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浅野のベース部分にある思想:注記

<注1>

■鈴木まさ子著「浅野馮虚」:昭和女子大学光葉会『学苑』昭和318月号所収。

鈴木まさ子によれば「兄弟たちは1314歳になると、いずれも行燈の下で糸を紡ぐ母に誤読を指摘されながらこれらの素読を習得した」。また浅野は明治20年(1887年)に一時漢学塾で学んだが、「そこでも極めて秀れた才能を発揮した」(前著)という。

■漢学塾には、寺子屋(読み・書き・そろばん)風に初歩的な教育を施すことを目的とした素読中心のいわば「普通教育機関的な塾」。さらには江戸時代の各藩が設立した藩校や漢学者個人が設立した塾など、このような流れを受け継いだいわば「高等教育機関的な塾(二松学舎など)」の二つのパターンがある。

浅野はすでに源清田小学校で初等教育を受けていたので、彼が通った漢学塾は「高等教育機関的な塾」であったのではないだろうか(→浅野が通った「萩原漢学塾」に関する資料が改訂版執筆時までに入手できなかったので推測の域を出ないが)。

浅野が通った「萩原漢学塾」は、学校区分上は「各種学校」に分類されるが、このような学校は明治中期頃までは「教育令(明治12年:1879年)2条の制度化された学校」と比較して圧倒的多数を占めていた。しかし学校制度が整備されるに従い徐々に衰退していった。

 

<注2>

■赤石恵一著「明治初期の英語習得における漢学の影響―認知科学的視点から」参照。

電子学会誌『融合文化研究』第7号(20066月)所収。

http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~ISHCC/bulletin/07/b038_KeiichiAkaishi.pdf

 

<注3>

■浅野和三郎著『世界的名霊媒を訪ねて』(心霊科学研究会1970年刊)189頁参照。

イギリス・アメリカ以外の非英語圏の代表の英語が、「私(=浅野)が聞いてさへも、随分聞きがたいもの」があった中で、浅野の英語は「一語一句全部判った。実に上出来だった」と参加者が褒めてくれたという。このことからも浅野の英語の能力は高かったということが言える。

 

<注4>

■池田昭編『大本史料集成、3巻』(三一書房1985年刊)159頁参照。

大本事件の上告趣意書の中に、「浅野和三郎と水戸学との関係」を述べた箇所がある。それによれば浅野は「元来私は郷土の関係上、幼少の時から水戸の学風に感化せられ、それが私の思想行動の基調を為して居ります。後年英文学を研究し、又大本を信仰してもその基調に何らの変化はないのであります」と記されている。

 

<注5>

■池田昭編『大本史料集成、3巻』(三一書房1985年刊)参照。

浅野和三郎の上告趣意書は、「弁護資料」(前著122頁~199頁)の中に入っている。この中で水戸学との関係が分かる箇所は159頁にある。また京都府警察部の聴取書は25頁~32頁に載っている。

 

<注6>

■春川栖仙著『日本スピリチュアリズムの成立』(日本スピリチュアリスト協会2001年刊)67頁参照。

 

<注7>

■大本70年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)476頁~477頁参照。

――当時の教団にあって、多数派を占めていたのは天皇絶対論者たちであった。浅野をはじめとする大日本修斎会幹部のほとんどがそうであったし、浅野と対立した石井弥四郎・真住衡平・岸一太・友清天行などもすべて、熱烈な天皇絶対論者であった――

 

<注8>

■復古神道とは

復古神道とは、国学の基本的性格である「古事記、日本書紀、万葉集等の古典を研究して、儒教や仏教渡来以前の日本固有の文化および精神を明らかにする」立場と、「復古主義の神道説」が結びついた思想をいう。

本来国学は古典、歌学、歴史などの考証研究だったのだが、本居宣長(もとおりのりなが:1730年→1801年)や平田篤胤(ひらたあつたね:1776年→1843年)によって学問研究から宗教的な意味合いを持つものに変わった。この両者が体系づけた神道を復古神道(または古神道)と呼んでいる。したがって復古神道とは、「国学の基本的性格」と「復古主義の神道説」が合体したものといえる。

■復古神道の成立

近世国学の先駆者である契沖(けいちゅう:1640年→1701年)は、古典に対する実証的研究にもとづいて「儒教や仏教とは別の神道の存在」を考えていた。ここに「復古神道の元型が見られる」が、「契沖の思想の中には儒教や仏教に対する排撃の姿勢はない」という。

のちの荷田春満(かだのあずまろ:1669年→1736年)は、儒教や仏教に対して神道優越の復古思想を主張したが、その主張は「旧来の神道説の枠組内であった」という。さらに荷田春満の学問を批判的に継承した賀茂真淵(かものまぶち:1697年→1769年)は、歌人の立場から「万葉集の中に日本の古代精神の盛んな様子を見て憧憬し、ここに復古神道の成立をみるが、老荘思想に共鳴していたため後に批判を浴びた」という。

■復古神道の集大成者

本居宣長(もとおりのりなが:1730年→1801年)は「復古神道の大成者」といわれている。宣長は「多神教的な古代信仰を肯定して、特に皇祖神の天照大神を重視した」。この宣長の後継者を自認していたのが平田篤胤(ひらたあつたね:1776年→1843年)であり、篤胤によって「復古神道は集大成」された。

平田篤胤らが目指した仏教や儒教伝来以前の「神道の本来の姿」といわれる宗教とは、現実的にはシャーマニズム、精霊崇拝、自然崇拝、祖霊崇拝等の世界であり、いわば「復古神道は神道の理想像を追いかけた思想」にすぎないともいえる。また幕末の対外的な危機意識の高まりの中で日本のアイデンティティを神道に求めた、いわば「思想・宗教運動の性格の一面」もあったとされる。

 

<注9>

浅野和三郎著『出盧(復刻版)』(八幡書店1991年刊)253頁(出盧239頁)参照。池田昭編『大本史料集成、3巻』(三一書房1985年刊)参照(京都府警察部の聴取書は25頁~32頁)。

浅野は「皇道大本の沿革教義等を略説せる文章」をしたためて、従来文芸作品や評論をよく掲載してくれた新聞や雑誌に原稿を持ち込んだが敬遠されたという。「皇道大本は宗教ではない。わが古神道の復活である。人倫、道徳、政治、宗教、その他一切の大根源である」と力説してもマトモニ相手にされなかったという。

一般に宗教、神、信仰等の記事は誌面に色が付くことを恐れて、多くの場合編集段階で自己規制がかかるので極めて当然のことであろう。浅野の強い信念は世間とズレがあった。

 

<注10

■浅野和三郎著『心霊読本』(心霊科学研究会1937年刊)219頁~225頁参照。浅野和三郎著『心霊研究とその帰趨』(心霊科学研究会1964年版)15頁参照。浅野和三郎著『心霊学より日本神道を観る』(心霊科学研究会1967年版)42頁~52頁参照。

■雑誌『心霊と人生』昭和77月号他、多くの記事に見られる。

のちにスピリチュアリスト浅野和三郎として述べた文章にも、復古神道的な色彩が強く残っている。たとえば「日本の国体は悠遠の太古における神聖なる約束事」であり「天孫の降臨、日本国体の樹立は、断じて地上の物質界の出来事ではなく、遠く人類発生以前に起こった幽的事実」であるとして日本の国体の特殊性を述べた。

そして天孫降臨や日本国体の樹立にからめて、「心霊科学者のいわゆる自我の本体・・・その御分霊の地の世界に天降られたのが取りも直さず一系連綿たる日本の皇統に座す」こと。さらに「何故に地球の表面に日本のような国体が他に唯の一つも成立していないかは心霊家にははなはだ簡単明瞭に判っている」として、「何れの民族の背後にも皇孫命のような力徳無双の大守護神が控えていないのである。この点において日本は、世界の民族の中でたしかに名誉の孤立を守っている訳である」として、復古神道の世界観と同趣旨のことを述べている。

 

<注11

■太政官布告第234号、太政官布告第235号参照。

山折哲雄監修『日本宗教史年表』河出書房新社2004年刊、454頁参照。

明治4年(1871年)514日の太政官達・太政官布告は、「神社はすべて国家の祭祀とされ、古代の祭政一致を目途とし、神官の世襲は廃止となる」。これによって全ての神社は国家の管理下に入った。さらに布告は「社格制度・神官職制が定められた」旨を述べている。この結果神社には、官幣社、国幣中社、国幣小社、府県社・郷社の社格ができた。また全ての神社は「天皇の祖先神を祀る伊勢神宮を本宗とし、社格を与えられ、中央集権的に再編成」された。

■明治15年(1882年)1月、内務省達乙第7号、丁第1号参照。

政府は「神官の教導職の兼補を廃して葬儀に関与しないもの」とする“達し”を発した。この通達によって神社神道を祭祀に専念させて、神社神道は宗教でないという建前をとったことから「事実上国教化する国家神道の体制を固めた」と言われた。

■明治39年(1896年)47日に「官国幣社経費を国庫負担とする」法律(法律第24号)が制定された。また同年430日に「府県社以下の神社の神饌幣帛料を地方公共団体の負担とする」ことが勅令第96号で定められた。これによって神社は国や地方公共団体と財政的にも完全に結びつくことになった。

■明治憲法と信教の自由との関係について

『最高裁判所民事判例集、31巻』4547頁以下、昭和52年「津地鎮祭訴訟」最高裁判決、裁判官の反対意見より抜粋。

――旧憲法が発布され、その28条は信教の自由を保障していたものの、その保障は「安寧秩序を妨げず及臣民たるの義務に背かざる限りに於いて」という制限を伴っていたばかりでなく、法制上は国教が存在せず各宗教間の平等が認められていたにもかかわらず、上述のようにすでにその時までに、事実上神社神道を国教的取扱いにした国家神道の体制が確立しており、神社を崇拝敬戴すべきは国民の義務であるとされていたため、極めて不完全なものであることを免れなかった。このようにして、昭和20年(1945年)の敗戦に至るまで、神社神道は事実上国教的地位を保持した。その間に、大本教、ひとのみち教団、創価教育学会、日本基督教団などは、厳しい取締・禁圧を受け、各宗教は国家神道を中心とする国体観念と矛盾しない限度でその地位を認められたにすぎなかった。そして、神社参拝等が事実上強制され、旧憲法で保障された信教の自由は著しく侵害されたばかりでなく、国家神道は、いわゆる軍国主義の精神的基盤ともなっていった――。

■スピリチュアリズムとの関係

上記文章中「各宗教は国家神道を中心とする国体観念と矛盾しない限度でその地位を認められたにすぎなかった」という箇所は、スピリチュアリズムに対しても言える。浅野和三郎はスピリチュアリズムを国家神道の「体制内思想」と位置付けたが、この処置によってスピリチュアリズムは共産主義とは異なって思想自体が弾圧されることはなく(→但し個別の霊能者は詐欺等によって弾圧されたが)、結果的に厳しい時代を乗りきることができた。

 

<注12

■子安宣邦監修『日本思想史辞典』(ぺりかん社2001年刊)239頁の「島地黙雷」の項目。葦津珍彦著、阪本是丸註『(新版)国家神道とは何だったのか』(神社新報社2006年刊)47頁~50頁。戸波裕之著「明治8年大教院の解散と島地黙雷」:阪本是丸編『国家神道再考』(弘文堂2006年刊)179頁~221頁参照。

戸波裕之によれば、西本願寺は大谷光尊名で「神道非宗教」論の初めての公式見解である「宗門教義上ニ相戻候大意」と題する文書を三条実美に上申した。この文書は島地黙雷が起草したものであるという(前著201頁)。

 

<注13

■田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)333頁他、参照。

田中は長期間にわたって浅野和三郎の課題となったのは、新スピリチュアリズムと「国家神道の思想=日本思想との抱き合わせであった」(前著335頁)と。さらに「浅野和三郎に『日本国民の精神的指導原理』という論文集(昭和14年刊)がある。帝国日本が破滅への道を驀進していた頃に、国粋思想と新スピリチュアリズムとの抱合に彼が苦慮したことを語っている諸記録である」(前著334頁)と述べている。これに対して兄の正恭は「この人は弟のように思索動揺のあとを示さず、心霊研究と新スピリチュアリズムを端的にウルトラ国粋主義に従属させた」(前著336頁)と。このように弟の和三郎と兄の正恭との違いを述べた。

 

<注14

■津地鎮祭訴訟とは、昭和40年(1965年)に津市主催で体育館の地鎮祭が行われて、ここに公金が使われた。この地鎮祭における公金使用が憲法の政教分離規定に違反するとして行政訴訟が起こされた。

津地鎮祭訴訟の中で、この訴訟の市長側の鑑定人は「神道は神ながらの道であり、日本古来の信仰、文化を包含するが故に非宗教である」(渋川謙一)、「いわゆる国家神道または神社神道の本質的普遍的性格は、宗教ではなく国民道徳的なものであり、神社の宗教性は従属的、偶然的性格である」(大石義雄)、「神社神道は宗教性があっても、いわゆる宗教ではなく、戦後宗教法人となったのは単なる法の擬制であって、行政上の取り扱いである」(小野祖教)等と述べて神社非宗教論に立脚した説を展開した。このように現在でも問題として残されている。

■公共宗教論

最近の現代宗教論の大きなテーマとして「公共宗教論」がある。この概念を最初に提唱したのは、ベンジャミン・フランクリン(アメリカ建国の父)である。建国当時のアメリカでは、各州ごとにキリスト教の異なった教派がそれぞれ優位を保っていた。そのためフランクリンは合衆国としての一体感を保ち、市民意識や倫理観を育むため、特定の教派に基づかない公共宗教の必要性を説いた。

このように公共宗教とは、特定の宗教・宗派が持つ狭い信念や信条といったものではなく、ある種の「空気や雰囲気」も含めた「宗教が社会の公的領域や公共生活に及ぼす影響を考えるための視角」であるとされる。

津地鎮祭訴訟の市長側の鑑定人が述べた「神社非宗教論」は、各鑑定人の思想信条は脇に置くとして、この「公共宗教論」という観点から考えることもできる。将来におけるスピリチュアリズムの立ち位置は、社会において緩やかな「公共宗教論」的な役割を担っていくのではないだろうか(→ただし独善的に押し付けるのではなく“適用における多様性”が当然の前提となるが)。

 

<注15

■この流れの「長澤雄楯→出口王仁三郎」の部分の出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう:1871年→1948年)に関する位置付けについて、本田直系から異論が出ている。

それによると「霊学継承の上から見れば上田喜三郎は要するに些かの縁を持った傍系の一人にすぎない」(鈴木重道著『本田親徳研究』山雅房1977年刊、511頁)という。

 

<注16

■田原嗣郎著『平田篤胤』(吉川弘文館1986年刊)89頁~90頁参照。

この説を山田孝雄(1873年→1958年)や、多くの伝記作家が採用している。

 

<注17

■平田派国学では「死後の霊の行方」を重要なテーマに据えていたため、死後の霊が赴く幽冥界の主宰神や宇宙創造神に関心が向いている。篤胤は古事記の冒頭に出てくる天御中主神(あめのみなかぬし)を「創造の根源神」と考えて、これを一神教的(拝一神教の立場に立つ)に理解していた(『縮刷版、神道事典』弘文堂32頁、鈴木範久著『聖書の日本語―翻訳の歴史―』岩波書店2006年刊、47頁~48頁)。

日本近世思想史が専門の桂島宣弘(立命館大学教授)によれば江戸末期の国学には次の二つの傾向があるという。「文化・文政・天保期(1804年~1843年)の国学者の主張では宗教的関心に重点」が置かれたのに対して、「嘉永・文久期(1848年~1863年)の国学者の主張では政治的色彩が濃厚」であると(桂島宣弘著『幕末民衆思想の研究』文理閣2005年刊、61頁)。

■平田派直系の「復古派神道家」は「造化三神(→天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神)」や大国主命など、宇宙論や幽冥論を主張したため、その「宗教性」ゆえに明治10年頃までに政府の神祇行政の中枢から排除されて在野に下っていった。門下生には神職や豪農が多かったため、その後は在野において、「神道家」としての影響力を行使し続けることができた。政府中枢から排除された宗教性が強い「幽冥界」という思想は、その後「神道の神秘主義:裏の神道」や教派神道の中にそのDNAは生き続けた。

他方篤胤の「国粋主義的(国家主義)な思想」の部分は、敗戦までの昭和期において天皇制イデオロギーを支える太い支柱となった。その際、在野における「神道家」は「天皇制を裾野から支える」役割を担った(→丸山真男の表現を借りれば「日本型ファシズムの担い手」としての役割を果たした)。

桂島宣弘は「神道家達の政治的宗教性・宗教的政治性こそが、民衆の現世利益信仰や講に彼らが寄生し、これを天皇制に動員する働きを生んだと私は考えている」(『幕末民衆思想の研究』79頁、注50参照)として、篤胤の「国粋主義的(国家主義)な思想」の部分と天皇制イデオロギーとの関係を述べている。

■明治期において国学は二つに分化していった。

一つは宗教的要素の強い「神秘主義的な研究に向かうグループ」であり、他方は宗教的要素を排除して「近代的な国文学等へ自立していくグループ」であった。在野に下った平田派系の「復古派神道家」は前者のグループに属して命脈を保ち(→例えば「平田篤胤→本田親徳→長澤雄楯→出口王仁三郎→」の流れのように)、この流れが昭和期において「霊的国防」を唱えた神道天行居の友清歓真などに見られるように、「日本型ファシズムの担い手」となったものと思われる。彼らが敗戦までの一時期、水戸学や平田篤胤ブームを引き起こした中心的な層となったのではないだろうか。

■丸山真男著「日本ファシズムの思想と運動」:『増補版、現代政治の思想と行動』(未来社1964年刊)63頁~70頁、所収。

丸山真男は前著の中で、「日本型ファシズムの担い手」を二つの範疇に分けて分析している。その中で神道家を含む人たちの層が「日本型ファシズムの担い手」であったと記している。

■浅野和三郎は「非宗教たる神道」とスピリチュアリズムとを結びつけて、「和製スピリチュアリズム」を唱えたが、その誕生要因の一つとして1928年(昭和3年)のISF大会に参加した際に「素朴なナショナリズム観」を刺激されたことにある。

満州事変が起きた1931年(昭和6年)9月以降、日本は戦争への道をひたすら突き進んで行った。その時代背景の中で浅野のナショナリズムには、当時の雑誌『心霊と人生』に掲載した文面からも明らかなように「国家主義と皇国史観」が加わって、極端な国粋主義的傾向を帯びた表現になっている。なぜなら国家神道体制下においては、天皇制イデオロギーと調和する範囲内でのみ宗教や信仰が許容されていたからであり、浅野の主張もその枠内に沿ったものとなっていた。

これに関して新田均(皇學館大学教授)は、戦前の日本には神社参拝や信仰の「法的強制」が存在したと言う意味ではなく、社会風潮として「神社参拝拒否は事実上不可能な状態が存在した」という意味で、「事実上の強制」が存在していたと述べている。

新田が指摘した「事実上の強制」の存在は、浅野の「素朴なナショナリズム観」を次第に「国家主義と皇国史観」を加えたウルトラ国粋主義に変質させて、これが「新スピリチュアリズム」と結びついて、弾圧回避のため時代に迎合した形の「和製スピリチュアリズム」を唱えたと言えるのではないだろうか。なぜなら浅野のスピリチュアリズムは、「素朴なナショナリズム観」を持っていたISF大会参加の頃と、戦争の道へと突入していった満州事変以降では微妙に異なっているから。これによって当時の「和製スピリチュアリズム」は、結果的に天皇制を裾野から支えた実践的な思想となっていった(→共産主義思想とは異なり、スピリチュアリズムは思想自体が弾圧されることはなかった)。

戦後はこの部分が薄らいでいったが、篤胤の宗教的部分をDNAとして受け継いでいる。

 

<注18

■幕府は1825年(文政8年)に欧米列強の艦船に対して「異国船打払令」という強硬策に出た。幕末の水戸藩からは、勤王の志士たちから指導者と仰がれた多くの人材が輩出されたが、その一人の会沢正志斎(あいざわせいしさい:1782年→1863年)は、尊王とともに攘夷を主張して政治的危機の克服を訴えた『新論』を1825年(文政8年)に著した(→正志斎が『新論』を執筆した背景には危機意識があった)。しかし内容が激しかったため公刊されず、門人の間で筆写されて次第に広まっていった。1857年(安政4年)に公刊されて、勤王の志士の間で広く読まれた。『新論』は「王政復古の実践的指導書」となった。

■叢書・日本の思想家36:原田種成著『会沢正志斎・藤田東湖』(明徳出版社1981年刊)7頁~39頁参照。

会沢正志斎は、国体と尊王に関しては「我が国は天照大神の子孫が君臨する国」「歴代の天皇は天孫降臨に際して天照大神の神勅を奉じている」「臣民はその昔天孫に奉仕した神々の子孫」「祭政一致に我が皇国の真の姿がある」「現在の天皇は天祖の正しい血統であり、人民は天祖が愛養された子孫である」と。さらに「夫れ神州は大地の首に位す、朝気なり、正気なり・・・戎狄は四肢に屛居し、暮気なり、邪気なり。暮気・邪気はこれ陰となす」(日本思想体系53『水戸学』岩波書店1973年刊、145頁)と記している。

また攘夷に関しては「外夷は悪心を抱いて常に辺境をうかがっている」「今、外夷の艦船は我が国の沿岸に出没し、侵略の機会をうかがっており、国防は最大の急務であり、弱兵を化して強兵としなければならない」「今の外夷はその習俗が残忍で毎日のように戦争をしている」と記している。

■桂島宣弘著『幕末民衆思想の研究』(文理閣2005年刊)26頁~27頁、45頁参照。

桂島宣弘は、本居宣長の天照大神の特殊的神性(天照大神と天皇との関係、宗主国意識など)が「後期水戸学に継承され、明治期に整備されていく『神勅万世一系・現人神』天皇観の最初の誕生」であると。さらに「宣長が蘇生し、後期水戸学が継承した血統に基づく系譜観念だけは明治の様々の開化の陶冶を経て、近代日本の『郷党社会』的共同体秩序の根幹に据えられたのは間違いない」と述べている。会沢正志斎の『新論』には宣長の思想的影響(→天皇と天照大神、万世一系、神国思想など)が見られる。

 

<注19

■飯沢文夫編『平田篤胤研究文献目録』(名著出版1981年刊:『新修平田篤胤全集』別巻付録)。および芳賀登著作選集第5巻『平田篤胤の学問と思想』(雄山閣2002年刊)78頁の「別表:平田篤胤研究著書論文集計表」参照。

 

<注20

■子安宣邦監修『日本思想史辞典』(ぺりかん社2001年刊)該当項目、他。

「皇国史観」とは、日本の歴史を万世一系の天皇(「現人神」との位置づけ)が永遠に君臨する世界に比類なき神国の歴史として描く歴史観のことをいう。

狭義には、1936年~1937年(昭和11年~12年)に「日本精神と国体論とに立脚した教育・学問・思想の統制の政策および運動」を行う「教学刷新評議会」が、文部省の諮問機関として設置された。そこに集まった平泉澄、山田孝雄、西晋一郎、紀平正美などの人たちによって主張され、文部省思想局が編纂した『国体の本義』(1937年)などによって示された歴史観を「皇国史観」と呼んでいる。

一般には昭和初期に後期水戸学や幕末の国学が主張した「万世一系の天皇を戴く日本の国体(→天皇が統治権の総攬者である国家形態をさす)の特殊性を指す歴史観」をいう。代表的論客に平泉澄や山田孝雄などがいる。

「皇国史観」によれば天皇は天照大神の直系の子孫であり、その「天孫たる天皇」が千代に八千代に治める国が日本である。その日本は神の教えのままに=惟神(かむながら)に統治されて永遠に栄える国であるとして、世界に比類なき優位性と独自性を主張する。

 

<注21

■敗戦までの昭和期、水戸学と平田篤胤の国学は天皇制国家を支える主要なイデオロギーとして持てはやされたが、戦後は一転して打ち捨てられた。次の各著書の引用から当時の状況が理解できる。これが1945年の敗戦まで荒れ狂う天皇制ファッシズムに痛めつけられた日本人の偽らざる感想であろう。「天皇制国家の観念的支柱」となった国学のなかでも、篤胤は「皇国史観の元祖」と言われたように、ことさら太い支柱であった。なお平田篤胤は浪人時代に水戸藩に対して就職活動を行っているので、水戸学と平田国学の相性は良い。

■子安宣邦著「平田篤胤の世界」:相良亨編、日本の名著24『平田篤胤』(中央公論社1972年刊)27頁、所収

――平田篤胤の名は、天皇制ファシズムを体験した人々にとって、あるいは日本の現代史を知る人々にとって、万邦無比の国体をファナテック(=狂信的)に主張した元凶の響きを伝える。たしかに彼がそうした日本主義者の元凶たりうる資格は、彼が築く世界の構造そのもののうちに、あるいはその思想の方法に備わっている。と同時に、篤胤の築くその世界は、幕末期にあって極めて強い影響力を持ったのである。篤胤の生前の門人は553名を数え、没後の門人は優に3000人を超える(没後の門人は慶応3年までに1330人に達し、明治9年までには3700人を超す数となる)――

■田原嗣郎著『平田篤胤』(吉川弘文館1986年刊)1頁参照。

――作家の堀田善衛(1918年→1998年)は『海鳴りの底から』の中で、「平田篤胤という国学者の名を見ると、今でも私はいい気がしない。なにやら気味が悪くなってしまう。というのは、言うまでもなく戦時中の、あの途方もないジャーナリズムにのっていた、脅迫的な諸論文を思い出すからである」と書いている――

■芳賀登著『柳田国男と平田篤胤』(皓星社1997年刊)350頁参照。

――平田篤胤は文政11年(1828年)、屋代弘賢の紹介で斉修に著書献上が機縁となり天保2年(1831年)から江戸水戸藩邸出入りを許可された。天保5年(1834年)11月、彰考館総裁代理の藤田東湖に内願書を送り史館出入、採用を願い出、翌6年(1835年)正月には東湖あてに屋代弘賢名義で篤胤推挙の口上書が送られた(渡辺刀水著『平田篤胤研究』256頁)。しかしこれは沙汰やみとなった。これは奇男子、性妄誕、付会の徒、奇僻の見の如きものとみられたことによる。一時は東湖も推挙したが幕府とくに林大学頭あたりが新奇の学説をたて、世人を欺くということで、拒まれることとなったと考えられる――

■吉田俊純著『水戸学と明治維新』(吉川弘文館2003年刊)4頁参照。

――水戸学は明治維新の思想的推進力になった思想であり、近代においては天皇制イデオロギーとして作用した。とくに15年戦争期には、幕末に尊王論を主張し、攘夷論を展開した思想として盛んに称揚された。・・・戦争に国民を動員した水戸学は、戦後は一変して全く省みられなくなったからである。良心的な人ほど嫌ったと言ってよい――

■後藤総一郎監修『柳田国男伝』(三一書房1988年刊)910頁参照。

――昭和18年は平田篤胤の逝去百年に当り、日本精神論の立場からも、国学への関心は高まった。この年の5月、古典編修のため、文部省は古典編修部規定を定め、教学局内に古典編修部を設置することになった。それは「古事記・日本書紀等の我が国古典について一般国民の信憑すべき基本的定本を審定し、更に総合的基本的調査研究に及び、以て惟神の大道を仰いで国民精神の伝統を体認しえるよう皇国の道を闡明せんとする」(昭和1810月号『日本諸学』4)ことを目指すものであった――

 

<注22

■平田篤胤著『玉襷』:日本思想体系50『平田篤胤・伴信友・大国隆正』(岩波書店1973年刊)184頁~254頁、所収。

 

<注23

■『柳田国男事典』(勉誠出版1998年刊)397頁~398頁参照。

平田篤胤の「幽世(かくりょ)における死後の安らぎと祖霊崇拝の強調」は、国学者の大国隆正は切り捨てたが、民俗学者の折口信夫や柳田国男によって引き継がれた。この線上に民俗学が開花した。

――柳田国男は、新国学の名称を名のる時期があった。明らかに江戸時代の国学を意識している。これは柳田の民俗神道観を確立した体系的な思想である。具体的には第二次大戦後の『先祖の話』をベースにした展開であるが、宣長が日本の古代を言葉によって再現するという方法を考えていた点と共通する(『柳田国男事典』より)――

■桜井徳太郎著『日本民俗宗教論』(春秋社1982年刊)163頁では、「柳田の和歌の師である松浦萩坪(=松浦辰男)は幕末の神道家平田篤胤の信奉者で、平田の幽冥観に強い影響を受けていた」「しかし柳田は平田の幽冥道に全幅の信を寄せていたわけではない」との記載がある。これに対して、後藤総一郎監修『柳田国男伝』(三一書房1988年刊)187頁では、「松浦の幽冥観は、平田篤胤のそれとも結びついて、柳田の心を強く揺さぶった」として上記とは異なる見方を示している。

柳田国男は明治24年(1891年)6月に、井上通泰の紹介で松浦辰男(=松浦萩坪:1843年→1908年)に入門している(後藤総一郎監修『柳田国男伝』185頁~193頁参照)。

 

<注24

■神道人側からの「明治維新は神道による祭政一致を皇国の大目標」とした「祭政一致の大詔が(王政復古の大号令)事実上存在しているはず」であり、この「大詔である朝廷の命には一民も之に背くことを得ず」との批判が出された。

当時の政府は、欧米キリスト教国との条約改正などの外交都合上、国家の近代化を急ぐ必要があり、この近代化政策と神道人側からの復古的政策との間で矛盾が深刻化していた。そのため当時の政府にとっては、新たな神社政策の立案が急務であった。

明治13年(1880年)に神道事務局の神宮遥拝所に祭る祭神をめぐって、「伊勢神宮系(造化三神と天照大神の四柱を祀ることを主張した:この世を志向)」と「出雲大社系(冥府の中心は出雲にあるので幽冥界の神である大国主命が支配する、そのため祭神には造化三神+天照大神+大国主命の五柱を祀ることを主張した:幽界を志向)」とで激しい祭神論争が起こった。神道界を二分した「伊勢神宮派(現在の神社本庁)」と「出雲大社派(現在の出雲大社教:いずもおおやしろきょう)」の論争は「伊勢神宮派」が勝利して、「出雲大社派」は後退していった。この論争の重要な点は「祭神論争における出雲派の後退は、宗教への強い指向性をそなえていた復古神道教義の神道界における地歩喪失を意味した」(村上重良)点にあったという。

祭神論争を通して篤胤の宗教性を帯びた「幽冥論」は、新政府からも「神道界(いわゆる“表の神道”)」からも切り捨てられた。他方篤胤の「国家主義的(国粋主義的)」部分を引き継いだ大国隆正系は、その現実重視の主張(→祭政一致の理念を近代国家に適合させる努力をした)ゆえに神祇行政に携わることができ、その思想は天皇制イデオロギーの中に取り込まれた(→“表の神道”である国家神道へ)。切り捨てられた篤胤の「幽冥論」は民間の神道思想家や教派神道の教義の中に取り込まれた。

 

<注25

■日本の名著24『平田篤胤』(中央公論社1972年刊)付録8頁参照。

 

<注26

■平田篤胤著、子安宣邦校注『霊の真柱』(岩波文庫1998年刊)12頁参照。

 

<注27

■田原嗣郎著『平田篤胤』(吉川弘文館1986年刊)91頁参照。

■国学の四大人(したいじん、しうし)とは、荷田春満(かだのあずまろ:1669年→1736年)、賀茂真淵(かものまぶち:1697年→1769年)、本居宣長(もとおりのりなが:1730年→1801年)、平田篤胤(ひらたあつたね:1776年→1843年)を指す。

平田篤胤は「夢の中で宣長に会って入門を許された」と述べたが、正式には18056月に本居春庭(もとおりはるにわ:1763年→1828年、本居宣長の長男)に入門したので、“没後の門人”という扱いになっている。

 

<注28

■『古事記』を中心に据えて文献学的研究を行った本居宣長には、現実主義的な傾向があり、また合理主義者の一面もあった。そのため死後の問題に関してはほとんど関心を持たなかったという。現代語訳、本居宣長選集第一巻『玉くしげ』(多摩通信社2007年刊)135頁以下に、宣長の死後観が窺える一文がある。

――ところで、黄泉の国(よみのくに)の穢れということについて一つ二つ述べておきたい。まず黄泉の国と申すのは、地下の根底にあり、「根の国」・「底の国」とも申して、きわめて穢れた悪い国である。そこは死んだ人の行くところである・・・さて世の人は、身分の高い人も低い人も、善人も悪人も、すべて死ねば必ず黄泉の国へ行かざるを得ないのである・・・これこそが神代の真実の伝説であって、神妙な道理でそのようになっているのだから、中途半端な凡庸な知恵であれこれと思い量るべきではない――。

 

<注29

■平田篤胤は宣長とは異なって、死後の問題に関心があった。平田篤胤著、子安宣邦校注『霊の真柱』(岩波文庫1998年刊)に次のような記載がある。

――「古学(いにしえまなび)する徒(とも)の大倭心(やまとごころ)の鎮まりなり」(11頁)。「かくてその大倭心(やまとごころ)を、太く高く固めまく欲するには、その霊の行方の安定(しずまり)を、知ることも先なりける」(12頁)。「さてまた、現身(うつそみ)の世の人も世に居るほどこそ如此(かく)て在れども、死にて幽冥に帰(おもむ)きては、その霊魂やがて神にて、その霊異(くしび)なること、その量々(ほどほど)に、貴き賤しき(とうときいやしき)、善き悪しき(よきあしき)、剛き柔き(つよきよわき)の違こそあれ」(171頁)――

■篤胤は死後の霊魂の行方を明らかにすることは「安心」を得ることであり、現在の自分の精神状態を安定するための前提条件であるいう。さらに世界は顕(現世)と幽(死後の世界)から構成されており、顕界は天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫である天皇が、幽冥界(死後の世界)は須佐之男命(素戔鳴尊:すさのうのみこと)の子孫である大国主神(おおくにぬし)が主宰すると述べた。死後の霊魂は、仏教でいう地獄や極楽へ行くのでもなければ、本居宣長の言う黄泉国(よみのくに)へ行くのでもない。大国主神の支配する幽冥界(死後の世界)に行き、そこで審判を受けて現世の縁者を守護しつつ鎮まってゆくと述べる。篤胤の主張は「幽世(かくよ)こそ本世(もとつよ)」であるとして、須佐之男命(素戔鳴尊:すさのうのみこと)や大国主神を重視する幽界中心(出雲系統)の神学を立てた。

 

<注30

■佐藤弘夫著『死者のゆくえ』(岩田書院2008年刊)181頁参照。

佐藤は「目に見えない世界をあれこれ考えるよりも、まずはこの世の生き方を重んじるべきだと言う発想は、儒教などを中心に思想界では一つの揺るぎない伝統を形成していた。仏教でも、原始仏教の段階では死後の世界や霊魂に言及することなく、現世での実践を重視する立場をとっていた。しかし、そうした思想は、人々がみな死後の往生を希求し、他界表象が社会全体を色濃く覆っていた中世の段階では、一般人に受け入れられるべくもなかった。・・・現世中心主義の思想が各方面に於いて公然と主張され、抵抗なく社会に受容されるような客観的情勢が、社会の世俗化と彼岸表象の縮小を背景として、江戸時代においてはじめて実現するに至った。世俗の生活と人倫を重んじる儒学の本格的な受容は、そうした傾向にますます拍車をかけることになった」と記している。

 

<注31

■『仙境異聞・勝五郎再生記聞』(岩波文庫)77頁参照。

 

<注32

■近藤千雄訳『地上人類への最高の福音』(スピリチュアリズム普及会)47頁~48頁参照。

 

<注33

■鈴木重道著『本田親徳研究』(山雅房1977年刊)428頁参照。

 

<注34

■鈴木重道編『本田親徳全集』(八幡書店1983年刊)および渡辺勝義著『古神道の秘儀』(海鳥社1993年刊)。

平田の思想との関係では「篤胤の国学思想や幽冥観について本田翁も幾分かの影響を受けていたことと思われる」(渡辺勝義著『古神道の秘儀』137頁)。

■渡辺勝義著『神道』(海鳥社2009年刊)118頁参照。

平田篤胤の晩年、本田親徳は「気吹舎」に出入りして「篤胤の学説を傍聴した」という。後年「本田翁は『難古事記』『古事記神理解』で篤胤の説のことごとくを手厳しく駁撃することになるのであるが、それも篤胤の思想・学問をよく聞き知っていたからこそでき得たことなのである」(『神道』118頁)と述べている。

 

<注35

■本田親徳の著書『道之大原』や『真道問対』は、鈴木重道編『本田親徳全集』(八幡書店1983年刊)の中に入っている。なお本田の『道之大原』や『真道問対』の解説は、佐藤卿彦著『顕神本田霊学法典』(山雅房1978年刊)に「道之大原解説」(105頁~154頁)や「真道問対解説」(155頁~235頁)として記されている。

■渡辺勝義著『神道』(海鳥社2009年刊)121頁~127頁参照。渡辺勝義著『古神道の秘儀』(海鳥社1993年刊)172頁~173頁、356頁参照。

前著において「人間死すれば一霊(直霊)は直ちに神界のもとへ行き、融合一体化(消滅ではない)する。四魂(荒魂、和魂、奇魂、幸魂)は産土神のもとへ帰り、一魂でも優れた働きの魂あれば、その魂は氏神あるいは産土神の眷属として活動する。魄(遺体・亡骸)は生前よりの穢れあるために鎮めるより他なく、産土神の命により墓場に鎮まる(大抵は荒魂が付着していることが多い)」と神道家の立場から述べている。

 

<注36

■三浦佑之訳『口語訳古事記』(文藝春秋2002年刊)218頁以下。

 

<注37

■津城寛文著『鎮魂行法論』(春秋社2000年刊)34頁、佐藤卿彦著『顕神本田霊学法典』(山雅房1978年刊)44頁以下、出口王仁三郎著「随筆」:雑誌『神霊界』大正881日付所収。

■出口王仁三郎の本田・長澤批判

大本は大正8年に入ると、警察からの度重なる事情聴取を受けるようになった。王仁三郎はこのような大本をめぐる情勢の変化に対して、「随筆」(雑誌『神霊界』大正881日付)で、「多数の同胞を誤らしめる事は、天地の神明に対し奉って畏れ多いのみならず」「今日まで両師(本田・長沢)に敬意を払って沈黙を守ってきましたが、もはや惟神の時機が切迫しましたから、涙を呑んでこの稿を書きました」と、断り書きをした上で独自な鎮魂帰神説を綴った。

王仁三郎によれば「本田親徳先生や、長澤先生の帰神法というのは、第一に幽邃の地と、閑静の家を撰ぶと云う事になっております。本田先生は深山幽谷で修業をなし、田舎の寂しい一ツ家とか、奥深い神社などを選んで、最上の修業地とされておる。これは従来の行者などの行り方である」と。これに対して「大本の霊学は何程喧しいでも、人家密集の場所でも少しも構わない」「一切の妄想を除去する事が一つの条目になっておりますが、到底深山へ入って見ても、妄想を除去する事は、肉体のある限りは無理な注文である。不可能である」「感覚を蕩尽し意念を断滅するのが一の条目であるが、これも到底肉体の生命のある限りは、感覚を蕩尽し、意念を断滅することは無理である、否な不可能である。大本の霊学は決して感覚を蕩尽したり、意識を断滅せしめたり、左様な妖術的な事は神界が許さぬ・・・到底実験上本田先生や、長澤先生のやり方は駄目である」と述べて、本田や長澤の鎮魂帰神を批判した。

■大本には、本田親徳の系統である長沢雄楯(1858年→1940年)の下で鎮魂・帰神法を学んだ審神者系統の出口王仁三郎(1871年→1948年)と、巫女型(憑霊して託宣する者)の出口なお(1836年→1918年)がいた。従来大本内では精神障害等の弊害があるので、鎮魂帰神を行うことが禁じられていたが、浅野が再興して「一般素人を対象」に行った。

■鎮魂帰神と病気治し

出口王仁三郎は鎮魂(帰神)で病気治しを行った。王仁三郎(喜三郎)の友人の斎藤仲一の「教会を開こうと思えばどうしても病気治しから始めねばならぬ。何教の教祖でも病気治しから始めた」と説得された。この忠告によって、王仁三郎(喜三郎)は岩森八重の二年越しの病を治したのが、鎮魂で病気を治した最初であったという。その後王仁三郎(喜三郎)の鎮魂は良くきくという評判が立って、「穴太の喜楽天狗」とよばれた(『大本七十年史、上』153頁)。

浅野もまた同様のことを述べている。綾部の並松時代に息子(三郎)が目の病気になった。浅野は息子に鎮魂を行って、憑依してきた霊を取り除き、病気を治癒させたという(浅野和三郎著『冬籠』の「並松雑記」)。これは鎮魂によって憑依霊を取り除き(除霊)、健康を回復させる方法であるが、病気の原因をすべて憑依霊とするところに問題がある。

 

<注38

■縮刷版『神道事典』(弘文堂)391頁参照。

 

<注39

■浅野和三郎著「霊の発動と其の目的」:復刻版『神霊界、1巻』大正63月号(八幡書店1986年刊)93頁~99頁参照。

 

<注40

■大本70年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)556頁参照。

大本に対する警告文

 

<注41

■大本70年史編纂会『大本事件史』(宗教法人大本1967年刊)31頁参照。

 

<注42

■鈴木重道著『本田親徳研究』(山雅房1977年刊)7頁以下参照。

 

<注43

■中西旭著「日本心霊科学協会の伝統について」:『創立50周年記念特集号』(日本心霊科学協会2000年刊)所収、143頁参照。

 

<注44

■鈴木重道著『本田親徳研究』(山雅房1977年刊)所収、487頁以下。

 

<注45

■鈴木重道著『本田親徳研究』(山雅房1977年刊)所収、14頁参照。


 

◆浅野和三郎研究:目次

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