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スピリチュアリズムが目指す世界

◆この項目の概要

浅野和三郎は大本時代に宗教的な見地から「理想社会」の実現を唱えていた。「神霊主義者」時代には、明確なビジョンを示した形で、究極の「理想社会」の実現を正面から説くことはしていない。推察するに浅野自身が「刑事被告人」となった「第一次大本事件」を踏まえて、当時の支配思想たる「近代天皇制イデオロギー」との正面衝突を回避したことが原因かと思われる。しかし「神霊主義者・浅野和三郎」には「スピリチュアリズム普及」の最終目標として、何らかの形の「理想社会」に対するイメージは持っていたと思われる。

この項目ではスピリチュアリズムが目指す世界とはどのような社会なのか、そこに至る道筋は何かを筆者の視点から述べてみたい。

 

ア)新しい世界の建設

☆新たな抑止力の提案

キリスト教文化圏には『旧約・新約聖書』があり、そこには「神と人との契約」という観念が存在してきた。ちなみに「旧約」とは神と人との古い契約であり、「新約」とは神と人との新しい契約のことを指す。キリスト教文化圏に広がる個人主義社会(→生き方や行動に自立や自己責任が求められる社会)では、以前から“神を意識する”という観念が抑止力として働き、この観念がともすれば利己主義に流されやすい風潮に対して「歯止めとしての役割」を果たしてきた。

これに対して東アジアの儒教文化圏に位置する日本では、「家の宗教」という形で、「神を敬い先祖を崇める心」をベースにした祖先祭祀が古くから行われてきた。この神道の基本理念の一つである「敬神崇祖」の存在が、先祖と自己との連続性を大切にするという社会的風潮を作り上げてきた。このような社会では伝統や慣習から外れた自由奔放な振る舞いをする者に対しては、「先祖が見ている」とか、「先祖に対して恥ずかしいことをしてはいけない」などと諌める言葉が発せられてきた。この結果、ともすれば利己的な行動をとりがちな者に対して、家や先祖という観念が抑止力としての働きをしてきた。

 

近年、キリスト教文化圏では宗教離れが進み、また儒教文化圏に位置する日本では「家の宗教」や「敬神崇祖」の観念の崩壊が進み、洋の東西を問わず抑止力の働きが弱まってきている。その結果、「神」や「先祖」といった抑止力が機能しなくなった個人主義は、容易く利己主義へと変質していく。そして人の生き方も国家のあり方も、物質至上主義や拝金主義の傾向を一段と強めてきている、というのが最近の風潮である。

19世紀以降とくに顕著となった上記のような風潮に対して、1848年ハイズヴィルのラップ現象に端を発する霊界主導による「霊的刷新運動」には、高級霊からもたらされたスピリチュアリズム思想を「普遍的な理念」として、これを多くの人たちに普及させて、地上人の霊的レベルをアップさせるという目的が存在している。この「普遍的なスピリチュアリズム思想(=純粋なスピリチュアリズム、またはHigher Spiritualism)」は、現代社会に蔓延している利己主義に対して、従来のキリスト教圏における「神」や儒教文化圏の日本における「先祖」に代わって、新たな抑止力としての働きを担うことになる。

 

☆「理想社会」の「主導的思想」

この「普遍的なスピリチュアリズム思想」が、社会(=集団や個々人)の隅々まで行き渡って「主導的思想」となった社会を、スピリチュアリズムでは「地上天国」とか「新しい世界」と呼んでいる。一般に宗教の世界では地上世界から病気や貧乏、争いごとがなくなり、そこで暮らす者にとって理想的な場所となることを「地上天国の到来」や「弥勒(みろく)の世」などと呼んでいる。

 

浅野が宗教者時代に唱えていた「理想社会」とは、大本教的な見地からの社会実現であり、そこには宗教教団特有な「独善性・排他性」が見え隠れしている。浅野が唱えた「理想社会」や宗教教団が述べる「地上天国の到来」など、唱える人の思想や信仰によって“究極の社会”に至る道筋は異なるが、ここでは高級霊のシルバーバーチによって明らかにされた道筋を見ていくことにする。その際のキーワードは「霊的エネルギー」である。

 

☆地上は「学校」である

霊的世界とは「親和性と霊的レベルの原理」から窺い知れるように、同一レベルの親和性を持った霊が集まった世界である。そのため霊的レベルが異なれば同一平面上で交わることはない。これに対して人間は物的身体をまとった“霊(=自由意志を持った個別霊)”である。地上という同一平面上で、霊的レベルの異なる霊が同一構造の物的身体をまとうことによって、共存することが可能となる。そしてこの混在社会で“霊(=個別霊)”は、霊的世界では遭遇できない体験を直接に、または他人の体験を通して間接的に学んでいる(→“人の振り見て我が振り直せ”のごとく)。このように多くの学びができる場所であることから、地上世界は「学校」や「トレーニングセンター」などと呼ばれている。

 

つまりこの世界とは、キャリアの異なるそれぞれの役者が(→いわばベテラン役者、中堅役者、新人役者などに譬えられる、様々な霊的レベルにある個別霊)、一幕限りの舞台劇を演じるために集合して、大まかな筋書きがあるだけの「即興劇」を演じることによって、役者としてのキャリアを積み重ねていく場所であるともいえる。舞台では配役ごとにデザインの異なる舞台衣装をまとって、親の役、子供の役、恋人役、敵役などにそれぞれ分かれて舞台劇を演じている。そして幕が下りれば役者はそれぞれの世界に戻っていくことになる(→霊的レベルと親和性によって引き付けられた本来の界へ帰って行く)。

 

☆出生に際し物的条件を選択する

この「学校」という地上世界に誕生するために、人(=個別霊)は次のような順序で“物的条件”を選択する。

A>:今回の再生人生で「何を学ぶのか(メインとなる学び)」。どのような「カルマの解消(→地上でしか解消できない霊的負債のこと)を図るのか」を決定する。

B>:上記Aの目的を達成するために最も適した「メインとなる物的試練」を選択する。人間には自由意志があるので、「物的試練」にどのように対応するかによって、その後の地上人生は変わってくる(自由意志と自己責任)。そのため細部まで宿命づけられているわけではない。

C>:上記ABに適した「人生の長さ(=寿命、物的身体の耐用年数)」を選択する。この段階で「大きな枠組み(人生の長さ、地上人生で最終的に到達する霊的レベルの上限と下限など)」が出来上がる。

D>:次にBの「メインとなる物的試練」に最も適した「民族、両親、性別、体質」等を決定する。

E>:上記のDの条件に適う形で地上に出生して、霊性向上のための体験を積む。

 

なお肉体の耐用年数に相当する寿命には、ある程度の幅がある。たとえば寿命を縮めるような因果律に反する形の生活を送れば“寿命の糊代”の範囲内で早めに、健康に気を配った生活を送れば“寿命の糊代”の範囲内で長めにという具合に。乱暴に機械を扱えば早めに壊れるし(→乱暴に取り扱った扱った結果、耐用年数より早めに機械が壊れるのであって、最初から壊す目的で乱暴に扱うのではないことに注意。後者の場合は“消極的な自殺”や“積極的な自殺”と同じことになる)、大切にメンテナンスしながら扱えば長持ちする。一般に“カルマ”とは因果律のことであり、善因善果や悪因悪果があるが、本稿では「悪因悪果たる霊的負債」としての意味で使うことにする。

 

☆「新しい世界」とは

『シルバーバーチの霊訓』から明らかになったことは、「新しい世界(=地上天国)」とは苦労や困難がなく願望が何でも叶う社会のことではない(→このような世界であれば幽界の下層世界と何ら変わらないから)。私たちが住む現在の社会は物質至上主義社会であり、唯物論的思考が主導的思想となっている。これに対して「新しい世界」とは「霊的真理(=普遍的なスピリチュアリズム思想)」が社会の隅々にまで行き渡っており、その「霊的真理」が「主導的思想となっている社会」のことをいう。

 

試練には「物的試練」と「精神的試練」があり、後者にはさらに「物的試練から派生した精神的試練」と「純粋な精神的試練」に分かれる。既得権益を死守する層に有利に作られた社会制度に起因する物的試練や、この物的試練から派生した精神的試練など、これらが是正されても純粋な精神的試練は霊的試練ゆえに残る。

物的体験を積む過程で遭遇する困難や悲劇は、個人の“カルマ”を解消するための手段たる“磨き粉”の役割を担っている。当然に「新しい世界」になっても、魂を磨くために何らかの“磨き粉”は存在する(注1)。無くなるのは「社会制度に起因する無用な悲劇」(注2)のことである。

霊的宇宙における“地球の存在や役割”に変更がない限り、「新しい世界」になっても地上世界が「学校」であることに変わりはない。ただし「学校」の役割が現在と比較して、一段と洗練されてレベルアップした状態となっている点が異なるが。

 

☆「地上の悲劇」と「霊界の悲劇」

高級霊によれば地上世界は霊的な光と生命が欠けているため(=霊的エネルギーが欠如した状態)、全体的に無気力な雰囲気が支配しているとして、「弾力性を失ったクッション」(注3)という表現で述べられている。これは地上世界に霊的エネルギーが欠如しているためであり、霊的無知が原因となって生み出される利己主義や物質至上主義(唯物主義)等の悪弊が、見るに耐えないほど蔓延(→紛争・暴力・強欲・貧困・差別として表れている)しているからと言われている。このような状態を「地上の悲劇」と呼んでいる。

 

霊的知識がない者が死んで霊界に行った場合には、単に肉体を捨てただけであり、その者の個性や習性、性癖等は地上時代と全く同じである。地上時代に利己的な人間であった者は、霊的な世界に行っても当然に利己的な状態のままである。その状態は本人が「霊的覚醒(→霊として何を為すべきかを自覚すること)」するまでは何ら変わらない。

人間は本来が霊的存在であり、一段と高く霊的成長をするために「地上という学校」でさまざまな“修行”を行うことになっている。この「地上という学校」で身にまとう“制服”が肉体であり、それは“霊である本来の私”が地上で自我を表現するための手段に過ぎない。このような霊的事実を「地上という学校」で身に付けずに、霊界入りする「地上の落伍者、備えなき者、未熟者が次から次へと送り込まれてくる」(注4)のが現状であるという。

 

このような状態で霊界入りした霊たちは、身は霊界に置きながらも意識はいまだに物的世界の慣習から抜け切れていないため、霊としての“本来の生活”ができないでいる(→自己の意識の焦点がいまだに物的なモノに向ける割合が強く、霊的なモノに向ける割合が低いため。本人は霊としての“本来の生活”とはなんであるかを理解せず、自分の思いが何でもかなう現在の低い境遇で満足しきっている)。

霊界の指導霊はこのような霊に対して、時間をかけながら「霊的覚醒」まで導いていかなければならない。本来は地上という物質世界で行う方が容易く学べる事柄を、あえて霊界で行わなければならないため、基本的な霊的真理の修得に手間をかけることになる。このようにして“物質臭の強い霊”を一人一人「霊的覚醒」させて、幽界の下層世界の浄化をはかることになる。このような状態を「霊界の悲劇」と呼んでいる。

 

☆地上変革のキーワード

高級霊からもたらされた情報(=霊的な知識や思想)は、各自の日常生活の中で生かされて、最終的には物的な生き方から霊性の向上を目指した生き方(→修養的な生活と利他的行為を基本に据えた生活)へと、高めていくことが目標とされている。その情報とは霊性向上のための知識であり思想である。これに対して興味本位の情報は、もっぱら地上世界の物的波動に近い低級霊から送られてくる。

 

各自の霊性レベルが向上して霊的真理が広まっていけば、霊的エネルギーが地上世界に満ち溢れていくことになる。そして「地上世界を蝕む二つのガン」である“唯物主義と利己主義の影響力”が徐々に小さくなってゆき、その結果、世の中が大きく変わって行くことになる。このように「普遍的なスピリチュアリズム思想(=純粋なスピリチュアリズム、またはHigher Spiritualism)」には世の中を変えていく力があり、そこには地上変革の道筋が盛り込まれている(→宗教で言うところの“地上天国”に至る道筋のこと)。そのため「スピリチュアリズム思想は社会変革思想」と言うことができるので、普及運動の形態如何によっては、特定の政治体制下では“危険思想”とされて弾圧される恐れがある。

このように地上世界に霊的真理を広めて、霊的エネルギーをふんだんに注ぎ込んで、地上人の霊的レベルをアップさせていくという目的から、1848年に霊界主導で「地球を霊的に浄化」するという「新スピリチュアリズム」が始まった。

 

イ)霊力の二つのルート

☆霊力の通路

宇宙に遍満している“霊力(=霊的エネルギー)”は、自我の本体にある“魂の窓”(注5)から流入して人間の“霊的要素(=自我の本体、霊の心、霊的身体)”を充実させて、中間物質を介して“物的要素(=物的脳、物的身体)”にエネルギーを供給する。その際に霊力の分量は「通過する道具によって制限される」(注6)ので(→霊性が霊力の分量を決定づける)、霊性が高ければ高いほどそれだけ多くの質の良い霊力が流入してくる。

霊力がふんだんに流れ込んでくると「(魂が)感動を味わい、目を覚まし、健全さを取り戻し、改めて生きることの有り難さを噛みしめる」ことができるようになって、人生の最高の目標である霊性の開発が着実に進展することになる(注7)。その結果、地上世界は確実に「霊的な光と生命力」に満ちていく。この「霊的な光と生命力」に満ち満ちた状態を「地上天国」や「新しい世界」という言葉で表現している。

 

☆垂直方向のルートと水平方向のルート

宇宙に遍満している霊的エネルギーが、人間社会に満ち満ちていくためのルートには、まず垂直方向(人の霊的要素→中間物質→人の物的要素)から人間を介して地上に流れ込むルートがある。このルートで流れ込んできた霊的エネルギーは、他人に対する利他的行為によって、水平方向(人→人→人)に転換して流れていく。このように霊的エネルギーは垂直方向と水平方向の二つのルートによって、人間社会の隅々まで及んでいく。

 

宗教では利他的行為が推奨されているが、これはスピリチュアリズムの観点からも正しさが証明される。他人に対して行う“利他的行為(→行為の本質は自らの霊的エネルギーを相手に与えることに他ならない)”は、さらに多くの霊的エネルギーを本人の霊的要素の中に呼び込むことになる(→垂直方向の「霊的要素→中間物質→物的要素」のルートを通って)。その結果として本人の霊性も高まっていくので(→霊的エネルギーの質が高まり分量も増えていく)、霊性の向上には利他的行為が大きく寄与することが分かる。

したがって多くの霊的エネルギーを自らの中に呼び込むためには、自分を経由して他人により多く“流す”ことが必要となる(→利他的行為によって自らが所持する霊的エネルギーを移動させること)。いわば自分の中に一種の“真空状態”を作りだして、さらなる霊的エネルギーを自分の中に呼び込む、という図式になる。

 

霊的成長のキーワードは「人のために自分を役立てる」ことである。なぜなら人のためを思って何らかの利他的行為を行うことは、宇宙に遍満している霊的エネルギーを、自分を経由して他人に流すこと(=施しをすること)に他ならないから。

こうして個々人の利他的行為(→霊的エネルギーを相手に流すという水平方向のルートのこと)と、霊性の向上に向けた努力の積み重ね(→自らの中により多くの霊的エネルギーを取り込む、垂直方向のルートのこと)の組み合わせによって、地上世界に絶対的に不足している霊的エネルギーは次第に分量を増やしていくことになる。ここに修養的な生活と利他的行為を基本に据えた生活が推奨される理由がある。その結果「地上世界の霊的レベル」は一段と向上していく。

 

このようにして霊的エネルギーの増加によって、人の行為の基調が利己的から利他的に代わり「唯物主義と利己主義の二つのガン」は徐々に駆除されてゆく。「新しい世界」は“棚ぼた式”に出現するのではなく、個々人の自由意志と自己責任による「自力的変革(=修養的生活と利他的行為)」の積み重ねによる結果として訪れるものである。

 

ウ)二種類の利他的行為

☆普及活動における「適用における多様性」

日本の地域社会には古くから、共同体の一員としての義務という側面が強い「結(ゆい)」や「催合(もやい)」という「相互扶助」の仕組みが存在していた。ここには互助による利他的行為という側面が含まれており、「ボランティア活動の源流」とも言われている。

利他的行為にはその性質に応じて、より専門的なものから、誰でも行えるもの(一種の労務提供型)まで幅広く存在する。専門性を持った利他的行為には、自分の経験や体験を人のために生かす形の利他的行為(→カウンセリングや現在行っている仕事の延長線上の行為)など、さまざまな分野がある。

 

社会の在り方や人の生き方を根本的に変えることに繋がる「スピリチュアリズムの普及活動」は、霊的真理を勉強しているスピリチュアリスト向きの利他的行為である。スピリチュアリズム(=霊的真理)を普及する活動にも、その内容によっては“ピンからキリまで”あるので、自分の置かれた環境や適性、霊的自覚の程度などと相談して行うことになるであろう(→つまり普及活動における「適用における多様性」のこと)。

高級霊のシルバーバーチは利他的行為には二種類あると述べている。

 

☆利他的行為の原則

<人の為になる行為なら何でも良い―A

シルバーバーチは宗教の基本は「いつどこにいても人のために自分を役立てる」(注8)ことであると述べる。これは信仰者の最大の関心事である“神に対する奉仕”、つまり地上を霊的エネルギーで満たして「新しい世界の建設」に貢献することは、「神の子である地上の同胞に奉仕すること」であるから(注9)。

シルバーバーチは「奉仕こそ霊の通貨」であると事あるごとに述べている。言いかえれば「人のために自分を役立てること」と同じである。「新しい世界の建設」はこれが基本となっている。このようにまずは自分の出来ることから利他的行為を行いなさいということになる。シルバーバーチはそのことを述べている。

 

☆利他的行為の特則

<霊的真理の普及をしなさい―B

スピリチュアリズム(=霊的真理)を普及する行為は、人間の生き方や社会の在り方を根本的に変える利他的行為である。この行為は一般的な利他的行為(上記A)に対して、より専門性を持った利他的行為となり「人の為になる行為なら何でも良い」の特則にあたる。霊的真理を理解したスピリチュアリストは、いわばその道の“スペシャリスト”なので、上記「A」のような一般的な利他的行為に留まらず専門性を生かした「B」のような行為も出来る(→利他的行為の選択の幅が広がる)。

 

シルバーバーチは「利他的行為の原則と特則」を次のように述べている。「真理を普及すること(→特則のこと)のみが、人のための仕事ではありません。他にも色々あります。貧困に喘いでいる人々への物質的援助もそうです。病に苦しむ人々の苦痛を取り除いてあげることもそうです。不正と横暴を相手に闘うこともそうです。憎しみ合いの禍根を断ち、人間的煩悩を排除して、内奥の霊性に神の意図されたとおりに発現するチャンスを与えてあげる仕事もそうです」(注10)。

 

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<注1>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、4巻』118頁~119頁参照。

シルバーバーチは「新しい世界になったら地上から暗い場所が完全に無くなると思ってはいけません。相変わらず涙を流す人がいることでしょう。心を痛める人がいることでしょう。大いなる犠牲が求められることもあるでしょう」「何も言うことのない完全な世界にはなりません。なぜなら完全に近づけば近づくほど、その先により高い完全が存在することを知るからです」と述べている。

 

<注2>

■近藤千雄訳『霊性進化の道しるべ』217頁参照。

シルバーバーチは「その新しい世界に於いても、何もかもが成就されると言うわけではありません。修正しなければならないこと、改善しなければならないこと、強化しなければならないことが沢山あります。まだまだ未熟なところがあります。取り除かねばならない障害があります。しかし、人生の新しい規律がどんどん行き渡ります。無用の悲劇、無用の残虐行為、無用の飢餓がなくなるでしょう。人生の基盤が変わります。利己主義が次第に影をひそめ、代わって互助の精神が行き渡ることでしょう」と述べている。

 

<注3>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、2巻』158頁参照。

 

<注4>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、2巻』184頁参照。

■地上における基本的な学びとして「①人間は霊であること」「②死後にも個性が存続すること」「③顕幽の交流はたえず行われていること」などを理解することが求められる。これらは「霊魂説」と言われているものであり、交霊会や物理的心霊現象の実験会などによって証明しようとした事柄である。この「霊魂説」を証明するための「科学的アプローチ」が「心霊研究(サイキカル・リサーチ)」である。

この①②③の理解を前提(=土台)として、その上に高級霊からの霊界通信によってもたらされた「スピリチュアリズム思想(哲学)」がある。この思想とは「④自我の本体に神の分霊が宿る(→人類は神のもとで兄弟姉妹を構成している、人間は平等である)」「⑤因果律の法則」「⑥個別霊として永遠に進化向上の道を辿る」「⑦自由意志と自己責任」などである。この④~⑦は交霊会や物理的心霊現象の実験会などを通しては伝えることはできず、高級霊からの霊界通信という形で教えてもらう以外に私たちは知るすべを持たない。

高級霊のシルバーバーチが地上に降りてきた目的は、「時期の来た人たち(→霊魂説を理解できる人)」に「スピリチュアリズム思想(哲学)」を説いて、それを日常の生き方の中に反映してもらうこと、これを促すことである。ここから「シルバーバーチ」の教えは究極的には「スピリチュアリズムの信仰・宗教性」に行き着く。

 

<注5>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、2巻』124頁参照。

 

<注6>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、1巻』130頁参照。

 

<注7>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、1巻』116頁参照。

 

<注8>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、7巻』57頁参照。

 

<注9>

■近藤千雄訳『シルバーバーチは語る』83頁、『シルバーバーチ最後の啓示』61頁参照。

シルバーバーチは「大霊に奉仕すると言っても、それは大霊の子である地上の同胞に奉仕することになります」「大霊の子らに奉仕することによって大霊に奉仕する」と述べている。

 

<注10

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、4巻』111頁、『霊的新時代の到来』93頁参照。

 

◆専門性と利他的行為との関係

たとえば地震の被災地で、“瓦礫の片付け”を行うボランティアのグループに入って復旧活動に携わる医師の行為について考えてみると良く分かる。

被災地で「医療行為が求められていない“平時の時”」は、その医師の利他的行為は賞賛され何等問題は生じない。しかしその被災地において「医療行為が求められているような“非常時”」においては問題が生じる。非常時に医師がなおも“瓦礫の片付け”にこだわり、それを優先して行い続けている場合には「道義上の責任」が生じる。なぜなら医療行為は医師でなければできない行為であり、職業倫理上も自ら率先して医療行為に携わることが求められるからである。

このように代替可能な“瓦礫の片づけ行為(→労務提供型の利他的行為)”と、一身専属的な“緊急医療行為(→専門性を持った利他的行為)”とを同列に並べて、自分の好みで前者を選択するということは、ケースによっては許されない場合がある。

 

◆スピリチュアリストの場合

同様なことは霊的真理を理解したスピリチュアリストにもいえる。ただし霊的真理を理解したといっても、その理解の深さや自覚の程度は各人各様(ピンからキリまで)なので、その“能力に応じた責任の発生”ということになる。

これに対して医師は、一定の能力を有していると判定された者にのみ与えられた公的資格なので、その名称を有する者には一定以上の能力があるという“社会の期待感(当然に責任もあるということ)”があり、そこにスピリチュアリストとの本質的な差異がある。

スピリチュアリストが行っている霊的真理の普及活動は、人間の生き方の本質部分に深くかかわっている利他的行為である。利他という点では他の行為(一般的なボランティア活動)と質的には同一だが、人の生き方や社会の在り方を根本から変えるという点では、利他の程度は極めて高い行為と言える(→社会変革を目指したものだから)。したがってあまた存在する利他的行為の中でも霊的真理の普及活動は、人の霊的成長や社会の根本的な変革に直結するため(→「新しい世界」の建設に直結するから)、利他的行為の頂点に位置しているといえるのではないだろうか。

 

 

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*霊的エネルギーの循環(垂直方向のルートと水平方向のルート)

 

1980年代に筆者が参加した勉強会では「エネルギーの循環」という概念で霊的世界が説明されていました。この概念を『シルバーバーチの霊訓』で述べられている教訓と結びつけてアレンジし、これを1993年以降、筆者が主催する勉強会で度々使用してきました。これを発展させたものが本文で述べていることです。(問い合わせの回答として)

 

 

 

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