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心霊写真展覧会事件

目 次

 

①.浅野和三郎死去後の組織

・雑誌『心霊と人生』の継続発行

・雑誌『心霊と人生』の休刊

 

②.心霊写真

・最初の心霊写真

・日本における心霊写真

 

③.心霊写真展覧会事件の概要

・昭和15年秋の弾圧事件

・事件の経緯

 

④.関係者の証言

ア)それぞれの証言

・宮澤虎雄の証言

・津田江山の証言

・田中千代松の証言

・小田秀人の証言

・小熊虎之助の論稿

イ)真相は「心霊知識の普及センター」潰し

 

⑤.投獄事件の背景と影響

・霊的知識の普及とその反動

・当時の国内情勢

・思想・信仰に対する弾圧事件

 

<注1>~<注18

 

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①.浅野和三郎死去後の組織

☆雑誌『心霊と人生』の継続発行

昭和12年(1937年)23日に浅野和三郎は62歳で急死した。雑誌『心霊と人生』は浅野和三郎が事実上中心となって編集していた、極めて和三郎色の強い雑誌であった。そのため兄の正恭は継続していくことの困難さを感じて断念しようとしたが、土井晩翠、岡田熊次郎、粕川章子らの協力によって継続することを決めたという。

この時期のことを兄の正恭は「彼(和三郎)は突然心霊研究に殉すといった風の死を遂げたのであった。亡弟の死に会い、雑誌の続刊が覚束ない感がせぬでもなかった」「同人の極めて好意ある援助の下、私は柄にもなき、雑誌の続刊を決意し、兎にも角にも、初志を継続した」(注1)と述べている。

 

☆雑誌『心霊と人生』の休刊

和三郎が他界した後の東京心霊科学協会は、兄の正恭が昭和14年(1939年)4月まで理事長を勤めたが、健康上の理由から辞任して、その後任には宮澤虎雄が就任した。当時の理事には、脇長生(長男)、粕川章子、那須理之助、松平力などがいた。

東京心霊科学協会は社会情勢が極めて困難な中で雑誌『心霊と人生』を発行し続けたが、昭和19年(1944年)4月をもって休刊となり(→雑誌『心霊と人生』は昭和194月から昭和243月まで休刊)、協会も活動休止となった。

 

②.心霊写真

☆最初の心霊写真

写真の原理そのものは古くから知られていたが、実用的な写真技術は1839年にフランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre1787年→1851年)によって、ヨウ化銀の光化学反応を利用した「ダゲレオタイプ(=銀板写真)」が発明されて実用化された。その後、1851年には一枚のネガから何枚でもプリントできる「湿板写真」が発明されて、「銀板写真」を駆逐して広く普及した。1871年には「写真乾板」が発明されると「湿板写真」は衰退した。このように写真技術には「銀板写真→湿板写真→写真乾板」という流れが存在する。

 

心霊写真の存在は「写真術の実用化」が始まった頃から知られていたが、当時は「幽霊写真(Spirit photograph)」と呼ばれていた。最初の「幽霊写真」は、ウィリアム・マムラーによって1861年に撮影された(注2)。心霊写真はアメリカで生まれて、その後イギリスで盛んになって、間もなくヨーロッパ全域に広がっていったが、当初から「二重プリント(背景と前景で異なる写真を組み合わせる)」や「陰画合成(一つの陰画の背景と別の陰画の前景とを接合してプリントする)」「肖像合成(多重露光によって個別に複数の人間の肖像を撮影してその像を陰画の上で重ね合わせる)」などの手法を使ったとされる捏造疑惑が付いて回った。当時のキリスト教徒や迷信深い人は、心霊写真を死者の霊が被写体となって映し出されるのは「悪霊、悪魔の仕業である」(注3)と見做していた。

 

☆日本における心霊写真

日本では銀板写真が1848年(嘉永元年)に長崎に伝えられており、この時期に写真術が日本に流入したとされている。この銀板写真技術を使って、1857年(安政4年)に“島津斉彬の肖像”が日本人によって撮影された。これが「現存する最古の写真」であるとされている。1855年(安政2年)から湿板写真技術が入ってきて、その原理が各藩の学者によって全国に広められた。その後1883年(明治16年)に乾板の輸入が行われて、それ以降は乾板写真となった(注4)。

 

日本では横浜の写真師の三田弥市が、1879年(明治12年)に初めて心霊写真を撮影(湿板写真)している。三田は1879年(明治12年)1月に、程ケ谷宿(東海道五十三次の四番目の宿場:現在の横浜市保土ヶ谷)の真言宗の寺(天徳院)で住職を被写体にして写真を撮った。その写真の法衣姿の住職の左肩後方に、横向きのやつれた若い女性の姿が写っていた。和尚にはその女性が誰であるかすぐに分かったという。この時の心霊写真が「我が国最古の心霊写真」であるとされるが、この話には後日談があった(注5)。

この時の心霊写真のメカニズムは、霊界にいる若い女性霊が写真乾板に写り込んだ住職の後方に、写真師の三田弥市から無意識に流出された半物質状のエクトプラズムを材料にして、意図的に姿を現したものであった(→三田弥市は霊媒体質者であったのであろう)。

 

③.心霊写真展覧会事件の概要

☆昭和15年秋の弾圧事件

イギリスでは1933年にヘレン・ダンカンの投獄事件(注6)があったが、同様な事件は日本でも起きていた。

昭和15年秋の「心霊写真展覧会」事件の関係者は、詳細をあまり語らずにこの世を去ってしまったため、スピリチュアリストでもこの事件のことを知らない人は大勢いる(→大部分のスピリチュアリストは日本のスピリチュアリズムの歴史に関心がない)。

昭和15年(1940年)秋から昭和16年にかけて起きた「心霊写真展覧会」事件は、多数のスピリチュアリストや霊媒が検挙されて、死者まで出た大規模な弾圧事件であった。

 

☆事件の経緯

昭和15年の8月末から9月初旬にかけて、大阪心霊科学協会理事長の間部詮信(まなべあきのぶ)子爵の主催で、心霊知識の普及を目的とした「心霊写真展覧会」が華族会館(東京麹町区内山下町:現在の霞会館)で開催された。会期の終わり頃、特高警察が乗り込んで来て、展覧会は会期末を待たずに強制的に終了させられた。

昭和15年秋から翌年(昭和16年)にかけて、間部詮信、宮澤虎雄、粕川章子、脇長生等の東京心霊科学協会の役員やその他のスピリチュアリスト、さらには津田江山、萩原真、本吉嶺山、北村栄延など、当時活躍していた霊能者が一斉に特高警察に検挙されて、厳しい取り調べ(拷問含む)を受けた。

その後裁判があり津田江山は懲役2年の実刑を受け、萩原真は執行猶予となった。本吉嶺山(刑は不明)は釈放後、終戦まで特高警察の厳しい監視下に置かれた。さらに北村栄延(刑は不明)は、この事件の過酷な取り調べによって、釈放後まもなく36歳の若さで他界(昭和1671日死去)した。

 

④.関係者の証言

ア)それぞれの証言

☆宮澤虎雄の証言

当時東京心霊科学協会の理事長をしていた宮澤虎雄は次のように述べている。

――私も展覧会の観覧に出かけたのですが、心霊写真はなかなかよく集められておりました。当時の東京心霊科学協会の会員の方は出かけられたと思います。・・・このように心霊写真が真面目に問題になろうとは不思議に思われてなりませんでした。ところが警察関係の考えでは、このようなもの(=心霊知識のこと)が、上流社会の方々に拡がってくると、大いに憂うべきことになると思ったのでしょう。それで期日の終了を待たずに閉会させたと私は思っております。そして昭和16年に入ってその年の半ばを過ぎた頃から主として、物理的心霊霊媒を調べることになったのです。津田霊媒及び間部大阪心霊協会理事長も調べられ、苦心努力の結果作製しえた津田霊媒の物理的現象の活動写真のフィルムを没収されてしまったとのことです。また北村栄延氏も拘留されたのです。実に将来望みを嘱していた霊媒なのでしたが、この拘留のために早く他界されたのは遺憾に堪えません。また東京心霊科学協会の本吉霊媒なども一時拘留され調べられるに至ったのです。更に、東京心霊科学協会事務担当の脇理事も拘留されるに至ったことはお気の毒に思っております。また私の宅にも警察官が調べに来たし(→家宅捜査のことか?)、粕川章子さんの所にも調べに来たのでした。右の他諸所で霊媒者が調べられたことと思います。霊媒者諸氏の官憲に対する答弁如何によって早く帰されたり、また拘留期間の長かった者もあったとのことです。かくして折角発展の気運に乗った日本の心霊研究も、大東亜戦争を迎えるに至って、その発展を全く阻められるに至ったことは実に遺憾でした(注7)。――

 

☆津田江山の証言

津田江山によれば弾圧は次のような経緯で行なわれたという(講演の要旨のみ)。

――「東京の華族会館、昭和15年のことです。間部先生主催の心霊展覧会がありました。自動書記、直接書記、直接書画、絵ですね、それが張りめぐらされ説明がついているのです。私も列席させていただきました」。会の終わりの頃「チョッと、あんた津田くんだろ。チョッと来てくれ」といって、大阪から来た特高5~6人に取り巻かれた。「これから大阪に護送するから」と言って、一時、東京の麹町警察署の留置所に入れられた。留置所には脇長生が入っていた。津田は警察で殴る蹴るの暴行を受けて「お前のやってきた心霊は、嘘っぱちだろう、本当ならここで証を見せてみろ」と言われた。「一番キツイ責苦は、鉛筆を持ってきて指に挟みしめる。これほど痛いことはない。本当のことを言えという。本当のことを言うと嘘だという。それからロープで上に吊って引っ張る。爪先立ちになる。そしてひっぱたく」。津田は警察をたらい回しにされながら殴る蹴るの暴行を受けた。監獄に入れられたら霊媒の萩原真が先に入っていて、「オッオッ」とお互いに言葉を交わしたという。「監獄にはいろんな憑依霊がいます。精神統一によって身体の感じ方が強くなっているため、孤独感がヒシヒシとしてきます。あれあそこに見えるのはお前の憑依霊だ。お前の生命はいくばくもないぞ。ここで首吊って死ね、と言ってきます」。監獄内での辛さは言葉であらわすことは出来なかったという。その後、裁判があり「なんとかして霊の存在を認めさせようとして二回ほど裁判所で実験を行なった。実験で物でも上がりだすと大きな懐中電灯でパッと照らす。そのため大分出血したのを覚えています。診断書を取りました」。津田は控訴審まで争ったが、有罪の判決を受けて2年間服役した。出所直後に大阪の八連隊に入隊せよとの召集令状がきたので、雲隠れしたという。憲兵は必死になって津田を探し回ったが、終戦まで逃げ切ったと述べていた(注8)。――

 

☆田中千代松の証言

田中千代松はこの事件を次のように述べている。

――まだ華族という身分があった敗戦前の或る夏のこと、間部子爵が上京して、「心霊写真展」を華族会館で開いた。我々庶民からは隔離されたような場所においてであったが、“時局重大”となりつつあるとき、為政者の眼にこれは甚だ好ましくないことであったらしい。しかし弾圧の手は華族という身分に遠慮してか、おかしな方向に動いた。なぜであったかいま明らかにする手だてはないが、浅野和三郎氏没後の東京心霊科学協会の事務所(麹町平河町)に居た脇長男氏が検束されたのである。警察署の留置場から脇氏を救出すべく、浅野正恭氏は東京心霊科学協会の集まりに顔を出していた吉田正一氏ほかの人々の参集を求めて相談した。弁護士吉田正一氏が発言した時の姿を私はよく覚えている。脇氏は起訴されなかったが、釈放されて出てきた時、その顔はまったくの髭面になっていた(注9)。――

なお脇長男(長生は通称名)は麹町警察署に29日間拘留されていた(注10)。

 

☆小田秀人の証言

小田秀人は霊媒の萩原真と亀井三郎について次のように述べている。

――当局の理不尽な心霊弾圧のこともあって、亀井氏はすばやく風を喰らって満州に飛び、萩原氏は永い間未決監にぶち込まれて、とうとう始末書を書かされて、執行猶予という判決まで受けた(注11)。――

真っ先に拘束されてもおかしくない亀井は、“仮名”であったため上手に逃げ切ったか。

 

☆小熊虎之助の論稿

心理学者の小熊虎之助(1888年→1978年)は「心霊現象と詐欺」という一文を昭和16年に『明治大学新聞』に寄稿した。その中に次の文章がある。

――(昭和16年)516日の東京の各新聞紙は(東京)心霊科学協会なるものが、ある女の霊媒を使って、戦死者の霊をこの世に再び呼び寄せ、霊言現象によってその霊と自由に話ができると称して、出征遺家族の心理に巧みにつけ込み、芝居がかりの祈祷を行い、多額の金品を巻き上げたことが暴露し、協会の全役員とその霊媒までが詐欺犯として検挙されたという大見出しの記事を載せている。――

 

この小熊の文章に対して、東京心霊科学協会の役員である脇長生は、雑誌『心霊と人生』に次のような反論記事を載せた。

――小熊氏の文章中に「心霊科学協会の全役員が詐欺犯として検挙された」とあるが、その名称が本会の姉妹協会である東京心霊科学協会と同一名称であるが、別段全役員の一人も、今のところ、何犯としても検挙されていない。恐らく本会以外に同一類似の其会が存在するものか。一言付記して当会と無関係であることを申し上げて、読者のために疑いを解くこととする(注12)。――

 

イ)真相は「心霊知識の普及センター潰し

田中千代松が「心霊写真展覧会」事件が「おかしな方向に動いた」と述べているように、特高警察は首都東京における“心霊知識の普及センター”である東京心霊科学協会に対しては、マスコミに向けて“金品巻き上げ詐欺事件”として情報を流して、ことさらに霊媒現象を犯罪に結び付けようとした。また関西地方における“心霊知識の普及センター”である大阪心霊科学協会に対しては、間部子爵をターゲットにおいて関係者に対して厳しい尋問を行った。このようなことが関係者の証言から読み取れる。

このように特高警察は世論を巧みに誘導して、当時の“心霊知識の普及センター”の一つであった東京心霊科学協会を徹底的に潰しにかかってきた、“スピリチュアリズム普及運動”の阻止に動き出してきた、ということが真相であると思われる。警察に拘留された脇はその事実には触れずに、協会の役員の立場から会員の動揺を抑えるために(→関係者によれば東京や大阪に於いて会員の動揺は大きかったという)、上記のような一文を書いたのであろう。

 

昭和15年秋~昭和16年にかけての弾圧時、東京心霊科学協会の役員は不明だが、筆者の手元に昭和146月号の雑誌『心霊と人生』がある。この中に昭和144月に行われた東京心霊科学協会の役員改選の記事が載っている(→推察するにこの人たちが弾圧当時、役員に就いていたのではないだろうか)。この記事によれば理事には次の方々が就任している。脇長男(通称名は長生)、粕川章子、笠井鎮夫(東京外国語大学教授)、川上滴三、仲尾和三郎、那須理之助、八尋加蔵、松平力、福島一夫、斉藤昇、宮澤虎雄。またこの時の評議員の中には吉原謙亮(元鹿児島地方裁判所所長)、小林寿子(霊媒)、本吉嶺山(霊媒)の名前が見られる。この改選時に浅野正恭は健康上の理由から理事長を退いている。後任の理事長には宮澤虎雄が就いた。

 

⑤.投獄事件の背景と影響

☆霊的知識の普及とその反動

浅野和三郎は福来友吉と共に、昭和3年にロンドンで開催された第3回国際スピリチュアリスト連盟(ISF)の大会に参加した。この時期を境にして日本における霊的真理の普及状況は質的にも量的にも大きく変化した。それは次のような客観的事実から推測できる。

昭和4年以降の亀井三郎などの物理霊媒によって、欧米に引けを取らないような心霊現象が日本でも出現するようになったこと。物理霊媒による心霊現象実験会の参加者の顔ぶれから判断して、霊的真理が社会の各階層に浸透するようになったこと。昭和4年から5年にかけて組織の陣容が拡充されて、攻めの普及活動が展開できるようになったこと。講演会の開催や出版物(主に雑誌や冊子等)の発行に力を注ぐことができるようになり、スピリチュアリズムの裾野が着実に広がってきたこと。少し時代が下がって、浅野和三郎の指導のもとで精神統一実修会が各地で開催されるようになると、その成果が着実にあがるようになってきたこと。

このような事実から判断して、昭和4年を境にして霊界から日本に向けての霊的潮流は、明らかにその流量を増してきたことが窺える。霊的潮流という視点から“日本のスピリチュアリズム史”を見ると、昭和4年は大きなターニングポイントとなった年であったことが分かる。

 

昭和12年に浅野和三郎は死去したが、彼が中心となって蒔いたタネは後継者によって引き継がれて着実に育っていた。そして霊的真理の普及活動が当局にとって無視しえない地点、いわゆる普及過程における“決定的なボーダーライン”を超えたことによって当局の介入を招いた。それが“霊的面”から見た昭和15年秋の事件の真相であろう。

当時の当局の心霊に対する考え方は、物理的心霊現象はことごとく霊能者が行なう詐欺行為であり、事実ではないとの立場であった。また思想の普及に関しては、あらゆる思想団体や宗教教団を監視下に置いていたため、心霊知識の普及を目的とした「心霊写真展覧会」を見逃すわけにはいかなかったのであろう。

 

この事件以降はスピリチュアリズムの活動も当局の目を気にした細々としたものとなっていった(注13)。海軍機関学校の教官時代から、浅野和三郎と共に日本のスピリチュアリズムの普及運動を支え、発展させてきた宮澤虎雄の無念さは次の一文に良く表れている。「折角発展の気運に乗った日本の心霊研究も、大東亜戦争を迎えるに至って、その発展を全く阻められるに至ったことは実に遺憾でした」。

なお雑誌『心霊と人生』は特高の事前検閲を受けながらも発行を続けてきたが、昭和166月以降は雑誌の用紙は「新聞雑誌用紙統制委員会」の「出版用紙配給割当規程」による割当となり、出版がさらに厳しくなった。そして昭和194月に休刊となった(注14)。

 

☆当時の国内情勢

日本のファシズム化は、一般に1931年(昭和6年)の満州事変前後から始まり、1936年の「二・二六事件」以降本格的に進行して、1940年の大政翼賛会創立で確定したとされている。昭和20年までは、過度に「天皇制イデオロギーが強調された時代」であった。一般に「日本型ファシズム」と呼ばれているこの時代の政治体制は、ドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニのファシズムとは異なって、天皇が独裁者となって統治したのではなかった点が大きな違いとなっている。

この期間の「日本型ファシズム」と呼ばれている政治体制は、天皇信仰・八紘一宇・皇国史観(注15)・家族国家論・日本民族の優越性などの思想を背景とした「天皇制」という枠組みの下で、決断主体があいまいなまま軍部・政府首脳や支配層によって進められたものであった。丸山真男はこの政治体制を「天皇制における無責任の体系」と名付けている(注16)。

 

☆思想・信仰に対する弾圧事件

当時の政府は天皇制(=国体)に反するような教義や思想を持つと思われる団体や個人を、不敬罪の規定、治安維持法の適用、警察犯処罰令、出版法、新聞法などを使って軒並み摘発していった。言論集会や結社も自由ではなかった。各種取締法を使い参加者をチェックすると同時に内通者を通して組織内の発言内容もチェックした。

国体に反する思想の普及を目的とした団体や、国策に忠実な団体であっても独自解釈をする団体などは真っ先に狙い撃ちされた。

 

代表的な弾圧事件としては、治安維持法を適用した「第二次大本事件(1935年)」や、エホバの証人の戦前における組織名である「灯台社(ものみの塔聖書冊子協会のこと)」の「神の国建設を説く教え」が、国体変革を意図しているとの嫌疑をかけられて弾圧された事件(1933年、1939年)がある。また大西愛治郎を中心とする「天理本道(=ほんみち)」は国体変革を意図しているとして1938年に弾圧された。

この他に1936年の「ひとのみち教団(現在のPL教団)」に対する弾圧事件がある。「ひとのみち教団」は教育勅語を経典とした政府の国策に忠実な教団であったが、「天照大神を太陽として教育勅語に卑属的解釈を加えた」として徹底的な弾圧を受けた。このように時の政府はたとえ国体の教義に従順な宗教であっても、国家神道の最高神について独自の解釈を加えることは天皇の宗教的権威を損なうものとして絶対に許さなかった。

 

キリスト教に関しては日本基督教団第6部及び第9部に対する弾圧事件(1941年)が知られている。昭和16年(1941年)に政府の圧力によって、多数のプロテスタント系教派が合同して日本基督教団が設立された。このなかで第6部と第9部の「ホーリネス教会」の牧師106名が治安維持法違反で一斉検挙されるという事件が起きた。「ホーリネス教会」は現人神の天皇よりも、彼等が信仰する「キリストの方が主権者」であると明言して、神社参拝を拒否して、近隣の氏神の祭りにも参加しなかった。このことによって「ホーリネス教会」は国家神道を拒否する団体であると見做されて弾圧を受けた。

このような豊富な弾圧事例から推測して、筆者は「純粋なスピリチュアリズム(神→人類)」は権力側から見て、“国体に反する危険思想”と断定される可能性が極めて高いと考えた。

 

当時の政府の考え方は、「国家神道」は「非宗教」であり「国民道徳」であるため、「政教分離の規定には抵触しない」という立場をとっていた(→政府は「神社ハ宗教ニアラズ」という見解を示した)。このような見解をとっていたため神社参拝とその「強制」の問題が幾度となく論じられてきた。皇學館大學教授の新田均によれば、政府は国民に“国家の出先機関”である神社の参拝を「法的に強制」することはしなかったが、当時の社会風潮から「参拝を拒否することは事実上不可能である」という意味で「事実上の強制」は存在していたと述べている(注17)。日本基督教団第6部と第9部の「ホーリネス教会」の牧師からすれば“神道は宗教”なので、二つの宗教を同時に崇拝することはできないとして、神社参拝を拒否するとの立場を採ったが、これが弾圧の原因となった。

 

この時期、多くの宗教団体や類似宗教、個人が弾圧された。また治療行為に携わった多数の霊術家、療術行為者、精神療法者等も同様に「類似宗教」「淫祠邪教」と見なされて摘発され弾圧された。スピリチュアリストも例外ではなかった(注18)。

このように当時の国民にとっては、神社参拝に象徴される神道的行為や神道的な考え方から距離を置くことは、極めて困難であったことが分かる。ここからも浅野和三郎の唱えたスピリチュアリズムは、時代の空気から無縁でいることはできなかったことが分かる。

思想・信教の自由が保障された時代に生き、スピリチュアリズム全体を見渡せる位置に立って、当時の浅野和三郎の足跡を批判する人たちがいるが、彼らはこの点を軽視している。

 

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<注1>

■浅野正恭著「回顧と希望」:雑誌『心霊研究』1947年(昭和22年)2月号所収。

 

<注2>

■安斎育郎著『霊はあるか』(講談社ブルーバックス2002年)106頁~108頁参照。

安斎氏の著書によれば「伝えられている比較的信憑性の高い情報によると、最初の“幽霊写真事件”は、1862(→原文のまま)アメリカのボストンで起こった。この年、当時誠実な降霊術者として知られていたガードナー博士は、ある写真屋が自分の写真を撮ったら、画面に12年前に死んだはずの従兄とよく似た姿が写っていたことを発表した。こうした“死者の霊”の写真撮影は“撮影霊媒”によって行われた。最初の“撮影霊媒”はウィリアム・マムラーと言った」と記されている。

小池壮彦著『心霊写真』(宝島文庫2005年刊)229頁(注2)によれば、マムラーは1861年に「幽霊写真」を撮って、それを1862年に公表したという。安斎氏の著書に記された1862年は「幽霊写真」が公表された年である。

 

<注3>

■ジョン・ハーヴェイ著、松田和也訳『心霊写真』青土社2009年刊、84頁参照。

 

<注4>

■小池壮彦著『心霊写真』(宝島文庫2005年刊)14頁~16頁、33頁参照。

 

<注5>

■田中千代松著『第四の世界』(講談社1960年)163頁~164頁参照。

この後日談とは「彼(和尚)は驚き悲しみ、かつ観念して、若き日に犯した罪を自首した。この和尚の前身は、紀州藩の武士安芸三郎であった。まだごく若いときに、お初という女と深いちぎりを結んだが、あるとき嫉妬の念に燃えて、彼女を殺してしまった。その嫉妬が誤解に基づいていた、と知った時、彼の悔恨は深かった。さりとて法の裁きを受ける気はなく、遁走して仏門に入った。爾来三十余年、ひそかに彼女の霊に詫びつつ、その成仏と己の罪障消滅を念じ続けていた。彼は、お初の幽魂の、なお自分の身辺を離れないでいることを見て、深い罪が、出家遁世くらいで消えるものではないことを、今更ながら知った。自首して間もなく、悶々の情の内に、彼は死去した。このことは、当時の仮名読売新聞に載っているということだが、他にまだこういう傍証もある。後年、弁護士の林逸郎が、当時警視庁警保局長であった古賀廉造とこの話をした時、古賀は確かにそういうことがあった、その幽霊写真は参考資料として警保局に送られてきたのだが、いまも保存されているはずだ、と語ったという」。

■小池壮彦著『心霊写真』(宝島文庫2005年)22頁~35頁の記載によれば、この「後日談」には二つのストーリーが存在しているようである。なお小池はこの事件の報道資料を丹念に調査したところ、明治12年(1879年)114日付『仮名読売新聞』に事件が報道されていたことを突き止めた。当時の新聞報道記事が、『心霊写真』30頁~31頁に掲載されている。

 

<注6>

■『シルバーバーチの霊訓』7巻の7章「真理は法律では縛れない」。および7巻の巻末「近藤千雄氏の解説」を参照。

 

<注7>

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(24)」:雑誌『心霊研究』1976年(昭和51年)10月号所収。

 

<注8>

■津田江山著「心霊と共に50年」:雑誌『心霊研究』1978年(昭和53年)10月号所収、要旨のみ。

 

<注9>

■田中千代松著「追想と解説」:『心霊研究、第1期(1947年~1956年)補巻』所収。

 

<注10

1978年(昭和53年)6月・7月号『心霊と人生』:脇死去による「脇氏の年譜」より。

 

<注11

■小田秀人著『四次元の不思議』(潮文社1971年刊)148頁。

 

<注12

■小熊虎之助著「心霊現象と詐欺」:雑誌『心霊と人生』1941年(昭和16年)8月号所収。

小熊が『明治大学新聞』に掲載したものを編集部の判断で『心霊と人生』に転載している。この小熊の文章の末尾に「編者付記」として脇が会員向けに一文を載せている。

 

<注13

■宮澤虎雄著「間部柳雪翁の思い出」:雑誌『心霊研究』1961年(昭和36年)11月号所収。

昭和15年(1940年)秋、間部子爵が中心となって行われた心霊知識の普及を目的とする心霊資料展覧会(主として心霊写真の展覧)が、大阪警察署の特高課員によって中止された。このことが発端となって協会役員や間部子爵の連行・留置、東京や大阪の霊媒諸氏に対する連行・留置などが翌年にかけて起きた。当時の特高課員の見解は「物理的心霊実験に際し起生する異常現象は悉く霊媒者の行う詐欺行為であって、事実そのような現象はあり得ない」であり、この立場に立って極めて厳しい取調べが関係者に対して行われた。

宮澤は「この霊媒事件により東京心霊科学協会関係の関係者も留置されたり、取り調べられたりした。一時勃興の機運に向かった心霊研究もこれにより抑制されるに至った」として、弾圧によって心霊研究は抑制されたと記している。

 

<注14

■雑誌『心霊界』創刊号「わが心霊科学研究会が創立するまで」参照。雑誌『心霊と人生』1957年(昭和32年)1月号に再録されている。

他の資料の中には、雑誌は「昭和191月休刊となった」との記載も見受けるが、上記の文章中に次の一文があったので、これを「昭和194月休刊」の根拠とした。「大正147月号より『心霊と人生』と改題し、事務所を神奈川県鶴見町に移し、昭和122月浅野和三郎先生帰幽時まで連続したのである。帰幽後、研究会の一切は、東京心霊科学協会の手に移り、すべて浅野正恭理事長によって続刊することになり、昭和194月太平洋戦争の激甚につれ、政府の要請により一時休刊のやむなきに至った。が、終戦後、再び昭和244月復刊・・・今日に至る」

 

<注15

■皇国史観とは、狭義では文部省思想局が編集した『国体の本義』(1937年)に示された歴史観を指すが、一般的には昭和初期に後期水戸学や幕末の国学が主張した「万世一系の天皇」を戴く日本の国体(→天皇が統治権の総攬者である国家形態をさす)の特殊性を指す歴史観をいう。代表的論客に平泉澄、山田孝雄などがいる。

皇国史観によれば天皇は天照大神の直系の子孫であり、その「天孫たる天皇」が千代に八千代に治める国が日本である。その日本は“神の教えのままに=惟神(かむながら)”に統治されて永遠に栄える国であるとして、優位性と独自性を主張する。

 

■日本型ファシズムの担い手は誰か?

丸山真男著『増補版、現代政治の思想と行動』(未来社1964年刊)の「日本ファシズムの思想と運動」の中で「日本型ファシズム」を分析している。

丸山の解説によれば「狭義では軍部官僚が担い手であった」のは当然であるが、広義において「いかなる社会層がファシズムの進展に積極的に共感を示したか」として、中間階級(小市民階級)を二つに分類して、日本に於けるファシズムの社会的基盤となったのは前者の第一グループであると述べた。

<第一のグループ>

たとえば小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、自作農の上層、学校教員(特に小学校、青年学校の教員)、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官などの社会層。

<第二のグループ>

都市におけるサラリーマン階級、いわゆる文化人、ジャーナリスト、その他の自由知識職業者(教授とか弁護士など)、学生(学生は非常に複雑なので両方に含む)など。

 

■第一グループに属する人

第一の範疇に属する人は「それぞれ自分の属する仕事場、あるいは商店、あるいは役場、農業会、学校等、地方的な小集団において指導的地位を占めている。日本の社会的家父長的な構成によって、こういう人たちこそは、そのグループのメンバー(店員、番頭、労働者、職人、土方、傭人、小作人等一般の下僚)に対して家長的な権威をもって臨み、彼ら本来の「大衆」の思想と人格を統制している」「彼らの『小宇宙』においてはまぎれもなく、小天皇的権威をもった一個の支配者である」「従って一切の国家的統制ないしは支配層からのイデオロギー的教化は一度この層を通過し、彼らによっていわば翻訳された形態において最下部の大衆に伝達される」「これ等の人は町会、村会、農業会、もろもろの講、青年団、在郷軍人分会などの幹部を務めている」「そして軍国日本において、この被治者のミニマムの自発的協力を保証する役割を果たしたのはこの第一の中間層である」「第一の人たちの役割は、ちょうど軍隊における下士官の役割と似ている」と。

丸山の論文はファシズムの担い手を分析したが、これは当時の神社神道(国家神道)の実質的な担い手の層とダブり、さらにこの層が「神国思想」の大合唱の首謀者でもあった。

 

■「小天皇的権威」を持ったグループ

丸山の理論から「日本型ファシズムの担い手」の役割を考えて見る。

当時の政府は「第一グループの人たち」を上手に使いこなして、国内や占領地において統治を行った。そして「小天皇」的権威を持った第一グループは、時に国家の統制施策の実行者としてその意思を代行し、または「拡大解釈して擬似的代行者」としてそれらしく振舞った。彼等に支配された最下層の人たちは、外形から判断して彼らの指揮命令を国家の行為として受け止めて服従した。

 

■「責任の主体」は誰か?

現在の社会常識から言えば、本来法治国家に於ける行政行為には、すべてその裏付けとして法令や通達が存在する。法令や通達の根拠なしに国民の権利を制限すれば、その違法性が問われることになる。天皇制ファシズム下の時代、統治の末端や外地(台湾・朝鮮等)、占領地に置いては、統治行為の円滑迅速化のために、第一グループの層を通過していく過程で「行政行為が変質していくケース」もあったようである。

ここから当時の「小天皇」の行為は法令の根拠がなく、自らの意思と判断の下で行ったものであるので、それらの行為は国家の行為ではなく、国家は「責任の主体」たりえないという考えが主張されてくる(→責任の主体は国家ではなく「小天皇」にあるが、過去の条約で解決済みであると)。しかし最下層の人たちから見て第一グループの人たちの行為・指揮・命令は、国家の意思そのものであった。当時は現在ほど法令の根拠がやかましくなく、ファジーな部分が多い時代であった。これらは現在であれば私人間における「民法の表見代理の規定」が問題になるケースだが、行政行為にはそれがない。

これは皇學館大學教授の新田均が述べた、当時の政府は神社の参拝を「法的に強制」することはしなかったが、当時の社会風潮から「参拝を拒否することは事実上不可能である」という意味で「事実上の強制」は存在していた、という発言に繋がっていく。「小天皇」の行為は、まさに「事実上の強制」そのものであったから。

 

<注16

■丸山真男著『日本の思想』(岩波新書1961年刊)37頁。

 

<注17

■神道学者の新田均(皇學館大學教授)は当時の国民に対する神社参拝や信仰の強制に関して、著書『“現人神”“国家神道”という幻想』(神社新報社2014年刊、157頁)の中で次のように述べている。

――国民個人に就いては、昭和14年当時といえども「法的強制」は行われていなかったが、「事実上の強制」のほうは満州事変以後に次第にその圧力を強めていき、昭和14年ともなると、実際上、参拝拒否は不可能な状況になった。――

新田が述べている「事実上の強制」を行った主体は誰か、それは丸山真男のいう「第一のグループ」すなわち「小天皇的権威」を持ったグループであった。

ここから国家は神社参拝や信仰に対して「法的強制」を行っていない、そのため「責任の主体」にはならず「信仰を強制された国民」に対して一切の責任はない、という論理構成となる。ただし「事実上の強制」をどのように判断するかによって論者の主張は異なってくるが。

 

<注18

■津城寛文著『鎮魂行法論(新装版)』(春秋社2000年)62頁参照。

心霊研究グループも同様にたびたび警察の干渉を受けていた。次の一文からこのことが窺える。「大正12年、宇佐美(景堂)の父親が霊媒・中西リカを見出し、多くの依頼者を引き受けていたが、無届けの活動のため警察の干渉を受ける。そこで教会の設立を計っていたところ、優秀な霊媒を求める大阪心霊研究会の浅野和三郎から共働の招きを受けた。」

■当時既成の教団に所属していなかった出口王仁三郎は、たびたび警察から干渉を受けていた(『大本七十年史、上』)。明治憲法制定(明治22年:1889年)や教育勅語発布(明治23年:1890年)以降は、諸宗教、グループ等に対する監督・干渉が常態化していった。この根拠付けは憲法の「法律の留保」条項、刑法上の不敬罪、警察犯処罰令(内務省令)、治安維持法、出版法、新聞紙法等であった。大本に対する権力による規制の根拠はここにあった。

 

◆浅野和三郎研究:目次

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