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大本教機関紙「大正日日新聞」とは

■大正日日新聞とは

大正日日新聞とは大正8年(1919年)1125日に大阪梅田に創立された新聞である。新聞社の規模と内容は当時の「大阪朝日新聞」「大阪毎日新聞」と肩を並べるほどのものであったと言われている。大正日日新聞社が発足したいきさつには、大正の言論史上有名な「白虹事件」がある。大正7年(1918年)825日、米騒動問題に関して開かれた関西新聞社通信大会の報道記事の中に「白虹日を貫けり」という一句があったが、これは内乱が起こる兆候を指す故事成語であり、その故事成語の前に「我が大日本帝国は、今や怖しい最後の審判の日が近づいているのではないか」との記事があった。当時の寺内内閣は朝日新聞のこの報道を天皇制国家の基本法を乱す罪である「朝憲紊乱罪」に該当するとして、新聞紙法違反により「発行禁止処分」にしようとした。検事局はまず問題の記事の筆者である大西利夫記者と編集発行人の山口信雄を起訴して各六月の禁固とした。しかし最終的に朝日新聞を発行禁止処分にするという件は免れた。この「白虹事件」で大阪朝日新聞を退社した者、また東京朝日新聞や読売新聞解雇組などの記者が大正日日新聞に集まってきた(参照:『大本七十年史』上巻、491頁~510頁)。

 

■経営危機により転々と売却

大正日日新聞の大株主には、勝本忠兵衛(第一次大戦中に続出した鉄成金の一人)や細川護立(元熊本藩主の家柄の侯爵)がいた。また経営陣として社長には貴族院議員の藤村義郎、編集局長・主筆に鳥居素川(「白虹事件」で大阪朝日新聞を退社した元編集長)が就任し、記者には後に著名人となった丸山幹治、稲原勝治、花田大五郎、青野季吉、鈴木茂三郎(戦後の社会党委員長)などが名を連ねていた。

このような個性の強い者が集まった寄り合い世帯であったため、まとまりの悪さがネックとなっていた。さらには武家商法や、大阪朝日(大朝)と大阪毎日(大毎)による徹底的な業務妨害などがあり、1年と持たずに翌年(大正9年:1920年)7月に廃刊となり解散した。解散の際に『大正日日新聞』という紙名は大本教団に売却されて、大本教団の下で925日に復刊第一号(926日付)が出された(発行部数48万部)。

新たにスタートした『大正日日新聞』の陣容は、社主に出口王仁三郎、社長に浅野和三郎、編集局長に岩田久太郎などが就任した。しかし当初40数万部の発行が3カ月目には20万部に減少し、その後さらに減少して経営が厳しくなり、経営の責任をとって浅野和三郎は大正101月に社長を退任し、社主の出口王仁三郎が社長を兼務し大正10112日から本社社長室に起居して陣頭指揮にあたった。

その後の『大正日日新聞』は、大正11年(1922年)715日に売却されて大本から離れた(参照:『大本七十年史』上巻、491頁~510頁)。

 

■復刻版『神霊界、7巻』大正9921日号(八幡書店1986年刊)417頁参照(ただし頁数は八幡版)。

この『神霊界』の広告欄に「925日より発行」する『大正日日新聞』として「復活したる大正日日新聞は敬神尊皇愛国を全使命とせる、皇道大本の経営に懸り、その再刊は最近2ケ月に亘りて、満天下の大問題となりつつあり」とする宣伝文が掲載されている。

 

■大正日日新聞社の社債

大正日日新聞社は社債を発行して事業資金をまかなっていたが、この償還について裁判沙汰になった。『大本七十年史、上』の802頁に掲載してある社債は、大正99月に発行された「大正日日新聞社の債務証書」(社主出口王仁三郎名義で発行)である。

当時社長であった浅野和三郎は、陣頭に立って買収した新聞社の経営を軌道に乗せるため動き回っていた。そして新聞社の経営を資金面から改善するため、社債を発行して運転資金に回していたが、まもなくその返済が滞ってしまった。その後大正1494日に京都地方裁判所において、大正日日新聞社社債の返還請求訴訟が提起された。この時の債権請求額は、滝川辰郎(5000円)、田中豊穎(9000円)、高井寿二郎(5000円)、浅野松子(正恭の妻:2000円)荒木兵一郎(4050円)であった。

この訴訟を提起した出資者に浅野和三郎に近い人たちがいる。訴訟提起後大本側が応訴し、強制執行等の問題があり、社債返還請求はこじれたが大正15年中に解決した。浅野和三郎は社債の発行名義人になっていなかったとはいえ、社長として前面に立って出資を募った立場にあり(→当時は皇道大本大日本修斎会の会長でもあった)、大本を離れた以降もこの問題は気がかりであったろう。

 

■復刻版『神霊界、9巻』大正103月号(八幡書店1986年刊)124頁参照(ただし頁数は八幡版)。

前著「示達」の中に社債広告の一文が載っている。「債務証書出来致候に付仮領収證と御引換相成度候。仮領収証(相当郵税相添)御送付相成候はゞ債務証書郵送可致候。債務證書利息御支払可申候に付利札引換に利息御受取相成度候。二月分利札切取り御送付被下候はゞ御送金可申上候。右広告致候也。大正102月。丹波綾部町、大日本修斎会財務局」。

前著「示達」によれば、皇道大本大日本修斎会会規第21条に「出版局は左の各項を掌理するものとす。機関雑誌新聞の編纂発行販売及印刷に関する事項」とある。「示達」では皇道大本大日本修斎会の下に亀岡大道場と大正日日新聞社が併記されており、大本大日本修斎会の役員と共に大正日日新聞社の人事が載っている。このような関係からか、上記の社債広告に見られるように、大正日日新聞社の社債発行は実質的に大日本修斎会が窓口となっていたようである。

 

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