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皇道大本時代(大正期)

目 的

 

①.大本教団

ア)開祖と聖師

イ)教団名と機関誌

・長澤雄楯から本田霊学と鎮魂帰神を学ぶ

・「金光教会の一支部」から「金明霊学会」へ

・「金明霊学会」→「大日本修斎会」→「皇道大本」へ

・「文書宣教」による布教体制へ

ウ)大本の大正維新

・大正維新は神性復古

・大正維新とは何か

 

②.浅野和三郎の大本時代の心霊観

ア)大本時代の心霊観

イ)日本国の位置づけ

・平田篤胤(復古神道)の日本国の位置づけ

・浅野の日本国の位置づけ

ウ)「大本の教理は国民的道徳」とする考え

・大本の位置づけ

・浅野の理解は

エ)地上天国

・地上の高天原

・神人合一

オ)神観

・大本時代の神観

・大本時代の「守護神」

カ)鎮魂帰神

・大本時代の考え方

・鎮魂帰神と審神者

・霊魂研究の実験場

キ)龍神遠祖説

・浅野の見解

・スピリチュアリズムの見解

 

③.出口なおの筆先

ア)さまざまな筆先

・特徴的な筆先

・戦争に関する予言の筆先

・立替時期の筆先

・全体に強要さが感じられる筆先

・排外主義的傾向を帯びた筆先

・天皇制との関係で問題になりそうな筆先

・潜在意識の混入が考えられる筆先

イ)筆先の検討

ウ)モーゼスの霊訓との比較

エ)予知・予言について

 

<注1>~<注26

 

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①.大本教団

ア)開祖と聖師

教派神道系の宗教教団の大本は、出口なお(1837年→1918年、開祖)と出口王仁三郎(出口なおの娘婿で旧姓は上田喜三郎:1871年→1948年、聖師)を二大教祖として仰いでいる。大本の教義は出口なおの「筆先(→全文ひらがなで書かれているため、漢字を交えた分かりやすくした文章を“大本神諭”と呼んでいる)」と、出口王仁三郎の「霊界物語」からなっている。

大本では明治25年(1892年)に始まった出口なおの「帰神(→“うしとらのこんじん”の憑依)」をもって、その開教としている。最初は「金光教会の一支部」として出発したが、明治31年(1898年)頃から、金光教を離れて独自の活動を行うようになった。「明治32年に上田喜三郎(→のちの出口王仁三郎のこと)の大本入りによって、金明霊学会の名のもとに、小さいながらも一教団としての歩みを始めた」(注1)。

 

イ)教団名と機関誌

☆長澤雄楯から本田霊学と鎮魂帰神を学ぶ

大本が発行した『大本七十年史』を基にして、浅野が入神した頃までの教団の名称と機関誌の変遷過程をたどってみる。

上田喜三郎は亀岡近郊の穴太村(現: 亀岡市 曽我部町穴太) の小作 上田吉松の子として生まれた。生活苦の中で地主や権力者の横暴に憤り、 権力への反抗心を燃やしたという。 明治31年1898年)27歳の時に村はずれの高熊山にこもって修行をして神秘体験をしたことが、宗教者としての道を歩むきっかけとなった。

 

上田喜三郎は明治314月に静岡県清水の稲荷講社本部に赴いて、講社の総理で神職を兼ねた長澤雄楯から、本田霊学と鎮魂帰神法の行法を学んだ。そして地元に帰って信者を集めて集会を開いたが、警察から京都府の認可を正式に受けていないために布教は許されないとして、たびたび干渉を受けた(注2)。

 

☆「金光教会の一支部」から「金明霊学会」へ

明治32年(1899年)に7月に上田喜三郎は“大本”に加わった。当時“金光教会の一支部”という形体で活動をしていた“大本”は、同年7月に教会の名称を「艮の金神の金の字」と「日の大神、月の大神の日月」を合わせた「金明会」としたが、同年81日に稲荷講社の許可を得て組織名を「金明霊学会」と改めた。なお明治35年(1902年)当時の「金明霊学会」の役員と信者を合わせた総数は236人であった。明治39年に王仁三郎は一時綾部を去って京都の「皇典講究分所(→1882年創立。1946年に神社本庁に吸収された)の国史・国文科」に入学して、卒業後の明治404月に神職の資格をとった。

 

☆「金明霊学会」→「大日本修斎会」→「皇道大本」へ

明治41年(1908年)8月に王仁三郎は、教団名を「金明霊学会」から「大日本修斎会」に改めて、組織を再編成した。この頃の大本は少数の幹部が細々と活動を続けているだけの逼塞状態にあったが、王仁三郎は明治419月に布教部隊の「直霊軍」を結成して活発な全国布教を行った。ちなみにこの頃の信者数は1000人前後であり、綾部のローカル教団にすぎなかった。

 

その後大正27月に「大本教(たいほんきょう)」と改めた。この時初めて規則の上で「大本」という名称が使われた(→依然として「大日本修斎会」の名称も使われていたが)。大正54月に教団名を「皇道大本」に変更し、大正1010月に「大本」となった。その後昭和81月に再び「皇道大本」に戻った。

ジャーナリストの早瀬圭一は自身の著書『大本襲撃』(毎日新聞社)の中で、「興味深いことに、大本が皇道大本を名乗った時に二度の弾圧を受けている」と指摘している。大正102月の「第一次大本事件」の際も、昭和1012月の「第二次大本事件」の際も、「大本」の正式名称は「皇道大本」であった。

 

昭和55年(1980年)から平成2年(1990年)にかけて宗教法人大本は、三代目教主・出口直日(1902年→1990年)の後継者の座をめぐって出口一族の間で内紛が起きた。内紛の結果、出口直日の三女・聖子(死去後は出口紅が教主)が教主となった「大本(→教祖は出口なおと出口王仁三郎:出版社は天声社:実力者は直日の長男の出口京太郎)」。出口直日の長女・出口直美が教主となった「大本信徒連合会(→出版社は愛善世界社:実力者は直美の夫の出口栄二)」。そして「愛善苑(→教祖は出口王仁三郎:教主を置かない:出版社はみいづ舎:実力者は王仁三郎の孫の出口和明)」の三つに分裂した。

 

教団名の変遷をまとめると「金光教会の一支部」→「金明会」→「金明霊学会」→「大日本修斎会」→「大本教(たいほんきょう)」→「皇道大本」→「大本」→「皇道大本」→「愛善苑」(昭和212月)→「大本愛善苑」(昭和2410月)→「宗教法人、大本」(昭和274月)→分裂(大本、大本信徒連合会、愛善苑)。

 

☆「文書宣教」による布教体制へ

印刷出版に積極的に力を注いだ王仁三郎は、当時としては画期的な方式である「文書宣教」による布教体制を作り上げた。明治419月に教団最初の機関誌『本教講習』(月刊誌)を発行したが、4回発行しただけでその年の12月に廃刊となった。翌年(明治42年)2月に『直霊軍』(毎月115日発行)を創刊したが、一時中断があり最終的に明治4312月に15号まで発行されて廃刊となった。その後大正38月に機関誌『敷島新報』を創刊した。大正61月に『敷島新報』と『このみち(大正54月創刊)』は合併して『神霊界』と改題された。

この『神霊界』の主筆兼編集長に、前年の12月に海軍機関学校を退職して綾部に移転してきた浅野が就いた。浅野が中心となって編集された『神霊界』は、毎号紙面の2~3割程度を使って「神諭」を掲載して、「世の立替え立直し」を訴えた。

 

評論家の小田光雄は、浅野和三郎の出版・編集・翻訳等に携わってきた経歴に注目して、浅野はいわば「出版のプロ」であると述べている。その「出版のプロ」と大本教が結びつくことによって、この時に出版と新聞も含めた「宗教プロパガンダの原型が形成された」と小田は指摘している。さらに「出版のプロ」と大本が結びついた結果、『神霊界』の発行部数は大正6年創刊号の1000部から大正10年には11,000部へと、信者数も大正初年の1,000人から大正8年の25,000人、そして大正10年には30万人へと大幅に教勢を拡大した。

当時の大本の関連書籍は、主として大日本修斎会や東京の出版社である龍吟社から刊行されていた。小田はこのような大本の「宣教方式」はさまざまな宗教において、現在に至るまで継承されてきたと述べている(注3)。

 

ウ)大本の大正維新

☆大正維新は神性復古

大正時代は資本主義の著しい進展に伴って、多くの労働者が作り出されて労働運動が高揚し、民主主義や自由主義の風潮が顕著となった時期であった。これは大正8年(1919年)に労働争議件数や労働組合結成数が最高に達したことや、インフレによる物価高騰の影響から相次ぐ米騒動の発生、農民運動の活発化などからも読み取れる。このような社会不安を背景として国粋主義的な主張が、「大正維新」という形で頭角を現してきた。この言葉は右翼からは政治的な主張として、宗教からは神性復古という形で唱えられた。

 

☆大正維新とは何か

大正5年から6年頃のロシア革命の影響を受けて、主に国粋主義的なグループの玄洋社・黒龍会に影響を受けた論客から、日本は「第二維新」を断行して社会変革を行わなければならないという民族主義的な主張、思想的には「反資本主義・反共産主義」的な特徴を有した主張、いわゆる「大正維新」が唱えられた。

これに対して出口王仁三郎が唱えた「大正維新」(注4)とは、右翼の論客が唱えた主張とはやや異なっており、明治維新を王政復古であると位置づけて「大正維新こそ神意による神政復古」であるとした、宗教的な内容を伴った主張であった。浅野は王仁三郎の主張に沿って、終末論的な大本の「立替え立直し」の主張である「大正維新」を喧伝したが、それは以下(AE)のような事項を含む内容の主張であった。

 

A.世界大家族制度の実施実行

皇道大本の根本目的は「世界大家族制度の実施実行」にあった。「まず我が国において国家家族制度を実施し、もって其の好成績を世界万国に示して其の範を垂れ、治国安民の経綸を普及して地球を統一し、万世一系の国体の精華と皇基を発揚し、世界各国威其徳を一にするが皇道大本の根本目的であって、大正維新、神政復古の方針」(注4)であると。

王仁三郎には大本で起こったことは日本にも起こるという、「大本から日本へ、日本から世界へ」という「雛型」または「型」の考え方があった。「世界大家族制度の実施実行」は日本から世界への一つの事例であった。

 

B.国家の財政経済の根本的な改革改正

世界平和の基礎となる国家家族制度を実施するにあたっては、「筆先」からも分かるように財政経済を根本から改革改正することが第一義であるとされた。「金銀為本の国家経済が、国家の存立的競争と人生の不安不平を醸成する禍因となっていることは、動かすべからざるもの」であるとして、この「金銀本位制度」は国運の発展を妨害するものとしている。

また「経理救済の運用」を円滑に行うことは、国家経済の本義であり、利己的欲望を満足させるようなことは、経済の本義から逸脱したものであると述べている。

なお銀本位制度を採用していた国は、19世紀後半には中国を除いて全て金本位制度に移行した。金本位制度(金地金本位制度、金為替本位制度)は、19世紀末には中国を除くほとんどの国が採用した制度だが、大恐慌(1931年→1936年)を経てアメリカを除くすべての国は、管理通貨制度に移行した。日本の金本位制度の採用は1897年で、1931年に離脱(金輸出禁止)している。

 

C.天産物自給論

服装の問題について、「国民が競って使用せる洋帽に洋服に洋傘に洋靴の如きは、実に非文明的野蛮を標榜したる獣的蛮装である。その材料として貴重とされているものほど、残忍無道を敢行せる産物」であるとして、これらの「蛮的獣装」を禁止すること。さらに「唐制遺風の衣冠束帯」や「不便極まる衣袂的服装」は禁止。「神聖なる神州神民の服装は、根本覚醒の暁において発表」するとしている。

また食料問題については「西洋野蛮人種の真似をして、みだりに動物を屠殺して食料に供給するのは、神聖なる皇典に垂示し玉へる天理人道に違反する悪魔の行為」として、肉食の禁止を述べている。この主張は時代を先取りしている。

住宅問題(「天産自給の国民住宅」)については「宏大なる邸宅は土毛を妨害し、珍奇贅沢なる結構は亡国の素因を醸成するもの」として、天産自給の天則に違反するとしている。国民住宅は「各人その家族の多寡に応じて造ること、気候風土に適すべきこと、その職務に適すべきこと」としている。

 

D.租税制度の撤廃

租税制度の完全撤廃を主張している。撤廃後の国家の税制に関しては「万世一系の御国体なればこそ、(調貢の制度が)遂行し得る事柄であって、しばしば革命のある短命的な世界各国君主の到底企及すべからざることである」。このように各国からの調貢制度を挙げているが、はたして各国が納得するであろうか。

 

E.経済制度

日本の天皇は「先天的に世界の大元首」であり「世界の国土及び財産の所有権」を有しているとして、大正維新後の経済・社会的制度を次のように述べている。

箇条書きに羅列すれば次のようになる。

・国民の一般的男女の職業を制定すること

・産業は国家経綸の目的に因って国民共同的に従事すること

・産業的国民の収入は全部挙げて国庫の収入たるべきこと

・貿易は国家事業として国際的に行われるべきこと

・国民住宅の全部は職業、家族及び家庭に応じ、幸福の実現を目的として供給されること

・全国の交通機関は、必要に応じて全国民無料にて乗用に供されること

・神聖後の議会は神聖なる朝廷会議となす

 

大本はこれで本当に国を動かせると思ったのだろうか。また「貨幣制度、租税制度を根本廃絶する」ことは理想論としても、現実問題として租税制度を廃止して国家が動くのだろうか。大正維新の第一歩は「日本臣民の私有財産全部の奉還に始まる」としているが、この部分は私有財産制を否定して共有財産制度の導入を主張した共産主義思想と似ている。

上記からも分る通り大本の「大正維新の主張」は、宗教的理想論と現実問題との乖離が大きすぎる。大本入信以前は実証主義・現実主義で懐疑論者の浅野であっが、入信後はこれらADの主張を本当に信じて声高に「大正維新」を唱えていた。そのため筆者はこの時期の浅野は、独善性や排他性が殊更に強調された宗教者そのものであったと断定した。

 

②.浅野和三郎の大本時代の心霊観

ア)大本時代の心霊観

出口王仁三郎は、明治31年に静岡県清水の稲荷講社総本部の総長の長澤雄楯を訪ねて、そこで本田霊学を学び、さらに明治39年(1906年)9月に、京都の皇典講究所に入って神道を学んでいる。これらが基礎になって王仁三郎は大本霊学を打ち立てた。大正5年の春以降、王仁三郎から大本霊学を学んだ浅野の思想には、当然に復古神道色が強く出ている。

この時期の浅野の「心霊観」は、大本的な用語や復古神道的な用語、習合神道的な用語を用いた独特な表現となっている。そのためスピリチュアリズムの観点に立って、この時期の浅野の心霊観を見る場合には注意を要する。

 

イ)日本国の位置づけ

☆平田篤胤(復古神道)の日本国の位置づけ

復古神道では、伊耶那岐(いざなぎ)と伊耶那美(いざなみ)が天の浮橋に立って、最初に作ったオノゴロ島に天之御柱(あまのみはしら)を立てた。そして淡路島、二名島、隠岐の三子島等の大八島国である日本を作ったとされる。このように神が直接生み出した国が日本であり、国土そのものがすでに神体であり日本人は創造神直系の分霊である。神の直系の子孫が万世一系の「国の支柱」になっている国は、世界の中で日本しかない。その証拠として日本にはあらゆる「ヒ(霊)」を統括する天照大神直系の天皇が存在する。それゆえに日本的霊性は世界の規範として、世界を導く使命を帯びていると主張する。

 

平田篤胤は、このオノゴロ島を核として生み出された日本こそ世界の中心(大地の元本)と説き、日本を「元本」とすれば、外国は「枝の国」と力説した。

この「元本」や「枝の国」であるとする思想は、「すべての古代文明の発祥、陰陽五行思想の源泉、世界の人類の発祥地、一切の霊的秘儀・秘法の源泉、ピラミット文明のルーツなどは日本にある」という諸家のオカルト的思想の源泉となった。

 

☆浅野の日本国の位置づけ

浅野が雑誌『神霊界』(大正72月号)に掲載した「皇道大本の真相」(注5)には、復古神道と筆先からの影響が強く表れている。この中で浅野は「大本では、日本は世界を統治すべき神国、世界は我皇上によりて近く統一されるべきものと教える」と。なぜなら日本の皇室には天照大御神(あまてらすおおみかみ)の霊統が伝わっており、天皇は天賦(→天から授かった生得のもの)の霊徳を備えている大君であるから、という立場に立っている。

この主張は、復古神道が日本を神の国(“日(霊)の元つ国”=ひのもとつくに)と規定して、霊的にも地理的に見ても「日本は世界の臍(=へそ)である」として、世界の中心(霊的中枢)であると位置付けていることと共通する。

 

のちに「神霊主義者・浅野和三郎」として述べた文章にも、復古神道的な色彩が強く見受けられる。たとえば「日本の国体は悠遠の太古における神聖なる約束事」であり「天孫の降臨、日本国体の樹立は、断じて地上の物質界の出来事ではなく、遠く人類発生以前に起こった幽的事実」である、このように日本の国体の特殊性を述べた。そして天孫降臨や日本国体の樹立にからめて、「心霊科学者のいわゆる自我の本体・・・その御分霊の地の世界に天降られたのが取りも直さず一系連綿たる日本の皇統に座す」と。さらに「何故に地球の表面に日本のような国体が他に唯の一つも成立していないかは心霊家にははなはだ簡単明瞭に判っている」として、「何れの民族の背後にも皇孫命のような力徳無双の大守護神が控えていないのである。この点において日本は、世界の民族の中でたしかに名誉の孤立を守っている訳である」(注6)と。このように浅野は、復古神道の世界観と同趣旨のことを述べている。当時の社会の主たる思想である国体論との間で、整合性を付けながらスピリチュアリズムを普及させなければならなかった時代背景が存在しているが。

 

ウ)「大本の教理は国民的道徳」とする考え

☆大本の位置づけ

大本教団は大正8年(1919年)225日から31日にかけて、京都府警の取り調べ(第一回調査)を受けた。その際に警察の「皇道大本は宗教なりや」との質問に対して、出口王仁三郎は「皇道とは統一の道にして、その内容は政治、宗教、教育、実業、文芸、天文地文学の根本を解説するものでありますから、現今に於ける宗教とは相異なっております。現今の所謂宗教に属するは、その範囲が狭くなって、皇道即ち神勅、政治、教育等を説くことができませんから、教祖も自分もこれを宗教とすることは好みません」(注7)と述べている。

 

王仁三郎の中には、大本をあまたある諸宗教の上に君臨するもの、神社神道に対峙する「超宗教的なもの」との考え方があったようだ。神社神道(国家神道)は、日本文化の中に有する風習(=神道精神)であり、いわば公共的なものであって「宗教ではなく国民道徳的なもの」(大石義雄)とする解釈を、王仁三郎は大本にもあてはめたことになる。この考え方はのちの大本事件の呼び水ともなった「危険思想」であった。宗教思想といえども国体思想に反する主張は許されず、大本は権力の監視対象組織となった。

 

☆浅野の理解は

浅野も大本時代に、皇道大本は宗教団体ではなく神道精神そのものを普及する団体であって、大本教の教理」は「復古神道」と同義であり、これは当然に「国民的道徳」であって「神社神道・国家神道」の教えと同一であるとして、「超宗教的」または「公共宗教」的な理解をしていた

浅野の自伝『出盧』の記載によれば、「皇道大本の沿革教義等を略説せる文章」をしたためて、従来文芸作品や評論をたびたび掲載してくれた新聞や雑誌に原稿を持ち込んだが軒並み敬遠されたという。「皇道大本は宗教ではない。わが古神道の復活である。人倫、道徳、政治、宗教、その他一切の大根源である」と力説してもマトモニ相手にされなかったと記している(注8)。一般に宗教、神、信仰等の記事は誌面に色が付くことを恐れて、多くの場合編集段階で自己規制がかかるので極めて当然のことであろう。浅野の強い信念は「宗教者ゆえに」世間とズレがあった。王仁三郎も浅野も明治憲法が保障している「思想信教の自由」は法令の制限内の権利であり、国体に反する思想は政治であれ宗教であれ、如何なる主張であっても許されないとする国家権力に対して、認識の甘さがあったのではないだろうか。

 

エ)地上天国

☆地上の高天原

大本では指導の中心に「神諭(筆先のこと)」をおいて「活きた経典」としている。この時期の浅野は宗教者ゆえに、大本の教義を中心に据えた独特な考え方をしている。これは「地上の高天原」に現れている。

浅野は「大正維新により神人合一の時代になるので、この大本には天地経綸の神々が集まり、これらの神々といっしょに霊的因縁のある神がかりすべき人間も集まってくるので、この綾部が地上の高天原である」。そして京都の「綾部には、神と人との中央政府が組織され、皇道大本の開祖を中心とした祭祀と政務との大中心地点となる」(注9)と。

 

浅野は「神諭(筆先)」に絶対の信頼を寄せて、声高に大正維新の終末論を唱えた。「神論」における予言の的中率が高いことに関して、浅野は次のような根拠を挙げている(→浅野が『出盧』や雑誌『神霊界』に掲載した記事をまとめた)。

現界において国祖(国常立尊)の霊統を継承されて生まれてきたのが、大本教開祖の出口なおであり、この開祖に国常立尊が神がかりをして、今日まで連日神諭を出してきた。そのため神諭(筆先)の預言警告等は一から十までことごとく的中して実現している。これは天照大神(あまてらすおおみかみ)から天地経綸の全責任を付託された国常立尊が、その予定計画の一端を漏らされているのであるから的中するのは当然のことであると。

 

浅野は出口王仁三郎については、国常立尊の補佐役が豊雲野尊(とよくものみこと)であり、その霊統を継承した人が教主出口王仁三郎であり、20年前に綾部に引き寄せられて、鎮魂帰神法・言霊学等の大成に心血を注いで皇道大本の発展に寄与して現在に至っていると。当時の浅野には、王仁三郎が高い霊から低い霊まで心境に応じて引き付けてしまう霊媒体質者である、ということの明確な認識はなかった(→この認識が誌面から読み取れるのは、浅野が大本時代を総括した「主張と告白:その6」の文中であり、これは雑誌『心霊界』大正142月号に掲載されている)。

 

このように大本時代の浅野の「心霊」に関する理解は極めて浅いことが分かる。当時の浅野の思考方法は、自ら信じる大本の教義が唯一であり、当然のごとく大本が中心になって社会が動いていくという、宗教者特有の独善性・排他性を有した考え方をしている。ここからもこの時期の浅野は、客観的視点を持った研究者ではなく宗教者であることが分かる。

 

☆神人合一

大本時代の浅野の文章には、「神人合一」の用語がたびたび出てくる。スピリチュアリズムの観点からは「神人合一」は誤りであるが、浅野のこの時代の「神」概念は本田霊学の流れをくむ大本的解釈からきており独特である。

浅野によれば、大本では誰でも「神人合一の境地」に入ることが出来るとしている(注10)。また誰でも予知や千里眼の能力を持っているので、これらの発現のために鎮魂帰神法の指導を行っているとも述べる。

 

この点について『シルバーバーチの霊訓』によれば、「背後霊の援助なしに直接的に神との交流をもつ」ことができるとするヨガ行者がいるが、との質問に高級霊のシルバーバーチは「もしも宇宙の最高神と直接の交流がもてるとすれば、指導霊のような中間的存在は無用となるでしょう。が、そんなことが出来るかのごとき言葉を耳にすると、私は、言いたくはないのですが、“キザな霊的俗物根性”の響きを感じずにはいられません」と。さらに「交信ができるのは、各自が到達した霊性開発の熟練度に応じた範囲内のことであって、至高の極致など、とんでもありません」と答えて、「神人合一」を明確に否定している(注11)。このようにスピリチュアリズムの観点から見ると、大本霊学は霊的真理からかけ離れていることが分かる。

 

オ)神観

☆大本時代の神観

<神界と現界との関係――霊界の階層区分>

大本では顕幽の世界観について、無から有へと現象が展開するとして、その過程を「幽の幽→幽の顕→顕の幽→顕の顕」と表現している(注12)。大本時代の浅野はこの立場に立って霊界を解説しているが、この説は本田親徳や長澤雄楯の流れを引き継いだものである。

・「幽の幽」とは抽象の抽象(精神世界の精神界)であり、この世界は神の世界。

・「幽の顕」とは抽象の具体(精神世界のいわば顕現した世界のこと)であり、この世界は神の具体的世界で霊界。

・「顕の幽」とは具体の抽象(現実世界の精神界)であり、この世界は人間の精神世界。

・「顕の顕」とは具体の具体(現実世界の肉体・物質界)であり、この世界は現実世界。

 

<一霊四魂説>

浅野の大本時代や神霊主義者時代は、「人間の自我表現の機関が四大別されるように、人間の置かれる環境もやはり四大別しえるようである。すなわち物質界、幽界、霊界、神界である」(注13)と述べているように、四界説に立っている。浅野はこの立場を一霊四魂説との関連で解説している。

 

一霊四魂は“復古神道の中核理論”であり、本田親徳等によって現代的に解釈し直された。四魂とは「荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)」をいい、万物の霊を構成しているとされる魂のことであり、一霊とはこれら「四魂を統括する霊」をいう。この一霊四魂が天から下されて分霊(わけみたま)となって肉体に宿った時に、初めてヒト(=霊止)が成立するという理論が唱えられた。

 

浅野は神霊主義者時代に「心霊科学の見地から観た時に日本の四魂説は初めてその真価を発揮する」と述べて、荒魂=肉体、和魂=感情及び幽体の働き、幸魂=高等意識及び理性、奇魂=大我である述べている。これによりスピリチュアリズムの概念と四魂説とを結びつけて次のように述べた。

荒魂(あらみたま)=現界=肉体、肉体意識で欲望

和魂(にぎみたま)=幽界=幽体、幽体意識で感情

幸魂(さきみたま)=霊界=霊体、霊体意識で理念

奇魂(くしみたま)=神界=真体、本体意識で神智

 

☆大本時代の「守護神」

守護神の辞書的な意味は「国家・民族・家族・親族・個人・職業または寺院などを守護する神」とされているが、大本では独特な使い方をしている。

この時代の浅野の文章には、現在の我々が用いる言葉で表現すれば「守護霊」や「憑依霊」とすべきところ、すべて「守護神」という言葉で表現している。たとえば「妻の眼に(→霊視によって)姿を見せたのは、私の守護神であったらしい」(『出盧』158頁)とか、「他の守護神もしらべた」(『出盧』159頁)などのように現在では「守護霊」と表現すべきところを「守護神」と表現している。また「堕落した人間には低級邪悪なる動物霊が副守護神として普通憑依している」(『出盧』86頁)として、低級な人霊である「憑依霊・変化霊・想念霊など」を「副守護神」と呼び、さらに個別の「動物霊」の存在を認めている。このように現在の用例とは表現が異なるので注意を要する。

 

この時代の浅野は、霊の善なるものを「正守護神」とし、悪なるものや堕落したもの、本人の欲望に応じて憑依してくるものを「副守護神」と呼んだ。また霊の「内分」が「上方」に向かって開いて高次の霊界からの影響(→“直接内流=本体神”からの影響力が人間に直に流入することを)を受けるときは「正守護神」とし、あるいは「内分」が閉じて「外分のみ開けている」ために外部から入ってくる悪によって形作られる場合は「副守護神」と呼んだ。正守護神が悪霊に犯されずに統御しうるようになれば「本守護神」となるという。

本と正の違いは、正守護神が向上したものが本守護神であり、「本・正・副守護神」は人間の本体である霊自身の三つのあり方を表現している。このように「神」の使い方が一神教的な世界での使われ方とは異なり、独特な表現で使われていることが分かる。

 

カ)鎮魂帰神

☆大本時代の考え方

大本で教団幹部によって盛んに行われていた鎮魂帰神とは、審神者が被憑依者と対座して一定の形式を踏むことによって、被憑依者にさまざまな霊が憑依する現象(神懸り)を指した。この場合「鎮魂」と「帰神」を一連の関係にあると考えた浅野は、「鎮魂あっての帰神」と述べた。

大本時代の浅野は、鎮魂帰神の意義を「いまだ帰順せぬ守護神を呼び起こして迷夢を覚まし、改心を迫り、向かうべき方向をしめす」(注14)ことにあるとしている。

 

浅野は「鎮魂帰神に就いて」(注15)の中で、理想社会と鎮魂帰神との関係を述べている。それによると「天皇が神の代理者として絶対権力を掌握する神権政治」を理想状態とみなして、国体思想との整合性を図っている。そして皇道(=天皇の行う政道)を宇内(=天下、全世界)に普及した理想状態に至る手段として、「鎮魂帰神法や大本の神諭がある」と位置付けている。

この場合の鎮魂帰神は幽斎として行われる。形式は審神者(術者)と神主(被術者)に分かれて、神主は審神者の前に「瞑目静座し、ある方法に従って手足の指を組む」方法で、30分から40分の時間行うとしている。鎮魂から帰神に移る場合には、最初に発動するのは「副守護神」(憑依霊)であり、審神者なしでは危険であるとも述べている。

 

浅野は鎮魂帰神法とは、破邪顕正の手段であり「神と人との感応を目的」とするもの。ここでいう「神」とは広義の背後霊のことで、低級霊(地縛霊や憑依霊などの物質臭が強い低級霊)や善霊(指導霊、支配霊、守護霊等)を含んだ広い意味として使用しており、憑依霊・因縁霊を除霊等によって排除して善霊との感応道交を目的とする手段が鎮魂帰神であると述べる。また「守護神」を、「正守護神」(善霊:正神界に通じている)と「副守護神」(邪霊・堕落した霊・憑依霊等:邪神界に通じている)に分けて、鎮魂によって「副守護神」を表面に浮き上がらせて改心を迫って取り除き、「正守護神」を感応(帰神)させて人間改造を行うという。

 

☆鎮魂帰神と審神者

浅野は、日本や欧米における心霊現象はすべて守護神の働きによって起こり、その内の大部分は「副守護神」が働いて現象を起こすので、社会に害毒を流すことになると述べている。当時の浅野は社会の害毒の主な原因は憑依霊の影響であるとして、この害毒を除霊等により取り除くところに鎮魂帰神法の意義があるとする。

大本時代の浅野には、人類の霊性の低さによる利己主義と唯物主義の横行、既得権益を有する者の横暴等による「地上の悲劇」の存在、これらを解決するためには全体の霊性を向上させることによって社会を変えていく、というスピリチュアリズム的発想はないので注意を要する。

 

大本の鎮魂帰神法と他で行われている鎮魂帰神法との違いについては、大本の鎮魂帰神法は正神界から指定された審神者(さにわ)が存在することであるとして、「大本の鎮魂帰神の実践は“正神界”の直接的指定・庇護の下にあって、大本の審神者は守護神を審判する全権を委ねられている」(注15と述べている。いわば大本の「一手販売」である。

浅野によれば審神者の役目は、「いかなる守護神を発動させるかの特権を有す」「発動した守護神が実神か偽神か、その品位は上中下何れかを看破し確定する」「退却又は改心を迫る全権を掌握する」ことであるという。鎮魂帰神はひとえに「審神者の資格力量如何にある」が、審神者の任命は「神霊界主宰の大神の鎮まる綾部皇道大本」でなければならず、大本以外が任命した審神者では「鎮魂帰神法の形式のごときは容易に学び得るも、形式は末のみ。根本問題は実行者如何にある」と。他の多くの団体の鎮魂帰神法を「邪法邪術」と呼んでいる(注15。ここにも宗教者特有の独善性・排他性が強く表れている。

 

☆霊魂研究の実験場

大本にやって来た見学者の鎮魂帰神はほとんど浅野が担当(数年間に取扱った人数は1~2万人)して、「鎮魂帰神→守護神(=因縁霊)発動→改心を迫る」という流れで行っていた。その具体的方法は憑依している因縁霊を表面に浮き上がらせて発言を促し、それを聞いて霊に改心を迫る方法であった。この時期大本では大正維新の「立替え立直し」が声高に叫ばれており、鎮魂帰神が盛んに行われていた。

当時の大本は浅野にとって、「同教に集まる信者殆ど全部鎮魂帰神の熱望者ばかり・・・それを取り扱うものが、主として私なのですから、実験材料の豊富なこと天下無類」「当時としては殆ど申し分ない一つの心霊道場」(注16)であったと述べている。

 

なお第一次大本事件の警察記録には、鎮魂帰神による精神障害やその他の弊害が目立ち、当局の注目する事となったという。警察は大本の鎮魂帰神は催眠術ではないかとの疑惑をもっていたが、神道家の佐藤卿彦も述べているように(注17)、鎮魂法は精神(意識)をはっきりと持続させたうえで行うものなので、鎮魂帰神と催眠術は別物である。

浅野は初期の頃の鎮魂帰神について次のように述べている。

「全く無知識、無経験の素人の行う仕事で・・・概して突発で、乱雑でうっかりすれば発狂者でも出しかねない」「精神統一は、上手にやればこんな結構なものは滅多にないが、下手に行ったらこんな剣呑なものもまた滅多にない。現に日本国中には、今もってそれがために、どんなにも多くの精神異常者が続出しつつあることでしょう」(注18)と。

このように長年にわたり鎮魂帰神に携わってきた者としての感想を述べている。

 

浅野は長年の体験を踏まえて、「一定の方式のもとで精神統一をさせて、心身の調和と浄化を図り人間本来の姿に作り変える=鎮魂」と「調和統一された肉体を基盤として、他の霊との感応道交を図る=帰神」とを分けて、「鎮魂あっての帰神」であると主張した。現在一般に使われている鎮魂帰神はこのパターンを指している。神霊主義者時代の浅野やその後継者の脇は、鎮魂(精神統一)を「心身の浄化」によって人間本来の姿に作り替える(霊的波長を変えること)こととして、帰神の前段階とした。この流れが主流となり、浅野の後継者によって引き継がれていった。

 

キ)龍神遠祖説

☆浅野の見解

復古神道では人種のルーツとして「根源人種説」を唱えるが、浅野は大地から生まれた龍神である「龍神遠祖説」を採った。「神界と現界との関係」(注19)の中で、「人間の祖先は最初、龍體を持って大地から生まれた。龍の肉体は多大の年月を閲して人体に進化を遂げたが、その幽体は万世を閲して不変不滅に残り、依然幽界において今日も活動を続けて居る。それが即ち龍神である」と述べている。同様に雑誌『心霊と人生』にも「龍神を以て人類発生の遠祖である」や「換言すれば龍神が人類発生の母体又は遠祖であること」との記載が見られる。神霊主義者時代と大本時代とでは大差ない。

 

浅野のいう龍神とは自然霊のことであり、西洋でいうところの天使、仏教徒のもろもろの仏、如来、菩薩などはすべて龍神の仮現であるという。そしてこの自然霊(龍神・天使)が、浅野の言う所の「第二義の神」であり人間の遠祖であると述べる。

浅野によれば、「龍神とは人間受持ちの神霊」のことで、人間を生み、守護する役目をもった人間の霊的祖先であるという。龍神からの分霊の出し方は、「最初に龍がその分霊を地上の物質に宿した生物はただの虫けら」「その虫けらが多大の年月を経過するうちに、次第に複雑微妙な進化を遂げて現在のような人体をなすに至った」と、このあたりは「類別的進化論」を述べている。さらに長い時間の経過によって分霊の出し方も変化したという。胎児の体的基礎をなすものは人間の男女から分離する物的要素の精子と卵子、胎児の霊的基礎をなすのは龍神の男女から分離する超物質要素(分霊)であり、この二つの要素が具備して胎児は出来上がるという。現在では龍神は太古のように直接分霊をだすことはめったになくなり、未発達の龍神の(若い龍神)が分霊を出すのみであると述べている(注20)。

 

☆スピリチュアリズムの見解

浅野和三郎は「龍神(=天使的存在)を以て人類発生の遠祖である」「龍神が人類発生の母体又は遠祖である」と述べて、人類は龍神の“天使的存在”から生まれたと主張した。この説の欠点は、人間の「霊」と「肉体」を一緒にして論じている点にある。龍神(=天使的存在)が創ったのは人間の「物的身体」のみであって、神の一部である「霊」は当初から存在している。一般に創造説では「神は人間を創造した」として、その一行で説明が終わっているが、現実の創造行為の作業現場では、神の摂理の代行者である“天使的存在”が担当し、摂理の範囲内で意念によって物的形体を創っている。

 

ミケランジェロの有名な作品に「アダムの創造」(システィナ礼拝堂の天井壁画)がある。この絵画には、半身を起こして横たわっている“アダムの土から作られた体”に、神が右の人差し指で霊を吹き込んで命を与えている場面が描かれている。これは『旧約聖書』の「創世記2⑦」の記述を絵画に表したものであるという。

スピリチュアリズムの立場に立てば「アダムの創造」は、“天使的存在”が創った“土塊”に「神の分霊」である霊が合体(=霊的流入)する場面を象徴的に描いたものといえる。

 

③.出口なおの筆先

ア)さまざまな筆先

筆先とは自動書記現象の一種であり、大本の出口なおの「筆先=大本神諭」や天理教中山みきの「おふでさき」(→明治2年から15年にかけて親神の意思によって書いたとされる教典)がよく知られている。出口なおは明治25年(1892年)23日に激しい“神懸り(帰神)”に陥った。身体が重くなり、腹に何者かが宿った感じで端坐したまま身体が上下に揺れて我知らず大きな声がしたという。出口なおが問うと「艮(うしとら)の金神(こんじん)である」と名乗った。この「うしとらのこんじん」と出口なおとの対話が始まって、ここに成巫型の教祖が誕生した。その後“筆先(自動書記)”に取って代って数々の予言を行った。

 

☆特徴的な筆先

筆先全体の主旨を最もよく表現しているものとして、「明治25年旧正月付の初発の神諭」(注21)がある。

筆先の冒頭部分は枕詞の「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」で始まり、「梅でひらいて松でおさめる神国の世になりたぞよ。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。いまは獣の世、強いものがちの、悪魔ばかりの世であるぞよ。世界は獣の世になりておるぞよ」と述べて、当時の弱肉強食の侵略主義的な資本主義を批判している。

そしてこのような世の中を立て替えるために、「悪神に化かされて、まだ眼がさめん暗がりの世になりておるぞよ。これでは、世はたちてゆかんから、神が表にあらわれて、三千世界の立替え立直しをいたすぞよ。用意をなされよ。この世はさっぱり新ついたしてしもうぞよ。三千世界の大洗濯、大掃除をいたして、天下太平に世を治めて、万劫末代つづく神国の世にいたすぞよ。神の申したことは、一分一厘違わんぞよ。毛すじの横はばほども間違いはないぞよ。これが違うたら、神はこの世におらんぞよ」と述べている。

 

この神諭の眼目は「艮の金神の世」の到来と「三千世界の立替え立直し」の宣言であるという。そのために大本は創設されたとされている。この筆先に頻繁に出てくる「艮の金神」とは何か。後年の筆先によって「艮の金神」は「国常立命」(くにとこたちのみこと)とされており、大本ではこの神を「国祖」とよんでいる。

 

☆戦争に関する予言の筆先

日清・日露戦争の勃発等の筆先。

「戦争(日清)がおさまりたおり、この戦いがおさまりたのでない。この戦いをひきつづけにいたしたら、日本の国はつぶれてしまうから、ちょっと休みにしたのでありぞよ。こんどは露国から始まりて大戦があると申してありたが、出口の口と手で知らしてあること、みな出てくるぞよ」(明治286月日不詳)。「明治28年に出口直に露国から始まりて、戦があると申して居らうがな」(明治32310日)などがある。

 

浅野はこの「筆先の確実性」に対して強く引かれて出口なおに心酔した。

浅野の心酔ぶりは「開祖には国常立之尊が神懸りされまして、爾来今日まで27年に亙り連日神諭を出されております」や、「筆先の予言警告等が1から10までことごとく的中して実現している・・・この27年間の事実が証明している」などの文章からも分かる。このように浅野は筆先に絶大の信頼を置いていた。

 

☆立替時期の筆先

「明治50年を真中として、前後10年の間が世の立替えの正念場であるぞよ。明治55年の33日、55日は誠に結構な日であるから、それまでは大本は辛いぞよ」(明治37712日)と立替時期が示された筆先。

浅野は出口王仁三郎が神懸り(一種の自動書記)によって筆記した「大本神歌」や、「いろは歌」(注22)から危機意識を高めた。その危機意識は、大正7年夏以降の『神霊界』や『綾瀬新聞』(大正78月号「世界立替の日は愈々迫る、次の世界はどんな世界か」の記事)、各種文書、講演等で行った大々的な大正維新のキャンペーン等から窺える。このような事柄が社会に緊張をもたらして、結果的に「第一次大本事件」を誘発してしまう元凶となった。

 

☆全体に強要さが感じられる筆先

「改心いたさねば、改心いたすように致すぞよ。改心でけねば、人民三分になるとこまでいくぞよ。改心しだいで、神、たすけるぞよ」。この筆先は明治291122日のものであるが大本という特定の宗教に改心しなければ、神の助けはないというのは霊的真理から見て外れている。

「この筆先を一枚でも粗末にしたものは気附(=罰)を致すぞよ。この筆先は宝になるのであるぞよ。見たくば今見ておくがよいぞよ」(明治3078日)。脅迫・強要性が強い。

(注23)。

 

☆排外主義的傾向を帯びた筆先

明治251月の筆先は有名である。「外国は獣類の世、強い者勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ。外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれておりても、未だ眼がさめん暗がりの世になりて居るぞよ」。

この系統の筆先は多い。「外国は畜生の世であるから、神国にはかなわぬぞよ、後は神国の世に致すぞよ」(明治29年月日不詳)。これも同趣旨で“この時代の空気”であるナショナリズム的色彩が濃い(注24)。

 

☆天皇制との関係で問題になりそうな筆先

「この直(=なお)のみたまは勿体なくも、天照皇大神宮様の御妹子のみたまであるぞよ」(明治29年月日不詳)。これは天皇制との関係で問題になりそうな筆先である。

天皇制との関連でさらに問題になりそうな筆先が『大本七十年史、上』(203頁)にのっている。「生き神とも言われる御方が洋服着て靴はきて、うろつくようなことにこの結構な国を致してこの神悔しきぞよ」(明治331019日)。「生き神=天皇」と考えればかなり問題になる筆先である。

 

☆潜在意識の混入が考えられる筆先

「四方平蔵どの、大望な御世話をして下されて、誠に結構で在るぞよ。万古末代名の残る御世話であるぞよ」(明治32725日)。信者としてこのような筆先が出てきたらより一層忠誠心が出てこよう。四方平蔵は初期からの役員であり、出口なおの強い意向を受けて使者となり王仁三郎の綾部入りを実現させたことに対する筆先である。これは出口なおの潜在意識がかなり混入している筆先ではないかと思われる。

さらに「国武彦の筆先ざぞよ。出口の手を借りて気を付けるぞよ。・・・上田喜三郎、因縁ありて引寄したのざどよ。大将に致すのであれども、もちとしつかり致して下さらんと、今大事の所であるぞよ。此広間は智恵、学では行かぬ広間ざどよ。筆先通りに致さねばビクリとも行かぬ広間ざどよ」(明治321227日)は、王仁三郎と出口なおが対立していた時期の筆先で、なおの潜在意識が強く入っていると思われる。

 

イ)筆先の検討

大本事件により教団と距離を置いた浅野は、自己反省を雑誌『心霊界』(大正13年)の中で行っている。それによると筆先には「潜在意識の混入、幻覚・錯覚等の不純物の混入、宇宙観・人生観がない、偏狭さ、排他性、身内の子孫繁栄に対する執着心」などが混入しているという。しかし筆先の予言警告については、浅野は現在(大正13年当時)でもきわめて高い確実性があったことを認めつつも、「予言警告は現実社会に何ら効力はない、むしろ有害である」と断定している。

 

浅野の著書『心霊講座』(508頁)では、自動書記に関して「われわれは自動書記現象の裏面に左の三種類の意識の何れかが働くものと、常に警戒することを怠ってはなりません」と述べて注意を促している。一般に次のような意識の混入が考えられる。

・本人の潜在意識や顕在意識の混入など

・他人の意識の混入、暗示作用又は立会人や周囲の人の意識の混入など

・霊界居住者の意識や未発達霊の思想の混入など

 

浅野は『心霊講座』(508頁)で、「殊に宗派臭味を帯びた迷信連にその傾向が殊に強烈であるのは遺憾の至りであります。例えば出口直子(=なお)や中山みき子の自動書記(所謂お筆先)の中取るべき個所が相当沢山あることは私も認めますが、しかし同時に又相当多量の不純分子をも加味しており、当人の潜在的欲望又は他の不正なる暗示の結果と見做すべき箇所が随所に首を出して居ることも明白な事実であります。われわれは心霊問題、殊に自動書記に関する一般知識の標準を高め眼識を養うことによりてのみ、その弊害からのがれることができます」と述べて、大本時代の体験から教訓を汲み取った文章になっている。

 

ウ)モーゼスの霊訓との比較

自動書記現象は精神的心霊現象の中では、最もポピュラーな現象である。一般に霊媒は入神状態に入らずに精神を鎮めて受身になっていると、自己の顕在意識とは全く別個の意識が浮き上がってきて、霊媒の手を動かして筆記する。

この現象で有名な霊媒は、英国国教会の牧師であったステイントン・モーゼス(1839年→1892年)である。モーゼスの代表的著書の『霊訓』は自動書記の形で綴られている。

 

ある時モーゼスは、自動書記をしている自分の姿を観察した。「気がつくと、(モーゼス自身は)自分の身体のそばに立っている。・・・自分の身体が目の前にあり、その身体と自分(霊的身体)とが細い光の紐によってつながっている。・・・その私の身体のすぐ後ろにレクターが立っていた。片手を私の頭部にかざし、もう一方をペンを握っている私の右手にかざしている。・・・私の手を操っているのではなく、また私の精神に働きかけているのでもなく、青い光線のようなものを直接ペンに当てているのだった。つまりその光線を通じて通信霊の意志が伝わり、それがペンを動かしているのだった。私の手は単なる道具にすぎず・・・」(注25)。これは自動書記現象の舞台裏を明らかにした貴重な文章である。

 

モーゼスは、「通信に現れた思想は、全く私自身の思想と無関係である」と述べている。物事を論理的に判断する傾向にあったモーゼスは、徹底的な証拠性にこだわって懐疑的な態度を崩さずに、また潜在意識の混入防止にも注意を払って自動書記を行った。

このように潜在意識の混入防止に努めて証拠性にこだわったモーゼスの霊訓と比較してみると、出口なおの筆先は余りにも潜在意識の混入度合いが強すぎて見劣りがする。浅野はモーゼスの霊訓に出合って、自動書記現象の最高峰に位置する霊訓との差が歴然としている事実に気が付いたのであろう。

 

自動書記による通信には通常は他界の霊からの者が一般的だが、なかには生者からの通信もある。浅野の『心霊講座』のW.T.ステッドの自動書記通信の項目で紹介(542頁)されている。自動書記は「霊魂は決して霊媒の頭脳からその思想を借りはしない。ただ自己の思想を表現するに必要な材料を霊媒から借りることは事実である。従って霊媒の提供する材料が豊富であればあるほど通信が容易」であるという。

 

高級霊のシルバーバーチも次のような事を述べている。「バイオリニストにとっては名器のストラドバリウスの方が安物よりも弾きやすいでしょう。楽器の質の良さが良い演奏を生むからです。安物では本当の腕が発揮できません」。また霊媒の人間性の問題については、「霊言の場合ですと通信内容に、物理現象の場合ですと現象そのものに影響が出ます。物理霊媒の場合、霊格が低いほど(程度の問題として)たとえばエクトプラズムの質が落ちます」(注26)と述べている。

 

真偽の立証の問題について、現象が主観的である場合は立証方法が難しいので「交叉通信」や「十字通信」と呼ばれる方法が考案された。これは一人の霊が数人の霊媒に対して同時に(あるいは時間を違えて)送信してその内容を符合させるもの。一つの通信の部分的なものを二人以上の霊媒に受信させてそれらを合わせて通信文を完成させるものなどである。

 

エ)予知・予言について

一般的には受身的に予知・予言する場合が大部分である。本人の背後霊が何等かの目的を持って将来のビジョンをみせるケースであり、この事例で有名なのは、日露戦争の日本海海戦における秋山真之中将の予知である。

当時秋山は、東郷艦隊の一参謀(当時:中佐)として軍艦三笠に乗船していた。「あまり疲れたものですから、私は士官室に行って椅子に体を投げました。他の人たちは皆寝てしまって、室内には私一人だけしかいない。眼をつぶっていろいろ考え込んでいるうちに、ついうとうとしたかと思う瞬間、私の目の中の色が変わってきた。そして対馬海峡の全景が眼前に展開して、バルチック艦隊が二列になって、ノコノコやって来るのが、はっきりと見えるのです。しめた、と思った瞬間、私はハッと正気に返ってしまった」(浅野和三郎著『冬籠』参照)。これなどは国を思う純粋な気持の状態でウトウトした時(半睡眠の時)に、数日後に起こる光景を“未来を霊視する”という形で背後霊から見せられた好例であろう。

 

人間には限定的だが自由意志があるので、タネを蒔いたそのままの形で結果が現れるわけではない。しかし何等かの結果が生じることだけは確かである。したがってこのようなタネを蒔いたならば、将来このようなことが起こる蓋然性が極めて高いという予測(一定の予報円の範囲内のことで、台風の進路予想と同じ)はつくが、いつ何処でという具体的なことになると「法則の裏にも法則が働いている」ので不確実性が伴う。より高級な霊になれば因果律の法則の裏側に隠された各種法則にも精通してくるために、予測の蓋然性はきわめて高くなる。しかし地上世界に混乱をもたらすような予言を高級霊は行わない。

このようなことから考えて、背後霊から一定の条件の下で将来のビジョンを見せられることはあるが、“地上は学校である”ため(→地上人生の目的や教育的配慮などによって)、具体性を帯びた予知・予言は極めて例外的なことであると思われる。浅野和三郎が飛びついた大正維新の破綻(大正10年)は、起こるべくして起きたものであるといえる。

 

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<注1

■大本70年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)83頁、215頁、288頁参照。

 

<注2

■大本70年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)154頁~156頁、178頁、183頁。

警察の干渉につき――上田喜三郎の布教に対して警察は「大成教なり、大社教なり、他の公認の教会の管下になって開いてもらわんと、行政上黙認するわけにはゆかぬ」との干渉を受けた(前著154頁)こともあって、喜三郎は「艮の金神(うしとらのこんじん)を世に出すために、公認の手続きをとり、宣教活動の合法化をはかろうと考えた」(前著180頁)。

■当時の行政の方針は、明治41年に天理教が教派神道の一派として公認されたのを最後に、これ以降新たに宗教教団が独立することは許さないとの方針をとっていた。そのため新たに宗教活動をしようとする者は、いずれかの公認宗教に所属し、その所属の教会名義によって布教する以外に方法がなかった(準公認の宗教活動)。

明治38年頃の大本は、公認を得ていないため集会も許されず、布教は困難となっていた(前著276頁、277頁、282頁)。そのため「御嶽教大本教会」「大成教直轄直霊教会」など、名称や組織を二本立て三本立てにして準公認の宗教活動を行った(前著292頁~301頁)。

当時は教派神道の傘下という形式を踏まなければならなかったため、大本はその時々に応じて「稲荷講社」→「御嶽教」→「出雲大社?」と上部の教団を変えていった。

 

<注3

■小田光雄著『古本探究Ⅲ』(論創社2010年刊)214頁~229頁参照。

 

<注4

■神霊子稿「大正維新に就いて」:復刻版『神霊界、1巻』大正63月号(八幡書店1986年刊)99頁~112頁参照(ただし頁数は八幡版)。

 

<注5

■浅野和三郎著「皇道大本の真相」:復刻版『神霊界、2巻』大正72月号(八幡書店1986年刊)95頁~98頁参照(ただし頁数は八幡版)。

 

<注6

■雑誌『心霊と人生』昭和77月号、他。

 

<注7

■大本70年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)528頁参照。

 

<注8

■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、253頁~254頁(239頁~240頁)参照。

 

<注9

■浅野和邇三郎著「地之高天原」:復刻版『神霊界、2巻』大正72月号他(八幡書店1986年刊)81頁~92頁他、参照(ただし頁数は八幡版)。

 

<注10

■浅野和三郎著「皇道大本略説」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、632頁(70頁)参照。

 

<注11

■近藤千雄訳『シルバーバーチ最後の啓示』(ハート出版)86頁~参照。

 

<注12

■出口和明著『霊界の最高機密』(KKロングセラーズ1999年刊)16頁~22頁参照。

 

<注13

■浅野和三郎著『心霊研究とその帰趨』(心霊科学研究会)15頁参照。

 

<注14

■浅野和三郎著「霊の発動と其の目的」:復刻版『神霊界、1巻』大正63月号(八幡書店1986年刊)93頁~99頁参照(ただし頁数は八幡版)。

浅野はこの中で「邪神」を「霊主肉従、霊体不二の真髄に触れず、多くは体を重んじて霊を卑しめ、その結果物欲の奴僕となり・・・」と述べている。大本では「霊主体従」という言葉を使ったが、浅野は「霊主肉従」という表現を使っている。

 

<注15

■浅野和三郎著「鎮魂帰神について」:復刻版『神霊界、1巻』大正63月号(八幡書店1986年刊)89頁~92頁。大正64月号160頁~161頁参照(ただし頁数は八幡版)。

および浅野和三郎著「皇道大本略説」の中の「鎮魂帰神に就きて」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、628頁~646頁(66頁~84頁)参照。

 

<注16

■浅野和三郎著『心霊読本』(心霊科学研究会1937年刊)86頁参照。

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(6)」:雑誌『心霊研究』昭和491月号。宮澤氏は「当時は鎮魂は金竜殿で行われ、毎日百数十名が集まる位で、これは浅野さんが担当していた。宗教に心霊的の鎮魂を導入したのは皇道大本が初めてであり、そのために知識人が多く集まったのであろう。昭和時代の新興宗教の教祖中にはかつて大本教の鎮魂に参加したものが少なくないように思われる」と記している。

この記載から「(浅野が)数年間に取扱った人数は1~2万人」という数字は誇張した数字ではなく、浅野が鎮魂の指導をした者のトータルの人数として考えれば妥当性が出てくる。また当時は大本が「唯一の心霊道場」であったことが分かる。

 

<注17

■佐藤卿彦著『顕神本田霊学法典』(山雅房1978年刊)46頁参照。

 

<注18

■浅野和三郎著『心霊読本』(心霊科学研究会1937年刊)77頁参照。

 

<注19

■浅野和三郎著「神界と現界との関係」:復刻版『神霊界、1巻』大正64月号(八幡書店1986年刊)149頁~156頁参照。

 

<注20

■雑誌『心霊と人生』昭和612月号、昭和74月号参照。

 

<注21

■大本70年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)94頁参照。

 

<注22

■復刻版『神霊界、1巻』大正612月号、大正71月号(八幡書店1986年刊)参照。

 

<注23

■池田昭編『大本史料集成、1巻(思想篇)』(三一書房1982年刊)参照。

 

<注24

■池田昭編『大本史料集成、1巻(思想篇)』(三一書房1982年刊)参照。

 

<注25

W.Sモーゼス著、近藤千雄訳『インペレーターの霊訓―続『霊訓』―』(潮文社1987年刊)216頁参照。

 

<注26

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、4巻』(潮文社)161頁参照。


 

◆浅野和三郎研究:目次

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