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心霊科学研究会時代(大正期)

目 次

 

①.『出盧』および『冬籠』における浅野の立場

ア)浅野の「心霊の世界」の活動区分

・第一期

・第二期

・第三期

イ)「浅野和三郎」研究の基本書

ウ)教団に対する違和感

・出口なお死去までの期間

・教団内の改革を目指そうとした

・大本を去らねばならぬ

エ)連載終了の絶妙なタイミング

・急激な部数減に伴う経営危機

・連載回数

・ギリギリのタイミングで連載完了

オ)自伝的記録集の立脚点

・発行禁止処分を回避

・収監時の心境

・教団幹部としての立場で執筆

 

②.大本から心霊科学へ

ア)大本霊学から心霊科学への移行期

イ)浅野の大本時代の総括

・浅野の出口王仁三郎批判

・霊界物語の改竄問題

・霊能者中心の会を否定

・研究会方式への転換 

・大本は「学び舎」であった

・平凡な「神懸りの研究者」の可能性もあった

・逆境は強烈な動力源

ウ)思想上の変遷

・復古的「大家族制度」の頓挫

・国家神道の体制内思想へ

 

③.心霊科学研究会

ア)研究会発足まで

・心霊研究のための機関設置を唱えた人

・心霊科学研究会の設立関係者

イ)心霊科学研究会の創立

・創立総会

・設立発起人

ウ)心霊科学研究会の事業目的

・設立趣意書

・事業目的

エ)関東大震災

・機関誌『心霊研究』

・関東大震災により罹災する

オ)大阪で再興をはかる

・機関誌『心霊界』の発行

・『心霊界』を『心霊と人生』に改題

・個人雑誌『心霊と人生』

 

④.「大本事件」裁判

ア)事件の概要

・裁判関係

・強制捜査

・“〇〇神”VS“〇〇神”

イ)浅野と大本との関係

・立て直し

・教団改革

・大本の縁が完全に切れる日

ウ)大赦令適用による免訴判決

・大正天皇逝去

・大赦令の適用

 

<注1>~<注30

 

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①.『出盧』および『冬籠』における浅野の立場

ア)浅野の「心霊の世界」の活動区分

表街道を「単調平凡」に歩んできた浅野和三郎は、三男の病気をきっかけに「社会の裏通り」の存在を知り、「別世界(=心霊の世界)」との係り合いを持つようになった。

この「別世界(=心霊の世界)」で活躍した20年余りに渡る期間を、便宜上以下のように大きく三期に区分してみた。

 

☆第一期

◆大正4年(1915年:41歳)末から大正10年(1921年:47歳)夏頃までの時期。

大正4年に浅野は三男の病気をきっかけとして、行者石井ふゆと出会って「魔訶不可思議な世界」を知った。そして海軍機関学校の元同僚である大本の布教使の飯森正芳と再会して、出口王仁三郎を紹介された。王仁三郎から霊学と鎮魂帰神を教わり、皇道大本(=大本教)に入信し幹部として活躍したが、「(天皇に対する)不敬罪」で検挙・拘留された。この「第一期」は様々な霊的体験を積んで心霊を勉強した期間であり、浅野にとって「心霊に関する学びの時代」(注1)となった。

 

☆第二期

◆大正10年秋以降から昭和2年(1927年:53歳)までの期間。

この第二期は「大本事件」によって自宅並松での謹慎生活から始まり、大正12年の心霊科学研究会の立ち上げ、大阪での雑誌『心霊界』の発行。そして大正天皇崩御による大赦で浅野の「不敬罪」が免訴となり、長年の「精神的重圧」から解放されるまでの期間である。この期間は心霊研究の基盤づくりの時期にあたる。

浅野は謹慎生活中の「大正1011年頃から殊に心霊研究に熱心」(宮澤虎雄:注2)になった。この時期を境にして宗教者から「心霊研究者・神霊主義者」への道を歩み始めた。浅野は雑誌『心霊界』で、この謹慎期間を「(大本時代の)反省と思索との絶好の機会を私に恵みました」(注3)と述べている。

このような点から見て、大正10年はいわば日本に於ける「スピリチュアリズム元年」であったと言える。この「第二期」の特徴は一言でいえば「刑事被告人」の立場であり、未解決の「大本事件」が“重いしこり”となって浅野の気持ちの中に存在していた時期であった。いわば「試練の時期」に当たる。

 

☆第三期

◆昭和3年(54歳)から昭和12年(1937年:62歳半)の死去までの期間

ISF(国際スピリチュアリスト連盟)大会参加から死去までの期間は“神霊主義者(スピリチュアリスト)”として、組織活動や心霊知識の普及啓蒙活動に本格的に取り組んだ時期である。また「和製スピリチュアリズム」の原型が出来上がった時期でもある。

浅野の海軍機関学校時代までの「単調平凡な時代」や、「大本における学びの時代」、そして刑事被告人としての「試練の時期」は、すべてこの「第三期」に向けての準備期間であったともいえる。

 

イ)「浅野和三郎」研究の基本書

浅野和三郎には大正99月から『大正日日新聞』に連載した『出盧(綾部生活の五年、第一部)』と『冬籠(綾部生活の五年、第二部)』という自己の半生を描いた自伝がある。浅野和三郎を取り上げる研究者は、大部分この『出盧』と『冬籠』をベースにして論稿を書いているが、論述するテーマによっては『出盧』と『冬籠』が、どのような立場に立って書かれたものであるかを明確にしておく必要がある。特に浅野の晩年の仕事である“神霊(心霊)”関係を論述する場合には、「大本霊学の立場」に立って書かれているのか、「スピリチュアリズムの立場」で書かれているのかの検討は重要である。筆者は「浅野和三郎研究」を進める前提として、執筆当時の立脚点を明らかにするために調査が可能な範囲で当時の新聞や関連資料にあたり、『出盧』と『冬籠』の立場を明らかにしてみた。

 

掲載誌の『大正日日新聞』(注4)とは、大正8年に大阪梅田で創立された時事新聞であるが、経営難から「売物に出ているが、誰も買手が見当たらない」ため、大本が食指を伸ばして買収交渉に名乗りを上げた。交渉には大本側を代表して浅野和三郎が当たり、大正9814日に35万円を支払って『大正日日新聞』を買収した(→『大本七十年史、上』の記載によれば、実際には50万円で買収したという)。宗教教団が時事新聞を買収したと言うことで話題となったが、大本の買収目的は「プロパガンダの媒体的な役割」を時事新聞に期待したことであった。それは「大本神諭に示されている予言と警告とを時事問題と突き合わせて一般の人々に理解しやすく解説し、立替え立直しの神意を宣伝して、社会の革正を促さんとする」ものであり、その編集方針も「はじめから(立替え立直しに関する)激しい論調を中心にすることに重点が置かれていた」(注5)ことからも明白である。いわば大本の機関紙的な性格を帯びた日刊新聞としての位置づけであった。

なお『大正日日新聞』復刊第一号は926日付であるが、前日の925日に発行された。この一面トップに浅野和三郎は社長の肩書付きで「再刊の辞」を五段抜きで掲載している。

 

ウ)教団に対する違和感

☆出口なお死去までの期間

浅野が雑誌『心霊界』に大正139月号以降に発表した「主張と告白」によれば、大本に入った当初は「大本の神啓、教理、又その施設方針等に対して殆んど無批判的に一も二もなく受け容れる有様」であったという。このように大本に心酔していたが「次第に心の平静を回復するに連れ、私は次第々々に大本の長所と同時に短所を痛感する」に至ったと記している。浅野が「心の平静を回復する」きっかけは「教祖の死」であった。

浅野は出口なおを全面的に信頼し心酔していたため、なおの死(大正7116日)は彼にとって大きな衝撃となった。なぜならこの時点の浅野は、スピリチュアリストではなく宗教者であったから。

 

宗教ではよくマインド・コントロールが問題となる。浅野もこの時期、教祖や大本霊学を絶対視して、これに全面的に心酔したため、客観視する視点(→批判的な視点、理性的な視点)を見失っていた。そのため自分の意見と大本霊学とが一体化してしまった、それが浅野の「殆んど無批判的に一も二もなく受け容れる有様」という表現に表れている。この意味においてこの時期、大本霊学という「絶対的な智」に、浅野は一種のマインド・コントロールの状態に置かれていたと言えよう。教祖の死はマインド・コントロールを打ち破る絶好の機会となった。

 

浅野は「大本はこのままでは駄目である――私がそう気づいたのは大正7年と8年の境のころであります」(注6)と述べているように、なおの死去以降、心境の変化が生じてきて、教団に対して一歩距離を置いて見ることができるようになった。

浅野は大正5年の春以降、大本教祖や大本霊学に対して、一種のマインド・コントロール状態に置かれ続けてきたが、教祖の死はその呪縛から解き放すきっかけとなった。浅野の思想を縛ってきたマインド・コントロールが解けてきて、盲目的な状態から徐々に理性的な視点を取り戻すことができるようになった(→自由な発想ができるようになってきた)。そして教祖や王仁三郎、大本霊学を批判的な視点で見ることができるようになってきた。

 

☆教団内の改革を目指そうとした

大正8年(1919年)に入ると、皇道大本(大本教)に対する警察の調査が始まった。同年225日から31日まで、京都府警察保安課長中村安次郎と警部岡田某の両名が綾部に出向いてきて、雑誌『神霊界』の記事に関して出口王仁三郎と浅野和三郎らを尋問した。この時の警察の狙いは、藤沼警察部長の言葉によれば「検挙するのではありません、あの人々が何を云い、何を行おうとするかを、如実に調べ(る)」ことであり、「大正維新」の具体的内容を、当事者を尋問して明らかにすることにあった(注7)。

 

その後大正8318日から21日まで、今度は王仁三郎と浅野は京都府庁の警察部に召喚されて尋問を受けた。このときの模様が319日付『京都日出新聞』に、出口王仁三郎の談話として「悪い所は改める」との見出しで掲載されている(注7)。

同年510日京都府警察部は出口王仁三郎を再び召喚して、大本教に対して第一回目の警告を発した(注7)。この頃からマスコミにおける大本批判が激しくなった。このような状況から浅野は、教団内部の改革を進めていくとの立場から、大正9年末に「(教団内部で)何とかして其の根本に蟠(わだかま)るところの欠点弊所を除き得ぬものかと努めた」(注3)という。しかし力及ばずであった。

 

☆大本を去らねばならぬ

浅野は大正101月以降に、大正日日新聞社長や大日本修斎会総裁等の大本関係の一切の役職を辞任した。この頃の心境は「自分はいよいよ大本を去らねばならぬ」(注3)と心密かに覚悟を決めた時期であった。このような出口なおの死去以降、浅野の教団に対する違和感が次第に大きくなっていく流れの中に『出盧』と『冬籠』を置いてみると(→自伝の執筆は大正9年秋以降、大阪梅田の新聞社の社長室で行った)、自伝執筆は自らの半生を総括して教団との関係を再考するよい機会となったこと。その結果脱会までを視野に含めた考えが浅野の中に芽生えてきたことなどが見えてくる。

 

エ)連載終了の絶妙なタイミング

☆急激な部数減に伴う経営危機

浅野は大正99月に大阪梅田にある『大正日日新聞』の社長に就くことによって、京都の綾部にある教団から一歩距離を置くことができた。しかし「世の立替え立直し」を激しい論調で説く編集方針に一般読者が付いていけず離れていったことや、官憲による雑誌や新聞の購読調査に名を借りた『大正日日新聞』読者に対するいやがらせ。さらには「資本家の人々も極力(記者の)面会を避けた」ことや、役所の記者室のドアには「邪教記者入るべからず」との張り紙が張られたことなどから、取材活動が著しく制限を受けていた。このような状況下に『大正日日新聞』が置かれていたため、当初40数万部あった発行部数が3カ月目には20万部に減少し(注8)、新聞社の経営不振という現状に直面した。

 

そのため浅野は大正10113日に責任をとって新聞社の社長を辞任し、さらに同年23日には大日本修斎会会長(→資料によっては総裁)を辞任して、大本関係の一切の役職を退いた(注9)。

社長辞任の時期における連載の状況は、第一部『出盧』が大正9124日の70話をもって終了し、その後の第二部『冬籠』は半分まで連載が進んだ段階にあった。この点からも執筆当時の浅野の立場は皇道大本の幹部であったため、自身の内面の思惑はともかくとして、立場上大本の教義や組織を肯定する立場で執筆しなければならなかったと言える。

 

☆連載回数

『大正日日新聞』に連載された『出盧』と『冬籠』の日付と連載回数は次のとおりである。

第一部『出盧』

1.霊を見るまで―大正9926日*~109日、14回連載

2.心の岩戸開き―大正91010日~1026日、17回連載

3.初心の審神者―大正91027日~1110日、15回連載

4.綾部の参籠――大正91111日~1123日、13回連載

5.引越準備―――大正91124日~124日* 11回連載

(第一部、連載回数は合計70回)

第二部『冬籠』

1.綾部の冬籠―大正9125日*~「欠番のため不明」

2.春から夏にかけて―「欠番のため不明」~大正1019日*

3.東のぼり――大正10110日~118日、9回連載

4.秋の丹波――大正10119日~126日、8回連載

5.並松雑話――大正10127日~28日、13回連載

(第二部、連載回数は合計60回) 

*印部分につき、<注10>を参照のこと。

 

☆ギリギリのタイミングで連載完了

浅野は『大正日日新聞』に自らの自伝(→『出盧』と『冬籠』)を、大正9926日の紙面(推定)から書き起こしたが、連載(全130話)が終了したのは大正1028日であり、大本事件の強制捜査(212日)の4日前というギリギリの日程、タイミングであった。

 

浅野は大正10212日午前、綾部署に拘引されて簡単な取り調べの後、京都地方裁判所検事局に送られて、京都監獄未決監に収監され、同年617日に保釈されるまで拘束されていた。浅野が収監されていた間に連載記事はまとめられて、大正10218日に東京の龍吟社から『綾部生活の五年、第一部“出盧”』が、同年7月5日に同じく龍吟社から『綾部生活の五年、第二部“冬籠”』がそれぞれ単行本として刊行された(→発行日と出版社は『近代文学研究叢書、41巻』の記載による)。

 

オ)自伝的記録集の立脚点

☆発行禁止処分を回避

この浅野の自伝が事件前に完了していなければ、皇道大本幹部が執筆している連載記事であり当局を刺激するとの理由から、新聞の掲載見合わせ・連載中止となって頓挫した可能性もあった。連載の舞台となった『大正日日新聞』は事件当日も発行されていたが、事件頃の紙面を見た限りでは、センセーショナルに「大本関連記事」を書き立てるという従来の手法は自粛して、時事的なニュースに重点を置いた構成にして、発行禁止処分を回避したことが窺える。

 

☆収監時の心境

浅野は監獄に収監中は「宗教書やその他多くの書物を読みましたので、だいぶ勉強ができました。しかし思想上には何の変化もありません」(注11)と新聞記者に述べて大本幹部としての対面を保った発言をしている。後年の「主張と告白」(大正139月以降)では、「(裁判事件は)ある意味においては却って反省と思索との絶好の機会を私に恵みました」(注3)となっている。この大正10年の「思想上には何の変化」もないとの発言から、大正13年の「反省と思索」の時間が得られたとの発言まで、3年以上の時間の経過がありその間の浅野の心境の変化が感じられる。

 

☆教団幹部としての立場で執筆

浅野は新聞に連載するという形で自伝(→『出盧』と『冬籠』)を発表したが、この執筆が事件後であれば大本に関連した部分の記載内容が現在の本とは違って、だいぶ変わってくるのではないだろうか。あるいは収監中の心境の変化が浅野の「大本を去らねばならぬ」との意思を強固にして、作品がいわば教団を離れる「弁明の書」になった可能性も強くなる。発表の舞台も『大正日日新聞』以外が考えられる。

 

私たちが現在手にすることができる『出盧』と『冬籠』は、教団幹部としての立場(→大本霊学の立場から解説されている)から書かれたものである。スピリチュアリズムの立場に立ってこれらの本を読む場合には、その点を考慮して読む必要がある。しかし立場はともあれ浅野が書き残してくれたために、私たちは当時の実証的知識人が霊的世界に飛び込んでいく経緯をこの自伝から読み解くことができた。

浅野の大本離れを決定的(内面・外面ともに)にしたのは、不敬罪・新聞紙法違反容疑による拘束・起訴という大本事件であった。この裁判の過程で、浅野は大本教団や出口王仁三郎から完全に離れていくことになった。

 

②.大本から心霊科学へ

ア)大本霊学から心霊科学への移行期

浅野は大正10212日の大本の強制捜査により不敬罪容疑で逮捕拘留され、同年617日まで「京都監獄未決監」に収監されていた。出口王仁三郎と共に保釈となって綾部に戻ってきた浅野は大正11年秋頃まで、並松で「謹慎生活」を送っている(注12)。この謹慎生活の中で、浅野の内部から大本主導の大正維新による「立替え」という側面が抜け落ちていった。そして「大本霊学」から「心霊科学」に移行していくのだが、この移行過程は一直線に進んだのではなかった。浅野が残した文面からそれが読み取れる。

 

浅野は「天皇に対する不敬罪」で逮捕起訴された際に提出した陳弁書の中に、西洋における心霊研究に触れながら弁明した箇所がある。「(心霊研究は)ご承知の通り最近長足の進歩を遂げ、霊学と科学とはほぼ一致して参りました」と西洋の心霊事情を述べた上で、「私は立派に科学的方法を以って、大本の所説の正しい事を立証しえる時代に到着したことを衷心から喜んでおります」。このように大本に立った弁明をしている。また雑誌『心霊界』(注13)の記事においても、「大本教は決してすべてが悪くもなければ間違ってもいないと同時に、また決してすべてが善くもなければ正当でもない」とも述べている。

震災で大阪に一時避難した時期に発行した心霊科学研究会の機関誌名が、『心霊研究』から『心霊界』という名称に改題された。この機関誌名の『心霊界』は、大本時代に浅野が主筆として携わった機関誌名の『神霊界』を、「神」から「心」に一字違えただけの発音上同名のタイトルであった(→なお「心霊哲学会」の木原鬼仏が松江で発行した雑誌『心霊界』とは異なる)。

 

このように「第二期」は、陳弁書等の裁判関連の記録や雑誌『心霊界』などに掲載された文面から推測するに、大本の教説と心霊科学との間で行きつ戻りつしながら、浅野の思索が揺れ動いた時期であった、が次第に宗教の呪縛から解き放たれていったことが分かる。

浅野の「心霊研究の同行者」(田中千代松)の宮澤虎雄は、「浅野さんは大本における自分の責任を痛感し、大本より独立して、従来の審神者としての経験を生かして、心霊研究により、新興宗教の厳正なる批判をなさんとの決心をしたのである。そして新時代の精神的運動の新基盤は心霊研究を以て築き上げるしかないと考えて、筆と口と心霊的実証とによりて世間に訴えんとするに至った」(注14)と述べて、この時期大本霊学から心霊研究へ移行していった浅野の心境を解説している。

 

イ)浅野の大本時代の総括

☆浅野の出口王仁三郎批判

浅野は「主張と告白(その6)」(注15)のなかで、大本時代を振り返って総括している。

出口王仁三郎は出口なおの存命中は「(出口なおの)忠実な内助者であり女房役であり、言わば直子(なお)の陰にかくれし犬馬の労に服した」。しかし出口なおが死去した後は、王仁三郎は自己中心的となって、自分が「ミロク」であると言い出した。「直子の筆先の中には、艮の金神、元の国常立尊が天の御先祖さまたるミロク様から御命令を戴いて立替え立直しの衝に当ると書いてある・・・・血迷った出口(王仁三郎)氏は無謀至極にも自分がその所謂ミロク様であると言い出しました。少なくとも自分がミロク様のお血筋を引いた天の使いであると称して口に筆にさかんに自家推薦を試みました」。さらに「その頃大本教の信者の中でしきりにキリスト再臨説を唱えるものが輩出しました。気の多い出口氏はいつの間にか、その再臨のキリストにもなり済ましました」と述べて、浅野は出口王仁三郎の言動を批判している。

 

一般に霊能者にはいわば“非常に安定性の悪い精密機械”のような面があり、自己管理をキチンとしていかないと低い霊と感応道交してしまい、言動に問題を起こすことが知られている。出口王仁三郎は極度の霊媒体質者であった。浅野に言わせれば、王仁三郎は「数多き世界の霊媒的人物中、出口氏の如きは人格分裂、言行不統一の点に於いて優に第一位を占めるでありましょう」と。また「局部的には時々霊の閃き、才の閃きを認めますが、全体としては支離滅裂、ほとんど何のまとまりも繋がりもありません」と王仁三郎を厳しく批判した。

 

☆霊界物語の改竄問題

「一本気な性格」の浅野は『霊界物語、第1巻』が出るに及んで、取り巻きの迎合的態度に業を煮やして「王仁三郎に対峙し膝詰め談判」して、『霊界物語』の内容の改変と発表阻止を激しく迫ったという。しかし浅野の強硬な申し入れにもかかわらず、王仁三郎は『霊界物語』の刊行を強行した(注16)。『霊界物語、第1巻』には、王仁三郎は浅野の意見を取り入れて一部手直しをしたという改変跡が残っているという。大本側の『霊界物語』発刊の経緯を扱った書籍には、このことが必ずと言っていいほど言及されている。これを称して大本側では一部役員信者による「霊界物語の改竄問題」と呼んでいる。

 

☆霊能者中心の会を否定

浅野は大本が霊能者出口王仁三郎を中心とした教団になっていった経緯を振り返って、大本時代を反省して教訓をくみ取り、今後の組織形態について次のような意見を述べている。

浅野は「心霊現象が虚偽でなく、霊能所有者が現実に存在する以上、もちろん之を無理無体に圧迫撲滅することは正当でない。たとえ一時それができてもすぐその後から首をもたげ、同時に之に伴う精神的弊害は戦慄に値する」と。世の中には霊媒体質者が存在することや、心霊現象が存在することを事実として認めた。

そのうえで「言行の不統一なる霊能者を中心として、教会じみたものを組織することもまた甚だ考えものである」として、霊能者を「教祖」扱いにした組織の在り方に否定的見解を示した(→後年、浅野の後継者を自任した脇長生が“ある団体の現状”を批判したがその根拠はここにある)。このような霊能者中心の組織では「とても信者の統制もできなければ、教義の整頓も覚束ない。ことに現代人の頭脳はあくまで理智的、批判的、解剖的になっているから、いかに偉い霊覚者でも到底一人ですべての人に充分の満足を与え得る見込みはない」(注17)と述べて、霊能者を中心とした「教会方式」で行く考え方を捨てた。

 

☆研究会方式への転換 

模索の過程で考え出した組織の形態を次のように述べた。「霊覚者を無視してもいかず、霊覚者を崇拝しすぎてもいかず、たった一人の霊覚者でもいけないとあっては、是非ともそこに出来るだけ多数の霊覚者を集めてこれを薫陶養成し、そしてその能力の厳密なる審査を実行しなければなるまい」と。そして浅野は「霊能者の養成機関と審査機関――この二つが完全にそろったときに、ここに初めて心霊上、信仰上、微妙な問題に関して充分の解決を与え、人生指導の大目的に添い得る望みがある。そう行かねば駄目だ。霊覚無視の傾向にある既成宗教は無論時代の要求に添わないが、さりとて、徒に霊覚万能の大本教式のやり方も弊害が多くあり過ぎて特殊部落を作ることになる」(注17)と述べた。ここにおいて浅野は、スピリチュアリズムの「科学的要素」と「哲学的・宗教的要素」の双方に十分配慮した「心霊科学研究会」形式に辿り着いた(→その後の浅野は“スピリチュアリズムが持つ宗教的要素”を強めていった)。

 

このようにして浅野は、霊能者出口王仁三郎に振り回された大本時代を総括して、新しい組織の在り方を「宗教団体」から「研究会方式」に大きく転換を図った。この「研究会方式」は、書物を通して西洋諸国の「心霊研究協会(SPR)」の存在・動向を知悉していたことが背景にあると思われる。しかし浅野の「研究会方式」は、西洋とは異なって「日本の伝統的な祖霊観や霊魂観」に配慮した「哲学的・宗教的要素」を強く志向させている点に独自性があるが(→関東大震災によって大阪に避難したが、再刊した機関誌『心霊界』の性格は、従来の『心霊研究』とは異なって「哲学的・宗教的要素」を強く志向させている点に特徴がある:注18)。

 

この時の浅野の「不退転の決意」は次の文章から読み取れる。浅野は「過去の大過失、大失敗を幾分なりとも償わんと覚悟しております」として、「渾身の努力を心霊研究に捧げていく」と決意を述べた。そして新しい組織形態を「心霊科学研究会」方式とした(注17)。このように日本における「継続的な心霊知識の普及啓蒙活動」は、浅野によって組織を核とした形で始められた。

 

スピリチュアリズムの普及啓蒙活動を継続的に進めるためには、良くも悪くも運動体としての“前衛”が必要となる。この「前衛の存在」という考え方は現在においても有効であり、普及啓蒙活動を行う際の基本的なスタイルと言ってもよいと思われる。

組織は“両刃の剣”であるが、組織の独善性や排他性といった“組織の体質”の問題と、霊界側が普及のための手足としてその組織を使う問題とは分けて考えるべきであろう。仮にその組織に「独善性や排他性」が見られる場合であっても、その程度が霊界側から見て想定の範囲内であれば“道具”として引き続き利用していくであろう。しかしそれが許容範囲を超えて「組織として堕落」していけば、為すがまま打ち棄てられるであろう。

 

☆大本は「学び舎」であった

一般に出口王仁三郎時代の大本は、「自由度の大きい組織であった」(注19)といわれている。浅野はこのような自由度の大きい宗教団体で、大本霊学を通じて「復古神道」を学び浅野の思想の根幹部分にある「天皇中心主義思想」を強固にした。

浅野自身も述べているように、大本が当時としては「ほとんど唯一の、比較的有力なる心霊道場」(注1)であったこと。この道場の霊的体験を通じて「霊主体従」思想を学び(→浅野は大本の「霊主体従」という言葉に代えて、雑誌『神霊界』の記事で「霊主肉従」という言葉を使っている:注20)、その後の心霊研究を進めていく上で豊富な霊的材料を入手したこと。鎮魂帰神を通じて「心霊の作用」や「神人の関係」等について実地体験する機会に恵まれたことなど、浅野にとって大本はよき「学び舎」であった。しかしその後に起こった不敬罪事件は「大本教に関係したばかりに」、「少しばかりの名、金、また身体の自由」を失い、浅野にとっては大きな「悲劇」であり「試練」となった。

 

☆平凡な「神懸りの研究者」の可能性もあった

かりに「大本事件」がなかったとしても、浅野は出口なおが死去した後、王仁三郎との信頼関係が徐々に薄れてきたことから見ても、遠からず大本を離れていったと思われる。この場合の心霊研究に向ける熱意は、「刑事被告人」という負目に伴う強烈なエネルギーが内部から湧いてこない分、「神霊主義者・浅野和三郎」ほど、熱くならなかったのではないかと思われる。

大正9年に『大正日日新聞』紙上に発表した『出盧』は大本入信までの自伝であり、『冬籠』は入信後の大本との関わりを描いた作品である。特に『冬籠』は大本信者の回想記になっており、大本の神懸り現象を客観的に検証する視点に欠けている。ここから言えることは「大本事件」に遭遇しなかったならば、浅野は平凡な「神懸りの研究者・浅野和三郎」で終わっていた可能性もある。

 

人は予め自らの地上人生の大枠をスケッチして再生してくると言われている。その大枠(→再生人生における到達可能な霊性レベルの上限と下限、そして出生から死までの寿命という長さ。この長方形の枠内に設定した幾つかの物的試練に対して、自由意志を行使してどのように乗り越えていくか、これが人生模様)の中で困難に遭遇するごとに自由意志を行使して、右に行くか左に行くかを選択し、その結果に対して自己責任を負うという形で人生行路を描いていく。地上人生の最晩年に自らの来し方を振り返ってみれば、そこには再生目的を達成するための一個または数個の“ターニング・ポイント”が存在していたことが分かる。

浅野の場合の“ターニング・ポイント”は「人生観を一変する出会(→石井ふゆと出会った)」「大きな事件に巻き込まれる(→大本事件に巻き込まれた)」「日本のスピリチュアリズム普及運動を牽引する」であった。

 

大本事件は「平凡な神懸りの研究者・浅野和三郎」への道を塞いでしまった。この事件は「人間・浅野」にとっては悲劇であったが、霊的視点に立って見た場合に「再生目的を達成する」ための道に進んで行けたことや、浅野自身の「霊性向上」の絶好のチャンスとなったことから見ても、故事にある「人間万事塞翁が馬」であったと言えよう。

浅野の「心霊研究の同行者」の宮澤虎雄は、謹慎生活中に「(浅野は)心霊研究に熱心になり、上京すると霊媒者を訪ねることもあり、霊媒者が並松の浅野さん宅を訪ねることもあった」(注21)と述べていることからも、大本事件は「神霊主義者・浅野和三郎」へ進んでいくための一種の“強烈な動力源”となった。

この時期は浅野にとって辛い時期であったが、反面から見れば並松の自宅に籠ってじっくりと心霊の勉強ができた期間であった。この時期の学びによって、宗教者からスピリチュアリストへと大きく飛躍するきっかけを掴んだことから、つらい体験を経ることによって始めて浅野は、大本での「心霊に関する学びの時代」を卒業することができた。

 

☆逆境は強烈な動力源

浅野が置かれた「刑事事件の被告人」(大正10年~昭和2年)という逆境は、むしろ彼にとっては「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」に進んで行くための“強烈な動力源”であったと言える。予期せぬ形で遭遇した事件は“火に油を注ぎ火力をあげる動力源”としての役割を果たして、浅野の内面に「強固な意志」を作り上げていった。その後の浅野は「筆と口と心霊的実証」によって、霊的真理の普及実践の道へと大きく足を踏み出して、彼自身を「神霊主義者」に変えていった。これを日本における“スピリチュアリズムの普及・実践”という観点から見れば、浅野の悲劇となった大本事件は「霊的実践に向けたスタートの年」になったと言えよう(→ただし浅野の実践は「和製スピリチュアリズム」であったが)。

 

ウ)思想上の変遷

☆復古的「大家族制度」の頓挫

スピリチュアリズムでは神を共通の親とする「霊的家族(→神を親とした霊的な兄弟姉妹、全人類が一つの霊的家族)」観が人類共通の認識に至る社会(=地上天国)が出現することを目標として、地球の霊的刷新事業を行っている。ただし当時の社会にあってはスピリチュアリズムの「霊的家族」観は、「国体」との関係で危険思想であったが。

 

浅野が唱導した大本的な「大正維新」による復古的「大家族制度」や「立替え立直し」は「不敬罪事件」で頓挫した。その後これに変わってスピリチュアリズムの「霊的家族・霊的同胞」意識と、「復古神道・天皇中心主義思想」とを融合させて、当時の社会を支配していた「国体」観に合致した形の、「神→天皇→国民」という独特な「大家族主義」を生み出していった。

 

☆国家神道の体制内思想へ

すべての人類(天皇も含む)は神を共通の親とする兄弟姉妹であるとするスピリチュアリズム的「霊的大家族主義(神→全人類)」は、浅野によって天皇神話と国家神道を基調とした「家族国家観」がこれに結びつけられて、現人神たる天皇を除外した「大家族主義(神→天皇→国民)」に修正されて、国家神道の体制内思想となった。

この浅野が唱えたスピリチュアリズムの「霊的家族(神→全人類)」の変形版である「大家族主義(神→天皇→国民)」は、当時の支配思想たる「家」と結びつき(→国家を一つの疑似家族として“天皇は父であり、皇后は母であり、新民は赤子である”とする家族国家観)、この「家」を介して祖霊崇拝がスピリチュアリズムの中に取り込まれた。浅野は大本という宗教団体を通しての「立替え」から、日本の「伝統的な祖霊観・霊魂観」に沿った「大家族主義(神→天皇→国民)」による「立替え」に移行したが、この「立替え」は霊的視点に立った「霊的家族(神→全人類)・霊的同胞意識」ではなく、「現人神」たる天皇を核とした地上的視点に立ったものであった。

 

③.心霊科学研究会

ア)研究会発足まで

☆心霊研究のための機関設置を唱えた人

研究会の発足のいきさつは、雑誌『心霊研究』創刊号(大正127月)や雑誌『心霊界』創刊号(大正132月)に記載がある。

浅野は大正11年(1922年)秋頃から心霊科学研究会発足のための活動を開始した。この頃、弁護士の江木衷、浅野和三郎、植物学者の松村任三、秀英舎(大日本印刷の前身)社長の杉山義雄、孫文の支援者として名高い宮崎滔天等は「心霊現象を研究審査すべき真面目な機関が日本国にただの一つも設置されていないのは余りにも時代遅れである」(注22)との意見を盛んに述べていたという。

 

このメンバーの内、江木衷(えぎまこと:1858年→1925年)は明治期の著名な法学者・弁護士であり、第一次大本事件の際の大本側の弁護団で主任弁護士を務めた。第一審で江木は「事件発生の動機について、大本は恐るべき陰謀団であると噂されていたので官憲は弾圧を決行したが、証拠がないので古雑誌を持ち出し、不敬罪の烙印を押した」と事件の性格を述べた。そして「検察側は神霊世界と現実世界を混同している」との弁護方針に沿って、「現実界と関係のない神霊界の組織や治教を論じても、現実世界の日本の法律をもって罰すべき理由はない」(注23)と被告を弁護した。この弁護方針は大本の変革思想はあくまでも「宗教思想」の枠内であって、現実世界の社会変革思想(→たとえばマルクス主義など)とは一線が引かれるべきであるとした点に特徴がある。

 

松村任三(まつむらじんぞう:1856年→1928年)は東京大学理学部植物教室の基礎を築いた理学博士。松村の口癖は「自分は学者としても、人間としても、恥ずかしくない人生を送りたい」であったという。晩年の松村はエスペラント(→大本はエスペラント普及に多大な貢献をした)や仏教などの専門外の学問を研究した。

杉山義雄(すぎやまよしお:1866年→1933年)は明治から昭和にかけて出版界や印刷界で活躍した著名な実業家であり、秀英舎(後の大日本印刷)の社長を務めた人であった。

宮崎滔天(みやざきとうてん:1871年→1922年)は「支那革命浪人」として有名である。明治20年代より孫文の清朝打倒などの中国革命運動における重要な支援者であった。大正11126日に死去するが、心霊研究のための機関設置の必要性を唱えていた異色の人であった。

 

☆心霊科学研究会の設立関係者

東京の神田一ツ橋の学士会において大正11125日に始めての会合が催されて、この会合で早急に研究会を立ち上げることが決まった。この時の主な出席者は江木衷、松村任三、花井卓三、浅野和三郎、佐野静雄、杉山義雄、武藤稲太郎等の20余名であった。

 

このうち花井卓三(はないたくぞう:1868年→1931年)は、足尾鉱毒事件では農民側を弁護し、さらに大逆事件では幸徳秋水等を弁護した著名な人権派弁護士として知られている。第一次大本事件の大本側の弁護団の一人でもあった。

佐野静雄(さのしずお:1872年→1925年)は理学博士で東京帝国大学理科大学の理論物理学の教授。浅野和三郎の「心霊研究の同行者」宮澤虎雄の大学時代の恩師であり、大学卒業後早稲田中学の物理の講師をしていた宮澤を海軍機関学校に推薦した人でもある。なお佐野は明治3517日から明治38331日まで海軍機関学校の講師をしており、この時期彼は浅野和三郎と同じ職場にいた。

武藤稲太郎(むとういねたろう:1877年→1954年)は海軍技術中将であり、大正11年には艦政本部第一部長の地位(当時は少将)にあった。

当時の浅野は刑事被告人の身であったことから、このように中心メンバーは浅野兄弟や大本と何等かの関係がある人たちが多かった。

 

大正12年(1923年)2月下旬に研究会設立趣意書が関係者に配布された。

この期間に中桐確太郎(早大教授)、玉利喜造(農学博士)、杉田直樹(医学博士)、藤原咲平(理学博士)、今村力三郎(弁護士)、高橋五郎(翻訳家)、豊島與志雄(作家)、田尻稲次郎(子爵・東京市長)等が加わった。

 

このなかで、藤原咲平(ふじわらさくへい:1884年→1950年)は気象学者で日本の地球物理学界の草分け的存在である。藤原は明治44年の「千里眼事件」に関係者としても登場し、この事件の不手際の張本人の藤教篤(ふじのりあつ)の側に立って、『千里眼実験録』(藤と共著)を出して彼を弁護した。

田尻稲次郎(たじりいなじろう:1850年→1923年)は大正7年から大正9年にかけて東京市長を務めた。

今村力三郎(いまむらりきさぶろう:1866年→1954年)は足尾鉱毒事件、日比谷焼討事件、大逆事件、515事件等を弁護した人権派弁護士である。

高橋五郎(たかはしごろう:1856年→1935年)は評論家、英語学者で当時著名な心霊研究家でもあった。

作家の豊島與志雄(とよしまよしお:1890年→1955年)は、芥川龍之介(浅野和三郎の後任の英語教官)の縁で海軍機関学校の語学教員となった経歴を持っていた。

中桐確太郎(なかぎりかくたろう:1872年→1944年、早稲田大学教授)は、大正7212日の「三田光一の公開念写実験会」で三田の詐術を暴いたとされる人物である。

杉田直樹(すぎたなおき:1887年→1949年)は医学博士で精神医学研究の第一人者、東京帝国大学助教授、東京府立松沢病院副院長、名古屋医科大学精神科初代教授等を歴任した。

玉利喜造(たまりきぞう:1856年→1931年)は日本で最初の農学博士であり、邪気・霊気説は有名。

 

イ)心霊科学研究会の創立

☆創立総会

大正12323日午後7時から学士会館で心霊科学研究会の創立総会が開かれた。この時の模様が雑誌『心霊界』創刊号に記載されている。「研究会の創立大会は、大正12年の323日午後7時を以て例の学士会で開かれました。出席者50余名、他に時事、万朝等の新聞記者が数名出席し、杉山義雄氏座長席につきて会の組織、方針、其の他につきて演述し、なお、高橋五郎氏の挨拶、佐曾利清氏の飛入演説などがあり、満座に活気が横溢しました」との記載があり会場の雰囲気が伝わってくる。

 

☆設立発起人

心霊科学研究会の設立発起人は今村力三郎、豊島與志雄、亀谷新一、高橋五郎、中桐確太郎、上野岩太郎、前田下学、藤本恕一郎、近藤定、浅野和三郎、北原種忠、杉山義雄であった。この研究会は「心霊現象」を科学的に研究するとして、宗教とは一線を引いたことから中心メンバーに学者(懐疑論者)が多かった点が特徴となっている。

なお研究会の本部は本郷元町1丁目11番地の中野岩太(夫婦とも大本信者)邸に置かれた。浅野和三郎は研究会の常務委員として中野邸に住居を構えた。大正12年の5月頃までには研究会としての実験や資料収集の体制や『心霊研究』の編集等の準備が整った。また会則の起草や会員募集等の準備もできた。

 

ウ)心霊科学研究会の事業目的

☆設立趣意書

心霊科学研究会設立の趣意書(注24)によれば、「心霊問題の有力なる研究機関の設置が日本国の焦眉の急務であり、そして、それは真理を愛し、国家を憂うる先覚の士の当然担任せねばならぬ道徳的責務である」。そして「イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス等の何れの国にも研究機関として有力な心霊研究協会が設置されている」こと。これらの国では心霊現象の科学的研究の成果が上がっていることなどを紹介して、日本においても研究会設置が急務であるとしている。

 

趣意書ではこの世を「物質的現象を以って宇宙の全てと考えると人間はどうしても現世的、物質的となって、結局極端な個人競争主義、侵略的帝国主義、階級闘争主義に陥る」。しかし「宇宙構成の一断面、一局面と考えれば、ここに始めて人間は生前と同時に死後を考え、肉体と同様に霊魂を重んじ、ひいては個人の自由と同時に相互扶助の必要を自覚し、全体の平衡を維持せんとする協調本能の必要を痛感する」と論じた。

このように視点を変えることによって、人生に対する深い理解が得られて生き方が変わり、国際社会の在り方を変えることができるとして、心霊研究の科学的研究は「有機的大統一主義、世界的大平和主義に誘導する」ことになると主張した。当時の社会においては画期的な宣言であった。

 

☆事業目的

このような観点に立って、研究会は事業目的として次の項目を掲げた(注24)。

・霊的現象を実地に赴いて調査するための「調査部」の設置。

・優秀な指導者や霊媒の養成に当たる「養成部」の設置。

・霊界と直接の交流を行って霊界事情を明らかにするための「実験部」の設置。

・研究資料の刊行および霊的現象や実験の報道を行う「編集部」の設置。

・霊学研究資料の書籍を収集して研究者の便宜に供するための「図書部」の設置。

 

エ)関東大震災

☆機関誌『心霊研究』

心霊科学研究会の機関誌として『心霊研究』が7月に創刊された。創刊号で「我々は心霊現象の科学的研究を以って、すべての他の問題よりも一層意義深く、又、一層痛切であり、現代人はその一歩をこの研究から踏み出さねばならぬと主張するものである」と述べて研究会の立場(→サイキカル・リサーチに立つ)を明らかにしている。

 

このようなサイキカル・リサーチを志向する会の「純学術的報告機関」として発行された『心霊研究』であったが、大正1291日の関東大震災で事務所が罹災したために3号で廃刊となった(→3号は震災前に印刷されていた)。この震災によって雑誌や叢書の原稿、東西の心霊関係の記録、参考図書などがすべて焼失してしまった。震災によって本郷元町の事務所が焼失したため仮事務所を下谷区谷中 坂町79番地に移転し、同年12月に再び大阪へ移転した。この間の経緯が雑誌『心霊界』に「本会の幹部は震災後の善後策に頭を絞り、その結果、浅野常務委員は幾回となく、焼け跡の東京と京阪地方との間を往復しました・・・ここに甲子の紀元節を以って本誌(心霊界)は浪速の津で刊行されることになりました」(注25:下線部分は原文のまま、正しくは“浪速の地”か?)と記されている。

 

☆関東大震災により罹災する

宮澤虎雄はこの頃のことを「浅野さんと心霊研究と私」の中で、次のように述べている。「大正12年初夏に浅野さんは上京し本郷元町の中野岩太邸を事務所として借受け、心霊研究会の発会式をこの事務所で挙げたのであり、高橋五郎氏以下20余名が出席され、私も末席を汚したことを覚えている・・・大正12年の91日は心霊研究会の例会のある日なので、私も横須賀から上京して丁度神田裏神保町の通りを歩いている時にグラグラと地面が揺れだした。其れから元町の事務所に駆けつけたときは、火事場旋風は同事務所に迫ってきたので、浅野さんご夫妻やねーやさん達と一緒に私も上野の公園にて火難を避け一夜をあかした」(注26)。

 

宮澤の「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究」(注27)によれば、浅野は大正12323日の心霊科学研究会の創立総会のあと、いったん綾部の自宅に戻り4月頃に並松に家財の半分以上を残して家族と一緒に上京してきた。しかしわずか数か月後に関東大震災に遭ったので、再び綾部並松の自宅に帰り、大阪で心霊科学研究会の再挙を計ったという。

この宮澤の記述は出口和明が「大正1247日、米子の皆生温泉で“霊界物語”を口述中の王仁三郎の留守の間に、浅野はひっそりと綾部を引き上げ、東京で心霊科学研究会を設立する」(注28)と述べている、綾部を引き上げた日と符合する。

 

宮澤は前著の中で、「舞鶴と綾部とは汽車で30分位の所だが、浅野さんの御宅を訪ねたのは7月頃だったろうか。その後浅野さんと再び会ったのは、浅野さんが綾部を去る前にお別れに参上した位であった」と記している。

浅野が『心霊小品集』(注29)の「綾部を去る」で述べている「大正14711日午後2時半、家族を挙げて丹波の綾部を去る」は、罹災して綾部に戻ってきたが、家財道具一式を整理して完全に撤去した「家を畳んだ日」ということになる。その後の浅野は、綾部を去って鶴見(横浜市)に住居を定めて活動の舞台を東京に移した。

なお震災後の大阪での浅野の動向を、宮澤は「震災後は浅野さんは単身で、大阪心斎橋筋御堂付近に居を占め雑誌心霊界を発刊された。その後の浅野さんの大阪における活動の基礎はこのときに築かれた」(注30)と述べている。

 

オ)大阪で再興をはかる

☆機関誌『心霊界』の発行

浅野は事務所を大阪に移して、震災後半年ほどで機関誌の再発行にこぎつけた。大正13213日第三種郵便物の認可を取って、機関誌の名前を『心霊界』と改題して大正132月に創刊号を刊行した。雑誌『心霊界』の奥付によれば心霊科学研究会の大阪での住所は 「大阪市東区 平野町5丁目4番地」となっている。

 

心霊科学研究会は雑誌『心霊界』を、「本誌は何れの宗教にも偏せず心霊科学の樹立を期す」「本誌は霊に目覚めたる真人の研究機関を以って任ず」として、大正1321日(第1巻第1号)の日付を記載して発刊した。創刊号の「発刊の辞」で、浅野は「本誌の前身たる『心霊研究』は、諸般の霊的現象又は心霊作用につきて、批判討究を遂げんがための純学術的報告機関でありましたが、本誌はこの目的を継続続行すると同時に、更に進んで広く門戸を開放し、宗教、政治其他百般の人生問題、思想問題につきて十二分に抱負を吐露し、又意見を交換して出来る限り、活社会との接触を切実にせんとするものであります。すなわち本誌は『心霊研究』の単なる改題と言はんより、寧ろその化身であり、変形であります」として、雑誌の性格を変更した旨を述べている。

 

この事は何を物語っているか。思うにこの時すでに浅野の中に、科学者志向の「心霊現象研究」のサイキカル・リサーチ中心ではなく、スピリチュアリズムに軸足を移した「心霊研究」を行おうとした意志が読み取れる。一般に「心霊研究」はサイキカル・リサーチの訳であり心霊現象の研究に重点を置いたものだが、この時の浅野の用例から、その後日本で「心霊研究」という場合には、「心霊主義」的要素が入った独特な使われ方をしている。

 

☆『心霊界』を『心霊と人生』に改題

大正132月に創刊された『心霊界』は大正1312月(第1巻第11号)まで刊行され、翌年は大正141月(第2巻第1号)から、大正146月(第2巻第6号)まで刊行した。本来なら大正147月号は『心霊界』の第2巻第7号になるはずであったが、この号から誌名を『心霊と人生』(大正147月)に改題して、浅野の個人雑誌と明示した。

このような形で『心霊界』創刊号以降、『心霊と人生』との連続性を保つため、『心霊界』と『心霊と人生』との間で通しの「巻・号」を振っている(→なぜなら機関誌の性格が3号で廃刊となった『心霊研究』と『心霊界』『心霊と人生』では明らかに異なるから)。

 

☆個人雑誌『心霊と人生』

雑誌の改題と同時に心霊科学研究会の事務所を「神奈川県鶴見区 (現:横浜市鶴見区) 字東谷1601」に移転した。この時期(大正14711日)に浅野は、綾部の自宅を引き払い鶴見に移転している。

なお当時の雑誌『心霊と人生』には、その表紙の上部に『浅野和三郎個人雑誌、心霊と人生』と明記されている(→筆者が所持する雑誌『心霊界』には個人雑誌との明記はない)。この記載については、大正15年(1926年)6月号に「謹告、個人雑誌の名称を廃めて自由な共同機関とすること、実生活との接触を深くして心霊問題を民衆化すること」とあり、廃止する旨が記されている。このことからも分かる通り、大正14年(1925年)7月号から大正15年(1926年)6月号までは「個人雑誌として発行」していたが、以後その名称を廃止して「公けの雑誌」としたことがわかる。

宮澤虎雄も浅野は上京後まもなく『心霊と人生』誌を「浅野さんの個人雑誌と銘打って発刊された」(昭和264月号の『心霊研究』の記載より)と述べている。

 

④.「大本事件」裁判

ア)事件の概要

☆裁判関係

主に「大本事件」の裁判関係を、大本70年史編纂会『大本事件』(昭和42年刊)の「大本事件史主要年表」を参照して時系列にまとめてみた。年表では大本側から見て「弾圧」と表記しているが、一般的な表現である「強制捜査」に言いかえた。

 

<大正9年:1920年>

98日:平沼検事総長、皇道大本への強制捜査を内命

99日:全国警察部長会議で皇道大本の取締りを指令

<大正10年:1921年>

110日:平沼検事総長、皇道大本に対する強制捜査を指令

211日:全国の新聞雑誌に対して「大本事件」記事掲載を差止め

212日:早朝に皇道大本に対する強制捜査に着手、王仁三郎・浅野・吉田を検挙

510日:王仁三郎・浅野・吉田の予審終結、公判に回付

511日:「大本事件」記事掲載を解禁、全国の新聞雑誌は一斉に事件を掲載する

617日:王仁三郎・浅野責任出所

916日:第一審公判(京都地方裁判所)開廷

105日:第一審判決、不敬罪・新聞紙法違反有罪。即日控訴

1014日:皇道大本を大本と改称

<大正11年:1922年>

621日:第二審公判(大阪控訴院)開廷

<大正13年:1924年>

618日:第二審検事論告、弁論開始

721日:第二審判決、不敬罪・新聞紙法違反有罪。即日上告

1120日:王仁三郎・浅野・吉田の上告趣意書提出

<大正14年:1925年>

327日:上告審公判(大審院)開廷

<昭和2年:1927年>

517日:上告審、免訴の言渡し

 

☆強制捜査

大正10212日早朝、大本(→当時の教団名は皇道大本)への強制捜査が開始されて、幹部が一斉に検挙された。この事件を「第一次大本事件」という。浅野和三郎は212日午前、綾部の並松の自宅で逮捕され(『大本事件史』61頁~63頁)、出口王仁三郎は大阪の大正日日新聞社で逮捕された。浅野は綾部署に拘引されて簡単な取り調べの後、「京都地方裁判所検事局」に送られて、「京都監獄未決監」に収監され、大正10年(1921年)617日に保釈されるまで拘束されていた(→『大本事件史』108頁では「責付出獄」と表記されている)。浅野の罪名は「不敬罪」であり、懲役10カ月の刑を受け大審院まで争った。

 

☆“〇〇神”VS“〇〇神”

なぜ大本は徹底的に弾圧されたのか。

明治憲法(大日本帝国憲法)は「思想・信教の自由」を「26条、28条、29条」で保障していたが、それらの権利は限定的なものであった。戦前の日本には真の意味で「思想・信教の自由」はなかった。その最大の理由は、国家神道の枠を外れた神々を正当なものとすれば「天照大神→天皇→国民」の関係が崩れて、「天皇制が掲げる神々は権威を失墜し、天皇の絶対性を否定する結果となる」(『大本70年史』より)からであった。その結果、国家神道体制による公認の神々以外は軒並み弾圧された。王仁三郎は大本の教理を諸宗教の上に君臨する「超宗教的なもの」との考えを持っていた。その観点から普及活動を積極的に展開したため、権力から徹底的に弾圧された。

 

イ)浅野と大本との関係

☆立て直し

浅野たち幹部は教祖の筆先の世直し思想や王仁三郎の「大正維新」論から、大正10年頃が立て直しの時期であるとして熱狂的に宣伝した。この「立て直し」は大きな社会的反響を呼び起こした。これがきっかけとなって、大本は大正10212日の強制捜査に端を発した権力からの大規模な介入を招いた。浅野は刑法の「(天皇に対する)不敬罪法違反」と「新聞紙法違反」で起訴された。その後の浅野は、この事件をきっかけにして大本を離れて、スピリチュアリズムの世界へと進んでいくことになった。

 

☆教団改革

大本側の資料(→大本七十年史編纂会『大本七十年史、上』620頁~625頁、682頁~687頁参照)から当時の浅野和三郎の動向をみると、大正102月の「大本事件」後、浅野は教団指導者の地位から完全に退いたことが分かる。そのためこの年の夏以降に始まった「教団の改革」に全く関与していない。浅野は大正11年(1922年)秋ごろから、心霊科学研究会設立のための活動を始めて、翌年(大正12年:1923年)323日に心霊科学研究会の創立総会を開いて研究会を立ち上げた。

この浅野の動きに対して大本側の記録によれば、浅野のこうした行動に対して王仁三郎は一応の賛意を表して「同氏の研究会に対し応分の御援助御賛成あらんことを希望します」と述べたが「その離反は時間の問題であった」(雑誌『神の国』大正12510日号)。浅野が声高に叫んだ「立て替えの日近し」が、事件によって崩れ去って以降の大本信仰は次第に希薄化していった。そして大正14年(1925年)に綾部を引き上げた。この時期は、浅野はまだ大本信者であったようである。

 

☆大本の縁が完全に切れる日

大本七十年史編纂会『大本事件史』によれば、浅野和三郎、岸一太、谷口正治・浅野正恭、小牧斧助などは、「1924年(大正13年)頃までに大本を離れた。したがってそれからは王仁三郎が教団を完全に統制することができるようになり」(131頁)との記載がある。

しかし推測するに裁判が継続中は大本との縁は完全には切れないと思われる。そのため大正天皇の逝去により大赦令が発布されて、大審院で免訴判決を得た時が大本と完全に縁が切れた日ではないかと思われる。ただし実質上大本から離れた日は、大正14年(1925年)711日に綾部の自宅を引き払い横浜の鶴見に移転した日であろう。

 

ウ)大赦令適用による免訴判決

☆大正天皇逝去

大正15年(1926年)1225日大正天皇の逝去によって元号が「昭和」となった。天皇逝去によって恩赦の一種である「大赦」が昭和2年(1927年)27日に発布された。大赦という制度とは、有罪の言渡しを受けた者についてはその言渡しは効力を失い、まだ有罪の言渡しを受けてない者については公訴権が消滅するという制度である。

 

☆大赦令の適用

大正天皇の逝去による大赦令の発布を受けて昭和2517日大審院の横田裁判長は、出口王仁三郎、浅野和三郎、吉田祐定に対して「大赦令により免訴トス」との言渡しを行った。これによって浅野の罪名である「不敬罪」は免訴となり、長年の精神的重圧であった「刑事被告人の地位」から解放された。

この免訴の言渡しは資料には次のように表記されている。

大本七十年史編纂会『大本事件史』(宗教法人大本1967年刊)141頁に「因みに浅野、吉田の両氏も本日免訴の言い渡しがあった」と記されている。また出口栄二著『大本教事件―奪われた信教の自由』(三一書房1970年刊)111頁にも「昭和2517日公判が再開された・・・裁判長は一時退廷し陪席判事と協議した結果、王仁三郎に免訴の判決を下した。ついで浅野と吉田にも同様の言渡しがあった」との記載がある。

 

この免訴判決、王仁三郎の『霊界物語』の執筆、モンゴル訪問(大正13年)、人類愛善会創立(大正14年)等の活動は「(大本に対して)決定的な打撃を与えぬまま第一次大本事件を不発に終わらせてしまった国家当局を刺激し、第二次大本事件の導火線ともなっていく」(早瀬圭一著『大本襲撃』毎日新聞社2007年刊、131頁)ことになった。この後に発生した「第二次大本事件」(昭和10年:1935年)では、治安維持法が適用されて多くの信者を死に至らしめた過酷な事件であったが、この底流に第一次大本事件の免訴判決があったとする見方は、多くの大本研究者が指摘していることである。

 

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<注1

■浅野和三郎著「主張と告白」:雑誌『心霊界』大正13年(1923年)9月、所収。

この一文に「信仰問題・心霊問題を中心として」があり、ここで浅野は「心霊問題、信仰問題に関して心眼を開いてもらった時代の私は飢えたる者が食を択ばずの流儀で、大本の神啓、教理、またその施設方針等に対して殆ど無批判的に一も二もなく受け入れる有様でありましたが、次第に心の平静を回復するにつれ、私は次第次第に大本の長所と同時にその短所とを痛感するに至りました」と記している。

■浅野和三郎著「主張と告白」:雑誌『心霊界』大正13年(1923年)10月、所収。

この中に「とにかく大本教が一般世間の大潮流と逆行して、日本における殆ど唯一の、比較的有力な心霊道場であったということは、何人も否定し得ざる活事実である」。

 

<注2>

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(19)」:雑誌『心霊研究』昭和5011月号。「浅野さんは大正1011年頃から殊に心霊研究に熱心になり、上京すると霊媒者を訪ねることもあり、霊媒者が並松の浅野さん宅を訪ねることもあった」と記されている。

 

<注3>

■浅野和三郎著「主張と告白」:雑誌『心霊界』大正139月、所収。

この一文に「裁判事件は殆ど少しも私の企図せる攻究の障害とはならず、ある意味においては却って反省と思索との絶好の機会を私に恵みました」と記されている。

 

<注4>

大正日日新聞とは大正8年(1919年)1125日に大阪梅田に創立された新聞である。新聞社の規模と内容は当時の「大阪朝日新聞」「大阪毎日新聞」と肩を並べるほどのものであったと言われている。経営危機により転々と売却されて最終的に大本教が買い取った。

 

<注5>

■大本70年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)497頁参照。

 

<注6>

■浅野和三郎著「主張と告白」:雑誌『心霊界』大正139月、所収。

浅野の「主張と告白」を参考にしつつ、時系列的に配列して見ると次のようになる。

大正7116日に出口なおが死去したが、浅野はこの頃「大本はこのままでは駄目である」と感じたという。それは「私がそう気づいたのは大正7年と8年の境の頃であります。そして何とかして其の根本に蟠るところの欠点弊所除き得ぬものかと努めたのでありますが、私の微力を以てしては、それが到底不可能であると気が付いたのは大正9年の末でありました」と述べている。浅野は大本の改革が不可能であると悟ったため「自分はいよいよ大本を去らねばならぬ」と決心した。そして翌年(大正10年)の1月中旬以降に、大正日日新聞社長、大日本修斎会会長(総裁)など「大本関係の一切の公職」を辞任した。この辞任の翌月、大本に対する強制捜査が実施された(大正10212日早朝)。このように見ていくと、浅野の大本に対する信仰は、出口なおの存在が大きかったことが分かる。

■主に宗教の世界で見られる現象にマインド・コントロールがある(→オウム真理教事件でクローズアップされた)。マインド・コントロールとは「被暗示性の高い状態に導き、暗示によって特異な記憶や思考を生じさせる」現象だが、これは宗教の世界に留まらず理性的検証を放棄した“スピリチュアリスト”の間でも時折見かけることがある。

 

<注7>

■大本70年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)528頁、533頁、537頁、539頁~545頁参照。

藤沼警察部長は大正87月頃、警告後の大本の反応を調査するためと大本検挙の具体的な証拠を入手するために、警部の高芝熊を大本に潜入させた(前著539頁)。

 

<注8>

■大本70年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)500頁、506頁参照。

早瀬圭一著『大本襲撃』(毎日新聞社2007年刊)122頁~123頁の記載によれば、「発行部数は『朝日』『毎日』を上回る48万部(警察調べでは約20万部)でスタートした」が、「大正101月の警察調べでは、三版を加えて10万ほどに減少してきた」という。

 

<注9>

■復刻版『神霊界、9巻』大正103月号(八幡書店1986年刊)119頁~124頁参照(ただし頁数は八幡版)。

前著の「示達」によれば、浅野和三郎は大正1023日に大日本修斎会の会長を辞任した後、同会の顧問として残った。後任の会長には出口王仁三郎が就いた。なお浅野正恭は出版担当の相談役として名前が載っている。

また浅野は大正10113日に大正日日新聞の社長を辞任したが、その後任には出口王仁三郎がついた。社長就任後、王仁三郎は連日会社に泊まり込んで陣頭指揮を執った。そのため212日の大本事件の強制捜査の際には、出口王仁三郎は大阪の大正日日新聞社で京都警察部の藤井刑事課長と黒宮警部補によって拘引された。

 

<注10

■「*印部分」は、新聞の現物が国会図書館に保存(マイクロフィルム)されていないために確認ができなかった部分である。しかし浅野は、連載記事に通し番号を振っておいたために掲載日の推測ができた。

なお次の部分は新聞が保存されていないので欠番となっている。大正9926日~102日まで欠番、1128日~1211日まで欠番、1213日~大正1019日まで欠番、大正10121日欠番、128日欠番。

従来浅野の連載記事は朝刊の第一面に連載されていたが、大正10123日からは夕刊紙に移動した。

■『近代文学研究叢書、41巻』391頁の記載では、「綾部生活の5年」が「大正9103日(8)から大正1028日(130)まで」となっている。上記の通り国会図書館には大正日日新聞の現物が「大正9926日~102日まで欠番」となっているため、『近代文学研究叢書、41巻』では「103日(8)」という記載になったものと思われる。

 

<注11

■内川芳美、松島栄一監修『大正ニュース事典、第5巻(大正10年~11年)』(毎日コミュニケーションズ1988年刊)参照。

大正10619日付『京都日出新聞(夕刊)』によれば「身体も何の変化もありませんでした。あまりに気持ちの良い場所ではありません。夜分は眠られん事もたびたびありましたから、暇にまかせて宗教書やその他多くの書物を読みましたので、だいぶ勉強ができました。しかし思想上には何の変化もありません。どうも真理は一つしかありません」と記者の質問に対して述べている。

 

<注12

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(7)」:雑誌『心霊研究』昭和492月号の記載では、「浅野さんは120余日の受難生活を送った後に、大正10615日綾部に戻ることを得たのである。これより後、浅野さんは大正11年の末頃まで綾部並松にて謹慎の生活を過ごすことになった」と記されている。宮澤は浅野の出獄の日(綾部に戻った日)を「615日」としているが、当時の新聞報道によれば「617日」となっている。本稿では新聞報道の日付「617日」の方が信憑性ありと判断した。

■内川芳美、松島栄一監修『大正ニュース事典、第5巻(大正10年~11年)』(毎日コミュニケーションズ1988年刊)参照。

大正10619日付『京都日出新聞(夕刊)』では「王仁三郎ら保釈」との見出しで「(6月)17日午後6時、保釈出獄を許されたる大本教主出口王仁三郎及び浅野和三郎の二人を乗せたる自動車は、17日午後1030分、折柄降り頻る五月雨空の綾部町の陰静を破って大本教本部へ到着したり。かくと知りたる二代目澄子、三代目直姫を始め幹部連中等の十余名は、門前に整列して出迎えたり。出口、浅野両名は一同に擁せられて、去る212日入獄以来128日間にて、再び大本教の教主殿に入った」とある。

なお収監されていた出口王仁三郎、浅野和三郎、さらに『神霊界』の発行兼編集印刷人の吉田祐定に対する保釈は、419日に吉田祐定のみ保釈申請が許可された(→復刻版『神霊界、9巻』大正106月号466頁下参照)。出口王仁三郎と浅野和三郎の保釈は617日であった。

■梅龍生著「大本事件の経緯」:復刻版『神霊界、9巻』大正106月号(八幡書店1986年刊)450頁以下参照(ただし頁数は八幡版)。

前著456頁に浅野和三郎の自宅の家宅捜査の旨が記されている。それによれば「石井判事代理中田検事以下8名の巡査突然入り来たり二三人は其の儘直ちに二階に上って、浅野氏に来意を告げて綾部警察署に伴い、それより多慶子夫人を立会人として、家宅捜査を始めた・・・」。浅野宅の家宅捜査は厳重を極めた。警察は夜具・箪笥・玩具箱・灰の中まで丁寧に調べて、書簡全部・大本関係書類全部・原稿全部・写真類全部等を押収していったという。また兄の浅野正恭も召喚審問を受けた。

 

<注13

■雑誌『心霊界』大正139月参照。

 

<注14

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(7)」:雑誌『心霊研究』昭和492月号の記載を参照。

 

<注15

■雑誌『心霊界』大正142月、「大本教から心霊研究へ」参照。

 

<注16

■大本70年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)673頁~679頁。

大本の立場から「浅野らの一部幹部が、『霊界物語』の発表を阻止しようとする強力な抵抗にもめげず、また当局のいかなる弾圧にもひるむことなく、神の意志を貫き」(676頁)とある。そして「(発表の影響として)『霊界物語』の発表に抵抗した一部の幹部は、その後次々に大本を去った。そのために、いよいよ王仁三郎の意図は教団の運営に強力に反映されることになった」(677頁)と記されている。

 

<注17

■雑誌『心霊界』大正142月、「大本教から心霊研究へ」参照。

 

<注18

■雑誌『心霊界』大正132月(創刊号)の「発刊の辞」において、「本誌の前身たる『心霊研究』は、諸般の霊的現象又は心霊作用に就きて批判討究を遂げんがための純学術的報告機関でありましたが、本誌はこの目的を継承続行すると同時に、更に進んで広く門戸を開放し宗教、政治、そのほか百般の人生問題、思想問題につきて十二分に抱負を吐露し、また意見を交換してできる限り活社会との接触を切実にせんとするものであります。即ち本誌は『心霊研究』の単なる改題と言わんより、むしろその化身であり、変形であります」とある。この「発刊の辞」から雑誌の性格が「純学術的」から変更したことが分かる。

さらに大正147月から『心霊界』は『心霊と人生』に改題して、表紙に「浅野和三郎個人雑誌」と銘打って継続発行した。その1年後、大正156月号の『心霊と人生』では、「7月号から私の個人雑誌という名称を撤廃して本誌を会員読者その他一般篤志家の自由な共有機関とし、同時になるたけ実生活との接触を深くして心霊問題の民衆化をつとめることに致しました」として、雑誌の性格が変更になる旨を告知している。

このように雑誌の性格が「純学術的報告誌」という志向性から、「実生活に沿った民衆誌」という、より「哲学的・宗教的」志向性を帯びた性格に変わってきていることが分かる。これは浅野の「スピリチュアリズム」の訳が、『世界的名霊媒を訪ねて』によれば昭和3年のISF大会参加を前にして「心霊主義」から「神霊主義」に代わったが、この訳語の問題と無縁ではないと思われる。

 

<注19

■大本70年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)476頁~477頁参照。

大正8年(1919年)から9年(1920年)にかけて大本の教勢は大きく拡大したが、その反面教団内に様々な対立や分派が起きた。多数派は浅野和三郎や大日本修斎会幹部たちの天皇絶対論者が占めていた。

当時の中外日報が「天理教がよく教内の言論統制を行っているのに比べ、大本はきわめて自由で、信徒による幹部攻撃さえ平然と行われているのは、きわめて対照的だ」と報道しているが、この記述は誇張ではない。ちなみに友清歓真(ともきよよしざね)の大本や大日本修斎会に対する攻撃、さらには医学博士の岸一太による浅野和三郎に対する攻撃などに、大本の自由さが特徴的に見られる。

 

<注20

■浅野和三郎著「霊の発動と其の目的」:復刻版『神霊界、1巻』大正63月号(八幡書店1986年刊)93頁~99頁参照(ただし頁数は八幡版)。

浅野はこの中で「邪神」を「霊主肉従、霊体不二の真髄に触れず、多くは体を重んじて霊を卑しめ、その結果物欲の奴僕となり・・・」と述べている。

大本では「霊主体従」という言葉を使ったが(復刻版『神霊界、8巻』大正912月号210頁参照)、浅野は「霊主肉従」という表現を度々使っている。

 

<注21

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(19)」:雑誌『心霊研究』昭和5011月号。「浅野さんは大正1011年頃から殊に心霊研究に熱心になり、上京すると霊媒者を訪ねることもあり、霊媒者が並松の浅野さん宅を訪ねることもあった」と記されている。

 

<注22

■雑誌『心霊界』創刊号:大正132月参照。

 

<注23

■大本70年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)627頁参照。

 

<注24

■雑誌『心霊研究』大正127月、創刊号「趣意書」の「5.心霊科学研究会設置の急務及び其の事業」参照。

 

<注25

■雑誌『心霊と人生』昭和321月、「わが心霊科学研究会が創立するまで」参照。

 

<注26

■宮澤虎雄著「浅野さんと心霊研究と私」:雑誌『心霊研究』昭和264月号所収。および宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(7)」:雑誌『心霊研究』昭和492月号の記載。

 

<注27

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(7)」:雑誌『心霊研究』昭和492月号の記載参照。

 

<注28

■出口和明著「浅野和三郎と皇道大本」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、730頁参照。

 

<注29

■浅野和三郎著「綾部を去る」:『心霊小品集』(心霊科学研究会1939年刊)所収、223頁。

 

<注30

■宮澤虎雄著「浅野さんと心霊研究と私」:雑誌『心霊研究』昭和264月号所収。

 

 

◆浅野和三郎研究:目次

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