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浅野和三郎系の物理霊媒

①.霊媒の系統

■ここでは昭和4年から昭和20年代にかけて活躍した主な「浅野和三郎系の物理霊媒」を取り上げる。書籍の中で取り上げられた箇所を引用する形式で見ていく。

 

■日本では物理実験が可能な霊媒は、主に三つの系統に分かれて出現している。

まず長南年恵に代表されるように信仰集団の枠内で囲われていて科学的研究に応えられなかった霊媒グループがある。次に福来友吉の透視や念写の実験に協力した「御船千鶴子、長尾郁子、森竹鉄子、高橋貞子、武内天真、渡辺偉哉、三田光一」などの“福来友吉系の霊媒”グループ。最後に「亀井三郎、本吉嶺山、津田江山、北村栄延、萩原真、竹内満朋」などの“浅野和三郎系の霊媒”グループ。このように三つに分類できる。

 

■日本には亀井三郎が出現する以前にも物理的心霊現象を起こせる霊媒はいた。しかし長南年恵に代表されるような「信仰グループの中に取り込まれた霊能者」の場合には、信仰グループに特有の「信者の取り巻き」が壁となって、科学的な立場からの研究の実施を阻んでいた。浅野がISF大会から帰国した後は、物理実験に協力して一定水準の成果を出せる物理霊媒が次々に現れて、昭和4年頃から昭和20年代にかけて日本においても物理的心霊現象の実験会が盛んに行われた。この期間の“浅野和三郎系の霊媒”が行った心霊実験の記録は、日本における「スピリチュアリズム普及」と「心霊現象研究の理論構成」に多大な貢献をなした。

 

②.亀井三郎

■浅野と亀井三郎(1902年?→1968年、本名:松森俊雄)との出会いによって、日本における心霊研究は大きく進展した。亀井は日本の霊媒の中で「最高の物理霊媒」と言われたが、人間関係や金銭面では問題があった人物らしい。浅野は亀井たちの物理霊媒の協力を得て、西洋で起こった心霊現象が日本の霊媒によっても再現できることを証明した。

 

■浅野和三郎著『心霊読本』(心霊科学研究会出版部1937年刊)165頁~170頁参照。宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(18)」:雑誌『心霊研究』19758月号所収参照。

浅野が帰国した翌年の5月に亀井は浅野の自宅を訪れた。亀井は浅野に「あなたが西洋で実験された霊媒現象中、少なくともその一部分は、私にもできるように思われますが、今晩一つ実験していただけませんか」と単刀直入に切り出したという。

さらに浅野は亀井との出会いを次のように記している。「私が欧米の心霊行脚から戻ったのは昭和3年の年末であったが、妙なもので日本に初めて真正の意味の物理的心霊現象の作成に堪え得る一人の霊媒が出現したのは、実にその翌年の春からでありました。人間の方では気が付かないが、暗黙の裡に何らかの機縁が結ばれているのかもしれません。とにかく単なる偶発事件と考えるには話が少しうますぎるようです。その出現した霊媒というのは外でもない、亀井三郎という青年でした」。

 

■浅野の“福来系の霊媒”に対する視線は厳しい。「これ等は何れも信仰的儀禮と関連しており、厳密なる統制下において、実験室内で起こる現象ではないから、学術的にはさして価値がありとは言われず、若しもこの種の能力者にかかわり合えば、却って群疑の焦点となるくらいなものであります」と述べている。浅野は“福来系の霊媒”は「学問的価値なし」として、亀井三郎につき「日本最初の物理的霊媒」と名付けた。正確に言えば「日本最初の物理的霊媒」は亀井三郎ではない。ここに浅野の“福来系の霊媒”に対する偏見が見える(→この点に「人間・浅野」の限界が感じられる)。

 

■宮澤虎雄著「浅野さんと心霊研究と私」:『心霊研究』昭和264月号所収。

宮澤は「奮起したのは亀井三郎氏であった。昭和4年代官山の同氏のアパートを浅野さんに伴われて粕川さんと私とがお訪ねし、カビネットの代わりに蚊帳を釣り、私が蓄音機をかけ浅野さんの司会で実験に取りかかった。やがてベルが見事に鳴りながら動き回った日本最初の物理的心霊現象の発現は忘れがたい感激であった」と記している。

 

■亀井三郎は日本の霊媒の中で「最高の物理霊媒」と言われたが、人間関係や金銭面では問題があった人物らしい。亀井は浅野和三郎とコンビを組んで各地で実験会を行なったが、昭和5年末ごろに浅野と別れた。一説によると心霊科学研究会と亀井との間でトラブル(小田秀人によれば、浅野との感情の行き違い)があったからという。

 

■小田秀人著『超心霊学入門』(池田書店1973年刊)では、「浅野和三郎氏の主宰する東京心霊科学協会の一室で、霊媒亀井三郎氏の交霊会に列席して、はじめて物理的心霊現象を実見しました。その後、私は同士と共に菊花会を組織し、たびたび会員を集めて交霊会を開催しました」(前著50頁)とある。

 

■小田秀人著「物理霊媒、亀井三郎の思い出」:雑誌『心霊研究』昭和44年(1969年) 2月号及び3月号所収。ここに「私(小田)が昭和5年の秋初めて待望の物理現象の実験会に出席を許された」とある。

 

■小田秀人著『四次元の不思議』(潮文社1971年刊)63頁~64頁に「昭和5年の113日新宿西大久保の中野氏邸においてであった。仲間としては中野一家の外に、大嶋豊氏や芹沢光治氏などがいた。会の名称は、当日が文化の日、菊の佳節だったので・・・経済的には大本の二代目教主補出口日出麿氏が適時ピンチを救ってくれた。時々相談に行くと、神前に供えてあった玉串料の紙包みを一握り、中も調べずに『当分何とかやって下さい』といって渡してくれたりした」と記されている。

 

■小田秀人著「物理霊媒、亀井三郎の思い出」:雑誌『心霊研究』昭和44年(1969年) 2月号及び3月号所収。小田秀人著『生命の原点に還れ』(たま出版1985年刊)79頁参照。

小田秀人の「物理現象霊媒―亀井三郎氏の思い出」の中に興味深い記事が載っている。関西の安藤弘平(大阪大学教授:工博)から小田に電話があり「亀井さんが危ない。奥さんも戸惑っている。亀井さんの本名は何といい、本籍地はどこなのか、(亀井の奥さんから)聞き合わせがあったが、知っていれば知らせて欲しい」との連絡を受けた。十何年連れ添った亀井の奥さんも本名と本籍地(→死亡届けを出すために必要)を知らなかったという。小田も知らないので友人の岡重英から聞いて、始めて亀井三郎の本名(松森俊雄または敏雄)と本籍地が分かったという。その数日後の昭和43年(1968年)1130日に亀井は「脳充血」により逝去した。小田は「経済的に急迫していた」亀井の奥さんに見舞金を送ったという。匿名の人生を生きてきた亀井の晩年は恵まれた生活ではなかったようである。

 

■小田秀人は亀井の生前の人となりを多くの著書の中で詳細に語っているが、特に昭和13年の飯田橋大神宮で行われた補永茂助(ほながしげすけ:1881年→1932年、文学博士)の交霊会では、亀井の性格が良く表れていて興味深い。

この交霊会で「困ったことに肝心の亀井霊媒が待てど暮らせど顔を見せない、念のため(小田は)内山女史に様子を聞くと、ここ数回の謝礼金を渡していないとのこと」。小田は参加者を待たせたまま至急金策に走り回り、200円(→昭和42年当時の貨幣価値で換算すると10万円位)を工面して、このお金を持って亀井の自宅に直行して連れてきた。しかしその日の交霊会は不首尾であったという。

 

■さらに小田は「かつての名霊媒亀井三郎こと松森敏雄(→原文表記のまま。俊雄?)君は、一面ダンスの上手なパリパリの近代的プレイボーイだった。霊媒業でガメツク手に入れた金は湯水のように気前よくはたいたものだ」と述べている。亀井は一時期「高野二郎」と名乗り新宿のムーラン・ルージュの歌手と浮名を流したという。

さらに「(昭和27年ごろ)新日本窒素でまた亀井交霊会を始めることになった。なにしろスポンサーが大きいので亀井君も大乗り気であった。しかし余り調子に乗りすぎて一回ごとに謝礼金を値上げするので、私もいささかウンザリした」と。

 

■雑誌『心霊研究』昭和44年(1969年)1月号に「亀井三郎氏死去」の記事(48頁)が載っている。これによれば「霊能者として過去の物理実験について有名であった通称亀井三郎氏(又は泉氏)は、薬石の効なく去る1130日枚方市の協立病院にて脳充血のため死去されました。葬儀は121日午後3時から守口市の乗雲寺にて同友の集まりの下でしめやかにおこなわれました」との記載がある。

 

■主に次の著書を参照した。

小田秀人著『四次元の不思議』(潮文社1971年刊)。小田秀人著『超心理学入門』池田書店1973年、50頁以下。雑誌『心霊研究』1978年:昭和5310月号。雑誌『心霊研究』1969年:昭和441月号、2月号、3月号。小田秀人著『生命の原点に還れ』(たま出版1985年刊)参照。

 

③.本吉嶺山

■略歴

本吉嶺山(1883年→1958年)は千葉県 東村 (現在:いすみ市?) で生まれた。青年の頃は鰹節問屋の店員、電気工夫、その後、日露戦争で機銃弾によって足を負傷して片足を失い、帰還した後はモーターの修繕販売を行った。実直さが買われて各商店からの発注が殺到して仕事が忙しくなったが、同業者からの反感を買ってしまった。 友人の勧めで本吉は大正2年6月30歳)に埼玉県蕨の梅ノ木稲荷に参拝した。参拝中に「峯姫(江戸時代の女性の霊)」が本吉に憑依して霊能が開花した。その後、37ヶ月にわたって御嶽山に籠り、山岳修行を行うことによって本吉の霊的能力が一層発達した。一時期千葉県の大原に居住していたが、その際に漁師の依頼で魚群を透視して漁場の所在を指示したことがある。このことから本吉は漁師たちから生神のように扱われた。

その頃、本吉は物理的心霊現象を起こすことが出来る霊能者を探していた浅野の目に留まり、東京心霊科学協会の専属霊媒(昭和6年頃)となった。同時期、本吉の支配霊が「峯姫」から「天空(1829年に没した水戸藩の朝倉平右衛門霊)」に代わって、昭和9年頃から物品引き寄せ現象等の物理的心霊現象を多発するようになった。物品引き寄せ現象の他に縄縛り現象、縄抜き現象、襦袢抜き現象、霊視能力なども発揮した(宇佐美景堂著『霊媒・本吉嶺山』参照)。

本吉嶺山の支配霊は「峯姫」から「天空」に代わったが、浅野和三郎はこの支配霊(司配霊)について、「守護霊の統制の下にある特殊な任務を分担している補助霊」であり「欧米の心霊家は普通これをコントロールまたはガイド」と述べている。

 

■宮澤虎雄著「本吉嶺山翁について」:雑誌『心霊研究』昭和345月号所収。

宮澤虎雄は「本吉嶺山翁の霊能は30歳頃から他界の日まで、約半世紀にわたり其の能力が衰えなかったことは珍しい例である。嶺山氏は朴直で飾り気がなく常に自分は霊から使われるものであることを理解され、素直に霊の指導に精進されたことは日本には少ない例のように思われる・・・日本では一寸した霊能者が新興宗教の教祖として祭り上げられる。教祖に祭り上げられると其の霊能が衰えていく例が多く見られる。これから見ると嶺山氏の心掛けは立派なものである」と述べている。

宗教者の宇佐美景堂も「翁は是を(物理的心霊現象等)すべて霊界の指示であるとして、日常の生活に至るまで一切を神示警告に従い、いやしくも霊能をして生活の資に利用するが如きことなく、黙々と今日に及んでいる・・・教会を建設することは神意にもとるとして許さず、後援会を結成しようとすれば、神意に非ずとしてこれまた拒絶し」(宇佐美景堂著『霊媒・本吉嶺山』参照)と述べて、「現代稀に見る人物である」として賞賛している。霊媒業で稼いだ金を湯水のごとく享楽に使い果たした亀井と比較すると、本吉の生き方は対照的であり大きな違いがある。

 

■心霊写真展覧会事件

昭和15年秋に華族会館で行った間部子爵の心霊写真展は、当局の目に留まり弾圧事件となり本吉も逮捕拘留された。釈放後、本吉は終戦まで特高警察の監視の下にあったという。

晩年は名古屋の宇佐美景堂とともに「宗教的救済活動」を行なった。

 

④.津田江山

■略歴

津田江山(1902年→1991年)は明治351114日福井市宝永中町13番地で生まれたが、8歳の時に父を、15歳の時に母を失った。13歳で小学校を卒業後、大阪の堺に奉公に出た。津田の兄弟は病気や福井地震(1948年)で全員亡くなっている。

津田は昭和3年に大阪心霊科学協会理事長の間部詮信(まなべあきのぶ)を訪ねて、心霊研究の道に入った。津田は物品浮揚、アポーツ、物質化現象、襦袢抜き現象、直接書記現象等で知られた著名な物理霊媒である。彼の物理的心霊現象の支配霊は八斗霊(愛宕の天狗霊)であるという。

津田と浅野の繋がりは、昭和8年に第1回心霊講習会(大阪、諏訪の森)を開催した時に津田が聴講生として受講していたことに始まる。津田は最初浅野の指導を受け、のちに間部大阪心霊科学協会理事長の指導を受けた。

 

⑤.北村栄延

■略歴

北村栄延(1905年?→1941年)は高知県出身の物理霊媒。三重県津市の高等農林で学んだが、少年時代から霊視能力が発達して手紙を開封しないまま内容をあてるなど周囲を驚かせたという。透視の他に縄抜け、襦袢抜き、直接談話現象、テーブル浮揚現象、物体貫通、物品引き寄せ等、能力は多彩であった。昭和73月、高知支部長の高木莠は、北村栄延に精神統一の実修を12回行うと苦もなく透視・縄抜き等を行ったので、その旨を東京の浅野に報告した。浅野は、同年4月下旬に高知に出向き、北村に面会したという。

 

■浅野和三郎著『心霊読本』(185頁)の記載

昭和10625日大阪市東区の長谷川弥三郎邸において、四十数名が参加して心霊講話会が催された。その際に北村の透視実験が行われた。その模様は次のような状況であった。

――浅野氏は有り合わせのマッチ箱の透視を試みることになり、手当たり次第にその中の一個を選び北村氏の面前に置いた。“この中にマッチが何本入っているか”、北村氏は早速半意識の軽い入神状態に入り、両眼を閉じて、徐に首を左右に動かして、マッチ箱の中をさぐるといった様子をしていたが・・・“どうもおかしい、54本のようでもあり、55本のようでもある・・どっちだかよく分かりません。まあ致し方ないから54本ということにしましょう”といって目を開けた。

来会者の一人が早速マッチを丸盆の上にあけて、12本と勘定にかかった。他の人たちは半ば疑いの目を光らせながら熱心に注視していたが、いよいよ最後まで数え挙げると総計54本であることがわかった。ただしそれは燐で付着している2本を1本と数えての計算で、軸頭を引きはなせば55本なのであった。つまり54本といっても55本といってもどちらも正しいわけで、北村氏は迷いはしたのも正にその点にあった――。

 

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道――私と心霊研究18」:雑誌『心霊研究』昭和508月所収。

昭和11425日に大阪で心霊科学協会の総会が開催された。その時の金属貫通現象は正に特異的なものであったという。この日、宮澤虎雄は舞鶴の海軍機関学校の午前の授業を済ませると、列車を後継いで大阪の間部詮信(大阪心霊科学協会理事長)邸に向かった。宮澤が到着した時には、総会が始まる前であり、間部、浅野、北村が応接室で雑談をしていた。この時北村は「コヨリで銅貨が貫けないかしら」と独り言を言って、一銭銅貨を突つき始めたら銅貨にほんの僅かに窪みができた。この調子なら、ということで次に竹柄杓をつつくと、その箇所が一寸黒く焼けていた。それに気が付いた浅野がコヨリをきちんとよって北村に渡したところ、一銭銅貨に穴をあけて貫通させてしまった。つづいて二度目には、一寸暗いところへ場所を移し、すぐに50銭銀貨にコヨリを通したという。

 

⑥.萩原真

■小田秀人著『超心霊学入門』(池田書店1973年刊)70頁参照。

萩原真(1910年→1981年)は物品移動現象、直接談話現象で知られている。

小田秀人と萩原真との出会いは「(昭和7年に)満州から優秀な巫式霊媒内山若枝女史が、同志数名と伴に満州神社創建の使命を帯びて上京しました。この一行の中に斎藤義暢君という青年がいましたが、そののち大連で物理現象能力を発揮しました」。この斎藤青年が後の萩原真である。昭和22年~24年頃にかけて雑誌『心霊研究』に萩原真の心霊実験会の記事がたびたび載っている。

 

■塩谷勉著『霊は生きている』(地球社1989年刊)245頁~249頁参照。

著者の塩谷勉は九州大学教授や日本心霊科学協会理事長を歴任して1998年に死去、塩谷信男は兄にあたる。

萩原真は昭和22年頃に医学博士の塩谷信男とともに「千鳥会」を作って、実験会や交霊会を盛んに行なった。昭和24年「宗教法人、千鳥会」となり、昭和27年に「真の道」(まことのみち)と改称した。宗教法人となって会の性格・内容・方針が大きく変わった。

千鳥会は当初、塩谷信男が審神者となり、萩原真が霊媒、必要に応じて信男の妻の松枝等も霊媒を勤めたという。出現する霊は、大峯山霊のほか、佐々霊(源義経の家臣の霊)、梶光之霊(萩原霊媒の親友、昭和9年帰幽霊)等であった。交霊会の模様は「必要に応じて、亡くなった方の物質化象が現れるなど物理現象もあった。政古霊(まさもと:幼くして逝った塩谷信男の次男)の霊の入った人形があざやかな直接書記を披露した・・・中心になった交霊会は大峯霊(大峯山開山の役小角の高弟)等の諸霊の直接談話の形で多く進められた」。

千鳥会は宗教法人となって、交霊会は「降神ユニワ」、霊媒者は「神伝人」などに用語が変化し、萩原真は「瑞道」に塩谷信男は「真和」と変わり、さらに信男の自宅は「奥宮」、信者の家は「〇〇呂」となった。会の性格や内容等が変化していくに従って、塩谷信男は昭和294月号の『真の道』に載せた「天命」を最後に会から離れたという。

 

⑦.竹内満朋

■小田秀人著『生命の原点に還れ』(たま出版1985年刊)60頁~参照。

竹内満朋(1912年→1991年)は新潟県(高田)出身で本名は本名栄一。戦後に森永製菓を退職した後、弁理士をしながら物理霊能者(→「最後の物理霊媒」といわれている)として活躍した。

竹内は昭和6年頃、東京心霊科学協会で浅野和三郎の指導を受けて、その後は小田秀人のもとで心霊の勉強や修行をした。小田は「そのうちに森永製菓の本社に勤めていた竹内栄一青年と知り合いになり、その霊能的素質を伸ばしたいと思って、度々降霊会に列席させ、西荻窪の自宅に毎週1回呼んで練習会を開いた」と記している。竹内の生涯は、度重なるマスコミの誘いも断り、新興宗教の教祖にもならず、平成3年に清貧の生涯を終えたという。

 

■北村熊雄著「母と私の心霊体験」:『創立五十周年記念特集』財団法人日本心霊科学協会2000年刊、参照。

北村熊雄によれば、「竹内さんは大正元年生まれ、立派な体格の持ち主で好男子だった。言語明朗なはきはきした紳士だった。竹内さんは酒を嗜み、また諸事に造詣の深い人であったので、初めは酒問屋の若旦那かと想像していた。ところが、大学で法律を学び、職業は弁理士だった。若い頃からなぜか霊能があり、心霊研究家の小田秀人さんを師として霊能開発に努めた。竹内さんの特色はあくまで本業の弁理士が主体で、亡くなる前に永年業界(→弁理士業界)に尽くした功績が認められて藍綬褒章をもらわれた。霊能力の発揮による物理実験や心霊相談は副業のアルバイトであるとはっきり区別していた。従って報酬などは考えず、心霊思想の普及、啓蒙を主眼としていた」。竹内満朋の人柄がよくわかる。

 

■昭和20年代の実験会

竹内は昭和20年代の東京心霊相談所の実験会で、たびたび直接談話現象を行なった。実験会の模様は、「相談所の実験室内のキャビネットの中に座した竹内の前面に二つのメガホン、小型懐中電灯が置かれてある。しばらく蓄音機が回った後に、電燈が軽く動いて開会の合図があり、竹内の直接談話現象が始まる。それから一人ずつ順次依頼者の背後霊が発声して問答していく」という。昭和25年以降は、支配霊のロームからの直接談話形式による会員教化を目的とした紫光会を結成して活躍した。

 

■『心霊現象を知る事典』163頁参照

雑誌『知性』の創刊号(河出書房の月刊誌:昭和298月)に記事を掲載するため、雑誌記者が竹内満朋霊媒の会に参加した。その記者は交霊会の真最中(メガホンが飛び、人形や机などが次々に空中に浮かび上がった時)に絶対禁物のフラッシュを焚いて写真を撮って、そのまま逃げ帰った(小田秀人著『生命の原点に還れ』76頁)。これがもとで竹内はショック状態や出血等のかなりの肉体的打撃を受けて倒れたという。

 

■雑誌『心霊研究』昭和534月号参照

物理的心霊現象は霊媒に相当な消耗をしいると云われているため、若くエネルギーが豊富な頃は素晴らしい現象が見られても(→エクトプラズム等の生体エネルギーを使用するため)、老齢期に入ってからの現象は期待できないという。九州大学名誉教授の塩谷勉は小田秀人から一通の招待状をもらった。80代の小田秀人(明治29年生)が審神者、60代後半の竹内満朋が霊媒となって20名あまりの参会者のもとで行う、鉄砲洲稲荷神社(東京、中央区)での物理的心霊実験会であった。塩谷は実験会の模様を「ある交霊会所見」として残している。

それによると実験会は「室の隅にしつらえられた暗幕の中に霊媒が入り、型の如く手足を椅子に緊縛し、コップ半分程の水を口中に含んだところで消灯する。小田審神者の祓詞奏上、音楽はトロイメライが鳴り出し『ローム様の御真言』を一同でお唱えする。霊媒は入神状態になり、間もなくラップがなって、ローム大霊のお出ましとなった」「メガホンが飛び上がり、上の方で二本は激しくぶつかり合う。やがて机が浮上し、いとも軽快に二人の人形のダンスが始まる。そしてついに隣に置いてあった小机が大きい机の上にのり、空中を動く。それらは目印の夜光塗料が明瞭に示してくれるわけである。次にローム霊によるまことに巧みなハーモニカ吹奏がある。『ダニューブ河の妖精の踊り』の曲に、会衆一同惜しみない拍手を送る場面もあった。吹奏中のハーモニカは、人間の高さ位の空中でタテになって微かに動いていた」。このように60代後半の老齢期にある霊媒とは思えない素晴らしい現象が見られたという。 

 

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