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江戸末期~明治期:その1

目 次

 

①.江戸末期の状況

内憂外患の危機意識の高まり

・復古神道の誕生

 

②.国学と心霊研究、民俗学との関係

・心霊研究の嚆矢

・民俗学とは

・民俗学と国学の関係

・心霊研究と民俗学の関係

・篤胤の幽界研究の著書

 

③.『仙境異聞』と『勝五郎再生記聞』について

ア)『仙境異聞』について

・天狗小僧寅吉

・『仙境異聞』の世界とは何か

イ)『勝五郎再生記聞』について

・勝五郎に関する著書および調査研究

・勝五郎の再生とは何か

・平田篤胤の心霊研究の意義

 

④.迷信と俗信

ア)「憑きもの持ち」迷信

・ラフカディオ・ハーンが見た日本

・俗信とは何か

・憑きもの(犬神、狐憑きなど)

・メカニズムの解明

・生前の観念の継続

・「動物霊が人間に憑依する」とは?

・師弟関係から派生する問題

イ)その他の迷信

・火の玉

・危険術

 

<注1>~<注28

 

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①.江戸末期の状況

内憂外患の危機意識の高まり

18世紀後半から19世紀前半にかけての日本の状況はどうであったか。

この時期、諸藩においては「藩財政の窮乏・農村の疲弊・士風の弛緩」などの問題に直面していた。また日本近海にはイギリスやロシア等の西欧列強の外国船が度々出没しており、地元住民との間でトラブルを起こしていた。このような度重なる外国船の出没は、林子平の『海国兵談』(1786年)からも窺い知れるように、国内に海防意識の高まりをもたらした。その後幕府は、1825年に「異国船無二念打払令」を出して沿岸の警備を厳しくして、ほころび始めた鎖国政策の立て直しに奔走していった。この時期、日本は「内憂外患の危機」という時代の入り口にいた。

 

藩政改革の中から生まれた「後期水戸学」は、「内憂外患の危機」意識の高まりに伴って実践的な政治理論として台頭してきた。ペリー来航以降(1853年)は、水戸学に内在していた「皇国意識」や「神州意識」が強調されるようになり、幕末期の政治理論の太い支柱となっていった。「後期水戸学」の代表的な人物に会沢正志斎(あいざわ せいしさい:1782年→1863年)がいるが、正志斎の『新論』(1825年)は幕末の志士たちの間に大きな影響力を持って受け入れられていった。

 

☆復古神道の誕生

従来国学は、古典、歌学、歴史などの考証研究であったが、本居宣長(もとおりのりなが:1730年→1801年)や平田篤胤(ひらたあつたね:1776年→1843年)によって学問・研究的な性格と共に宗教的な志向性も合わせ持つようになった。この両人が体系づけた神道を復古神道(または古神道)と呼んでいる。復古神道とは、国学の基本的性格である「古事記、日本書紀、万葉集等の古典を研究して、儒教や仏教渡来以前の日本固有の文化および精神を明らかにする」立場と、「復古主義の神道説」が結びついた思想をいう。

18世紀後半、本居宣長によって仏教や儒教伝来以前の「神道の本来の姿」を追求する復古神道、いわば神道のより一層のナショナリズム化が唱えられた。さらに平田篤胤の心霊研究に見られるように、霊的実在への関心の動きが庶民の間で起きていった。

 

②.国学と心霊研究、民俗学との関係

☆心霊研究の嚆矢

日本において心霊研究はいつから始まったか。井上円了の「不思議研究会」(明治19年=1886124日)とする説や、浅野和三郎の「心霊科学研究会」(大正12年=1923323日)とする説。さらには古事記や日本書紀には心霊現象が豊富に記載されているから古代から心霊研究は行われてきたという説など、さまざまある。しかし古事記や日本書紀にある心霊現象と思われる記述は、当時の人たちが「研究的手法によって収集し解明したもの」ではないことだけは確かである。一般には「天狗小僧寅吉」や「勝五郎少年」から聞き書きの方法で資料収集を意図的に行った国学者の平田篤胤をもって嚆矢としている(注1)。

 

☆民俗学とは

心霊研究と民俗学には共通した部分が多いが、双方とも人的にも手法的にも国学に源流を持つ。

民俗学とは『民俗学辞典』(注2)の解説によれば、「民間伝承を通して生活変遷の跡を尋ね、民俗文化を明らかにせんとする学問」と記されている。学問の対象は、常民(=普通の人々)が日常的に繰り返す共通した生活事実や文化のあり方、つまり「常民的生態」であり、これらを究明するのが民俗学であるという。さらに「我が国における民俗学の研究は、大正2年(1913年)に柳田国男と高木敏雄とが『郷土研究』という雑誌を出したのに始まる」(注2)と『民俗学辞典』には記されている。

 

雑誌『郷土研究』が発刊される2年前、博物学者の南方熊楠(みなかたくまぐす:1867年→1941年)は柳田国男宛ての書簡(1911612日付)の中で、「学会設立(Folk-lore Society)」と「雑誌発行」に言及している。

なお民俗学がアカデミズムの世界で“認知”されるのは1930年代である。民俗学を表す言葉に「土俗学」という名称があるが、これは民俗学と民族学(=文化人類学)が分化する以前の古称である。

 

☆民俗学と国学の関係

民俗学者の柳田国男は昭和9年(1934年)に著書『民間伝承論』の中で、民俗学を「一国民俗学」と規定して「ナショナルな学である」と説いた。また高木敏雄は『郷土研究』の創刊号で「郷土研究の目的は日本民俗の民俗生活のすべての方面の全ての現象の研究」(注2)であるとして同じく「一国民俗学」を述べている。

なお民俗学者の折口信夫(おりぐちのぶお:1887年→1953年)は「日本民俗学が国学の方法の一つであり、その先駆者が平田篤胤である」(注3)として源流を平田篤胤に求めている。柳田国男(1875年→1962年)も江戸時代の国学を意識して、一時期「新国学」を名乗っていた(注4)。柳田の研究目的は「一国一言語一種族の国」(→当時帝国領内であった台湾、樺太、朝鮮は含まれず、あくまで内地が対象であった)としての日本の郷土研究であり、極めて「ナショナルな学問」であった。そのため国学と共通した部分があることから、民俗学は「新国学」とも呼ばれてきた。

 

☆心霊研究と民俗学の関係

心霊研究と民俗学の関係については、平田篤胤が“天狗さらい”に遭遇した寅吉少年に対して「聞き書きの方法」によって資料収集を行い、それを基にして『仙境異聞』を著した手法と、柳田国男が遠野出身の佐々木喜善という若者が語った土地の伝承を聞き取って、それを素材として『遠野物語』(明治43年刊)を著した手法との間には、双方に共通した部分がある。一般に「平田篤胤の国学の学問研究の中に民俗学的側面や民俗学の源流がある」とされており、篤胤の資料収集の仕方には、心霊研究と民俗学との共通性が窺える。

このように篤胤は、文献研究やフィールドワークを通して心霊現象の収集を意図的に行なったことから、ここから心霊研究と民俗学と国学の三者の関係が見て取れる。鎌田東二(京都大学教授)は「心霊研究ものが民俗学の先駆形態」(注5)であると述べている。

 

☆篤胤の幽界研究の著書

篤胤の学問領域は、著書の内容からも分かる通りかなり広い。

篤胤の「幽冥界」に関しては、1805年(文化2年)に『新鬼神論(しんきしんろん)』を出版して、この中で「神」を実在物として「あらゆる事物の背後には神が実在している」と述べたことや、「人間の本性は産土神によって与えられた情である」としたこと(→儒者の「天や上帝は自然の理を擬人化したもの」に対抗して述べたといわれている)。

また「鬼神」については「鬼神のたたりが現実にある」ので実在物であるとしたことや(→いわゆる低級霊や地縛霊などが引き起こす心霊現象のこと)、死後の世界を宣長の言う「黄泉の国」から「幽冥または幽界」と改めたことなどに特徴がある(注6)。

 

篤胤は『稲生物怪録(いのうもののけろく)』(1806年:文化3年)で序文を書いている。この著書は、16歳の稲生平太郎少年が山中で物怪の頭の配下の妖怪に苦しめられたが、これらを打ち負かしたという内容である。さらに『古今妖魅考(ここんようみこう)』(1822年:文政5年)では「仏僧が破戒や高慢のために魔道に落ちて釈魔となったこと」などが書かれている(注7)。

1813年(文化10年)に著した『霊の真柱(たまのみはしら)』は篤胤の代表的著書である。1822年(文政5年)には、天狗に誘われて仙郷で暮らした寅吉少年の体験談を聞き書きした『仙境異聞(せんきょういぶん)』や、勝五郎少年の生まれ変わりの体験談を綴った『勝五郎再生記聞』(1823年:文政6年)を著している。この『仙境異聞』や『勝五郎再生記聞』は「心霊研究」の分野に入る。

 

③.『仙境異聞』と『勝五郎再生記聞』について

ア)『仙境異聞』について

☆天狗小僧寅吉

篤胤の『仙境異聞』は心霊研究と民俗学の双方に関係した記録書ともいえるが、この書の主役は天狗小僧寅吉である。

篤胤に「眼光人を射すごとく光があって、面貌はすべて異相」であると『仙境異聞』の中で記された寅吉少年は、江戸下谷七軒町の越中屋与惣次郎の二男として文化3年(1806年)に生まれた。寅吉は7歳の夏(文化9年:1812年)から11歳の10月までのあいだ、「老翁」に伴われて各地を巡ってきたが、江戸市中の人々からは「神仙界を訪れて天狗や山人から呪術の修行を受けて帰ってきた少年」として話題となった。

 

江戸の薬種商(長崎屋)の山崎美成(やまざきよししげ)は、この少年を自宅に居候させて天狗や山人の住む異界の情報を聞き出そうとした。そのことを知った屋代弘賢(やしろひろかた)は、天狗小僧の話を平田篤胤(当時45歳)のもとに持ち込んだ。篤胤は伴信友(ばんのぶとも)や屋代弘賢と共に、山崎美成を訪ねて寅吉少年に面会して、「異界の情報を専有しようとする山崎美成のもとから、寅吉を奪い去るようにして己の側に連れてきた」(注8)という。いわば貴重な情報源である寅吉少年を、山崎美成と平田篤胤との間で奪いあったというわけである。

 

平田篤胤のグループには、伴信友(国学者)、屋代弘賢(『群書類従』の編纂校訂をした国学者)、佐藤信淵(さとうのぶひろ:経済学者・農学者)、国友能当(くにともよしまさ:国友鉄砲鍛冶の技術者)、大国隆正(おおくにたかまさ:国学者)、平田鉄胤(ひらたかねたね:国学者、篤胤の婿養子)、気吹舎(篤胤門人)の門人など、当時の江戸社会を代表する知識人たちが集まっていた。このような人たちから寅吉少年は矢継ぎ早の質問を受けて自らの体験談を語った。そしてこの聞き取り調査によって、寅吉少年の「異界情報」は資料としてまとめられて『仙境異聞』(文政5年:1822年発行)となった

 

寅吉少年に対する篤胤の異常な熱心さから、当時「彼がこの寅吉に自説を吹き込んで、自分の主張の正しさの証人に寅吉を仕立てようとしているという批判を浴びせられた」(子安宣邦)という。

寅吉少年が『仙境異聞』の中で述べた次の一節は、篤胤の思想と“二重写し”に見える。「(寅吉少年の)家の宗旨は一向宗にて、母も兄も明暮れに阿弥陀仏を称え、神を嫌い卑しめて、抹香臭き事どもを、常の所行とするを、吾はそれに替りて、大神宮の御玉串を棚になおし、手をうち排すれば、兄は穢らわしいとて、塩をまき散らしなどをするを、吾も負けず、仏壇こそ汚けれど、唾など吐きし故に、兄弟の間宜しからず」(岩波文庫23頁)。この一節からは当時の仏教と神道のいがみ合いの構図が見て取れる。

 

☆『仙境異聞』の世界とは何か

近世日本思想史が専門の子安宣邦(大阪大学名誉教授)は、寅吉が体験した「異界」とは筑波山塊の一部である岩間山(愛宕山)の山人(修験者)の世界であり、そこで習得した修験道の知識やさまざまな技を篤胤たちの質問に応じて述べたもの、いわば「天狗=修験者」説を述べている(注9)。当時篤胤が住む江戸は都市社会であり、山中で生活する山人の世界とは交流がなく、二つの世界は断絶していたと考えられる。このような二つの世界を繋ぐ興味深い話が岩手県の遠野地方にある。

ある時村人が偶然に“マダの皮剥ぎ”をしている山人と出会い、「餅とマダの皮」の交易話がまとまった。「年に定めた日に庭先に三升ばかりの餅を出しておくと、夜中に山人が来て一年中入用な位のマダの皮を置いてその餅ととりかえていったというのがある。これは相手を恐れて近づくことを肯じないもののある時におこなわれる沈黙の交易にほかならない」。このような断絶した二つの世界を繋ぐ話は各地にあるという(注10)。

 

天狗という名称は仏教から来たものといわれている。天狗という語は『日本書紀』に見られるが、天狗や鬼という言葉が初めて表れる時期は、奈良時代(710年→794年)の少し前からとされている(注11)。時期的に見て修験道の開祖とされる役行者こと役小角(えんのおづの:634年→701年)の活躍時期と一致する。その天狗が広く民衆に広まった鎌倉時代の仏教書『聖財集、中巻』には「日本の天狗は山伏のごとし」との記載がある(注12)。民俗学者の宮田登は「天狗=修験者」説の立場から、「天狗のイメージは、山を修行して歩く修験者に対して里の人が持ったものでして、現実には天狗の姿はなくても山伏の歩く姿を妖怪と見なしていたということが考えられる」(注13)と述べている。このように天狗という語句が使われ始めた時期や天狗伝説の増加の時期、修験道の発展などとの関係から、両者は密接に関係していることが分かる。

 

寅吉少年は篤胤たちの「山人とはいかなる者か」との質問に対して、「山人とは、まずは俗にいう天狗のこと」を指すと述べた。その上で「山人とはこの世の人であって、事情があって山に入り、自然に山中のもので衣食をまかなえるようになった人で、30年ばかり山で生活すれば誰でもなれる」として、寅吉少年は「天狗=修験者」説に沿って答えている。しかし師から「下山したときは、世間で言われている天狗と称して、山人などということは明かさないように」と忠告されたとのこと。

このことからも当時の社会では「天狗=修験者(山人)」説が通説であったようである。なお当時の人々は普通の僧とも異なり、山岳修行で山の霊力を身に漂わせた山伏たちを「天狗の同類」と見ていた。

 

ここから寅吉少年が述べた体験談とは、修験者(山人)の世界で体験した話の可能性が強い。この場合には心霊研究というよりはむしろ民俗学の領域の研究になるであろう。しかし寅吉少年の体験談には「一事につきて数百里を、数度空行往来する事もあり」といった幽体離脱中の話も出てくる。社会学者の田中千代松によれば「寅吉は天成の霊能者であった」として、寅吉少年の事例も勝五郎の事例も「憑依である」と述べている(注14)。寅吉少年の体験談は、心霊研究の領域と民俗学の領域がダブっている事例にあたるといえよう。

 

江戸時代、寅吉少年のように突然消息を絶つ場合には、一般に“天狗さらい”に合ったとされた。実際に“人さらい”に合って連れ去られたケースもあったであろう。また子供に多い夢遊病(睡眠時遊行症)で歩き回ったケースも多かったのではないだろうか。

例外的に子供が霊媒体質者で、何らかの原因で幽体離脱(→この場合は肉体はどこかに置いてある)が起こり、離れた場所の情景を見てきて周りの者に話したケース。アポーツ現象によって、肉体もろとも移動したと言ったケース。さらには低級霊(地縛霊、憑依霊など)によって完全に憑依されてその間の記憶がないといったケースも考えられる。

「天狗」の正体については、修験者(山人)のケース、自然霊のケース、憑依霊のケースなどが考えられる。このように寅吉少年の体験については様々なケースが考えられるが、心霊研究の立場からでも、民俗学の立場からでもアプローチは可能である。

 

イ)『勝五郎再生記聞』について

☆勝五郎に関する著書および調査研究

武蔵多摩郡中野村(現在の東京都中野区)の百姓源蔵の次男の勝五郎(8歳)は、6歳で死亡した藤蔵(近隣の程窪村の百姓久兵衛の子で文化7年:1810年に死亡)の生まれ変わりであり、その藤蔵が死後に産土神の熊野権現に出会って勝五郎として再生したという再生談である。

平田篤胤はこの経緯を文政5年(1822年)に聞き取り調査して『勝五郎再生記聞』(1823年)として著した。この勝五郎の再生話は「文政6年(1823年)419日御書院番頭佐藤美濃守宛の届書」として幕府に報告された。この届出書の写しが存在しており、これが勝五郎の再生話が実話であったことの裏付け証拠となっている(注15)。

 

勝五郎再生に関して著した書籍は二種類知られている。一冊は有名な平田篤胤の『勝五郎再生記聞』であり最もよく知られている。もう一冊は因幡国鳥取藩の支藩である若桜藩の第五代藩主、池田定常(別名、池田冠山:1767年→1833年)が著した『勝五郎再生前世話』である(→写本は早稲田大学の図書館が所蔵している)。

池田定常は1802年に家督を長男に譲って隠居した後は、学者などの文化人と交流を深めて著作や研究を熱心に行った。特に武蔵一帯の地誌研究には熱心で『武蔵名所考』や『浅草寺志』などがある。池田定常は勝五郎少年の家に出向いて、本人から生まれ変わりの話を聞き書きして『勝五郎再生前世話』を著した。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は明治30年に著した随筆集『仏の畠の落穂』の中に「勝五郎の再生」を載せて海外に紹介した。この「勝五郎の再生」は池田定常の『勝五郎再生前世話』を基にして書かれたものだが、八雲は平田篤胤の『勝五郎再生記聞』の存在を知らなかったという(注16)。

 

勝五郎再生の実地調査も行われている。日本心霊科学協会の「勝五郎研究グループ」は1966年(昭和41年)に勝五郎が再生する前の藤蔵の菩提寺(→三沢村の医王寺だが現在は高幡不動金剛寺に合併されて廃寺となっている)で過去帳調査を行い、この調査から藤蔵の両親の名前(須崎藤五郎・しず)を見出した。さらに須崎家の子孫の家を訪ねて家系図の中に藤蔵の名を確認した。これらの一連の作業によって藤蔵が実在していたことの確認作業を行っている。さらに1968年(昭和43年)には勝五郎の墓の実地調査を行っている。この調査で墓石に勝五郎の戒名である「潭底潜竜居士」と、死亡年月日の「没年明治2124日」を確認して勝五郎の実在性の証明を行っている(注17)。

 

☆勝五郎の再生とは何か

文政5年(1822年)、生まれる前のことを誰もが記憶していると思っていた勝五郎(8歳)は、姉“ふさ”と兄“乙次郎”と田んぼのほとりで遊んでいた。ふと勝五郎は兄や姉に向って「おまえはもと何処の誰が子にて、こちらの家へ生まれてきたのか」と尋ねた。この時まで勝五郎は、誰でも生まれる前のことを記憶しているものと思っていたという(→幼少期において顕在意識に「胎内記憶」や「中間生記憶」が浮かび上がってくる事例がある)。姉や兄との会話から、自分が人と違っているということに気づき、この話は誰にも言わないようにと懇願した。しかしまもなく家族に知られることになった。

勝五郎は両親や祖母に前世での出来事、命を落とした時のこと、死後に出会った翁のこと、翁の指示で百姓源蔵の次男として生まれてきたことなどを、問われるまま詳細に語った。さらに半信半疑の祖母と一緒に、前世で住んでいたという村へ出向いたところ、勝五郎の語った通りの風景であり、そこに家族も住んでいた。このような勝五郎の話を聞いて、平田篤胤は文政6年(1823年)に『勝五郎再生記聞』を著した。

 

篤胤の『勝五郎再生記聞』は、勝五郎少年が再生したということの聞き書き集である。スピリチュアリズムの観点からいえば、勝五郎の事例は「再生」なのか、あるいは「憑依現象」なのか、二通り考えられるがいまだ決着はついていない。

 

☆平田篤胤の心霊研究の意義

このように平田篤胤は幽冥界の資料収集や文献的な調査研究によって、「肉体から霊魂が分離してこの世を浮遊する」という考えを持った。そして上記のような代表的著書を残した。篤胤のこのような「心霊記録」の収集によって、日本に於ける心霊研究はスタートした。

ヴァージニア大学の精神科主任教授を歴任したイアン・スティーヴンソン(Ian Stevenson1918年→2007年)は世界各地で再生事例を集めて独自の研究を行った(注18)。篤胤の『勝五郎再生記聞』をスティーヴンソンの再生研究に当てはめれば、再生の素材蒐集の記録集とでも言えようか。芥川賞作家の三浦清宏(元明治大学教授)は「再生の実話を調査した『勝五郎再生記聞』などは、日本における唯一の生まれ変わりの記録として重要である」(注19)として、篤胤の研究を高く評価している。

平田篤胤の「心霊研究」は、日本のスピリチュアリズムという霊的潮流全体の位置づけから見れば、いわば“運動の先駆け”であったと言えよう。

 

④.迷信と俗信

ア)「憑きもの持ち」迷信

☆ラフカディオ・ハーンが見た日本

ラフカディオ・ハーン(→日本に帰化した後の名前は小泉八雲)は明治23年(1890年)に来日した。ハーンの最初の赴任地は、出雲地方の古い文化や風習が残る松江であった。この地の人々に共感を持ったハーンは、出雲地方に根強く残る「憑きもの持ち」迷信を次のように述べている(注20)。

 

――人狐は目に見えないと信じられている。しかし静水に近づくと、その影が水に映る。だから狐持ちは川や池の近くは避けると考えられている。すでに述べた通り、目に見えない狐が人に取りつく。日本の下男のようにその人の家の一員になる。その家の娘が嫁に行くことになると、狐はその新しい家に花嫁について入り込むだけではなく、結婚によって結びついたあらゆる親族や夫の家族の親族までも、狐の分家となってしまう――

――狐持ちと信じられている人々は世間からうとまれる。その家族との結婚は論外である。出雲では多くの美しいりっぱな娘が、その家が狐を持っていると世間で信じられているために、夫を得られずにいる。一般に出雲の娘たちは自分の国から外に嫁ぐことを好まない。しかし狐持ちの娘たちは別の狐持ちの家族と結婚するか、神々の国から遠く離れたところに夫を見つけるしかない――。

 

この「憑きもの持ち」迷信の弊害がいかに大きかったかは、島根県知事の恒松安夫の言葉からそれが読み取れる。恒松知事は昭和2811月に速水保孝(はやみやすたか)の著書『憑きもの持ち迷信』(明石書店1999年刊、改訂増補版)に民俗学者の柳田国男とともに次のような「序文」をのせた。

――日本の農村には、古くから、憑きもの持ち迷信が広く存在して、その特殊家筋の人々を、社会的に排斥する風習がありましたが、今日では、主として、若人の自由な結婚の障害として残存していることは、衆知のとおりであります。しかも、この悪習が、特に山陰地方に根強く残っていることは、当地における封建色の強いことを裏書きするものであって、我々にとって、まことに残念なことであると言わねばなりません。・・・今日の農村には、依然として、この迷信存続の物的基礎が残存している以上、容易に消滅しないでしょうが、おそらく、農村の民主化の徹底を図ることによって可能であると思われます――。

 

ハーンは著書の『狐』(明治24年:1891年の作品)の中で出雲地方に残る「人狐(じんこ:狐持ち)」を取り上げて、この「人狐の迷信=憑きもの持ち迷信」にまつわる差別は教育によって過去のものになっていくと予見した。

ハーンは『狐』の最後のページにおいて「改革者は子供である」「迷信に対する万能の敵は公立学校である」「新しい世代に啓示された美しい自然界には、妖狐の居場所はない」と述べて、迷信は教育によって駆逐されると主張した。事実この時代に教育を受けた者の孫の世代にあたる1970年代には、「憑きもの持ち」迷信の問題はほぼ終息している。

 

ハーンは40歳までイギリスやアメリカという西洋文明至上主義社会で過ごして、最後の14年間を異文化の日本で過ごした。ハーンのアメリカ時代、新聞社「シンシナティ・インクワイアラー」の駆け出し記者時代に、貧しい黒人の集落や底辺層に生きる人たちの世界に分け入って、彼らの生活に心を奪われて、共感して記事を書き続けてきた(注21)。この経歴からも同時代を生きた白人の中でも異人種や異国文化に対する障壁は低い(注22)。

ハーンが関心を示した「人種の混在したアメリカの基層文化」に向けた眼差しは、異国文化の日本においても如何なく発揮された。このような興味の志向は「民俗学や民族学の基本的な行き方と基底部分において共通する」ため、ハーンは「民俗学者」とも呼ばれている(注21)。その意味ではハーンは、平田篤胤とともに日本の民俗学における先駆け、礎を築いた人ともいえる。

 

☆俗信とは何か

一般的に民俗学では「民衆の間で行われる宗教的な慣行・風習、呪術・占い・まじない、幽霊・妖怪の観念など」を俗信と呼んでおり、科学的な根拠や合理性はないが、「常民的生態(=普通の人々の日常生活)」の中で信じられて実践されてきた個々的な行為や観念を指している。さらに俗信と宗教の違いに関しては、その扱う領域に注目して「人の生き方や死生観など全般的な問題を扱う」ものを宗教と呼び、これに対して俗信は「呪術・占い・まじない・幽霊・妖怪など個々的な問題」を扱うとされて、両者の対象領域はおおまかに区分されている。

俗信と迷信との違いに関しては、俗信の中でも特に「社会に対して害毒を及ぼすものを迷信」といって区別している(注23)。そのため全ての俗信が迷信となるわけではない。

 

☆憑きもの(犬神、狐憑きなど)

1970年代までの農村では「憑きもの持ち」迷信が広く存在していた。この迷信によってその家筋の者を社会的に排斥する(村八分)とか、結婚の障害になるなどの弊害が生じていた。

農村では基本的な“生活単位”は個人よりも家であり、稲作という農作業を通して相互に社会的な義務を行い合う「農村型共同体」が存在してきた。そのため「憑きもの持ち」迷信は「家や世帯を単位として出現」する。また憑かれる人の特徴として、女性に多いことが知られている。

 

一般に「憑きもの持ち」とは「人狐」を代々飼っていると称する家がその家筋にあたる。これを「狐持ち」といい、歴史的考察から一般には資産を有する家が該当するとされ、その由来は、「(家の守り神である)飼狐が日頃から物でも金でもくわえて戻るから、自然に資産ができた」とされている。

一方「人狐」に憑かれたと称して騒ぎ立てる者を「狐憑き」と呼ぶ。たまたま「狐持ちの家の者」に対して恨みを売るようなことをすると、その家の「人狐」が、主人に代わって出てきて報復するという。その報復によって引き起こされる現象として、「(人狐を)憑けられた者は、たちまち気が妙になり、あらぬことを口走り、あたかも狐のような所作をする。そうなると医者や薬では治らず、ただ祈祷に頼るほかない・・・それを受けこむ祈祷師がかなり繁盛する」(注24)。このような「憑きものを付けられた者(狐憑き)」に対しては、祈祷師による「憑きもの落とし」の治療が行われることになるので、「狐憑きと祈祷師は一対の関係」となって登場してくる。

 

☆メカニズムの解明

昭和20年代に速水保孝は郷里の出雲と壱岐に限定して1軒1軒の家庭に立ち入って、その家系、富の蓄積過程、狐持とされるに至った時期や経緯について社会経済史の立場から詳細な調査研究を行った。そしてその調査の成果を基にして著書を著した(注25)。このような「憑きもの持ち」迷信については、多くの研究者による民俗学的な調査・研究が行われてきており、その蓄積によって「憑きもの持ち」迷信のメカニズムが次第に明らかにされてきた(→ただしそのメカニズムは諸説あるが)。

調査研究の手法としては、「信仰・観念内容の側面(→憑きものがどのように考えられているか)」からの調査、「行為的側面(→憑かれた者はどのような行動を行い、どのような症状を呈するか)」からの調査、「社会学的側面(→人間関係や社会関係とどのように結びついているか)」からの調査、「心理的側面(→憑きもの信仰は、どのような個々人の感情、性格、パーソナリティと結びつくか)」からの調査がある。関西大学名誉教授の野村昭によれば「狐持ち俗信は憑依現象(=憑依信仰のこと)と社会現象(=社会的偏見のこと)の二面性を持って表れる」と述べている(注26)。

 

しかし「憑きもの持ち」迷信の全てが、「憑依信仰」や「社会的偏見」などの民俗学的な観点から、そのメカニズムが解き明かされるわけではない。「憑きもの持ち」迷信の中には社会学者の田中千代松の指摘(注25)にもある通り、地縛霊などの低級霊による憑依現象も、少数ではあるが存在していたと考えられる。

このように「憑きもの持ち」迷信のメカニズムには数多くの原因が考えられるが、明らかな憑依現象と思われるものを除いた一般的な「憑きもの持ち」現象は、根深い問題をはらんだ典型的な迷信といえるであろう。社会的偏見と村八分的な現象を伴った「憑きもの持ち」迷信は、高度経済成長の波が日本の津々浦々に及ぶようになった1970年代以降には、徐々に消失して克服されてきたように見える(→1970年代は都市化の波が地方にまで及んでいった時期であった。この頃を境にして地域の文化状況が画一化されていったため)。

 

☆生前の観念の継続

ある人が長年慣れ親しんできた“習慣・習性やモノの考え方”というものは、死という関門を通過したからといっても、本人に“霊的自覚”が芽生えてこない限りは、生前と何ら変わらず保持したままであり、その観念が霊の世界において本人の行動様式を縛ることになる。なぜなら霊の世界は思いが現実となる世界だから(→霊界にも昼と夜がある、食事をしなければいけない、眠らなければいけないなどと思っている場合は現実にそのような行動をとる)。これは新参霊が霊の世界に慣れていくための配慮の現れ(=生活の連続性)だからである。

 

日本には古くから蛇や狐・狸等の「動物信仰」があり、また近代では「憑きもの持ち」迷信の蔓延の影響もあって、「動物霊が人間に憑依する」という観念が根強く存在してきた。生前にこのような「動物信仰」や「憑きもの持ち」迷信が盛んな地域で生まれ育って、何の疑問も持たずに「動物霊が人間に憑依する」という観念を信じて生活してきた人は、そのような観念を持ったままの状態で霊界入りすることになる。そしてその霊が“霊的自覚”を持つまでは物事の実相が理解できずに、生前に慣れ親しんだ「動物霊が人間に憑依する」という観念を地上世界に放出し続けることになる。

 

☆「動物霊が人間に憑依する」とは?

このような観念を受信した“霊能者”は、霊界人の観念が作った“動物をイメージした想念霊(→思念が実在となる世界だから)”や、低級霊が動物に変化した姿(変化霊)などを見て、あたかも動物が人間に憑依していると勘違いして、霊視したままの不完全な情景を相談者に述べることがある(→霊視能力の低い霊能者の場合にはこの傾向が特に強いように思える)。

 

日本人の間で日常的に言われている「動物霊が人間に憑依する」という問題の背景には、モノの考え方が極めて物質的な霊が地上時代に慣れ親しんだ観念を、霊界移行後も依然として抱き続けており、それを地上に放出し続けるという霊的な問題が存在する。このような霊が速やかに“霊的自覚”を持つことができるようになれば、霊界側からの「動物霊が人間に憑依する」という観念の放出が止まっていくことになる。さらに今後地上において霊的知識の普及が一層進展していけば、発生源を根本から断つことになるので“支配的な観念”は徐々に薄れていくものと思われる(→例外的に中間境の下層にいる“動物霊”の憑依の事例があるが)。

 

☆師弟関係から派生する問題

上記とは別に霊能者特有の問題として「霊能開発時における師弟関係」から派生する問題が存在する。一般に霊媒体質者は指導者の下で霊能開発を行うことが多いようである。その際に指導者が「動物霊が人間に憑依する」という観念を持っていれば、教えを受ける弟子はたとえ“動物霊(=低級霊の変化霊や想念霊)”の背後に低級霊の姿が垣間見えたとしても、指導者の言葉を覆して自己の主張を述べることには消極的とならざるを得ない。

 

特に指導者が職業霊能者の場合で、“動物霊が相談者に憑依しているので除霊する”と言う形で“仕事”を行っている場合には、弟子は指導者の誤りを正すことは(→動物霊が人間に憑依するのではなく、低級霊が動物霊に姿を変えて相談者に憑依していると述べること)、現実問題としてかなり困難である。なぜなら職業霊能者にとっては「動物霊が人間に憑依する」という観念を悪用し、またはこの観念を脅迫的に用いれば比較的“仕事”が獲得しやすいので、弟子の言葉に素直に従う可能性は低いから。さらに職業霊能者が“動物霊の憑依”を心底信じ切っている場合には、両者の間に感情的なもつれや禍根を残すことにもなりかねないからである。

 

このように「霊能開発時における師弟関係」を通して、「動物霊が人間に憑依する」という観念が代々存続していくことになる。その系統の霊能者の間では、この観念が一般的な“現象”として語られることになる。このような理由から日本特有の「動物信仰」や「憑依信仰」から派生した「動物霊が人間に憑依する」という観念は、時代を超えて根強く残ってきたのではないだろうか。

 

イ)その他の迷信

☆火の玉

民俗学の調査によると、古老の話から昭和30年代頃までは、地方に行けば「狐の嫁入り提灯行列」といわれる現象が良く見られたという。また戦場では一時的に死体を野積みにして放置することが多いことから、この仮置き場からリン光がたびたび出現していたという目撃談も数多く語られている。

自然科学の発達や科学的な知識の普及と相まって、現在では不思議現象についてある程度合理的な説明が可能となってきた。たとえば「狐の嫁入り提灯行列」や、有明海や八代海に見られる「不知火(しらぬい)」などは、「野火や漁火が上昇気流を発生させて、この空気がレンズの役目をはたして映像を映し出している」という説明がされている。

また雨が降った夜の土葬の墓場で良く見られる現象として、リンが燃えて人魂(火の玉現象)のように見える現象がある。この火の玉現象には諸説あるが、現代科学である程度説明がつくという(注27)。

 

☆危険術

明治政府の宗教政策(明治5915日付太政官布達:注28)で山伏(修験者)は「神職、僧侶、還俗のいずれかの選択」を迫られることになった。里山伏の多くは還俗し、そのなかのある者は山伏姿の香具師として、諸国を放浪して「危険術(熱湯入手、火渡り、真剣刃渡り、岩石割り等の香具師の大道芸)」や「加持祈祷」を生業の手段とした。

危険術には「焼け火箸をしごく」「熱湯に手を入れる」「火渡り」「身体に針を立てても痛くない」などの業がある。この中の「熱湯に手を入れる」業とは、香具師が気合いもろとも煮えたぎった湯に素手を入れて、湯の中にある物品を取り出すなどの行為をいう。その際に手に全くやけどを負わないで行うという点が不思議な現象とされる。

 

しかしこの「熱湯に手を入れる」という業は自然法則に基づいた現象であるとして、次のような説明がなされている。香具師は「熱湯入手」を行う場合に、外気温が低い秋から冬にかけて、標高の高い地点を選んで行う場合があるという。なぜなら高所では気圧の関係で沸騰点が高くならないから(沸点は標高が300m上がるごとに1℃下がるという)。さらに手を十分に冷やせば、湯に入れた瞬間は熱さを感じないため、どんな熱湯でも耐えられるからと説明がなされている。

縁日で香具師が観客の前で業を披露する場合には、観客に知られないように直前まで氷やアルコールのようなもので手を十分に冷やしておいて、おもむろに呪文を唱えて熱湯に手を入れる。それを見た観客は、香具師の法力によって火傷を負わずに「熱湯入手」ができたと勘違いするのだという。しかしこれらは自然法則に基づいた物理現象ないし生理現象であって「霊的な不思議現象」ではない。

このようにして縁日における香具師は、生活の糧を得るために「危険術」を集客手段として用いて、集まった人たちを相手に何らかの「本業(売薬、物品販売等)」を行っていた。

 

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― 

<注1>

■大谷宗司著「超心理学の歴史を概観する」:大谷宗司編『超心理の科学』(図書出版社1986年刊)所収、12頁参照。

――日本に於いての研究は、初期、欧米の研究と全く独立に行われていた。すでに19世紀の初め、平田篤胤により心霊的現象の収集・記述が行われている。明治時代に入り、哲学者井上円了は東京大学内に不思議研究会を作り(1886年)、また後に『妖怪学講義』を著し、心霊的現象を含む奇異な現象の収集および科学的説明を行った。その後、心理学者福来友吉は透視および念写の実験を行い、1913年にこれを発表した。後、英文でも報告を出し、彼の業績は広く世界に知られるようになった。このように日本においても、欧米の動勢と関係ないにもかかわらず、同様な動きがあったことは興味深いところである――。

■平田篤胤の「幽冥界」の研究は、大谷宗司が述べているように「欧米の研究とは全く独立に行われた」。1848年に霊界主導で始まった「霊的刷新運動(霊的潮流の本流)」との対比で考えてみれば、篤胤は日本における霊的土壌を活性化させて“霊的潮流の本流”へとつなげていく為の露払い、いわゆる“傍系としての霊的潮流”としての役割を担ったところに先駆性があった。この“傍系としての霊的潮流”は明治末期に“霊的潮流の本流”に合流した。

 

<注2>

■柳田国男監修『民俗学辞典』(民俗学研究所編1951年刊)582頁、587頁、590頁参照。

 

<注3>

■鎌田東二著『平田篤胤の神界フィールドワーク』(作品社2002年刊)28頁~33頁。および相良亨編、日本の名著24『平田篤胤』(中央公論社1972年刊)7頁~10頁参照。

日本の名著24『平田篤胤』8頁によれば「民俗学の大御所が篤胤を民俗学の先駆としている」「篤胤は折口氏の指摘されたように、民間で信じられていた天狗や化け物や神隠しや仙人などに異様なまでの関心を示し、むきになってこれを追求した」「民間の信仰それ自体を対象にした」と記している。

鎌田東二も前著の指摘と同様な表現で、『仙境異聞』に端を発する篤胤の一連の心霊研究ものは、「民俗学の先駆形態であった」と述べている。また篤胤の霊魂観の研究を「神的世界の探求、顕幽両界のしくみ、自己の霊性の認識、篤胤が求めていたのは・・・霊的認識であった」(前著50頁)と記している。その一環として『仙境異聞』や『勝五郎再生記聞』などの心霊研究が位置付けられるのだろう。

さらに鎌田は「心霊研究」と「霊学」を区別して、「心霊研究」とは霊媒や霊能力者を唯一の情報提供者として、「人間の霊魂、生命と死後の世界、この世への誕生の意味、霊魂と他の霊的諸存在(たとえば神、守護神など)との関係など」を調査研究するもの。これに対して「霊学」とは、「それらを思考と瞑想ないし行法とによって認識しようとするもの」で「“行”的な学問のこと」であると述べる。このように「国学」「民俗学」「心霊研究」を位置付ければ、国学者の平田篤胤の先駆性が浮かび上がってくる。

 

<注4>

■平田篤胤の「幽世(かくりょ)における死後の安らぎと祖霊崇拝の強調」は、国学者の大国隆正は切り捨てたが、民俗学者の折口信夫や柳田国男によって引き継がれた。この線上に民俗学が開花した。

■『柳田国男事典』(勉誠出版1998年刊)397頁~398頁参照。

――柳田国男は、新国学の名称を名のる時期があった。明らかに江戸時代の国学を意識している。これは柳田の民俗神道観を確立した体系的な思想である。具体的には第二次大戦後の『先祖の話』をベースにした展開であるが、宣長が日本の古代を言葉によって再現するという方法を考えていた点と共通する――

■『柳田国男事典』(勉誠出版1998年刊)573頁参照。

――共同体の信仰に関する柳田国男の考察は、祖霊信仰論展開期にあたる昭和20年代に、祖霊信仰論の枠組みに包摂され「新国学」として展開されていく。そこで柳田が提示したのは、周知のごとく、家を単位とした祖霊信仰を軸とする、同族神や家郷社会の氏神など、より大きな単位の共同体で祀られる神々の統合的な理解であった――

■桜井徳太郎著『日本民俗宗教論』(春秋社1982年刊)163頁によれば、「柳田の和歌の師である松浦萩坪は幕末の神道家平田篤胤の信奉者で、平田の幽冥観に強い影響を受けていた」「しかし柳田は平田の幽冥道に全幅の信を寄せていたわけではない」とある。これに対して、後藤総一郎監修『柳田国男伝』(三一書房1988年刊)187頁では、「松浦の幽冥観は、平田篤胤のそれとも結びついて、柳田の心を強く揺さぶった」とある。

柳田国男は明治24年(1891年)6月に、井上通泰の紹介で松浦辰男(=松浦萩坪:1843年→1908年)に入門している(後藤総一郎監修『柳田国男伝』185頁~193頁参照)。

 

<注5>

■鎌田東二著『平田篤胤の神界フィールドワーク』(作品社2002年刊)28頁参照。

鎌田東二は篤胤の心霊研究ものが、民俗学の先駆形態であったとして、国学が母体となって民俗学と心霊研究は始まったと述べている。

――『仙境異聞』に端を発する篤胤の一連の心霊研究ものが民俗学の先駆形態であったことは、近代の人文科学に与えた影響としてその功績を見逃すことは出来ない――

 

<注6>

■宣長は死者の赴く世界を「黄泉の国(よみのくに)」としたが、篤胤は「幽冥」または「幽界」と改めた。田原嗣郎著『平田篤胤』(吉川弘文館1986年刊)115頁参照。

『霊の真柱』(岩波文庫1998年刊)113頁、114頁、115頁他では「幽冥」と記している。

 

<注7>

和歌森太郎著『山伏』(中公新書1999年刊、復刻版)11頁参照。

和歌森は宗教界が優位に立っていた社会では、山伏は高慢で、うぬぼれる傾向があったと言う。「増上慢に陥った者を、天狗道に陥った者と批評することが一般的に行われた」と。このように増上慢に陥った者を「天狗に憑かれた者」と見る風潮が背景にあるのであろう。

 

<注8>

■平田篤胤著、子安宣邦校注『仙境異聞、勝五郎再生記聞』(岩波文庫2000年刊)410頁参照。

 

<注9>

■平田篤胤著、子安宣邦校注『仙境異聞、勝五郎再生記聞』(岩波文庫2000年刊)解説参照。『柳田国男事典』(勉誠出版1998年)398頁の記載によれば、篤胤は関東平野の周辺部の山々に住む山人の世界を「隠り世」と考えていたようだ。

――篤胤は、江戸という都市社会に住み、現実とは異なる他界すなわち幽冥界の存在を「隠り世」とした。その隠り世からこちらの世界にやってくる異人があり、具体的には関東平野の周縁部の筑波山中に住む修験者である。彼らは山民であって、時々江戸に出現する。篤胤は、江戸に出てくる山伏たちの住む異界を想像していて、山伏に連れ去られた少年たちの体験談を聞き書きするという作業を行っている。また聞き書きする際、篤胤一人で話者から聞き出すのではなく、数人の同学の士を立会人にして、一定の質問項目を立てて、客観的に資料化しようとした――

 

<注10

■財団法人民俗学研究所編『民俗学辞典』(東京堂出版1951年刊)192頁下段参照。

 

<注11

江馬務著『日本妖怪変化史』(中公文庫2004年刊、改定版)19頁~20頁参照。

――欽明天皇13年に公式に仏教が伝来して、初めてわが国の思想界が一転し、来世・輪廻転生・因果応報の思想が明瞭になってきた。妖怪変化は奈良朝末葉までに充分に後世の基礎を形成されている」。「舒明天皇(在位629年→641年)92月に、大星が東から西へ流れ、音は雷に似ていた。時人は流星とか地雷とかいったが、時の有識者僧旻僧(そうみんぼうし)は天狗であるといっている。――として、日本書紀に天狗という語句が見られると記している。

 

<注12

和歌森太郎著『山伏』(中公新書1999年刊、復刻版)12頁参照。

 

<注13

宮田登著『霊魂の民俗学』(洋泉社MC新書2007年刊)177頁参照。

財団法人民俗学研究所編『民俗学辞典』(東京堂出版1951年刊)では「子供が山に入って天狗と問答する類の趣向は、顕幽の境を往来する神隠しの現象とも関係する」(99頁)。さらに「山だけに住んだ実在の特殊な人間を、里の人が誤認した経験も天狗談には含まれている」(389頁)と記している。

 

<注14

■田中千代松著『第四の世界』(講談社1960年刊)92頁参照。田中千代松は憑依現象説をとっている。

――篤胤の多数の著書のうち、直接に心霊現象に関係を持って書かれているものは数種ある。しかし『鬼神新論』や『古今妖魅考』はその書題の通り論考であった。『仙境異聞』や『勝五郎再生記聞』となると、聞き書きであり調査記録である。さすがに篤胤も時代の制約を超えることはできず、科学的な心霊研究を知らなかったから、はっきり判定できなかったようであるが、これらは結局、憑依現象の記録と見なすことができるようである。――

■田中千代松著『霊の世界』(日本心霊科学協会1978年刊)145頁~149頁において、寅吉少年の“不思議な能力”の事例が数例ほど紹介されている。

 

<注15

■宮澤虎雄著「心霊の常識(23)」:日本心霊科学協会機関誌『心霊研究』19646月号所収、26頁参照。

 

<注16

■平川祐弘監修『小泉八雲事典』(恒文社2000年刊)583頁参照。

 

<注17

■勝五郎研究グループ著「勝五郎再生の実地調査」:日本心霊科学協会機関誌『心霊研究』196811月号、19691月号および2月号参照。

■『日本霊異記』中巻25話(平凡社ライブラリー『日本霊異記』166頁~)に、閻魔大王の使いの者が本来死すべき人(A女)から供応を受けたため、別の人(B女)を連れてきた。しかし大王から誤りを指摘されたため、再び地上に戻って本来の死ぬべき人(A女)を連れてきた。誤って連れてこられたB女は地上に戻り生前の肉体を探したが、自分の肉体はすでに火葬にされており、戻るべき肉体がない。そこで大王の指示でA女の肉体を借りて生き返った(魂はB女)。生き返ったB女(肉体はA女)はA女の両親に「ここは我が家でない。我が家は鵜垂郡にあります」と言った。そこで本来の鵜垂郡に行って、不思議がるB女の両親に閻魔大王の話をして、蘇生によって肉体B女からA女に入れ替わったが、魂はB女のままであることを信じてもらった。という話が載っている。

話の筋は「勝五郎の再生話」と同じである。このように肉体の入れ替わりという話は日本には古くからあった。

 

<注18

イアン・スティーヴンソン著、笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち』(日本教文社1990年刊)、『前世を記憶する子どもたち 2』(日本教文社2005年刊)が出版されている。

この書の中で紹介された「前世を記憶する子供」には「非業の死」を遂げた者がいる。一般には非業の死を遂げた者は地縛霊となるケースが多い。本書では「前世を記憶する子供」として紹介されているが「霊的親和性と憑依霊との関係」から見るとどうなるのだろうか。

 

<注19

三浦清宏著『近代スピリチュアリズムの歴史』(講談社2008年刊)260頁参照。

 

<注20

■小泉八雲著「狐」:『神々の国の首都』(講談社学術文庫1990年刊)所収、264頁~266頁参照。

 

<注21

■キャメロン・マクワーター、オウエン・フィンセン共編、高橋経訳『怪談以前の怪談――ラフカディオ・ハーン記者時代の原稿選集』(同時代社2004年刊)の「ラフカディオ・ハーンの生涯」(1頁~16頁)参照。

■小泉凡著『民俗学者小泉八雲』(恒文社1995年刊)31頁参照。なお著者の小泉凡は小泉八雲の曾孫である。

――アメリカ民俗学会のマクネイルは、1977年(昭和52年)に、「Lafcadio Hearn American Folklorist(アメリカの民俗学者ラフカディオ・ハーン)」を発表し、ハーンのアメリカ時代の民俗学的業績について整理している――

■井上円了とハーンは同じ妖怪研究でも方向性が異なっていた。

――(井上円了と小泉八雲の違いは)妖怪や迷信に関心を示し、資料を蒐集したという点については同様であったが、円了の妖怪研究とハーンのそれとは、その目的において、まるで異なっていた。・・・妖怪を手掛かりに、過去の心意を探ろうとする意図において、ハーンにおける妖怪研究と日本民俗学における妖怪研究の接点があり、またそれは妖怪や迷信排除を目的とした円了の妖怪研究と根本的に相容れぬ点だった(『民俗学者小泉八雲』181頁~182頁)――

 

<注22

■田部隆次著『小泉八雲』(北星堂1980年刊:第4版)97頁~104頁参照。

次の記述からハーンの異人種や異国文化に対する障壁の低さが読み取れる。

――外人の多くは自国の風俗習慣を貴ぶと同時に日本人を未開劣等の人種と見るのが普通であった。日本の事物を貶して二言目には「英国では」「アメリカでは」と反覆するをつねとした。・・・人種的国家的宗教的偏見の微塵もないヘルン(=ハーン)が出雲の学生に如何に見られたか。・・・珍しくも今度の西洋人は日本が好きだ。日本人自らがつまらぬと思っている物までも好むようだと言う声が、学生から父兄へ、学校から市中へ伝わった。松江の人は不思議に思った。感嘆した。――

■ラフカディオ・ハーンに関心を持つ者は必ず手にするという伝記『小泉八雲』(初版は、大正34月に早稲田大学出版部から刊行された)は、当初は浅野和三郎と同じ教室でハーンから教えを受けた内ケ崎作三郎(1877年→1947年)が執筆の準備をしていた(前著所収、内ケ崎作三郎著『小泉八雲先生を懐ふ』参照)。しかし内ケ崎は明治41年に突如として英国留学が決定したため、その作業を同じハーンから教えを受けた田部隆次(1875年→1957年)に託した。田部は内ケ崎から各種資料等を引き継いで大正3年に『小泉八雲』を完成させた、このような経緯を持って生まれた伝記である。

 

<注23

■民俗学研究所編『民俗学辞典』(東京堂出版1951年刊)329頁以下参照。「俗信の研究」は民俗学の分野である。民俗学では俗信の定義を次のように述べている。

――俗信とは主として古代の信仰および呪術が、宗教にまで高められることなく民間に退化しつつ残存したもの、また宗教の下部的要素が民間に脱落し、退化沈潜した広義の信仰慣行で、一つ一つは断片として存在し、組織を成さない雑然たる呪術宗教的な心意現象である。その中心は前兆予知・卜占・禁忌・呪法であり、これにまつわる諺(ことわざ)・唱えごと・民間療法、また妖怪変化や幽霊なども含まれる――。

■迷信との違いは「俗信のうちには、現在の科学知識から見て不合理なものが多いが、それらのうちには社会に甚だしい実害を及ぼすものがあり、これだけを我々は迷信と呼んでいる」(前著)として俗信から切り離して迷信として区別する。俗信に主に携わる者として「古くから聖職者・呪術者・ヒジリの徒が関与した部分が多い」(前著)とされる。

 

<注24

■石塚尊俊著『日本の憑きもの』(未来社1999年刊、復刻版)44頁参照。

 

<注25

■速水保孝著『憑きもの持ち迷信』(明石書店1999年刊、改訂版)。

速水保孝は「私は狐持ちの家筋に生まれた」と自ら明かして、「憑きもの持ち」迷信を歴史的に考察した著書を著した。速水保孝の主張を前著に沿ってまとめる。

この迷信の成立時期は江戸中期以降であるという。この時期、封建農村に浸透してきた商品経済の波に乗って、移住してきた商業資本家や富裕なる農民たちが、高利貸兼新興地主となって、村の支配権を握り、旧来の農村体制を動揺させた。これらの新来者に対して、土地を奪われた土着の農民と、権力を失った土豪たちは反感と嫉妬とを抱いた。彼らは陰陽師や弘法大師信者、修験者、神社の神主、寺の坊さんなどの祈祷師を媒介として、狐持ち、犬神持ち、蛇持ち、外道持ちと言った迷信を作った。さらに狐を落とすと称した無責任な行動がますます問題を大きくし、かえって俗信を拡大させる結果となったという。

■石塚尊俊著「憑きものと社会」:『憑きもの』日本民俗文化資料集成7巻(三一書房1990年刊)所収、25頁参照。

全国的な広がりを持つ「憑きもの持ち」迷信には二つの系統があるという。一つは迷信が蔓延っている地方では主に「速水保孝氏の社会経済史的な観点」の筋、稀な地方では「特殊行者の道統を継承」する筋であるという。

古来日本には、狐・狸・蛇といった動物を、何か霊妙な、人に知り得ぬ力を備えたもの、予兆力を具有する霊妙なものと思う傾向が強かった。神の使いや神として祭る気風があった。このことから速水保孝の社会経済史的な観点以外に、次のような系統があったと石塚尊俊は述べる。「大陸からある種の俗信が入った。ところがこの方(俗信)は特定の術者によるものであっただけに、ときにこれを悪用し、人を脅迫するような者も出てきた。そこでその種の行者は人にうとまれ、恐れられ、やがて為政者によって弾圧されることもしばしばあった。おそらくそうした特殊行者の道統を継承する者」が少数ながら残った。これが今日見る稀少地帯における憑きもの筋であると。

■田中千代松著『霊の世界』(日本心霊科学協会1978年刊)55頁~61頁参照。

速水保孝著『憑きもの持ち迷信』について、社会学者の田中千代松は「憑きもの持ちの社会経済史的研究は、いまだにはびこる迷信打破のためにも絶対に必要なことで、著者の勇気ある態度と努力に深く敬意をいたすものであるが、史的唯物論による方法だけでは、なお明らかにされない大きな部分が残るであろう」と述べる。そして速水の「狐持ちの迷信は、よからぬ寺社や山伏たちが祈祷料欲しさに、全くでたらめな思い付きから、言い出したもののように思われる」という箇所については、「突っ込みの弱い、通り一遍の説明で片づけられてよい現象であったのであろうか」と問題を提起した。

田中は「憑きもの持ちの社会経済史的研究は、民俗学に資料を仰ぐ一方に、心霊科学の知識をも充分に援用したとき、はじめて徹底したものになり得る」と述べている。

 

<注26

■野村昭著『俗信の社会心理』(勁草書房1989年刊)244頁参照。

 

<注27

■宮田登著『霊魂の民俗学』(洋泉社MC新書2007年刊)208頁参照。

宮田によれば「動植物の死体が腐ってくると・・・土の中や水中でガスが発生して、それが空中に出てくると酸素と化合して燐光を放つのである」。このリン光を発するガスは防腐剤や分析試薬に利用される「ピロガロールという光を放つガス」のことであるという。ピロガロールは水酸化ナトリウムおよび炭酸カリウムの水溶液とホルムアルデシドとを混合すると、一瞬赤い発光が起きることが証明されているという。

 

<注28

■山折哲雄監修『日本宗教史年表』(河出書房新社2004年刊)460頁では「(明治5915日)修験道が廃止され、本山派・当山派・羽黒派などを天台宗・真言宗の二宗へ所属させる<太政官布告>」とある。

■『縮刷版、日本宗教事典』(弘文堂1994年刊)456頁以下では「明治元年、政府の神仏分離令で両部習合の修験道は大きな打撃を受け、明治511月には太政官布達を以て修験道は一旦停止され、本山派は天台宗に分属し、園城寺派管長の支配となった」とある。

 

 

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