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浅野和三郎の「類別的進化論」

①.浅野の「進化論」

☆浅野の「進化」についての考え方

浅野が唱えた「類別的進化論(または差別的進化説)」(注1)によれば、人類の祖先は高級な自然霊であって、最初から人類として進化してきた、そのため主流派科学の進化論が言うような猿から進化したのではない。なぜなら猿の祖先は一段低い自然霊であって最初から猿として発達してきたからと述べている。

このように浅野は、あらゆる生物は「種」ごとに、最初からそれぞれ類別的な進化を遂げてきたとして、「現在地上の何れの地点にも、人と猿との中間的生物が発見されない以上、私はこの差別的進化説があくまで正しいと信ずる」と述べている。ダーウィンの進化論を「無差別的進化説」として批判した浅野の「類別的進化論(または差別的進化説)」は、「折衷的な進化論」である。

 

☆有神論的進化論とは

有神論的進化論(または進化論的創造論、折衷的進化論)は主張する人によって内容が異なるが、大まかに言えば人間の進化を「肉体上の進化(肉体器官の観点から見る)」と「知的進化(肉体器官に宿っている霊の観点から見る)」に分けて、前者は進化論の観点から、後者は創造論の観点から論ずる立場のことを言う。多くのキリスト教徒(とくにヨーロッパ)やキリスト教信仰を持つ学者がこの説を支持している。

 

唯物論的な進化論によれば、人間は本質的には動物と変わりないが、能力的に進化した「完成された動物」とされている。有神論的進化論では、肉体器官が高度な理性や自我意識を受け入れるのに十分な段階まで進化した時点で(→肉体は進化論的観点に立って動物界から進化した)、「霊的要素」たる「霊的意識の流入」があったとする(ウォーレス)。

唯物論的進化論では、理性や自我意識は下等動物の知性と本能から発達したものとするが、有神論的進化論では、それらは“霊的要素”なので霊の世界から「霊的流入」したものとする。物的要素と生命的要素が一体化して「限りなく洗練された段階(→霊的要素を受け入れるに十分な準備ができた段階)で霊的流入が起きる」とする。

 

☆同時代のスピリチュアリストとの関係

有神論的進化論は19世紀のスピリチュアリストの間では、広く受け入れられていた説である。ウォーレスもこの立場に立っている。なお国書刊行会から1985年から1986年にかけて刊行された世界心霊宝典シリーズに『スピリチュアリズムの真髄』(原題:The Higher Spiritualism1956年発行)という書籍がある。この著書を読んでみれば、著者のジョン・レナードは有神論的進化論の立場に立っていることが分かる。このような点から見て現在でも有神論的進化論に立つスピリチュアリストは数多く存在すると思われる。

 

浅野は20世紀前半、西洋の多くのスピリチュアリストが「有神論的進化論(=進化論的創造論、折衷的進化論)」の立場に立っていたので、自信をもって「類別的進化論」を主張したのではないだろうか。ただし浅野は人類の祖先は「高級な自然霊である」と述べたが、当時の西洋のスピリチュアリストは「神による創造」の立場に立っていたため、この点の違いは大きいが。

ダーウィンとは異なって「人間の道徳的性質は外から授けられた」と主張したA.R.ウォーレス(Alfred Russel Wallace1823年→1913年)は、主流派科学の世界から次のように言われている。「ウォーレスは進化論を人間精神に、すなわち崇高な感情に、宗教的な感情に、また美的感覚に適用しようとはしなかった。このような一線を画することによって、ウォーレスは幾分神秘的で哲学的な観念論者となった。人体構造の進化については自然選択の力を強く主張したが、人間の知的・美的・道徳的属性を説明するためには、超自然的なものが必要だと感じていた」(注2)と。

 

☆シルバーバーチが言う「進化」とは?

シルバーバーチは「進化の定義」を次のように述べている。「進化とは低いものから高いものへの成長過程にほかならない」(6195③)。または「進化とは内部に存在する完全性という黄金の輝きを発揮させるために不純物という不完全性を除去し磨いていくことです」(6114⑪)と。つまりシルバーバーチの言う「進化」とは「霊性の向上」に他ならない。シルバーバーチは「すべての生命(物的生命体)にはそれに先立つ生命がある」「霊が、肉体という器官を通して表現するのです。その器官は霊の進化にとって大切な地上的教訓が得られるように実にうまく出来上がっている」(道しるべ213①③)という表現で、「普遍的要素としての霊」が地上体験を積みながら、霊の世界で「進化」していく状況を述べている。

 

これに対して主流派科学の立場にある進化論者が言う「進化」とは、「進化とは、生物集団が遺伝的変異を重ねることで変化する現象及び事実を指す言葉」。また「進化論とは、すべての生物は共通の祖先から進化してきたという考え方のこと」(渡辺政隆著「ダーウィンの肖像」:日本学術協力財団編『ダーウィンの世界』所収、36頁参照)と述べる。同じ「進化」という言葉を使っていても両者の用法は異なっている。

 

☆「浅野の進化論」批判

浅野の進化論は折衷的進化論であるため、有神論的進化論批判と同様なことが言える。なお浅野は、前世霊(当然に人霊)を前提としているため、「意識の進化」「進化に応じた物的身体をまとう(→浅野は「類別的進化論」を述べている)」「地上体験を積むことによって意識は進化する(→浅野は浄化した自我意識と未浄化な自我意識とに区別しているが)」「進化とは内在する神性がより多く発現すること」といった観点が曖昧である。浅野は人間や動物をあくまで物質世界の側から見ており、霊の世界で進化していくという「意識を中心にした進化」という観点から見ていない。

 

さらに浅野は「高級霊である自然霊(=天使的存在)が人類の遠い祖先である」と述べている。これは宇宙の経綸を担当する“天使的存在”が、「意識なるもの」にさらなる「進化」をさせるため、神の意志を代行して物的身体を意念で作り出す行為を誤解して(→「意識なるもの」は最初から存在している)、高級な自然霊が人類を生み出したと述べている。ここからも浅野の「類別的進化論」には、霊界における「意識なるもの」がさらなる進化を果たすため、物的身体をまとって地上体験を積むと言う観点が抜け落ちていることが分かる。

ここから言えることは浅野の「類別的進化論」や「分霊再生(創造的再生や部分再生を含む)」は、地上側から限られた情報を元にして組み立てられた思考の産物であるということ。この点に時代的な制約下でスピリチュアリズムの普及に携わらなければならなかった浅野の思索の限界が見て取れる。

 

②.主流派科学が説く進化論

☆「種」とは何か

主流派科学では生物分類の基本単位である「種」を次のように解説している。「種とは同一の祖先から出た生物集団で、共通した形態的特徴を持っている。交配が可能で、交配によってできた子も生殖能力を持つ。染色体数・核型が同じである」(注3)。この定義のポイントは「生殖的隔離」にある。

解説書によれば「種」が確立するための「生殖的隔離」とは、同じ場所に生息していても遺伝的要因や繁殖時期の違いなどで交配ができない状態をいう。たとえばイヌにはシェパード、スピッツ、秋田犬などが存在するが、それぞれは相互に交配が可能であり、生まれた子も健全に育ち生殖能力を持っているので同じ「種」である。しかしトラとライオンは人為的に交配させれば子を産むが一代限りであり、自然界では交配しないので、別々の「種」となる。またロバとウマは交配可能であるが、子であるラバは繁殖能力がないので、ロバとウマはそれぞれ別の「種」であると説明されている。

 

☆主流派科学の進化論

主流派科学では生命の起源に関して、あらゆる生物は一つまたは複数の共通の祖先から自然の作用によって生まれたものであり、その祖先それ自体も非生命体(無機物)から生じたものであるとして、「無機物→有機物→原始原核生物(生物の共通の祖先)→〇〇」の流れで生物の進化を説明している。この点から進化論は、宇宙の一切の存在や現象は物質で説明できるとする唯物論の立場に立っていることが分かる。

なお“ネオ・ダーウィニズム(=「総合説」「現代進化論」「ダーウィニズム」とも呼ばれている)”では、「共通の祖先」「漸進的進化による大進化」「自然選択」は完全に証明されているとの立場に立っている。

 

進化論は生物学の一分野であるにもかかわらず、現在では「全ての生物の関係を理解する上での基礎的な枠組み」として用いられている。この進化論は19世紀以降、政治や社会、公衆衛生、学問、思想などのあらゆる分野において応用されて用いられ、生物学という枠を超えて大きな影響力を及ぼしてきた。しかし近年の「ID理論」の登場によって「進化論」を巡る状況は大きく変化してきている。この主流派科学の進化論に対して創造論では、万物は神によって創造されたとする立場に立つ。このように個々の生命体の発生や進化に関して進化論と創造論では、相反する立場に立っている。

 

☆小進化とは

生物学では進化の仕組みを調べる方法として、主に「種」の遺伝子的変化を調べるというアプローチの仕方をする。この「種」レベルの進化的変化を「小進化」と呼んでいる(→種内でおこる形質の変化。または遺伝子頻度の変化や、観察や実験ができる程度の小規模な変化などのこと)。「種の分化」や「種内の品質の分化」などが小進化の例として挙げられている。

「種」の枠内での小規模の進化(変種)は家畜の育種などに見られるが、これらは集団の中にすでにあった変種を利用するものである。また交配と選抜によってかなりの程度、品種改良が出来ることは農作物によっても証明されている。このように小進化は日常的に観察されている。しかし「種」の枠内の変化といっても、そこには一定の限度があることも知られている。農作物の場合では「各生物体の遺伝システムには独自の制約が組み込まれているため、それぞれの動植物の平均値から大きくズレないように、ストップがかかる」という。これは「半年間にわたって絶えず花を咲かせるバラはあるが、一年中花を咲かせ続けるバラはない」という形で説明されている。当然に「種」を跨いだ交配は出来ない。

同じ「種」の枠内での「小規模な進化(変異)」は、創造論者も進化論者も認めている。

 

☆大進化とは

生物学では、数万年から数十万年に及ぶ長い時間をかけて「属、科、目、綱など」の大規模な進化的な変化(新しい種や属などの形成)が起こることを大進化と定義している。大進化の仕組みは「突然変異や遺伝子の流入により、遺伝子に変異が生じる。また、自然選択や遺伝子浮動によって、遺伝子頻度が変化する。さらに、隔離されることによって、独自の変異を重ね新しい種が生まれる」(注4)と説明がされている。

 

進化論で問題となるのは「種」を跨いだ「大規模な進化」は起こるのか否か、自然発生的に漸進的に進化してきたのか否かということである。主流派科学では「種」の中で起きた小さな変異が、世代交代に伴って次第に増加していって、元の「種」とは似ても似つかない「種(別種の誕生)」となり、この繰り返しの結果「種」の間の大きな違いとなって、基本種を跨いだ大規模な進化(大進化)となったと説明している。つまり「単細胞生物」→「多細胞生物」→〇〇→「脊椎のある魚類」→「両生類」→「爬虫類」→「鳥類や哺乳類」へと、完成度の低いものから高いものへと漸進的に進化したとしている。

 

生物学では、大進化とは単に小進化の積み重ねとされているので、小進化と大進化との間には本質的な差異はないと言われている。総合進化説では進化には「種分化(新種が生まれる過程のこと)」「系統進化(原始的なウマから現代のウマへの進化)」「大進化(爬虫類から鳥類・哺乳類への進化)」の三種類があるとする。総合進化説ではこれらの三種類の進化の全てが、「突然変異」と「自然選択」によっておこると説明している。なお創造論者は、大進化は有り得ないことと見ている。

 

☆主流派科学が説く進化論の問題点

主流派科学が説く進化論は唯物論的一元論に立っているため、物的観点からのみ「進化」を考えている点に問題がある。本来は霊的世界におけるグループまたは群魂状態の“意識なるもの”の進化を主として考えて、その成長に対応した物的身体は何か、どのような物的身体をとれば最も霊的進化が促進できるか。このようにまず霊があってその霊の進化に対応する物的身体は何かという順番で考えなければいけない。唯物論的進化論には、霊的観点がソックリ抜け落ちている。そこに問題を見誤る原因があったと言えよう。

また有神論的進化論は「肉体上の進化(肉体器官の観点から見る)」に主流派科学の進化論を用いているところに問題がある。「知的進化(肉体器官に宿っている霊の観点から見る)」に関しては「意識なるもの」の進化という観点から考えているので問題ないと思われる。

 

③.原理主義的な「進化論」他

☆創造論

一般に創造論はキリスト教の『聖書』に書かれていることは事実である(→『聖書』の記述は一言一句事実であるとする者と、記述を象徴的に理解する者とがいるが)という前提に立って述べられているので、現状は「創造論者とはキリスト教徒のこと」を指す言葉になっている。しかし創造論者には大きく分けて二つの立場が存在する。

まずキリスト教の『聖書』とは関係なく、神の存在と神の創造を認める立場の「宗教や思想」があり、創造説に立つスピリチュアリストはここに含まれる。これを「広義の創造論」と呼ぶことにする。これに対してキリスト教徒の『聖書』をベースにした創造論を「狭義の創造論」と呼んで区別することにする。この「狭義の創造論」の中にアメリカで興隆を極める独断的で原理主義的な「特殊創造論者」がいる。そのため近年では創造論は極めて狭義の意味で使用されるようになってしまった。ある識者は「過去100年余り“創造論者”という言葉は、理神論者や有神論者を含む広い意味としてではなく、一部の特定層を指す言葉として乗っ取られ、固有名詞化されてしまった」(注5)と述べている。

 

ID理論とは

IDとは「インテリジェント・デザイン(Intelligent Design)」のことで、その頭文字をとってID理論と呼んでいる。「知的設計・知的デザイン」のこと。

ID理論では、生物の進化は自然発生的なものではなく、「何らかの存在による、何らかの意図のもとに系統だって進んできた」という考え方をとる。この「何らかの知性を持った存在の関与」に関しては、それが「神であるとは限らない」と主張する点がID理論の特徴となっている。ID理論の登場によって、近年進化論をめぐる状況は大きく変化してきている。

 

ID理論の普及推進に大きな転換点となった学術会議が、199611月ロサンゼルス近郊にあるバイオラ大学で行われた。そこに生物学・化学・物理学・古生物学・天文学・数学・言語学・哲学・神学・ジャーナリスト等の多方面にわたる専門家200名ほどが集まった。「創造の要諦」というテーマで開かれた学術会議は、関係者によれば「反進化論の集会」として記念すべき会議になったとされている。この頃からインターネット上で「Intelligent Design」という用語の検索ヒット件数が急激に増加したという(久保有政著『天地創造の謎とサムシンググレート』学習研究社2009年刊、45頁参照)。

 

ID理論と創造論の違い

ID理論(インテリジェント・デザイン理論)」と「創造論(広義・狭義の創造論、創造科学、折衷説)」とは明らかに異なる。とくにID理論と創造論の中の「狭義の創造論、創造科学」(以下創造論という)とを比較すると、創造論では進化論を全面否定するがID理論は進化論を部分的に認める者もいること。またID理論では放射性同位元素による年代測定法を認めていること(→創造論からの批判は、久保有政著『天地創造の謎とサムシンググレート』258頁。天利信司著『神のすばらしい創造』ブックコム2009年刊、99頁参照)。ノアの“大洪水”を基点とした地質学的歴史観(洪水地質学)を採らないこと。すべての年代に亘る生物の化石が“大洪水”によって層を成したという仮説の押しつけをしないこと(→創造論の洪水地質学は『天地創造の謎とサムシンググレート』172頁~。『神のすばらしい創造』106頁~参照)。したがって当然に聖書原理主義的な主張もしないこと。これらが創造論との違いとなっている(宇佐和通著『インテリジェント・デザイン』学習研究社2009年刊、120頁参照)。

 

なお連邦最高裁判所において1968年アーカンソー州「反進化論州法」の違憲判決、1987年ルイジアナ州「授業時間均等化州法」の違憲判決が出されたことによって、教育の現場で「創造論」や「創造科学」という言葉が使えなくなった。その頃からID理論という言葉が広まったため、主流派科学界から「ID理論」は「創造科学の焼き直し」であると批判されている。しかし「ID理論と創造論の違い」でも明らかなように、この見解は誤りである。ID理論は神を「デザイナー」の可能性の一つとして捉えているだけであって、創造論(創造科学、狭義の創造論)のように聖書原理主義的な立場に立つものではない。

 

☆オールド・アース派

狭義の創造論の「オールド・アース派(古い地球説)」は、地質学の成果との共存を図って、長い時間をかけて地球は出来たと説く。そのため聖書の創世記の記述を読み替えて、創造の一日を地質年代に相当する期間と考えている。

オールド・アース派には“伝統的タイプの創造論者”が多いといわれている。いわば聖書の記述は正しいとしながらも、科学の成果も取り入れる立場に立つ者である。19世紀後半ドイツの自由主義神学に影響を受けた「近代主義者」の流れにある主流派(リベラル派)の聖書解釈に近い。これに対して「反近代主義者」の流れにある原理主義者や福音派の人たちの聖書解釈からは、必然的にヤング・アース派の流れに行きつく。

 

☆ヤング・アース派

狭義の創造論の「ヤング・アース派(若い地球説)」は、聖書は文字通り真実なものであると考える。「創世記の天地創造の物語」によれば、神は一日を24時間として六日間で、無から全ての生物がその種ごとに個別に創造されたとする。さらに地球が何十億年という歴史を持つという地質学の見解を否定して、「ノアの大洪水が地質学史の起点」としている。また現存する生物はノアの方舟に乗せられて生き延び、その後方舟の到着地のアララト山から世界に拡散していったと述べる。人間の肉体が滅びて堕落することは、アダムとイブが誘惑に負けたことに起因すると。

彼らの主張によれば、旧約聖書のアダムからイエスまでの系譜を辿れば、紀元前5000年~6000年に天地創造が行われたことになるので、宇宙や地球の誕生は少なくとも1万年以内でなければならないとして、地質学上の学問成果を無視した主張をする(宇佐和通著『インテリジェント・デザイン』学習研究社2009年刊、113頁参照)。ヤング・アース派は、人間が現れる前に恐竜が絶滅したという説を受け入れず、『聖書』を原理主義的に理解して創造論を展開する。

福音派の多くは、創造論を「ヤング・アース派」の立場で説明しているという。教育問題に強い関心を持つ福音派の父母は、地域の教育委員会の選挙を通じて積極的に教育に関与して、キリスト教的道徳に沿った授業の実施を狙っている(1992年ヴィスタ教育委員会事件参照)。福音派の影響力が強い学校では、野外学習の一環としてヤング・アース派の博物館を見学して、「(若い)地球の歴史」を学ぶことによって聖書の正しさを知り、その結果キリスト教的道徳を身に付けた(福音派の聖書原理主義的な)子供が誕生する、という流れになる。

 

☆原理主義的な創造科学

1920年代にアメリカ南部の州では「反進化州法(聖書の創造説を否定する理論の教育を一切禁止する)」が相次いで成立した。その後1968年になって、アーカンソー州の「反進化論州法」が連邦最高裁判所で違憲であるとの判決が出された。この判決によって50年近く存続してきた「反進化論州法」はすべて撤廃された。この裁判で『聖書』をすべての論拠とする「創造論」が使えなくなったので、神という概念は極力排除して、従来の創造論に科学的要素を盛り込んだ「創造科学論」という新しい考え方を生み出した。

この「創造科学論」出現の背景には、1960年代中頃から、自然科学の分野で博士号を持つ人たちが出現して、神による創造やノアの洪水を聖書の用語を極力排除して、科学的に証明できると唱える人たちが現れたからであった(この人たちを“創造科学者”と呼ぶ)。一般に創造科学者の多くは、独断的で「原理主義的な特殊創造論者」の立場に立つ。

 

④.「進化」に関する一つの考え方

ア)基本的な考え方

☆宇宙の創造

悠久の昔、神は何らかの目的を持って「宇宙」を創り、そこを神の属性が隈なく及んだ“神のイメージ通りの世界”にしようとされた(→その際の手足、神の摂理の“執行者”として天使的存在を据えた)。この宇宙には根源的素材たる「霊(普遍的要素としての霊)」が遍満している。無始無終であり神の一部である「霊」は、悠久の昔に何らかの目的のもとで個別化がなされ、その一部が「根源的素材の個別化」によって生じた「意識(いわゆる“意識”、意識なるもの)」と合体して、「意識」に内在する「霊(=個別化された霊)」となった。

個別化された「霊」は、「意識」が物的形体をまとって地上体験を積み「進化」していくに従って、「意識」に内在している「霊」の顕在化が増して、その結果「神の属性」がより多く発現されていく。

 

☆「霊」と「意識(意識なるもの)」の関係

一体化した「霊」と「意識」の関係は、「意識」の「進化」に応じて内在する「霊」が顕在化していくので、いわば「意識」は「霊」の“外被として存在”しているといえる。この「霊」と「意識」の関係は全ての存在物や生命体にあてはまる。

シルバーバーチは「大霊の一部である意識」(3113④)は、無窮の過去から常に存在している(3113⑤)。そしてこの「意識」はさまざまな形態を通して顕現して「完全を目指してゆっくりと上昇」(3112⑩)しながら、内在する神性(=霊)をより多く発現していく(3113⑥)と述べている。

 

☆進化に応じた意識の在り方

宇宙を構成している「根源的素材(普遍的要素としての霊)の個別化」によって「意識」が生じたが、その「意識の在り方」は「単なる意識の集合体 ―→ 類魂意識 ―→ 個別意識」へと「進化」していく。また同様に「根源的素材の個別化」によって生じた「霊」は「意識に内在する神性」として、その在り方は「グループに専属する状態(霊) ―→ 個々人に専属する状態(神の分霊)」へと「進化」した。ここから因果律の働きも当然に「因果律はグループ全体に対して働く(種ごと、群魂、集合魂など)―→ 因果律は個別霊ごとに働く」へと変化した。

 

☆人間界への誕生

現在までに受け取っている「質の高い高等なスピリチュアリズムHigher Spiritualism)」の霊界通信によれば、人間界への誕生には二種類あるとされている。一つは「再生人生」を歩むため生まれてくる者、他方はやっと人間の段階にまで達した「新入生の霊」(593②)であると。新入生の霊は、直前まで「類魂意識」を持った「霊」であったが、霊的進化のある地点で個別意識を持った個別霊へとジャンプして出生してきた(→ウォーレス流にいえば「霊的流入」することによって)。

 

イ)基本的な用語の整理

☆シルバーバーチの汎神論的な表現

高級霊のシルバーバーチは「大霊は人間をはじめとしてあらゆる生命形態に内在しております。すべてが神であり神がすべてなのです」(道しるべ46⑨)。「大霊はすべてのものに宿っております。大霊から離れて存在できるものは何一つありません」(道しるべ188⑬)。「あなた方はお一人お一人が神であり、神はあなた方お一人お一人なのです。この動的宇宙を顕現せしめ、有機物・無機物の区別なく、あらゆる生命現象を創造した巨大な力」(メッセージ39③)など、汎神論的な表現(すべては神)を使って述べている。

 

シルバーバーチは「神」はあらゆる物的形体に宿っていると述べるが(→これは「普遍的要素としての霊」のこと)、「神の属性」の顕現状態は宿る物的形体によってそれぞれ異なっている。これらの言葉だけを取り上げれば、シルバーバーチは「汎神論」を述べているのではないかと誤解してしまう。このような用例があるため、スピリチュアリストもシルバーバーチの神観は「汎神論」であると理解している人は多い。

 

たとえばハンネン・スワッファーは「シルバーバーチの哲学の基本的概念は、いわゆる汎神論である」(語る18⑬)と述べている。また『シルバーバーチの霊訓』4巻の編者ウィリアム・ネイラーも、まえがき部分で「愛他精神と素朴さと叡智に満ち、汎神論に裏打ちされたその明晰な教訓は、常に人生における霊的要素と同胞との関係における慈悲心の大切さを強調する」(45⑫)とも述べている。ハンネン・スワッファーもウィリアム・ネイラーも安易に「汎神論」という言葉を使用している。しかし『シルバーバーチの霊訓』全体を読めば、シルバーバーチは神の創造を前提にして個々の霊訓を述べているので、明らかに「汎神論」ではないことが分かる。

 

シルバーバーチは「創造主である大霊は、自分が創造したものの総計よりも大きいのでしょうか」との質問に対して「そうです。ただし、創造は今なお続いており、これからも限りなく続きます」(到来23⑨)と応えている。また「ああ、大霊よ。あなたは、形態の如何を問わず、全生命の創造主にあらせられます。あなたの摂理は全生命を支える無限なる摂理であり、あなたの計画は宇宙の生命活動の全側面に配慮した完璧なる計画であり、そのすべてをあなたの愛が育んでいるのでございます」(到来132④)。

このような表現に見られるように、神と万物を「創ったもの」と「創られたもの」に分けて、両者の間に一線を引いていることが分かる。このように神の創造を前提とした上で個々の霊的教訓を述べていることから、シルバーバーチの神観は明らかに「有神論・創造論」であり、「汎神論」ではないことが分かる。

 

☆シルバーバーチは「理神論」か?

シルバーバーチは「神は法則である」として、人間に対して神の直接の関与はないと述べている。一見すると「理神論」と同じではないかと思われる。しかしシルバーバーチが述べる法則とは、神の愛が万物に公平に行き渡るための手段としての法則(→法則の裏側に神の愛がある)であって、理神論者の言う「人間の理性によって知ることのできる自然法則」のことではない。つまり「神⇒摂理⇔人間」という形で、現在も神は摂理(法則)を介して人間を含めた万物を支配(間接支配)しているので、創造以降は神の関与は一切無いとする「理神論」とは異なる。

 

☆二通りの「神」表現

シルバーバーチは「神」を表現する場合に二通りの使い分けをしている。まず霊と物体を分ける形で、物体に生命を賦与しているのは霊であり、「霊は神である」と。または「生命とは宇宙の大霊のことであり、神とはすなわち大生命のこと」という表現で「普遍的要素としての霊(個別意識なし)」を述べる。

次に「(人間は)神の分霊を宿し」(553⑥)という表現で、神の分霊が宿る「個別霊(個別意識あり)」と物的身体とを区別して述べる。「普遍的要素としての霊(個別意識なし)」も「個別霊(個別意識あり)」も、ともに神の一部であることに変わりない。

 

☆普遍的要素としての霊

シルバーバーチは「神(の一部)」を一般的な意味合いで使用する場合には、「生命は霊です」「霊とは神です」という表現を使って「普遍的要素としての霊(=生命素、生命力、活力源など)」として述べている。

たとえば「霊力とは生命力であり生命の素材そのもの、活力そのもの」(最後啓示188⑨)とか、「霊とは全生命が創り出される原料です。造化活動の根本的素材です」(道しるべ213⑦)。さらには「霊はすべての存在物を形成する基本的素材」(140⑬)「いかなる形体にせよ、生命のあるところには必ず霊が働いている」(141①)、「(霊力とは)あくまでも実体のあるものです。生命力そのものであり、神の一部であり、宇宙の全生命活動に意識と存在を賦与しているものと本質的に同一のものです」(198⑦)。このように「普遍的要素としての霊」を表現している。

 

ウ)「意識(意識なるもの)」の進化

☆進化の階梯をのぼる

「普遍的要素としての霊」は、神の一部であるため「無始無終(→始まりも終わりもない)」である。しかし他と区別された「意識なるもの(→普遍的要素としての霊)」という場合には、生命の流れの中の一地点から始まることになる。この「意識なるもの」が、外部に神の属性をより多く顕現させるという意味の“進化の階梯”を登っていくためには、物的体験を積まなければならない(→進化に物的体験を必要としない“天使的存在”を除く)。そして「意識なるもの」が“進化の階梯”をのぼるに連れて個別化が進み、悠久の時を経て個別意識を持つ“人間という肉体”をまとった個別霊まで進化してきた。

 

☆神の創造活動の一部を担う

こののち個別意識を持つ人間は、自我の本体に内在する神性をより多く外部に顕現させることによって、表現を変えれば宇宙に遍満する霊的エネルギー(=創造的エネルギー)を物的世界により多く流すことによって、地球を霊的に浄化するという神の計画(=創造活動)の一部を担っていくことになる。

人間が神の創造の一翼を担うという意味は、宇宙に遍満する霊的エネルギーを「垂直方向のルート(=霊性の向上)」と「水平方向のルート(=利他的行為)」を活用することによって、物的世界に隈なく流していくことである。突き詰めれば進化とは「霊性の向上」ということになる。

 

☆意識の個別化の道

私たち個別意識を持つ個別霊は、ここに到達するまでは意識の進化に応じて、地上的観点からいえば“悠久の時”の流れの中で、様々な物的形体(→動物、鳥類、魚類、植物、無生物等の物的身体)を身にまといながら地上体験を積み重ねてきた。そして内在する神性を少しずつ外部に顕現させながら「意識の個別化の道」、つまり「群魂(=集合魂)という巨大な意識のグループ」→「類魂意識という小グループ」→「個別意識を持つ個霊」という形で、受胎の瞬間に「霊的要素」は肉体(卵子)と結合して、初めて個別意識を持った霊へと進化した。このように“意識”は進化の道を辿ってきた。

 

☆洋服の仕立屋

譬えを使えば、一人の人間の成長過程は「子供→青年→壮年→シニア世代」と移っていく。洋服の仕立屋さんは、その人のそれぞれの成長段階に見合ったオーダー・メードの洋服を作っていく。小学生に似合う子供服、社会に巣立っていく青年のためのスーツ、社会の第一線で働く壮年に見合ったスーツ、そしてシニア世代に見合った渋い色柄のスーツ等という具合に仕立てていく。この場合に一人の人間の成長過程を、神の属性が外部に顕現していく度合いが増していく過程ととらえて(→悠久の時の流れの中で“意識なるもの”が進化していく、その過程のこと)、その成長過程に見合ったスーツを、物質界における物的身体と置き換えるわけである。

 

☆完成度の低いものから高いものへ

つまり「普遍的要素としての霊」が進化(→「進化」を神の属性が外部により多く顕現していく過程と定義する)していくためには、地上体験を積む必要があり、そのためには物的身体を身にまとう必要がある。

例えば「単細胞生物的なスーツ」→「多細胞生物的なスーツ」→「〇〇〇〇的なスーツ」→「脊椎のある魚類的なスーツ」→「両生類的なスーツ」→「爬虫類的なスーツ」→「鳥類的なスーツ」→「哺乳類的なスーツ」へと、次々と羽織って地上体験を積むわけである。完成度の低いものから高いものへと漸進的にスーツのデザインが変化して、それに応じて物的体験も深まっていく。ダーウィンが述べたような“スーツそれ自体”がゆっくりと、漸進的に、または突然変異的に、一段階上のデザインのスーツに進化していくのではない。

 

☆仕立屋の正体は誰か

一般的な解説では意識の進化に見合った時点でまとう物的身体は、神の創造行為によって準備されると説明されている。実際には上記の譬えでいう「仕立屋」が物的身体を創造するわけだが、彼らの正体は神の創造行為に際して、具体的な「執行者」という形で関わりを持つ「造化の天使(→宇宙の経綸を担当する“天使的存在”)」のことである。彼らが神の意志を代行して、「意識なるもの」の進化の程度に見合った物的身体を意念で作り出している。この物的身体に「意識なるもの」の一部が宿り、地上体験を積み生命を全うして、「一つのグループ(=群魂または集合魂)」に戻って霊の進化に寄与することになる(→当然に因果律は一つのグループ単位で働く。この点が個別霊たる人間との違いになっている)。

このように進化を、ダーウィンの物的身体(=物的形態)の連続進化という観点からではなく、「意識または意識なるもの」の進化による体験の拡大という霊界側からの視点で見るわけである。つまりその時点における“意識”の進化に見合った物的身体を身にまとって地上体験を積んで、その体験を霊界に持ち帰って、群魂(集合魂)化している“意識なるもの”が進化していく、という観点からとらえるわけである。

 

☆天使的存在の役割

譬えを使って説明する。下記の譬えにつき、日本国を「神」、法令を「摂理」、公務員を「天使」と置き換えれば、天使的存在の役割と存在が理解できる(相対と絶対の違いは脇に置くとして)。

日本国籍を持った国民は、「日本国の理念(平和、自由、平等、個人の尊厳等)」のもとで守られている(→如実に実感できるのは海外に出て他国と比較したとき)。日本国の理念は「法令(憲法・法律・条令・政令等)」の中に盛り込まれる形で国民に示されている。国民は法令を通して日本国の理念を知る(法の支配)。国民は法令に違反すればペナルティを負わされるが、順守すれば国民としての権利を行使でき保護される。そのため国民は法令に則った生活をする必要がある(霊的摂理に則った生活)。この法令の具体的執行は、階層構造的な(国家・地方)公務員が担う。

 

☆進化と体験との関係

なお“進化と体験との関係”では、下等動物は自らの体験のみが全てであるが、意識の進化によって高等動物の物的身体をまとうことになると、そこではグループ内の間接体験も部分的には活用することができるようになる。これが「個別霊の人間」の段階になると、他人の体験(→本人から見れば間接体験のこと)のすべてが自己の霊性向上に活かせるようになる。さらに「個別霊たる人間」が類魂に戻ると、そこでは類魂のメンバーから見れば間接体験であるはずの他人の地上における体験も、自分の“直接体験(体験の共有化現象)”とすることができるようになる。

このように意識の進化によって、体験は次のようなステップを踏んで拡大していく。「直接体験のみ」→「直接体験+間接体験」→「直接体験+間接体験を直接体験化する」。

 

☆マイヤースの説明

マイヤースの通信では、「意識なるもの」の進化を「一学年進級する」という表現で、分かり易く説明している。

――植物・昆虫・魚類・それに四足動物を学校の学年別のように考えれば分かり易いでしょう。物的形態の死滅後、植物のエッセンスないしは魂が無数に集まって一つにまとまった存在(→群魂または集合魂のこと)を形成し、やがて一学年進級して(→群魂または集合魂の一部が)昆虫の身体に宿ります。その昆虫の魂が無数に集まって一つのまとまった存在を形成すると、(→魂が一学年進級して)今度は魚類あるいは鳥類の身体へと進級します。こうした過程が延々と続いて、遂には人間に飼い馴らしている動物の中でも最も知的なものへと進化して行きます。・・・そして、いつかは地上へ戻り、人間の身体に宿ることになります(永遠大道259~)。――

最後の段階で「機が熟せば人間の身体に宿る」として、類魂意識から個別意識へとジャンプする。ウォーレスの言う「霊的流入」のことである。

 

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<注1>

■浅野和三郎著『心霊研究とその帰趨』(心霊科学研究会、昭和39年刊)181頁~185頁、および春川栖仙編『スピリチュアリズム用語辞典』(ナチュラルスピリット2009年刊)343頁上、参照。

 

<注2>

■渡辺正雄編著『ダーウィンと進化論』(共立出版1984年刊)135頁参照。

ピーター・レイビー著、長澤純夫・大曽根静香訳『博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスの生涯』(新思索社2007年刊)312頁参照。

 

<注3>

水野文夫・浅島誠共著『理解しやすい生物ⅠⅡ、改訂版』(文英堂2008年刊改訂版)387頁、および新訂『生物図表』(浜島書店2007年刊)214頁参照。

 

<注4>

■新訂『生物図表』(浜島書店2007年刊)214頁参照。

 

<注5>

■フランシスコ・コリンズ著、中村昇・中村佐知訳『ゲノムと聖書』NTT出版2008年刊、168頁参照。

有神論的進化論の立場に立つ遺伝学者のフランシスコ・コリンズは「過去100年余り“創造論者”という言葉は、理神論者や有神論者を含む広い意味としてではなく、一部の特定層を指す言葉として乗っ取られ、固有名詞化されてしまった」(168頁参照)と述べて「特殊創造論者」を批判している。

 

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<補足>

◆神道は汎神論に分類される

日本の伝統的な宗教観や自然観(→すべてのものに神が宿るなど)と、シルバーバーチの神観は一致しているとして、一部の神道関係者からシルバーバーチは高く評価されている。また仏教徒からも比較的好意的に受け入れられていると聞く。

およそ宗教というものは自然崇拝(→汎神論的なアニミズム:すべての存在物や自然界に神が宿る)から発生している。日本の伝統的な宗教観にも宇宙はすべて神であるとする汎神論的な観念が見られる。汎神論に分類される神道においては、自然を崇拝(→奈良の大神神社:おおみわ じんじゃ の祭神は三輪山)すると同様に、遠い祖先は祖先であると同時に「神」としても崇めてきた。そのため神と人との境界があいまいとなっている。日本の伝統的思想の「祖霊」観では「神」と「祖先」との間には明確な境界がなく、渾然一体のものとして扱われてきた。このように日本人には、汎神論的に理解する「神観」は受け入れられ易い。

 

◆仏教との共通性

仏教には、すべての生きとし生けるものには仏性があるとする「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」や、心の奥にはブッタ(如来)となる種子を宿しているとする「如来蔵思想(にょらいぞうしそう)」、誰にでも本来は仏となる素地が備わっているとする「本覚思想(ほんがくしそう)」という考え方がある。さらに最澄は、人は誰でも修行を積めば悟りを開ける(→法華経にもとづき誰でも成仏できる)と述べた。このように「ブッタの種子を宿している」や「すべてのものが成仏できる」という思想は、日本の伝統的な宗教観や自然観と合致する。またすべてのものには「霊が宿る(→個別霊や普遍的要素としての霊が活性化または潜在状態で)」とするシルバーバーチが説く思想とも共通する。

 

◆キリスト教との違い

キリスト教は、「唯一の神」「天地創造」「人類は生まれながらに原罪を背負っている(→この考え方は日本人には理解しづらい)」「最後の審判で救済されなければ、永遠の死を迎える、地獄で永遠に苦しみ続ける(→この部分に関して日本では未浄化霊に対する供養や魂鎮めが行われてきたので理解不能)」とする教義を持つため、日本人の伝統的な宗教観や自然観との違いが大きすぎる。そのためキリスト教は明治以降、熱心な布教活動を行ってきた割には、信者数の伸びは今一つとなっている。

スピリチュアリズムは、ベース部分に汎神論的な世界観(→すべてのものには霊が宿る)を有しているので、キリスト教からは敵視される。汎神論的な理解はキリスト教の教義から見れば、人間の中にも神が宿ることになり、その結果人間が犯した罪は神が犯した罪となってしまうことになり、この点から批判される。スピリチュアリズムでは“神の分霊の顕在化(意識の進化)”の問題として処理される。このようにスピリチュアリズムとキリスト教との間には神観の理解に決定的な相違があるので、本来ならば両者は融合出来ないはず。しかしイギリスでは英国国教会と折衷した形態の“キリスト教的スピリチュアリズム”が盛んであるという。

 

◆正しく理解されていない

日本で『シルバーバーチの霊訓』の人気が高い理由は、シルバーバーチが述べた箇所に東洋思想に通じる「汎神論」的な表現があるため、この部分が拡大されて広まっていることが考えられる。しかしシルバーバーチの神観のベース部分に「汎神論」的な考え方があるといえども、あくまでも「唯一の神、創造説」(→日本人にはこの部分の理解が弱い。この部分を強調すると西洋思想またはキリスト教の一派と誤解されてしまう)に立った「有神論」の立場であり、この立場から理解しないと『シルバーバーチの霊訓』を誤解して解釈してしまうことになる。「汎神論」という概念を辞書的な解釈に立って理解すれば、シルバーバーチの神観は汎神論ではないということになる。

シルバーバーチの神観の組み立ては、「ベース部分に汎神論的な考え方がある(東洋的な思想に通ずる)」+「唯一の神、創造説(キリスト教的な考え方に通ずる)」である。

 

 

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