「諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと:16657月)」などを矢継ぎ早に定めて、宗教団体に対する監視・統制を強めた。

また「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」の「新規之神事并奇怪異説御仕置之事(しんきのしんじ あわせて きかいいせつおしおきのこと)」では、個人や小規模の宗教的行為を規制して、民衆の心を掴もうとする宗教者を権力者の監視下に置いた。この宗教統制は明治以後も基本的に引き継がれた(注7)。

 

☆明治時代――医療制度の整備

明治政府は国家の近代化政策推進のために西欧の近代合理主義思想を導入した。そして近代化の一環として、明治元年127日に「医学振興に関する太政官布告」(注8)を出して近代化路線を医業の面で打ち出した。この布告の背景には当時医者は誰でもなれて開業することが出来たので、いい加減な施術や売薬等による弊害が目立っていたことがあった。この布告によって、今後は「免許を得た者でなければ医業を行うことが許されなくなる」として、医師試験の必要性を一般に知らしめた。

 

明治初期の医療制度を見ると、明治8年(1875年)の医師の総数は23,248人。その内訳は「西洋医5,097人(22%)、漢方洋方折衷医は2,524人(11%)、漢方医は14,807人(64%)、その他」となっている(注9)。当時の医師の約7割近くは漢方医(→日本的なアレンジを加えた中国伝統医学に携わる医師のこと)であった。

当時の政府の方針は、西洋列強に追いつくために長い歴史がある漢方医制度は「古い時代の遺物」であると見做して切り捨て、新しい西洋医学による「医制」を採用した。その改革の手始めとして政府は、明治7年(1874年)に初めて医療や医学教育関係全般にわたる規則である「医制」を布告して、翌年(明治8年)から公的医療制度をスタートさせた。

 

政府は明治8210日に「医術開業試験(医師の開業許可制)」を実施することを布告して、東京府、大阪府、京都府の三府で国家試験を実施した。明治9年(1876年)13日には、「医制」を「全国」に及ぼした(→各県は県規則によって医師の開業試験を実施した)。その後明治12年(1879年)224日には、政府は「医師開業試験規則」を布告して全国統一試験を実施し、明治16年(1883年)1023日には「医師免許規則」を制定して翌年11日から施行した(→医術開業試験とは医師の開業試験のことで、すでに1875年から実施されている。1875年から1916年にかけて実施された)。この時期、政府は公的医療制度の構築のため、矢継ぎ早に通達を出している(→通達の年月日については、酒井シズ著『日本の医療史』所収の「日本の医療年表」を参照した)。

 

医療教育面においては、政府は明治元年417日に横浜に軍陣病院を設置し本格的な外科手術を行ったが(→神奈川奉行所が設けた修文館の建物を病院に転用)、この病院を同年720日に東京・下谷の藤堂邸跡に移して、「医学所」と合併させて「東京府大病院」として設立させた(→この病院には奥羽戦争の傷病兵が護送されてきて収容された)。

この病院は明治22月に「医学校兼病院」と改称された(注10)。その後幾多の変遷をたどって、明治10年(1877年)に東京大学医学部となった。政府は医学部卒業生に「近代合理主義思想に基づいた医学教育制度構築のための主導的役割を担わせた」。このような政府の方針に基づいて、明治末にかけて西洋近代医学に基づいた医療の免許制度が確立していった(注11)。

 

②.民間医療に対する規制

☆近代合理主義思想による取り締まり

明治政府は民間の呪法や医術の横行はときに社会的弊害が伴うとして、「加持祈祷等の医療行為」に対して厳しい態度で臨んできた。近代合理主義思想に合致しないものは、ことごとく迷信と見なして取締まりの対象として排除していった。

明治6年(1873年)115日に教部省通達(梓巫市子馮祈祷狐下ケ禁止ノ件:教部省第二号達)によって、「梓巫(あずさみこ)、市子(いちこ)、馮祈祷(よりきとう)、狐下(きつねさげ)等が禁止」された。依頼者の求めに応じて霊を呼び出して霊媒(巫女、いたこ等)にかからせる行為を禁じたものである。さらに明治7年(1874年)67日に教部省は「禁厭祈祷(きんえんきとう:まじないや護摩祈祷などによる災厄除けや病気治癒などを行う事)ヲ以って医薬ヲ妨クル者取締ノ件:教部省第22号達」を出して、まじないや祈祷で医療行為の類似行為を行うことを禁じた(注12)。

 

これ以降、同種の通達が何度も出ている。霊媒行為や加持祈祷行為禁止に関する明治政府の一連の通達は、公認非公認を問わず宗教活動に従事する人達にとって重圧となった。明治15年(1882年)には、2月に再度「禁厭祈祷をもって医薬を妨げることを禁じる」通達が出され、710日には「神官や僧侶などが禁厭祈祷(きんえんきとう)により病人を治療することが禁止」する内務省通達が出された。同年1月には内務省通達によって「神官の教導職兼補の廃止」が出された。これによって神官と教導職が分離(→神道は非宗教としたため神官は布教をしない)され、多くの教団指導者は「教導職の資格(→教導職ならざれば布教活動厳禁)」を取得して一連の通達を回避していった。

明治17年(1884年)10月には、内務省は、神道教派内の教会によって行われる禁厭祈祷による医療妨害行為の禁止を改めて出している(注12)。

 

このように明治15710日の内務省通達や明治17年(1884年)10月の再度の内務省通達において、教導職の「病気治し」行為が取り締まり対象行為であることを再確認している。この時代、生体磁気エネルギーを用いて心霊治療を行う者や、各種の行法を用いて治療行為を行う者は、絶えず取締りの対象とされていた(→長南年恵や浜口熊獄の治療行為に対する取締りの事例など)。このように霊媒行為や病気治し等の民間療法については、迷信の名のもとに取締りの対象とされてきた長い歴史が日本にはあった。

 

☆民間医療が主役の時代

日本では明治時代コレラ、ペスト、赤痢等の伝染病が繰り返し流行していた。大正から昭和にかけて徐々に医療水準の向上や衛生状態が整ってきたとはいっても、伝染病による死者数は現代と比較すると高水準にあった。

明治政府による医療制度改革によって、医師免許を得た者のみが医療行為を行えるように制度変更されたため、従来までの漢方のみを学んだ者は医師となる道が閉ざされた(→医師の資格を持つ者が漢方の診療を行うことは問題ない)。当時は近代西洋医学の教育を受けた医師は少数であり、一般の人々が今日のように気軽に医療を受診できる状況にはなかった。このような医師不足や公的医療保険制度の未整備によって、日本では昭和30年代後半まで、庶民が気軽に医療を受診できる環境にはなかった(→国民健康保険制度が整備されて“国民皆保険”が達成されたのは昭和36年のこと)。そのためさまざまな民間医療が興隆を極めていた。

 

このような時代、庶民は伝統的な医療(→明治の初期まで主流だった漢方や各種養生論)や民間療法(→薬草、温灸、指圧、食餌療法等)、庶民の中に深く根付いていた加持祈祷による療法、各種宗教の独自な療法などに頼らざるを得なかった。その中でも修験者(山伏)は、庶民の中に深く根付いた民間医療の担い手として大きな役割を果たした。

修験道は日本古来の山岳信仰が外来宗教(特に密教・道教・陰陽道)と混ざり合って、呪術的な活動を行う山伏(修験者)の宗教として平安時代に形成されたものである。この山伏は公的資格のない宗教者(僧侶でも神官でもない)であったが、村落の祭礼行事に深くかかわってきた実績があった。そのため「治病のための祈祷」を通して、中世後期以降、加持祈祷(治病・除役等)や薬草に関する知識を持った民間療法の専門家として、僧医とともに民間医療の主役を務めてきた(注13)。

 

☆警察処罰令による規制

宗教は死後の世界(魂の行くえ)を扱うが、一般に民衆が宗教に求めるものは「病気治し」や「商売繁盛」「家庭全般の悩み事」等の現世利益であり、始めから高邁な真理探求を求めて宗教の世界にやってくる人はまれであろう。そのため宗教者の多くは民衆の心をつかむため、その手段として心霊治療(→主に生体磁気治療のこと)や加持祈祷行為による現世利益を前面に出して、信者の獲得を目指してきた。明治政府は医学との境界があいまいな民間療法に対して、基本的に幕府の規制を引き継いで徐々に規制を強めていった。

 

明治30年後半ごろから催眠術が大流行し、「催眠術で治療行為を行う者」が現われてトラブルが続出したため、政府は明治41年(1908年)9月に「警察犯処罰令」を公布して10月から施行した(→森鴎外は催眠術をめぐるトラブルをテーマにした『魔睡』を1909年に出版しているが、これは実話をもとにして書かれたといわれている)。

この「警察犯処罰令」は徳川幕府の「御定書百箇条(公事方御定書:くじかたおさだめがき)」の「新規之神事并奇怪異説(しんきのしんじ あわせて きかいいせつ)」の禁止が時代に合った姿に変えられたものであった。この中に「濫りに催眠術を施したる者」との規定を入れて、催眠術に対して取締りを強化した。

ちなみに「警察犯処罰令」は第2条で「左の各号の一つに該当する者は30日未満の拘留又は20円未満の科料に処す」として、「17、妄りに吉凶禍福を説き又は祈祷、符呪等を為し若しくは守札類を授与して人を惑わしたる者」「18、病者に対し禁厭、祈祷、符呪等を為し又は禅符、神水等を与え医療を妨げる者」「19、濫りに催呪術を施したる者」を取締りの対象とする旨を定めている。

 

☆催眠術から霊術へ

この「警察犯処罰令」の適用と福来友吉の「千里眼事件」(明治43年)の余波から、催眠療法を行うことができなくなった治療師は、「催眠」という表現を止めて「霊術」に看板を書き換えて治療行為を続けていった。

当時の霊術家は精神療法・心理療法・催眠療法・気合療法家等の肩書きを用いて、感応術・読心術・テレパシー等を使った精神療法や、祈祷・加持・予言・降神・宗教思想等による精神療法などを行っていた。「警察犯処罰令」等の一連の取締り法令の施行によって、治療の技術および名称が「催眠術から心霊的な表現に変更」になったに過ぎなかった。

政府はその後も、明治44年(1911年)按摩術営業取締規則、鍼術・灸術営業取締規則を制定し、昭和5年(1930年)11月に警視庁は療術行為に関する取締規則(警視庁令第43号)を公布して監視を強化した。同様な規則は他県でも公布された。

 

大正中期から昭和初期にかけて、無数の道場、精神治療院、霊術団体(→たとえば体験道舎、修霊会、霊一学会、霊道修養会、自然霊能研究会、帝国精神哲学会、戸田心霊治療院、自彊術、神秘研究会、日本神霊学会、東京心霊研究会、日本心象学界、真如行気法などがある。出典:井村宏次の調査による)などが存在していたが、これらを舞台にして盛んに行われた霊術家の治療行為(霊術、心理療法、手技療法、健康法、電気療法、光線療法等)も昭和10年頃を境にして姿を消していった。

なお心霊治療に関しては、現在でも医療法関連法規の壁がある。

 

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<注1>

■日本書紀の「允恭天皇(いんぎょうてんのう)」の項目に次の記載がある。

――允恭天皇三年春正月、良医を求めて、新羅に使いをさせた。允恭天皇三年秋8月、新羅の国王は大使として深く薬方(くすりのみち)を知った、金武を来日させた。金武は天皇の病を治療した――

 

<注2>

■三浦佑之訳『口語訳古事記』(文藝春秋2002年刊)218頁以下

 

<注3>

■井上光貞、他『日本思想体系3―律令―』(岩波書店1977年刊)参照

 

<注4>

■江上波夫・上田正昭・佐伯有清監修『日本古代史事典』(大和書房1993年刊)314頁。

――府学校の初見史料は、天応元年(781年)3月の太政官符であり、『府学校に六国の学生・医生・算生は二百余人あり』と述べられている。中央では、学生と算生は大学寮で、医生は典薬寮で学び、地方の国学では学生と医生のみが教育を受けていたので、三者が同一機関内で学ぶ府学校の構造は独特のものだった――

 

■酒井シズ著『日本の医療史』(東京書籍1982年刊)には次のような記載がある。

――典薬寮の制度は平安中期以降、わずか朝廷にその形骸を残すにとどまり、一般庶民の間では、いわゆる開業医の形態が発生してきた。これはこの制度がきわめて形式的なもので庶民の需要に答えるにはあまりにも規模が小さすぎたことを物語る。今日、かくも複雑な医療形態を生み出したそもそもの始まりがこの辺りにあるといえよう(前著43頁)。

平安中期まで国医師に関する布達が相次いで出され、不完全ながらも医療国営の形態が保持されてきたが、中期以後にとみにその数が減り、地方医療制度の衰退の徴候が現れてきた。荘園制の台頭に伴う律令政治の衰微に歩調を揃えて、地方の医療を担ってきた国医師の制度も衰退していった。それに決定的な打撃を与えたのが保元平治の乱である。律令制度下の医療制度はこれを期に完全に崩壊した(前著102頁)。

平安末期になると、律令制度は朝廷の官職名にその名残りを見せるだけで、実体はすっかり衰退していた。鎌倉時代に入っては典薬頭、施薬院使は医者の地位を示すだけのものになっていた。一方、平安中期まで地方の医療を司っていた国医師は、すっかり姿を消し、いわゆる民間医が登場してくるのが、この時代の特徴である(前著113頁)――

 

<注5>

■酒井シズ著『日本の医療史』(東京書籍1982年刊)には次のような記載がある。

――医療に優れた僧は当然、典薬寮に属する官医に組み入れられることなく、僧としての立場で医療を施し、対象とするところも庶民であった。そのため、この僧医をもって民間医の始まりとするのが通説である(前著120頁)。

仏教の伝来は、疫病は神の祟りによって起こるという古来からの考え方に加えて、病気は四大元素(地・火・水・風の元素)の調和が乱れることによって起こるという、新しい病理観をもたらした。その調和の乱れは前世の因縁や煩悩、不摂生から起こるとし、治療には薬物の投与と精神療法が合わせて行われた。ところが仏典に出てくる薬物は、遠くインドに求めねばならぬものが多く、僧侶による治療は、精神療法とか生活の節制による養生を説くことが主体となっていった(前著36頁)――

■三好勝著『日本医事史抄』(社団法人大阪市南医師会)にも同様な記載あり。

 

<注6>

■酒井シズ著『日本の医療史』(東京書籍1982年刊)169頁~173頁、181頁~184頁。および吉良枝郎著『日本の西洋医学の生い立ち』(築地書館2000年刊)18頁~21頁参照。

ルイス・デ・アルメイダ(Luis de Almeida1525年→1583年)は、豊後地方で間引き(嬰児殺し)の風習が広く行われているのを見て乳児院を建てた。弘治2年(1556年)には「病室、手術場兼講義用の設備を持った豊後府内病院を建て、臨床講義を取り入れたヨーロッパ式医学教育も試みた」(吉良枝郎著『日本の西洋医学の生い立ち』参照)。

当時の漢方では外科的治療という考えは希薄であった。そのため「彼らの行った外科診療は、傷口に膏薬を張り、あるいは焼灼(しょうしゃく)を行うことが主体であったが、彼らは、日本人は外科療法を知らず、外傷、切り傷などの外科疾病の多くは不治であると考えていると、マカオのキリスト教伝道本部に報告している」(吉良枝郎著『日本の西洋医学の生い立ち』参照)という。この1556年という年は「西洋医学の輸入のとき」または「南蛮医学伝来のとき」とされている。なお大分市医師会は「その付属病院をアルメイダ病院と命名している」が、現在の正式名称は「大分市医師会立アルメイダ病院」となっている。

 

<注7>

■教派神道13

神道は祭祀を中心とする「神社神道(非宗教とされた)」と、教化を中心とする「宗教主義的神道」とに分離した。以下の認可日は『日本宗教史年表』他を参照した。

国家神道体制の下では、教派神道13派の黒住教、神道修成派(以上、明治91023日認可)、出雲大社教、扶桑教、実行教、神道大成教、神習教(以上、明治15515日認可)、御嶽教(明治15928日認可)、神道大教=神道(明治19111日認可)、神理教、禊教(以上、明治271020日認可)、金光教(明治33618日認可)、天理教(明治411128日認可)の教派神道の教団と、仏教の各宗派だけが公認の宗教として活動が許されていた。

 

■明治憲法下では認可主義

明治憲法下では教派神道として認可されるためには、厳しい条件があった。そのため小さな教会は「すでに公認された宗教法人になった教派神道(13派)のいずれかの傘下の所属教会として活動していく」という便法をとったものが少なからずあった。いわゆる「準公認の宗教活動」である。この他にあえて「新興類似宗教」や「擬似宗教」と呼ばれて、常に内務省や警察の監視の下に非公認の活動を続ける方法もあった。

宗教行政面から見れば、明治憲法下では神社を行政上は宗教として扱わずに、その他の既成宗教団体や教派神道(法人・非法人を問わず、宗教団体法の認可主義の規制を受けていた)とは区別して取り扱った。

 

■日本国憲法下では認証主義

戦後は日本国憲法第20条の信教の自由の保障と政教分離の原則から、すべての宗教を同等に扱い宗教行政も大きく転換した。行政の対象になるのは法人のみで(個人は対象外)、所轄庁の裁量権を認めない認証主義に改められた。戦後のこの時期、宗教行政の転換により多くの新興宗教が法人格を取得した。

 

■大本の場合

大本教の公認(宗教法人)化の道は厳しかった。

王仁三郎は、明治314月静岡県清水の稲荷講社本部(総理:長澤雄楯)に赴いて霊学と習合神道系の行法を学び、7月に王仁三郎が京都府綾部に金明会を組織した。明治32年(1899年)81日に稲荷講社分会の形で金明霊学会を組織した。しかし金明霊学会は京都府の認可を正式に受けていないために布教は許さないとして、たびたび警察の干渉を受けた。

王仁三郎は一時綾部を去って京都の皇典講究分所(神道の研究教育機関で1882年:明治15年に設立されて、1946年:昭和21年に神社本庁に吸収された)の国史・国文科に入学して学び、卒業後に神職の資格をとった。一時期別格官幣社建勳神社 (京都市北区 )の 主典や御嶽教の教導職となって布教活動をして、 明治41年6月「御嶽教大本教会」を設立した。また大成教とも連絡を取り大成教の直轄としての直霊教会を作り「大成教直轄直霊教会」とした。さらに当局の干渉が激しいので大本教は出雲大社教にも接近した(『大本七十年史、上』277頁~323頁参照)。

1911年(明治44年)大社教に所属して本宮教会の看板をかかげた。これは警察の干渉がその頃激しくなったために、それに対応して合法的に宣教活動を続行するための手立てであったという(『大本七十年史、上』317頁参照)。このように名称も組織も二本立て三本立てにして、非公認宗教に対する政府の取締強化のさなかで組織存続上なんとか公認を取り付けようと苦心した後が見て取れる。

しかし出口なおは、王仁三郎が大本の名称や組織を「御嶽教大本教会」や「大成教直轄直霊教会」他として、二本立て三本立てにして、準公認の宗教活動を行うことに対して常に冷ややかであったという。

 

<注8>

■明治元年(1868年)127日の太政官布告。

――医師の儀、人之生命に関係し、実に容易ならざる職に候。然るに近世、不学無術の徒、猥りに方薬を弄し、生命を誤る者少なからず、聖朝仁慈のご趣旨に背き、甚だ以って相済まざる事に候。今般医学所お取立て相成り候については、規則を設け、学の成否、術の功拙を篤と試して免許を得た者でなければ医業を行うことが許されなくなるから、その様に覚悟して益々学術に励むべき事――

 

<注9>

■資料:明治8年の『内務省衛生局第一次年報』による。

 

<注10

■小川鼑三著『医学の歴史』(中公新書1964年刊)170頁~178頁参照。

 

<注11

■小川鼑三著『医学の歴史』(中公新書1964年刊)209頁以下参照。

明治8年に文部省は「医術開業試験」の実施通達を出したが、その試験科目はすべて西洋医学に関するものであった。開業医の漢方医は特例としてそのまま医業を続けることができた。この政府の方針に対して「漢方医らは浅田宗伯を中心にして、全国的に結束して温知社という団体を作り、政府の洋方偏重に激しい抵抗をなした」。しかし漢方医の抵抗もむなしく、明治16年(1883年)10月に、政府は「医術開業試験規則および医師免許規則」を制定させて、この問題を決着させた。これ以降は「長い伝統を持った漢方は、制度上日本の正統な医学としての立場を失った」。医師の資格を持つ者が漢方の診療を行うことは問題ないが、漢方のみを学んで医師となることは出来なくなった。

 

<注12

■山折哲雄監修『日本宗教史年表』(河出書房新社2004年刊)該当項目を参照。

■井村宏次著『霊術家の饗宴』(心交社1984年刊)第一章には、当時の心霊治療として浜口熊獄の治療法が掲載されている。以下要約して述べる。

浜口熊獄(明治11年:1878年→昭和18年:1943年)は、三重県の三傑(御木本幸吉、尾崎行雄、浜口熊獄)の一人である。彼は、修験の醍醐寺の当山派の流れに一時所属していた里修験者であり、加持祈祷、気合術によって病気治しを行った。気合術は山伏の修験道から起こり、明治以降大道芸の香具師の技になっていたのを病気治しに使ったもの。浜口の治療は125銭(大工の日当が66銭:明治33年当時)であったという。浜口の気合術は生体磁気治療(→サイキックレベルの治療)であった。浜口の生涯は数多くの警察沙汰と裁判の連続であった。

 

<注13

■空海の代表的著書に『十住心論(じゅうじゅうしんろん:正確には“秘密曼陀羅十住心論”という)』がある。この著書に真言宗の病気観の記載があるという。

豊島泰国著『日本呪術全書』(原書房1998年刊)100頁によれば、「空海の『十住心論』に人間の心身の病は四大不調と鬼と業より発病するとある。四大不調の四大とは地水火風のエレメントで、その構成要素の崩れが病気の原因となる。これは医療・医薬と加持祈祷で治るが、問題は鬼と業の病である。鬼は強い執念を持った霊魂で(→低級霊のこと)、それが無念を晴らそうとして因縁がある者に取り憑いて病気になるという。また業病はその人間が前世に病気になる原因を作っていて、それが現世で応現したものと見る(→カルマのこと)。鬼と業の病は通常の医法では治らず、密教行法によってのみ治癒できるという」。

この記載から加持祈祷(治病・除役等)や薬草に関する知識を持った修験者の病気観がよく分かる。

 

■「憑り祈祷(よりきとう)」とは、修験者が病人に取りついた「霊や物の怪(もののけ)」を調伏する加持祈祷のことをいう。修験者は病人の病状が判明している場合は、その病名に沿った加持祈祷を行う。しかし病名がはっきりしない場合には「憑り祈祷:よりきとう」を行って、物の怪を「憑坐:よりまし」と呼ばれる巫女(霊媒のこと)に移して、「憑坐」が語る事柄を聞いてその霊の正体を見極めて調伏をはかることになる。「憑坐:よりまし」は、地方によっては「仲座:なかざ」「御幣持:ごへいもち」「尸童:よりわら」「乗童:のりわら」「おこうさま」「護法実:ごほうだね」「護因坊:ごいんぼう」などと呼ばれている。修験者が里山伏となって職業化するにつれて、「憑坐:よりまし」は山伏の妻がなる場合がほとんどであったという。なお「憑り祈祷」で「神の託宣」を聞く方法は現在でも行われており、木曾の御嶽講の御座立(おざたて)にその事例が見られる。

 

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