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思いを伝える

☆伝え手側の表現能力の問題

私たちの住む世界では日常的に言葉を用いて相手との間で意思の疎通を図っている。その際に伝え手はイメージ通りの思いが相手方になかなか伝わらない、というジレンマにしばしば陥ることがある。なぜならどこまで「言葉(思念を言語化するための道具)」を自由自在に駆使できるか、という“その人の表現能力の問題”が根底にあるからである。

 

思念には言語化しやすいものと言語化しにくいものとがある。後者の場合は伝え手がどこまで思念を言語化してそれを相手方に伝えられるか、相手方がどこまで言語を通して思念の再構築がはかれるのかという問題、いわば伝え手には最大限の表現能力の駆使が、相手方には高度な理解能力(→文面であれば読解能力)が求められることになる。

 

一般にこの世界では「Aは思念を抱く」→「Aはその思念を整理して言語化する(どこまで言語化できるかはAの表現能力の問題となる)」→「BAの発した言葉(話し言葉・書き言葉)を受け取る」→「Bは言葉を介してAの思念を想像(再構築)する」という流れで思念の伝達が行われる。

大体において「Aの発した思念」≠「Bが再現したAの思念」となっている。Bはこの思念のズレを、日頃のAの言動や人柄などを加味して修正し、無意識的にAが発した思念に近づけようと努力している。

 

☆どこまで再現可能か

当事者同士が対面で話す場合には、聞き手は無意識の内に話し手の口調やしぐさから“人となり”を推察して、話し手の表現能力の不足を補っている。しかし文面を通して“何らかの思い”を伝える場合には、当事者間の面識の有無や読解能力の問題(→相手方が文面からどこまで“伝えたい思い”を読み取れるか)、相手方がどこまで文面以外の「言語外情報」を収集できるかがカギとなる。

 

一般に人に対する印象は当人と面識があるかないか、面識がある場合にはどの程度深い関係にあるかによって、その人が発した言葉以外から受け取れる情報量に違いが出てくる。

著名人の場合は本人の意図とは無関係に「外部から与えられたイメージ」や、本人が意図して作り出した「キャラ(=個性や特性など)」などが、その人の「言語外情報」の主要部分を占める。

面識のある当事者間でも、両者の関係の深さに応じてイメージが作り出されるため、それによって「言語外情報」が左右されることが意外に多い。両者間の親和性が増していくに従ってその人の別の側面が見えてくるからである。

 

このように「両当事者が有する言語能力(表現能力・読解能力)」+「親和性に応じた言語外情報量の多寡」+「第三者によって作られたイメージ、本人が意図して作り出したイメージ」の総和によって、伝え手の意図した思いは相手に伝わっていく。しかし多くは「Aの発した思念」≠「Bが再現したAの思念」となってしまう。ここに「言葉(話し言葉・書き言葉)」という物的手段を通した意思疎通の難しさがある。

 

☆地上は「思念+物質」の世界

霊の世界では「思念は基本的な表現」手段だが、地上は物質が認識の基本となっているため、非物質的な思念は物質という言葉でくるまないと外部から思念の存在が認識できない。

高級霊は地上では思念を動機付けに用いることはできても、仕事や活動の代用とは成り得ない(7179⑫、7180②⑦、福音159⑭参照)。霊界人から見れば「地上的な思念はのろくて、不活発で、重々しく感じられる」(道しるべ46①)という。

 

この物質の世界において人は思念の発信者であると同時に受信者でもあるが、どのような思念を送受信するかはその人の性格や霊性によって違ってくる(5198⑧参照)。よく「人間の心の中は開いた本のようなもの」と言われるが、両者に親和性や魂に共感関係がなければ、相手方は近づくことすらできないので、心の中を読み取れるのは親和性を持った者のみである(5167①、3212③、メッセージ245⑥参照)。ときどき「私は文面から相手の全てが読み取れる」と豪語する人を見かけるが、このような点から考えて見ると甚だ疑問に思える。

 

近年さまざまな面において世界各国の相互依存関係が増してきている。それに伴って異人種間交流が活発化し、世代間における価値観のズレが明らかとなり、生き方においても多様性が求められてきている。近年の複雑化した社会では、思念を言語化した自己主張は“善”であり、相手の思いを察して行動するという文化は“弱者の文化”とされて廃れていく一方である。このような社会に生きる私たちは、思念の言語化の限界をわきまえておく必要がある。

 

☆帰幽霊の伝達手段

「死のプロセス」を順調に歩んで“迷子霊(=地縛霊)”にならずに、物的波長から霊的波長への切り替えが無事に完了した帰幽霊は、新調の幽体をまとって霊の世界の相応の界層に落ち着くことになる。大部分の帰幽霊が赴く界層とは、いまだに“意識の焦点”が物的なモノから解き放たれていない物質臭が強い住人が住む、地上と極めてよく似た世界である。その界層の住人同士は、お互いが思念で意思の疎通ができることを納得するまでは、相変わらず言語を使用している(4145①、885⑨、メッセージ54②、語る223⑪)。そのため地上世界と同様に、どこまで思念が相手方に伝わるかという問題は常に存在する。

 

 

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