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江戸末期~明治期:その2

目 次

 

④.井上円了の妖怪研究

ア)井上円了の「不思議研究会」

・井上円了の経歴

・不思議研究会

・妖怪学講義

・共通した「妖怪観」

・心霊研究の先駆け

イ)社会の変革と意識の変革

・技術や制度の導入と慣習の見直し

・意識の変革によって社会が変化する

 

⑤.「コックリさん」と「催眠術」

ア)「コックリさん」ブーム

・「コックリ(狐狗狸)さん」の原型

・「コックリさん」の装置

・伝来ルート

・井上円了の解説

・粕川章子の解説

・霊界側から関与する霊のレベル

・霊からのメッセージを受信する方法

イ)催眠術ブーム

・催眠術のルーツ

・近代科学としての催眠術

・民間における催眠術ブーム

・「催眠術師」から「霊術家」へ

 

<注29>~<注55

 

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④.井上円了の妖怪研究

ア)井上円了の「不思議研究会」

☆井上円了の経歴

社会学者の田中千代松は「心霊研究の元祖は誰か」に対して、「厳密な実験研究においては、福来はまちがいなく“元祖”であった。しかし、文献的研究および社会調査的研究を行った、立派な先駆者がいた」(注29)として井上円了を紹介している。

妖怪学の研究で知られた「お化け博士」の井上円了(明治期の仏教学者・哲学者)は、1858年に新潟県長岡市の真宗大谷派の末寺、慈光寺で生まれた。長岡洋学校(現在の県立長岡高校)や東本願寺の京都教師教校の英学科で学んだ後、明治11年(1878年)9月に東京大学予備門に入学した。そして明治14年(1881年)9月に、現在の学部の名称でいえば東京大学文学部哲学科に入学し、明治18年(1885年)に卒業した。

 

大学在学時に妖怪の研究を始めて(→著書の記載に「余幼くして妖怪を聞くことを好み、長じて其の理を極めんと欲し、事実を収集」したとある)、明治19年(1886年)には「不思議研究会」を設立している。明治23年(1890年)には不思議現象を扱う会として「妖怪研究会」を設立した。この間の明治20年(1887年)には、三宅雄二郎、棚橋一郎、加賀秀一、辰巳小次郎らの協力を得て、東京本郷に「哲学館(後に哲学館大学→東洋大学へ)」を創設した。大正8年(1919年)6月に中国の大連で死去、享年61歳であった。

 

☆不思議研究会

井上円了は明治19年(1886年)124日に東京帝国大学内の講義室で第一回の「不思議研究会」を開催した(第一回会合には12人のメンバーが参加した:注30)。この研究会では日本各地に伝わる幽霊、妖怪、天狗、犬神、狐や狸、予言等の資料を集めて調査研究を行ったが、3回目の研究会(明治19328日開催)をもって休会となった(注31)。

さらに井上は明治の欧化主義に対して、「仏教一夕話」や「仏教活論」など、東洋思想を強調して、明治21年(1888年)には国粋主義的文化団体の政教社を設立した(注32)。

 

☆妖怪学講義

井上は迷信打破の立場から明治27年(1894年)に「不思議現象研究の学」として『妖怪学講義』全8巻を著して、「妖怪博士」ともいわれた。この「妖怪学」は井上が10年間に亘って収集した妖怪の事例(400あまり)を分類整理したもので、もともとは哲学館の講義録として出版したものであった。

明治268月発行の『妖怪学講義緒言』によると、怪奇現象を次の四つに分類して、合理的・科学的な立場で研究を行っている。それによると「真怪」とは現在の科学では解明できない本当に不思議だとされる現象のことであり、「仮怪」とは自然現象で起こる不思議なこと(いわゆる自然の法則のこと)、「誤怪」とは偶然に見間違えたもののこと、「偽怪」とは人が意図的に作り出したもの(トリック)のことであると述べている(注33)。

 

井上の研究目的は、当時の社会に蔓延していた迷信・祟り・妖怪等の怪奇現象を正面から取上げて、これらを近代合理主義の立場から解明して迷信を打破すること、つまり「仮怪を払い真怪を開くこと」(注33)であったが、井上は必ずしも「心霊肯定家」ではなかった(注34)。しかし井上円了著『霊魂不滅論』(国書刊行会1999年、復刻版)を読む限り、「霊魂はヒトの死後も不滅である」「目に見えなくても存在するものがあるように、霊魂もそれである」などの表現から、霊魂の存在や死後の世界を肯定していたことが分かる。

 

☆共通した「妖怪観」

一般に「妖怪」とは多くは信仰が失われて、零落した神々の姿であり、出現する場所は大抵定まっているとされる。さらに異常な物、異常な現象を神の威力、神の意志の現れと信じた時代が長く続いたため、こうした信仰が「妖怪の下地を成している」とされる(注35)。

この定義は柳田国男が妖怪研究に際して強調した「妖怪は神の零落したものである」という指針に沿ったものであり、小松和彦(国際日本文化研究センター教授)によれば民俗学的妖怪研究は、長くこの指針に沿ってなされてきたという(注36)。

 

井上円了の妖怪研究書を読めば、明治時代には少なくとも「妖怪のようなもの」が存在すると信じていた日本人は、大勢いたようである。日本は自然に恵まれた国土で長い間、稲作をベースにした生活を営んできた国である。江戸時代の経済は「米本位経済」であり、米が一種の通貨の代わりを果していた。このようなコメをベースにした生活基盤が日本全国に存在したことによって、共通した霊魂信仰や民間信仰が育まれてきたといえる。この霊魂信仰や民間信仰をベースにした上に、たとえば稲作に密接に結び付く「水神信仰」にはカッパという妖怪が存在する、という形で共通した妖怪観が存在したと考えられる。

妖怪という用語(注37)が一般化したのは、明治時代に井上円了が使用したからとされているが、円了の「妖怪」概念は極めて広い範囲をカバーしている。著書の記載から「妖怪」概念を見れば、天体・気象現象・病気、はては民間療法や占い、育児法までもが含まれている(注38)。

 

☆心霊研究の先駆け

井上の研究では、「妖怪」を大きく「物怪」と「心怪」の二つに分けたが、内容は「物怪」が物理的心霊現象を指しており、「心怪」は精神的心霊現象を指している。さらに「鬼神霊魂天堂地獄の如き、死後幽冥界に関する諸説も妖怪の一種」(『妖怪学講義緒言』7頁)として、死後の世界も調査研究の範疇に含めていた。

 

著書の『妖怪学講義』の中で直接言及した箇所は見当たらないが、井上は1882年(明治15年)に設立された英国心霊研究協会(SPR)を充分に意識していたことが、彼の調査研究全般から判断して推測できる。このSPRの情報については、箕作元八(みつくりげんぱち)が明治18年に雑誌で紹介しているので、井上は妖怪研究を始めた時点で、すでにSPRの研究情報を持っていた可能性が強い。このように井上は、科学的態度を堅持して不思議現象の文献研究や社会調査研究を行った学者として知られている。

 

日本における心霊現象の科学的研究が始まる胎動期において、明治20年代に「こっくりさん」ブーム、明治30年代後半における催眠術のブームがあった。このような時期、井上円了は「こっくりさん」から「お化け屋敷」まで、あらゆる「怪奇現象」(心霊現象含む)を収集・調査して体系化し、学術的に研究した我が国で最初の人であった。いわば我国の心霊研究の先駆けとなった人であった。

 

イ)社会の変革と意識の変革

☆技術や制度の導入と慣習の見直し

江戸時代の藩幕体制下では、人々の忠誠心の対象は所属する藩であり、藩の集合体たる日本国ではなかった。幕末の対外的危機意識の高まりの中から、日本という国家や国民意識が徐々に生まれてきた。慶応4年(1868年)をもって明治元年とする詔書(しょうしょ)が出されて明治維新となり近代化の歩みが始まった。

 

明治政府は西洋の科学技術や制度、文物などを取り入れて、西洋諸国に追いつくための「国家の近代化政策」を急激に推し進めていったが、この過程で国民共通の国家観(ナショナリズム)や国民意識が芽生えてきた。この時期に進められた神仏分離令、太陰暦の廃止、断髪令、西洋化された食の奨励(肉食の奨励:注39)、洋服の奨励、教育制度等の改革は、近代化の一環として行政主導で進められたものであり、いわば西洋列強に追いつくために社会に根付く旧来の生活文化や民族風習を見直すための作業であった。

行政主導で行われた社会の近代化はあらゆる分野に及んだが、その一環として当時の人たちの思考や行動様式に巣くっている迷信の排除があった。井上円了の妖怪学研究は民間人の立場からこの問題に取り組んだものであり、文化面から近代日本の立ち上げに貢献した一人と言える。

 

☆意識の変革によって社会が変化する

敗戦後間もない昭和211127日、文部省の科学教育局資料課は「各地における慣習状況調査表」を郵送して、行政主導による迷信調査を行った。昭和211224日には文部省に「迷信調査協議会」が設置された。文部省が行った調査方法とは、各県から「都市部・農村部・漁村部」それぞれ各一校ずつ、計三校の小学校を指定して、迷信回答調査票を児童に配布して、家人に記入させて回収し、統計を取る方法で行われた。その迷信調査の報告が『日本の俗信、1(迷信の実態)』『日本の俗信、2(俗信と迷信)』『生活慣習と迷信』(文部省迷信調査協議会編、技報堂、昭和25年~30年刊)にまとめられて出版されている。

 

このように明治期や敗戦後という大きな転換期に際しては、社会制度の見直しと共に慣習の見直しが行われてきた。誰が主導的立場に立って行うかの問題はあるが、思考や行動様式の変革なしには社会制度は変わらないからである。

近代以降の日本では明治期と敗戦後の社会において大きな意識の転換があった。まず明治期、欧化政策をとった明治政府による迷信排除(→井上円了は民間人の立場から迷信排除に携わった)が行われて、社会の近代化と共に国民の意識の変革がなされた。次に敗戦後の社会においては、日本国憲法の制定と共に人権意識が高まって、社会に根強く残る旧弊の見直しが行われた(→売春防止法の制定など)。

 

この二つのドラマチックな社会の変革期とは異なるが、現在は第三の意識の変革期にあたるといえよう。昨今、コンピューターの利用が急激に進み、バーチャルな空間で物事が決定される仕組みが急速に出来上がりつつあり、国民の意識もそれにつれて徐々に変化してきている。このような社会の変革とともに国民の意識も大きく変わりつつある現在、スピリチュアリズムがブームとなっている。

 

この第三の変革期をさらに広い視野から見渡せば、現在のスピリチュアリズム・ブームが今後、表層的なもの(→いわゆる“現世利益的なスピリチュアリズム”のこと)から、より本質的なもの(→生き方の指針としてのスピリチュアリズムのこと)に移行していけば、人々の意識に大きな変革が起こって、唯物主義を基調とした社会制度は徐々に変わっていくことになる。

なぜならスピリチュアリズムの本質的な理解が広がれば、「普遍的なスピリチュアリズム思想」を「自らの生き方の指針」にしようとする人たちが数多く出現することになり、その結果、その社会の構成員の意識に変化が生じて、社会の慣習は質的な転換を迫られることになるからである。このように社会の変革と国民の意識の変革とは車の両輪となっており、相携えて社会が変わっていくことになる。この意識の変革の完成によって、初めて井上円了が蒔いた迷信排除というタネは実を結んだことになる。

 

⑤.「コックリさん」と「催眠術」

ア)「コックリさん」ブーム

☆「コックリ(狐狗狸)さん」の原型

明治時代にスピリチュアリズムは各種思想とともに散発的に流入してきたが、本格的に流入してきたのは明治末期から大正時代にかけてであった。これはスピリチュアリズムに関する翻訳書や啓蒙書の出版点数から見ても明らかである。

この項目では最初に「コックリさん」を取り上げる。

 

日本において明治20年代(1887年→1896年)に物理的心霊現象の一種である「コックリさん」ブームが起きた。井上円了は「近ごろ俗間で行われる一種の幻術、その名をコックリといい、狐狗狸という当て字を使う」と述べている。一般にこの「コックリさん」の原型は西洋で流行した「テーブル・ターニング:Table-turning」であり、その変形であるとされている。ただし「コックリさん」では竹三本を使用するのに対して、「テーブル・ターニング」では脚四本を使って霊界からの通信を受信するところが両者の相違点となっているが。

 

上記の他に霊界からの通信を受信する装置には、アルファベットと数字を記した盤と三脚指示器を組み合わせた「ウィジャ盤:Ouija Board」という装置がある。「ウィジャ盤」では霊能者が“三脚指示器”の上に手を置き、指示器が自然に動き出して示した箇所の文字を次々と読み取って、一つの文章が綴られていく仕組みになっている。

この他にハート型の板に脚輪が付いたもので、ハート型の指定の場所に鉛筆を差し込んで使う装置――器具に手を触れていると自然に動いて文字を綴る装置――の「プランシェット:Planchette」などもある。

 

☆「コックリさん」の装置

明治時代に流行した「コックリさん」は現在の装置とはだいぶ異なっている。現在主流となっている「コックリさん」は、「はい、いいえ、数字、五十音文字」などを書いた用紙とコインを用意して、2~3人で取り囲む形で行われている。

使い方は全員で人差し指をコインの上において、最初に「コックリさん、コックリさん、お出でください」「お出でくださったら、“はい”のところにお進ください」と呼びかける。そうするとコインが自動的に動き出す。このような形で霊界からの通信を受信する仕組みになっている。このように現在主流となっているコックリさんは、50音の文字列が書かれた表と硬貨(または鉛筆)などを組み合わせた簡単なもので、いわば「ウィジャ盤」に似た装置となっている。

 

明治時代の「コックリさん」の写真を見ると、竹三本を脚にしてその上に盆のような物を置き、その上に数人が手を置き、その竹脚の傾き具合から「託宣」を得る形式になっている。

井上円了は「コックリさん」の使い方を次のように解説している。

――このコックリは、棒でも竹でもいい、三本を交叉して立て、その上にお盆のようなものをのせ、軽くそれに手を触れ、めいめいが「コックリ様、どうぞ、こちらの言うことを聞いて下されば、足をあげてください」などと頼むのである。たとえば「ここにいる者で、誰が一番早く出世するでしょうか。その人のそばに行って足をあげてください」と言えば、コックリさんは、何某のところで、足をあげたりする(注40)――。

 

☆伝来ルート

「コックリさん」の伝来についてはさまざまな説があるが、井上円了の説は最もよく知られている。それによれば「明治17年のころと思われるが、アメリカの帆走船が伊豆の下田近くに来て破損したことがある。その破損の件に関してアメリカ人の中で久しく下田に滞在していた者があり、この法を同地の人に伝えたという。その時、アメリカ人は英語でその名を呼んだが、その地の者は英語が分からないので、その名が呼びにくいため、コックリという名を付けたらしい・・・いつの間にか狐狗狸の語になったらしい」(注41)。このアメリカ経由の「コックリさん」がその後全国に広まったと井上は述べている。

 

この井上説以外に凌空野人(りょうくうやじん)編『西洋奇術狐狗狸怪談』(明治204月、イーグル書房小説部)に記載された説もある。これによれば、「アメリカに留学していた理学士の増田英作が、明治16年、アメリカから“コックリさん”の専用台を持ち帰った。彼は翌17年、数人の友人と共に新吉原の引手茶屋、東屋で“コックリさん”をおこなった。それが日本で“コックリさん”を試みた第一号だったという」(注42)。いずれの説を採るにせよこの時期に日本に持ち込まれた「コックリさん」は瞬く間に全国に広まって、明治20年代前半に爆発的なブームが起きた、この現象は各種の事典(→たとえば弘文堂発行の『大衆文化事典』など)の中でも紹介されている。

 

☆井上円了の解説

イギリスの物理学者マイケル・ファラデー(Michael Faraday1791年→1867年)はテーブル・ターニング現象を「テーブルが動くのは、無意識の筋肉の震えに反応しているのであり、参加者が不注意に機械的圧力を加えたに過ぎないとして、そこには霊の力など働いていない」(注43)と解説した。井上は「コックリさん」現象の原理を、ファラデーが述べた参加者による「無意識による筋肉の振動説」と同じ論理で説明した。

 

井上の解説では、「コックリさん」現象の仕組みを、まず装置自身の構造的な問題から、三本の竹の上に盆の様なものを置くため「装置自身が非常に動きやすい特徴を持っている」ことを述べ、次に「コックリさん」が来ているとの思い込みが激しい人ほど装置が良く動くという観察結果から、「これは無意識のうちに筋肉を動かしている結果である」と解説した。そしてこのような要因が重なって現象が起きると結論付けた。

井上は「コックリさん」とは、「無意識の思い込みと無意識の筋肉の動き(→潜在意識に影響された筋肉の付随運動)が組み合わさって起きる現象である」と述べている(注43)。この「コックリさん」は、井上にとっては妖怪研究の最初のテーマであった。不思議現象を科学的な立場(=懐疑的な立場)から究明して迷信を打破する、とした彼の立場から「コックリさん」現象を考えれば、当然にマイケル・ファラデーの説と同様な結論になるであろう。

 

☆粕川章子の解説

日本のスピリチュアリズムの黎明期から発展期にかけて、浅野和三郎と共に心霊研究を行ってきた粕川章子は、T夫人とN夫人の三人(TNは霊視能力のある霊能者)で戦時中に横浜・鶴見の浅野邸で「コックリさん」を行った。粕川の解説によればこの時の「コックリさん」は次のようにして行われた。

まず竹三本を用意して、竹の上部三分の一くらいの所を“水引き”で結び、竹の下部を三方に開いて立てると当然に上部も三方に開くので、その上部の竹棒がずれないように“縁のある丸い盆”をのせた。次に小さな紙片を用意して、そこに“狐”と“狗”と“狸”とそれぞれ書いて、その紙片を三本ある竹棒の一つ一つの足の中(竹の空洞の中)に詰め込んでおく。今度は下に敷く“文字盤とも言うべき用紙”を用意して、そこに使用する「いろは四十八文字、一から十までの数字、百、千、万の文字」を書き込む。これで装置の準備が整った。

 

最初にN夫人が「コックリさん」が来るようにと念じた。その後三人は(盆と)台の上に乗せた文字盤の用紙を片手で軽く触れて、「コックリさん」に向かって質問を出して回答を求めた。そうすると「コックリさん」の竹棒が動き出して、順次文字の一か所を竹棒の一脚が指して、文章を綴っていく。またはイエスかノーかを回答してくれる。一度動き出すと「コックリさん」は竹棒の足を前後左右に動かして、質問に答えてくれる。

その内「コックリさん」の動きが止まったので、「何か要求があるのか」と尋ねると竹棒の一本をあげて「ある」と答えた。「何が欲しいか」と尋ねると「モナカガタベタイ」と回答してきた。戦時中であったが、この時はまだ“和菓子の最中(モナカ)”があった頃であり、この時ちょうど浅野家にモナカがあったという。粕川は「コックリさん」は「浅野家に最中があることを知って食べたいと言ったに違いないので、出現した霊は低級霊に相違ないと思った」と述べている。

 

粕川の結論としては、「心霊知識の用意なく、単なる興味本位か実利主義でこうした試みをする事は、あるいは面白からぬ結果を生むおそれがないとは言えまい。研究的態度をとらずして試みるべきではない」と述べている。

さらに粕川は「コックリさん」の仕組みに関しては、「どうも意識的に力を入れずとも、この竹の三脚臺はスルスルと滑らかに滑り出したり、脚を上げたり下げたりするように考えられる」「手を置く人の仕業と片付ける事は早計だと思う」と述べて、「コックリさん現象は参加者の無意識による筋肉の振動が原因である」とする井上円了の説を批判した(注44)。

 

☆霊界側から関与する霊のレベル

高級霊のシルバーバーチは交霊会で霊が地上の人間を見る場合について、「霊媒の目で(あなたの肉体を)見れば見えるでしょう」、しかし通常は霊の目で見ているので「肉体は薄ぼんやりとしか見えない」(注45)と述べている。このことから考えると次のようになる。

上記の「コックリさん」現象を霊界側から見れば、いまだ死の自覚が持てない地縛霊か、または物的波長に感応し易い低級霊が、一時的に霊媒能力者のT夫人またはN夫人に憑依して、T夫人またはN夫人の物的視力を通して、浅野家を覗き見して「モナカガタベタイ」と綴ったのであろう。なぜなら死の自覚がない地縛霊の場合には、いまだに自分の肉体を持っていると思い込んでいるため、脱ぎ捨ててしまった肉眼でモノを見ようとする。しかし肉眼がないので暗くて何も見えないが、憑依された者の物的視力を通して見れば、地上世界のモノは見える。また死の自覚がある低級霊の場合には、意識の切り替え(→意識の焦点が物的なモノから霊的なモノに切り替わっている)ができているので、霊としての相応の霊的視力はあるので、地上世界が“薄ぼんやり”と見える。この霊が一時的に人間に憑依して、憑依された者の物的視力を通して浅野家の室内を見回せば、どこに何があるかが分かる。このような仕組みで、モナカがあるということが分かったのであろう(注45)。

 

スピリチュアリズムの観点から見れば「コックリさん」とは、「テーブル・ターニング」「ウィジャ盤」「プランシェット」等と同様な心霊現象であり、当然に霊媒(霊媒体質者)の存在抜きにしては考えられない。

一般に「コックリさん」を行う人の動機は、単なる興味本位(遊び半分)で行う場合や物質的利益を得る目的で行う傾向が強いと言われている。そのため「波長の原理」から霊界側で対応する霊も、高級霊のコントロールが及んでいない霊、それも物質性の濃い低級霊(または地縛霊)が関与してくる。さらに「コックリさん」を行う人の動機が極めて現世的な場合は、一般の物理的心霊現象と同様な病的な問題が起こりやすい。

 

「コックリさん」は1970年代に再びブームとなったが、遊び半分・興味本位で行った子供たちの間でさまざまな問題が起きた。一般に「コックリさん」には危険性が伴うと言われているが、「波長の原理」から霊的背景を考えて見れば当然である。これは物理的心霊現象一般に共通した問題点であり、当然に「コックリさん」にも当てはまるので、霊的背景やメカニズムを教えるべきであろう(→霊的敏感者は特に注意、行う動機の問題など)。

 

☆霊からのメッセージを受信する方法

霊からのメッセージを受信する方法として、一般によく知られているのは「ラップ」現象である。“ハイズヴィル事件”の通信霊が、ラップの数によって“はい”と“いいえ”を区別して、通信を送ってきた事例は有名である。これ以外に霊からの通信を受信する方法として、装置を使った事例がある。ウィジャ盤を使用した霊媒としては、『オスカー・ワイルドの霊界通信』『天よりの声』『永遠の生命』などの霊界通信があるヘスター・スミス夫人が知られている。またプランセットを使って霊界通信を受信した霊媒として、『レビュー・オブ・レビュー』誌を創刊したイギリスのジャーナリスト、ウィリアム・ステッド(1849年→1912年)がいる(注46)。なおW.S.モーゼスによれば「プランシェットに手を置くと、霊能者の意識的な働きかけなしにメッセージが書かれる」(注47)と述べている。

 

霊界からの通信を受信する「ラップ」「コックリさん」「テーブル・ターニング」等の現象は一種の「物理的心霊現象」であり、これらの心霊現象には霊界側の技術者として物的波長に感応しやすい低級霊が関与する、そのため種々の問題が生じることがある。その後、霊界からの通信を受信する形態は、「ウィジャ盤」や「プランセット」等の装置を使用する方法から、たんに霊媒の握った鉛筆を使って文字が綴られる自動書記通信が主流となっていった。

このように霊界からの通信を受信する形態としては、霊界側で高級霊の監督の下で物的波長に感応しやすい低級霊が技術者となって関与する「物理的心霊現象」から、高級霊の関与の下で行われる「心理的心霊現象」まで幅広く存在している。霊媒の得手不得手の問題もあるが、受信形態の大まかな流れとしては「物理的心霊現象」に分類される形態から、「心理的心霊現象」に分類される自動書記通信の形態へと移行しており、それに伴って通信内容も高度になってきている。

 

イ)催眠術ブーム

☆催眠術のルーツ

社会学者の田中千代松は「催眠術の原語、ヒプノティズム(hypnotismhypnosis催眠)の源流はメスメリズム(=動物磁気)である。そしてメスメリズムはオーストリアの医者アントン・メスメルの名にちなんで呼ばれたのであったから、催眠術の始祖はメスメルである」(注48)と述べている。フランツ・アントン・メスマー(メスメル、Franz Anton Mesmer1734年→1815年)は精神分析の遠祖とも言われているが、メスメリズムの位置づけは「原始的な精神療法から精神分析へ移行する中間点に位置付けられている」とされている。そのためメスメリズムは「オカルトと科学の奇妙な混合物である」(注49)と言われている。

 

日本に「近代的な催眠術」を持ち込んだ人は誰かについては諸説あるが、最も有力な説は「明治維新の函館戦争の勇将、榎本武揚(えのもとたけあき:1836年→1908年)である」とする説である(→高橋五郎著『心霊哲学の現状』大證閣1919年刊、142頁では、日本催眠術の元祖は榎本武揚であると述べている)。この説によれば、榎本は1863年に幕府留学生としてオランダに渡り、この時に欧米で流行していた催眠術に触れて、その状況を伝えてきたことを根拠としている。

 

催眠に類似した術は古来より世界各地に存在している。日本にも「目くらまし術」や「妖術」などと呼ばれた「幻術」という用語があり、この「幻術」は心の心理的な操作を伴う術として、「修験道や密教などに(催眠に)類似した術の痕跡を見出すことができる」という。

このような「幻術」と「民間の間で大流行した催眠術」の間には、次のような関係が見えてくる。明治政府の宗教政策(明治5915日付太政官布達)の変更に伴って里山伏(修験者)の多くが還俗したことによって、それまでの修験者や行者の間で用いられてきた「幻術」は、姿を変えて「催眠術」として庶民の間に広く普及した、これが「民間の間で大流行した催眠術」のルーツの一つになった、このような流れが推測できる。「明治30年代後半、催眠術が本格的なブームを迎えていた頃、すでに幻術が催眠術のルーツであることはほぼ定説と化していた」(注50)という。

 

☆近代科学としての催眠術

欧米では催眠術の研究は、オカルト的な要素を持ったメスメリズムから離れて、催眠は「大脳内部の生理的な作用である」として「近代科学の領域に引き寄せられた研究」に姿を変えて、フランスを中心として1880年代に盛んになった。1882年にはアメリカで催眠を治療に応用する研究を行うための心理研究会が組織されている。1891年にはイギリスの医学界が催眠の治療的価値を研究する委員会を設立した。

 

日本では「医学としての催眠術の実習」が、明治25年(1892年)に東京帝国大学の精神病学教室で行われている。日本の「近代科学としての催眠術の研究」は西洋における研究からさほど遅れることなく開始した。

一柳廣孝の調査によれば、当時アカデミズム関係の雑誌として知られていた『東洋学芸雑誌』(明治195月号)の雑報欄において催眠術が紹介されており、また『哲学雑誌』(哲学会雑誌)の記事からは、教養人は催眠術を超自然的現象と見ていたことが分かるという。このように明治21年(1888年)から明治26年(1893年)にかけて、しばしば西洋における催眠術に関する研究情報が雑誌に紹介されてきた(注51)。これらの記事はアカデミズムの世界に催眠術が紹介された初期の事例であったが、日本でも明治30年代後半に入ると「近代科学としての催眠術の研究」が本格化してきた(→催眠術は現在では精神療法に取り入れられている)。

 

明治36年(1903年)4月の東京帝国大学で開催された神経学会総会で、福来友吉(ふくらいともきち:1869年→1952年)は「催眠の心理学的研究」の発表を行っている(注52)。この総会や同じ時期に大阪で開催された歯科医総会における講演、さらには明治36年秋の『国家医学界雑誌』に掲載された催眠術に関する論説。これらがまとめられて『催眠術及びズッゲスチオン論集』(明治37年、南江堂)として刊行された(注52)。この刊行物によって「アカデミズムが催眠術に注目するきっかけ」が作られたという。さらに「明治382月、十日医会と法理研究会は、催眠術に関する共同研究を行う旨を決定」(注52)して会合が持たれた。このような経緯から催眠術は、明治38年に民間の催眠術ブームとは一線を画した形で、近代科学としてアカデミズムの領域に本格的に進出していった。

 

☆民間における催眠術ブーム

日本における催眠術のブームの背景には、「幻術にルーツを持つ催眠術」の流れと、「近代科学としての催眠術」にルーツを持つ流れの二系統があり、これらがミックスして明治の中期以降に一大ブームとなったのではないかと思われる。

催眠術は誰でも習得が容易でありその効能がはっきりと目で確認できることから、民間では明治30年代(1897年→1906年)に催眠術がブームとなった。ちなみに明治36年から明治45年の10年間に100冊以上の催眠術に関する書籍が刊行されたという。当時は催眠療法でほとんどの病人の症状が良くなったと言われており、そのため民間レベルにおいて催眠術を使った治療院が数多く存在していた。明治30年代「霊術家の大家」といわれた桑原俊郎(くわばらとしろう:1873年→1906年)は、催眠術の効用を高めるために祈祷、お手当て、暗示等を取り入れた「催眠術療法」を行っている。

 

便乗組も現れた。この催眠術ブームに便乗した著名人は気合術の浜口熊嶽(はまぐちゆうがく:1878年→1943年)であった。浜口は「自分の気合術を催眠術だ」(注53)と述べたという。このように当時の多くの霊術家は催眠術ブームに便乗する形で、自身が行う療法(→生体磁気エネルギーを使用した療法)の効用を盛んに宣伝していたが、このブームの背景には通信教育制度(注54)が大きく寄与していた。当時の主な催眠術の民間指導団体としては、小野福平が主宰した明治33年(1900年)設立の「大日本催眠術奨励会」、山口三之助が主宰した明治35年(1902年)設立の「帝国催眠学会」、桑原俊郎が主宰した明治36年(1903年)設立の「精神研究会」などが知られている。これらの団体も通信教育制度を活用していた。

 

☆「催眠術師」から「霊術家」へ

加熱するブームの陰で催眠術の悪用が社会問題になっていった(→森鴎外は“実話”をもとにした『魔睡』で催眠術を扱った)。催眠術が犯罪に使われたこと、職業治療家(民間の催眠術業者)が競って行った誇大広告の弊害(→例えば病気治療の効果を誇張した広告の掲載)や、催眠術の失敗による身体や精神障害の発生など、詐欺的行為や傷害事例が多発していた。このような弊害があったため、政府は警察犯処罰令を明治41年に制定して催眠術を取り締まりの対象とした。この警察犯処罰令によって「濫りに催眠術を施したる者」は処罰の対象とされたことから、職業治療家は「催眠術による催眠療法」という表現の使用が難しくなってしまい、死活問題に直面した。

 

これ以降、職業治療家は「催眠療法」という表現を止めて、新たに「心霊治療、大霊道、リズム学、気合術、念射療法、神術、霊道術、精神療法など」に名前を変えて民間療法の一つとして生き残りを図っていった。このようなネーミングの変更は、「催眠療法を一段と宗教色・オカルト色の濃い民間療法として存続させる」と同時に、「霊術家の誕生」へとつながった。結局明治末期以降、職業治療家は名前を「催眠術師」から「霊術家」に変えただけで、従来までの営業内容を変えることなく継続させており、貧弱な日本の公的医療の狭間で民間療法の担い手となってしぶとく生き残った(注55)。

 

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<注29

■田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)277頁参照。

 

<注30

■東洋大学井上円了記念学術センター編『妖怪学講義緒言』柏書房20頁参照。

研究会に参加したメンバーと活躍分野は以下の通り。

「三宅雄二郎(雪嶺:哲学科卒)」は政教社設立メンバーであり、哲学者・評論家。「棚橋一郎(和漢文学科卒)」は政教社設立メンバーであり、衆議院議員(明治35年)を勤めた。「田中館愛橘(物理学科卒)」は地球物理学者で東京帝大教授。「吉武栄之進(化学科卒)」は東京高等工業学校長(後の千葉大学工学部の母体)。「坪内雄蔵は坪内逍遥(政治学理財学科卒)」であり、シェークスピア全集の翻訳で有名。「坪井次郎(医学部卒)」は京都帝国大学医科大学長。野口英世は済生学舎に通っていた時に、東京帝大助教授兼済生学舎講師の坪井から細菌学を学んだという。「箕作元八(動物学科)」は東京帝大教授で、動物学からフランス史に転向した。日本における西洋史学の先駆者でもある。明治18年(1885年)3月号の東洋学芸雑誌に「奇怪不思議の研究」を載せた。この研究は近代スピリチュアリズムとSPRの研究内容を紹介したもので、この分野の嚆矢である。

「坪井正五郎(動物学科学生)」は自然人類学者で、理学博士。「澤井廉(物理学科卒)」は堀之内貝塚調査(1883年)を行った。この調査メンバーの中に坪内正五郎や箕作元八の名前が載っている。「福家梅太郎(東京山林学校学生)」と「佐藤勇太郎(予備門理科卒)」は坪井正五郎の同僚で考古学の調査に携わった。

 

<注31

■東洋大学井上円了記念学術センター編『井上円了、妖怪学全集』柏書房第6巻、解説477頁によれば、休会理由は「余久しく病床にありて、その事務を斡旋することあたわざるに至り、ついに休会することとなれり」とあるように、井上円了の病気がその理由であった。その後明治2611月に迷信打破を目的として設立された「妖怪学研究会」に発展していった。なお「妖怪学研究会規則」は『妖怪学雑誌』(明治33410日に第1号発行され、明治34425日に第26号をもって休刊となった)の創刊号に載っている。

 

<注32

■佐藤能丸著『明治ナショナリズムの研究――政教社の成立とその周辺――』(芙蓉書房出版1998年刊)参照。

■ナショナリズム(民族主義・国粋主義)

日本において「わが祖国」という民族意識を持つようになったのは、少なくとも自由民権運動が沈静化していく明治20年以降のことであるとされている。

図式的に見れば、幕末期の「尊皇攘夷」というナショナリズムの萌芽があった―→明治10年代の自由民権運動の「民権論」「国権論」を掲げた政治運動が起こった―→明治20年代に真の意味でのナショナリズムが育った、という経緯を辿った。

この時期に政府の欧化主義・外交政策などに反対して、国粋主義的文化団体(→「日本主義」を唱導した)として政教社(1888年)が創立されたが、この頃が日本においてナショナリズムが定着した時期といえる。

 

<注33

■東洋大学井上円了記念学術センター編『妖怪学講義緒言』柏書房の記載による。

井上の研究の目標は「仮怪を払い真怪を開くこと」(前著8頁)で迷信の打破にあった。

■平野威馬雄編著『井上円了妖怪学講義』(リブロポート1983年刊)260頁によれば、平野威馬雄は「円了の幽霊追及は辛辣だが、しょせん幽霊でないものを幽霊だと思い込んでいる例ばかり選んで“だから、幽霊なんかいないんだ”と結論するようなものだ・・・彼がお化けが出る話を聞くと、どんなに遠くへでも出かけて行って、調べ歩いた超人的な精力と科学的態度には敬服する」と述べている。

 

<注34

■佐藤達哉・溝口元編著『通史、日本の心理学』(北大路書房1997年刊)128頁では井上と仏教の関係が述べられている。――井上の妖怪研究は、社会的には「お化け博士」の異名をとったものの、仏教の再生と日本の近代化がねらいであった。西欧の合理主義の思想に最も合致するのが仏教であり、逆に西欧の合理主義から仏教を再生させようと考えたのである。そして、そのためには仏教から妖怪や迷信を取り除く必要があるとし、「さらに日本の近代化のために妖怪の本質を解明し、迷信をなくすことを自分の使命と考えた」という――

 

<注35

■財団法人民俗学研究所編『民俗学辞典』(東京堂出版1951年刊)654頁~655頁参照。

一般には妖怪とは、象徴的な現象を説明しようとした人間の精神性が生み出したものとされ、幽霊はあくまでも具象的に「特定の死」を規定して創造又は錯覚として認知された現象であるという。妖怪は自然畏怖というアニミズムにも直結しているため、世界中に昔からあるが、幽霊発生は特定の宗教の発生と人間社会のある程度の発達以降に成立したものとされている。

 

<注36

■東洋大学井上円了記念学術センター編『井上円了、妖怪学全集』第6巻柏書房、解説459

頁参照。

 

<注37

■妖怪と言われるものには次のようなものがある。

◆自然現象、生体現象、実在の動植物を誤認し意志の有る超常的生物としたもの――カマイタチ、カッパ、ヒダルガミ、小豆洗い、ぬりかべなど。

◆本来は神として崇拝されたものが、その後「たたるもの」として破棄されたもの――土蜘蛛、鬼、天狗など。

◆実際の生物の奇形、珍しい生き物等が、人間の想像力によって超常生物と誤認されたもの――人魚、一つ目小僧など。

◆仏教説話等から起草されたもの――餓鬼、修羅など。

◆古道具等の存続信仰や言霊信仰等から発生したもの――百鬼夜行、唐傘おばけなど。

◆地域家系等の繁栄衰退を超常現象の関与として位置づけられたもの――おしらさま、座敷童、クダギツネ、犬神など。

◆無念の死を遂げた人間の怨霊が転訛したもの――平家かに、うみぼうずなど。

 

<注38

■江馬務著『日本妖怪変化史』(中公文庫2004年刊、改訂版)解説168頁~参照。

解説者の香川雅信によれば「井上のいう“妖怪”とは、前近代的な思考に支えられた“迷信”全般を指すもの」であった。「近代以前において“怪しい存在”、つまり現在の“妖怪”にあたるものはもっぱら“化物(ばけもの)”と呼ばれていた・・・“怪しいモノ”を指す言葉として“妖怪”が人口に膾炙(かいしゃ)し始めたのは、井上円了の妖怪学の影響と見るべき」であるという。

 

<注39

■佐原真著『魏志倭人伝の考古学』(岩波現代文庫2003年刊)97頁~109頁参照。

日本では明治期の文明開化までは「食用・乳用の家畜をほとんど持たなかった」という。後述の下田に滞在したハリスとの問答からも分かる。明治初期、西洋の文物を取り入れることが奨励されて、牛肉を食べることが文明開化の象徴とされた。

佐原真著『魏志倭人伝の考古学』によれば、日本の家畜史からは、弥生時代にブタやニワトリを飼ったものの、平安時代頃からブタが家畜から消えて、ニワトリも江戸時代の元禄の頃までは、食用の対象ではなかったという。魏志倭人伝の記載には、当時の社会では「牛馬無し」とされているが、この記述は正しいという。

■アルペール神父・井上郁二共訳『聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄、下』岩波文庫1949年刊、46頁(書翰第27)。

1549年に来日した聖フランシスコ・デ・ザビエルは、「1549115日付ゴア全会友あての書翰」の中で、当時の日本の食生活に関して次のように記している。

――神は私達を、贅沢の出来ない国に導き入れることによって、私達にこんなに大切な恵みをお施しになった。即ち、私達が肉体に与えようと望んでも、この土地では、こんな贅沢は出来ないのである。日本人は自分等が飼う家畜を屠殺することもせず、また、食べもしない。彼らは時々魚を食膳に供し、米や麦を食べるがそれも少量である。但し彼らが食べる草(野菜)は豊富にあり、また僅かではあるが、いろいろな果物もある。それでいて、この土地の人は、不思議なほどの達者な身体を持っており、稀に高齢に達する者も、多数いる。したがって、たとえ口腹が満足しなくとも、私達の体質は、僅少な食物によって、いかに健康を保つことが出来るものであるかは、日本人に明らかに顕われている――

■ハリス著、坂田精一訳『日本滞在記』岩波文庫1953年刊

18569月、日米修好条約を締結するため下田に滞在したタウンゼント・ハリスは、外交官の特権を振りかざして幕府に本国並みの生活水準の保証を要求した。ハリスは通訳の森山多吉郎と次のような問答をしている。

――このほど当所勤番の者へ、牛乳の儀申し立てられ候趣をもって、奉行へ申聞け候ところ、右牛乳は、国民一切食用致さず、殊に牛は土民ども耕運、そのほか山野多き土地柄故、運送のため飼いおき候のみにて、別段蕃殖いたし候儀更にこれなく、稀に子牛生まれ候儀これあり候ても、乳汁は全く子牛に与え、子牛を重に生育いたし候こと故、牛乳を給し候儀一切相成りがたく候間、断りにおよび候――(鯖田豊之著『肉食の思想』中公新書1966年刊、21頁から孫引き)。

 

<注40

■平野威馬雄編著『井上円了妖怪学講義』(リブロポート1983年刊)6頁参照。

当時の「こっくりさん」は三本の竹などを三脚のような形で結んで、その上に板(当時は米びつの蓋が利用された)をのせた。そして蓋の上に手を置いて「こっくりさん」を呼び出して質問を発する。その質問に対する回答は装置の動き具合(右はイエス、左はノーという具合に)によって判断するという。テーブル・ターニングの場合も参加者がテーブルに手を置く。しかし誰もテーブルを動かしていないのに、自然にテーブルが動くので、その動きによって霊との「会話」ができるという。この形式と「こっくりさん」は似ている。

 

<注41

■平野威馬雄著『井上円了妖怪学講義』(リブロポート1983年刊)7頁~8頁参照。

 

<注42

■一柳廣孝著『こっくりさんと千里眼』(講談社選書メチエ1994年刊)21頁参照。

 

<注43

■マイケル・ファラデーは、1853年に「テーブル・トーキング現象の仕組は参加者の無意識による筋肉の振動」であるとした報告書をロンドンの『タイムズ』紙に投稿した。ファラデーによると「板は参加者の無意識の筋肉の震えに反応しているだけであり、参加者が不注意に機械的圧力を加えたに過ぎないので、そこに神秘はない、霊の力など働いていない」と述べた。このファラデーの結論は、その後の心霊現象批判者に批判の鍵を与えた。

ロバート・ヘアー(ペンシルヴェニア大学の化学の名誉教授)は当初「マイケル・ファラデーの説(→テーブルが動くのは、無意識の筋肉の震えに反応しているのであり、参加者が不注意に機械的圧力を加えたに過ぎないとして、そこには霊の力など働いていないと述べた説)を読んでそれで十分だと思った」。しかし「テーブル現象を実際に目撃して、その説では解決にならないと判断」して、自分で装置を考案して自ら実験を行ったという――ウォーレス著『心霊と進化と』(潮文社1985年刊)98頁参照。

 

<注44

■粕川章著「狐狗狸さんは物理的現象か」:『心霊研究』19474月号所収。

 

<注45

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、5巻』(潮文社)175頁に「私(シルバーバーチ)も霊の力で見ています。私にはあなたの霊が見えるし肉体も見えます。しかし肉体は影にすぎません。光源は霊です」とある。さらに近藤千雄訳『シルバーバーチ最後の啓示』(ハート出版)192頁に「私は今あなたという人物を見ておりますが、あなたの肉体は見えておりません。霊媒(バーバネル)の目で見れば見えるでしょうけど。・・・あなたの肉体は薄ぼんやりとしか見えません」とある。

■立花隆著『証言・臨死体験』(文春文庫2001年刊)129頁以下参照。

世界的に有名な彗星探索家の木内鶴彦は「上腸間膜動脈性十二指腸閉塞」で死線をさまよった時に臨死体験をしている。立花のインタビューの中に興味深い記事がある。「(木内は)あれ、おれ、いま心臓が止まったぞ。息もしていないぞと思いました」「しかしぼくの意識は変わりなく続いていました。そしてその意識が体から抜け出していくのです。ベットの上に横たわった体から意識だけが起き上がって体から離れていくのですね。目は見えているのです」「ぼくは親父のところに近づいて行って、おれは生きているよと言うのですが、親父の耳には聞こえていない・・・(親父の)耳元に近づいたら、親父の中に入ってしまったんですね」「親父の体の中から親父の目線で外を見ているんです。ベットの上の自分の体も、親父の目線で見ている。目線だけです」(137頁~138頁)。

この場合の「親父の目線で見ている」という箇所を「霊媒のT夫人またはN夫人の物的視力を通して見ている」に置き替えれば、浅野家を覗き見して「モナカガタベタイ」と綴った地縛霊または低級霊の行動が見えてくる。

■臨死体験者の視力

死んで肉体を失った地縛霊は、いまだ死を自覚せずに肉体があると思い込んでいるため(→身は霊的世界にありながらも、意識はいまだに物質の世界に存在していると思い込んでいる)、失った肉体の物的視力でモノを見ようとする。死の自覚がないということは、物的な意識から霊的な意識への切り替えができていない状態なので、この場合は霊的視力は開いていない。そのため周りの霊的世界が見えず、物的視力もないため、一般に交霊会に出てきた地縛霊は「真っ暗な中にいる」と、自分の置かれた状況を述べることが多い。その地縛霊も死の自覚を持てば、意識の切り替えが完了するので、霊的視力が開いて周りにいる近親者の霊の存在も認識できることになる。

臨死体験者はいまだ死んでいないため、肉体と霊的身体との間はシルバーコードで繋がっている。臨死体験者の意識は自分の肉体と分離しており、一般に空中に浮揚した状態にあるため、周りの病室の状況が見える。このことの意味するものは睡眠中の体験と同様に、臨死体験者は肉体の視力ではなく、一時的に霊的視力が開かれて、その霊的視力で病室を見ているのではないかと推察できる。そのため物的視力では見えないような角度にあるモノが見える(感じ取れる)とか、すでに死んでいる近親者の霊と出会って、その霊的身体を認めて話を交わすといったことができるのではないかと思われる。

彗星探索家の木内鶴彦が親父の目線で外を見たという状況は、それまで一時的に霊的視力で見ていた段階から物的視力に切り替わったことを意味している。ポイントは臨死体験者はいまだシルバーコードで肉体と霊的身体とが繋がっていると言うことであり、これに対して地縛霊は両者が切断されている、この違いにあると筆者は理解している。

 

<注46

■板谷樹・宮澤虎雄著『心霊科学入門』(日本心霊科学協会1973年刊)103頁参照。

 

<注47

WS・モーゼス著、近藤千雄訳『霊訓』上(スピリチュアリズム普及会)16頁参照。

 

<注48

■田中千代松著『霊の世界』(日本心霊科学協会1978年刊)9頁参照。

 

<注49

一柳廣孝著『催眠術の日本近代』(青弓社1997年刊)12頁参照。

 

<注50

一柳廣孝著『催眠術の日本近代』(青弓社1997年刊)44頁参照。

 

<注51

■一柳廣孝著『催眠術の日本近代』(青弓社1997年刊)18頁~参照。

一柳廣孝は、明治195月号の『東洋学芸雑誌』の雑報欄の記事から、「催眠術が“随分教育ある人”からも超自然的な現象とみられていたこと、メスメリズムと催眠術が峻別されていなかったこと」(21頁)を述べている。

 

<注52

■一柳廣孝著『催眠術の日本近代』(青弓社1997年刊)104頁以下、参照。

■中沢信午著『超心理学者、福来友吉の生涯』(大陸書房1986年刊)53頁以下参照。

福来の論文「催眠の心理学的研究」は学位取得論文となった。東京大学に残る履歴書には「明治377月催眠ノ心理学的研究ト題スル論文ヲ東京帝国大学文科大学ニ提出」との記載が残っているという。

 

<注53

■沖野岩三郎著『迷信の話』(恒星社厚生閣1969年刊)59頁以下、参照。

浜口熊獄は「講義録を発行してそれを全部買った者には、心霊学士の称号を授けたので、この無学な野人から心霊学士のデグリイをもらった者が全国に数千名あった。その学士連中が民間療法を行っているうちに、いつしか彼らは催眠術と心霊学とを結びつけるようになった。浜口熊獄も後には自分の気合い術を催眠術だというようにもなった」という。

 

<注54

■竹内洋著『立身出世主義』(世界思想社2005年刊)132頁以下参照。

――独学メディアつまり通信教育そのものは日本では非常に早くあらわれた。天野郁夫によれば、明治18年(1885年)の英吉利法律学校(中央大学の前身)の教科書が講義録の嚆矢である。正規の学生だけでなく遠隔の地にいる「在外員」の教材になった。以後私立専門学校の講義録による通信教育が盛んになる。――

催眠術を教える団体も、「講義録を使った通信教育という仕組み」を取り入れて活発に活動を行っていた。

 

<注55

■井村宏次著「清水英範と霊術家の時代」:『オカルト・ムーヴメント』(創林社1986年刊)140頁以下参照。

なお本稿の「催眠術」の項目では、上記の他に井村宏次の著書『霊術家の饗宴』(心交社1984年刊)を参照した。「霊術家」という用語は用いる人によって定義が異なるが、一般には「霊的な技を行う霊能者や祈祷師などを指す」場合が多い。

本稿では、主に霊術家の生体磁気エネルギーを使って病気治しをする療法家を「霊術家」と呼んでいる。

 

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