« 心霊写真展覧会事件 | トップページ | 霊的実在の証明方法の変更 »

組織の継承

目 次

 

①.日本心霊科学協会

・組織の継承

・役員構成

・組織

・外部の評価

・「心霊現象研究」重視の運営を行った理由

・心霊主義的傾向を強めた団体へ

 

②.日本超心理学会

・粕川章子

・超自然科学研究会

 

③.組織の継承と問題点

ア)事実および論点の整理

イ)組織の解散に関して

・宮澤虎雄の文章では、

・報道「日本心霊科学協会便り」では、

ウ)新しい組織に合流することに関して

・宮澤虎雄の文章では、

・組織の解散・合流につき浅野正恭の見解

エ)戦前と戦後の『心霊と人生』誌の連続性に関して

・宮澤虎雄の文章では

・浅野正恭の文章では

 

④.心霊科学研究会の組織の性格 

ア)合意点と相違点

イ)組織の性格の考え方

・A説「心霊科学研究会と東京心霊科学協会は組織上一体である」

・B説「心霊科学研究会と東京心霊科学協会は独立した別個の組織である」

・C説「心霊科学研究会は浅野の単なる“屋号”である」

ウ)組織の整合性に関しての私見

・それぞれの説の検証

・この問題の結論

・心霊関係者の一般的な考え方

 

⑤.宮澤虎雄と浅野家の著作権問題

・掲載文

・事実確認調査の大切さ

 

⑥.浅野兄弟にみる肉親の情愛とスピリチュアリズム

・はじめに

・肉親の情愛

・弟思いのエピソード

・研究者・田中千代松

・浅野正恭の反発

・「出口なお」と「浅野兄弟」の類似点

・浅野正恭の「肉親の情愛」に対する弊害

 

<注1>~<注20

 

― ― ― ― ― ― - ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― 

①.日本心霊科学協会

☆組織の継承

浅野和三郎の死去後、その意志を引き継いだ兄の正恭は、戦後「新組織設立のための結成準備委員」の一人として奔走して、東京心霊科学協会や大阪心霊科学協会(代表、間部詮信)など多くの組織や心霊関係者を大同団結させて、昭和21121日に戦後の日本社会における「スピリチュアリズム普及のセンター的役割」を担った「日本心霊科学協会」を設立した。この「日本心霊科学協会」には、浅野和三郎の「共鳴者・同行者」(田中千代松)である宮澤虎雄、粕川章子、脇長生(本名:長男)などの東京心霊科学協会の元メンバーや浅野家親族、さらには大阪心霊科学協会関係者や霊学研究者など、多くの心霊関係者や組織が合流した。

 

☆役員構成

日本心霊科学協会設立当時の役員は次の通りである。

顧問には、浅野正恭、池澤原次郎、土井晩翠、間部詮信が就任した。理事長には吉田正一が就任し、常任理事には佐藤晴久、田中千代松、麦林楢次郎、脇長生(本名:長男)が、理事には粕川章子、北村 研、滝沢良策、 宮澤虎雄が就いた。

評議員は、浅野多慶(子)、小谷淡雲、那須理之助、中里義美、服部邦彦、松平力、茂木忠次であった。なお協会設立のための結成準備委員には、設立時に理事に就任した者全員と顧問の浅野正恭がその任について、協会設立に奔走した。

このように協会の役員には、旧東京心霊科学協会の関係者が大部分を占めていた。役員のうち池澤原次郎は新聞記者、佐藤晴久は電気関係の新進の研究者、小谷淡雲は元バタビア副領事(?)。中里義美(1892年→1975年)は青森県出身の弁護士で戦前の霊学啓蒙雑誌『神日本』を発行した「神乃日本社(→神社の研究、神霊現象の研究、言霊学の研究、神代文字の研究などを行う団体)」の社長であった。間部詮信は「神乃日本社」の顧問であったため、この関係から日本心霊科学協会の役員に就任したのではないだろうか。

 

☆組織

翌年(昭和22年:1947年)2月に、日本心霊科学協会は機関誌『心霊研究』(→英文タイトル名は、psychical research and spiritualism と併記されている)を創刊した。機関誌の名前は、関東大震災によって3号で潰えてしまった心霊科学研究会の『心霊研究』の誌名を復活させたものである(→但し雑誌の性格は同じではない)。この機関誌は「心霊現象に関する一般の科学的研究と、またこの研究が、ある人々にはスピリチュアリスティックな体認を与えることを示す諸説とを併せて紹介して、研究の進展を期するもの」(『心霊研究』の立場より)との編集方針を掲げており、心霊現象研究(サイキカル・リサーチ)とスピリチュアリズムの二本立てに特徴がある。

日本心霊科学協会は昭和24年(1949年)78日に、法人格を取得して「財団法人日本心霊科学協会」となり、昭和35年(1960年)ISF(国際スピリチュアリスト連盟)に法人として加盟した。

 

『心霊研究』の編集主任が、昭和23年(1948年)6月号から粕川章子に交代した(→昭和222月号から昭和235月号までは脇長生が担当)。その後協会の運営方針に対する考え方の違いから、浅野正恭、脇長生、浅野多慶(多慶子)は日本心霊科学協会を離れて「心霊科学研究会および東京心霊科学協会」を再興した。ここに浅野和三郎の流れを汲む組織は、「日本心霊科学協会」と主に浅野家の親族が中心となった「心霊科学研究会」の二つに分裂した。

 

心霊科学研究会は、雑誌『心霊と人生』を昭和24年(1949年)4月号から復刊した。この雑誌は昭和251月号によれば、「本誌の使命」として「心霊科学の研究と普及」「心霊現象の科学的究明」「本邦におけるスピリチュアリズム(神霊主義)の強調」「正しい日本的霊魂観の確立」等を掲げた編集方針をとっていた。その後継続発行されたが、脇長生の死去によって昭和53年(1978年)12月号をもって休刊となった。

この両組織が発行した雑誌『心霊研究』と『心霊と人生』は、1950年代から1970年代にかけて日本における代表的なスピリチュアリズム雑誌といわれた。

 

☆外部の評価

当時の日本心霊科学協会を外部の団体はどのように見ていたか。霊能者萩原真と医学博士塩谷信男は、昭和22年頃に「千鳥会」(→実験会や交霊会を盛んに行なった)という修養団体を作ったが、この機関誌『千鳥』に次のような記事が載っている。

――千鳥会は心霊の科学的研究が目的ではなく、それを通じて霊魂の浄化をはかり、やがて来るべき大嵐に対して処すべき道を講ぜんとする実際運動であります故、若し心霊の科学的研究を同時に欲せらるヽ人は日本心霊科学協会の会員となることをお奨めいたします。同協会からは月刊誌『心霊研究』が出ております(注1)。――

 

この記事に見られるように当時の協会は、もっぱら心霊に関して科学的研究(心霊現象研究)を行なう団体であると見られていたようである。事実、昭和20年代の雑誌『心霊研究』には、物理霊媒の津田江山や萩原真などによる物理的心霊実験会の報告記事や、各種研究論稿、瀬川愛子(→ライン著『心理の領域』の翻訳がある)らによるJ.B.ライン博士の超心理学の翻訳ものが毎号掲載されていた。誌面から見る限り、この時期の協会の活動は「心霊現象研究(サイキカル・リサーチ:科学的研究)」を重視した立場に立っていたことが分かる。

 

☆「心霊現象研究」重視の運営を行った理由

それではなぜ当時の日本心霊科学協会は、雑誌『心霊研究』からも窺えるように「心霊現象研究」を重視した運営を行っていたのか。筆者は以下のように推論してみた。

まず理由の一つに「時代背景の存在」がある。戦前の社会では「日本は神国である」などの精神論が狂信的に唱えられていた。その反動から戦後のこの時期、実証性重視に振り子が大きく揺れていた、このような時代背景が存在していたこと。

 

二つ目の理由として、当時の日本心霊科学協会は「寄せ集め集団」であった、ということがあげられる。協会のメンバーには戦前の「国家神道体制」を在野から支えてきた「天皇絶対論者」たちが多く集まっていた。評議員に名を連ねていた中里義美は、戦前は霊学啓蒙雑誌『神日本』の発行者であった。この雑誌の投稿者には、第二次大本事件(昭和10年)や二・二六事件(昭和11年)などによって行き場を失った、「神政復古」や「物主霊従から霊主物従へ」を唱えていた「神道の周辺カルトの論客」たちが集まっていたという。このような人たちが戦後、大同団結して日本心霊科学協会に参集してきた。彼らは「心霊研究(サイキカル・リサーチ)を行う」と言う一点で一致していたものの、思想的には雑多であり、当時の日本心霊科学協会はいわば「寄せ集めの集団」であった。

 

その「寄せ集めの集団」で、たとえば浅野和三郎が唱えた「日本神霊主義」という“スピリチュアリズムの一つの思想”を前面に押し出すことは、他の「天皇絶対論者の唱える思想」、「神政復古派」や「言霊重視派」などが唱える思想を脇に追いやってしまうことであり、早晩協会の分裂は避けられない。浅野正恭たちは和三郎が唱えた「日本神霊主義」を前面に押し出して協会から分かれていったが、このような分裂がさらに多く見られたと思われる。

このような「時代背景の存在」と「寄せ集めの集団」という事情から、当時の日本心霊科学協会は組織をまとめていくためにも、主たる活動を「心霊現象研究」に置かざるを得なかったと筆者は推察した。それが雑誌『心霊研究』の誌面から容易に窺える。これは日本が戦争の傷跡から立ち直るまでの期間においては、最も無難な方針であったと思われる。

 

☆心霊主義的傾向を強めた団体へ

このような日本心霊科学協会の活動は、当初の「心霊研究を重視した活動」から次第に「心霊主義的な傾向を帯びた活動」への傾斜が見られるようになっていった。昭和28年頃から会員有志で始まった心霊主義的傾向が強い「心霊同好会」の流れが、協会の中で次第に強くなっていった。

同好会形式で始められた精神統一会は、宮澤虎雄、粕川章子、吉田正一、吉田綾によって指導されていたが、当初は「心霊同好会は協会会員有志間の催しであり協会の事業ではない」(注2)との位置付けであった。この会では統一者が「真我の向上を目標」として、より高い背後霊の良い影響に同調しやすくなるように道交を求めて精神統一が行なわれていた。その後この精神統一会が次第に協会本体の活動の中に組み込まれていった。

 

浅野和三郎の神霊主義(→宗教を志向する)を継承した浅野正恭や脇長生は、当時の協会の学問や科学的研究重視の活動を批判して(→脇は「協会といった立て前の仕事」と表現している)、昭和24年に日本心霊科学協会から分かれて心霊科学研究会と東京心霊科学協会を復興した。

しかし日本心霊科学協会の活動は、昭和28年以降“同好会形式(協会の大岡山時代)”で始まった精神統一会が、次第に本体の活動に組み込まれて主流になるにつれて心霊主義的傾向が強まっていった。協会から分離した「心霊科学研究会および東京心霊科学協会」との組織運営上の差異が次第に小さくなっていった。最後まで残っていた両組織の違いは「人間関係の問題」は別として、「浅野和三郎をどのように評価するか」の問題と、精神統一会に「霊能者を主たる構成員として関与させるか否か」の二点に集約される。

 

このように日本において霊的潮流の受け皿として準備された組織は、「日本心霊科学協会」と浅野正恭たちによる「心霊科学研究会および東京心霊科学協会(→後に日本スピリチュアリスト協会に名称変更)」の二つに分かれて、別々の歩みを始めることになった。

その後、日本心霊科学協会の中から大谷宗司たちによって「超自然科学研究会(=超科研)」が設立され、この流れが「超心理学研究会」(1963年)へと、そしてその後の「日本超心理学会」(1968年)設立へと発展していった。このように戦後の一時期、日本心霊科学協会に存在していた「心霊現象を科学的に研究する」という学問志向の流れは、この「超科研→超心理学研究会→日本超心理学会」という流れに吸収されていった。そして日本心霊科学協会はその後の活動からも窺えるように、“心霊主義(=スピリチュアリズム)的傾向”をますます強めていくことになった。

 

②.日本超心理学会

☆粕川章子

津田英学塾(=津田塾大学の前身)卒で英語に堪能であった粕川章子(かすかわあきこ:1887年→1969年)は、戦前アメリカのピュリツァー賞作家(1943年授賞)のアプトン・シンクレア(1878年→1968年:心霊関係の著作がある)と文通をしていた。粕川は「戦後外国との文通ができるようになった時、久しぶりの音信を(シンクレアに)送って北米における心霊界の近況を報じて貰いたいと依頼した」。シンクレアはアメリカでは、今は心霊研究よりもパラサイコロジィの研究が盛んだといって、この研究の開拓者のJB・ライン博士に連絡しておいたという内容の返信がきた。ライン博士からの手紙が粕川に届いたのは昭和225月のことであった。

 

粕川はラインの研究をまとめて「ライン博士等の研究」(注3)と題して、超心理学の概要を雑誌『心霊研究』で紹介している。このことを田中千代松は「日本人による日本への超心理学紹介の口火であった。折からリーダース・ダイジェスト日本版19485月号にもラインの著書からの要約が載ったので、粕川女史は第17号(→雑誌『心霊研究』昭和236月号のこと)に載せた分の前書きで、自分はライン博士から寄贈を受けた本によって書いているのだと断っている」(注4)。

田中によると粕川の超心理学の紹介が「日本における超心理学事始め」であったと。このことがきっかけとなって、超心理学が日本心霊科学協会の若手研究者(大谷宗司、恩田彰、金沢元基など)の目にとまったという。

 

なお大谷宗司は「小熊先生と日本の超心理学」(注5)の中で、「昭和23年、リーダース・ダイジェスト日本語版にライン博士の著書“The Reach of the Mind1948”が『心の領域』と題して掲載され、われわれは超心理学、ESPPKという言葉を知りました。この本は昭和25年(1950年)瀬川愛子氏によって『心理の領域』という書名で全訳出版されました」と述べている。大谷はラインの著書を雑誌『心霊研究』の記事ではなく、『リーダース・ダイジェスト』の記事から知ったと言う。その後大谷は、ライン博士の方法を用いて昭和24年から実験を始めて、その研究成果を昭和28年(1953年)にライン博士のもとに送り、これがきっかけとなって両者の間に交流が始まった(注5)。

 

☆超自然科学研究会

昭和20年代の“研究重視の時期(→日本ではスピリチュアリズムの土台部分である「霊魂説」を科学的に究明しようとした時期にあたる)”、昭和251月に東大心理学研究室の一室で開催された研究会は、それ以降毎月1回定期的に開催された。この研究会は後に「超自然科学研究会(超科研)」という名で呼ばれて、当初は日本心霊科学協会の友好団体(注6)として活動を開始した。この研究会と日本超心理学会との関係を大谷宗司(日本超心理学会会長)は次のように述べている。

 

――東京大学医学部精神科におられた萩野磐博士のさそいを受け、研究会を作ることにしました。その成立に当たっては日本心霊科学協会を訪れ、適当な会員の紹介を受けました。この会は後に“超自然科学研究会”と名乗り活動を続けました。この会には、現在、超科学会、PS学界で活躍している橋本健氏、後から現在の日本心霊科学協会理事長の吉田寛氏が加わり、また、現在国際宗教・超心理学会を主宰し、宗教心理学研究所所長の本山博氏も一時参加したことがあります。その後、私達(金沢元基、恩田彰、大谷宗司)はこの会から離れて、新たな研究会を作りました。それは、その会が旧来の心霊主義的色彩を払拭しきれず、また宗教的興味や通俗的傾向をも含みもつようになったため、純粋な学問的研究の団体の必要を感じたからであります。この流れが、われわれの日本超心理学会へと続くわけです(注7)――。

このように大谷等は日本心霊科学協会から離れて、1963年に「超心理学研究会」を作り、この研究会が発展的解消して196811月に「日本超心理学会」(初代会長は小熊虎之助)設立となった。

 

③.組織の継承と問題点

ア)事実および論点の整理

宮澤虎雄(1886年→1980年)は元海軍機関学校の物理の教官であり、浅野和三郎とは同じ職場の同僚で、心霊の世界に入った時期もほぼ同じであった(→浅野41歳、宮澤30歳の時)。宮澤は昭和144月以降、浅野正恭の後任として東京心霊科学協会の理事長に就き、昭和2112月から昭和5510月までは日本心霊科学協会の理事を勤めた。

浅野正恭(1867年→1954年)は元海軍中将であり、著作には『日本精神の淵源―古事記生命の原理』がある。弟の和三郎が雑誌『心霊と人生』に掲載した論文集をまとめて、死後単行本や冊子として編纂して刊行した人である。正恭は和三郎の死後から昭和144月まで東京心霊科学協会の理事長に就いていた。また昭和2112月から分裂時まで日本心霊科学協会の顧問でもあった。

両者の間には、昭和21年に「心霊科学研究会および東京心霊科学協会が解散」して「日本心霊科学協会に合流」したことと、『心霊と人生』誌の戦前と戦後の連続性に関して見解の相違がある。その違いをまとめてみた。

 

組織の解散・合流に関しては、報道「日本心霊科学協会便り」(注8)、宮澤虎雄著「日本心霊科学協会の設立とその後」(注9)、浅野正恭著「 雑誌『心霊研究』に與ふ」(注10)を対比して整理してみた。この浅野正恭の論稿には「編集者より:本稿は浅野氏より掲載方一応見合さるやう通知がありましたが、既に組版を了した後であるから、編集子の独断を以って掲載することにした。御諒承を請ふ」という「編集者の注」が付記されている。

 

イ)組織の解散に関して

☆宮澤虎雄の文章(注9では、

――昭和214月、東京心霊科学協会定期総会の席上、時代の推移を痛感した東京心霊科学協会役員たちは緊急動議を以って、「役員総辞職」の挙に出たのであったが、この動議が契機となって、東京心霊科学協会が発展的解消を遂げるに至った。

昭和214月の東京心霊科学協会の定期総会の際に、新しい機構の下に新協会の発足が具体化されて、遂に結成準備委員が選ばれ、それら委員達の努力によりて、遂に新協会創立総会が昭和21101(下線部分は原文のまま、正しくは121日)大田区田園調布の田園調布会館にて開催される運びに至った。当日議事は吉田正一氏司会の下に進行し、会名は「日本心霊科学協会と決定し、また本会会則及び役員を決定した」――

 

☆報道「日本心霊科学協会便り」(注8では、

――たまたま、本年(昭和21年)4月定時総会の席上、時代の推移を痛感した役員は、緊急動議を以って「総辞職」の挙に出たのであったが、この動議が不知不識の契機となって、同会(東京心霊科学協会)はついに発展的解消と共に、新たなる構想の下に、新進駿逸の士を中心として、新たなる役員を以って、新協会の結成をなすことに意見の一致を見、協会は円満なる雰囲気のうちに新協会に改めて合併する動議が成立、有志によって仮称日本心霊科学協会結成委員は推挙され、茲に十有余年の歴史を有せる東京心霊科学協会は、新たに発足すべき仮称日本心霊科学協会に合流することになった。――

 

ウ)新しい組織に合流することに関して

☆宮澤虎雄の文章(注9では、

――心霊研究誌創刊号(昭和222月号)に「広告――本会(心霊科学研究会)は日本心霊科学協会設立の趣旨に賛し、同協会に合流いたしましたが、本会事務所は存続し、出版物等も従来通りの取り扱いを継続していますからご承知下さい。――心霊科学研究会」とあるが、結成準備委員会などに於いても浅野正恭氏は「心霊科学研究会は日本心霊科学協会に合流する」ものと言明されたように私は了解しているので、以上の広告によりて、一寸おかしく思われたのであるが、結局『心霊と人生』誌は『心霊研究』に合流し、只「心霊科学研究会」が刊行した図書は従来通りの取り扱いを継続するという意味と当時私は了解していた。――

 

☆組織の解散・合流につき浅野正恭の見解(注10

組織の解散・合流につき浅野正恭は以下のように述べている。

――「日本心霊科学協会」の設立には、無論私としても賛成した一人である。そして「心霊科学研究会」も之に合流すべきことを述べたことも記憶に存して居る。が、「心霊科学研究会」を解消してといふ意味でなかったこと言う迄もない。何となれば、研究会には出版せる書籍も多く、且つ当時会員として其の儘残って居るものも、多少有ったからである。「趣意書」には「心霊科学の標識の下に大同団結し」とあるが、解消せずとも、其の趣意に背反すとは考えられない。現に「心霊研究」1号には、「心霊科学研究会出版書籍目録」なる広告が掲載されて居る程であるから、合流というても解消を意味せないこと明瞭である。又私としても、拙文を数回「心霊研究」に寄せて居り、又協会の顧問ともなって居るのであるから、これらの点から見て、研究会が協会に合流したということになると思う。かくして合流が解消を意味せないこと明らかである。ここで一寸お断りしておかねばならぬことは、私は事情上、いつも「心霊科学研究会」を代表する立場に在ったということである。――

 

エ)戦前と戦後の『心霊と人生』誌の連続性に関して

☆宮澤虎雄の文章(注9では

――脇氏主宰の現在の『心霊と人生』誌は昭和248月に第三種郵便物として認可されておるから、その時より計算すれば本年で15年になるから、第15巻何月号になる訳である。それが終戦前の21巻を加えて、36巻何月号としてあるのは終戦前の『心霊と人生』誌の関係者であり、本協会創立当時の関係者である私には、おかしく思われる。――

 

☆浅野正恭の文章(注10では

これに対して、浅野正恭は次のように述べている。

――『心霊研究』その後の経過を見ると、どうも学術的又は理論的で六ケ敷く、大衆向きでないということもポツポツ耳に入るようになった。・・・脇氏などが主唱して、大衆向きの雑誌たるべき期待の下に、「心霊科学研究会」から『心霊と人生』を復刊することになった。前にもいふ通り研究会が解消したのでないから、私としてはそれを承認することに何等の疑を挿まなかったものである。――

 

④.心霊科学研究会の組織の性格 

ア)合意点と相違点

宮沢虎雄と浅野正恭との間で争いのない一致点は、東京心霊科学協会と心霊科学研究会(→正恭の上記文章中に「心霊科学研究会も之に合流すべきことを述べた」とある)は日本心霊科学協会に合流したという事実認識である。

両者の相違点は「合流」の解釈についてである。宮澤は「合流」を文字通りに解釈しているが、正恭は独自な解釈をして「合流は旧組織の解散を伴わない」と述べており、見解が分かれている。

 

現在の私たちの常識的な観点から考えれば、組織の再編に関しては旧組織の持っていた権利義務一切を新組織が引き継いで、旧組織は解散するというのが一般的である。旧組織が引き続き積極的に活動を展開するためには、その旨を含んだ組織決議を取得しておく必要がある(→常識的に考えれば「旧組織=心霊科学研究会」は清算手続きに入り、他方新たな「新組織=心霊科学研究会」を立ち上げて、その新組織で従来の活動を再開する形になろう)。

当時の浅野正恭の感情論は別にしても、正恭が手続き的に含みを残す形でそこまで深く考えていたかは一考の余地はある。正恭の独自説を検証するにはこの辺りを詰めておかねばならない。この検証に入る前に心霊科学研究会という組織の性格を明らかにする必要がある。筆者は便宜以下のA・B・Cの各説に分けて検討してみた。

 

イ)組織の性格の考え方

☆A説「心霊科学研究会と東京心霊科学協会は組織上一体である」

昭和51月号『心霊と人生』誌に記載された東京心霊科学協会創立趣意書には、「本会は其実“心霊科学研究会”の東京における代表的実行機関である」「思想学術の中心である大東京の何所にもただ一つの心霊研究の実行機関が設けられていなかったという事は確かに一大遺憾事と謂わねばなりません」との記載がある。

いわば東京心霊科学協会は「心霊問題の民衆化」の一環として、心霊科学研究会の事業目的や研究会の趣旨を具体化するための東京における包括的な権限を持った出先機関であり、同様に大阪における出先機関は大阪心霊科学協会ということになる。

例えていえば登記上の本店所在地は横浜の鶴見(心霊科学研究会の所在地:浅野家の所在地)にあるが、事実上の本社機能を、会社法上の支店所在地である東京と大阪に設置している会社と考えれば理解できると思う。

 

昭和53月号『心霊と人生』誌の「編集室より」の中に「(東京心霊科学協会は)心霊熱心家の共同の倶楽部たること」という記載がある。また昭和171月号『心霊と人生』誌の会告として「爾来、雑誌部は東京事務所に於いて取り扱っていましたが種々実務上、差しさわりを来す点もありますので、全部鶴見の事務所に引き上げ、東京事務所は閉鎖致しましたから左様ご承知下さい:心霊科学研究会」との記載がある。ここでいう「東京事務所」とは東京心霊科学協会の所在地のことである。

さらに昭和145月号『心霊と人生』誌には、会則中「本会員の特権は左の如し。(イ)月刊雑誌『心霊と人生』の無代配布、(ロ)心霊相談所優待特券十枚交付、(ハ)心霊の講演・実験等に対する特権、(ニ)精神統一実修の特権其他」とあり、東京心霊科学協会の会員であれば自動的に心霊科学研究会の機関誌『心霊と人生』の無料交付を受けることになっていた。以上の記載から判断すれば、両組織は一体不離の関係にあったと理解することができる。

 

☆B説「心霊科学研究会と東京心霊科学協会は独立した別個の組織である」

東京心霊科学協会は心霊科学研究会の「実行機関」であるという。この母体としての心霊科学研究会と「実行機関」の東京心霊科学協会との関係は、持ち株会社と傘下にあるグループ会社のような別法人と解釈することもできる。

東京心霊科学協会には規約や総会・役員などが置かれているので現代風にいえば「権利能力なき社団」であるといえる。一方心霊科学研究会は、大正12年の創立時には発起人や趣意書・総会等があり社団としての実態があったが、その後の相次ぐ事務所の移転や機関誌名の変更などによって徐々に浅野色が強まっていった。しかし依然「組織の実態(→心霊科学研究会としての独自の規約・総会の開催・役員の改選等)」を有していたと考えるならば、法的には両者は別組織であるとの解釈もできる。

 

☆C説「心霊科学研究会は浅野の単なる“屋号”である」

東京心霊科学協会の母体である心霊科学研究会にはもはや組織としての実態がなく、この「心霊科学研究会」という名称は単に浅野和三郎個人の心霊研究面を表わす「屋号」になっていたとの解釈も可能である。

この説では東京心霊科学協会は組織としての実態があるが、心霊科学研究会はいわば“浅野商店の屋号(〇〇商店)”であるので、和三郎の死去後はその屋号を身内の正恭が引き継いで(〇〇商店の店主に正恭が座った)そのまま使用したとの推理も出来る。

この裏付けの根拠として正恭が述べた次の言葉が注目される。「ここで一寸お断りしておかねばならぬことは、私(=浅野正恭)は事実上いつも“心霊科学研究会”を代表する立場にあった」(→下線は筆者が強調するために引いた)と。これは事実上浅野正恭によって100㌫なんとでもなる“団体”であったことの表明である。B説との違いは「組織の実態」があったのか、ないのかの違いである。

 

ウ)組織の整合性に関しての私見

☆それぞれの説の検証

A説に立てば東京心霊科学協会は心霊科学研究会とは一体であるので、昭和21年に東京心霊科学協会は解散決議をして(→実際に両組織は一体であるので、解散決議の効果は心霊科学研究会に及ぶ)、日本心霊科学協会に合流して消滅した。したがってA説に立てば、東京心霊科学協会と心霊科学研究会ともども解散して、日本心霊科学協会に合流したということになる。

 

次にB説に立てば両者は別組織であるため、東京心霊科学協会の解散決議は心霊科学研究会には及ばないので、あらためて心霊科学研究会として解散・合流決議をする必要がある。文面からはこの決議がないので東京心霊科学協会は合流して解散したが、心霊科学研究会は合流も解散もしていないことになる。

もう一つの考え方としては、東京心霊科学協会の解散決議は心霊科学研究会には及ばないのは当然であるが、東京心霊科学協会で誤って心霊科学研究会の解散決議も併せて行ったが、後日関係者の追認で瑕疵が治癒されたと言う考え方もできる。東京心霊科学協会の解散決議は、心霊科学研究会側から見れば手続き上は「瑕疵ある決議」若しくは「無効な決議」である。しかし関係者の宮澤虎雄や浅野正恭が書いた文章で、心霊科学研究会が日本心霊科学協会に合流したことを認めていることから、この決議は追認により治癒されたとの解釈もできる。しかし厳密に言えば心霊科学研究会も一つの組織である以上、その代表者が追認したとはいえ、瑕疵ある決議の範疇を超えた「解散」という重大な決議を、独断で行う権限があるのかという疑問は残るが。

 

筆者は限られた資料の中からこの問題を考えた場合、C説を支持する。東京心霊科学協会は日本心霊科学協会に合流して解散したが、「心霊科学研究会の合流・解散」は“屋号”であるので浅野正恭の意志如何にかかっている。浅野正恭が日本心霊科学協会に合流(→心霊科学研究会は組織でないので決議は不要)したといえば合流の効果が生じることになる。

浅野が心霊科学研究会という屋号(商号)を第三者に譲渡していなければ、彼の日本心霊科学協会への移籍に伴って、「浅野イコール屋号」であるため協会に合流する(→なぜなら浅野が合流したと述べているので)。そののち意見の相違から分離して、浅野正恭は従来の「屋号」を復活させたとの解釈もできる。このように考えれば、いわば「心霊科学研究会」という商店(店主:浅野正恭)が発行してきた『心霊と人生』という休眠状態にあった会報誌を、復活させて巻数を通番で振ったとしても何ら問題はないということになる。

 

☆この問題の結論

浅野正恭や脇長男が東京心霊科学協会を復活させたと言えるためには、法的には日本心霊科学協会の総会で組織分割決議を行なわなければならない。またこの分割決議が財団法人の法人格取得日(昭和2478日)以降であれば、監督官庁の承認を得なければならない。このように組織の分裂後に東京心霊科学協会の名称を使用するためには、組織分割決議やケースによっては監督官庁の承認を得る必要がある。そのため浅野正恭個人の都合で自由になる余地はない。

 

筆者は雑誌『心霊研究―創立40周年記念特集号』(19873月号)発行の際に、心霊研究の編集部に在籍して特集の「四十年史年表」の作成に当たった。その際に過去の資料を探したが、当時の協会が上記の決議を行ったとされる資料は見当たらなかった。

筆者の結論として浅野正恭が復活したという東京心霊科学協会と、戦前の東京心霊科学協会との間には組織としての同一性はなく、同一名称で新たな組織を立ち上げたということになる。他方心霊科学研究会に関しては、浅野家の“屋号”であるため引き続き使用が可能であり、雑誌『心霊と人生』誌の復刊もまた可能となる。この顛末の結論としては、浅野家の“屋号”である心霊科学研究会のみ復活して、権利能力なき社団たる東京心霊科学協会は復活せず、同名の別組織を立ち上げたということになる。

 

☆心霊関係者の一般的な考え方

当時の関係者の文章を読んでみるとA説のような解釈も可能であり(→田中千代松は両組織の関係について「実質上二つで一つ」と述べていた:注11)、この立場から宮澤が主張するように「東京心霊科学協会と心霊科学研究会」は「日本心霊科学協会」に合流して解散したとの見方も出来る。

しかし当時の心霊関係者の一般的な見方は「心霊科学研究会とは浅野家のこと」であり“屋号”としての認識が主流であったのではないだろうか。いずれにせよ関係者は“組織の継承”に関して、どのような理論構成をして私たちに説明をするのだろうか。

 

なお浅野和三郎がしばしば使用した「実行機関」という概念や、組織の法的構成などについて、当時の人たちは現代ほど厳格に詰めきっておらず曖昧に使っていたようである。また組織というものにあまり拘泥せず、「解散や休会」という言葉を融通無碍に使い分けてきた、ということが当時の関係者の真意に近いように思われる。

現在でも心霊関係者の間ではこの傾向はかなり強い(→法的に問題になる事案がないために)。当時の日本心霊科学協会には弁護士の吉田正一が理事長(決裂時点では理事)として在籍していたにもかかわらず、この問題をあいまいにしたまま放置しておいたのは、当時のスピリチュアリズムの世界における浅野家および浅野正恭の影響力の大きさに配慮したためではないだろうか。

 

⑤.宮澤虎雄と浅野家の著作権問題

☆掲載文

上記のとおり、「日本心霊科学協会」と「心霊科学研究会」との法的関係が今ひとつはっきりしない中で著作権問題が起きた。雑誌『心霊と人生』の昭和52年(1977年)1月号から6月号にかけて次の文章が掲載されている。

――宮澤虎雄氏著『死後の真相』の内容にご注意。

旧臘・1210日付で、関西の有名な心霊家(この方は浅野先生と生前、深交のあった日本神霊主義信奉者、なお私信につきお名前は伏せておきます)から、次の来信あり、また、ほかの方からも、大同小異、同文ともいえるご注意の通信がありました。一応、その全文を前後一部省略して、次にお伝えしておきます。「前略、宮澤虎雄氏の『死後の真相』(日本心霊科学協会刊行)この本は、心霊科学研究会発行の『心霊講座』『小桜姫物語』『死後の世界(ワード原著)』『新樹の通信』その他、同会発行の浅野先生の著訳書のすべての部分が、この本の大部分を占めている。(後略)」とあり。なお、この書物は、次で、礼儀として献本とか、「引用の承諾」を求められ応諾されたか云々。著作権侵害ではないかといったことにまで触れられて言及されている。が、この本を見ない当部としては、指摘されていることが“盗用”か“引用”か不明であるので、そのまま取り入れることもどうかと思ってはいるものの、こと、浅野家に関する件でもあるので、早速、移牒しておきましたが、今のところ、何の音沙汰もありません。が、それとは別の意味で、この本を求めようとする方と会員諸氏にご注意迄、とりあえず公告しておきます。:心霊科学研究会編集部。――

 

☆事実確認調査の大切さ

著作権の問題は組織の合流と絡んでかなり微妙な問題を含んでいるが、現在では争点となった『死後の真相』は絶版となり宮澤虎雄も他界している。一般に宗教関係者や心霊関係者には“思い込みの激しい人”が多いが、この著書が著作権に違反していると言えるためには、事実確認の調査は慎重に行うべきである(→ケースによっては逆に名誉棄損罪や誣告罪を問われることもあるから)。

 

宮澤虎雄と浅野和三郎とは当初から心霊研究を通した友人であった。そのため両者の間に何らかの了解事項、たとえば、心霊知識の普及啓蒙のために浅野の著書を自由に使用してよいなど、事前承認存在の有無の確認は最低でも調査する必要がある。

今回のように「人間関係のこじれの問題」「相続が発生している」「組織の離脱の問題」が存在している場合には、事実の確認はより慎重に行われるべきであろう(注12)。心霊科学研究会の編集部は「事実確認の難しさ」を念頭に置いて、このような折衷案の形で対処したと思われる。

 

⑥.浅野兄弟にみる肉親の情愛とスピリチュアリズム

☆はじめに

浅野正恭著「雑誌“心霊研究”に與ふ」(注13)の論稿からは、当時の風潮に対する不満と関係者の間で感情的なもつれがあったことが読み取れる。この件については当時の関係者の著作や、雑誌『心霊研究』と『心霊と人生』誌の投稿文・編集後記などを丁寧に見ていけば、問題の輪郭がある程度窺える。

「日本心霊科学協会」と「心霊科学研究会」とはスピリチュアリズムの世界では老舗の団体であり影響力が大きい組織である。両組織の分裂は日本のスピリチュアリズム史のなかで一つの分岐点であったにも拘らず、今日まであいまいなままにされてきている。

今回、筆者なりの視点で大胆な考察を行ってみた。本章において個人名を挙げて批評したが、これは日本のスピリチュアリズム史を論述する上で必要があってのことであり、これ以外に目的はなく彼等に対して何等個人的な感情をもっていない。

 

☆肉親の情愛

浅野正恭は「雑誌『心霊研究』に與ふ」の中で、『心霊研究』誌の昭和25年(1950年)2月号と4月号について批判している。この批判文の前書きに「(浅野正恭は)此の一文は出来ることなら『心霊研究』に寄稿したいと一応は思ったことであった。それは同誌を敵視せんとして此の文を認めたのでないからである。が、同誌に之を掲載するほどの雅量を期待し得なかったため、本誌(→『心霊と人生』)に寄せることにした」とある。

以下、浅野正恭の文章の関係箇所を引用する。

 

――『心霊研究』2月号の巻頭文として、フィンドレー著『新時代と新信仰』(最後の数項―土井晩翠訳)からと記載されている。フィンドレー著というなら、何故“ゼ・アンフォールデング・ユニヴァー”とせないのか。『新時代と新信仰』はフィンドレー氏の原著に対する浅野和三郎の訳語である。訳語を使用するなら、訳者の名を明記するのが常識であるべき筈である・・・要するに『新時代と新信仰』は全体として浅野和三郎の訳である。然るに彼は訳を完結するに至らずして逝った。私は之を遺憾とし、土井晩翠氏にお願いして、其の訳を終らしむることにした。で、同氏の訳は第十章の後半、“来るべき社会の改善”からで、『新時代と新信仰』346ページ中の僅か16ページにすぎないのである。そして土井氏の筆致は、和三郎のそれと自から異なるので、失礼ではあったが、私が書き改めたのである。この機会において、私は土井氏に対し、僭越の罪をお詫びしたいのである。それは兎に角“最後の数項―土井晩翠訳”とあることは事実である。が、しかしながら、全体としての訳者の名は之を省略し、局部的の訳者の名をわざわざ掲げる必要がどこにあるというのか。私が推察するに『心霊研究』は心霊問題の権威を持って任じているのに、『心霊と人生』誌の発行などは烏滸の沙汰である。気に食わない。一体『心霊と人生』は浅野和三郎の創刊せるもので、それを今更復刊することは、延いては浅野和三郎の名も気に食わぬということなのかも知れぬ。“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”といはるが、此の反語も成り立つであろう。即ち袈裟が気に食わぬから、坊主まで気に食わぬといったところなのであろう。だから和三郎の名など抹消してしまえというので、無くもがなの土井晩翠訳をわざわざ括弧の中に記して、それとなく『新時代と新信仰』の訳者の名をボカさんとしたのではなかろうと思われる。果たして然りとするならば、余りにも小児病的小細工で、肚の底が見え透くような気もするではないか(後略)――

 

雑誌『心霊研究』誌に掲載した、全体で9行あまりの巻頭文「フィンドレー著 “新時代と新信仰”から」に対して、浅野正恭はかなり感情のこもった一文を『心霊と人生』誌に載せた。このフィンドレーの原著は浅野和三郎が訳したものだが、どこにも和三郎の名がないとの理由からである。

さらに浅野正恭は文章を続けて、ウォルターの指紋についても同様に感情のこもった批判文を載せた。該当部分を引用する。

――『心霊研究』4月号の口絵にウォルターの指紋の写真が載っている。そしてそれには、“幽霊ウォルターの指紋は、生前彼が残した指紋と一致し・・・”とありとも記してある。しかし掲げてある写真は、浅野和三郎の作製せるものであるとは断っていない。“心霊問答”中に、浅野和三郎がウォルターの指紋を取ったことは言っているが、掲げてある写真(欧米心霊行脚録に載っているのと同一である)がそれであるとはいうてない。であるから、浅野和三郎も指紋を取ったであろうが、他でもそれを取りえないはずは無いということも含まれておる。掲げてある写真が何所で何人が作製したものであるかを明記しないところに、浅野和三郎の名を忌避抹殺せんとする下心が見えるではないかと言いたくもなるというものである(後略)――

 

そして当時の風潮に関して、浅野正恭は、弟浅野和三郎を擁護して次のように述べている。――しかし彼和三郎は衆知の如く、心霊問題に一身を献げたものである。然るにそれが同じ心霊畠から辱かしめられたり、無視されたりするのを、指を銜えて黙っているのも骨肉の情に反する。是れ此の文を草するの止むを得ざる所以である――と。

当時の『心霊研究』誌の編集主任は、浅野和三郎と一緒に古くから心霊知識の普及活動に携わってきた粕川章子であった。浅野正恭の肉親の強い感情がこもった批判文を読んでかなり戸惑ったことであろうと思う。

 

☆弟思いのエピソード

浅野正恭は「亡弟和三郎を憶ふ」(注14)の中で次のように述べている。「振り返って見ると、彼は過去20年の間、世の冷評悪罵を浴びながら、ジッとそれをこらへつつ、一管の筆に全精神を打ち込み、世間と学界とを向うに廻して、単身奮闘し来つたのである」。さらに「私は見るに忍びずして。モ少し安易な道に転じてはどうかと勧告したことも、実は一再に止まらなかった程であった」と。

肉親としての弟に対する深い情愛を感じる一文である。このような浅野正恭の弟思いの気持ちに、和三郎は大本教入信を例外として生涯良く従った。海軍機関学校の就職、結婚、大本教時代(→正恭は遅れて大本教に入信したが)、心霊科学研究会時代など、兄正恭の存在が常に感じられる。この兄正恭の和三郎に対する「強い肉親愛」が日本におけるスピリチュアリズムの発展に暗い影を落としたと筆者は思っている。

 

☆研究者・田中千代松

脇長男(長生はペンネーム:1890年→1978年)は、昭和3年に診療社を設立して医学雑誌『診療』や育児雑誌『愛児』を発行していた。和三郎の後継者を自認していた脇は、昭和23年当時、日本心霊科学協会で常任理事の地位にあり機関誌『心霊研究』の編集主任(→昭和222月号から昭和235月号まで)をしていた。雑誌『心霊研究』の昭和235月号の「編集室小窓」の中で、脇は「こういった協会といった建て前の仕事に対しては、とてもこの忙しさで役に立つことは出来ない、責任の問題だと悟って、本号で一応編集陣から引退させていただくことにした」と辞任の弁を述べて編集から降りた。昭和236月号から脇の後任として粕川章子が担当した。

脇は日頃から当時の『心霊研究』誌は学術的・理論的で難しいので、大衆向きの雑誌を作りたいと述べていたという。浅野正恭が書いた文章にこの記載がある。

 

田中千代松(1898年→1994年:昭和24年当時は理事長)の浅野兄弟に対しての見方は『新霊交思想の研究』の中で示されている。田中は「日本という風土は、新スピリチュアリズムの神道への癒着と、仏教への癒着という二例を残した」(注15)として、神道への癒着の例として浅野和三郎を取上げている。「昭和12年に死去した浅野和三郎に『日本国民の精神的指導原理』という論文集(昭和14年刊)がある。帝国日本が破滅への道を邁進していた頃に、国粋思想と新スピリチュアリズムとの抱合せに、彼が苦慮したことを語っている諸記録である」(注15)と述べている。

 

浅野正恭については、「亡弟の心霊研究と新スピリチュアリズムに関する論文集を編纂し刊行した人である。元海軍中将で弾道学の権威であったというが、この人に『日本精神の淵源―古事記生命の原理』(昭和13年刊)という著書がある。この人は弟のように思索動揺のあとを示さず、心霊研究と新スピリチュアリズムを端的にウルトラ国粋主義に従属させた」(注15)と批評した。

さらに田中が編纂した『新・心霊科学事典』の「浅野和三郎」の項目中に「彼の死後に機関誌『心霊と人生』の中から引き抜いて、書冊の形を与えられたもの多数の中に、スピリチュアリズムと日本の神道を習合させようとした文章もある。ということを付記しておく。そしてまた付記しておく、心霊研究の成果を援用して書いた『古事記生命の原理』の著者、浅野正恭(海軍中将)は、浅野和三郎の次兄である」(注16)との記載がある。これ等の記述から田中は研究者として覚めた目で、神霊主義を唱えた浅野和三郎とそれを発展させた浅野正恭との関係を、日本のスピリチュアリズム史の中に冷静に位置付けて分析していたことがよくわかる。

 

宮澤虎雄は「心霊研究は浅野さんの研究発表の範囲および其の所説だけに局限されるべきではなく、心霊研究の種々の面に於いて各研究者が精進し其の所信を発表すべきであ(る)」(注17)と述べて、浅野和三郎が述べた所説に捕らわれずに広く研究を行なうべきと述べた。少なくとも宮澤は浅野の説はスピリチュアリズムの中の一つの立場を表明したものとの認識の上に立っていた。ここに浅野和三郎の忠実な後継者を自認していた脇との考え方の差異が見て取れる。この宮澤の意見は当時の『心霊研究』誌から判断すれば、日本心霊科学協会執行部全体の意見であった。

 

☆浅野正恭の反発

1930年代以降の日本を席巻した「近代天皇制イデオロギー(天皇制国家思想)」、この思想を組み立てている復古神道や水戸学・儒教的なものが戦後の一時期排斥され嫌われた。これは浅野和三郎の思想そのものであった。国中に溢れた「神国思想」の大合唱にスピリチュアリストとして加担した和三郎は、戦後存命であれば在野の神道思想家と同様に一時期肩身の狭い思い(一部の世界を除いて)をしたであろう。少なくとも戦後の一時期まで、神道思想家に対しては北風が吹いていた。職業軍人(元海軍中将)であった浅野正恭にとっても居心地の良い時代ではなかったはずである。

 

昭和21年、浅野正恭は「心霊研究に殉じた」弟の遺志を引き継ごうと、新組織の結成準備委員の一人として関係者を説いて回り、日本心霊科学協会の設立に尽くした。この「心霊研究者の大同団結」を唱えて設立にこぎつけた当時の日本心霊科学協会は、浅野正恭の意に反して学問研究重視の雰囲気の強い団体であった。実際に「協会創立の初期、協会を訪れる人々の中には心霊現象を学問的に研究したいという人が多くいた」(大谷宗司:注18)という記載もある。このような協会の活動実態は浅野正恭の目指していた「心霊研究を人生問題に応用する」(注19)方向とは距離があった。さらに浅野和三郎を日本のスピリチュアリズム史の中で、冷静に位置付けようとする田中の研究についても、情に厚く弟思いの正恭にとっては耐えられなかったといえよう。浅野正恭はこれらの一連の状況から、「同じ心霊畠から辱められたり、無視されたりするのを、指をくわえて黙っているのも骨肉の情に反する」という強い思いとなり、前述の一文を書かせたのではないかと思われる。

 

このように見ていくと、日本心霊科学協会創立当初の顧問の浅野正恭、常任理事の脇長男、評議員の浅野多慶(子)が協会を離れて心霊科学研究会を復興した要因は、状況証拠の積み重ねから推論すると次のようになる。

当時の協会の心霊研究重視の風潮と浅野正恭や脇長男らとの意識のズレ。当時の田中千代松と脇長男との確執。国家神道の体制内に置いた当時のスピリチュアリズムの再評価(→主に田中千代松の研究)。これらの動きに対して和三郎の業績が無視されたとして、浅野正恭たちから強い反発が起きた、と思われる。これらの感情的な問題が根底にあって、その上に現実的な個々の事案の行き違いが引き金となって決裂したのではないだろうか。そして情に厚い正恭は脇の大衆向け心霊雑誌の出版構想に、心霊科学研究会の『心霊と人生』誌を提供したのではないかと思われる。

 

☆「出口なお」と「浅野兄弟」の類似点

浅野和三郎は大本教を離れた後に、出口なおの筆先(自動書記現象)に「自分一家の後継者を規定したり、自分の児孫の繁栄に対する執着心の強さ、身内びいき」などの潜在意識が強く現れていることを指摘して批判した(注20)。事実、出口なおには肉親の情愛というアキレス腱があった。和三郎はそこを批判することによって、なおの呪縛から解き放たれて「スピリチュアリズム(心霊主義)&サイキカル・リサーチ(心霊研究)」に進んで行くことが出来た。

 

浅野和三郎の人生を考える際に、兄正恭は要所々々で重要な役割を演じていたことに気が付く。たとえば古事記の研究を機関誌に掲載して和三郎の復古神道を側面から補強したり、骨格だけの日本神霊主義に肉付けして「忠実な後継者」の脇に引き継いだことなどにそれが見られる。このように浅野兄弟は日本におけるスピリチュアリズムの草創期において、霊的に見て和三郎が先陣を担当して切り開き正恭が守り固めるという具合に、お互いに補い合って普及発展に努める役割分担があったのではないかと思われる。

推察するに、兄弟はこの世における克服すべきテーマ(→例えば「肉親の情愛」など)を、心霊知識の普及発展という共通の目標と絡めて克服しようと努めたが、結果的にこのテーマをクリアーすることができなかった。兄正恭の「肉親の情愛」は、弟が生涯をかけて普及に努めてきたスピリチュアリズムの発展に暗い影を落としてしまった。その意味で出口なおの「肉親の情愛」を批判した和三郎の矛先は、一体である正恭の情愛によって廻り廻って、自らを傷つける諸刃の剣となって戻って来たといえる。

 

☆浅野正恭の「肉親の情愛」に対する弊害

浅野正恭は刑事被告人時代の厳しい時期の和三郎を支えて、生涯よく弟を側面からサポートした。この弟思いの気持ちが「同じ心霊畠から辱かしめられたり、無視されたりするのを、指を銜えて黙っているのも骨肉の情に反する」という激しい感情を生むことになったと思われる。この正恭の激しい感情は無言の圧力となって、新しい時代の中で和製スピリチュアリズムを自由に再検証する道を塞いでしまった。そして“和三郎という聖域”を作って個人崇拝的な雰囲気を生じさせてしまい、結果的にスピリチュアリズムの活動全体の方向性を縛ってしまうことになった。

 

兄正恭が昭和29年に死去した以降も、「浅野和三郎の忠実な後継者」を自認していた脇長男の存命中は、正面から和三郎の功罪を論じる雰囲気ではなかったといえる。このように浅野正恭の弟思いの強い感情が、日本におけるスピリチュアリズムの流れを変質させてしまったと言えまいか。また浅野正恭の組織的感性の希薄さが、「心霊科学研究会」や「東京心霊科学協会」および『心霊と人生』誌などに対して、組織や機関誌としての連続性に対する疑義と無用の混乱を生み出してしまったといえよう。

浅野和三郎が骨組みを作り、浅野正恭や脇長男らによって肉付けされた和製スピリチュアリズムは、その後正恭の呪縛に引きずられることになった。昭和20年代中ごろに生じた関係者の間の行き違いは、浅野和三郎の後継を任ずる「日本心霊科学協会(和三郎の評価は客観的に)」と、「心霊科学研究会(和三郎の遺志を引き継ぐ忠実な団体として)」のその後のギクシャクした関係を作ってしまう原因となった。

 

脇が死去した後の1980年前後以降、思想的には「近代天皇制イデオロギー」の影響下にあった、影響力の大きいスピリチュアリストが次々と退場していった。この時期の世代交代と「精神世界」という時代の追い風によって、やっと「純粋なスピリチュアリズム(神→人類)」を正面から論ずる風潮が、スピリチュアリズムの世界に生まれてきた。このような中から、「時機の到来」という言葉が実感できる出来事が1982年に起きた。当時“震源地”の近くにいた筆者の周りでは、砂に水が染み込むように『シルバーバーチの霊訓』が受け入れられていった。このような状況を目の当たりに見る幸運に恵まれた筆者は、同時に責任も強く感じた。その後『シルバーバーチの霊訓』はブームとなり広く普及していった。

 

― ― ― ― ― ― - ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― 

<注1>

■機関誌『千鳥』第5号(昭和231025日発行)。この記事が雑誌『心霊研究』1949年(昭和24年)2月号の裏表紙の裏面「広告欄」に、読者からの問い合わせ(協会と千鳥会の関係は如何に?)に回答すると言う形で再録されている。

 

<注2>

■雑誌『心霊研究』1954年(昭和29年)7月号参照。

粕川章子は編集後記の誌面を借りて、昭和28年から始まった「心霊同好会の統一行」を紹介している。それによると心霊同好会では「心霊主義の教える真人をめざし、それぞれの道を撰んで精進を続けている・・・このように誤りなく心霊知識が実践されている精神道場が他にあるであろうか・・・目下入会希望に応じきれないほどの状態」にあると記している。

 

<注3>

■粕川章著「ライン博士等の研究」:雑誌『心霊研究』1948年(昭和23年)5月号、6月号所収。

 

<注4>

■田中千代松著「追想と解説」:『心霊研究、第1期(1947年~1956年)補巻』所収

 

<注5>

■大谷宗司著「小熊先生と日本の超心理学」:『超心理の科学』(図書出版社1986年刊)所収、22頁参照。

■座談会「心霊研究」十周年を記念して:雑誌『心霊研究』1957年(昭和32年)3月号。

座談会参加者の吉田寛は超自然科学研究会の有力な一員だが、席上次のような発言をしている。「超自然科学研究会の第一回の会合は、昭和24年の7月でありまして、この協会が財団法人の許可を得て公益法人として発足したのと、偶然にも同じ年月であったと言うことであります。この超自然科学研究会は、毎月一回の会合を持つことに決めまして、その通り休むことなくやってきましたので、今月で丁度七十五回の会合を開いたことになります」「去年私どもの超自然科学研究会のメンバーの大谷君が、そのパラサイコロジイに関する研究の一部をまとめた論文を、アメリカのデューク大学のライン博士へ送ったのでありましたが、それがあちらのパラサイコロジイの機関誌に載せられ、そして、そのことからして、ライン博士が大谷君をデューク大学のその研究室へ招きたいという話になったのであります」とある。

 

<注6>

■座談会「心霊研究」十周年を記念して:雑誌『心霊研究』1957年(昭和32年)3月号。

座談会参加者、田中千代松の発言に「われわれと最も親しい友好関係にある超自然科学研究会には、若い学徒がかなり多数集まっておられ、研究を進めていることは、非常に心強いことだと思っております」とある。

 

<注7>

■大谷宗司著「小熊先生と日本の超心理学」:『超心理の科学』(図書出版社1986年刊)所収、22頁参照。

 

<注8>

■雑誌『心霊研究』1947年(昭和22年)2月創刊号、31頁参照。

 

<注9>

■雑誌『心霊研究』1963年(昭和38年)10月号、18頁~参照。

 

<注10 

■雑誌『心霊と人生』1950年(昭和25年)5月号、4頁~参照。

 

<注11

■田中千代松著「追想と解説」:『心霊研究、第1期補巻』所収。

 

<注12

■専門家の話によれば、宗教団体や信仰グループ特有のケースとして、許諾を得た当初は組織の考えに方に共鳴して信仰活動していたが、その後意見の違いから離脱した場合に著作権との関係でどうなるか、という事実認定の難しいケースがあるという。

この「〇〇〇のためであれば自由に使用してよい」との許諾には、A説では組織離脱後も「〇〇〇のための使用」であるならば許諾の有効性は維持されているとする考え方がある。これに対してB説では許諾は条件付きであり組織離脱後は無効となったとする考え方である。このB説からは許諾はあくまで組織内にいる場合を想定したものであり、離脱後は当然に無効となった。双方にこのような暗黙の了解があったと認定する場合である。

このように許諾が有効であるか無効となったのかは事実認定の問題となる。一方的に断定することはできない(但し許諾が有効としても引用の仕方の適不適の問題はあるが)。今回の浅野和三郎の相続人と宮澤虎雄との間の著作権問題は、上記のように事実認定が極めて難しい事例の典型であるが、浅野家に一任した編集部の方針は妥当であると思われる。

 

<注13

■雑誌『心霊と人生』1950年(昭和25年)5月号参照。

■浅野正恭の“著作権違反の通知文”には激しい感情がこもっている。本来であれば感情に走らずに、著作権にまつわる主張を事務的に告げた方がよかったように思える。この問題の教訓として自己の権利を主張する場合には、将来に禍根を残さないためにも、事実の通知と感情論は切り離した方が良いと思われる。

 

<注14

■雑誌『心霊と人生』1951年(昭和26年) 23月号参照。

 

<注15

■田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)333頁~334頁、336頁~337頁参照。

 

<注16

田中千代松編『新・心霊科学事典』(潮文社1984年刊)

 

<注17

■宮澤虎雄著「浅野さんと心霊研究と私」:雑誌『心霊研究』1951年(昭和26年)4月号参照。

 

<注18

■大谷宗司・小池博子著「今日の日本心霊科学協会(Ⅰ)」:雑誌『心霊研究』2005年(平成17年)3月号参照。

 

<注19 

■雑誌『心霊研究』1947年(昭和22年)3月号参照。

 

<注20

■雑誌『心霊界』大正139月号~大正142月号掲載:「主張と告白」より。

 

 

◆浅野和三郎研究:目次

http://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/06/post-9fb2.html

 

« 心霊写真展覧会事件 | トップページ | 霊的実在の証明方法の変更 »