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浅野のベース部分にある思想

目 次

 

◆この章の概要

①.浅野のベース部分にある思想

ア)儒教の教育

・儒教的雰囲気の世界

・英語の修得と漢学の素読の関係

イ)水戸学の影響

・水戸学の雰囲気の中で育つ

・浅野と水戸学との関係

・天皇制絶対論者

ウ)復古神道の影響

・大本霊学の影響

・「神霊主義者」時代の復古神道的表現

・「神道は非宗教」との考え方

・「宗教主義的神道」

・「接ぎ木する」という考え方

 

②.平田篤胤の思想について

◆この項目の概要

ア)平田篤胤の系譜

・復古神道のDNA

・平田篤胤となるまで

イ)平田篤胤の「国家主義的」な思想

・「近代天皇制イデオロギー」の思想的源流

・出版点数

『玉襷(たまたすき)』

ウ)平田篤胤の宗教性

・宗教性の命脈

・篤胤の「幽冥論・死後の安心論」

・「大和心」とは

エ)篤胤の幽界研究の動機

・「没後の門人」

・本居宣長の霊魂観

・平田篤胤の霊魂観

オ)スピリチュアリズムからの検証

・「死後の救済より現世での安穏」へ

・「宣長的生き方」に対する印象

・幽界の下層に集まる霊の特徴

・霊の世界を知ることの意義

・神観の違い

 

③.本田親徳の思想について

◆この項目の概要

ア)本田親徳について

・本田親徳と「平田霊学・水戸学」

・本田親徳の霊魂観

イ)鎮魂法と帰神術について

・鎮魂法について

・帰神術について

ウ)本田親徳の鎮魂帰神

・独自な行法

・本田親徳の継承者

・出口王仁三郎の解釈

・浅野和三郎の鎮魂帰神

エ)本田親徳の審神者(さにわ)概念

・本田親徳の審神者

 

④.長澤雄楯について

ア)長澤雄楯の役割

・長澤雄楯の立ち位置

・長澤雄楯の霊魂観

イ)「神秘主義的な神道」という位置づけ

・神秘主義的な神道

・神道人の間に存在した溝

 

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◆この章の概要

浅野和三郎が幼少期を過ごした家庭には、漢学的な雰囲気(=儒教的雰囲気)が強く漂っていた。また当時の茨城県南部には、幕末期における水戸藩の激しい騒乱の余韻が色濃く残っていた。このような環境の中で浅野は水戸学や儒教の影響を受けながら成長していった。さらに浅野の青年期にあたる明治20年代は、「明治のナショナリズム」の高揚期でもあり、このような雰囲気の中で「素朴なナショナリズム」を自然と身に付けていった。

 

浅野は大正4年に子供の病気がきっかけとなって、“心霊の世界(=スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ)”に足を踏み入れたが、翌年の春に出口王仁三郎との出会いがあり、王仁三郎を通して復古神道を学んだ。浅野が学んだ復古神道は「平田篤胤→本田親徳→長澤雄楯→出口王仁三郎」の系譜に位置していたことから、平田篤胤や本田親徳らの「神道の神秘主義的な思想」というDNAは、王仁三郎を経由して「和製スピリチュアリズム」の中に組み込まれていった。大本時代の浅野は「大本教の教理」は「復古神道」と同義であり、これは当然に「国民的道徳」であって「神社神道(国家神道)」の教えと同一であると理解していた

 

本章では最初に「浅野のベース部分にある思想」を大まかに概観した。そして各論として「平田篤胤の思想」や「本田親徳の思想」「長澤雄楯について」触れて、浅野が影響を受けたと思われる思想全体をまとめてみた。なお当時の支配的な思想である「国家神道」については別稿の「浅野和三郎研究ノート」の中で、浅野が生きた時代の背景にある「明治初期の宗教政策」と合わせて検証してみた。

 

①.浅野のベース部分にある思想

ア)儒教の教育

☆儒教的雰囲気の世界

浅野和三郎の両親はともに漢学(→儒教経学を研究する学問の総称)に関する造詣が深く、和三郎の兄弟たちは母から儒教の経典である「大学」「中庸」「論語」、および漢詩の入門書である「唐詩選」の有名な詩の手習いと読書の手ほどきを受けていた(注1)。

浅野は幼少の頃の母の手ほどきや漢学塾(萩原漢学塾)で学んだ影響などから、その後17歳から18歳頃までは日記・紀行・論説等を漢文体で書いており、彼の教養のベース部分には儒教があった。浅野の家庭は“士族の家”ではないが、少なくとも上京するまでは儒教的な道徳教育を受けながら育った。

 

☆英語の修得と漢学の素読の関係

明治初期において活躍した人たちの中には、英語を短期間で流暢に操れた人たちがいた。代表的な人物として岡倉天心や新渡戸稲造などがいるが、彼らは幼少期に漢学の素読を行っていた。このような事例から英語の修得と漢学の素読には密接な関係があるとする研究がある(注2)。浅野和三郎の幼少期には、両親の影響から漢文を素読する環境が彼の家庭にはあった。次兄の正恭も和三郎も漢学の素養があり、それぞれ上京して、正恭の場合は「共立学校」で上級校進学に必用な英語の学力を身に付けて「海軍兵学校」に進学した。和三郎の場合には「東京英語学校」で上級校進学に必用な英語の学力を身に付けて「第一高等中学校」に進学した。

 

和三郎は英文学の専門家の道に進んでいくことになるが、彼の教養のベース部分には素読で培った漢学(儒教)の素養があり、いわば軸足がしっかりしていたために、外国語である英語がより熟達したのではないかと推察できる。昭和3年のロンドンで開催された第3回国際スピリチュアリスト連盟(ISF)の総会(→浅野の著書では「世界神霊大会」という訳語を用いている)において、浅野は「近代日本における神霊主義」という演題で、各国代表に交じって英語でスピーチを行っている(注3)。

 

イ)水戸学の影響

☆水戸学の雰囲気の中で育つ

浅野和三郎が生まれた明治初期の茨城県南部一帯は、いまだ幕末期における水戸藩の激しい騒乱(→尊王攘夷派と佐幕派との対立)の余韻が残っており、周りには「水戸学」の雰囲気が色濃く漂っていた(注4)。水戸学の中に胚胎していた「万世一系の天皇統治」や、日本は神州であるとする「神国日本」。さらには「国体論」や「君民一体」的な思想は、吉田松陰、大久保利通、横井小楠(よこいしょうなん)、元田永孚(もとだながざね)、井上毅(いのうえこわし)などを通して、明治新政府の中に引き継がれていった。この水戸学的思想の影響を受けて「明治憲法(明治22年:1889年)」や「教育勅語(明治23年:1890年)」が制定された。

 

さらに明治20年代は「明治のナショナリズム(ナショナル・アイディンティティ)」の高揚期にあたる。この時期は浅野の多感な青春時代と重なっており、「ナショナリズム(国粋主義)」はその後の彼の「思想行動の基調(固着思想)」を形成していった。

 

☆浅野と水戸学との関係

浅野と水戸学との関係を裏付ける証言が大本事件の上告趣意書の中に残されている。それによれば「元来私(浅野和三郎)は郷土の関係上、幼少の時から水戸の学風に感化せられ、それが私の思想行動の基調を為して居ります。後年英文学を研究し、又大本を信仰してもその基調に何らの変化はないのであります」(注5)とある。

ここからも浅野は天皇制国家の下で、教育政策や国家秩序を支える理念(天皇制や国体論など)となった水戸学の影響を受けていることが分かる。このように天皇制イデオロギー思想から強い影響を受けた浅野は、天照大神の子孫である万世一系の天皇が国民を統治するという「天照大神→天皇→国民」の形態を肯定して、皇室を宗家とした「家族国家論」たる「君民一体」論を説き、スピリチュアリズムを「国家神道体制」の枠内においた(→この結果スピリチュアリズム思想はマルクス主義思想とは異なって、思想それ自体が弾圧を受けることはなかった。個々の霊能者が詐欺罪や窃盗罪に問われたケースがあったが)。

なお天照大神は太陽神とされ、宣長は太陽自体であり宇宙の最高神と位置づけている。また学問の世界では“天皇位”は皇祖神から連綿と続く聖なる“地位=現人神”であって、世俗的な“身分秩序の頂点”に立つという意味ではないとされている。

 

☆天皇制絶対論者

浅野和三郎は、海軍兵学校に入り高級軍人(天皇の軍隊)の道を目指した兄正恭の影響を強く受けている。その兄は弟の性格を「彼は寧ろ一本調子で、策略などを廻らし、駆け引きで事を運ぶことなどは、性格上出来ぬ方なのであります。ただ一本調子であるところから、熱心に事にあたり、また比較的意思も強固である」(注6)と述べている。

 

このように浅野の青年時代までに培われたところの「明治期のナショナリズム」や水戸学における国体論(→特に天皇制との関係)、さらには「漢学の儒教的な思想」が「一本調子で意志強固」な彼の思想のベース部分に組み込まれて、固着思想(固着観念)になって行ったと思われる。その後浅野は水戸学(→近代天皇制イデオロギーの思想的源流の一つ)と思想的親和性が極めて強い復古神道を出口王仁三郎から学んだ。

大本時代の浅野は教団内の多数派である「天皇絶対論者」の一員であり(注7)、大日本修斎会の会長(→大日本修斎会員の大多数が天皇絶対論者。会長の地位は大正1023日辞任)でもあった。その天皇絶対論者の浅野が、天皇に対する不敬罪容疑で逮捕・拘留されたのは皮肉である。

 

ウ)復古神道の影響

☆大本霊学の影響

浅野和三郎は大正5年(1916年)の春に出口王仁三郎と出会って大本霊学を学んだ。王仁三郎の思想には復古神道色が強いので、浅野の思想にも同じ色が強く出ている。そのため大正5年から大正10年(→大本事件、不敬罪事件)頃までの浅野の心霊観は、宗教団体の大本の教義や復古神道的(注8:復古神道は「古典・歌学・歴史などの考証研究」と「復古主義の神道説」が結びついて生まれたもの)な色彩が色濃く出た独特なものとなっている。

 

浅野は大正10年(1921年)212日の強制捜査によって始まった「大本事件」によって検挙されたが、その事件の2年前の大正8227日に京都の綾部警察署で、京都府警察部の中村安次郎保安課長と岡田佐蔵警部から任意の事情聴取を受けている。その時の警察の聴取書(注5)から、大本の組織や教義に関して次のように考えていたことが窺える。

浅野は大本(→当時の名称は皇道大本)に関心を持った頃は、大本の教理復古神道と同義」であり、「大本の教理国民的道徳であって、神社神道(国家神道)の教えと同一」である。したがって「皇道大本は宗教団体ではなく、神道精神そのものを普及する団体である」と理解していた9)。

 

また聴取書によれば、大本の立替後の政治形態について、浅野は「天皇の下に祭務と政務との二長官を置いて天皇を輔弼する」形の「祭政一致の天皇親政」の形態を考えていた。この政治形態は、平田篤胤系の神道人が唱えた「王政復古によって神祇官と太政官を復興して、理論上神祇官を上位に据えた天皇親政の国家形態」と同一である。ここからも「平田篤胤→本田親徳→長澤雄楯→出口王仁三郎」と流れてきた「復古神道のDNA」は、浅野に引き継がれていることが分かる。

 

このように大本時代の浅野は、自ら信じる大本の教義が唯一であり、当然のごとく大本が中心になって社会が動いていくという、宗教者特有の考え方をしていた。ここからもこの時期の浅野は、客観的視点を持った研究者ではなく宗教者であることが分かる。

大本時代に特徴的に見られた復古神道的な思考法は、浅野がスピリチュアリストとして活躍した時代にも色濃く残していた(注10)。

 

☆「神霊主義者」時代の復古神道的表現

浅野の神霊主義者時代の霊的世界に関する考え方は、「人間の自我表現の機関が四大別されるように、人間の置かれる環境もやはり四大別しえるようである。すなわち物質界、幽界、霊界、神界である」(注10)と述べているように、四界説に立っている。この立場は一霊四魂説との関連で解説されている。

一霊四魂は復古神道の中核理論であるが、本田親徳等によって現代的に解釈し直されたと言われている。四魂とは荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)を指し、万物の霊を構成しているとされる魂のことをいう。また一霊とはこれら四魂を統括する霊をいう。この一霊四魂が天から下されて分霊(わけみたま)となって肉体に宿った時に、初めてヒト(=霊止)が成立するという理論が唱えられた。

 

浅野は神霊主義者時代に「心霊科学の見地から観た時に日本の四魂説は初めてその真価を発揮する」と述べている。そして、荒魂を肉体とし、和魂を感情及び幽体の働きとし、幸魂を高等意識及び理性とし、奇魂を大我であるとして、スピリチュアリズムの概念と四魂説とを結びつけて解釈した。ここからも「和製スピリチュアリズム」と復古神道との関係性が見えてくる(注10)。まとめると次のようになる。

荒魂(あらみたま)=現界=肉体、肉体意識で欲望

和魂(にぎみたま)=幽界=幽体、幽体意識で感情

幸魂(さきみたま)=霊界=霊体、霊体意識で理念

奇魂(くしみたま)=神界=真体、本体意識で神智

 

☆「神道は非宗教」との考え方

明治政府は「祭祀と宗教の分離」を行って、神道を「皇室の神道(国家の祭祀)」と「民間の神道(神道信仰)」の二つに分けた。これは明治4514日の太政官布告から窺える(注11)。この布告によって、神社はすべて「国家の祭祀」として国家の管理下に置かれて、「神社は国家の出先機関」となった。さらに「社格制度」によって、全ての神社は天皇の祖先神を祀る「伊勢神宮を本宗」として社格が与えられて、中央集権的に再編された。神官に対しては「神官職制」を定めて、他の宗教とは異なる特権的地位たる官公吏の地位を神官に与えて、世襲を廃止させた(注11)。

 

このようにして政府側から、皇室の神道を含む全ての神社神道は宗教ではなく、「国家の祭祀や道徳である(神社非宗教論=道徳論)」という「日本型政教分離」が唱えられた。この結果、個人の信条如何にかかわらず神社崇拝は道徳である「崇敬」とされて、国民の義務とされた。ここからも明治憲法下における「思想信教の自由」は限定された権利であったことが分かる。そのためスピリチュアリズム思想の普及運動も大きな制約下に置かれていた。

この「神社非宗教論=道徳論」とする考え方は、憲法学者の大石義雄(1903年→1991年)が述べた「神社神道(=国家神道)は日本文化の中に有する風習(=神道精神)であり、いわば公共的なものであって宗教ではなく国民道徳的なもの」との説と共通する。

 

☆「宗教主義的神道」

これに対して国民の間で広く行われている「神道信仰」は「宗教主義的神道」や「祈祷卜相的神道(きとうぼくそうてきしんとう)」と呼ばれた。徳川時代まで盛んであった神仏習合的な神道や復古神道、「創唱宗教系の教派神道」などは、神社神道から切り離されて「宗教主義的神道」「祈祷卜相的神道」と呼ばれて、神社神道より一段低く位置付けられて差別化された。

この「神道は宗教に非ず、国家の祭祀道徳である」とする政府の見解は、当時の西洋諸国が取り入れていた政教分離の規定を念頭に置いたものであって、西本願寺の指導的僧侶の島地黙雷(しまじもくらい:1838年→1911年)の説にのったものであった(注12)。

 

☆「接ぎ木する」という考え方

神道は非宗教であるとする国家神道の体制下で活躍した浅野は、「宗教者時代」に持っていた「大本の教理復古神道と同義であり国民的道徳である」との考え方は、大本を離れた以降は捨て去った。しかし「神社神道は非宗教であり国民的道徳である」とする考えは依然持っていた。なぜなら当時の大多数の国民的感情から云えば、神道・儒教・皇道(=天皇が行う政道)は道徳の範疇にありこれらは非宗教である、との観念を持っていたから。

 

浅野はこのような「神道は非宗教」の時代にスピリチュアリストとして活躍したが、それでは彼の意識の中に「新スピリチュアリズム(Modern SpiritualismNew Spiritualism)」を、ことさらに「神道という宗教に接ぎ木する」といった観念は存在したのであろうか。

社会学者の田中千代松は、浅野が唱道したスピリチュアリズムを「新スピリチュアリズムの神道への癒着」と述べたが、この表現は「新スピリチュアリズム」と「国家神道の思想=日本思想」や「国粋思想」を抱き合わせにした、という意味で使ったものである(注13)。

 

推察するに浅野は当時の大多数の国民が持っていた「国民的道徳たる神道観」や日本の「伝統的な祖霊観・霊魂観」で、西洋から入ってきた「新スピリチュアリズム」を表現しようとしただけであって、殊更に「神道という宗教」に接ぎ木しようとする意思はなかったと筆者は見ている。つまり「翻訳は解釈である」といわれるように、浅野は訳語選定の際に当時の社会風潮に大きく影響されて、それに見合った「国家神道の思想=日本思想」的な用語や概念を用いた、そのため結果的に日本的な神道的表現になった、そのように筆者は理解している。

 

浅野が唱えたスピリチュアリズムを注意して読んでみれば、必ずしも「宗教としての神道(→何をもって神道というのかの問題はあるが)」を観念したわけではなく、むしろ翻訳の過程で日本の「伝統的な祖霊観・霊魂観」と調和させようと苦心惨憺した印象を筆者は受ける。したがって当ホームページでは「神道的スピリチュアリズム」という言葉は正確性に欠けるので、「和製スピリチュアリズム」という言葉に統一した。なお「神道は宗教なのか?」に関しては、戦後国家神道が解体された以降もたびたび議論となっており、決着はついていないようである(注14)。

 

②.平田篤胤の思想について

◆この項目の概要

平田篤胤の幽冥観や幽界研究は、いわゆる「表の神道(神社神道)」には引き継がれずに、神道の神秘主義的なグループ(→いわゆる「裏の神道」グループ)によって継承されてきた。平田篤胤系の神道家に本田親徳がいる。本田の霊学は長澤雄楯や出口王仁三郎を経由して浅野和三郎に引き継がれてきた。この系譜から見て「和製スピリチュアリズム」には、平田篤胤や本田親徳らの「神道の神秘主義的な思想」であるDNAが組み込まれていると言える。一般に「霊学」とは、宗教の神秘主義的な教え(→たとえば神道の神秘主義的な思想など)や、死後の世界や霊的な存在について行法を通して研究しようとする学術を指す言葉として用いられている。この項目では平田篤胤の思想を概観してみた。

 

ア)平田篤胤の系譜

☆復古神道のDNA

本居宣長(もとおりのりなが:1730年→1801年)と平田篤胤(ひらたあつたね:1776年→1843年)によって「復古神道(古神道、古道)」は「集大成」された。その後「復古神道」の神秘主義的な教えの部分は、本田親徳(ほんだちかあつ:1822年→1889年)から、長澤雄楯(ながさわかつたて:1858年→1940年)を介して出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう:1871年→1948年)に、「平田篤胤→本田親徳→長澤雄楯→出口王仁三郎」という系譜(注15)で流れ込んでいった。

 

☆平田篤胤となるまで

19世紀前半において『仙境異聞(せんきょういぶん:1822年)』や『勝五郎再生記聞(1823年)』を著した国学者の平田篤胤は、スピリチュアリズムの世界では先駆者として位置づけられている。

平田篤胤は、秋田藩の大番組頭、大和田清兵衛祚胤(おおわだせいべえとしたね:禄高100石)の第四子として生まれて、大和田胤行(幼名は正吉)と名乗った。篤胤は20歳の時に脱藩して江戸に出てきたが、江戸での生活は苦しかったという。20歳から25歳までの生活状況についてはさまざまな説が述べられているが、その中でも多くの伝記作家は「(篤胤は)常盤橋付近のある商店の炊事夫となった。この仕事は用が済んだ後に読書の時間があるのでここに長く務めていたが、常盤橋見附の番に当った備中(岡山県)松山の板倉周防守に見出され、それから平田家の養子となった」(注16)という説を採っている。篤胤は25歳の時に備中松山藩士、平田藤兵衛篤穏(あつやす)の養嗣子となって、名前は大和田正吉胤行から平田半兵衛篤胤(平田篤胤)に変わった。

 

イ)平田篤胤の「国家主義的」な思想

☆「近代天皇制イデオロギー」の思想的源流

平田篤胤の思想は大きく二つの部分に分けられる。一つは「近代天皇制イデオロギー」の思想的源流となった「国家主義的(国粋主義的)」な思想であり、他方は「幽冥論や死後の安心論」といった宗教性を帯びた思想である(注17)。

一般に「近代天皇制イデオロギー」とは次のような説明がなされている。「近代天皇制イデオロギーは国学と後期水戸学に思想的源流を有し、明治憲法(1889年)や教育勅語(1890年)によって基盤が確立して、家族国家論によって完成をみたイデオロギーを指す」と。

 

篤胤の思想の「国家主義的(国粋主義的)」な部分は、幕末期においては水戸学(注18)と共に「尊王攘夷運動の太い支柱」となって影響力を行使した。とくに平田塾(→通称名は気吹舎社中:いぶきのやしゃちゅう)を介して、豪農や神官といった指導層に強い影響力を広げていった。なおこの私塾からは多くの勤王の志士が輩出されている。さらにこの思想は敗戦までの昭和の一時期、天皇制国家を支える主要なイデオロギーとして時流に乗って盛んに取り上げられた。

 

☆出版点数

篤胤に関する研究書や論文数は、明治・大正期にはさほど多くなく、この時期における篤胤は「学術的に顧みられることは少なかった」という。しかし昭和に入ると時流に乗って数多く刊行されている。篤胤に関する論文は昭和7年(1932年)をピークに昭和11年にかけて数多く執筆され、著書の出版点数は“没後百年”を迎えた昭和18年(1943年)が際立って多くなっている(注19)。

この時期の篤胤の思想は、「国家主義的(国粋主義的)」な部分のみがクローズアップされて、主に皇国史観(注20との関係で時流に乗って盛んに取り上げられた。しかし戦後は一転して「皇国史観の元祖」とか、「狂信的国粋主義の思想的根拠」や「多くの日本人を不幸に追いやった元凶」と呼ばれて、水戸学と共に打ち棄てられて、顧みられることはなくなった(注21)。

 

『玉襷(たまたすき)』

このような篤胤の「国家主義的(国粋的)」な思想は、著書『玉襷(たまたすき)』(注22)の記載からも窺い知れる。『玉襷』は篤胤の学問的特徴を記した著書として知られている。

篤胤によれば、万国を開いたのは我が国の神代の神々であり、その神々が我が国に現れたのであるから我が国が神の本国である(→日本は世界の宗主国)。我々身分の低い男女に至るまでみな神の子孫である(→選民思想)。我が国は天津神の特別な恵みによって生れた国であり、天地開闢から現在まで皇統が連綿と続いているので神国である(→万世一系の天壌無窮)。このような内容で『玉襷(たまたすき)』は綴られている。篤胤のこれらの思想からも「皇国史観」との相性が良いことが分かる。

 

なお本居宣長は太陽神である天照大神(あまてらすおおみかみ)を宇宙の最高神として位置づけて、この最高神が日本に生まれたのだから日本が宗主国であり、その子孫が万世一系の天皇であるとする。これに対して篤胤は天照大神を中心とした神観ではなく、天之御中主神(あめのみなかぬし:高天原に最初に現れた神で造化三神の一柱)を創造の根源神としている点に宣長との違いがある。

 

このような篤胤の「国家主義的(国粋主義的)」な思想に対して、「幽冥論や死後の安心論」といった宗教性を帯びた思想の扱いについては、篤胤の思想がもてはやされた昭和期においても「非学術的なもの」とされていたという。しかし民俗学(→明治末期に柳田国男が民俗学を新国学と呼んで篤胤を「復権」させた:注23)や心霊研究の分野においては、篤胤の思想のこの部分において先駆性を認めている。

 

ウ)平田篤胤の宗教性

☆宗教性の命脈

平田篤胤の宗教性を帯びた「幽冥論」や「幽世(かくりょ)における死後の安らぎ」、さらには「祖霊崇拝を強調」した思想は、新政府の「復古政策・祭政一致政策」によっていったんは取り込まれたが、その宗教性故にまもなく「開明政策(近代化政策)」への転換に伴って、政府中枢から排除された。そして明治5年(1872年)3月の神祇省廃止によって影響力を失った。その後明治13年(1880年)に神道事務局の神宮遥拝所における「祭神論争」(注24)に敗退したことによって、その思想は「表の神道(神社神道)」からも排除された。

 

政府中枢から排除された「復古派神道家(復古派国学者)」は、その後在野において主に神職や皇学者として「近代天皇制イデオロギー」を底辺から支える形で活動を展開した。さらに排除された「篤胤の思想」は、教派神道の教義の中や「裏の神道(神道の神秘主義的なグループ)」の世界で生き続けて、そのDNAは和製スピリチュアリズムの中に「平田篤胤→本田親徳→長澤雄楯→出口王仁三郎→浅野和三郎」の流れとなって、現在でもその命脈を保っている。倫理学者の相良亨は、篤胤の幽冥界が「日本の思想史の中で消えていってしまったような感じがする」と述べているが(注25)、「神道の神秘主義的なグループ」の中で命脈を保ち続けている。

 

☆篤胤の「幽冥論・死後の安心論」

平田篤胤の宗教性を帯びた「幽冥論」では、この世界は「顕事(あらわごと:現世)」と「幽事(かくりごと:死後の世界)」の二元的に構成されており、「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」「高御産巣日神(たかみむすびのかみ)」「神産巣日神(かみむすびのかみ)」を「造化三神(ぞうかさんしん)」と位置付けて、これらを無から有を創造する創造神としている。特にこの三神の中でも「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」を創造の根源神として「拝一神教」的に位置付けている(→本居宣長は篤胤とは異なり、太陽神の天照大神を宇宙全体の最高神として重視している)。他の二神の「産霊(むすび:天地万物を生み成す神のこと)」については、「高御産巣日神(たかみむすびのかみ)」は「男神」で顕界を統括する神とし、「神産巣日神(かみむすびのかみ)」は「女神」で幽冥界を統括する神としている。

 

そして『霊の真柱(たまのみはしら)』等の著書において、顕界の主宰者は「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の子孫である天皇が司り、幽冥界の主宰者は出雲系神統の祖にあたる「須佐之男命(=素戔鳴尊、すさのうのみこと:記紀神話では天照大神の弟)の子孫である大国主神(おおくにぬし)」が司ると述べている

 

このような神観を持った篤胤は『霊の真柱(たまのみはしら)』(注26において、「幽冥界」の探求によって死後の世界が明らかとなり、死後の世界が明確になればこの世での生き方が確固としたものになると述べている。そして死後の世界の探求の重要さを次のように記している。

――古学する徒は、まず主と大倭心を堅むべく・・・斯くてその大倭心を、太く高く固めまく欲するには、その霊の行方の安定を、知ることも先なりける――

<現代語訳>:古学を学ぶ者は大和心を固めなくてはならない。その大和心を固めるためには死後の霊の行方を知る必要がある。

 

☆「大和心」とは

篤胤が述べている「大和心(やまとごころ)」とは「日本人の持つ、やさしく、やわらいだ心情」のことであり、勇猛で潔い精神を表す「大和魂(やまとだましい)」とは意味が異なる。また古学(国学のこと)とは「儒教や仏教渡来以前の日本固有の文化および精神を明らかにしようとする学問」のことであり、「古典、歌学、歴史などの考証研究」を指す。

ちなみに「復古神道」とは上記の「古典、歌学、歴史などの考証研究」に、仏教や儒教伝来以前の「神道の本来の姿」を追求した「復古主義の神道説」が結びついた思想をいう。なお国学者が述べる「神道の本来の姿」とは、現実的にはシャーマニズム、精霊崇拝、自然崇拝、祖霊崇拝等が結びついた宗教的な世界のことになる。

 

篤胤は死後の霊は「幽冥界」に赴いて「神」となって、永遠にこの世の一角(=幽冥界)にとどまって子孫を見守り続ける(→この考えは肉体とは別に死後も存続する霊魂の存在を認めていたことになる)。幽冥界からはこの世がよく見えるので、この世で生活している「君・親、また子孫を助け守る」として、柳田国男の『先祖の話』をほうふつさせる記述が『霊の真柱(たまのみはしら)』の中にある。このような「宇宙創造神」や「幽冥の主宰神」、さらには「霊の行方の安定(安心の問題)」に積極的な関心を持った点が、篤胤の師である宣長の消極的関心とは対照的である。

 

エ)篤胤の幽界研究の動機

☆「没後の門人」

本居宣長は『古事記』の文献学的な研究を行って、日本固有の文化および精神である「古道(復古神道、古神道)」を明らかにしようとした。そしてこの「古道が実現された世界」を理想社会とした。平田篤胤は宣長の「授業門人姓名録」に記載がない「没後の門人」とされているが、篤胤自身は「自ら宣長の思想的嫡子なることを公言」している(注27)。

篤胤は周知のとおり「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」を宇宙の主宰神とする「一神教的(但し拝一神教的)」な神観念を持ち、「幽世(かくりょ)における死後の安らぎ」と「祖霊崇拝を強調」した。篤胤の霊魂観は宣長の霊魂観と異なっており独特である。両者には死後の世界に対する理解の違いがあり、この差異は人が死んだら霊魂は何処へ行くのかという「安心の問題(霊の行方の安定)」に顕著に表れている。

 

☆本居宣長の霊魂観

宣長は人の死後は善人も悪人も全て「黄泉の国(よみのくに)」へ行くのだから、「魂の行方を知るということは不要」と述べる。「黄泉の国」とは、「地下の根底に在って、根国底国(ねのくにそこのくに)とも申して、甚だ汚く悪き国にて、死せる人の罷りゆくところなり」(注28)と。このように宣長の思想は、死後の世界を「汚く悪い世界」と位置付けて、死後の世界に思いを巡らすよりも今ある現実世界をしっかりと生きていこうとする現実志向に特徴がある。

宣長は篤胤とは対照的に幽冥界に対して関心を持つことや、幽冥界に関する説に対しては「漢意(からごころ)」と言って退けている。「漢意」とは近世の国学者が儒者に代表される「言挙(ことあげ)」する心を批判的に述べた言葉(→「やまとごころ」VS「からごころ」)である。

 

☆平田篤胤の霊魂観

これに対して篤胤は、「この世において安心を得るためには、常に霊魂の行方を理解しておく必要がある」と述べて(注29)、現実志向の宣長とは逆の立場に立っている。今をよりよく生きるためには死後の世界を知らなければならないとした点に特徴がある。

この篤胤の説を図式的に示せば次のようになる。

 

「現世の安心を得るためには」→「死後の霊の行方を知る必要がある」→「そのためには幽界の事情を調査することが大切である(幽界研究の必要性)」→「幽界の事情が分かれば、安心してこの世を生きることができる」と。

この図式から篤胤の幽界研究の動機が明らかとなってくる。ここに常に「幽冥界」の事情に関心を持ち続けて、情報所持者に対して聞取り調査を行って『仙境異聞』や『勝五郎再生記聞』を著した篤胤の生き方と、宣長の生き方の違いが出ている。

 

オ)スピリチュアリズムからの検証

☆「死後の救済より現世での安穏」へ

日本の中世期における精神世界の特徴は「他界浄土への往生願望」、つまり死後において浄土に往生すること、これが人々の究極の目標であった。宗教学者の佐藤弘夫(東北大学教授)はこの根拠として、12世紀から14世紀にかけて「人々の霊魂を彼岸に送り出す装置」である「板碑建立」が盛況を極めたこと。12世紀の高野山への遺骨納入に始まるとされる「聖地納骨」によって、新たに各地にミニ霊場が出現して「納骨信仰」が盛んになったこと。このような点に人々の「他界浄土への往生願望」の強さが表れていると述べている。

これに対して鎌倉時代の僧である日蓮(1222年→1282年)は、「他界浄土」ではなく現実世界を変革してこの世を浄土に作り変える教え、つまり「来世ではなく今を生きることの大切さ」を説いた。日蓮の現世重視の教えは新興の商人層に受け入れられて、その後「死後の救済より現世での安穏」を重視する傾向が徐々に強まっていった。

 

中国人の考え方は極めて現実的であり即物的である。この現世中心主義の傾向は、中国が発祥地である儒教の教えにも表れている。日本の儒教は江戸時代に武家層に定着して、水戸学にも影響を及ぼした(→水戸藩士の会沢正志斎が著した『新論』は、幕末期の尊王攘夷の活動家に影響を及ぼしたが、この著書は儒学理論によって執筆されており、儒学を基礎教養とする武士に広く受け入れられた)。さらに江戸時代全般を通して社会全体の世俗化が進み「他界浄土への往生願望」が衰退していった(注30)。

このような事情が背景にあって、本居宣長が述べた「死後の世界のことを考えるよりも現実世界をしっかりと生きることが大切」という現世重視の考えが公然と主張されるようになり、人々に広く受け入れられていった。

 

宣長は「死後の安心」に関してほとんど関心を持っていなかったため、人智の及ぶところではない「あの世の存在」や「霊魂の不滅性(=死後個性の存続)」などは明確に否定しないまでも、積極的に考えようともしない態度をとった。このような「否定しないが積極的に考えることもしない」という宣長的な考え方をする人は、現代の知識人にも多く見られる。これに対して篤胤は宣長的な「現実的で合理的な思想」に飽き足らず、死後の世界に思索の手を伸ばしていった。

 

☆「宣長的生き方」に対する印象

現世重視の宣長的な考え方に対しては、筆者は次のような印象を持つ。

この世では物質や金銭などの“モノ”をより多く所有し、肉体的健康を維持しながらより高い地位や権威を獲得した者が人生の成功者であると一般には信じられている。またこの世では本来「死後の問題」や「こころの在り方」を追求するはずの宗教までもが、現世利益を伴った「物質崇拝の信仰」に置き換えられている。いわばこの世は価値の基準が物質の上に置かれた「物質至上主義社会」であるといえよう。

 

このような物質社会で宣長的にあの世の存在(=霊の世界)を曖昧なまま棚上げにして、「現実世界をしっかりと生きることが大切」と強調することは、物質至上主義的な生き方を奨励することにつながる。人生がこの世だけで終わるのなら物質至上主義的な生き方も首肯できるが、人間は目に見えない「霊」と、形体を持った「肉」の二つの実体を合わせ持つとする「実体二元論」的な考え方をする筆者からすれば、この考え方には賛成できない。

 

死は遅かれ早かれすべての人に訪れる切実な問題であるはずなのに、大部分の人は「あの世の存在」を意識的に考えようともせず、当面の障害物に右往左往しながら「出たとこ勝負」の生き方を積み重ねている。このような近視眼的な「宣長的生き方」は、困難に出会った際の対応の仕方に「篤胤的な生き方」との差異となって表れてくる。

つまり「死を一つの通過点とした生き方」に思いを馳せる、ということをしない「宣長的生き方」からは、あたかも顕幽にまたがる大海原を海図も持たずにやみくもに出航し、やがて大シケに出会い、嵐に翻弄されてマストは折れ、潮風に流されて漂う一隻の“難破船(→困難が持つ真の意味が分からず感情の嵐に翻弄された状態)”、このような印象を受けてしまう。「宣長的生き方」をする多くの現代人に対して筆者はこのようなイメージを持つ。

 

☆幽界の下層に集まる霊の特徴

篤胤の「今をよりよく生きるためには死後の世界を知らなければならない」という「安心の問題(霊の行方の安定)」、さらに現世は仮の宿であり修行の場であるとする「寓居の修行」という考え方は(注31)、スピリチュアリズムと相通じるところがある。

スピリチュアリズムによれば人は死によって肉体を捨てた後、冥府(=中間境)で霊的調整を行って(→死後の身体である幽体を完成させる)、速やかに自分の霊的レベルに見合った“世界(=幽界)”に出ていくことになっている。しかし霊によって赴く世界(=幽界)は、浄化のための境涯であったり、物的波動から抜け切れない幽界の下層世界であったりと、それぞれ異なっており一様ではない。

すみやかに「明確な霊的自覚」が芽生えて、霊の世界で“霊本来の生活”を行うためには、前提として自分が死んで霊の世界に来たという「明確な死の自覚」を持たなければならない。この自覚が持てなければ、死によって肉体を捨てたにもかかわらず本人は死を自覚せず、意識がいまだに地上に向いている「地縛霊」となってしまう。

 

このようにいまだに肉体が存在すると信じているため、物的世界から意識が離れられない地縛霊や、地上時代の歪んだ欲望(→残忍さ、傲慢さ、貪欲、淫乱など)が魂に深く染み込んでしまっている霊などが、冥府を含めた幽界の下層世界に数多く存在している。後者の霊の場合には、その歪んだ内面の世界が、自分の周りにそっくりそのまま客観的な世界となって現れる。なぜなら霊の世界は「思念が形になる世界」なので、自分で作った思念の世界が現実に住む客観的な世界となるから。その客観的な世界で“魂のシミ抜き”を行うことになるため、その霊にとってはその境涯が苦しい“浄化の世界”となる。

このような霊が集まる境涯以外にも、モノの考え方が極めて物質的な霊が集まる境涯が幽界の下層世界に広がっている。このような霊から見れば、何でも望みがかなう幽界の下層世界は「極楽浄土の世界」に思えてくる。

 

☆霊の世界を知ることの意義

このような死後の世界における地縛霊の存在や、“浄化の世界”で苦しむ霊の実情を知れば、明確な「死の自覚」や「霊的自覚(→「人間は霊である」という本質を理解すること)」を持つことの大切さに気が付く。さらに死後の世界の実情を知ることによって、この世をどのように生きたら良いかが自ずと理解されてくる。

これに対して宣長の現実志向の考え方、死後の世界を考えるより今ある現実世界をしっかり生きることが大切とする考え方では、何のために“苦しみの多い現世”を生きるのかという本質部分が曖昧となってしまい、結果的に地縛霊や浄化の世界で“魂のシミ抜き”を必要とする低級霊を増やすことになってしまう。これでは高級霊が問題にしている「霊界の悲劇」は解消できない。

 

☆神観の違い

平田篤胤の神観とスピリチュアリズムの神観では、「神」に関する考え方が異なっている。篤胤は創造神を一神教的に理解していたが、それは「拝一神教」的な理解の仕方であった。「拝一神教」とは、特定の一神のみを崇拝する点では「唯一神教」と同じだが、他の神々の存在そのものは否定しない(→ただし崇めることはしない)。この点において「唯一神教」とは異なる神観である。

 

スピリチュアリズムの神観は「唯一神教」である。ここで言う「他の神々」とは高級霊のことになるが、高級霊のシルバーバーチは「指導霊崇拝」を否定しているので、上記で言う「他の神々(高級霊)」を崇拝することはしない。

スピリチュアリズムは神と人間との間には、創造するものと創造されたものという厳然たる一線が引かれている。また神と人間との関係は、図式的に言えば「神→霊的法則⇔人間」であって、神が人間に直接相対する関与の仕方を否定している。そのため「格別の加護や配慮を神に願う祈り」「神前に供える物の多寡によって祈りが叶えられたり叶えられなかったりすること」「依怙贔屓な扱いを求める祈り」「無意味な長時間の祈り」などのような、霊的法則に反した人間側の利己的な思惑に、神が応えてくれることはない。なぜなら霊的法則に合致していなければ祈りの念は神に届かないからである。

 

高級霊のシルバーバーチは、信心深い人が抱く信条に対して「神が慈悲深いということを、どこのどなたが説いておられるのか知りませんが、神とは摂理のことです」「究極においては慈悲深い配慮が行き渡っている」(注32)と述べている。このように「法則としての神」を前面に出すことによって、奇跡や依怙贔屓等による例外は一切存在せず、人間を含めた万物に公平に「神の愛」が行き渡ることになると説いている。このようにスピリチュアリズムの神観は、篤胤の神観とは大きく異なる。

 

③.本田親徳の思想について

◆この項目の概要

この項目では「鎮魂帰神」や「審神者(サニワ)概念」など、浅野和三郎に強い影響を与えた本田親徳(ほんだちかあつ:1822年→1889年)の考え方を見ていく。なお一般に言われている「本田霊学」とは、幕末から明治期にかけて活躍した国学者「本田親徳が再興した鎮魂法・帰神術の神法をいう」(渡辺勝義)とされている。

 

ア)本田親徳について

☆本田親徳と「平田霊学・水戸学」

本田親徳は薩摩藩出身の神道家で、本田主蔵(典医?)の長男として生まれた。21歳のときに京都の薩摩藩邸で慿霊した少女が和歌を詠むのを見て「適々狐憑きの少女に愛慿霊現象を実見して霊学研究の志を堅む」(注33)として、これを契機に霊学研究に入ったという。鈴木重道著「本田親徳全集解説」によると「(本田親徳は)18歳の時、皇史を読み発憤して古来の神法究明に志したと自書しているが、その頃修行の為郷里を出て上洛し、次いで出府して水戸の会沢正志斎に学んだ。天保13年(1842年)より弘化元年(1844年)に至る3ケ年の間であって、この間平田篤胤の家(=気吹舎)にも出入りしたようである」(注34)との記載がある。ここから一般に本田の思想的源流には、平田篤胤の霊学と水戸学があるとされている。

 

☆本田親徳の霊魂観

本田は自らの霊魂観である「一霊四魂」を著書『道之大原』(明治163月)の中で、また副島種臣(1828年→1905年:明治の官僚・政治家)との問答をまとめた『真道問対』(明治1610月)の中で明らかにしている(注35)。本田によれば、一霊(直霊)を所有しているのは人間のみであり動植物にはないという。

神道研究家の渡辺勝義は「本田霊学」を次のように解説している(注35)。「宇宙の活物(動物・植物・鉱物すべて)は四魂を授かり有しているが、直霊は人間にのみ授かっている。如何なる人であれ、生まれながらに宇宙創造の産霊(むすひ)の大神の分霊(わけみたま)を賜っている」。人間は分霊を賜っているので「生き通しのもの」であると。さらに「本田霊学では人間の体は魄と解しており、人はだれであっても一霊四魂を賜るが故に神の子であるが、祖先に繋がる体があるために人は心ならずも私欲の念を起こして穢れを生じ、また罪を犯すに至るものである」と述べている。

 

イ)鎮魂法と帰神術について

☆鎮魂法について

「鎮魂」という言葉は、宇麻志麻遅命(うましまじのみこと)が十種の神宝を用いて行った鎮魂法が、その後次第に整備されて「宮中祭祀の鎮魂祭として儀礼化」された、これが『大宝令(たいほうりょう)』(701年)において制度化されたとされる。また『令義解(りょうのぎげ)』(833年)には「離遊の運魂を招いて、身体の中府に鎮める」とあり、『令集解(りょうのしゅうげ)』(859年→877年)では「職員令」や「神祇令」の中に「鎮魂」という言葉が出てくる。

 

鎮魂法は古神道で最も重視された行法の一つで、解説書によれば鎮魂(魂を鎮める事)には「みたまふり」と「みたましずめ」という二つの意味があると記されている。「みたまふり」とは「神の御霊」を招いて自らの魂に活力を呼び起こす方法であり、祭りの際の神輿を上下左右に振り動かすことによって、神輿に乗っている「神霊」の霊威が高まり、豊作などの願いがかなうとされる。「みたましずめ」とは自らの魂が離れていくのを招き返して自らの体の中に鎮めることをいう。

鎮魂法には幾つかの種類が知られているが、本田親徳系統の行法や禊系統の川面凡児(かわずらぼんじ:1862年→1929年)の行法が有名である。この他に神仙道系の行法もある。

 

☆帰神術について

「帰神」については、『古事記』の「人代篇、其の四」(注36)に仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)が琴を弾き、神功皇后(じんぐうこうごう)が憑代となり武内宿禰大臣(たけうちのすくねのおおおみ)が審神者(さにわ:「沙庭」という文字が使われた)として帰神を行った旨の記載がある。神功皇后のタイプは憑霊型であり、口寄せ系統巫女(→霊を自らの肉体にかからせて霊の言葉を伝えるタイプのシャーマン)の象徴的な霊媒である。当時の皇后には、その役割として「神懸りができる能力」が求められていたようである。

古代における帰神(霊の憑依をいう)は、琴師(霊に通じて降霊を神主に転ずる役で弾琴者)と神主(霊媒)と審神者(降霊の正邪真偽を調べる役の審判者)の三者で執り行われていた。琴師は、琴を弾いて自分自身に「神界より神霊の御降りを願」って、その降りてきた霊を琴師自身から、神主に「転霊」する役を行う。神主とは憑依されるところの役であり、審神者とは神主に憑依してきた霊の身元の判定を行う者をいう。

 

一般的な解説書の記載によれば、帰神(霊の憑依をいう)には「自感法」「他感法」「神感法」の種類があるという。「自感法」はほとんど無自覚に「霊」が憑ってしまう場合で、神主と審神者という対座形式をとらないで、一人で帰神を行う方法のこと。「他感法」は被憑依者(神主、霊媒)に意図的に霊の憑依を起こさせる方式で、審神者が被憑依者(神主、霊媒)と対座して、憑依を促して神主に「憑依した霊の真偽正邪等を弁別して全体を統御する」形をとる。「神感法」とは、なんらの準備もなく霊の側が一方的に憑依してくるもの。現在では帰神法は神社神道では行われておらず、一部神道系の宗教団体でのみ行われているという。

 

ウ)本田親徳の鎮魂帰神

☆独自な行法

本来「祭り」には「顕斎(祭)」と「幽斎(祭)」の二つの形式があり、一般に各神社で行う祭事を「顕斎」と呼んでいる。この「顕斎」に対して、霊を以て霊に対する方式を「幽斎」と呼んでいる。

本田は『道之大原』の中で「幽斎は霊を以て霊に対し、現(顕)斎は形を以て形に対す。故に幽斎は神像宮社無く而して真神を祈る。現斎は神像宮殿有りて而して衆神を祭る。俗学蒙昧にして古義を知らず・・・」と記している。「霊対霊」である幽斎には神殿・儀式・祭典はなく、鎮魂法・帰神術が幽斎の法であると。これに対して顕斎は、神を見えるようにして祀ることであると述べている。

 

本田親徳の鎮魂帰神では、古来の形式を改めて、審神者が琴師を兼ねて、琴の代わりに石笛(いわぶえ)を用いた。本田によれば、審神者の役割は「石笛を吹き、神主の心身を浄める。而して審神者の身体へ、神界から神霊の御降臨をお願いする。御降りになられたならば、その神霊を神主に転霊する」、審神者はこのような役目を担っていた。また鎮魂を「顕斎鎮魂」(祭事鎮魂・行事鎮魂)と「幽斎鎮魂」に分けて、「幽斎鎮魂」は「顕斎鎮魂」が動作を伴う動的なものに対して非常に静的なものであると述べている。

 

宗教学者の津城寛文は著書の『鎮魂行法論』において、本田の鎮魂帰神に見られる行法的なものは平田霊学や水戸学には見当たらず、「本田の鎮魂帰神説は、文献上直接の先行物を見出すことのできない彼独特のものである。体系だった身体的行法説に関する限りは、本田親徳自らの創案と工夫にかかるものとしなければならず、その材料はもっぱら自身の実体験に求められた」(注37)と述べている。

 

このように「平田篤胤が学問的に霊学研究を行った」のに対して、本田親徳は「より実践的に行的に霊学を追及した」。したがって、本田の思想的な流れは平田篤胤や「祭政一致」思想を説いた水戸学の会沢正志斎(1782年→1863年)の系譜にあるといえるが、行法的には津城寛文も述べているように「自らの発案で体系化したもの」といえる。

 

☆本田親徳の継承者

本田親徳から長澤雄楯に鎮魂帰神が伝えられたが、この伝承は文書ではなく口頭であった。継承者の長澤の役割は「出口王仁三郎をはじめ神道系教団の創始者に本田親徳の鎮魂帰神を伝えたこと」にあるという。図式的にいえば本田の説を長沢が継承し、一時長沢に師事した出口王仁三郎がそれを多くの神道系教団の創始者に伝えて、それぞれがそれぞれの鎮魂帰神説を展開したと言う流れになる。

 

本田霊学の継承者の佐藤卿彦は著書『顕神本田霊学法典』の中で、鎮魂帰神に際しての注意点を述べている(注37)。まず鎮魂帰神を行う前提として「鎮魂修法中は精神統一を継続しているために、とかく霊の憑依しやすい状態となるので、少しでも怪しいと思われる状態が現れたら、直ちに中止すること」を述べる。霊の憑依の初期状態は人により異なるが「身に重みを感じ、首筋がゾクゾクするとか、手足が急に動き出すとか、また身体が発動するなど」の状態を伴うことが多く、これらは一般的な憑依現象の特徴である。

さらに佐藤卿彦は「鎮魂中は決して憑霊現象となることを、喜んで迎えるが如き精神を持つことをかたく禁ずる」「なお酒を飲んだ時、勝負事をした後、また人と争った後、病気中などは、必ず行ってはならない」と述べる。前者の事例はとかく初心者に多く見られる現象であろう。後者はスピリチュアリズムが説く「波長の原理」から考えれば当然の注意書きである。佐藤は鎮魂と睡眠との違いも述べている。「鎮魂は精神を判然と持続した上での修行であるため、催眠術的状態、睡眠状態は絶対に採るべきものではない。修法中はあくまでも判然とした意識、精神の下で執行する事が肝要である」と。

 

☆出口王仁三郎の解釈

継承者の王仁三郎は本田や長澤の「鎮魂帰神」をそのまま受け継いたのではなく、そこに批判的な検討を加えている(注37)。

王仁三郎によれば、鎮魂とは「悪霊の宿を清めて大神の御在所と改造すること」であるとし、帰神においては「僅か数か月間の修業の結果、天津神や大神が憑られたり、大国常立尊が憑られたりするようなことは絶対にない」と述べ、「(帰神は)天賦の本霊に帰復すること」であると述べている。

さらに本田や長澤が「深山幽谷、田舎の寂しい一軒家や閑静の家、奥深い神社などで鎮魂帰神を行うのが最上である」と述べたことに対して、王仁三郎は「これは従来の行者などの行り方である」と批判した。なぜなら「深山で鎮魂帰神を行っても、肉体がある以上、雑念・妄想を取り除くことは不可能」であるから。「大本で行う鎮魂帰神は人家の密集地で行っても構わない」と述べている。

 

本田や長沢は「鎮魂帰魂(ちんこんきしん)」という用語について、それぞれ独立して「鎮魂法」「帰神術」として用いたのに対して、出口王仁三郎は、「鎮魂帰神」という四文字熟語として用いた。王仁三郎以降、熟語として通用するようになった(注38)。

出口王仁三郎は初期のころ、「鎮魂」を大まかに病気直しとしての「鎮魂」と、霊の憑依による「鎮魂」(=神懸り)とに区分していた。

 

大本で教団幹部によって盛んに行われていた「鎮魂帰神」とは、被憑依者にさまざまな霊が憑依する現象、いわゆる「神懸り」状態を指した。大本幹部の浅野は「鎮魂」と「帰神」を一連のものと考えて、「鎮魂あっての帰神」として、本田とは異なった用い方をした。現在一般に用いられている鎮魂帰神とは、この浅野が行った一体型のパターンを指している。

 

☆浅野和三郎の鎮魂帰神

大本時代の浅野和三郎は、鎮魂帰神の意義を「いまだ帰順せぬ“守護神”を呼び起こして迷夢を覚まし、改心を迫り向かうべき方向をしめす」ことであるとする。そして「大本の鎮魂帰神の実践は“正神界”の直接的指定・庇護の下にあって、大本の審神者は“守護神”を審判する全権を委ねられている」(注39)と述べている(→注意:ここでいう“守護神”とは因縁霊や憑依霊のことを指している)。

 

大本にやって来た見学者の鎮魂帰神はほとんど浅野が担当した。その際に浅野は次のような流れで鎮魂帰神を行っていた。

「見学者を対座させる→鎮魂帰神を行う→相手の守護神(=因縁霊、憑依霊)を発動させる→問答によって改心を迫る」という流れで行っていた。大本時代の浅野は因縁霊や憑依霊を「守護神(=副守護神)」と呼んでいるが、その霊の実態は「死の自覚がない地縛霊」や「霊たる自覚が薄い低級霊」であり、これらの憑依霊を顕在化させて発言を促して改心を迫る(→死の自覚、霊たる自覚をもたせる)方法であった。

 

この時期の大本では「大正維新の立替立直し」が声高に叫ばれており、訪問者に対して盛んに鎮魂帰神が行われていた。第一次大本事件の警察記録によれば、鎮魂帰神によって精神障害やその他の弊害に悩む事例が報告されるようになったため、警察当局は浅野たちが行っている鎮魂帰神を注視してきたという(注40)。なおこの頃の鎮魂帰神は「催眠術の一種」とみなされていた。これは『変態心理の研究』(大同館書店1919年刊)などの著書がある医師の中村古峡(1881年→1952年)が、裁判所の求めに応じて「大本教の鎮魂帰神と催眠術との関係如何」という鑑定書を提出していることからも分る(注41)。

 

その後大本を離れてスピリチュアリストの道に進んだ浅野は、「一定の方式のもとで精神統一をさせて、心身の調和と浄化を図り人間本来の姿に作り変えること=鎮魂」と「調和統一された肉体を基盤として、他の霊との感応道交を図ること=帰神」とを分けて、「鎮魂あっての帰神である」と主張した。この流れが浅野の後継者によって引き継がれてきた。

 

エ)本田親徳の審神者(さにわ)概念

☆本田親徳の審神者

鈴木重道著『本田親徳研究』では、本田が伝授した「皇法、神憑、鎮魂」に関して次のように述べられている。

皇法とは「霊学」、神憑とは「帰神術」、鎮魂とは「鎮魂法」であるとして、本田霊学は「教理(霊学)部門」と「法術(霊術)部門」とからなり、両者は車の両輪である。霊学だけでは空理空論に陥る。広義の霊学は教理(→教理のみでは裏付けのない空理空論に陥り易い)と法術(→法術のみでは一介の祈祷師に陥り易い)の双方を含むと記している(注42)。

本田が述べる霊学は実践や行などの法術を含むものであり、いわば理論と実践を兼ね備えたものである。本田以外で「人為的に神懸りを制御する技法」として良く知られているものに、御嶽教の御座立て(おざたて)や修験系の寄加持(よりかじ)などの技法がある。

 

一般に言われていることとして、本田霊学の画期的な点は憑依した霊の判定のために「審神者概念」を取り入れた箇所にあるとされている。この点に関して神社本庁教学顧問の中西旭(1905年→2005年)は「審神者の行為は、明治初年から宣揚された大人(=本田親徳のこと)の教学に始まるのではなく、わが古典が示すように、古代から宮中において厳修されてきたものである。むしろ本田霊学の特色は、その降神の際、従来の琴などの代わりに、石笛の独奏すすめたところにあろう」(注43)と述べている。このように中西は一般に伝えられている「本田霊学と審神者との関係」について別の見方を提示した。

 

④.長澤雄楯について

ア)長澤雄楯の役割

☆長澤雄楯の立ち位置

三河の長澤松平家の城主の庶流の生まれである長澤雄楯(ながさわかつたて)は、12歳で藩校に入り漢学を学び、さらに浅間神社の中教院(明治5年に設置された)に入学して国学を修めた。長澤は明治18年(→鈴木重道によると明治15年)に静岡にきた本田親徳に就き、霊学と霊術(=鎮魂帰神)を学んだ。一般に長澤は本田の思想を受け継ぎ、それを出口王仁三郎、中野与之助(三五教:あがないきょう)、友清歓真(神道天行教)などを始めとした、神道系教団の創始者に本田流の行法(鎮魂帰神など)を伝えたとされている。

 

本田親徳には数百人の門人がいたというが、その中でもなぜ長澤雄楯によって本田霊学が継承されたと言い切れるのか。この点につき一般的に言われている説では「後世への影響力という観点から」説明がなされている。後世への影響力の大きさから見て「実質的には本田霊学は長澤雄楯によって継承された」とされている。その長澤に出口王仁三郎は、明治31年に稲荷講社で出会い、そこで霊学の伝授を受けた。その後、王仁三郎を経由して鎮魂帰神は広く神道系教団に広まった。

 

☆長澤雄楯の霊魂観

長澤雄楯は「惟神」(注44)の中で、我国と西洋の霊学を比較して、「憑霊現象を科学的に研究して具体的に所説を提示すること」については、西洋が優れていることを認めている。また霊媒については西洋では自然にその素質がある者がなるが、我国では修行によって自在に養成しうるという(→霊媒体質者であるか否かを問わず修行によって自在に養成できるというが如何であろうか)。

 

さらに長澤は「欧米の交霊会で感交するのは人の死後の霊魂だが、我国の霊学は神界に感合する道であるところが違う」と述べている。これについてはスピリチュアリズムの観点からは疑問がある。高級霊のシルバーバーチは「霊界側の霊媒」を間に入れて、地上側の霊媒のバーバネルを通じて霊的教訓を語った。このことから考えて「神界」の霊魂(→長澤の述べた「神界」の霊魂という言葉を、地上に再生する必要のない高級霊レベルの霊魂と読み変える)が人間に直接感合できるのかとの疑問があるが、長澤はこのように述べて西洋との違いを説いた。浅野は大本時代、この長澤の流れを引き継いた。当時の浅野は、神界の霊が教祖の“出口なお”に懸ってさまざまな神諭を述べると言ったが、その根拠はここにある(→この一言によって、この時代の浅野にはスピリチュアリズムの観点がなかったことが分かる)。

 

大本事件では、長澤は裁判所の依頼に応じて、鎮魂帰神の原理や慿霊現象の有無などについての「鑑定書・意見書」を昭和2310日に大審院に提出している。このことからも大赦令の適用がなければ、大審院はこの時点では積極的に大本事件の審理を行おうとしていたことが窺える(→大赦令発布は同年27日で、免訴判決は同年517日にあった)。この裏付け資料として、大本七十年史編纂会が編集した『大本事件史』(1967年刊)の記載が参考になる。資料によれば、大審院は大赦令の発布から既に三ケ月以上経過しても審理を打ち切らなかった。このことを522日付の『東京夕刊新報』は「大本事件に関し恩赦発令後は直ちに審理を打切るべきだのに、大審院において免訴判決言渡しを遅らせしのみならず、審理を続行して実体の判決を言渡さんとした」(141頁)と記している。この記載からも大審院は王仁三郎や浅野に対する大赦令適用には消極的であったことが分かる(→この不完全燃焼が「第二次大本事件」への伏流水となっている)。

 

イ)「神秘主義的な神道」という位置づけ

☆神秘主義的な神道

神道研究をテーマとした著書を読んで見ると、一般に日本民族の神観、神道思想や学説、神社の組織、祭祀や儀式、神道行政など、このようなことが主たるテーマとなって論じられていることに気づく。

本田や長澤などの系統の人たちは「実践や行法的な側面を重視した行法家」であり、この人たちは大本研究の一環として取り上げられてきた経緯がある。この系統の人たちに共通した特徴として、神道の神秘主義的な教理と法術を門弟に伝授していくという側面が強い。いわば密儀的な様相を有しているため、神道研究の表舞台にはついぞ登場してこなかった。このことは『縮刷版、神道事典』(弘文堂発行)での彼らの扱い方が極めて地味であることからも分かる。

 

☆神道人の間に存在した溝

本田親徳の著書に『産土百首』がある。この本は関係者の間では「古神道の重要な経典」とされているが、神社界には余り行き渡っていなかった。その理由を鈴木重道は「どうも当時の言葉で申しますと国家の宗祀として神社に仕え、身は官吏又はその待遇を受けて国家神道の保持者といった誇りを持っていた神社人は、宗教宗団の出すものは余り歓迎しないという気風があった」(注45)と記している。明治以降の神職界では、同じ神道人といっても国家神道(→神主は国家の官公吏であり、国家の祭祀であるとされた神社神道)と、教派神道や在野神道との間には溝があったようである。いわば“表の神道”である神社神道の関係者と、神秘主義的な神道の流れにある関係者では一般に霊に対する考え方が違うと言える。


 

◆浅野和三郎研究:目次

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