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戸澤正保

ア)戸澤正保(1873年→1955年)

戸澤正保(とざわまさやす:筆名は姑射、こや)は明治669日、茨城県水戸市長町で生まれた。父は水戸藩士の菊池庸、母きくの次男。長兄は作家の菊池幽芳(清)、四男は洋画家の菊池五郎。正保14歳の時に親戚の戸澤正之・やすの養子となった。

号を藐姑射山人(はこやさんじん)と称した。第一高等中学校在学中に読売新聞の懸賞小説募集に応募(明治27年:1894年)して、南朝の悲史を描いた「しのぶ露」が一等入選したのが文学的出発となった。

 

イ)戸澤の経歴

・明治123月、水戸上市小学校に入学(明治203月同校卒業)

・明治204月、水戸中学校(現在の水戸第一高等学校)に入学

・明治253月、同校卒業(同年の卒業生は16名)

・明治259月、第一高等中学校入学

・明治297月、同校卒業(同年の卒業生に浅野和三郎がいる)

・明治299月、帝国大学文科大学入学、英文学科修業

在学中に肺炎を患う、小泉八雲の講義にはあまり出席できなかった。『帝国文学』の編集委員を勤め、同誌に寄稿した。

・明治327月、同大学卒業

・明治329月、大学院に入学、指導教官小泉八雲の下で「沙翁の戯曲に就いて」を研究

・明治34年春、旧山口高等学校(明治39年廃止して高等商業学校になる)に赴任。同僚に戸川秋骨、速水滉がいた。明治383月退官した。

千葉県我孫子市の手賀沼付近(東葛飾郡布佐町字相島)に移り、2年間シェイクスピア全集の翻訳に専念した。

・明治40年熊本の第五高等学校教授に就任し大正9年まで在職した

大正22月から2年間、文部省留学生となって英国に2年間滞在して大正46月に帰国した。

・大正98月に前年開校の山口高等学校(現在の山口大学)に教授就任、

・昭和22月に弘前高等学校長(赤化学生騒動で罷めた鈴木信太郎の後任)昭和78月まで、学校長就任時期は弘前高等学校の左翼活動が盛んな期間であった。

太宰治(津島修治)は昭和24月に弘前高等学校文科甲類(英語)に入学し、昭和53月に同校を卒業している。昭和312月に学内の左翼活動の拠点、新聞雑誌部員となっている。

・昭和78月に東京外国語学校長(東京外国語大学の前身)に、学生運動の火消し役として長屋順耳の後任として就任し、昭和1312月に退職した。

戦時中は水戸に疎開したが空襲で負傷した。

・昭和30年(1955年)312日逝去。

 

ウ)戸澤の参照文献

・「沙翁全集の試み」海江田進著:『東京外国語大学論集』19693月号所収

・「沙翁全集の思い出咄」戸澤姑射著:『英語青年』19507月号、8月号所収

・「戸沢先生」山宮允著:『英語青年』19507月号所収

・『茨城近代文学選集』第一巻(明治の文学)、常陽新聞社発行:著者経歴参照

 

 

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