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明治末期~大正期:その1

目 次

 

①.福来友吉の活動

ア)千里眼事件までの経歴

・この項目の概要

・福来文学博士の誕生まで

・心理学について

・日本の心理学

・掲載誌

イ)千里眼事件

・「催眠」はオカルトと近代科学の狭間にあった

・御船千鶴子の透視

・御船千鶴子の実験会

・長尾郁子の念写

ウ)「千里眼事件」その後

・この項目の概要

・福来の強い信念の表明

・変態心理学の講座

・政府の迷信撲滅の方針

・仏教用語を使わざるを得なかった

エ)在野における福来友吉

・この項目の概要

・校長から教授へ

・研究の拠点

・念写発見者、ISF大会

 

<注1>~<注31

 

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①.福来友吉の活動

ア)千里眼事件までの経歴

◆この項目の概要

“悲劇の人”福来友吉は、日本における心理学の黎明期に、当時「心理学と心霊研究の狭間」にあった催眠術について、近代科学の立場に立って研究した学者であった。“博士”の価値が現在とは違って格段に高かった時代に、福来はオカルト的な要素を持つ催眠術を研究して、文学博士となった。この項目では福来の生誕から、心理学の分野で将来を嘱望された学者となるまでを概観した。

 

☆福来文学博士の誕生まで

福来友吉(ふくらいともきち:1869年→1952年)は除籍の記載から、明治2年(1869年)113日に岐阜県大野郡高山町大字川西764番戸で、父喜兵衛と母ようの二男として出生したことが分る。この住所地は現在の岐阜県高山市本町三丁目45番地あたりに該当するという。福来の生家は呉服商を営んでいたが、家は大正13228日の大火によって焼失した(注1)。

 

福来は明治23年(1890年)に地元の中学校を卒業した後、母校の代用教員として働き、進学資金を蓄えて、明治26年(1893年)に京都にある第三高等学校(現在の京都大学)に入学した。しかし翌年(1894年)仙台にある第二高等学校(現在の東北大学)に転学して、明治29年(1896年)7月に卒業している。そしてこの年(1896年)の9月に東京帝国大学文科大学哲学科に入学し、明治32年(1899年)7月に同大学を卒業して、9月に東京帝国大学大学院心理学科に進学した(注1)。

明治29年に東京帝国大学文科大学に入学した者の中に、哲学科入学の福来友吉と、英文学科入学の浅野和三郎、そして漢学科に入学した中国文学者の久保天隋(くぼてんずい、本名は久保得二:1875年→1934年)がいた。福来と久保、そして浅野と久保はそれぞれ友人同士であった。三人の年齢はそれぞれ異なるが、久保という共通の友人を通して、福来と浅野は在学中に交流があった可能性が高い(注2)。

 

大学院に入学した福来は指導教官の元良勇次郎(もとらゆうじろう:1858年→1912年:心理学研究の創始者)文学博士の勧めで、当時流行していた「催眠術による催眠現象の科学的研究」に取り組んだ。催眠術の歴史はフランツ・アントン・メスマー(Franz Anton Mesmer1734年→1815年)に始まるが、メスメリズム(動物磁気説:催眠研究の端緒となった)はその後の実験心理学や精神分析の出現に連なっており、心理学との関係は深い。

福来は催眠術を研究して、その研究成果として日本において最初の体系的な催眠研究書として知られる『催眠心理学概論』(成美堂1905年刊)を著した。明治39年(1906年)7月に大学院を修了して、東京帝国大学文科大学の講師となり、同年(1906年)8月に論文「催眠の心理学的研究」で文学博士号を授与された。その後明治41年(1908年)9月に東京帝国大学文科大学助教授に任命されている。

このように福来は学問としての心理学が日本に定着した黎明期、心理学を専攻して博士となった。当時の「変態心理学」の分野では福来は第一人者であり、将来を嘱望された学者(注3)であった。なお「変態心理学(→常態でない精神や心理の障害・異常などを研究対象とする)」は「異常心理学」とも言われており、現在は臨床心理学の中に含まれている。

 

☆心理学について

心理学とは「心の理法を研究する学問である」が、“心”の意義が時代とともに変遷してきたため、それに応じて心理学の内容も大きく変貌を遂げている。心理学的な研究はアリストテレスに始まると言われているが、心理学史は18世紀末までは近代哲学と深い関係を持って発達してきた。近代に入ると“心の領域”は、デカルトの二元論(機械論的な考察)によって始めて肉体から分離した形で扱われることになった。

 

19世紀も後半に入ると、心理学は自然科学的方法論を導入して哲学から分離されて、19世紀末から20世紀にかけて「実験心理学」や「比較心理学」が発達していった。その後「社会心理学」「発達心理学」「精神病理学」などが盛んになってきた。精神分析学は精神病理学の研究から発達したものであり、臨床心理学に大きな影響を与えている。

心理学は一般の学問と同様に原理問題を扱う「基礎部門」と、応用問題を扱う「技術部門」に分けられるが、この「基礎部門」を分類する一つの方法として、「対象面から分類する方法」がある。この分類によれば、正常な成人の行動を対象とした「普遍心理学」、異常者の行動を対象とする「異常心理学」、子供の発達過程を問題とする「児童心理学」、動物の行動を対象とする「動物心理学」とに分けられる(注4)。福来友吉はこの分類に従えば「異常心理学」を専門分野に選んだ。

 

☆日本の心理学

日本においては、西洋科学に代表される「近代の学問」が本格的に定着したのは明治維新以降である。すでに医学(→蘭学として)や自然科学・技術は部分的ではあったが、江戸時代から長崎を通して日本に流入していた。しかし思想や社会科学・人文科学の重要性が認識されるようになるのは幕末以降である(注5)。

日本において心理学という言葉の生みの親は、西周(にしあまね:1829年→1897年)とされているが、西は明治8年(1875年)から明治9年(1876年)にかけて、ジョセフ・ヘブン(Joseph Haven1816年→1874年:神学博士・法学博士)の著書を訳して『心理学123 』として出版している(注6)。

 

東京大学開設当初、心理学を担当していたのは文学部教授の外山正一(とやままさかず:1848年→1900年)であった。明治26年(1893年)に「心理学、倫理学、論理学」講座が東大の中に設けられて、この第一講座は元良勇次郎が、第二講座は中島力造(なかじまりきぞう:1858年→1918年、倫理学者)がそれぞれ担当した。

東京帝国大学文科大学は、明治37年(1904年)に単位制が導入されて「哲学科・史学科・文学科」の三学科にまとめられて、心理学は哲学科に組み込まれたが、独自の「卒業論文規定」を設けることができた。そのため明治37年(1904年)は「東京帝国大学における心理学専攻生誕の年」とされている。この「生誕の年」の2年後に福来友吉は論文「催眠の心理学的研究」で文学博士号を授与された。

 

☆掲載誌

明治初期の総合学術誌として、明六社が1874年に創刊した『明六雑誌』が知られている。明治10年代以降、学術専門雑誌の創刊が相次いだ。福来が大学院で研究を行っていた当時は、まだ心理学専門の雑誌は創刊されていないため、当時の学術雑誌である『六合雑誌(りくごうざっし:1880年創刊)』や『東洋学芸雑誌(1881年創刊)』に研究論稿が掲載されていた。特に『六合雑誌』は多くの心理学関係者が研究発表の場にしたと言う(注6)。

 

日本で最初の心理学の専門誌は、明治42年(1909年)に創刊された不定期刊行物の『心理学通俗講話』(同文館)である。この『心理学通俗講話』が月刊誌の定期刊行物となって、明治45年(1912年)に大日本図書(1890年創業)から『心理研究』(1912年→1925年)として創刊された。この創刊号に「心理学通俗講和会」の顧問であった元良勇次郎(東京帝国大学教授)、松本亦太郎(京都帝国大学教授)、福来友吉(東京帝国大学助教授)の三人の写真が掲載されている。福来はこの講和会で講話を行っている。

大正時代の心理学雑誌には『心理研究』(1912年→1925年)、京都版の『日本心理学雑誌』(1919年→1922年)、東京版の『日本心理学雑誌』(1923年→1925年)があり、大正15年に『心理研究』と『日本心理学雑誌』が統合されて『心理学研究』(1926年→継続中)となった。

 

イ)千里眼事件

☆「催眠」はオカルトと近代科学の狭間にあった

福来友吉の人生のターニング・ポイントとなった事件に「千里眼事件」がある。透視や念写などの心霊現象は、メスマーの「動物磁気」の研究からも分るように「催眠」と密接な関係にある。1882年に創設された世界で最初の学術団体であるイギリスの心霊研究協会(SPR)の事業計画には「ヒプノティズム(hypnotism催眠術、hypnosis催眠)」が入っていた。このことからも分る通り、心霊に関する科学的な研究が始まった初期の頃には、「催眠術」は心霊研究(サイキカル・リサーチ)の一分野でもあった(注7)。

 

当時(1880年代)の「催眠術」はオカルトと近代科学の狭間に位置していたが、福来はその「催眠」を学問のテーマとして選んだ。催眠の研究論文「催眠の心理学的研究」で博士号を授与された福来は、当時「催眠」の研究では第一人者であった。そのため彼のもとに催眠術によって透視能力を発現した能力者の話が持ち込まれてきた。ここに福来と心霊研究との接点がある。そもそも福来は最初から心霊研究(サイキカル・リサーチ)を行おうと志して「催眠」の研究に入ったのではなかった。あくまでも「近代科学としての催眠術」を、学問として研究しようとしたのであった。その「催眠術」はオカルトと隣接していた。

 

福来は精神医学の専門家である今村新吉とともに、学問的に「千里眼(=透視)」を研究して、原理を解明しようとしたが、紆余曲折を経て最終的にアカデミズムの世界から放逐されてしまった。その後「信念の人、福来」は、在野において研究を継続して「心霊の世界」に深く分け入ることになるが、きっかけは大学からの放逐であった。このように「千里眼事件」は福来の人生のターニング・ポイントとなった事件であった。この項目では明治末期にアカデミズムの世界を賑わした「千里眼事件」の概要を見ていくことにする。

 

☆御船千鶴子の透視

透視能力と催眠術の関係は、メスマーの「動物磁気」の研究からも知られているように、両者は密接に関連している(注8)。福来友吉が研究対象とした御船千鶴子(みふねちづこ:1886年→1911年)は、明治41年(1908年)に催眠術の研究をしていた義兄の清原猛雄(きよはらたけお:中学校の舎監・体育教員)の指導によって透視能力を得た。そのきっかけは義兄が千鶴子に催眠術をかけて、催眠状態の時に「透視ができる」という暗示を与えて試みたところ透視ができるようになったことであった(注9)。

 

福来友吉が千鶴子の能力に確信を持ったのは、次のような経緯からであった。

明治42年(1909年)5月に福来は、熊本の済々黌中学校(せいせいこうちゅうがく:現在の熊本県立済々黌高等学校)の学校長、井芹経平(いせりつねひら:1865年→1926年)の訪問を受けて、御船千鶴子の超常能力を知った。翌年(明治43年:1910年)2月に、福来は通信による予備実験を行なって、千鶴子の超常能力は「千里眼」ではないかとの予想を持った(注10)。

同時期、京都帝国大学医科大学教授(精神病学教室主任)の今村新吉(いまむらしんきち:1874年→1946年)は、福来の現地訪問より一足早く、明治43年(1910年)219日に熊本の本山村(現在の熊本市本山町) を訪れて千鶴子の透視実験を行なっている。 遅れて同年4月8日福来は大学から学術調査のための公用許可を取って、千鶴子に関する調査を井芹校長の立会いの下で行なって透視能力を確認した。

 

この時期、福来と共同して千里眼の研究にあたった今村新吉とは、次のような経歴を持った学者であった。今村新吉はフランス学者の今村有隣(いまむらゆうりん:1844年→1924年)の長男であり、明治33年(1900年)ウィーンに留学している。帰国後の明治36年(1903年)に、京都帝国大学に精神医学教室を創設して教授となった。今村は妄想性精神病や神経症などの精神病理学の研究で知られている学者だが、「信念の人、福来」とは異なって「千里眼事件」が起きたために心霊研究から遠ざかって行った(注11)。

 

☆御船千鶴子の実験会

A:第一回透視実験会

明治43914日東京の麹町、博文館(→明治4312月にブラヴァッキー著『霊智学解説』を出した出版社)の大橋新太郎の自宅で、福来友吉と今村新吉が実験幹事となって、学者を招いて御船千鶴子の第一回透視実験会が行われた。この実験で千鶴子は、本来は山川健次郎(やまかわけんじろう:1854年→1931年:元東大総長、理学博士)博士が製作した鉛管を透視するはずであったのだが、実験対象物が福来の作った鉛管にすり替わっていたというアクシデントがあった。

 

この時の鉛管すり替えは、千鶴子自身が「精神状態の安定を図るため」馴染んだ鉛管を使ったためであり、実験の趣旨を十分に理解していなかったことが真相であった。

霊能者に限らず一般人においても、高度に緊張を強いられる場面でしばしば見かける現象の一つに、精神的な動揺を抑えて緊張を緩和させるための小道具として、日頃から馴染んだモノを肌身につけるという行為がある。

御船千鶴子にとって東京は初めての地であり、その地で「高名な学者が大勢集まった中で透視を行う」という状況下で、強い緊張と不安を抱いたことは予想できる。そのような実験会において精神状態の安定を図って、尚且つ精神を集中させて透視を成功させる必要があった。このような理由から、千鶴子には積極的に「鉛管すり替え」という詐術を働く精神的なゆとりはなかったと思われる。

 

長山靖生の著書『千里眼事件』によれば、「(千鶴子が)福来に実験物と同じ鉛管を求めたのは、実験物に馴染んで安心をするためだったという。彼女は(福来が作った)三つの鉛管を肌身につけて寝た。これまでも、そのようにすると透視がしやすくなったから」という(→両者のオーラが融合するから)。

前著によれば、実験当日の千鶴子は「大橋邸の実験会場にも、福来から貰った鉛管の一つをお守りとして持参していた。そして会場で山川博士が製作した鉛管を渡され、二人の立会人と共に二階の部屋に籠って透視を始めた際にも、はじめから片方に山川博士製作の鉛管を持ち、もう一方の手にお守りとして福来鉛管を握っていた。彼女は当日に会場で渡された鉛管を透視しようとしたが、いくら精神を統一しても透視できなかった。しかしもう一方のお守りの鉛管は容易に透視できた。彼女は、鉛管はどれも福来博士が準備したものだと思っており、どれを透視しても同じなのだからと考えて、結果的に鉛管のすり替えをしてしまった」(注12)と福来に述べたという。

 

B:第二回透視実験会

第二回の実験会は915日に、千鶴子が投宿している関根屋旅館で行われた。この実験には福来、今村の他に新聞記者が参加した。前日の実験が不調に終わったため、マスコミの関心は低かったが、会場には千里眼に強い関心を寄せていた少数の記者だけが参加した。実験は次のような流れで行われた。

定刻までに集まった記者は、各々白い名刺に楷書で三文字を書き裏返して床の間に並べた。記者の一人がその中から一枚を選んで錫の壺に入れて、さらに壺を箱に納めて厳重に封印した。この実験物を持って千鶴子の面前にある机の上に置いた。千鶴子は精神統一して実験物を読み取った(長山靖生著『千里眼事件』参照)。

 

C:第三回透視実験会

第三回の実験会は917日に関根屋旅館で行われた。今回は錫の壺を使って行われた。まず山川健次郎、元良勇次郎、井上哲次郎(いのうえてつじろう:1856年→1944年:東京帝大哲学科教授)、呉秀三(くれしゅうぞう:1865年→1932年:東京帝大医科大学教授)、入沢達吉(いりさわたつきち:1865年→1938年:東京帝大医科大学教授)、丘浅次郎(おかあさじろう:1868年→1944年:高等師範学校教授:博物学、進化論)、後藤牧太(ごとうまきた:1853年→1930年:高等師範学校教授、物理学者)の7名が、各々白い名刺に楷書で三文字を書く。それを山川健次郎が裏返しのまま硯箱の蓋へ随意に並べ、その中から三宅秀が一枚取って錫の壺に入れ、さらにそれを箱に入れて厳重に封印した。この箱を千鶴子の前に運んで透視を行った。その際に井上哲次郎が監視役となって実験を見守った。千鶴子は精神統一して、この実験物を読み取った(注13)。

 

☆長尾郁子の念写

A:物理の研究者からの攻撃

明治43年(1910年)に行われた御船千鶴子の透視能力の実験に触発されて、全国各地に透視能力者が現れた。この現象はハイズヴィルのフォックス姉妹に刺激されて、アメリカ各地に能力者が出現した経緯と似ている。透視能力と同時に念写能力を発現した 丸亀市の長尾郁子 (ながおいくこ:1871年→1911年)もその一人であった。福来は「透視の元祖は千鶴子だが、世間を騒がせたのは透視の他に念写もできた長尾夫人である」と述べている。長尾郁子の念写能力は明治431226日、福来の実験で初めて出現し、1229日に「天照」という念写を行って完全の域に達したという(注14)。福来は取材に押しかけた大勢の新聞記者に対して「郁子の念写の現象をもたらす物質は・・・一種の精神作用から生まれる活力によって、文字や図形を心の中に描いてそれを写真乾板に写すものであり、その作用するものの正体を究めることがこれからの研究課題である」と語った(注15)。

 

明治44年(1910年)12日、長尾郁子の実験のために藤原咲平(ふじわらさくへい:1884年→1950年、東京帝国大学理科大学大学院生:「お天気博士」の愛称あり)と関戸雄次(同大学物理学教室助手)が丸亀にやって来た。藤原は「念写現象の実験は東京帝国大学理科大学の物理学分野の者が関わるべき研究である」と考えていた。物理学専門の研究者からすれば、心の働きが物質に作用して生起する念写は物理現象なので当然に物理の領域であり、心理学を専門とする福来がこの現象究明に手を染めるということは、「学問領域の垣根を破る行為である」との強い思いが当時の物理学の研究者にはあった。そのため前述の藤原の発言に象徴されるように、物理学者による福来に対する攻撃は、一貫して極めて厳しいものがあった。

当時は科学が日本に定着してまだ日が浅い時期であり、現在のように複数の学問分野にまたがる「学際領域」という考え方はなく、それぞれが自己の領域を主張し合った「学問の黎明期」であったため、学者にとって自己が専門とする学問領域を侵されることは耐え難い屈辱との思いがあったのであろう。

 

B:念写実験会

明治4414日に第一回の実験が長尾邸で行われた。実験は藤原咲平と山川健次郎がそれぞれ書いた文字を箱に入れて透視するものであったが成功であった。

第二回の実験は16日の夜に再び長尾邸で行われた。郁子は山川健次郎が持参した乾板に「正」の字を鮮明に念写した。

第三回の実験は18日に行われた。この実験では山川健次郎の「健」の字を、山川が持参した箱の中の乾板に念写するという実験であった。しかしその箱には乾板は入っていなかった、いわゆる「乾板未封入事件」である。郁子は箱の中に乾板が入っていないことを透視し、抗議によって実験は中止となって、乾板の捜索が行われた。

 

捜索によってこの乾板は旅館玉川楼から発見されたが、山川の不在中に帝大物理学科講師の藤教篤(ふじのりあつ)が箱の中から乾板を抜き取ったといわれている(注16)。山川一行は実験を中止して東京に戻っていった。

この事件があった数日後、今度は実験に使用するフィルムが長尾家から盗まれるという事件が起きた。フィルム入りのボール筒は、数時間後に道路わきの溝に投げ捨てられているのが発見されている。その中には「隠れていたすと命はもらったぞ」という脅迫文が残されていた。身の危険があったので、福来は長尾郁子の透視・念写実験を中止することにした。

 

C:実験対象者の相次ぐ死去

このような状況に至り、長尾郁子・福来友吉側から「実験妨害を目論む千里眼批判派」に対する非難がおきた。そして福来側と、念写批判の懐疑論者である物理学者の藤教篤側との間で、マスコミを介して論戦が飛び交った。当時の物理学者は「念写などは物理法則に反するから詐術である」と考えていたので、藤教篤はその立場に立って動いていたと言われている。当時の東京帝国大学理科大学は千里眼否定派の根城であり、東京帝国大学医科大学も千里眼は詐術であるとの立場に立っていた(→共同研究者の今村新吉が京都帝国大学医科大学出身であったため、背景に大学間の派閥争いが存在していたのではないだろうか)。

こうした中で1月下旬からインフルエンザにかかって寝込んでいた長尾郁子は、肺炎を引き起こして226日に死去した(注17)。また御船千鶴子は詐術の嫌疑をかけられて同年118日自殺。これらの一連の事件を「千里眼事件」という。

 

ウ)「千里眼事件」その後

◆この項目の概要

一連の事件の余波は、アカデミズムの世界から福来友吉を放逐したにとどまらず、大学の講座からも「変態心理学(異常心理学)」が消えてしまい、その後の超心理学への道が閉ざされてしまったことであった。この項目ではその間の状況を概観した。

 

☆福来の強い信念の表明

福来友吉の実験協力者、御船千鶴子と長尾郁子は明治44年(1911年)初頭に相次いで亡くなった(→長尾郁子の夫で判事の長尾与吉も明治453月に病死している)。これによって過熱気味であったマスコミの「千里眼」報道も次第に沈静化し、研究者はそれぞれの大学に戻っていった。

しかし福来に対するアカデミズムからの風当たりは、次第に厳しさを増していった。このことは明治4435日付の『東京朝日新聞』の紙面から見て取れる。新聞報道によれば「(福来)博士が千里眼問題において(東京帝大)理科大学教授連と説を異にするや、博士はたちまち詐欺漢の称号をかたじけのうし(注:下線部分は原文のまま、意味不明)、ついに同博士の文科大学助教授を罷しめんとする運動は始まれり」(注18)との記事が見られる。

 

福来は孤立無援の状況下においても、一人研究をつづけていた。実験対象者の御船千鶴子と長尾郁子の死去後、透視・念写能力者として北海道・小樽在住の森竹鉄子(もりたけてつこ:33歳)が現れた。福来は森竹徹子に対して透視と念写の通信実験を行った。その結果、透視は失敗したが念写は成功した。しかし彼女は七箇月(明治4310月~明治445月までの期間)ほどで能力が衰えてしまった(注19)。

その後の福来は、病床にある恩師の元良勇次郎(大正元年:191212月に死去)を大正元年10月に見舞ったが、その席で見舞客の桜井皆子と出会い、彼女から念写能力者の高橋貞子(たかはしさだこ:1868年→?)を紹介された。福来たちは渋谷区千駄ヶ谷の高橋邸を訪問したが、あいにく夫の高橋宮二は出張中であった。翌年(大正2年)2月に福来は高橋夫妻と会い、427日に念写実験を福来の小石川の自宅で行って成功している(注20)。

福来は高橋貞子の念写実験に自信を得て、これまでの実験結果を整理して見解をまとめた。それを大正2年(1913年)8月に東京宝文館から『透視と念写』として出版した(→1992年に復刻版が福来出版から刊行されている)。

 

著書『透視と念写』の冒頭には福来の有名な言葉が載っている。「雲霞の如く簇(むらが)る天下の反対学者を前に据え置いて、余は次の如く断言する。透視は事実である。念写もまた事実である」(注21)と。福来は実証重視のアカデミズムの世界に対して、自らの信念をこのような言葉で宣言した。当然のことながらこの一文は千里眼否定派の根城である東京帝国大学理科大学の学者たちや、千里眼は詐術であると見做していた東京帝国大学医科大学の学者たちの心象を極度に悪化させてしまった。彼らは福来に対して「千里眼問題は世間に迷信を増長させるものである」として強い批判を浴びせた。

 

☆変態心理学の講座

明治末期から大正初期にかけて、アカデミズムにおける心理学は次のような状況にあった。明治39年(1906年)に京都帝国大学に心理学講座が開設されて、アメリカ・ドイツ留学から戻った松本亦太郎(まつもとまたたろう:1865年→1943年)が心理学講座の担当教授となった。さらに明治41年(1908年)に福来友吉が東京帝国大学助教授となり、これによって日本の心理学は、元良勇次郎の「心理学」、松本亦太郎の「(広義の)教育心理学」、福来友吉の「変態心理学」という三本立ての時期に入った。

 

しかし元良勇次郎は大正元年(1912年)12月に死去したため、教授席が空席となり、その後任に大正2年(1913年)7月に京大から松本亦太郎が移ってきた。福来に対しては大正21027日に休職命令が出されたため(→この休職命令は一定期間後に自動的に退職扱いとなるものであった。福来は休職期間の満了日である大正41026日に東京帝国大学を退職となった)、彼が担当していた「変態心理学(異常心理学)」の講座は閉鎖され、その後再開することはなかった(注22)。

 

資料によれば、「(その後)東京帝大は実験心理学主流の時代を迎える。超心理学的な問題が日本の心理学アカデミズムのなかで、議論の俎上にのることは、ほとんどなくなった。国内の変態心理学は低迷した。それはまた、国内の臨床心理学の発達の妨げにもなった」(注23)と言われている。このように「福来の事件」の影響もあって臨床心理学は日本の大学ではあまり発展しなかった。

なお関係者には良く知られている事実だが、科学者の中では心理学者がもっともESP(超感覚的知覚能力)を信じていないという。なぜなら「心理学には超心理現象を排除することで研究分野が固まってきたという、歴史的な経緯があった」(注24)から。福来以降の心理学の歩みはまさにこの道を歩んできたと言えようか。

 

☆政府の迷信撲滅の方針

「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」は明治末期から大正にかけて、翻訳や啓蒙書による紹介という形で日本に本格的に流入してきた。

スピリチュアリズム思想が日本人に受容され、消化されて「自らの言葉」として語られ出したのは、日本の伝統的な祖霊観や霊魂観と結びつけて説かれた昭和の時代(→浅野和三郎が宗教的要素の強い神霊主義を主張して以降のこと)に入ってからのことであった。

福来がアカデミズムの世界から激しく叩かれた大正時代の初期、各種心霊現象(透視や念写など)に対して、「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」の観点に立って、論理的な説明が出来るまでいまだ霊的知識は十分に普及していなかった。

 

幕末期に興隆を極めた“復古神道(→記紀や万葉集などの古典と復古主義の神道が結びついたもの)”は、明治期以降、水戸学と共に「近代天皇制イデオロギー」の思想的源流の一つとなって影響力を保ち続けたが、「教派神道」や「神秘主義」を志向するグループの中に於いても生き続けていた。大本教の出口王仁三郎は「神秘主義的なグループ」に位置した本田霊学を、明治314月に長澤雄楯(ながさわかつたて)の稲荷講社で学び、浅野和三郎も大正5年春以降「鎮魂帰神による霊魂証明」と云う形で復古神道と共に霊の研究を始めた。

当時は霊的活動を含む宗教活動全般を合法的に行おうとするためには、公認の宗教団体の傘下に入らなければならなかった時代であった(→霊的な活動は宗教活動と見なされていたため非公認の活動は警察の取り締まりの対象とされていた)。SPRのような準公的な活動をするためには様々な制約があった時代であり、霊的存在を語る場合でも宗教的な用語を交えて語られていた。

 

政府の立場も当時の一般的な風潮にならって、近代西洋科学で説明がつかない現象は「迷信」として処理しており、心霊現象は既成科学の枠内に収まらないため、常に胡散臭く見られて排除の対象(→詐欺や窃盗として扱われた)にさらされていた。

当時も現在も同様であるが、学者は既成科学の枠内に収まらない心霊現象を目の当たりにして、まず現象が詐術ではないかと疑い、次に現象を既存の科学知識の延長線上で説明しようとした。日本人が長い間慣れ親しんできた、物的実体以外に霊的な実体が存在するという実体二元論的な思考法は、近代西洋科学の思考法からはじき出されてしまっていた。この思考法は、明治政府の近代化政策の一つでもある「迷信撲滅の方針」とも相まって、既成科学の枠外に置かれていた。

 

☆仏教用語を使わざるを得なかった

明治末期から大正時代に置ける状況は、日本における「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」の基盤の弱さと、孤立無援の福来友吉の悲劇、そして霊媒が常に警察の干渉を受けるという厳しい現実があった(→長南年恵や三田光一に見られるように心霊現象は常に詐欺や窃盗の対象とされていた)。このような状況下では、福来もアカデミズムの世界に対して心霊現象を論理的に説明するためにも、彼と縁が深かった仏教用語を用いて解説する以外になかったといえる。

 

大正時代末期に心霊科学研究会を活動基盤とした、西洋のスピリチュアリズムの流れにある浅野の活躍があったとはいえ、昭和3年頃までは「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」は一筋の細々とした流れに過ぎなかった。

日本のスピリチュアリズムの特徴を、社会学者の田中千代松は「日本という風土は、新スピリチュアリズムの神道への癒着と、仏教への癒着という二例を残した」(注25)と述べている。この中で田中は、仏教との癒着の事例として福来友吉著『心霊と神秘世界』を取り上げて、この著の後半は「仏教と新スピリチュアリズムの習合的思索の記録である」(注25)と記している。

 

エ)在野における福来友吉

◆この項目の概要

大正2年(1913年)10月に休職を命じられた福来友吉は、この時44歳であった。アカデミズムの世界で透視や念写という心霊現象を研究する道を断たれた福来は、在野にあって支援者に支えられながら研究を継続していった。福来の死去後は支援者によって仙台や高山に研究施設が作られて、その地で心霊現象の研究が継続されている。

 

☆校長から教授へ

福来は休職の2年後の大正4年(1915年)10月に自動的に退職処分となった。

その後の福来は、大正8年(1919年)に高野山の宿坊(宝城院)での修行生活を経て、高野山系統の女学校である宣真高等女学校(せんしんこうとうじょがっこう:→大正911月創立。現在は大阪府池田市荘園2丁目312号所在の宣真高等学校:学校法人宣真学園)の初代校長として、大正10年(1921年)から大正15年(1926年)まで在職している。校長としての福来は「研究には熱心、教育にも熱心であったが、学校の管理経営といった事務的方面が不得手であった」。そのため理事会では、福来を排除して学校経営に明るい校長を迎えようとする運動が起きていた。しかし生徒からは福来の学者タイプが気に入られたらしく、この時代の女学校では珍しい生徒たちによる「福来支持のストライキ」が起きている。ストライキが収拾された後に、福来は理事会の決定に従って大正1533日に宣真高等女学校を退職した(注26)。その後大正1578日に56歳で高野山大学教授(1926年→1940年)となり、その職に昭和15331日まで在職した。

 

福来の生家は代々浄土真宗であり、また東大退官後の高野山での修行など、福来と仏教との縁は深い。福来は「家は真宗だが、超心理については真言宗が最も多くの説明原理を含んでいる」(注26)と述べている。このように福来は、真言密教を研究してこれまでに知りえた心霊現象を理論化したが、福来の思想の土台には仏教があった。この時期に『心霊と神秘世界』(昭和7年)、『弘法大師の神秘主義』(昭和9年)、『産霊思想と涅槃思想』(昭和11年)などを著してスピリチュアリズムと仏教の融合を図り、独自のスピリチュアリズム観を『心霊と神秘世界』(注27)の中で展開させた。

 

☆研究の拠点

福来はアカデミズムの世界からは放逐されたが、在野において念写研究を進めるための拠点として、牧野元次郎(不動貯蓄銀行頭取:“協和銀行→りそな銀行”の前身)たち篤志家の協力によって、昭和3年(1928年)114日(法人格取得日)に「財団法人大日本心霊研究所」を福来が理事長となって創立した。この研究所は昭和16年(1941年)516日に名称を「財団法人敬神崇祖協会」に改称したが、この時期の福来の言動が戦後になって責任を問われて公職追放(昭和26年追放解除)になったという(注28)。昭和21年(1946年)930日に「財団法人敬神崇祖協会」は、「財団法人むすび協会」に名称を変更した。

 

その後「財団法人むすび協会」を現状にあった名称に変更することになった。その際に「(財団の名称変更は)容易に監督官庁(文部省)の許可が得られず、当面は見送らざるをえない状況にあった。しかし、やがて監督官庁が県の教育委員会に変更になり“福来心理学研究所”をそのまま財団名称に改めるべくこれと交渉、その助言、指導のもとに長期の準備を経て、昭和566月改称、認可を得、登記を済ませた」と財団法人福来心理学研究所理事長の白川勇記氏(東北大学名誉教授)は経緯を述べている(注29)。このように昭和56年(1981年)624日に4回目の法人の名称として「財団法人福来心理学研究所」となった。

財団の寄付行為によれば「当法人の目的は、超心理学の科学的研究を行い、人類の福祉に貢献すること」として、「超心理現象の科学的研究、超心理現象に関する講演や図書出版等の事業を行なう」としている。法人の主たる事務所は 仙台市青葉区台原6丁目 にあり、サイキカル・リサーチを主な事業目的として活動を行って現在に至っている。

なお福来は、詩人の土井晩翠(どいばんすい:1871年→1952年)や医学者で赤痢菌の発見者の志賀潔(しがきよし:1871年→1957年)とともに昭和21年に仙台において設立された東北心霊科学研究会(会長、白川勇記)の顧問となった。この研究会は昭和356月に仙台に作られた福来心理学研究所の母体となりこれに吸収された。

 

☆念写発見者、ISF大会

前後するが、福来友吉は浅野和三郎と共に国際スピリチュアリスト連盟(ISF)の第三回大会(昭和3年:192897日~13日にかけてロンドンのクイーンズ・ゲート・ホールで開かれた)に出席している。この大会で福来は透視と念写についての実験結果を発表した。その後昭和6年(1931年)に英文で『透視と念写』(Clairvoyance and Thoughtography)をロンドンで出版したが、この出版は念写発見者として福来の名を世界的に高めることになった(注30)。

福来は「この思想(念写のこと)は西洋に見られず、したがって適当な欧語も見当たらない。けれども仏教のうちにこれに相当する言葉があるので、思い切って仏教から述語をもらって、これを“念”(nen)と呼ぶことにする。つまり念とは自我の外に出た観念である」と述べている。

 

福来は昭和26年(1951年)に、サイキック・オブザーバーに英文の論文「日本の偉大な能力者三田光一」(原題“Japan’s greatest Medium Koichi Mita”)を執筆してアメリカに送っている。この中で念の性質を次のように述べている。「念という言葉は日本語である。それはすべての心理的(ideal)および心霊的(spiritual)活動の基礎となる非物質的な力である。動詞として念ずる(nen)と言うときには精神統一を意味する。私はこれに相当する適当な英訳を見出すことができない。そこで、日本語のままこれを用いることにする」として、そのままアルファベットにしてNengraphyと記した(注31)。

この論文は翌年(1952年)3月にアメリカの心霊研究誌サイキック・オブザーバーに掲載された。しかし福来博士は313日にこの世を去った(82歳)ので、掲載誌が日本に届いたときには目を通すことはできなかった。

 

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― - ― 

<注1>

■中沢信午著『超心理学者福来友吉の生涯』(大陸書房1986年刊)220頁~221頁の「福来友吉の戸籍」および222頁~228頁の「福来友吉歴(東京大学蔵)」「福来友吉年譜」、さらに37頁~60頁の「飛騨・高山から」を参照。

■『東京大学百年史、通史1』東京大学百年史編集委員会編を参照。

明治10年(1877年)に東京開成学校と東京医学校が併合されて「東京大学」となった。明治19年(1886年)に帝国大学令によって「帝国大学」と改称された。帝国大学は分科大学と大学院から構成され、分科大学には法科・医科・工科・文科・理科の五つがあり、後に農科が追加された。明治30年(1897年)に京都に帝国大学が創設されたことによって、「東京帝国大学」と改称された。戦後の昭和24年(1949年)に新制大学となって「東京大学」となった。創立当初には分科大学が開設されたが、大正8年(1919年)4月の官制改革によって、分科大学は「学部」という名称に変わった。

福来は東京帝国大学文科大学(→現在の文学部)の哲学科に入学した(→指導教官は井上哲次郎文学博士)。

 

<注2>

■久保舜一著「久保天隋」:『明治文学全集、41巻』(筑摩書房1971年刊)381頁~384頁参照。

久保舜一は久保天隋の子である。前著395頁に「後年(久保天隋)は台北大学教授として漢文学の研究に専念している。その著書は極めて多く、令息久保舜一博士の編纂された著述目録に見ても極めて多くかつ多彩である」と記されていることからも分る。

久保舜一著「久保天隋」の中に、福来友吉と久保天隋の関係が記されている。「(久保天隋の)大学生時代は上田敏、福来友吉両氏とごく親しく、しょっちゅう一緒に飲んでいた」(前著383頁)と。ここから久保と福来の交友関係が分かる。

浅野和三郎と久保天隋との関係では、久保天隋著「赤門派の文士を評す」(明治347月『新文芸』所収)の中で、久保は浅野を好意的に批評している。また当時の代表的な美文作品を集めた『白露集』にも、久保と浅野の作品が一緒に収められている。ちなみに『白露集』とは新潮社の前身である新聲社が1899年に刊行した書籍で、この中に久保天隋の作品三編、浅野和三郎の作品三編、戸沢正保の作品五編、合計十一編の作品が収録されている。このように美文作品を通して久保と浅野は密接な交流があった。

ここから久保天隋を通して、在学時代に福来と浅野は面識があった可能性が強い。三人の間には「福来友吉⇔久保天隋⇔浅野和三郎という交友関係」が推測できるからである。

 

<注3>

■小田光雄著『古本探究、Ⅲ』(論創社2010年刊)199頁~200頁の記載によれば――(福来友吉は)千里眼実験当時までに心理学の教科書や催眠心理学に関する本を6冊ほど刊行している。その中でも河出書房の前身である成美堂書店から明治39年に刊行された『催眠心理学』は戦前における唯一の科学的な催眠研究書と評されている――という。

福来が出版した6冊とは、ハーバード大学哲学科教授であり、ASPRの設立者の一人でSPRの会長も務めたウィリアム・ジェームズ(William James1842年→1910年)の著書『心理学精義』(同文館、1902年:明治35年)と『教育心理学講義』(弘道館、1908年:明治41年)の2冊の翻訳。

翻訳以外では次の4冊がある。『催眠心理学概論』(成美堂、1905年:明治38年)、『心理学教科書』(宝文館、1905年:明治38年)、『催眠心理学』(成美堂、1906年:明治39年)、『心理学講義』(宝文館、1907年:明治40年)である。

■当時は「異常心理学」を「変態心理学」と呼んでいた。日本では異常心理学は精神医学の基礎理論(精神症候学)を指すことが多い。実質的には臨床心理士は日常的に異常心理学の仕事を行っているといえる。

■大正5年(1916年)に設立された日本精神医学会(会長は中村古峡)は、大正6年(1917年)10月に雑誌『変態心理』を創刊した(大正15年:1926年で休刊)。日本精神医学会は雑誌『変態心理』発行の他、変態心理学講習会も開催していた。

福来友吉はこの雑誌の14号に「観念は生物なり」を、319号に「一小学教師の念写実験」を掲載している。

■中沢信午著『超心理学者福来友吉の生涯』(大陸書房1986年刊)53頁以下の記載によれば、福来友吉の学位取得論文は「催眠の心理学的研究」であり、東京大学に残る福来の履歴書には「明治377月催眠ノ心理学的研究ト題スル論文ヲ東京帝国大学文科大学ニ提出」との記載があるという。

■中沢信午著『超心理学者福来友吉の生涯』(大陸書房1986年刊)参照。

大正121213日元良勇次郎は逝去した。この葬儀で福来友吉は心理学科卒業生総代として弔辞を捧げた。前著によれば「この弔辞の終わりに見るように、福来は心理学科卒業生の代表としてことにあたっていた。したがって、順調に事態が進行すれば当然、元良亡きあとは福来がその席を受け継いだであろうと思われる。しかも心理学会での活躍ぶりや著作等においても、決して元良教授の後継者と成り得ない人物ではなかった」(前著57頁~58頁)との記載がある。

■寺沢龍著『透視も念写も事実である―福来友吉と千里眼事件』(草思社2004年刊)参照。前著の記載によれば、「元良勇次郎教授が亡くなったことで、東大心理学科の教授席が空席となり、助教授の福来友吉も教授昇格候補の一人と見られていたが、京都帝国大学心理学科教授の松本亦太郎が元良の後任に迎えられた。松本教授は、丸亀で福来と長尾家を悪しざまに言いふらした京大生の三浦恒助を丸亀に派遣した当時の指導教官である」(前著249頁)という。

 

<注4>

■平凡社発行『哲学事典』(1971年刊)の「心理学」および「心理学史」の項目を参照。

 

<注5>

■佐藤達哉・溝口元編著『通史、日本の心理学』(北大路書房1997年刊)参照。

心理学の源流は古代ギリシア哲学にあると言われている。そのため心理学は哲学の一分野として誕生した学問であるが、独立した実証科学としての道を歩むのはウィルヘルム・ヴント以降である。『通史、日本の心理学』の記載によれば――世界の心理学史を考える際の一つの分節点であるウィルヘルム・ヴント(Wilhelm Wundt1832年→1920年:近代心理学の祖、ドイツ人)による心理学実験室の設立が1879年であり、この年が明治12年に当たることを考えても、我が国の心理学が始まったのは明治維新以降であるとしても間違いではない(前著2頁)。現在の我が国の心理学者数はアメリカに次いで世界第二位であるというが、その理由の一つには、この学問におけるスタート時点にそれほどの遅れがなかったということがあげられる(前著15頁~16頁)――

 

<注6>

■佐藤達哉・溝口元編著『通史、日本の心理学』(北大路書房1997年刊)20頁~、64頁~、156頁~参照。

前著によれば、西周(にしあまね)が訳した「原著者のヘブンの肩書は『精神および道徳哲学』であり、いわゆる心理学者ではなかった。当時は心理学が完全に哲学および神学から独立してはいなかった」(前著22頁)からであるという。

前著によれば西周は、「心理学」を「psychology」に対応する形で理解したのではなく、「智情意を包括する心理哲学」の略として使ったという。この「psychology」と「心理学」が対応する形で初めて文献に登場するのは、明治14年(1881年)の井上哲次郎編『哲学字彙(てつがくじい)』であるとされている(前著39頁)。

なお「psychology=心理学」が定着するのは、1887年(明治20年)頃であり、それまでは「精神哲学」「精神科学」「精神的、心的な」「形而上学」「心性学」「精神学」「心象学」「心学」などの用語があり混乱していた(前著39頁~40頁)。

この時期は、西洋でも「psychology」はいまだ学問としての地位を確立していなかった。19世紀末期の1892年に、いち早く他の国々の心理学会創設に先駆けて「アメリカ心理学会」が設立された。

 

<注7>

■田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)173頁~175頁。ジョン・ベロフ著、笠原敏雄訳『超心理学史』(日本教文社1998年刊)89頁参照。

1882年に創設された心霊研究協会(SPR)の事業計画には「ヒプノティズム(催眠術)」が入っていた。当時の「催眠術」はオカルトと近代科学の狭間にあった。

 

<注8>

■ジャン・チュイリエ著『眠りの魔術師メスマー』(工作舎1992年刊)157頁~158頁、364頁参照。メスマーは誘導催眠によって被催眠者の透視力を発現させた。

なおジョン・ベロフ著、笠原敏雄訳『超心理学史』(日本教文社1998年刊)51頁には「メスメリズムによる夢遊症者の一部が、来世の幻について詳しく語ったことで注目を受けた」との記述がある。

■ジョン・レナード著、近藤千雄訳『スピリチュアリズムの真髄』(国書刊行会1985年刊)の記載によれば、「調和哲学」を唱えたアンドリュー・ジャクソン・デービス(Andrew Jackson Davis1826年→1910年)は、17歳の時(1843年)に生体磁気(動物磁気)の講演と催眠術の実験が行われた会に出席して興味を持ち、別の催眠術師の会では実際に催眠術を施されたという。「催眠状態でのデービスはすばらしい透視能力をみせ、両眼に包帯をしても新聞が読めるばかりでなく、まわりで見物している人の胸の中にある悩み事までピタリと言い当てることもできた」(前著30頁)。その後デービスの透視能力が発達して病気治療のための治療院を作って治療を施した。デービスは「人々からパキプシーの預言者」と呼ばれており(前著31頁)、催眠術によって入神状態(生体磁気と生体電気を使って)に入って入神講演も行っている(前著32頁)。このようにデービスの霊能力発現のきっかけは催眠術であった。

 

<注9>

■中沢信午著『超心理学者福来友吉の生涯』(大陸書房1986年刊)84頁参照。および福来友吉著『透視と念写(復刻版)』(福来出版1992年刊)26頁、33頁~41頁参照。

 

<注10

■中沢信午著『超心理学者福来友吉の生涯』(大陸書房1986年刊)85頁。福来友吉著『透視と念写(復刻版)』(福来出版1992年刊)41頁~51頁参照。

なお寺沢龍著『透視も念写も事実である――福来友吉と千里眼事件』(草思社2004年)には次のように記されている。福来は千鶴子の透視を「すこぶる良好なる結果を見るを得たり。彼女の透視能力の卓越成ることは充分に信じるに足る」と評した(46頁~52頁)と。

 

<注11

■京都医学会発行『京都医学雑誌』72号(19104)の中に、今村新吉が京都医学会で行った「講演(透見に就いて)」がのっている。それによれば今村は「透見なる能力の存在は信ずべき事実」であるとし、この能力は「特殊なる感覚的心象」であると述べている。

■長山靖生著『千里眼事件』(平凡社新書2005年刊)172頁~175頁参照。

実験対象者が相次いでこの世を去ったため千里眼の実験は頓挫して、マスコミの報道熱も冷めて関係者はそれぞれの職場や大学に帰っていった。一人福来のみは引き続き「千里眼」の解明に情熱を燃やしていた。

雑誌『科学世界』では明治44年(1911年)の初頭、関係者に対して「余の見たる千里眼」というテーマでアンケート調査を行った。その結果が明治442月号、3月号、5月号に掲載されている。そこに当事者である今村は、前年の京都医学会の講演の内容から一歩後退した形で「誠に面白きものに候、併し今の処、うんともすんとも不申候」と回答を寄せた。

 

<注12

■長山靖生著『千里眼事件』(平凡社新書2005年刊)70頁以下参照。

明治43915日付「東京朝日新聞」によれば、学者を招いた透視の実験会は、麹町中六番町の大橋新太郎邸で行われた。参加者は、福来友吉(文学博士)、今村新吉(医学博士)、山川健次郎(理学博士)、丘浅次郎(理学博士)、田中館愛橘(理学博士)、呉秀三(医学博士)、大沢謙二(医学博士)、片山国嘉(医学博士)、入沢達吉(医学博士)、三宅秀(医学博士)、井上哲次郎(文学博士)、御船秀益(千鶴子の実父)、井芹経平(済々黌中学校長)、清原猛雄(義兄)の14名であった。

■著者の長山靖生は、結果的に失敗に終わったこの実験には、持ち物検査や千鶴子の手元を誰も見ていなかったこと、福来の公正を欠く態度(→実験結果に疑義が生じている現場で福来が前日に千鶴子に渡した鉛管三個を回収していなかったことを一言も語っていなかったこと)、千鶴子は福来から預かった鉛管を、山川が用意した透視ができなかった鉛管の中に混ぜて戻していることなど、あまりに実験試料に対する管理体制が杜撰すぎると指摘している。結論として長山は「どれほど多くの専門家、学者が集まったところで、漫然とその場に居合わせただけでは、実験に参加したとはいえず、行われたのが実験だったとさえもいえない。それが千里眼検証実験の最大の悲劇であった」と述べている(『千里眼事件』79頁~81頁参照)。その後の心霊現象研究の歩みは、懐疑論者の眼を意識して厳しい管理実験に向かっていった。このような傾向は幾多の混乱と反省の積み重ねの上に立っている。

■佐藤達哉・溝口元編著『通史、日本の心理学』(北大路書房1997年刊)149頁~151頁参照。当時の研究者では少数派であったが、福来は能力者の心理状態をよく理解していた。福来は「精神統一の際、能力者を不安にするような事態を避けるために慣れたやり方から始めて、疑いを挟む余地のない条件へと徐々に精錬していけばよい、と考えた」という。

 

<注13

■長山靖生著『千里眼事件』(平凡社新書2005年刊)87頁以下参照。

918日付「東京朝日新聞」によれば、今回は山川健次郎(理学博士)、田中館愛橘(理学博士)、丘浅次郎(理学博士)、井上哲次郎(文学博士)、元良勇次郎(文学博士)、姉崎嘲風(文学博士)、三宅秀(医学博士)、呉秀三(医学博士)、片山国嘉(医学博士)、大沢謙二(医学博士)、入沢達吉(医学博士)、三宅鉱一(医学博士)、後藤牧太(物理学者)他。

■著者の長山靖生は、「千鶴子の実験の最大の欠点は、透視する際、いつも彼女は襖を閉じた別室か、あるいは襖を開いているにしても、別室からの立会人に背を向けて他人の視線をさせるようにして千里眼を行うこと」であった。このような不透明さから、千鶴子の詐術の可能性を匂わせている(92頁~95頁参照)。

筆者は能力者がリラックスして行った時の驚異的な現象の出現場面と、懐疑論者に取り巻かれて緊張状態で行った場面の双方を見学しており、実体験からメンタル面の重要さを実感している。霊媒の精神面・心理面に対する配慮がいかに大切かを実感している者として、長山の千鶴子についての記載には「全面的に賛成」することはできない。

 

<注14

■福来友吉著『透視と念写(復刻版)』(福来出版1992年刊)158頁~159頁参照。

 

<注15

■寺沢龍著『透視も念写も事実である――福来友吉と千里眼事件』(草思社2004年刊)171頁参照。

 

<注16

■長山靖生著『千里眼事件』(平凡社新書2005年刊)134頁以下参照。

藤教篤は東京帝国大学理科大学物理学教室で講師をしていた。14日に実験に参加したい旨を電報で福来に伝えて、15日に丸亀に来た。藤は「一連の千里眼騒動はトリックを用いた手品に過ぎないのではないかとの疑念を抱いており、理科大学の関係者にそうした意見を公言していた。今回実験に参加するのはトリックを暴くためであると、到着したその日に藤原咲平に伝えていたとも言われている。しかも藤は(千里眼に懐疑的な記事を掲げていた)報知新聞と特派員契約を結んでいた」という。

■寺沢龍著『透視も念写も事実である――福来友吉と千里眼事件』(草思社2004年刊)。

著者の寺沢龍は千里眼実験に立ち会ったこともない東京帝大理科大学の中村清二を事件のキーマンとして位置づけて次のように述べている。

――福来博士にとって不幸だったのは、明治44年に山川博士の実験において、乾板入れ忘れ事件が起きて以来、福来を批判して千里眼実験の成果を否定しようとする学者一派の活動が活発になったことである。その中心にいたのが、東京帝大理科大学の中村清二助教授と藤教篤講師、大学院生の藤原咲平である。藤は乾板を入れ忘れた当事者であり、藤原はその実験の現場にいた関係者である。藤講師をその実験に送り込んだのは中村助教授である。藤の不始末は多くの新聞で批判された。・・・中村清二が中心となって、藤教篤に千里眼実験の欺瞞性を主張させ、藤原咲平はその主張の補完の役割をさせられている。事件直後に新聞記者を自宅に集めて藤に記者会見をさせたのも中村清二であり、その日の夜にも今度は藤原に同じように記者会見をさせて福来への疑惑を助勢させている。急遽『千里眼実験録』の出版を思いついたのも中村清二の知恵であると思われる。その序文や跋文に、山川博士や東京帝大理科大学の教授連などをてんこ盛りに重ねたのは中村の才覚であり、本人も序文を寄せている。中村清二理学博士は、千里眼実験に一度も立ち会ったことがないが、千里眼実験に対して疑問を呈する講演を盛んに行い、演壇に奇術師を登場させて千里眼実験の結果と同じ現象を奇術でやらせて見せたりしている(前著292頁以下)――

■石川幹人著『超心理学』(紀伊国屋書店2012年刊)172頁以下参照。

石川幹人は「マスメディアは両刃の剣」であると述べている。「実験に立ち会ったこともない理学博士の中村清二という人物の否定的意見を取り上げ、センセーショナルに書き立てた。大衆が求める話題について情報が不足してくると、きちんと裏を取れていない手軽な情報をもとにした、なりふりかまわずの報道がなされてしまう」と。

 

<注17

■長山靖生著『千里眼事件』(平凡社新書2005年刊)177頁参照。

長尾郁子に対する当時の人々の見方は、「東京朝日新聞」の記事によく現れている。

――記事には「今年1月山川理学博士一行の実験に応じたる為、世間に誤解せられ、昨日までは神仏の如く丸亀市民に敬せられしが一朝にして蛇蝎の如く取り沙汰され、遂に児童等によりて『ラジウム』なる綽名を附せられ、外出すれば石を投げられるに至れりという」。この頃から世間では「千里眼をやる者は脳の使い過ぎで死ぬ」「千里眼になると早死にする」と言った噂がささやかれるようになった。こうして千里眼への社会的関心は急速に冷えて行った――。

 

<注18

■寺沢龍著『透視も念写も事実である――福来友吉と千里眼事件』(草思社2004年刊)227頁~228頁参照。この頃、福来に対して「一部の人たちからは迷信を助長する忌々しき学者であるとの厳しい批判が起きている」

 

<注19

■福来友吉著『心霊と神秘世界(復刻版)』(八幡書店1986年刊)104頁~110頁参照、および寺沢龍著『透視も念写も事実である――福来友吉と千里眼事件』(草思社2004年刊)229頁参照。

■黒田正大著「森竹定子女余聞録」:福来心理学研究所『福心会報』№3(196311月)、および黒田正大著「森竹定子女余聞録」(続編):福来心理学研究所『福心会報』№4、5合併号(19644月)参照。

 

<注20

■福来友吉著『心霊と神秘世界(復刻版)』(八幡書店1986年刊)111頁~115頁参照。および寺沢龍著『透視も念写も事実である――福来友吉と千里眼事件』(草思社2004年刊)229頁参照。

高橋貞子の夫、宮二は福来を信じて次のように述べた。「私はいま貞子を、学界の研究のために献上いたします。福来先生は千里眼の能力について早くから真剣に研究をなされたお方なので、今後の貞子の能力の育成については、先生を信頼してお任せいたします。ほかの先生方が貞子の能力をご研究なさる場合は、福来先生とご相談のうえ、なさっていただきたくお願いします」(『透視も念写も事実である』243頁)。

 

<注21

■福来友吉著『透視と念写(復刻版)』(福来出版1992年刊)1頁参照。

念写能力者の高橋貞子は福来博士だけを信頼して学者の実験に協力したが、夫の高橋宮二は学会の悪弊を批判して郷里の岡山に一家で引っ越してしまった。その間の事情を高橋宮二は自著『千里眼問題の真相』(昭和8年発行)の中で、東大の山川健次郎博士の冷淡な態度や、福来博士の著書『透視と念写』(大正2年発行)が原因とされる休職に対する抗議という形で厳しく批判している。

■寺沢龍著『透視も念写も事実である――福来友吉と千里眼事件』(草思社2004年刊)253頁参照。

福来は東京帝大文科大学の学長である上田万年から、大正2926日に「君のためにも学校のためにも一時、君は学校を退いたほうがよろしい。念写研究がいよいよ事実となって現れたとき、君は大手を振って学校へ戻ることができる」と。さらに10月1日には「君が『透視と念写』の書物を出したが、あれは君のために良くなかった。一応、相談してもらいたかった」と言われた。これが『万朝報』(大正21030日付)に載っている。

 

<注22

■中沢信午著『超心理学者福来友吉の生涯』(大陸書房1986年刊)132頁に、当時の東京帝国大学文科大学長の上田万年は「福来博士は官庁事務の都合により休職となったので、当人の意志ではない。その原因はちょっと言うには困るが、とにかく福来博士が去ってからは変態心理学の講座はできまい」と述べたとの記載がある。その福来の休職事件以降、変態心理学の講座は再開されなかった。

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(3)」:雑誌『心霊研究』昭和4810月号にも、同様に「福来博士の休職後、東京大学文学部の変態心理学講座は、其の後再開されなかった」との記述あり。

 

<注23

■佐藤達哉・溝口元編著『通史、日本の心理学』(北大路書房1997年刊)155頁参照。

■中沢信午著『超心理学者福来友吉の生涯』(大陸書房1986年刊)に興味深い話が載っている。

中沢信午著の前著17頁に「かつて私の友人A君が、生物学者であるにもかかわらず超心理に関心を持ち、そうした集会に出入りするのを見て、ある大先生がこう批評していた。――A君、超心理など、余計なことに興味を持つようでは、立派な研究は出来ないよ。ただちにやめたまえ――と」。この記載からアカデミズムの世界における超心理学の位置がよくわかる。

さらに中沢信午は、「超心理現象はあってはならないし、また実際にそんなものはない、というのが一般の科学的な見方である。したがって、一見して超心理現象と見えても、どこかに必ず『虚偽』が潜んでいるのを見落としているに過ぎない。超心理現象は、それに関係する者が意図的であるかどうかは別として、真実であるかのごとく作為されたものである。それを真実と見立てて、新しい法則でもあるかのように研究してみるのは、虚偽のデータを信頼して理論を考えるようなもので、本当の科学ではないという見方が、日本の科学界の大方の見解であろう」(前著17頁)と述べている。

 

<注24

■石川幹人著『超心理学』(紀伊國屋書店2012年刊)169頁参照。

■大谷宗司、恩田彰著「心理学者は超心理学をどう見ているか」:大谷宗司編『超心理の科学』(図書出版社1986年刊)所収、47頁~55頁参照。

古い調査になるが、大谷宗司(防衛大学名誉教授、日本超心理学会会長、心理学)と恩田彰(東洋大学名誉教授、心理学)の両名は、1963年に日本の心理学者は超心理学に対してどのような態度をとっているかというアンケート調査を行った。調査方法は日本心理学会の名簿から1115人を選び出して、超心理学に関する調査票を送付する方法で行った。そのうち回答のあった246通について分析を行った。

――本調査の回答率はきわめて低いため、この結果から日本の心理学者のESP研究に対する一般的意見を推定することは困難である。そして、回答率の低さは、超心理学への関心の低さを物語るものであるが、これは、日本においては、いまだ超心理学を評価の対象とするまでに、この領域についての理解が進んでいないことを示しているものと解することができる。しかし、回答者は本調査に対し非常に真面目な態度で臨んでいることが窺われ、その結果は、日本の心理学者の少なくとも10%はこの研究領域の意義を認めていることを示している――。

 

<注25

■田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)333頁、302頁参照。

 

<注26

■中沢信午著『超心理学者福来友吉の生涯』(大陸書房1986年刊)138頁~146頁参照。

この女学校のストライキ事件は、当時としても珍しかったため新聞で報道されたという。

 

<注27

■『心霊と神秘世界』(昭和7年刊)の「序」の中で、福来は「心霊研究の事実と経典の記録とは互いに相まって神秘世界を語るものである」と述べて人間の霊は本来、菩提智と慈悲心と神通力を備えたものであるが、肉身の束縛によりこれを見失っている。修業によって肉身の束縛から解き放ち、心にこだわりのない状態になれば、本来持っていた菩提智と慈悲心と神通力をあらわして仏になれると説く。そして「(このような)理由により、私は心霊研究の事実によりて仏典を解釈し、その解釈に基づき神秘世界の光景を叙述することにした」と述べた。

 

<注28

■中沢信午著『超心理学者福来友吉の生涯』(大陸書房1986年刊)179頁~180頁参照。

昭和23321日の新聞に公職追放該当者の氏名が載った。その中に「紀平正美、福富一郎らとともに福来友吉の名があった」。中沢は前著で「福来が公職追放となったのはなぜであったろうか。ただ一つ考えられるのは、大日本心霊研究所を改組した敬神崇祖協会を運営した事実であったであろう。しかし福来のそれは決して排他的国粋主義ではなかった」と述べている。福来は世間を騒がせた「千里眼事件」の中心人物、東大からの放逐された学者、在野にあっても怪しげな研究を続けたなど、“官”から睨まれる要素を十分に持っていた。それらの経歴が終戦後、公職追放該当者名簿を作る際に担当公務員の記憶に残っていて、いわば“生贄”とされたということであろうか。

 

<注29

■白川勇記著「福来心理学研究所の歩み」:福来友吉著『心霊と神秘世界(復刻版)』(八幡書店1986年刊)所収、「解説研究編」37頁参照。

 

<注30

■田中千代松著『新・心霊科学事典』(潮文社1984年刊)371頁参照。

■福来は仙台において、二歳下の土井と親しく交際していたという。「(土井)晩翠は霊魂の存在を信じた心霊研究家でもあり・・・心霊現象の研究に通じる福来友吉に対しては特別の親近感を持っていたようである。しかし福来自身は、この交霊現象を強迫観念から生じる幻視・幻聴だと考えていたので、晩翠の招霊会には批判的であった」(寺沢龍著『透視も念写も事実である―福来友吉と千里眼事件』288頁)という。なお「福来は心霊写真は念写の一部であると解釈しているが、浅野は念写が心霊写真の一部であると主張している。しかし、心霊写真が死者の霊魂の働きによるものであるという点では、二人の考えは一致していた。浅野と福来は、日本の心霊現象の研究とその理論の形成に大きな影響を与えている」(前著:寺沢龍著、276頁)。事実浅野の著書では、心霊写真の説明の中に念写が載っている。

 

<注31

■東北心霊科学研究会著「福来友吉先生の学説」:雑誌『心霊研究』昭和27年(1952年)6月号所収。

 

 

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