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明治初期の宗教政策

◆この項目の概要

浅野和三郎が生きてきた“時代の空気”に神道がある。明治初期、神道をベースにした復古的な「天皇親政による祭政一致」の政治が行われて、この時期「近代天皇制イデオロギー」の生成が行われた。しかし国家の近代化政策と復古的な政策の間の矛盾が深刻になってきたことによって、明治5年頃を境にして宗教政策の転換が行われた。この項目では「近代天皇制イデオロギー」の生成に果たした神道の役割と、当時の政府の宗教政策の変遷を見ていく。

 

①.明治初期の神道国教化政策

☆明治初期の二つの流れ

15代将軍徳川慶喜は慶応3年(1867年)1014日、朝廷に政権を返還(大政奉還)し、この直後に国学者玉松操の進言によって岩倉具視が「王政復古の大号令」(慶応3129日)を宣言した。

明治新政府には「復古的な方向性」と「文明開化的な方向性」という二つの相反する動きがあった。まず「王政復古の大号令」にあるとおり「諸事神武創業の始めにもとづく」とする、政治形態を古代社会の祭政一致スタイルに求める復古的な方向性があった。これにより神道人は「神祇官(→律令制二官の一つで、神祇・祭祀・祝部・神戸を総管した)」と「太政官(→新政府の最高行政官庁でこの下に議政官・行政官・刑法官が置かれた)」を復興して「神祇官を上位に据えた天皇親政」による祭政一致の国家形態を考えた。

もう一つの方向性は、「五箇条の誓文」にある「旧来の陋習(ろうしゅう)を破り宇内の通義に従うべし」とする、「百事一新」「旧弊打破」によって旧来の伝統を破って開かれた国を作るという文明開化的な方向性であった。

 

☆思想的背景

明治維新は日本の近代化の出発点であるが、文明開化政策に先行して「王政復古を中核的イデオロギー」とした、天皇親政による祭政一致の復古的政策が行われた。当時の新政府の急務のテーマは、従来まで藩に帰属していた領民の忠誠心を日本全体に拡大させて、国家や国民としての一体感を抱かせることであった。その必要性から復活した神祇官のもとに、神道によって「国民教化を目指す」として「大教を宣布する宣教師」(明治2年)を置き、翌年(明治31月)には「大教宣布の詔」を出した(→この詔は政府の「天皇神格化と祭政一致への強い意欲」の表れと言われている)。これは神道によって国家や国民としての一体感を抱かせるための一種の“意識改革運動”であった。なおこの運動はあくまでも神道が主であって、仏教は従の関係であった。

 

「復古神道の集大成者」である本居宣長と平田篤胤の思想の中にある「国家観(→神国思想や宗主国意識)」が、後期水戸学(→会沢正志斎の『新論』には宣長の思想的影響が見られるという)に継承されて、明治期に「神勅万世一系・現人神」たる天皇観が形成された。このような「国家観」と天皇崇拝とが結合することによって強い政治的な支配力を持ち、それが「王政復古」という形となって日本の近代化がスタートした。

 

☆天皇神格化と祭政一致スタイル

明治5年の神祇省の廃止までの期間は、復古的な「天皇親政による祭政一致」によって、「近代天皇制イデオロギー」の生成と国造りが行われた。

新政府による復古調の強い神道国教化政策は次のような流れで行われた。

まず明治天皇は維新後の「五箇条の誓文(1868314)」によって、新政府最初の天皇誓約の儀式を行って「天皇親政という政治理念」を打ち立てた。この儀式は京都御所内の紫宸殿に神座を設けて、ここに神降しをして天神地祇を招きよせる形式で行った。新政府はこの儀式によって、天皇を「天祖以来、万世一系の現人神」とみなして、その後の天皇神格化を推し進めて行くことができた。

明治元年(1868年)に神祇・祭祀・諸国の官社などを管理した律令制二官(太政官、神祇官)の一つである神祇官が再興されて、この地位に復古神道系の人たちが就いた。徳川幕府は「諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)」によって白川家と吉田家による神社の統制を行ってきたが、新政府は神祇官設置によって全国の全ての神社を神祇官の下に置くことできた。これによって従来の幕府による神社統制は廃止された。

 

☆廃仏毀釈

これより前、祭政一致や神祇官復興に伴って神道と仏教を分離させる「神仏分離令」が明治元年317日に出された(→神社の別当・社僧を還俗させる「神祇事務局達」が神仏分離令の始まり)。この時期の特徴としては、復古神道の理念に基づいた布告が相次いで出されたことであった。「神仏分離、廃仏毀釈、神道国教化政策」は、天皇の権威を強調した「尊王思想」や、日本は神が守護する国であるとする「神国思想」を現実化しようとしたものであった。この廃仏毀釈の先頭に立ったのが平田派国学者であった。

 

この矢継ぎ早の一連の動きは、江戸時代の神道と仏教の位置関係が要因となっていた(→神社を仏寺の下に従属させて、例外はあるものの神主の葬式も仏葬で行った:注1)。さらには「本山末寺制」と「仏教国教制(全国民を檀家とさせた)」の導入によって、本山を頂点としてその下に寺格に応じて末寺を据えて、底辺に檀家を置いた重層構造的なシステムが作られた。このシステムによって、寺院・僧侶の横暴といった弊害が生じたことから、廃仏論が唱えられたという(→幕末の水戸藩では他藩に先駆けて「敬神廃仏」が進められていた)。

このような背景があって神道関係者は、悲願である「神道精神を国の基礎とした神道国教化実現のため」として、維新直後に新政府を動かして神仏分離令を実現させた。徳川幕府の政策であった「仏教国教」は破棄されて、「神道国教」政策へと大きく舵を切った(注2)。

 

②.宗教政策の転換

☆神道国教化政策の放棄

明治新政府には幕府が西洋諸国との間で結んだ不平等条約を改正する懸案事項があり、外交上の観点からも国家の近代化を急ぐ必要があった。

明治維新以来、新政府は復古神道に基づく「天皇親政による祭政一致の政策(神道国教化)」を推し進めてきたが、この政策は明治4年(1871年)がピークであった。この頃から国家の近代化政策と復古的な政策の間で、矛盾が深刻化してきた。そのため新政府は明治4(1871)8月に神祇官を降格して神祇省として、太政官の下に置く組織改革を行った。その後明治5年(1872年)3月に神祇省を廃止して、新たに教部省(宣教を担当)を設置した。さらに同年5月には教部省に教導職を設置して、従来は国民教化のために神道を活用してきた分野に、神道とともに仏教も活用することになった(→天皇制国家体制の強化のための国民教化運動として、大教院、中教院,小教院を置いた)。

 

このように新政府は担当部署の組織変更(神祇官→神祇省→教部省と変更して、組織の格下げと権限の縮小を行った)を行うと同時に、国民教化運動に従来の神道の活用から仏教も加えることによって政策方針を大きく転換した。これは神道人の立場からすれば、「神道的維新コース」からの後退であった。その後明治85月に大教院(大教宣布のための機関)の廃止により、教部省は明治101月に廃止され、その事務は内務省社寺局に移管された。

 

明治初期の宗教行政の主体は、「神祇官(明治元年)→神祇省(明治48月)→教部省(明治53月)→内務省社寺局(明治101月)→神社局(明治334月)」とめまぐるしく変化して次第に格下げされていった。明治10年の社寺局移管によって、明治維新以来続けてきた新政府による「宗教行政官庁の時代」は終焉して、従来の「祭政一致」政策を転換して「政教分離」政策を進めるための、新たな神社政策の立案へと大きく舵を切った。

この政策転換の過程で、平田篤胤系の神道家は、明治政府の中央から完全に一掃されていった。しかし広義の「神国思想」を共有した組織や個人は、全国レベルで草の根的に活躍していた。なかには警察の干渉を回避するために便宜上、教派神道13派のなかの一支部という形態をとった組織もあった。

 

☆平田派の終焉

維新直後に新政府の「祭政一致」「神仏分離」「大教宣布」の国策決定に大きな役割を果たした神道人の玉松操、平田銕胤、矢野玄道などの平田派直系の国学者は、「復古派神道家または復古派国学者」と呼ばれたが、彼らは「律令神祇官制の確立によって国の宗教や道徳生活全般を整えて、西洋文化の影響を排除」する復古的な主張を唱えていた。この復古派神道家は神道を儒教や仏教に優越させて祭政一致の政治形態を目指すとして、文明開化的な方向性を持つ政府の方針に抵抗した。しかし時代錯誤的な主張ゆえに明治4年までに政府の「開明派」によって神祇行政の中枢から追放された。また多くの活動的な「復古派神道関係者は時代錯誤の無知狂信者」と呼ばれて、しだいに政府の「開明化政策」によって排除されていった(注3)。

 

このように排除された「復古派神道家」と、明治政府による「版籍奉還(明治2年)」「廃藩置県(明治4年)」「徴兵制(明治5年)」「秩禄処分(明治6年~9年)」等によって、旧士族が持っていた特権剥奪政策によって生まれた「不平士族」とが結びついた。「復古派神道家」は、明治4年(1871年)公卿の外山光輔や愛宕通旭が関係した政府転覆事件(二卿事件)や、明治政府の「開明化政策(欧化主義)」に反対して祭政一致の王政復古を主張して挙兵した「熊本神風連の乱(明治910月)」、さらには「西南戦争(明治101月)」などに加わって多くの犠牲者を出した。このような経過を辿って、明治10年頃までには政府から完全に追放されてしまった。

 

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<注1>

■山折哲雄監修『日本宗教史年表』(河出書房新社2004年刊)426頁参照。および桂島宣弘著『幕末民衆思想の研究』(文理閣2005年刊)94頁参照。

幕府は1791年(寛政3年)に「神職の神葬祭は、吉田家から免許を受けた者及びその子息のみ寺院の宗判を離れて葬祭を行ってもよい」(『日本宗教史年表』426頁参照)として神葬祭を認めた。神職自葬祭運動は1773年(安永2年)土浦藩で開始され、1785年(天明5年)以降には、かなり広がりを見せた(『幕末民衆思想の研究』94頁)という。

 

<注2>

■「復古派神道家」と「大国隆正・津和野派」

国学は幕末・維新期に二つの潮流に分かれていった。一つは宗教的傾向を強化していったグループであり、他方は現実主義的傾向を強めて政治の舞台に身を置いたグループであった(桂島宣弘著『幕末民衆思想の研究』文理閣2005年刊、参照)。

平田派系国学者でいえば、宗教的傾向を強めた「復古派神道家」のグループと、現実主義的傾向を強めた「大国隆正・津和野派」のグループである(→「大国隆正・津和野派」は祭政一致の理念を近代国家に適合させる努力をした)。

津和野派とは島根県西部の津和野藩の関係者を中心とする国学者たちで、このグループに福羽美静や津和野藩主の亀井茲監たちがいた。大国隆正は国学者の門人系統から見れば「本居宣長→平田篤胤→大国隆正」に立つが、隆正は篤胤の「幽冥界」の宗教性を切り捨てて独自の現実主義的な国学を主張した。その大国隆正の系統に玉松操、福羽美静などがいる(出典:「国学者門人系統表」日本思想体系51『国学運動の思想』岩波書店1971年刊)。

津和野藩は幕末に隣藩の長州藩を助けたために新政府では神道行政に参画する機会を得た。この「大国隆正・津和野派」は幕末維新期の対外的危機の状況下において、「天照大神、天皇」へと国家統治のイデオロギーを集中させる現実的な指向性を持っていた。これに対して平田派直系の「復古派神道家」は、一貫して「幽冥」や「大国主命」「死後の安心」等に強い関心を持ち、宗教的な指向性を持ち続けた。

 

■両派の違い

「復古派神道家」は、復古神道の思想のなかの「天皇制イデオロギー:国粋主義-①」と「宇宙論・幽冥論・死後の安心論-②」の双方を政治に持ち込もうとして挫折したが、「大国隆正・津和野派」は前者の「天皇制イデオロギー:国粋主義-①」を持ち込み、「後者-②」を切り捨てた。また天皇の皇祖神である「天照大神-③」を前面に出して、幽冥界を司る神である「大国主命-④」を無視ないし軽視した。これは水戸学と共通した立場であった。

「大国隆正・津和野派」は幽冥界の事情よりも顕界の事情を優先させて、上記①③を取り上げて②④を切り捨てた現実路線をとったため、平田派直系の「復古派神道家」が没落していくのとは対照的に要職に留まり影響力を行使することができた。平田派直系の「復古派神道家」の矢野玄道などは「幽冥の精緻化に努め魂の行方を究明し幽冥論にこだわる」として②④を一貫して唱えたため、平田派直系の「復古派神道家」は要職から相次いで辞職していった。

 

■大国隆正・津和野派と水戸学派

近代国家において「天皇の人心を収攬する役割」に着目した思想としては、後期水戸学の会沢正志斎や、大国隆正が述べた「天皇中心の神道国教化」の主張がある。桂島宣弘は「後期水戸学派の天皇論と大国隆正のそれは極めて近似したものである」と述べている。また人間関係から見ても大国隆正は津和野藩主の亀井茲監の支持を受けていたと同時に、水戸藩の「藤田幽谷らと親しく交渉」していた。このように両者には密接さがあった(桂島宣弘著『幕末民衆思想の研究』文理閣2005年刊、81頁の注79、注80参照)。

 

■津和野派との確執

その後、平田派直系の「復古派神道家」(矢野玄道など)の国学者は「神祇官で造化三神(→天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神のこと)や大国主命など、主に篤胤の宇宙論・幽冥論に基づく祭祀の主張」をしたが、宮中祭祀に基づく天皇親祭を企図していた「大国隆正・津和野派」との間で、確執が徐々に表面化していった。

平田派直系の「復古派神道家」の祭政一致政策は神祇事務局設置(後に神祇官に昇格)で実現したが、その代表であった平田銕胤、矢野玄道は僅か1ケ月で解任となり、その後は津和野派主導になっていった。宗教学者の阪本是丸(国学院大学教授)によれば、この底流には「古代律令制の祭政一致観に立つ(京都の)廷臣グループ」と「維新功臣グループ(木戸孝允、大久保利通など)」との対立があったという。

 

<注3>

■明治維新の原動力

思想的な面から見た場合に、明治維新の原動力となった指導的思想の一つに平田国学があったが、維新後はその「宗教性」ゆえに文明開化政策(欧化政策)に押されて衰退した。

江戸時代末期に「国学・復古神道」は、武士や町人さらには地方の指導者層を中心に広がった。ちなみに幕末頃には2000人の国学者が各地に存在していたという。「国学・復古神道」普及の大きな役割を担ったのが出版技術の向上であり、和本が流通ルートに載って広まった。また門人を通して和本が広まり、地方の国学者に情報が提供された。

 

■島崎藤村著『夜明け前』

島崎藤村の「木曽路はすべて山の中である・・」で始まる長編小説『夜明け前』(1929年)は、木曾の馬籠宿における庄屋(村方の世話役)、本陣・問屋(藩幕体制の末端機構)の人たちの日常を通して、いわば下から上を見上げる形で明治維新前後の社会を描いた歴史小説である。

この小説の主人公の青山半蔵は、木曾街道の馬籠宿の村役人を勤める平田派の国学者である(→平田篤胤の没後の門人で、信州は“没後の門人”の最も多い地方である)。小説の中で半蔵は「中世以降の文化や政治は外来思想によって暗く濁っているのでこれを否定して、天皇親政の大らかな古代に帰る」として復古を唱えて、青山家の葬祭を仏教式から神道式に変更した。半蔵は明治維新の祭政一致を喜んだのも束の間のこと、新政府の方針転換による文明開化という大きな流れの渦に飲み込まれていった。

新政府の宗教政策は明治5年を境として、「祭政一致」から「政教分離」政策へと大きく方針を転換していった。小説では復古にこだわる半蔵ら平田派は「王政復古の道は絶えて、平田一門はすでに破滅した」。今なお「国学にとどまる平田門人ごときは、あだかも旧習を脱せざるもののように見なされ」て、世間からアナクロニズム(時代錯誤)のそしりを受けるようになっていった。そして「狂気じみた平田派門人の成れの果てよ」と嘲笑され隠宅に閉じこもる半蔵。このように小説では新政府(=藩閥政府)から平田派直系の「復古派神道家」一門が使い捨てにされていった姿を描いている。

 

■小説のモデル

この小説の中で苦悶する平田派国学者(復古派神道家)として描かれている半蔵は、島崎藤村の父の正樹がモデルであるという。実在の島崎正樹は平田門下に入って国学を学び「王政復古に喜んで祭政一致を夢見た」。しかしその夢も適わずに新政府の「開明化政策」に失望し発狂して亡くなった。このように『夜明け前』は島崎正樹をモデルにして、木曽路における平田派国学者の目を通して明治維新を描いた歴史小説といえる。

 

 

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